ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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※作中にR—15的な表現、不愉快な表現(特にクラウチ)が含まれます。苦手な方はご注意ください。


Petal18.おかえり、ドラコ

 三人の子供達は、揃って地面に叩きつけられた。顔が芝生に押し付けられ、むせ返るような草の匂いが鼻腔を満たした。まるで切れかけた蛍光灯のように意識と視界が明滅し、身体の下で地面がグラグラと揺れているような感じがした。それでもハリーはイリスの体を手繰り寄せ、自分の腕の中になんとか閉じ込めた。――暖かく息づいている。彼は安堵したとたん、すかさず途切れそうになった意識を慌てて持ち直した。

 

 突然、音の洪水が耳の中にどっと流れ込んで来た。四方八方から声がする。足音が、叫び声がする。やがて二つの手がハリーを乱暴に掴んで、仰向けにした。

 

「ハリー!」

 

 おぼろげな視界の中で、ダンブルドアが屈んで自分を覗き込んでいる様子が確認できた。大勢の黒い影が三人の周りを取り囲み、段々近づいて来た。皆の足踏みで、頭の下の地面や草々が地震のように揺れている。

 

 ――ハリー達は迷路の入り口に戻って来ていた。人々は皆、突如として、ハリーやセドリックだけでなく、代表選手ではない”一般の生徒”であるイリスもゴブレットと一緒に出現し、その上、三人共傷だらけのボロボロである事に騒然としていた。ハリーはイリスをますます大事そうに抱え込みながら、ダンブルドアの腕を掴んだ。

 

「あの人が戻ってきました。戻ったんです。ヴォルデモートが」

「何事かね?何が起こったのかね?」

 

 杖明かりを点したファッジ大臣がハリーの前に現れた。魔法の光が、彼の驚愕に引き攣った蒼白な表情をくっきりと映し出している。次の瞬間、ファッジはイリスを訝しげに覗き込んで、絶句した。

 

「どうして君とセドリックだけでなく、イリスが・・・な、なんだこの腕は!”()()()”だ!」

 

 ファッジの言葉は、異常事態に興奮した観衆を恐慌状態に陥らせた。”闇の印”――同じ言葉が繰り返された。周りに集まって来た人々の影が息を飲み、自分の周りに同じ言葉を伝えた。叫ぶように伝える者。金切声で伝える者。言葉が夜の闇に反響した。恐怖の感情はたちの悪い伝染病のようにわっと広まり、ヒステリーになった人々は、唯一の形に見える恐怖――”闇の印”の刻まれた不気味な右腕を持つ少女を過剰に恐れた。

 

「”闇の印”だ」「闇の魔女だ」「この二人をボロボロにしたのはこの娘だ」「捕えろ!」

 

 たちまち魔法の縄が彼方此方から噴き出して、気を失ったイリスに巻き付き、ハリーの腕の中から引き摺り出した。――やめろ、彼女に手を出すな!ハリーは鉛のような体を懸命に動かして、イリスの傍へ這いずって行こうとした。けれど、もう指先一本動かす力すら残っていない。

 

 その時、イリスの前によろめきながら立ち上がる青年がいた。セドリックだ。

 

「やめろ!」セドリックが叫んだ。

「この子は死喰い人から僕を助けてくれた。僕らを傷つけたのはヴォルデモートと死喰い人達だ!」

 

 セドリックが発した”ヴォルデモート”という言葉を聞くや否や、人々はますます狂乱状態に陥った。ダンブルドアとファッジが懸命に観衆を諫め、駆けつけたシリウスがイリスを捕えようとする人々をまとめて相手にし、セドリックが両親に事の次第を話している時、誰かがハリーを助け起こした。

 

「大丈夫だ、ハリー。わしがついているぞ。医務室へ行くのだ」ムーディの声だ。

「嫌です。イリスを置いておけません」ハリーは嫌がった。

「娘は大丈夫だ。シリウスが守っている」

 

 ハリーは心配そうな眼差しで、シリウスが展開した淡い輝きを放つ防護膜に包まれて、横たわるイリスを見つめた。ムーディはハリーを半ば引き摺るように、半ば抱えるようにして連れ出し、怯える群衆の中を進んだ。人垣を押し退けるようにして城へ向かう途中、周囲から息を飲む声、悲鳴、叫び声が、否が応でも彼の耳に入って来た。芝生を横切り、湖やダームストラングの船を通り過ぎる。ムーディは城へ入ると、医務室ではなく自分の部屋へ向かった。そして古びた肘掛け椅子にハリーを座らせた。

 

「さあ、ここに。もう大丈夫だ、これを飲め」

 

 ムーディは部屋の鍵を掛け、小さなコップに何かの液体を注ぎ入れると、ハリーの手に押し付けた。

 

「飲むんだ。気分が良くなるから。さあ、ハリー。一体何が起こったのか、わしは正確に知っておきたい」

 

 ムーディはハリーが薬を飲み干すのを手伝った。喉が焼けるような胡椒味で、ハリーはたまらず咳込んだ。やがておぼろげだった意識が回復し、周囲の様子もはっきり見えてきた。ムーディはファッジと同じくらい蒼白に見え、両眼が瞬きもせずにしっかりと自分を見据えている。

 

「ヴォルデモートが戻ったのか?ハリー、それは確かか?どうやって戻ったのだ?」

「あいつは蘇るために父親の墓からと、僕と・・・」

 

 ハリーはそれ以上言葉を続ける事が出来なかった。イリスの悲痛な叫び声と、口にするのも憚られる程に残酷だったあの光景――。少年は耐え切れずにムーディから目を逸らし、ギリと歯を食い縛った。

 

「イリスから、材料を取った」

 

 その時、視界の隅でムーディがニヤリと笑ったような気がして、ハリーは慌てて彼を見つめた。ムーディは先程と変わらない、険しく蒼白な表情で自分を見下ろしている。――どうやら気のせいだったらしい。クィディッチ競技場からは、まだ悲鳴や怒号が聴こえて来る。ハリーは早く話を終わらせて競技場へ戻り、シリウスと一緒にイリスを守りたかった。

 

「それで死喰い人は?奴らは戻って来たのか?」

「はい。大勢、戻ってきました」ハリーは応えた。

「あの人は死喰い人をどんな風に扱ったかね?」ムーディが静かに訊いた。

「許したか?」

 

 そこで、ハリーはハッと気づいた。――ダンブルドアに話すべきだった。ヴォルデモートはルシウス達に『ホグワーツに”至誠のしもべ”を送り込み、”炎のゴブレット”に自分の名前を入れるようにと命じた』と言っていた。ハリーは居てもたっても居られなくて、ムーディを見上げた。ここに死喰い人がいる。そして現状で最も疑わしい存在は、あのカルカロフだ。

 

「ホグワーツに死喰い人がいるんです。そいつが僕の名前をゴブレットに入れて、僕に最後までやり遂げさせようとしたんだ」

 

 ハリーは傷ついた足を叱咤して何とか起き上がろうとしたが、その様子を見たムーディが肩を掴んでぐっと押し戻した。

 

「誰が死喰い人か、わしは知っている」ムーディは落ち着き払った口調で言った。

「カルカロフですね?」

 

 ハリーはごくりと唾を飲み込んだ。しかしムーディは不自然に高い声で笑い出した。魔法の目がグルグルと忙しなく回り、部屋中を観察している。

 

「カルカロフだと?奴は今夜逃げ出したわ。腕についた”闇の印”が焼けるのを感じてな。闇の帝王の忠実なる支持者をあれだけ多く裏切った奴だ。連中の歓迎を受けたくはないだろう。

 しかし、そう遠くには逃げられまい。闇の帝王には敵を追跡するやり方がある」

「カルカロフがいなくなった?逃げた?」ハリーは唇を舐め、言い淀んだ。

「でも、それじゃ・・・僕の名前をゴブレットに入れたのは、カルカロフじゃないの?」

「違う」

 

 ムーディはとびきりのご馳走を噛み締めるようにゆっくりと応え、ハリーをじっと見つめた。

 

「あいつではない。()()()()()()()()

 

 ハリーはその言葉を聞いたが、飲み込めなかった。――先生が、ゴブレットに僕の名前を入れた?一体、何の冗談を言ってるんだ?ハリーは現実を否定するように首を横に振り、掠れた声で囁いた。

 

「違う。まさか。先生じゃない。先生がするはずない」

「わしがやった。確かだ」

 

 ムーディの魔法の目が最後にグルリと動き、窓とドアを確認した後、ハリーに戻った。外に誰もいない事を確かめているのだと彼には分かった。それからムーディは杖を出して、ハリーに向けた。

 

「それではあのお方は奴らを許したのだな?自由の身になっていた死喰い人の連中を?アズカバンを免れた奴らを?」

「なんですって?」

 

 ハリーは茫然としたまま、ムーディが突きつけている杖の先を見つめる事しか出来なかった。――悪い冗談に違いない、きっとそうだ。

 

「聞いているのだ」ムーディは静かに言った。

「あのお方をお探ししようともしなかったカス共を、あのお方はお許しになったかと訊いているのだ。クィディッチ・ワールドカップで仮面を被ってはしゃぐ勇気はあっても、この俺が空に打ち上げた”闇の印”を見て逃げ出した・・・不実な、役に立たない蛆虫共を」

「先生が打ち上げた?一体、何を仰っているのですか?」

「ああ、ハリー。どうか言ってくれ。一番必要とされていたその時に、ご主人様に背を向けたあいつらに天罰が下った事を。ご主人様が、連中を痛い目に遭わせたと言ってくれ」

 

 ムーディは突然、狂気に満ちた笑みを浮かべながら、ハリーに迫った。少年は恐怖に息を飲んで、椅子から転がり落ちた。部屋の灯りを受けて、ムーディの左手の薬指に嵌まった金色の指輪がキラリと輝きを放った。

 

「言ってくれ。あのお方が、俺だけが忠実であり続けたと仰ったと。あらゆる危険を冒して、俺はあのお方が何よりも欲しがっておいでだったものを、御前に届けようとした。お前とイリスをな」

「違う・・・あ、あなたのはずがない・・・」ハリーは喘いだ。

「いいや、俺なのだ。ハリー。別の学校の名前を使って、”炎のゴブレット”にお前の名前を入れたのは」

 

 ムーディは屈み込んで、恐怖に喘ぐハリーを見つめ、酷薄な笑みを浮かべた。歪んだ口がますます大きくひん曲がった。

 

「簡単ではないと覚悟していた。怪しまれずに、お前が課題を成し遂げるように誘導するのはな。だが、()()()の内助の功により、俺は随分と楽ができた。第一の課題ではお前が得意分野で戦えるようにスニジェットに変身し、第二の課題では卵の謎の解き方を手伝った」

 

 ――”我が妻”だって?ハリーは全く理解ができなかった。そもそもムーディは独身だと聞いている。スニジェットに変身したのは()()()だ。イリスが先生の妻だなんて、一体何を言っているんだ?ムーディの杖は依然として、自分を真っ直ぐに差している。

 

 ふと彼の肩越しに、壁にかかった古ぼけた鏡の中で煙のような影がいくつか蠢いているのが見えた。――あれは”敵鏡”だ。ハリーはムーディが授業で教えてくれた事をハッと思い出した。文字通り、自分に接近する敵を映し出す魔法の鏡。幸いな事に、彼はまだこの事態に気付いていない。

 

「今夜の迷路も、本来ならお前はもっと苦労するはずだった。楽だったのは俺が巡回していて、生け垣の外側から中を見透かし、お前の行く手の障害物を呪文で取り除く事ができたからだ」

 

 ハリーは壁際まで這いずって後退し、ムーディを成す術なく見上げた。――ダンブルドアの友人で、有名な”闇祓い”のこの人が、多くの死喰い人を捕えたというこの人が、こんな事を・・・全く訳が分からない。辻褄が合わない。鏡に映った煙のような影が次第にはっきりしてきて、姿が明瞭になってきた。三人の輪郭が段々近づいてくるのが見えた。しかし、ムーディは見ていない。魔法の目はこちらをしっかりと見据えている。

 

「闇の帝王はお前を殺し損ねた。ポッター、あのお方はそれを強くお望みだった」

 

 ムーディが熱を帯びた声でそう囁いた。それから、左手の指輪にそっと口づけた。

 

「代わりに俺がやり遂げたら、あのお方がどんなに褒めて下さることか。俺は他のどの死喰い人よりも高い名誉を受ける事ができるだろう。きっと今夜にでも、娘と婚儀を挙げるのをお許し下さるのに違いない。俺は我が妻と共に、あのお方の最も愛しく、最も身近な支持者となるだろう。

 ポッター。お前の可愛いスニジェットの花嫁姿を見せてやれなくて残念だ」

 

 ”スニジェット”、”我が妻”、”婚儀を許す”――ハリーの混乱する頭の中でそれらの言葉は、ある一つの答えを導き出した。ヴォルデモートはルシウス・マルフォイに『イリスの夫に相応しい者がいたが、近づき過ぎた』と言って、彼の息子――つまりドラコ・マルフォイをイリスの夫とするように命じていた。”夫に相応しい者”とは、きっとムーディの事なんだ。だが、彼はもうヴォルデモートから夫の権利を剥奪された。ハリーはムーディを睨み付け、叫んだ。

 

「お前なんかにイリスは渡さないぞ!それに、ヴォルデモートは”イリスをお前にやらない”と言っていた。”近づき過ぎた”って!」

「・・・なんだと?」

 

 突如としてムーディの顔から笑みが拭い去られ、まるで病気の発作でも起こしたかのようにブルブルと震え始めた。その隙を突いて、ハリーは部屋のドアに素早く視線を送った。――頑丈な閂がかかっている。戦うしかない。ハリーは夢中で杖を引き抜いたが、すぐさまムーディが放った光線に弾き飛ばされた。

 

「そんな、嘘だ!お前は嘘を吐いている!開心、レジリメンス・・・」

 

 ムーディはひどく取り乱し、顔をより一層蒼白にして、口角泡を飛ばしながら喚き立てた。そしてハリーに掴み掛り、”開心術”を掛けようとしたとたん――

 

 ――目も眩むような赤い閃光が飛び、轟音を上げて部屋のドアが吹っ飛んだ。

 

 ムーディは仰け反るようにして吹き飛ばされ、床に投げ出された。鏡の中からハリーを見つめ返している姿があった。――ダンブルドア、スネイプ、マクゴナガルの姿だ。ハリーが急いで振り向くと、ダンブルドアが先頭で杖を構えていた。

 

 気を失ったムーディの姿を見下ろすダンブルドアの形相は、ハリーが想像したことがない程に凄まじかった。あの柔和な微笑みは消え、眼鏡の向こうの目には、踊るようなキラキラした光はない。年を経た顔の皺一本一本に、冷たい怒りが刻まれていた。体から焼けるような熱を発しているように、ダンブルドアの体から魔法力が放たれ、周囲の大気を歪ませていた。

 

 ダンブルドアは部屋に入り、意識を失ったムーディの体の下に足を入れ、蹴り上げて顔が良く見えるようにした。マクゴナガルが真っ直ぐハリーのところへやって来て、彼をそっと助け起こし、優しく囁いた。真一文字の薄い唇が、今にも泣き出しそうにひくひくと震えている。

 

「さあ、いらっしゃい。ポッター。医務室へ・・・」

「先生、イリスは無事ですか?」ハリーは必死で尋ねた。

「無事ですよ。医務室で治療を受けています。さあ、あなたも行きましょう」

「待て」ダンブルドアが鋭く言った。

「ミネルバ、その子はここに留まるのじゃ。ハリーに納得させる必要がある」

 

 マクゴナガルの強い非難の眼差しをものともせず、ダンブルドアはきっぱりとした口調で言い放った。

 

「納得してこそ初めて受け入れられるのじゃ。受け入れてこそ初めて回復がある。

 この子は知らねばならん。今夜、自分達をこのような苦しい目に遭わせたのが一体何者で、何故なのかを」

「ムーディが」

 

 ダンブルドアの足元に横たわるムーディを見下ろしながら、ハリーが茫然と呟いた。――この期に及んでも、まだ全く信じられないような気持ちだった。

 

「一体、どうしてムーディが?」

「こやつはアラスター・ムーディではない」

 

 ダンブルドアが静かに応えた。しかしその言葉はハリーを納得させるどころか、ますます混乱の渦の最中へと押し遣っていくばかりだった。

 

「ハリー、きみはアラスター・ムーディに会った事はない。本物のムーディなら、今夜のような事が起こった後で、わしの目の届く所からきみを連れ去るはずがないのじゃ。こやつがきみを連れて行った瞬間、わしには分かった。そして跡を追ったのじゃ」

 

 ダンブルドアはぐったりしたムーディの上に屈み込み、そのローブの中に手を入れた。そして携帯用酒瓶と鍵束を取り出し、二人の先生方を振り返ると、スネイプには”一番強力な真実薬を持ってくる事”、そしてマクゴナガルには”厨房にいるウィンキーという屋敷しもべ妖精を連れてくるように”と頼んだ。二人はすぐさま踵を返し、部屋から出て行った。

 

 ダンブルドアは部屋の隅に置かれた大きなトランクのところまで歩いて行き、一本目の鍵を錠前に差し込んでトランクを開けた。――中には呪文の本がぎっしり詰まっている。ダンブルドアはトランクを閉め、二本目の鍵を二つ目の錠前に差し込み、再びトランクを開けた。――今度は壊れた”かくれん防止器”や羊皮紙、羽根ペン、銀色の透明マントらしきものが入っている。ダンブルドアが次々に鍵を合わせ、トランクを開いていくのを、ハリーは彼の肩越しに茫然と見つめていた。

 

 やがてダンブルドアが六つ目の鍵を合わせて開けた時、ハリーは驚きの余り、大きく息を飲んだ。女性が着るような清楚で上品なデザインの衣服や小物、アクセサリーの類がどっさりと積まれている。ダンブルドアは訝しげに眉を潜め、一番上にあった銀色のドレスを手に取り、注意深く観察して、恐ろしく低い声で唸った。

 

 ――襟口の裏に、”()()()()()()()()”と刺繍が施してある。ハリーはかつて、ウィンキーが同じ名前の刻まれた食器を使って、イリスにご馳走を出していた事を思い出した。何故、同じ名前の服が、ムーディのトランクにあるんだ?ダンブルドアはドレスを荒々しい手付きでトランクの中に投げ戻し、蓋を閉めた。

 

 そして最後の鍵を合わせて開けた時、竪穴のような地下室が見下ろせた。三メートルほど下の床に横たわり、深々と眠っている痩せ衰えた姿。――それが、本物のムーディだった。木の義足はなく、魔法の目が入っているはずの眼窩は、閉じた瞼の下で空っぽのようだった。”ムーディが二人いる”――ハリーはその衝撃的な事実に打ちのめされ、トランクの中で眠るムーディと、気を失って床に転がっているもう一人のムーディとをまじまじと見比べた。

 

 一方のダンブルドアは驚きもせず、トランクの縁を跨いで中へ降りていき、眠っているムーディの傍らに軽々と着地した。そして彼の体の彼方此方に杖先を当て、つぶさに調べ始めた。

 

「”失神術”じゃ。”服従の呪文”で従わされておるな。非常に弱っておる」ダンブルドアが言った。

「ハリー、そのペテン師のマントを投げてよこすのじゃ。ムーディは凍えておる。マダム・ポンフリーに看てもらわねば。しかし、急を要するほどではなさそうじゃ」

 

 ハリーは偽物ムーディからマントを取り、トランクの中に投げ込んだ。ダンブルドアはムーディにマントを掛け、杖を振って応急処置を施した後、再びトランクを跨いで出て来た。それから机の上に立てておいた携帯用酒瓶を取り、蓋を開けてひっくり返した。床に粘々した濃厚な液体が零れ落ちていく。

 

「ポリジュース薬じゃ、ハリー」ダンブルドアが静かに言った。

「単純で、しかも見事な手口じゃ。ムーディは決して自分の携帯用酒瓶からでないと飲まなかった。その事は良く知られていた。このペテン師は――当然の事じゃが――ポリジュース薬を創り続けるのに、本物のムーディを傍に置く必要があった。・・・ムーディの髪をご覧」

 

 ダンブルドアはハリーを促し、トランクの中のムーディを見下ろした。目を凝らすと、確かに白髪混じりの髪の一部がごっそりと無くなっている。

 

「ペテン師はこの一年間、ムーディの髪を切り取り続けた。髪が不揃いになっているところが見えるか?しかし、偽ムーディは、今夜は興奮の余り、これまでのように頻繁に飲むのを忘れていた可能性がある。今に分かるじゃろう」

 

 ダンブルドアは机の前に置かれた椅子を引き、腰かけて、偽物ムーディを静かに観察し始めた。ハリーも無意識の内に自分の杖をギュッと握り締めながら、ペテン師の身に何かが起こるのを待った。そのまま、何分間かの沈黙が流れた。

 

 やがてハリーの目の前で、床の男の顔が変わり始めた。傷跡は消え、肌が滑らかになり、削がれた鼻はまともになり、小さくなり始めた。長い鬣のような白髪交じりの髪は頭皮の中に引き込まれていき、色が薄茶色に変わった。突然、木製の足が落ち、正常な足がその場所に生えて来た。次の瞬間、魔法の目が男の顔から飛び出し、その代わりに本物の目玉が現れた。魔法の目は床を転がっていき、クルクルとあらゆる方向に回り続けている。

 

 目の前に横たわる、少しそばかすのある色白の薄茶色の髪をした男を、ハリーは食い入るように見つめた。この男が誰だか知っている。校長室で図らずも見てしまった”憂いの篩”の記憶に登場した人物だ。――クラウチ氏に無実を訴えながらディメンターに法廷から連れ出されていった、”クラウチ氏の息子”に違いない。しかし、今は目の周りに皺があり、ずっと老けて見えた。

 

 廊下を急いでやって来る足音がした。マクゴナガルが、足下にウィンキーを従えて戻って来た。その後ろに小さな硝子瓶を握ったスネイプもいる。

 

「クラウチ!」スネイプは戸口で立ち竦み、掠れた声で唸った。

「バーティ・クラウチ!」

「なんてことでしょう」

 

 マクゴナガルも息を飲んで、男をまじまじと見つめた。ウィンキーは、ハリーが以前に会った時よりもずっと元気そうに見え、手入れの行き届いた衣服を上品に着こなしていた。ブルーの帽子には虹色の花飾りを付けている。やがてウィンキーはマクゴナガルのローブの影からこわごわと部屋の中を覗き込み、男を見つけた途端に口をあんぐり開け、金切声を上げた。

 

「バーティさま!バーティさま!こんなところで何を?」

 

 ウィンキーは我武者羅に飛び出して、若い男の胸に縋り、ダンブルドアとハリーを涙ながらに睨んだ。

 

「あなたたちはこの人を殺されました!この人を殺されました!ご主人様のお坊ちゃまを!」

「”失神術”にかかっているだけじゃ、ウィンキー」

 

 ダンブルドアは冷静に言い返した。それから彼は立ち上がってスネイプから硝子瓶を受け取ると、床の男の上に屈み込み、その上半身を起こして壁に寄りかからせた。ウィンキーはその傍で跪いたまま、顔を手で覆って震えている。ダンブルドアは男の口をこじ開け、薬を三滴流し込んだ。そして”蘇生呪文”を唱えた。

 

 クラウチの息子はゆっくりと目を開けた。――顔が緩み、焦点の合わない目をしている。ダンブルドアは彼と同じ目線になるようにと膝を突いた。

 

「聴こえるかね?」ダンブルドアが静かに訊いた。

「はい」男は瞼をパチパチしながら、呟いた。

「話してほしいのじゃ」ダンブルドアが優しく言った。

「どうやってここに来たのかを。どうやってアズカバンを逃れたのじゃ?」

 

 クラウチは大きく身を震わせて、深々と息を吸い込み、一切の抑揚や感情のない声で話し始めた。――アズカバンに閉じ込められた自分を助けるようにと、母が父を説き伏せ、取り計らってくれた。二人が面会に来た時に、母と息子はお互いの髪が入ったポリジュース薬を飲み、姿を入れ替えた。母はアズカバンに残り、息子は父と共にアズカバンを脱出した。幸運な事にディメンターは目が見えず、命の気配を感じ取る事しか出来ない。母は病で体が弱り、クラウチも衰弱していた。母と息子を同じ”命が弱った者”と錯覚し、ディメンターは父と息子を通した。そして母はアズカバンでポリジュース薬を飲み続け、息子の姿のまま埋葬された。

 

「ああ、バーティ坊ちゃま!」ウィンキーは顔を覆ったまま、激しく啜り泣いた。

「この人たちに()()()()()()()()()()でございます!あたしたちは()()()()()()()!」

 

 しかし、クラウチの話は終わらなかった。――クラウチ氏は息子を家に連れ帰った後、ウィンキーに世話をさせた。健康を取り戻した息子は、自分の悪行を悔い改めるどころか、家を飛び出して闇の帝王を探し出そうとした。クラウチ氏は息子に”服従の呪文”を使い、透明マントで隠して、家に閉じ込めざるを得なかった。ある時、父の役所の魔女バーサ・ジョーキンズが仕事の関係でクラウチ家を訪れた。彼女は息子の存在に感づき、クラウチ氏を問い詰めた。クラウチ氏は”忘却術”を使い、彼女の記憶を忘却させた。

 

 そしてクィディッチ・ワールドカップが近づいてくると、ウィンキーは息子のためにクラウチ氏を説得し始めた。ずっと家に閉じ込められたままの息子を哀れんだのだ。息子はクィディッチが好きだった。父はついに折れたものの、計画は非常に慎重に行われた。父は透明マントを息子に被せ、早い内からウィンキーと共に貴賓席へ連れて行った。周囲には、ウィンキーがご主人様の席を取っているようにしか見えない。計画は父の手筈通りに進むはずだった。しかし、クラウチは口元に不敵な笑いを浮かべた。

 

「ウィンキーは俺が段々強くなっている事に気付かなかった。父の”服従の呪文”を、俺は破り始めていた。時々、ほとんど自分自身に戻る時があった。それがちょうど貴賓席にいる時に起こった。深い眠りから覚めたような感じだ。試合がまだ始まる前だった。俺は前列の貴賓席に刻まれた名前の一つに、目が吸い寄せられた」

 

 不意にクラウチの頭がぐるりと回り、顔にゾッとするような狂気の笑みが広がった。

 

「”イリス・ゴーント”。俺がずっと恋い焦がれていた娘の名だ。あのお方に忠誠を誓った時から、俺の伴侶は彼女しかいないと心に決めていた。あの方が我が子のように愛し、探し求めていた存在。触れるほど近くにその娘がいる。俺は抱き締めようとしたが、ウィンキーに邪魔をされた。

 しかし俺はウィンキーに連れ戻される寸前に、隣の男の子の杖を盗んだ。アズカバンに行く前から、ずっと杖は許されていなかった。ウィンキーは俺を連れ戻すのに必死で、それが分からなかった」

「可愛い奥方様・・・あたしの可愛い、小さな奥方様・・・」

 

 ウィンキーは床にうずくまり、さめざめとすすり泣き始めた。ハリーは頭がジーンと痺れるような恐怖と嫌悪感に打ちのめされ、咄嗟に呼吸を忘れて喘いだ。”イリス・クラウチ”、”奥方様”――ウィンキーはイリスをクラウチ夫人と間違えていたんじゃない。()()()()だと思い、仕えていたんだ。あの食器や服は、イリスの為に作られたものだったんだ。

 

「俺はウィンキーに縛り付けられながらも、娘を見た。その時、ルシウス・マルフォイの息子が娘に話しかけようとした。・・・許せなかった。ルシウス・マルフォイはあのお方に背を向け、アズカバンに入る事も拒んだ裏切り者だ。その蛆虫の息子が、馴れ馴れしく俺の娘に話しかけようとしている。忌々しい盗っ人め。俺は怒り、罵った」

 

 今やハリーだけでなく、ダンブルドアやマクゴナガル、スネイプまでもが、嫌悪感を剥き出しにした眼差しをクラウチに注いでいた。しかし彼はそれらを一切に気にする事無く、滔々と話し続けた。

 

「試合が終わり、俺達はテントに戻った。そして奴らの騒ぎを聞いた。死喰い人共の騒ぎを。・・・あのお方に背を向け、あのお方の為に苦しんだ事がない奴らだ。あいつらは俺のように繋がれておらず、自由にあのお方をお探しできたのに、そうしなかった。

 奴らの声が、俺を呼び覚ました。ここ何年かもなかった程、俺の頭ははっきりしていた。俺はご主人様に忠義を尽さなかった奴らを襲いたかった。

 父はマグルを助けに行った後で、テントにはいなかった。ウィンキーは俺が怒っているのを見て心配し、自分なりの魔法を使って縛り付け、キャンプ場を出て森へ向かった。だが、俺はなんとかウィンキーを振り切って、キャンプ場へ戻ろうと森の中を歩いた。そして再び、娘を見つけた」

 

 ハリーは力なく杖を取り落した。イリスを襲い、”闇の印”を打ち上げた謎の男。それは、こいつだったんだ。クラウチの周囲からじわじわと滲み出て来る、常軌を逸した愛情と執着が少年を襲い、彼はたまらず後ずさった。――狂っている。ハリーは止め処なく震えながら、強くそう思った。この男は、狂っている。

 

「娘は、同じ年頃の子供達と一緒だった。彼らの話を盗み聞きする内に、俺は気づいた。・・・娘は”ハリー・ポッター”と共にいる。あのお方を退けた”最大の敵”と肩を並べて、普通の子供と同じように不安に震えている。

 俺は許せなかった。娘もあのお方を探す事無く背を向けた、裏切り者なのだ。父親と同じだ。俺は闇の帝王への忠義とは何かを、娘の心と体にしっかりと焼き付けなけばならないと思った。俺は娘を襲い、”闇の印”を打ち上げた」

「バーティ坊ちゃま、悪い子です!」

 

 ウィンキーが茶色い目から大粒の涙を零れ落としながら、クラウチに怒鳴った。マクゴナガルが引き攣った悲鳴を上げ、とてつもなく不潔な汚物を見るような目をクラウチに向けた。

 

「やがてウィンキーが追いついて、俺をまた縛り付けようとした。それを振り切って娘を連れ去ろうとした時、魔法省の役人がやってきた。四方八方に”失神の呪文”が発射され、その内の一つが木々の間から俺達が立っている所に届いた。二人共、失神させられた。

 ウィンキーが見つかった時、父は必ず俺が傍にいると知っていた。父は透明マントを被ったままの俺を見つけ出すと、魔法省の役人が森からいなくなるまで待ち、俺に”服従の呪文”を掛けて家に連れ帰った。父はウィンキーを解雇した。ウィンキーは父の期待に沿えなかった。俺に杖を持たせたし、もう少しで俺を逃がすところだった」

 

 ウィンキーは絶望的な泣き声を上げ、床の上にクシャクシャになって突っ伏した。

 

「家にはもう、父と俺だけになった。そしてその時・・・ご主人様が俺を探しにおいでなった」

 

 クラウチの口から、聞いた者の全身が思わず粟立つような――冷たい笑い声が上がった。ハリーはもうこれ以上、この話を聴きたくなかった。まるで地獄への入り口を覗いているように、暗闇と恐怖と狂気がいっぱいに詰まり、明るい光など少しも見えない。けれど、この悍ましい話の登場人物にはイリスも含まれている。ハリーは聴かないではいられなかった。

 

「ある夜遅く、ご主人様は下僕のワームテールの腕に抱かれて、俺の家にお着きになった。ご主人様はアルバニアでバーサ・ジョーキンズを捕えて、父の”忘却術”を破る程に拷問し、忠実な下僕である俺の事を聞き出して救済に来られたのだ。ご主人様は真夜中近くにおいでになり、父が玄関に出た」

 

 人生で一番楽しい時を思い出すかのように、クラウチの顔にますます笑みが広がった。ウィンキーの指の間から、恐怖で凍り付いた茶色の目が覗いている。驚きの余り、口も聞けない様子だ。

 

「あっという間だった。父はご主人様の”服従の呪文”に掛かった。今度は父が幽閉され、管理される立場になった。ご主人様は、父がいつものように仕事を続け、何事もなかったかのように振舞うように服従させた。俺は解放され、目覚めた」

「そしてヴォルデモート卿は君に何をさせたのかね?」ダンブルドアが冷静に尋ねた。

「あのお方はあらゆる危険を冒す覚悟があるかと、俺にお訊きになった。

 勿論だ。あのお方にお仕えして、俺の力を認めて頂くのが俺の夢、俺の望みだった。あのお方はホグワーツに忠実な召し使いを送り込む必要があると仰った。三校対抗試合の間、それと気取られずにハリー・ポッターを誘導し、確実に彼が優勝杯に辿り着くようにし、優勝杯を”移動キー”に変えて、最初に触れたものをご主人様の下へ連れて行くようにする。しかし、その前に・・・」

「君にはアラスター・ムーディが必要だった」

 

 ダンブルドアの声は落ち着いていたが、その澄んだブルーの目は激しい怒りでメラメラと燃えていた。

 

「ワームテールと俺がやった。ムーディの家に出掛け、あいつを襲った。俺はトランクの一室にあいつを押し込み、髪の毛を少し取ってなりすました。騒ぎを聞きつけて、マグルの処理に駆け付けたアーサー・ウィーズリーとシリウス・ブラックを上手く誤魔化し、ホグワーツへ出発した。

 ムーディは”服従の呪文”を掛けて生かしておいた。あいつに質問したい事があった。ダンブルドアでさえ騙す事のできるよう、あいつの過去や癖を学ばなければならなかった。他の材料は簡単だった。毒ツルヘビの皮は地下牢から盗んだ。抜き打ち調査だと嘘をついて」

「ムーディを襲った後、ワームテールはどうしたのかね?」ダンブルドアが尋ねた。

「ワームテールは父の家で、ご主人様の世話と父の監視に戻った」

「しかし、お父上は逃げ出した」

 

 クラウチは歯噛みし、虚空を忌々しげに睨み付けた。

 

「そうだ。しばらくして、俺がやったのと同じように、父は”服従の呪文”に抵抗し始めた。あの方は父が仕事のために家を出るのは最早安全ではないとお考えになった。ご主人様は父に命じて、魔法省へ病気だという手紙を書かせた。

 しかし、ワームテールは義務を怠った。あいつが充分に警戒していなかったために、父は逃げ出した。父はダンブルドアに全てを打ち明け、告白するつもりだったのだ」

 

 クラウチは冷たくせせら笑い、蛇のように舌なめずりをした。

 

「だが、ご主人様は父の行動などお見通しだった。父に呪いの掛かった足輪を付けていたのだ。父が近づくと、俺にしか聴こえない鈴の音で知らせる魔法の足輪を。父はダンブルドアに会いに、ホグワーツへ来るのに決まっている。俺はただ静かに、父がやって来るのを待った。

 ついにある晩、鈴の音がして、父がホグワーツ内に入って来たのが分かった。父は禁じられた森の近くで、校外から帰ってきたばかりのイリスに縋り付き、学校から逃げるようにと警告していた。

 娘に怪我をさせたくない。俺は娘を失神させようとしたが、彼女は勇敢にも戦う意志を示した。あの忌まわしい裏切り者のスネイプが、抗う術を教えていた。俺は戦いの末に彼女を失神させ、()()()()()

「ああああああっ!!バーティ坊ちゃま、何を仰るのです?!」

 

 ハリーは身動き一つ取れなかった。――イリスが狂った殺人鬼であるクラウチと戦い、失神させられただって?ウィンキーが嘆き悲しんで慟哭する声が、どこか遠くの方で聴こえた。

 

「君は父上を殺したのじゃな?」ダンブルドアは依然として静かな声で言った。

「遺体はどうしたのじゃ?」

「骨に変え、ハグリッドの小屋の前の掘り返されたばかりの場所に埋めた」

「イリスは?」ダンブルドアが鋭く聴いた。

「ご主人様は、この任務を遂行できた暁には俺に娘を下さると仰った。予定よりも少し早いが、俺は娘に”服従の呪文”を掛け、俺を愛するように命じた。そして第三の課題が始まった後、俺の部屋に行って、俺が創った”移動キー”に触れ、ポッターと同じ場所へ行くように仕向けた。娘は全て従順に動き、俺は彼女と愛し合った。

 そしてご主人様は権力の座に戻られた。これほどに力を尽した俺の手から、あのお方が娘を取り上げる筈がない。ポッターは嘘を吐いている。ああ、早くイリスに会いたい。彼女は俺のものだ・・・」

 

 常軌を逸した狂気の笑みが再び顔を輝かせ、クラウチは頭をだらりと肩にもたせかけた。その傍らで、ウィンキーが彼に縋り、さめざめと泣き続けていた。

 

 

 皆、しばらくの間、強烈な嫌悪感と吐き気に打ちのめされ、身動き一つ取る事が出来なかった。やがてダンブルドアが立ち上がり、杖を上げた。たちまち杖先から飛び出した縄が独りでにクラウチにグルグルと巻き付いて、しっかり縛り上げた。それからダンブルドアはマクゴナガルの方を見た。

 

「ミネルバ、ハリーを上に連れて行く間、ここで見張りを頼んでもいいかの?」

「勿論ですわ」

 

 マクゴナガルが強く食い縛った歯の隙間から、そう応えた。杖を取り出してクラウチの方へ向けながら、彼女はわなわなと怒りに震える唇で吐き捨てた。

 

「なんと――なんと――汚らわしい男!」

「セブルス」

 

 ダンブルドアはスネイプの方を向いた。ハリーは釣られるようにしてスネイプの方を見て、恐怖で全身が総毛立った。――迸るような憎悪の感情が、その土気色の顔からマグマのように噴き出していた。不揃いな黄色い歯を抜き出しにして、スネイプはクラウチを威嚇していた。

 

「校庭に行き、コーネリウス・ファッジを探して、この部屋に連れて来てくれ。ファッジは間違いなく、自分でクラウチを尋問したい事じゃろう」

 

 スネイプはわずかに頷き、まだ怒りが収まらないとばかりにもう一度クラウチを一睨みした後、さっと部屋を出て行った。

 

 ダンブルドアは優しくハリーを抱き起こした。ハリーはグラリと大きくよろめいた。クラウチの話を聴いている間は気づかなかった痛みが今、完全に戻って来た。――本当に吐きそうだった。僕の与り知らない場所で、イリスがあの男に戦いを挑んで破れ、穢された。なんて、なんて酷い事を。僕はまた何もできなかった――彼女が右腕を失った時と同じように。どうする事も出来ない無力感と罪悪感がハリーの頭をひどく殴りつけ、ボロボロと熱い涙が零れ落ちた。ダンブルドアは何も言わずに少年の腕を掴み、介助しながら暗い廊下に出た。二人は医務室へ向かい、ゆっくりと歩き出した。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 イリスはゆっくりと目を開けた。――医務室のベッドだ。カーテンが閉められていて、ベッドの外の様子は分からない。彼女はぼんやりとした意識のまま、右腕を持ち上げた。すると宝石のように輝く銀色の義手が当然のように視界に入ってきて、イリスに墓場での恐ろしい記憶を思い出させようとした。写真のように鮮やかにくっきりと、頭の中を明滅し始めた記憶の数々から目を逸らすように、少女はゆっくりと起き上がって、ローブのポケットから軟膏を取り出して印に塗った。しかし、もう印は消えない。

 

 不意にドアの開かれる音がして、カーテンの外で大勢の人々が激しく言い合っている声が聴こえて来た。その人達の声に、イリスは聴き覚えがあった。――ハーマイオニーとロンだ。どうやらイリスはどこにいるのか、そして何が起こったのかを、マダム・ポンフリーに問い詰めているらしい。

 

「イリス!」

 

 イリスがカーテンをそっと開けると、ちょうど正面にいた二人がマダム・ポンフリーの制止を振り切って、涙を散らして駆け寄って来た。ハーマイオニーはベッドの縁に腰掛けて、小さな親友を抱き締めようと手を伸ばした。

 

 そしてイリスの銀色の右腕が視界に入るなり、ハーマイオニーはまるで”石化呪文”に掛かったかのように――ピタリと動きを止めた。彼女の瞳は、内側に輝く”闇の印”を食い入るように見つめている。

 

「ごめんなさい。気持ち悪いよね」

 

 ――親友を怖がらせてしまった。そう思ったイリスは、慌ててシーツで腕を覆い隠した。ハーマイオニーは何も言わなかった。イリスはおどけて、精一杯強がってみせた。

 

「劇に出た後で良かったよ。こんな腕じゃ、衣装なんて着れないもの」

 

 しかし、それでもハーマイオニーは黙りこくったままだった。やがてその様子を見兼ねて、ロンが不自然に明るい口調で話し始めた。

 

「なあ、僕ら、”ダービッシュ・アンド・バングズ”に行くべきだよ。ホグズミードのさ」

 

 イリスは思わず呆気に取られ、ロンを見上げた。ロンはシーツに隠された右腕を見ないようにしながら、滔々と喋り続けた。

 

「あそこの壁に”オーダーメイドで手袋やブーツが創れます”ってポスターが貼ってあったの、知らない?

 ハリーとディゴリーの賞金は山分けになったんだぜ、イリス。五百万ガリオンもあれば、きっと良い手袋が創れるよ。奮発してドラゴン革にしたらどうだい?

 僕、チャーリーに聴いたんだけど、すっごく綺麗なシルバーブルーの色をしたドラゴンがいるらしいんだ。手袋とか盾の材料に人気なんだって。エーット、何て言う種類だったかな。ほら、ハーマイオニー!」

 

 ロンは引き攣った笑いを浮かべ、ハーマイオニーの肩を強く小突いた。しかしそれでも彼女は茫然としたまま、動かない。ロンは狂ったように赤毛をかき毟り、とんでもなく陰鬱で悲哀に満ちた空気を少しでも明るいものに変えようと、必死な形相でまた喋り出した。

 

「それか、僕の兄貴達に頼んでも良いかもな。きっと面白いのを創ってくれるぜ。指パッチンすると花火が出たりとか、憎い相手を指差すと”クラゲ足の呪い”を掛けたりとか・・・」

()()()()()()

 

 突然、今にも消え入りそうな程に小さな声が、ハーマイオニーの口から漏れた。彼女は紙のように真っ白な顔を恐怖の感情でこわばらせ、イリスによろめきながら近づき、靴のままベッドに上がり込むと、小さな親友をギュウッと抱き締めた。

 

「ごめんなさい、イリス。私、私・・・・あああああぁぁあっ!!」

 

 ひどいパニック状態を引き起こして泣き喚くハーマイオニーを、イリスはただ抱き締め返す事しか出来なかった。ハーマイオニーは親友を助けるチャンスがあったのにそれを見逃した自分を責め、強い罪悪感に打ちひしがれていた。

 

「貴方がスタンドを離れた時、私、何としても引き留めれば良かった!ああ、こんな、ひどい・・・貴方は、女の子なのに・・・」

「大丈夫だよ、ハーミー」

 

 イリスは何が大丈夫なのか自分でも分からなかったが、急いでそう捲し立てた。

 

「私、何も気にしてない。良いドラゴン革を買って、WWWに素敵な手袋を創ってくれるように頼むよ。そしたら全部、元通り・・・」

 

 その時、ヴォルデモートの顔がパッと思い浮かんで、イリスは口籠った。右腕と共に、今までの自分も鍋の中に放り込まれて、永久に消え去ってしまったような気がした。時の流れで、少しずつこの恐ろしい出来事は心の中から薄れていくのだろうか。皆と笑い合いながら手袋を撫で、『昔、こんなに怖い事もあったね』と思い出話をする時が来るのだろうか。

 

 ――いいや、そんな日は永遠に来ない。右腕に刻まれた”闇の印”が、そう言って笑っているように見えた。”服従の呪文”を掛け、自分を愛しんだクラウチ――自分を追いつめて、下品に笑う死喰い人達――酷薄な笑みを浮かべるルシウス――そして、恐怖をそのまま形にしたような闇の帝王を慕い、縋り付いた自分の姿。もう二度と、今までの自分には戻れないような気がした。ヴォルデモート達がイリスに残した心の傷は、それほどに深かった。

 

 深く考えちゃダメだ。イリスはハーマイオニーの肩に顔を埋めて、唇を噛み締めた。墓場で起こったあの出来事を思い返したら、奈落の底へ引き摺り込まれて、そして正気を失って、もう二度とここへ戻って来れない気がした。

 

 

 やがてドアを開けて、ハリーとシリウス、そしてダンブルドアが入って来た。ハリーは真っ先にベッドに駆け寄って、イリスの頭を労しげに撫でた。ダンブルドアはイリスを静かに見つめた。明るい澄んだブルーの目を、彼女は今だけは見たくないと思った。――ダンブルドアは私に質問する気だ。全てをもう一度、思い出させようとしている。

 

「イリス。墓場で何が起こったのか、聴かせてほしい」

「ダンブルドア、明日の朝まで待てませんか?」

 

 シリウスがイリスを守るように前に立ちはだかり、振り返って労しげな眼差しを銀色に輝く右腕へ送った。

 

「ハリーとセドリックの証言で大体は分かっている筈です。この子は聞くに堪えない程、恐ろしい目に遭った。今は何よりも、しっかりと休ませてやる事が肝要では?」

「それで救えるのなら」ダンブルドアが優しく言った。

「きみを魔法の眠りに就かせ、今夜の出来事を考えるのを先延ばしにする事できみを救えるのなら、わしはそうするじゃろう。しかし、そうではないのじゃ。一時的に痛みを麻痺させれば、後になって感じる痛みはもっとひどい。

 イリス、きみはわしの期待を遥かに超える勇気を示した。もう一度、その勇気を示してほしい。何が起きたか、わしらに聞かせてくれ」

 

 イリスは青ざめた表情で俯いて、黙り込んだ。――もう一度、思い出すのは本当に嫌だった。あの恐ろしい体験を口にしたら、ヴォルデモートや死喰い人達がここに現れて、皆を襲う気がした。また正気を失い、今度は”従者”として皆を傷つけてしまったら?イリスが強い不安に苛まれていると、ふとハリーが自分の名前を呼んだ。

 

「イリス、大丈夫だ。君は何も変わってないよ」ハリーは微笑んだ。

「僕の大切な妹のままだ」 

 

 その言葉はイリスの恐怖で凍り付いてしまった心臓をみるみるうちに解かし、優しく暖めた。彼女の中にとびきり熱い感情が溢れ、そのエメラルド色の瞳から大粒の涙がいくつも零れ落ちていく。――呪いで正気を失い、”親友の死”を受け入れた自分を、彼は許してくれた。お互いの両親の敵である、ヴォルデモートに縋り付いた自分を。イリスは夢中でハリーに抱き着いて、咽び泣いた。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい・・・!」

「君が謝る必要なんてない!!」

 

 ハリーはきっぱりと言い切って、血が滲む程に歯を食い縛り、込み上げて来る自分の涙を我慢した。そして世界の全てから守るように、イリスを強く抱き締めた。ロンとハーマイオニーもベッドに上がり、黙ってイリスの背に手を置いて優しく撫で摩った。

 

 そうして、イリスは全てを話し始めた。その夜の光景一つ一つが、目の前に繰り広げられるように感じられた。自分で腕を切り落とした事や、ヴォルデモートに忠誠を誓った事について話そうとすると、ハリー達とシリウスが”無理をするな”と言わんばかりに肩を強く掴んだが、ダンブルドアは手を挙げてそれを制した。イリスはその方が嬉しかった。一度話してしまえば、続けて話してしまう方が楽だった。何か毒のようなものが体から抜き取られていくような気分でもあった。

 

 時々言葉を詰まらせながら、イリスは話し続けた。――ナギニの毒牙からルシウスを守った事、アズカバンに捕えられた死喰い人達を助けるようにとヴォルデモートに懇願した事、そしてスネイプに教えてもらった”魔法の炎”とドラコへの愛が自分を守り、呪いを一部、打ち破った事。右腕を打ち負かし、セドリックと共に死喰い人と戦い、ハリーを助けた事。しかし、もう少しで彼を助けられると思った時、背後から攻撃を受けて気を失ってしまった事。

 

 そこでイリスは、はたと気づいた。――そう言えば、私達はどうしてここへ戻って来られたんだろう。イリスは言い淀んで、思わずハリーを見つめた。すると彼は気まずそうに頭を搔いて、こう言った。

 

「ワームテールだ。あいつが・・・君のポケットから飛び出して、僕の手に触れて助けてくれた」

 

 その時、イリスは自分のローブの胸ポケットがモゾモゾと動いたような気がして、ふと目線を下げた。――何時の間にか、ポケットの中に小さなネズミが収まっていた。ハリーを助けた後、競技場での騒ぎに乗じてワームテールは主人の下へ戻ったらしい。老いぼれネズミはポケットの上からちょこんと頭を覗かせて、周囲を見渡し、そしてシリウスを見つけたとたん、慌てて顔を引っ込めようとした。

 

「こいつめ!そんなところにいたのか!」

 

 しかし、シリウスは見逃さなかった。彼は激しい憎悪の感情を剥き出しにし、素早く杖を振るった。たちまちワームテールはポケットから引き摺り出され、シリウスの眼前で宙吊りにされた。

 

「シリウス。殺してはならぬ」ダンブルドアが鋭く言った。

「何故です!」シリウスはネズミから視線を外さないまま、唸った。

「そやつはハリーを助けた」

「自分のためだ!」シリウスは叫んだ。

「イリスに恩を売り、”僕は友人を助けた健気なネズミです”とアピールするためだ。こいつは助かるためなら何でもする。ハリーを傷つけ、かつて拷問したイリスにも平気で縋り付く。何の反省もしていない!」

「ならば、何故セドリックは”死の呪い”から息を吹き返したのじゃ?」

 

 シリウスの杖先が、戸惑うようにピクリと震えた。ダンブルドアが静かにやって来て、シリウスの隣に並び立ち、縮こまるワームテールをじっと観察した。

 

「少年の命を奪う事に、迷いが生じたからではないのかね?だから呪文は失敗した」

「たまたま調子が悪かっただけだ」シリウスは低い声で言った。

「イリスを傷つけようとした時、ピーターは泣き惑った。そうじゃな、ハリー?」

 

 ハリーは渋々といった調子で、こくんと頷いた。ダンブルドアはキラキラと光る明るいブルーの瞳で、今度はイリスを優しく見つめた。

 

「イリス。どうやらピーターは”罪の意識”に芽生えつつあるようじゃ。きみが勇気を出して行った命懸けの説得は、ピーターの心に、”死の呪い”を失敗させるほどの強い悔悟の気持ちを起こさせた。

 きみの勇気と優しさがセドリックを、そしてハリーを救ったのじゃ」

 

 イリスとワームテールは言葉もなく、静かにお互いを見つめ合った。――ピーターが”罪の意識”に芽生えた?本当に彼は自分の心に眠る――あの恐ろしい化け物と戦い、打ち勝つ事ができたのだろうか。けれどその真偽を確かめる機会は、もう永久に失われてしまった。ダンブルドアは注意深い眼差しで、杖先をワームテールに向け、つぶさに調べながら言った。

 

「このネズミは、もう二度と人間の姿に戻る事はできぬ。非常に複雑で強力な呪いを掛けられておる。ただのネズミに証言させる事もできまい。一先ずはファッジに処遇を任せるとしよう」

「それは良い」シリウスが小気味良く笑い、杖をしまった。

「ファッジを焚きつけて、お前を猫に喰わせるように助言しよう。どの猫がいいか選ばせてやる!」

 

 たちまちネズミは怯えたようにキーキーと泣き叫び、イリスの下へ戻ろうと、空中で必死でもがいた。イリスは慌ててダンブルドアに言い募った。

 

「お願いです、ピーターを殺さないで!」

 

 シリウスはそらきたと言わんばかりに天を仰ぎ、盛大な溜息を零した。ダンブルドアは優しく微笑み、ワームテールを魔法の泡で包みながらイリスに言った。

 

「勿論じゃ。主人である君が言うのなら、そうしよう。さあ、ハリーと一緒にゆっくりお休み。わしはファッジに会い、すぐに戻って来よう。皆も、今日はここにいて構わぬ」

 

 そうしてダンブルドアとシリウス、ワームテールは医務室を出て行った。イリスはふと一番端のベッドに目を遭って、心臓が口から飛び出しそうになった。――()()()()が眠っている!サイドテーブルには木製の義足と魔法の目が置いてあった。イリスは掠れた悲鳴を上げて、杖を掴もうと震える手を伸ばした。

 

「イリス、大丈夫だ!」イリスの視線の先を見たハリーは、慌ててそう言った。

「あいつは()()()ムーディ先生だよ。偽物は――クラウチは――捕まった。もう、全部終わったんだ」

 

 ハリーはイリスに全てを話して聴かせた。――クラウチが競技場での騒ぎに乗じて自分を攫ったが、寸でのところで先生方が助けに来てくれた事、そして金色のドームの内側で何が起きたかと言う事も。

 

「僕の父さんと母さんは、見えなくてもずっと傍にいると言ってた」ハリーは涙に滲む声で、イリスに囁いた。

「君のご両親もきっとそうだよ。どこかで見守ってる。君は一人じゃない。今の君を心配し、そして誇りに思ってるはずだ」

 

 イリスはハリーの両親と同じように、姿は見えないけれど、ずっと傍にいるはずの自分の両親の姿を思った。しかし彼女はハリーと異なり、実際に両親のゴーストを見たわけではない。寂しさや不安を癒し切る事はできなかった。イリスはベッドに横になりながら、一つのわがままを言った。

 

「皆と一緒に寝たい」

 

 それを聴くや否や、ハリー達はスニッチのように素早く行動した。マダム・ポンフリーに頼んでベッドを二つ繋げてもらい、ハリーとイリスの両脇にロンとハーマイオニーが寝そべった。ベッドの上は少し窮屈だったけれど、こんなにも安心して暖かい場所は他にないとイリスは強く思った。病室中のランプがカーテンを通して親し気にウインクしているような気がする。一言も口を利く間もなく、疲労がイリスを眠りへ惹き込んでいた。

 

「なあ」ロンが出し抜けに言った。

「僕とハリーで賞金を山分けするだろ?」

「貴方、まだそんな事言ってるの?」ハーマイオニーが眉を潜めて唸った。

「こんな大変な時に!」

「こんな時だからこそ、必要なんだろ!」ロンがムキになって言い返した。

「ハリーの賞金はイリスの手袋用に使うとして、僕の賞金で、夏休みに皆でパーッと旅行に行くってのはどうだい?」

「いいね」

 

 ハリーは朗らかに微笑んだ。――夏に旅行。ロンらしい、実に素晴らしいアイデアだ。

 

「イリスはどこに行きたい?」

 

 しかし、返事はない。ハリーがイリスをそっと覗き込むと、彼女はとても穏やかな顔をしてスヤスヤと眠っていた。三人は黙って顔を見合わせ、イリスを起こさないように注意しながら羽根布団を掛けると、それぞれ横になって目を閉じた。

 

 

 それから数時間後、クラウチはゆっくりと目を開けた。冷静な眼差しで、自分の現状を確認する。魔法のロープで拘束され、身動きが取れない。

 

 その時、視界の端に杖先を認めて、クラウチは静かに顔を上げた。研ぎ澄ました刃のような冷たい目をした老年の魔女が、自分を見張っている。――マクゴナガル先生だ。その後ろではウィンキーが泣きじゃくり、心配そうに自分を見つめている。

 

「動くな」マクゴナガルが厳しい口調で言い放った。

「もうすぐお前はアズカバンへ連れ戻される」

 

 それを聴いたクラウチは恐怖に震えるどころか、不敵に笑ってみせた。”俺をアズカバンに入れる”――そんな事は何の意味も成さない。あの少年は助けが来るまでの時間を稼ぐために、下らない嘘を吐いたのだ。必ずあのお方が、俺を助けに来てくださる。クラウチはアズカバンに連れ戻されるまでの間、目の前の魔女をいたぶって楽しむ事にした。

 

「マクゴナガル先生。()()()()()の唇は柔らかく、吐息は甘く、体は暖かかった」クラウチは冷たくせせら笑った。

「頼むからトランクの中身は始末しないでくれ。あれは娘のために、特別に創らせたものだ。またアズカバンから出た時に必要になる」

 

 クラウチが蛇のように舌なめずりをしながら、嘲笑うようにそう言うと、マクゴナガルの眼鏡の奥の目が激しく燃え上がり、怒りの余り、頬がまだらに真っ赤に染まり、突きつけた杖先がブルブルと大きく震えた。

 

「この、()()()()め!お前など、二度とアズカバンから出すものか!」

 

 マクゴナガルは鋭い声でそう叫び、杖を振るった。すると杖先から縄が噴き出して、クラウチの口にきつく巻き付いた。彼は背を仰け反らせ、くぐもった声で狂ったように笑い続けた。

 

 その時、ドアをノックする音がして、マクゴナガルは我に返り、振り向いた。――ファッジ大臣が青ざめた表情で戸口に立ち、笑い続けるクラウチをこわごわと見つめている。マクゴナガルはホッとしたような顔で、ファッジを迎え入れた。

 

「やあ、ミネルバ」ファッジは奇妙に引き攣った笑いを浮かべた。

「クラウチを尋問しに来た。こいつがそうだね?」

「ええ。ファッジ大臣、後はお願い致します」

「大臣、お待ちを!()()()を連れて入っては・・・!」

 

 次の瞬間、戸口の奥の方からスネイプの追い縋る声が聴こえた。――一体、誰の事だ?マクゴナガルが訝しげにファッジを見た瞬間、彼の顔の前を不気味な”黒い影”がスーッと横切った。ボロボロのローブを纏った、恐ろしい影――”ディメンター”だ。

 

 たちまち、ゾーッとするような冷気が、全員を襲った。ディメンターは食べ損ねたご馳走の事を思い出したのか、ファッジの支配を振り切ってクラウチに覆い被さった。クラウチは急に呼吸が出来なくなった。――ああ、我が君!”ディメンターの急襲”という予想だにしなかった展開に彼は慌てふためき、縄目を解こうと懸命にもがきながら、ご主人様に助けを乞い願った。こんな筈では。どうか、どうか、俺を助けて下さい!

 

 しかしそんなクラウチを嘲笑うかのように、ディメンターはますます彼に圧し掛かった。皮膚の下、深く潜り込んだ強烈な寒気が、指先一本動かす事さえ許してくれない。そうこうしている内に、冷気は彼の胸の中を満たし、そのもっと奥を冒していく――

 

 ――暗闇の中で、クラウチはイリスを抱き締め、情熱的に口付けた。しかし柔らかく暖かいはずの唇は凍るように冷たく、吐息は腐った嫌な匂いがして、クラウチの体は骨の髄まで凍り付くようだった。やがて闇の奥で、赤い目が二つ光った。彼が敬愛してやまない、ヴォルデモートの目だ。彼は冷たく甲高い声で、静かに言い放った。

 

「お前は娘に()()()()()()

 

 茫然とするクラウチの目の前で、愛しい少女と赤い目が闇の中に融け、幻のように消えて行った。

 

 気が付くとクラウチは、魔法省の地下牢の床の上で、鎖付の椅子に縛り付けられていた。周囲の観衆が憎悪の籠もった言葉を好き勝手に投げつけ、正面に座る父親は凍るように冷たい眼差しを自分へ向けている。

 

 とたんにクラウチは心臓がズタズタに引き裂かれ、呼吸が出来なくなった。――この記憶は彼が今まで生きてきた中で”一番最悪なもの”だった。嫌だ、思い出させないでくれ。これ以上、見たくない!しかしそんな彼の懇願も空しく、やがて自分の口が操られたように勝手に動き出して、悲痛な声で泣き叫んだ。

 

「お父さん!僕はやってない!僕はあなたの息子だ!あなたの息子なのに!」

「お前は私の息子ではない!」クラウチ氏が叫んだ。突然、目が飛び出した。

「私には息子はいない!」

 

 暗く深い絶望の感情がクラウチを包み込んだ。甲高い女性の悲鳴が、どこか遠くの方で聴こえた。小さな頃から病気がちな母親に代わって自分を案じ続けてくれた、懐かしい響きのする声。だが、もう何も分からない。何をする気力もない。クラウチは大いなる絶望と後悔の重しを抱え込み、心の海の奥底へと沈んで行った――

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

「バーティ坊ちゃま!坊ちゃま!」

「エクスペクト・パトローナム、守護霊よ来たれ!」

 

 ウィンキーの指先から魔法の光線が迸り、クラウチに覆い被さったディメンターの背中に命中すると、化け物は掠れた呻き声を上げて体を仰け反らせた。すかさずスネイプの放った守護霊が、ディメンターを部屋の奥へと退ける。ウィンキーが形振り構わず、クラウチに縋り付いた。しかし、もう全てが遅かった。彼は忠実な妖精の働きにより、魂を吸い取られる事こそ免れたが、深く目を閉じて、いつ起きるとも知れない昏睡状態に入ってしまっていた。

 

 

 イリスが再び目覚めた時、余りに暖かく、まだとても眠かったので、もうひと眠りしようと目を開けなかった。部屋にはぼんやりと灯りが灯っている。きっとまだ夜で、あまり長くは眠っていなかったのだろう。その時、すぐ傍でヒソヒソと話す声がした。――ハリーとハーマイオニーだ。

 

「あの人達、静かにしてもらわないと、イリスが起きちゃうわ」

「一体、何を喚いているんだろう?」

 

 イリスはそっと薄目を開けた。ハリーが上体を起こし、カーテンの向こうをじっと見つめて耳を澄ませている。

 

「ファッジの声だ」

「マクゴナガル先生もいらっしゃるみたい。何を言い争ってるのかしら?」

 

 やがて、誰かが言い争いながらこちらへ向かって走って来るような音が聴こえ始めた。ロンが寝ぼけ眼で起き上がり、カーテンをグイと開けた。マダム・ポンフリーがイリス達の朝食用のオートミールを作る手を止め、戸惑った顔でドアを見つめている。

 

「残念だが、ミネルバ。仕方がない」ファッジの喚き声がする。

「絶対に、あれを城の中に入れてはならなかったのです!」マクゴナガルが叫んでいる。

「ダンブルドアが知ったら・・・」

 

 医務室のドアが勢い良く開け放たれた。気色ばんだ様子のファッジが、荒々しい足取りで室内へ入って来た。すぐ後ろにマクゴナガルとスネイプもいる。

 

「ダンブルドアはどこかね?」

 

 ファッジはマダム・ポンフリーに詰め寄った。大臣の余りの剣幕にマダム・ポンフリーは一瞬たじろいだが、やがて怒ったように答えた。

 

「ここにはいらっしゃいませんわ。大臣、ここは病室です。少しお静かに」

 

 しかしその時ドアが開き、ダンブルドアがさっと入って来た。セドリックと彼の両親も、その後に続いている。

 

「何事かね?」

 

 ダンブルドアは鋭い目でファッジを、そしてマクゴナガルを見た。

 

「病人達に迷惑じゃろう?ミネルバ、あなたらしくもない。クラウチを監視するようにお願いした筈じゃが」

「もう見張る必要はなくなりました。ダンブルドア!」

 

 マクゴナガルが叫んだ。――イリスは思わず呆気に取られて、自分の寮監の先生をじっと見つめた。いつも冷静沈着な彼女が、こんなに取り乱した姿を初めて見た。怒りの余り頬は真っ赤に染まり、両手は拳を握り締め、わなわなと震えている。

 

「大臣がその必要がないようになさったのです!」

 

 そして、マクゴナガルとスネイプは話し始めた。――スネイプがクラウチを捕えた事をファッジに伝えに行った時、ファッジは自分の身を守るために、城に入るのにディメンターを一人自分に付き添わせると主張した。そうしてスネイプが止めるのも聴かず、ファッジはディメンターをクラウチのいる部屋に連れて入った。ディメンターはまるで仕留め損ねた獲物を思い出したかのように、すぐさまクラウチに覆い被さり、”死の接吻”を施した。ウィンキーの魔法とスネイプの放った守護霊が、その直後にディメンターを退けた為、完全な接吻とはならなかったものの、クラウチは深い昏睡状態に陥ってしまった。

 

 イリスは余りの残酷な結末に、骨の髄まで震え上がりながら、ハーマイオニーに縋り付いた。――胃が芯まで凍っていくような気持ちだった。皆の非難に満ちた目線を一心に受け、ファッジは喚き出した。

 

「失礼だが!魔法省大臣として、護衛を連れて行くかどうかは私が決める事だ!それに、どの道クラウチがどうなろうと、何の損失にもなりはせん!どうせ奴は何人も殺しているんだ!」

「しかし、コーネリウス。最早証言ができまい」

 

 ダンブルドアが静かに言った。まるで初めてはっきりとファッジを見たかのように、ダンブルドアは聡明な輝きを放つブルーの目を大きく開いて、彼をまじまじと観察していた。

 

「何故何人も殺したか、クラウチはなんら証言できまい」

「何故殺したか?ああ、そんなことは秘密でも何でもなかろう!」ファッジが喚いた。

「あいつは支離滅裂だ。ミネルバやセブルスの話では、奴は全て”例のあの人”の命令でやったと思い込んでいるらしい!」

「確かにヴォルデモート卿が命令していたのじゃ、コーネリウス」ダンブルドアが冷静に応えた。

「何人かが殺されたのは、ヴォルデモートが再び完全に勢力を回復する計画の布石に過ぎなかった。計画は成功した。ヴォルデモートは肉体を取り戻したのじゃ」

 

 ファッジは杖を取り落とし、誰かに重たいものでしこたま頭を殴り付けられたかのような顔をした。茫然として目をパチパチと瞬きながら、ファッジはダンブルドアを見つめ返した。今聴いた事が、俄かには信じられないと言う様子だった。やがてファッジは乾いた笑い声を上げ、首を横に振った。

 

「”例のあの人”が復活した?おいおい、ダンブルドア・・・」

「わしらはクラウチの告白を聞いた。”真実薬”の効き目で、クラウチは色々と語ってくれた。クラウチはヴォルデモートが蘇るのに力を貸したのじゃ。ハリーとセドリック、イリスがヴォルデモートの復活を確認した。わしの部屋に来てくだされば、一部始終をお話しいたしますぞ」

 

 ダンブルドアは一切の迷いのない声で、そう言い切った。しかしファッジは納得するどころか、今度は引き攣った顔に奇妙な笑いを浮かべ始めた。そうして彼は、ベッドに座り込むイリスとその”銀色の右腕”をチラリと見た。

 

「ダンブルドア、あなたは()()お分かりにならないのかな?」

 

 やがてファッジはイリスを指差し、呆れたように笑い出した。

 

「これは全部、()()()()()()だ。あなたは彼女に関する事実を隠していた。ルシウスから”血の呪い”の事を聞いたよ。以前からこの子は、現実と妄想の区別がつかないところがあった。

 見なさい、あの”闇の印”の浮かんだ右腕を。可哀想に、()()()()()()()()()。呪いに精神が蝕まれ、あの人が生きていると思い込んでいるのだ。だからあんな風に魔法で右腕にメッキを掛け、ハリーとセドリックを攫い、”あの人が生き返った”と幻覚を見せた。そして錯乱した二人を連れ出し、大勢の人々をパニックに陥らせたのだ」

 

 ――イリスは余りの事に心がズタズタに引き裂かれ、何も言う事が出来なかった。しかし、それは他の人々も同じだった。誰もがグラグラと煮えたぎる程の怒りの感情に支配されて、まともに口を利く事が出来なかった。やがてダンブルドアがファッジに一歩、詰め寄った。クラウチに”失神術”を掛けた時に感じられた、あのなんとも形容しがたいエネルギーがまたしても彼の体から放たれていた。

 

「コーネリウス、聞くが良い。イリスは正常じゃ。ハリーもセドリックも幻覚など見ていない」

「ルシウス・マルフォイはあなたを騙そうとしているだけだ!僕はあいつがヴォルデモートに忠誠を誓っているのを見た。あいつは死喰い人だ!」我に返ったハリーが叫んだ。

「マルフォイの潔白は証明済みだ!」ファッジはあからさまに感情を害していた。

「戯けた事を!イリス、もうこんなふざけたお芝居は止めなさい!クリスマスの劇で皆に注目され、味を占めたのか?そのメッキも今すぐ剥がして、皆に謝るんだ!」

 

 ファッジはイリスの両肩を掴み、力任せに揺さぶった。彼の目は飛び出し、明らかに正気の状態ではない。ハーマイオニーとロンが口々に何かを叫んで、イリスからファッジの腕を振り払った。イリスが怯えてものも言えずにいる時、誰かがファッジの胸倉を掴み上げた。――セドリックの父、エイモスだ。セドリックと彼女の母も急いで駆け寄って来て、イリスの前に守るように立ちはだかった。

 

「この子を傷つける事は許さんぞ!」エイモスは口角泡を飛ばしながら、ファッジにがなり立てた。

「この子はセドリックを”死の呪い”から救ってくれた。私の息子は嘘を吐いていない。狂っているのはあなたの方だ、ファッジ!」

「この右腕がメッキですって!あなたの目は節穴ですか!」マクゴナガルが叫んだ。

 

 ファッジはエイモスの手を振り払うと、憎々しげな眼差しで皆を睨み付けた。

 

「どうやら諸君は、この十三年間、我々が営々として築いて来たものを・・・全て覆すような大混乱を引き起こすつもりだな!」

 

 イリスは思わず自分の耳を疑った。――ファッジは事なかれ主義が過ぎる所もあるが、根は善人だと思っていた。しかし今、目の前に立っている小柄な怒れる魔法使いは、心地良い秩序だった自分の世界が崩壊するかもしれないという予測を、頭から拒否し、受け入れまいとしている。ヴォルデモートが復活したという事実を信じまいとしている。

 

「あなたは物事が見えなくなっている」

 

 今や、ダンブルドアは言葉を荒げていた。手で触れられそうな程に強烈な魔法力を帯びたオーラが体から発散し、その目はメラメラと激しい怒りに燃え盛っていた。

 

「自分の役職に恋々としているからじゃ、コーネリウス!今、ここで、はっきり言おう。今からわしの言う措置を取るのじゃ。そうすれば、大臣職に留まろうが、去ろうが、あなたは歴代の魔法大臣の中で、最も勇敢で偉大な大臣として名を残すじゃろう。

 だが、もし行動しなければ、歴史はあなたを、営々と再建してきた世界を、ヴォルデモートが破壊するのをただ傍観しただけの男として記録するじゃろう!」

 

 ダンブルドアだけでなく、皆が体中からほとばしる程の熱い感情を纏って、イリスを守り、そしてファッジに正しい選択を迫った。ファッジはたじたじと窓際まで後退しながら、小声で言った。

 

「正気の沙汰ではない。皆、狂っている・・・」

 

 その時、ファッジの背にある窓のカーテンが、眩いばかりの緑色の光に染め上げられた。爆発的な悲鳴が、彼方此方で上がり始めた。一体、何が起こったんだ?ファッジは急いで振り返り、大きな窓のカーテンをざっと開けた――

 

 ――そこには夜空を覆い尽くすようにして、巨大な”闇の印”が打ち上がっていた。不気味な惑星のような大髑髏が笑い、その口から蛇が顔を出して楽しげにのたくっている。それはホグワーツを見下ろし、嘲笑っていた。もう隠す必要などないと、言わんばかりに。

 

 イリスが怯えた悲鳴を上げ、小さなパニック状態を引き起こして、ハリー達に懸命に宥められている。その騒ぎを他人事のように聞き流しながら、ファッジは今までの自分の心地良い世界が、跡形もなく崩れ去って行くのを感じていた。――こんな巨大な呪われた印を、杖も持たない娘が、いや、他の魔法使いだって創れるはずもない。創れるのはただ一人、ヴォルデモート卿だけだ。ファッジはヴォルデモートが復活したと言う現実を、受け入れざるを得なかった。

 

「ダンブルドア」ファッジは掠れた声で言った。

「あなたの言う措置を取る。わ、私は・・・どうしたらいい?」

 

 ダンブルドアは何も言わずにファッジの肩を優しく掴み、隣に並び立った。しかし”闇の印”を睨み付けるその目は、ひどく厳しいものだった。

 

 

 ダンブルドアとファッジ、そして大人達は今後の話をすると言って、部屋を出て行った。セドリックと彼の両親は、恐縮するばかりのイリスを強く抱き締め、涙に濡れた声で何度も感謝の言葉を捧げた。――イリスは目の前のハンサムな青年を心配そうに見つめた。いくら無事だったとはいえ、彼が”死の呪い”を受けた事に変わりはない。後遺症は何もないのだろうか。

 

「セドリック、体は大丈夫?何ともない?」

「僕は大丈夫だよ。イリス」セドリックは爽やかに微笑んだ。

「後遺症もない。助けてくれて本当にありがとう。ダンブルドアから、全部聴いたんだ」

 

 セドリックは屈み込むと、イリスの頭を優しく撫でた。その様子を見兼ねたハリーは、ピクリと不満げに眉を顰めた。セドリックは、尚もイリスに話しかける。

 

「良かったら、今度の夏休み、僕の家に遊びにおいでよ。ハリー達も一緒に。両親も君にきちんとお礼がしたいって言ってるし、僕のガールフレンドもとびっきりのご馳走を作ってくれるってさ。チョウの料理は本当に美味いんだ。君、中華料理は好きかい?」

 

 ――勿論、中華料理は大好きだ。イリスが嬉しそうに頷くと、セドリックは安心したように笑い、皆に手を振って去って行った。ハリーはむくれた顔をして、イリスをぬいぐるみのように抱き寄せ、腕の中に抱え込んだ。ハーマイオニーが呆れ果てたように言った。

 

「心配しなくても、セドリックはあなたの妹を盗ったりしないわよ。()()()()()!」

 

 やがてマダム・ポンフリーがやって来て、強い睡眠薬を飲ませて安静に休ませると言い、ロンとハーマイオニーを医務室から追い出した。そしてベッドの周りのカーテンを閉め、ハリーとイリスに睡眠薬の入ったゴブレットを渡した。カーテンの隙間から漏れ出していた――不気味な緑色の光は消え、辺りはぼんやりしたランプの灯りだけになった。イリスはハリーの傍で、ゴブレットの中身をゆっくりと飲み干した。たちまち効き目が現れた。深い眠りが抵抗しがたい波のように、ぐぐっと押し寄せた。イリスは枕に倒れ込み、もう何も考えなかった。

 

 

 ハリーは、ふと目を覚ました。隣のベッドでは、イリスが健やかに眠っている。ハリーはそっとカーテンを開けて、外の窓の様子を覗き見た。――もう緑色の光はない。印は消えたみたいだ。これでイリスが怖がらずに済む。彼は心の底からホッとして、彼女の羽根布団を優しく掛け直した。

 

 その時、医務室のドアが静かに開かれる音がして、ハリーは思わず耳を澄ませた。――マダム・ポンフリーだろうか?しかし、足音は彼女特有のせかせかとしたものではなく、ゆっくりと落ち着いていた。足音は真っ直ぐにこちらへ近づいてくる。ハリーは杖を握り締め、カーテンを少しだけ開けた。

 

 部屋のおぼろげな灯りを受けて、一人の男子学生が立っている。ハリーは自分の見ているものが信じられなかった。――()()()()()()()()()だ。次の瞬間、墓場で見た彼の父親の酷薄な笑みが蘇り、ハリーは警戒心も露わに杖先を彼に突き付けた。しかしドラコは動じる事もなく、静かな声でこう言った。

 

「ポッター。僕は敵じゃない。記憶を取り戻したんだ」

 

 ハリーは驚いて、大きく息を飲んだ。そしてクリスマスも近づいた夜、イリスがグリフィンドールの塔の上で、”ドラコを守るために記憶を消した”と言った事を、ふっと思い出した。マルフォイは”秘密の部屋”での記憶を、本当に取り戻したのか?ハリーは疑り深い目でドラコを観察した。――今の彼の顔はいつもの意地悪そうな顔つきとは、まるで違っていた。澄んだ湖のように静謐で、その目の奥には揺るがない決意が燃えている。

 

「マダム・ポンフリーに許可は取ってある。席を外してくれ。イリスと話がしたい」

 

 ハリーは言葉を失い、傍らで眠るイリスを見た。――マルフォイが嘘を言っているようには思えない。だが、マルフォイが記憶と共に愛も取り戻したのなら、イリスは彼に盗られてしまう。かつてハリーを苦しめた”幼い愛”が、再び彼の心を切なく焦がした。

 

 その時、イリスの枕元で何かがキラリと輝いたのを見て、ハリーは思わず手を伸ばし、それを手に取った。――金色の懐中時計だ。イリスと初めて会った時、彼女がお揃いで買ってくれたものだ。何年も使い込まれてくすんだ色になった輝きが、ハリーの心を優しく癒した。

 

 ――僕はイリスを愛している。ハリーは愛する少女の頭をそっと撫でた。だから僕は、彼女が幸せになる事を望む。やがてハリーは立ち上がり、寮に戻るために靴を履き、ドラコと擦れ違った。

 

 ハリーの緑色の目とドラコの灰色の目が短い間、交錯する。二人は何も言葉を交わさなかった。どうあっても、二人が敵同士である事に変わりはない。しかしハリーが扉に手を掛けた時、ドラコがふと彼の名前を呼んだ。

 

「ポッター」静かな声だった。

「今までイリスを守ってくれて、ありがとう」

「黙れよ、マルフォイ」ハリーは歯を食い縛った。

「どうして、どうして、お前なんかを・・・」

 

 ハリーはそれ以上言葉を続ける事ができなかった。彼は振り返らず、扉を開けて去って行った。寮へと向かう道すがら、イリスと今まで過ごした――甘酸っぱくも切ない思い出の数々が込み上げて来て、ハリーはもう我慢できなかった。胸を突き破って飛び出しそうな悲しい叫びを漏らすまいと、彼は顔をくしゃくしゃにして頑張り、グリフィンドール塔に向かって突き進んだ。

 

 ――自分は今、世界で最も惨めでださくて、情けない男だ。ハリーはそう思った。けれども、それはそんなに悪い事ではないとも思った。自分本位な”幼い愛”は失恋の痛みと共に成長し、自分よりも他者の幸せを思いやる”真実の愛”へと昇華した。”闇の印”が消え去った空から、優しい星と月の灯りが硝子の窓を通過して差し込み、少し大人になった少年を優しく包み込んでいた。

 

 

 イリスはとても幸せな夢を見ていた。ずっと憧れていた場所に、愛する人と一緒にいる。――ホグズミード村のマダム・パディフットのカフェだ。イリスはそこのテーブルの一つに着き、向かい側に座るドラコと笑い合っている。――これは夢なんだ。イリスには分かっていた。テーブルでメニュー表を広げている右腕も元のままだし、ドラコとここにいるなんてありえない。でも、今はこの幸福にどっぷりと浸っていたかった。

 

 ふとドラコが熱を帯びた眼差しをイリスに注ぎながら、小さな顎をそっと持ち上げた。そしてモミの木に隠れるようにして、ドラコはイリスに深く口付けた。彼女は最初の方こそ、幸せで舞い上がるような心地だったが、やがてその接吻は息をする事も難しくなる程に激しいものになり、イリスはたまらずドラコの腕の中でもがいた。――苦しい、息が出来ない。

 

 やがて、イリスは喘ぎながら目を覚ました。そして涙に滲む視界の中に映った人物を見て、目を丸くした。

 

「起きたかい、お姫様」

 

 ――()()()だった。イリスの髪を優しく梳きながら、彼は悪戯っぽく微笑んだ。彼女はまだ夢を見ているのに違いないと思った。今日はとても良い夜だ。イリスは素直にドラコに甘えながら、小さな声で言った。

 

「うん。あなたの夢を見てたの。あなたとマダム・パディフットのカフェにいる夢」

 

 それを聴いたドラコは一瞬、蒼白い顔を切なそうに歪めたが、何も言わずに優しく笑った。それからイリスの右肩から先を彩る”銀色の義手”に、静かな視線を注いだ。――今度は、これは現実のままだ。ドラコが怖がってしまう。イリスは慌てて言った。

 

「ごめんね、気持ち悪いよね。すぐに隠・・・」

()()()

 

 しかし、ドラコは熱を帯びたような声でそう囁いただけだった。そして少女の右腕を持ち上げ、余す所なく丁寧にキスの雨を降らせ始めた。――イリスは絶句し、ドラコを茫然と見つめた。誰もが目を逸らし、気味の悪い呪われしものだと畏怖したこの腕を、彼は綺麗だと褒め、愛しんでくれた。イリスは言葉に出来ない程の熱い感情が喉元に込み上げ、大粒の涙が両目から零れ落ちていくのを止める事が出来なかった。

 

 ――もうこれ以上、優しくしないで。きっとこの部屋を出たら冷たく辛い現実が待っている。本物のドラコはこの右腕をからかい、罵るに違いない。イリスは力なくすすり泣きながら、ドラコに縋り付いた。

 

「お願い、もう止めて。これ以上、優しくしないで」

「どうして?」ドラコがイリスの手首にキスしながら、静かに尋ねた。

「この夢から覚めたら、私・・・もう立ち直れなくなっちゃう」

 

 ――”この夢”?ドラコは思わず訝しんで、イリスをまじまじと見つめた。もしかして、彼女はこの期に及んでもまだ、夢を見ていると思っているのか?彼の疑問はそのまま言葉となって口から飛び出した。

 

「もしかして、君はまだ自分が夢の中にいると思ってるのか?」

 

 イリスが首を傾げながらも頷くと、ドラコは天を振り仰いで盛大な溜息を零した。――あんなに情熱的なキスをして、起こしたと思ったのに。やがて彼はイリスの手を自分の頬に添えながら、ふてくされたような表情を湛えて、静かに尋ねた。

 

「君はどうやったら夢から覚めたと思ってくれるんだい?」

「ほっぺをつねって痛かったら」イリスがロマンの欠片もない答えを返した。

 

 ドラコはすかさず空いた手を伸ばし、イリスの頬を強くつねった。――とびっきり痛かった。イリスは慌てて飛び上がり、ドラコを睨んで涙ながらに叫んだ。

 

「痛いよ、ドラコ!何するの!」

 

 そしてハッと気づいた。――これは夢じゃない。ドラコは優しい目で自分を見つめている。イリスは余りの事に混乱する頭の中で、必死に考えを巡らせた。一体どうして?クリスマスの夜、スネイプが自分に代わって彼の記憶を消したのではなかったのか?するとドラコはイリスの胸の内を読み取ったかのように、こう言った。

 

「スネイプ先生は、僕の記憶を消さなかったんだ。代わりに君の記憶を見せてくれた。・・・イリス、君は僕が死ぬ未来を見たんだね?そして僕を守るために記憶を消した」

「――あ、あなたを失いたくなかったの!」

 

 その瞬間、今までずっと心の奥底に押し込めて来た――イリスの感情がマグマのようにせり上がり、胸を突き破って飛び出した。一度、秘めた思いを口にすると、彼女はもう自分の気持ちを抑える事などできなかった。ひどい癇癪を起こしたように泣きじゃくる少女を、ドラコは素早く引き寄せ、狂おしいほどに強く抱き締めた。

 

「あなたは私と一緒にいると死んでしまう!」イリスが激しくしゃくり上げた。

「でもアステリアと一緒にいれば、あなたは幸せになれる。しわしわのおじいちゃんになるまで、長生きできる」

「・・・()()?」

 

 突如として、ドラコが忌々しいと言わんばかりにその言葉を吐き捨てた。それから彼はゆっくりと体を離し、戸惑うばかりのイリスを真っ直ぐに見つめた。冷たい灰色の瞳が、激しい怒りと情熱の感情に燃えている。

 

「僕は君のペットか?君の創った籠の中で寿命を迎えるまで安全に生きていれば、君は満足なんだろうが・・・生憎、そこに僕の意志はない!」

 

 ドラコは強い口調で言い放った。余りの彼の剣幕に思わず体をこわばらせるイリスの脳裏に、ある魔法使いの言葉がふっと蘇った。――『相手の意見に耳も貸さず、安全な鳥籠に閉じ込めるのは、一方的な愛情の押し付けだ。本当に人を愛するというのは、相手と同じ高さに立って、意見を尊重し、受け入れることだ』。今、その言葉を体現するかのように、ドラコは痛々しい程にひたむきな目で少女を見つめ、一切の迷いのない声でこう言った。

 

「僕はたとえ今死のうが、不幸せになろうが、地獄に堕ちようが、君と一緒にいる!それが”僕の幸せ”だからだ。僕の幸せを――僕の人生を――君が勝手に決めるな」

 

 イリスの目に、再び熱い涙が溢れた。――もう、何も言葉にする事など出来なかった。愛する者が自分に寄り添い、共に生きようと言ってくれた。これ以上に幸福な事が、一体、世界中のどこにあるだろう。今や、彼女だけでなくドラコも泣いていた。彼はイリスの頬を愛おしそうに撫で、涙に滲む声で言葉を続けた。

 

「約束する。僕は決して、君を置いて死なない。・・・君の母君が遺した論文を読んだんだ。”未来視”は多様な未来の可能性を示すものだ。君の母君が見た”幸福な未来”を、僕らはきっと実現できる。だから彼女は、僕を甦らせてくれた。君にもう一度会うために。幸福な未来を一緒に歩むために」

 

 二人は固く抱き締め合い、お互いを見つめ合った。――そうだ。僕は君に会うために、もう一度生まれた。ドラコは歓喜の涙を拭う事無く、愛する者の瞳を一心に見つめ、強くそう思った。僕らは魂の奥底で繋がっていたんだ。ドラコは自らの脈打つ心臓の上にそっと手を置いた。何とも形容しがたい――強く迸るような力が、心の底からマグマのように湧き上がってきて、自分を狂おしいほどに鼓舞するのを感じた。

 

「イリス、僕に記憶を戻してくれ。僕は君の全てを取り戻したい」

 

 ”憂いの篩”で見たものは、あくまでもイリスの記憶であって、自分のものではない。ドラコはイリスに杖を握らせ、懸命に乞い願った。一方のイリスは、まだ不安と恐れを拭い切れずにいた。――もし、”最悪な未来”が実現してしまったら?ドラコが死んでしまったら?

 

 『あんたにはあんたの人生、そいつにはそいつの人生がある。そして自分の人生は他人じゃなく、自分自身で選択するものなんだ』――その時、ある魔法使いの言葉が、イリスの心の中を一陣の風となって吹き抜けていった。”自分の人生は、自分自身で選択するもの”――イリスは言葉を失い、ドラコをじっと見つめた。

 

()()()()()()()

 

 ドラコはただ、静かにそう言った。――その瞬間、イリスは理解した。人を愛すると言うのは相手を信じ、その選択を受け入れる事なのだと。そして彼女はありったけの勇気を振り絞り、ロックハートから学んだ”記憶を戻す術”をドラコに掛けた。イリスの杖先から銀色の光が一筋零れ出て、ドラコの頭の中へ吸い込まれていく――

 

 ――そうして、ドラコはあの日失った全ての記憶を取り戻した。父の書斎でイリスが助けを求め、助けられなかった”罪悪感”。リドルの亡霊に怯えながらも、本当に大切な者は何かという事を知った”かけがえのない瞬間”。そして命を賭してイリスを守った後に味わった”愛する者の温もり”・・・。

 

 やがてドラコはそっと目を開け、愛する者にしか見せない――特別な微笑みを見せた。やっぱり、僕の居場所は”ここ”――イリスの傍にしかない。ドラコは愛する者の住む”夢の島”に、やっと帰り着いた。その大いなる感動に打ち震え、ドラコはイリスに強く口付けて、涙に滲む声でこう囁いた。

 

「ただいま、イリス」

 

 イリスも涙でぐしゃぐしゃになった顔で精一杯微笑んで、優しく応えた。

 

「・・・おかえり、ドラコ」




全然一話で終わらせられてないやないかーい☆(乾杯)
あと一話続くやないかーい☆(乾杯)

クラウチジュニア&ウィンキーは不死鳥編に持ち越しです(^^♪

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