ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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※作中に残酷な表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


Petal16.第三の課題(中編)

「さて、この印を見て――戻る勇気のある者が何人いるか。そして離れようとする愚か者が、何人いるか」

 

 ヴォルデモートは残忍な満足の表情を浮かべて立ち上がり、頭を仰け反らせると、暗い墓場をひとわたり眺め回した。それから彼はふとハリーを見下ろした。蛇のように無機質な顔が残忍に歪んだ。

 

「ハリー・ポッター、お前は俺様の父の遺骸の上におるのだ」

 

 ヴォルデモートはハリーの傍まで来ると、彼の後ろにある墓石を睨み付けた。

 

 ――すぐ目の前に宿敵が立っている。その冷たく赤い目には、一欠片の愛情も見当たらない。自分と同じ、生きている人間である筈なのに、彼には――どんな人間や亜人、魔法生物、果ては怪物だろうが――生きとし生けるもの全てが等しく持っている”命の温もり”がまるで感じられない。代わりに感じ取れるのは、氷のように冷たく邪悪な気配と、それに恐怖する自分の感情だけだ。ヴォルデモートは歯を食い縛ったまま、低い声でせせら笑った。

 

「マグルの愚か者よ。ちょうどお前の母親のように。しかし、どちらも使い道はあった訳だな?お前の母親は子供を守って死んだ。俺様は父親を殺したが、奴はこの体を甦らせるのに役立った」

 

 ヴォルデモートは恍惚とした表情で自らの手を見つめ、また笑った。ハリーの視界の端で、ナギニが冷たい声で子守唄を歌いながら、こんこんと眠り続けるイリスを優しくあやしていた。ハリーは今の状況を再確認した。――縄は非常にきつく結ばれていて、先程滅茶苦茶に暴れたのに少しも緩んでいない。杖はセドリックの亡骸の近くにある。杖も持たず、声も奪われた状態で、どうやってこの拘束を解き、ヴォルデモートとナギニをくぐり抜け、イリスとセドリックの亡骸をホグワーツへ連れて帰る事ができる?ハリーは必死に考えを巡らせたが、状況は余りにも絶望的だった。ヴォルデモートは優雅な動作で杖を弄びながら、再び口を開いた。

 

「丘の上の館が見えるか、ポッター?俺様の父親はあそこに住んでいた。母親はこの村に住む魔女で、父親と恋に落ちた。しかし正体を打ち明けた時、父は母を捨てた。父は、魔法を嫌っていた。

 奴は母を捨て、マグルの両親の元へ戻った。薄情なマグルらしい、実に愚かな行為よ。俺様が生まれる前の事だ、ポッター。そして母は俺様を生むと死んだ。残された俺様は、マグルの孤児院で育った。しかし俺様は奴を見つけると誓った。復讐してやった。俺様に自分の名前を付けた、あの愚か者に。――トム・リドル」

 

 ハリーの脳裏に、二年の頃、日記に宿った亡霊”トム・リドル”と対決した記憶が呼び起こされた。そう言えば、ワームテールに拘束される寸前、杖明かりに照らされたこの墓石の銘にもその名前があった。奇しくも、ハリーとヴォルデモートは――その理由こそ全く異なるが――両親を失い、愛情に飢えて育ったという事になる。ヴォルデモートは墓から墓へと素早く目を走らせながら、青ざめた蜘蛛のような手を自らの額にそっと押し当てた。

 

「俺様が自分の家族の歴史を物語るとは・・・」ヴォルデモートは呆れたような声で囁いた。

「なんと、俺様も感傷的になったものよ。しかし見ろ、ハリー!俺様の()()()()が戻って来た」

 

 不意にマントを翻す音が、墓場じゅうを満たした。墓と墓の間から、イチイの木の影から、暗がりと言う暗がりから、魔法使い達が”姿現し”していた。全員がフードを被り、銀色の仮面を付けている。彼らはまるで我が目を疑うと言わんばかりに、ゆっくりとした慎重な足取りで、ご主人様の下へ歩み寄っていく。しかしその中でただ一人――上質なローブを着た魔法使いだけがその場から動かず、蛇に囚われた哀れな少女を見つめていた。不気味な仮面に隠された目が――魔法力を帯びて宝石のように輝く”銀色の義手”と、大量の血に塗れたローブへ釘づけになっていた。

 

 

 ルシウス・マルフォイは非常に野心に溢れ、狡猾な男だったが、自分の家族を何よりも愛していた。イリスも彼にとって家族の一員だ。比類なき親友の忘れ形見で、そして彼の妻は息子の命を救ってくれた。家柄も申し分なく、自分の息子と親密な間柄にあり――度重なる”血を裏切る”行為さえ目を瞑れば――性格もとても良い子だ。ルシウスはイリスを”闇の陣営”側に引き込んだ後、ドラコにきちんと話をして記憶の処理を行い、二人を婚約させるつもりだった。

 

 そう、イリスは絶対にこちら側へ来させねばならなかった。メーティスの一族はヴォルデモートの庇護下でしか生きられない。ネーレウスは”闇の帝王”に正面から抗って、苦しみもがきながら死んだ。彼の死を知った時、ルシウスは言葉にできない程の深い悲しみに暮れたが、どこかその結末を”仕方がない”と受け入れている面もあった。

 

 ――ネーレウスは”バロット”そのものだった。彼はヴォルデモートの創り出した魔法の卵の内に生まれた。どれだけ果敢に抗ったところで、殻の中から抜け出す事はできない。反対にヴォルデモートは自分の好きな時に卵を簡単に掴み取って、煮えたぎる鍋の中に入れて茹で上げたり、そのまま握り潰す事だってできる。ネーレウスの命は文字通り、ヴォルデモートが支配していた。だが、もしネーレウスが闇の帝王の下に付けば、彼は窮屈な殻を破り、立派な成鳥となって、広々とした空を飛び回る事ができる。聡明な彼は、闇の帝王の機嫌を損ねないように器用に立ち回る事など、朝飯前なはずだった。

 

 しかし、ネーレウスはそうしなかった。狭い殻の中に閉じこもったまま、愚直なまでに善い魔法使いとして生き、そして死んだ。勿論、そうさせたのはダンブルドアだ。あの老いぼれが養父になどならなければ、ネーレウスの人生はもっと輝きに満ちたものになり、今頃は自分と肩を並べてここに立っていたに違いない。だからこそ、数年前にダイアゴン横丁でイリスを見つけた時、ルシウスは思ったのだ。――たとえ悪魔と思われようと、この子を”闇の魔女”にしてみせる。ネーレウスと同じ苦しみを味わわせてなるものかと。

 

 ヴォルデモートがイリスを深く愛し、執着しているのは、”死喰い人”達にとって周知の事実だった。――人を愛するというのは、慈しんで守る事だ。ルシウスはヴォルデモートの愛がイリスを守ると確信していた。イリスがダンブルドアに唆されて”闇の帝王”を敵と見做さなければ、呪いがこれ以上増大する事もない。イリスはヴォルデモートに慈しまれて、彼の手の内で安全に生き続ける事ができる。

 

 ――そう、思っていた。()()()イリスの姿を目の当たりにするまでは。

 

 イリスの右腕は、銀色にきらめく義手へ変貌していた。その淡い輝きが、肩口にこびり付いた夥しい血液と、肩よりも少し上の辺りで切断されたローブの焼け焦げを、克明に映し出している。少女の顔は病人のように青ざめ、その下には嘔吐物の跡が残っていた。近くには大きな鍋がくすぶっていて、血に濡れた短剣も転がり、鈍い輝きを放っている。ルシウスはもうそれだけで、充分に状況を理解できた。イリスは意識を保ったまま、腕を切り落とされたのだ。ヴォルデモートは何よりも慈しんで守るべき存在を――自分のためだけに――大いに傷つけ、その一部を奪ったのだ。

 

 その時、死喰い人の一人が跪いて、ヴォルデモートに這い寄った。彼はガタガタと骨の髄まで震え上がりながら、ご主人様の黒いローブの裾にキスをした。

 

「ご主人様・・・ご主人様・・・」その死喰い人は恐怖に引き攣った声で呻いた。

 

 周囲にいた死喰い人達も次々と跪いて、ヴォルデモートのローブにキスをした。戻って来た一人に肩を揺さぶられ、ルシウスはハッと我に返った。――ここでご主人様の不興を買う事は、死に繋がる。ルシウスには守るべきものがあった。彼も他の人々に加わり、そのまま後ろに退いて、仲間達が作り出した輪の中に加わった。

 

 人々の輪はトム・リドルの墓を囲み、ハリー、イリスとナギニ、ヴォルデモート、ワームテールを取り囲んだ。その輪には所々に切れ目があった。まるで後から来る者を待つかのように。しかし、ヴォルデモートはこれ以上来るとは思っていないようで、ゾッとするような冷たい笑みを浮かべると、死喰い人達をぐるりと見渡した。すると風もないのに、輪がガザガザと震えた。

 

「よう来た。死喰い人達よ」ヴォルデモートが厳かな口調で言った。

「十三年、最後に我々が会ってから十三年だ。しかしお前達は、それが昨日の事であったかのように、俺様の呼びかけに答えた。さすれば、我々はいまだに”闇の印”の下に結ばれている。それに違いないか?」

 

 誰も応えなかったし、頷きもしなかった。まるで少しでも物音を立てたら死んでしまう呪いでも掛かっているかのように、皆揃って押し黙り、凍り付いたように立ち竦んでいる。ヴォルデモートは恐ろしい顔を仰け反らせ、切れ込みを入れたような鼻腔を膨らませた。

 

「罪の匂いがする」ヴォルデモートが囁いた。

「辺りに罪の匂いが流れているぞ」

 

 輪の中に、二度目の震えが走った。誰もがヴォルデモートから後退りしたくてたまらないのに、どうしてもそれができない、という様子だった。

 

「お前達全員が無傷で健やかだ。魔法力も失われていない。こんなに素早く現れるとは!そこで俺様は自問する。この魔法使いの一団は、ご主人様に永遠の忠誠を誓ったのに、何故そのご主人様を助けに来なかったのか?」

 

 ルシウスはふと、他の仲間達の視線が()()()()へ一点集中している事に気付いた。――()()()だ。もし心優しい彼女が目覚めて今の状況を見たら、きっとご主人様を宥め、哀れな自分達を助けてくれるに違いない。右腕を失い、蒼白な表情で昏睡している小さな少女を、皆が救いを求めて縋るような目で見つめていた。しかし肝心の少女は一向に目を覚ます気配がない。ナギニは冷たくせせら笑い、イリスをますます大事そうに抱え込んだ。

 

「そして、自答するのだ」ヴォルデモートは囁いた。

「奴らは俺様が破れたと信じたに違いない。いなくなったと思ったのだろう。奴らは俺様の敵の間にするりと立ち戻り、無罪を、無知を、そして呪縛されていた事を申し立てたのだ。

 それなれば、と俺様は自問する。何故奴らは、俺様が再び立つとは思わなかったのか?俺様がとうの昔に、死から身を守る手段を講じていたと知っているお前達が、何故?

 そして俺様は自ら応える。奴らはより偉大な力が、ヴォルデモート卿をさえ打ち負かす力が存在すると信じたのであろう。多分奴らは、今や他の者に忠誠を尽しているのだろう。あの凡人の、穢れた血やマグルの味方、アルバス・ダンブルドアにか?」

 

 ご主人様の口からダンブルドアの名が出ると、輪になった死喰い人達が動揺し、ある者は頭を振り、ブツブツと何事かを弁明するように呟き始めた。しかしヴォルデモートはそれら全てを無視し、重々しい口調でこう言った。

 

「俺様は失望した。失望させられたと、告白する」

 

 一人の死喰い人が突然、輪を乱して前に飛び出した。――エイブリーだ。ルシウスは仮面の形で分かった。エイブリーは頭から爪先までガタガタと震えながら、ヴォルデモートの足下に平伏した。

 

「ご主人様!」エイブリーが悲鳴のような声を上げた。

「お許しを!我々全員をお許しください!」

 

 ヴォルデモートはゾッとするような冷たく甲高い声で笑い出した。そして杖を上げて、エイブリーに”磔の呪文”を唱えた。たちまち彼は地面をのたうち回り、凄まじい悲鳴を上げた。余りの激しい動きに仮面が外れ、想像を絶する痛苦に歪んだ顔が露わになった。その声は墓場内で不気味に響き渡り、皆の絶望と緊張感を更に高めていった。やがてヴォルデモートは杖を上げた。エイブリーは息も絶え絶えに地面に横たわり、時々痙攣している。

 

「起きろ、エイブリー」ヴォルデモートが低い声で言った。

「立て。許しを請うだと?俺様は忘れぬ。十三年もの長い間だ。お前を許す前に、長きに渡る不忠の罪を償ってもらうぞ」

 

 死喰い人達の輪にみなぎる絶望と恐怖の感情は、今や最高潮に達しようとしていた。唯一の頼みの綱だったイリスは、昏々と眠り続けている。誰もが息を潜め、透明になり、この場から逃げ出したいと強く願っていた。

 

「だが、最も大きな罪を犯したのは・・・()()()()、お前かもしれぬ」

 

 その声で、ルシウスはハッと我に返った。気が付くと、ヴォルデモートが自分のすぐ目の前に立っていた。二つの赤い双眸がギラギラと邪悪に輝いて、こちらを睨み付けている。次の瞬間、ルシウスの体温は氷点下まで下がり、体じゅうの水分が一気に奪われて喉がカラカラになった。――”最も大きな罪”、私が一体何をしたと言うのだ?闇の帝王が凋落するまで、莫大な財力と権力を使い、彼の活動を誰よりも助けていた、この私が?

 

「お前は何故、俺様が信頼して託した()()()()()()を、壊してしまったのだ?」

 

 ”大切なるもの”――ルシウスはすぐに思い至った。帝王の亡霊が宿った、あの日記帳だ。不意に耳障りな笑い声が足元からして、彼は視線を下げた。ワームテールが”してやったり”と言わんばかりの意地の悪い目で、こちらを見てクスクス笑っている。奴が告発したのだ。ルシウスは反射的に杖へ手を伸ばし、憎悪の籠もった目でワームテールを睥睨したが、すぐにそれどころではなくなった。ナギニがイリスをそっと地面に横たえ、舌なめずりをしながらこちらへ這って来たからだ。

 

「我が、君」ルシウスの声は、強い恐怖のために裏返った。

「どうかご慈悲を。断じて、私利私欲のためではございません。全てイリスのために、彼女を愛しているからこそ行った事なのです」

「俺様は『娘の教育の教科書としてあれを使え』と言ったか?」ヴォルデモートは冷たく言い返した。

「いや、俺様はこう言った筈だ。『これは非常に”大切なるもの”。決して人目の触れぬ場所に厳重に隠しておけ』と。お前は言い付けを破り、それを失った。そしてそれを破壊したのはなんと、あの忌まわしいハリー・ポッターと”血を裏切る”一族の子供だと言うではないか。お前の倅が、偉大なるスリザリンの遺したバジリスクを屠ったとも聞いている。・・・そうだな、ワームテール?」

「その通りでございます、ご主人様!」

 

 ワームテールは歓喜の感情に顔を歪ませ、キーキーと周囲に響き渡る程の甲高い声で叫んだ。ルシウスは骨の髄まで震え上がり、ご主人様を見つめた。自分のすぐ傍に濃厚な死の気配が迫り、その恐怖で頭が痺れて、ろくに考える事もできない状態だった。ヴォルデモートの杖先から、恐ろしい緑色の火花が飛び散った。

 

「お前は十三年、俺様に不忠を働いただけでなく、俺様の顔に泥を塗り、所有物を奪って壊したのだ」

 

 次の瞬間、ルシウスの仮面が粉々に砕け散り、死の恐怖に震える白い顔が露わになった。ワームテールは今や四つん這いになり、地面を叩きながらヒーヒー笑っている。他の死喰い人達は、まるでルシウスが伝染病でも持っているかのようにザッと退いて大きく距離を空けた。ルシウスの絶望に塗れた灰色の目が、哀れな少女の姿を映し出した。――私は完璧な父親にはなれなかったかもしれないが、それでもイリスを娘のように愛していた。だが、その結果がこれなのか?

 

 不意にヴォルデモートが屈み込んで、ルシウスの頬を優しく撫でた。それから思わず総毛立つような冷たい猫撫で声で、こう言った。

 

「ルシウスよ、そしてお前は一つ勘違いをしている。あれはお前の娘ではない。――()()()()()だ」

 

 ヴォルデモートは口を大きく開けて、野獣のように獰猛な笑みを浮かべた。常軌を逸した欲望と、歪んだ愛情が渦巻く――醜悪で悍ましい顔つきだ。ルシウスの周囲の死喰い人達は、その顔を見たとたんに腰を抜かす者もいた。ルシウスはまるで蛇に喰われる寸前の蛙のように無力な状態で、ヴォルデモートを見つめ返した。――私が死んだ後、あの子はどうなる?今際の際に立っても尚、彼は娘の身を案じた。ヴォルデモートはイリスを愛しているのではなかったのか?

 

「我が君」ルシウスが掠れた声で囁いた。

「あなた様はイリスを愛していると仰いました」

「ああ、愛している。この世の何よりも」ヴォルデモートは陶然として囁いた。

「では何故、彼女の右腕を・・・かような仕打ちを・・・」

「あれの全ては俺様のものだからだ」ヴォルデモートは事も無げに応えた。

「あれも十三年分の不忠の罪を償わねばならなかった。だから意識のあるままに、自らの腕を切り落とさせたのだ。当然の報いだ。

 ルシウスよ。お前は他者の杖が持ち主にどう扱われているのか、気にした事などあるのか?」

 

 ルシウスは体じゅうから力が抜け、地面に倒れ伏した。”意識のあるままに、自分の腕を切り落とさせた”――なんと、なんという残酷な事をさせたのだ。もし自分が生き延びるために、愛する者の体の一部が必要だと言うなら、ルシウスは迷わず死を選ぶだろう。自分より他者を思いやる行為こそが、愛情だからだ。しかし、ヴォルデモートにはそれがなかった。

 

 『ヴォルデモートは僕に、今までの悪行に対する償いとして”ダンブルドアの殺害”を命じた。そんな場所で長く生かされるより、例えほんの僅かな間でも、僕は暖かく安らかな場所で生きてゆきたい』

 

 ふと、かつての親友の言葉が、ルシウスの心の中で鮮やかに蘇った。ルシウスはやっと、その言葉の意味を理解出来た。どんなに極悪非道で、闇に堕ちた家系だと蔑まれる家族の内にも――大きさや形の違いこそあれ――暖かい愛情があった。しかしヴォルデモートやメーティスにはそれがなかったのだ。ヴォルデモートとルシウス双方が唱える”愛”は同じ言葉である筈なのに、その中身が全く異なっていた。クリスタルの箱に閉じ込めた魔法の心臓が愛を忘れ去ってしまったように――魂を幾片にも裂いたヴォルデモートは、もうまともに人を愛する事ができなくなってしまっていた。

 

「案ずるな、ルシウス。お前の家族は助けてやろう。娘が気に入っているようだからな」

 

 ナギニが目の前に迫り、口を大きく開けて、透明な毒が滴る牙を見せつけた。やがて襲い来るだろう死と痛苦に震撼しながら、ルシウスはヴォルデモートの言葉に心から安堵した。――妻と子供の命は守られる。だがネーレウス、すまない。ナギニの牙が首元に届く寸前、ルシウスの細い目から懺悔の涙が零れ落ちた。私が間違っていた。君の娘を守る事が出来なかった。

 

 

 イリスは不思議な夢を見た。どこまでも続く暗闇の中で、膝を抱えて座っている。

 

 ふと、下の方から不思議な気配を感じた。下を見ると、ずっと遠くにあるようにも、手を伸ばせば届くほど近くにあるようにも感じる不確かな距離に、見渡す限り真っ白に漂白された世界が広がっていた。そこには何とも不思議な事に()()()()()()()がいて、何かから必死に逃げ惑っているように、懸命に駆けずり回っている。

 

「気にする事はない。彼女はそう長く持たないよ」

 

 すぐ隣から美しい声がして、イリスは急いでその方向を仰ぎ見た。――リドルだ。精悍な顔立ちの青年が、こちらを愛おしげに見つめている。豊かな黒髪を優しく梳きながら、彼は熱を帯びた口調でこう言った。

 

「さあ、起きなさい。君はこれからずっと永遠に、僕の傍に在り続けるのだから」

 

 イリスの小さな心臓が溢れるほどの多幸感でいっぱいになり、言葉もなくただ頷いた。不意に、自分の意識が浮上していくのが分かった。リドルの手を離れ、ふわりと浮かんで、上へ昇っていく。上へ――上へ――

 

 やがてイリスはゆっくりと目を開けた。辺りは真っ暗だった。こわごわと上半身を起こして見上げると、美しい星空が一面に広がっている。――ここはどこで、私は誰なんだろう。まるで生まれ立ての小鹿のように、彼女は不安げに震えながら周囲を見渡した。そして起き上がろうと右手を伸ばした時、美しい輝きを放つ”銀色の義手”が目に入った。その内側に刻まれた”闇の印”を見た瞬間、イリスは()()()()()()()()()を思い出した。

 

 ふと人々の恐怖に満ちたざわめきが聴こえ、イリスは弾かれたようにその方向を見た。――大蛇が大きな口を開け、今にもルシウスに噛み付こうとしている!少女の頭の中で、今までの記憶が走馬灯のように駆け巡っていく。きっと”あの事”が原因で、ルシウスさんは命を奪われようとしているのに違いない。ああ、私のせいだ。彼女は矢も楯もたまらずスニジェットに変身して、猛烈なスピードで飛翔した。

 

 

 ナギニとルシウスの間に、突然、小さな金色の光が弾けた。光はみるみるうちに膨れ上がると砕け散り、その後には一人の少女が残された。彼女は悲しみの涙を湛えて、まるでルシウスを守るかのように大きく両手を広げて立ち、囁くように不思議な声でこう言った。

 

〖忠実なるお方〗イリスはナギニを讃えた。

〖夜の帳のように美しく静謐で、影のように主に付き従う、気高き神の化身よ。どうか牙をお納めください。貴方が喰らうべきなのは、この私なのです〗

 

 ナギニは面白そうに目を細めて口を閉じると、”どうするの?”と言わんばかりにヴォルデモートを見上げた。だが彼はしばらくの間、返す言葉もなく、魅入られたようにイリスを見つめるばかりだった。――陛下がこの世に顕現し、私を見つめてくださっている。その神々しさと言ったら!イリスは腰が抜けてしまい、図らずも彼の前に跪いた。この御姿を見られただけで、もう充分だ。イリスは溢れ出る歓喜の涙を拭い、小さくしゃくり上げた。ナギニは上機嫌で歌を歌いながら、闇の奥へと消えて行った。

 

「皆に分かる言葉で申せ」

 

 やがてヴォルデモートは満足気に鼻腔を膨らませると、尊大な口調でそう言い放った。イリスは自らの死を覚悟して、大きく震えた。――言いたくない。陛下は今までずっと苦しんで嘆いておられた。これ以上の悲しみを与えるなんて。でも、全ては私のせいなんだ。イリスは強く頭を振って、両手を握り締めた。ルシウスさんは何も悪くない。

 

「恐れながら、申し上げます」イリスは震えながら、口を開いた。

「私は長らくの間、お祖母さまの下さった()()を芽吹かせる事ができませんでした。私の中に流れる”もう一つの家系の血”が、偉大なるスリザリンの血と拮抗し、祝福の力を弱めていたからです。私は自分が何者であるかを知らずに育ちました。陛下をお探し申し上げる事もなく、一人の平凡な女の子として、のうのうと生きていたのです!」

 

 イリスは自分の記憶を思い出して、余りの不甲斐なさに歯を食い縛った。――何も知らなかったあの頃。自分の犯した罪はそれだけではない。決して仲良くなってはいけない人々を親友とし、寮だってスリザリンではなくグリフィンドールへ入ってしまった。

 

 イリスは”組分け帽子”の言葉やドラコの警告を思い出し、力なく地を搔いて咽び泣いた。どうして私はあんなにも意固地で聞き分けがなく、愚かだったのだろう!進むべき道をきちんと教えてくれた人々がいたのに。――()()()()()()()()()今なら、分かる。イリスは虚ろな目でヴォルデモートの足下を見つめながら、痛烈に思った。一年生の時、自分はクィレル先生に手を貸すべきだった。ユニコーンの血は、動物と心を通わせる事の出来る自分なら、彼らにきちんと話をして、殺す事無く手に入れる事も出来たかもしれない。賢者の石だって、陛下と共に在るクィレル先生と一緒なら・・・。だけど自分はそうしなかった。それどころか、彼らを葬る事に手を貸してしまったのだ。

 

「無知とはなんと・・・なんと恐ろしい罪なのでしょう・・・」

 

 全ての真実を知った後、イリスの心の在り方はまるで違っていた。――これほどの大罪を犯した悪人は、世界中を探しても自分以外に誰一人だっていないだろう。少女は余りの罪深さに小さく縮こまり、ルシウスが戸惑うように肩に手を置いているのにも気づかなかった。しかしヴォルデモートは怒るどころか、悦に入ったような声で続きを促すだけだった。イリスはまるで毒を吐き出すかのように苦しげな口調で、再び口を開いた。

 

「ですが、そんな私にルシウスさんは救いの手を差し伸べてくださいました。あるべき場所へ立ち戻り、成すべき事を成すようにと。しかし私は愚かにも・・・拒否しました。

 私なのです、陛下。私が・・・ルシウスさんを”陛下の御霊が宿られた聖具”を使わざるをえないと思うまでに、追い詰めてしまったのです!」

 

 イリスはリドルと過ごした素晴らしく有意義な日々を思い返し、涙した。もう二度と帰らない、煌めきに満ちた記憶。――そうだ。この時だって、私が陛下を助ける機会はいくらでもあった。リドルと共に旅に出て、本物の陛下を助けに行く事だって出来た筈なんだ。それなのに・・・。イリスはただ悔しくて、血が滲む程に強く唇を噛み締めた。私はモンスターのように彼を怖がってジタバタして、不必要な犠牲を招いた。雄鶏、ミセス・ノリス、ジャスティン、ニック、ハグリッド、そしてハーマイオニー。彼らが傷ついたのは、私のせいなんだ。

 

「陛下の御霊は、私を正しい道へと再教育してくださいました。しかし愚かな私はそれでも拒否し、そして多くの人を巻き添えにしてしまいました。それだけでなく・・・陛下も・・・」

 

 ――イリスはそれから先を言う事ができなかった。”陛下の御霊を滅ぼす”という大罪を友人達に冒させ、そしてドラコにスリザリンの叡智の結晶であるバジリスクを屠らせてしまった。イリスはもう罪の意識に耐え切れなかった。彼女はおもむろに杖を引き抜いて、杖先を自分に向けて、”切り裂き呪文”を唱えようとした。

 

 しかしそれよりも早くヴォルデモートが杖を振るって、彼女の杖を弾き飛ばした。――ヴォルデモートの顔は恐怖で鉛色に変化し、脂汗が滲んでいる。イリスは彼の足下に縋り付いて、幼い子供のように泣きじゃくった。

 

「どうか死なせてください!こんな不実で惨めな従者の姿をお祖母さまがご覧になったら、どんなにお嘆きになる事でしょう!お願いです、陛下・・・どうか私を・・・私を死なせて・・・」

「お前は充分罰を受けた。そうだな?」

 

 ヴォルデモートの声は不自然な程に優しかった。彼は静かに屈み込むと、青白い指先でイリスの顎を持ち上げた。――なんて紅く美しい瞳なんだろう。イリスは我を忘れて、彼の目に魅入った。しかしそれを美しいと思っているのは、イリスだけだった。ルシウスや他の死喰い人達の目には、醜悪で恐ろしい化け物がどす黒い欲望と狂気に満ちた笑みを浮かべ、いたいけな少女に覆い被さっている様子にしか見えなかった。

 

「今、お前は罪の意識に苦しんでいるではないか。それで充分だ。

 ――だが、決して忘れるな。俺様は忘れさせもせぬし、殺す事もせぬ。そしてこれからは尚一層、俺様に忠実に仕えるのだ」

「陛下・・・陛下・・・」

 

 ――なんて慈悲深く、お優しい方なんだろう。こんな大罪を犯した私をお許しくださるなんて。イリスは涙でぐしゃぐしゃになった顔で囁き、ヴォルデモートのローブの裾にギュッと縋り付いて、弱々しくすすり泣いた。私はこのお方のために今度こそ、身を尽して働かなければ。

 

 少女が決意を新たにしている一方で、ヴォルデモートはまるで腫れ物に触れるかのようにそっと少女を抱き締めて、愛おしげに小さな頭を撫でた。小さな少女は背の高いヴォルデモートに包まれて、たちまち見えなくなった。彼はとても満足気に喉を鳴らした後、呆気に取られるばかりのルシウスにこう言った。

 

「ルシウス、()()()()()()()よ。お前は確かに罪を犯して俺様の一部を損なったが、”本当に大切なるもの”はこうして手元に戻ってきた。俺様の慈悲をもって、お前を許そう」

「感謝いたします、我が君」

 

 かくしてルシウスの罪は許された。彼は言葉に出来ない程に深く安堵して肩を撫で下ろしたが、その細い目はイリスを心配そうに見つめていた。――少女の様子はまるで違っている。あれほどに怖がっていた闇の帝王を、まるで父親であるかのように慕っている。一体、彼女の身に何が起きた?やがてヴォルデモートはゆっくりと少女の体を離し、こう言った。

 

「お前は確かに”従者”の使命を忘れていた。だが、それはあの老いぼれの策略によるものだ。お前は何とかそれの隙間を掻い潜り、時折俺様に魂を捧げ、そして右腕も捧げた。俺様は助ける者には褒美を与える。

 お前の望むものを与えよう。その身を飾るゴブリン製の貴重な装飾品か?グリンゴッツを埋め尽くす大量の金貨か?運命を捻じ曲げる程の高度な呪文か?人々が羨む高い権力か?さあ、何でも好きなものを言うと良い」

 

 死喰い人達は皆、仮面の下で物欲しそうな顔をして、ごくりと唾を飲み込んだ。ヴォルデモートなら恐らく、どんなものでも創り出す事ができるだろう。皆、欲望がパンパンに詰まった頭で想像を働かせ、自分ならどんなものを望むだろうと考えた。しかし当のイリスは戸惑った様子で、首を横に振るばかりだった。

 

「陛下。私は陛下よりこのように、素晴らしいものを頂きました」イリスは魔法の腕を掲げてみせた。

「これ以上に何かを頂くなど・・・恐れ多いことです。私は陛下のお傍にいられる、ただそれだけで幸せなのです。これほどの幸福はきっと、世界中のどこにもありはしないでしょう」

 

 ――陛下はこんな至らない自分でも、傍にいていいと仰った。それだけで充分に幸せだ。イリスは感極まり、胸がいっぱいになって、新たな涙を零れ落とした。ヴォルデモートは欲望に滾る目で少女を見つめ、ごくりと唾を飲み込んだ後、静かに口を開いた。

 

「これは命令なのだ、イリス。お前は主の命令に背くつもりか?」

 

 イリスはしばらく考えた。――本当は、イリスの叶えて欲しい願いは二つあった。しかし、一つは決して口にしてはならないものだ。その願いを乞う事は、ヴォルデモートへの不忠を誓う事と同義だ。イリスは二つ目のとても大切な願いを口にする事にした。きっとこれは、”従者”である自分にしか乞い願えない事だ。少女は涙を乱暴に拭い、ヴォルデモートの足下に跪いて、はっきりとした声でこう言った。

 

「今宵は陛下が復活を遂げられた”お慶びの日”でございます。どうか、陛下のご慈悲の心を持ちまして、全ての死喰い人の罪をお許しください」

 

 思いも寄らなかった少女の願いの内容に、死喰い人の輪がざわざわと蠢いた。かつて同じ事を願い、聴き入れられずに拷問を受けたエイブリーは茫然とした様子で立ち竦んでいる。

 

「ここにいらっしゃる方々は、皆、陛下と共に戦った素晴らしい魔法戦士達ばかりです。叡智に富み、とても勇敢な戦士であるこの方々が何故、陛下をお助け申し上げる事が出来なかったのか。それはきっと・・・力を盛り返した敵の陣営が、彼らを妨害していたからに他なりません。

 しかし今宵は皆、陛下の呼びかけに応えました。皆、陛下をお慕い申し上げているからこそです。

 今は、陛下の陣営をいち早く立て直すのが一番肝要かと思われます。そしてアズカバンへ行き、幽閉された仲間達を救い出すのです。彼らは今でも、陛下の救済を待っていらっしゃいます」

 

 イリスはシリウスから聞いたアズカバンの話や、ハリーが”憂いの篩”で見たと言う――アズカバンに投獄された死喰い人達、それから自分がディメンターと遭遇した恐ろしい記憶を思い出して、唇を噛み締めた。――あんなに絶望に満ちた辛い世界から、すぐに彼らを救い出さなければ。一方のヴォルデモートは目を見開いて絶句し、やがて昔を懐かしむように郷愁を帯びた口調で、ある”死喰い人”に話しかけた。

 

「ノット。もし()()がまだ生きていたら、同じ事を言ったと思うか」

 

 輪の中で佇む一人の魔法使いが、がっくりと膝を突いて、泣き崩れた。――恐らく、彼がノットなのだろう。ノットは何度も狂ったように頷くので、その内、仮面が取れて地面に転がっていった。イリスは急いでその男の傍に行くとしゃがみ込み、優しく背中を撫でながら言った。

 

「セオドール・ノットの父君ですね?あなたの息子に沢山ご迷惑を掛けてしまいました。不出来な”従者”である私を、どうかお許しください」

 

 ノットはますます感極まったかのように泣きじゃくり始め、イリスの足下にむしゃぶりついてローブの裾に何度も口づけながら、涙と嗚咽混じりの声で一生懸命に話し始めた。イリスは必死で耳を傾けたが、”お嬢様”と”そんなことは”という言葉ぐらいしか聞き取る事が出来なかった。その様子を満足気に見ていたヴォルデモートは、ふとルシウスに一瞥をくれた。

 

「ルシウスよ。直ちに体勢を立て直し、アズカバンへ向かえ。そしてカルカロフとセブルスに伝えよ。”俺様は一度だけ、お前達の罪を許す”と」

「御意に」ルシウスは素早く応えた。

「それと・・・娘の婚儀の相手だが」

 

 ヴォルデモートはそこで一旦言葉を区切り、杖を弄んだ。ルシウスの心の中に、ドラコの顔がポッと思い浮かんだ。彼の心の奥底で、権力に飢えた野心の獣が唸り声を上げた。

 

「相応しい相手がいたが、奴は少々娘に()()()()()()

 狡賢いお前ならば俺様の機嫌を損ねる事もなく、上手に立ち回れるだろう。娘もお前の倅を気に入っているようだ。良い日取りを決め、婚儀の準備を進めよ」

 

 ――その瞬間、ルシウスの立ち位置が決まった。彼は見事に死の淵から蘇り、ヴォルデモートに次ぐ”絶対的な地位”を勝ち取ったのだ。良くも悪くも、ルシウスは野心に満ちた男だった。先程までイリスを案じていた父親としての心は、目も眩むばかりの強大な権力に塗り潰された。傲慢不遜に輝く灰色の瞳が、居並ぶ仲間達を見下ろした。

 

 

「そんな・・・」

 

 ふと絶望に染まった声がして、ヴォルデモートは鷹揚な動作で振り返った。――ワームテールが呆気に取られた表情で、こちらを見つめている。ワームテールは自分を見捨てたルシウスが、ヴォルデモートに罰される事を心から望んでいたのだ。しかし彼の目論見は外れ、ルシウスは難を逃れて、あまつさえ帝王を次ぐ座に返り咲いてしまった。

 

「さて、ワームテールよ」

 

 ヴォルデモートはそんなピーターの前までやって来ると、冷たい猫撫で声でこう言った。

 

「お前は虫けらのような裏切り者だが、今日に至るまで俺様を助けた。お前にも褒美をやらねばなるまい」

 

 その瞬間、ワームテールの小さな目が爛々と輝いた。先程ヴォルデモートがイリスに与えようとした、目も眩むような褒美の数々が、心の中で魅力的なダンスを踊る。しかし、いかにワームテールとて身の程は弁えているつもりだった。――自分はイリスではない。実際にそれほど高貴なものは貰えないだろうが、それに準じるものはあるかもしれない。何せ自分だけが他の薄情者達と違い、闇の帝王を助けたのだから。胸を張るワームテールに、ヴォルデモートは優しく言葉を続けた。

 

「お前の褒美はもう決まっている。”()()()()”だ。嬉しかろう?」

 

 ワームテールはヴォルデモートの言った事が信じられなかった。――今、彼は何と言った?彼を助けた自分に、”磔の呪文”を褒美として与えるだと?これは一体、何の冗談だ?余りの事にワームテールは現実を受け入れる事が出来ず、掠れた声でこう言った。

 

「我が君、それは一体どういう・・・?」

「お前は自分の命惜しさに、娘に”磔の呪文”を何度も掛けた。そうだな?」

 

 ヴォルデモートの声がとたんに冷たくなった。周囲にゾッとするような冷気が立ち込め、闇の帝王から迸る、凄まじい憎悪と怒気は、彼の体をどす黒く染め上げて、一回りも大きく膨れ上がらせた。その容貌は、まるで神話に登場する魔王そのものだった。ピーターは言葉もなく震え上がり、腰が抜けて立ち上がる事も出来ず、這いずりながらその場から逃げ出そうとしている。

 

「お前は俺様の”大切なるもの”を許可なく傷つけた。本来なら命を奪うところだが、お前は俺様を助けた。俺様の寛大なる心をもって、娘が受けたのと同じ回数だけ、呪いを掛ける事で許すとしよう」

 

 ワームテールは感謝するどころか、ますます震撼してヴォルデモートを仰ぎ見た。――今、彼は肉体と共に完全な力を取り戻している。今までの不完全で弱々しかった時と現在とでは、同じ”磔の呪文”でも効果の度合いが全く違う。ワームテールの貪欲に救いを求める目は、やがて戸惑うようにこちらを見つめているイリスと克ち合った。

 

「イリス!助けてえええええっ!」

 

 ワームテールは無我夢中でイリスの足下にむしゃぶりついた。――きっとこの子は僕を守ってくれる。ルシウスを死の淵から救ったように。ワームテールは滑らかな少女の足に頬を擦り付け、安堵の涙を流した。少女の傍は、まるで強力な防護の結界内にいるかのように暖かく、心地が良かった。

 

 イリスはかつて散々ワームテールに痛めつけられたと言うのに、彼を哀れに思い、激昂して杖を振るおうとするルシウスとノットを押し留め、ヴォルデモートに言い募った。

 

「陛下、どうかご慈悲を!彼はただ、死の恐怖に怯えていただけなのです」

「娘の耳と目を塞げ、ルシウス」ヴォルデモートはイリスを無視した。

「どうやらそれは、生きて動くものなら何でも助けたがる性分らしい」

 

 イリスの願いは、今度は聴き入れられなかった。ヴォルデモートが杖を振るうと、ワームテールは狂ったように泣き喚きながら、イリスから乱暴に引き剥がされ、地面に叩きつけられてクシャクシャになって転がった。思わず駆け寄ろうとしたイリスをルシウスが素早く抱き締めて、”防音魔法”を掛けた自らのローブで包み込んだ。

 

「我が君!どうかご慈悲を!」ワームテールは泣き叫んだ。

「慈悲なら充分に与えているではないか、ワームテール」ヴォルデモートは残忍な笑いを浮かべ、杖先を向けた。

「クルーシオ、苦しめ!」

 

 かくして処刑が始まり、墓場じゅうを埋め尽くすほどの――凄まじい悲鳴が響き渡った。同じ”磔の呪文”でも、先程エイブリーが受けたものと、現在ワームテールが受けているものとは全く程度の度合いが異なるようだった。ワームテールは正しく磔のように四肢をピンと突っ張って、顔じゅうに血管が浮いて真っ赤に染まり、目玉と舌が限界まで飛び出している。やがてヴォルデモートが杖を上げると、ピーターは血の混じった泡と涎を周囲にまき散らしながら、必死に叫んだ。

 

「殺してくれ!誰か、僕を殺してくれ!殺してくれ!殺し・・・」

 

 ピーターはこの場にいる人間が誰も自分を殺してくれないと判断したとたん、舌を噛み切ってこの世から逃げ出そうとした。しかしそれよりも早く、ヴォルデモートが放った次の呪いが襲い掛かった。まるで地獄絵図のようなその光景を目の当たりにして、死喰い人達は皆恐怖に凍り付き、身動き一つ取る事が出来なかった。――あれほどに生に執着していたワームテールが、たった一度の”磔の呪文”で迷わず死を選んだ。

 

 ――それはヴォルデモートによる、死喰い人達への見せしめだった。イリスの懇願により自分達が許されたと思い、だらりと緩み切っていた彼らの気は再びギュウギュウに締め付けられた。イリスを手中に収めた事により、ヴォルデモートが慈悲深くなったわけではない。彼が慈悲深いのは、彼女に対してだけだ。そして万が一にもイリスを傷つければ・・・地獄のような惨劇が自分を待っている。

 

 十数度目の呪いを掛け終えると、ヴォルデモートはやっと杖を上げた。――そこには息づく()()()があった。それはかつてピーター・ペティグリュー、通称ワームテールと呼ばれた魔法使いだったが、今や、度重なる拷問で心と魂が粉砕されてしまい、”磔の呪文”を受ける前と全く変わらない姿である筈なのに、最早人間とも思われない()()()()()()()()に見えた。死喰い人達は恐怖の波に飲まれ、しんと静まり返り、誰も笑わなかった。ヴォルデモートは慈悲深い声でこう言った。

 

「よう頑張った、ワームテール。お前は罪を償ったのだ」

 

 ワームテールはよろよろと起き上がり、お礼を言った。しかしその声は前と変わらない彼自身のものである筈なのに、人の言葉にすら聴こえなかった。何人かの死喰い人が耐え切れず、仮面の下で嘔吐した。輪の中に戻ろうと歩みを進めるワームテールを見るや否や、人々はザッと大きく退いた。その様子といまだにルシウスのローブに包まれたままのイリスを交互に見て、ヴォルデモートは少し思案した後、再び杖を振るった。

 

「ルシウス。娘を解放せよ」

 

 見る間にワームテールは空中にふわりと浮き上がり、しゅるしゅると小さく縮んでいき、老いぼれたネズミの姿に変わった。ネズミの姿はごく普通で、人間の時のあの鬼気迫る異常さは見当たらない。その様子を確認すると、ヴォルデモートはイリスの手の中にネズミをそっと落とした。

 

「お前に新しい仕事を与えよう。これからは一匹のペットとして、娘に忠実に仕えるのだ。

 イリス、ワームテールはお前のものだ。いたぶるなり殺すなり、好きにするが良い」

 

 ――それは生涯をネズミの姿で過ごすという、残酷な終身刑そのものだった。ワームテールは弱々しい足取りでイリスの腕を駆け上がり、彼女のローブの胸ポケットにするりと入り込んだ。イリスはルシウスの殺気立った目線からワームテールを守るかのように、ポケットを両手で包み込んだ。

 

 

 ハリーは自分の見ているものを信じる事ができなかった。――イリスがまるで父親のようにヴォルデモートを慕い、その足下に縋り付いている。自分が忠実な従者であるかのように振舞っている。現実を受け入れられないハリーは、やがてこう思った。”イリスは演技をしているのだ”と。クリスマスの劇で、アマータ役を彼女は上手に演じてみせた。きっと仲間の振りをして、逃げ出すチャンスを伺っているのに違いない。

 

 しかし、イリスの()()は何時まで経っても終わらなかった。彼女の素直で優しい性格は残酷なほどそのままに、考え方だけがまるで違っていた。やがてハリーの視線に感づいたのか、ふとヴォルデモートがこちらを見て、勝ち誇ったように残忍な笑みを浮かべた。

 

「ああ、これは失礼した。素晴らしい()()をご招待申し上げていたのに、挨拶もせずに」

 

 たちまち”死喰い人”達の視線が、一斉に自分の方へ向けられた。イリスも振り返って自分を見つめ、果て無い悲哀に満ちた感情で顔を大きく曇らせた。――その時、ハリーは理解した。彼女の瞳は今までと同じように純粋で清らかだった。これは演技ではなく、()()()()()。ヴォルデモートは芝居がかった動作でハリーを指示し、口を開いた。

 

「皆にご紹介申し上げよう。至誠のしもべの働きにより、ハリー・ポッターが俺様の蘇りのパーティにわざわざご参加くださった。・・・そう言えば、イリス。お前と彼は友人の間柄だったな?」

 

 ヴォルデモートが何気ない口調でそう尋ねると、イリスはその場に跪いて、弱々しく泣きじゃくり始めた。――イリスの中で、唯一無二の親友であるハリーを大切に想う気持ちと、ヴォルデモートを屠った最大の敵と親しくなってしまったという罪悪感が綯交ぜになり、嵐が巻き起こって小さな心臓をズタズタに引き裂いた。イリスが一番叶えたかった願いは、”ハリーの存命”だった。ハリーがここに連れて来られたという事は、彼がヴォルデモートに殺されるのと同義だ。しかしそんな事を、陛下に乞い願える筈もない。

 

「ハリーはとても大切な親友です。私は彼を兄のように慕っております」イリスは歯を食い縛って応えた。 

「ポッターの命乞いはせぬのか?」ヴォルデモートが優しく尋ねた。

「どうしてそんな事ができるでしょう」

 

 イリスはしゃくり上げながら、小さく頭を振った。――こんなに辛い思いをするなら、仲良くなるんじゃなかった。今までハリーと過ごしてきた素晴らしい思い出の数々が、イリスの脳内を駆け巡っていく。『ハリーを助けたい』――『だけど、そうする事などできない』――相反する強い感情に責め立てられ、イリスは堪え切れずに地面に突っ伏して、ますます嘆き悲しんだ。

 

「実に賢明な判断だ、イリス」

 

 ヴォルデモートが小気味良さそうにそう言って、青ざめた蜘蛛のような手で少女に触れた瞬間、ハリーの感情が音を立てて爆発した。――君は、正気なのか。君に今、ベタベタと触れているこいつのせいで、僕達の両親やセドリックが死んだ。それだけじゃない。世界中の人々を傷つけて殺し、君を散々に苦しめた”悪の親玉”なんだぞ!ハリーは無我夢中で拘束具を噛み千切り、悲壮な声で叫んだ。

 

「イリス、目を覚ませ!君はそいつに操られているんだ!」

 

 ヴォルデモートは恐ろしい顔を仰け反らせ、高笑いした。――まるで素晴らしくユーモアに満ちた、世界で一番愉快で面白い喜劇を観たかのように。周囲の”死喰い人”達もゲラゲラと笑い転げている。ヴォルデモートはハリーに見せ付けるように、小さなイリスを腕の中に閉じ込めてから、優越感に満ちた声でこう言い放った。

 

「ポッター。娘はもう()()()()()のだ。今までが()()()だったのだよ」

「黙れ、お前の言葉なんて信じないぞ!汚い手で、イリスに触るな!」ハリーは我武者羅に吼えた。

「イリス、目を覚ますんだ!呪いなんかに負けるな!一緒に・・・一緒に、ホグワーツへ帰ろう!」

 

 墓石に縛り付けられたまま、子犬のように吼え続けるハリーを見て、ヴォルデモート達はますます笑い転げた。しかしその声はローブを通過して、イリスの耳へ確かに届いた。親友の魂の叫びは、鼓膜から脳に突き刺さり、脳から心臓へ急降下していく。そしてその更にまた奥へと――




フロド様、あと二話書けば完結です!滅びの山はもうすぐです!

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