ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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※作中に一部、残酷な表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。

≪オリジナル登場人物紹介≫
●プロセウ・コマイ
聖マンゴに勤める魔法薬学者。グリーングラス家のかかりつけ学者。ギリシャ人。


Petal8. 愛の炎が君を守る』

 ハリーが四人目の代表選手となったその夜から、学校じゅうの生徒達の彼を見る目は、明らかに様変わりしてしまった。――ロンの”鶴の一声”で、去年のイリスの事件を思い出して反省したのはグリフィンドール生だけだ。他の寮生は皆、ハリーがゴブレットに名前を入れたのだと思っていた。いつも寮同士で仲の良いハッフルパフ生は、グリフィンドール生全員に対してはっきり冷たい態度に出た。「薬草学」の授業でグループを組んだ時、同級生のジャスティンはずっとこちらを無視していたし、”蛙チョコカード交換会”でもハッフルパフ生は皆、イリス達グリフィンドール生からの交渉だけをバシッと拒否した。

 

 しかし、彼らの怒りは最もだった。ハッフルパフ寮は他の三つの寮と比べ、滅多に脚光を浴びることがないとされている。だがそれは、一部の人々が揶揄するように『ハッフルパフ生が他の寮生より劣っている』からではない。彼らは皆、名声や権力よりも、忍耐強さや人を思いやる気持ちこそが人生において一番大事だと分かっていた。だからその信念に従い、長い間、表舞台に立とうとしなかっただけなのだ。だが今年、”三校対抗試合”におけるホグワーツの代表選手として、ハッフルパフの監督生、セドリック・ディゴリーが選ばれた。やっと巡って来た千載一遇のチャンスに、彼らは残らず立ち上がり、狂喜乱舞した。――ゴブレットが四人目の代表選手となる、ハリーの名前を吐き出すまでは。

 

 元よりハリーを快く思っていなかったスリザリン生は、今まで以上に彼をからかうようになった。賢明な生徒が集う事で知られるレイブンクローでさえも、ハリーがさらに有名になろうと躍起になって、ゴブレットを騙して自分の名前を入れたと思い込んでいる様子だった。そんなわけで、グリフィンドール生以外の人々は皆、ハリーが通りすがると、特大の”尻尾爆発スクリュート”を目撃したかのように大騒ぎするようになってしまったのだった。

 

 四人はほとほと疲れ果て、せめてランチの時くらいは人目につかない場所でゆっくり休もうという事で意見がまとまり、ハーマイオニーが用意してくれたバスケットにご馳走をたっぷり詰め込んで、素早く玄関ホールを通り、急ぎ足で芝生を横切って、湖のほとりに座り込んだ。ほとんどの生徒はランチを摂るために学校にいるようで、湖の周りに人気はない。四人はホッとして肩の力を抜き、バスケットの中身をゴソゴソ探り始めた。湖の岸辺には、ダームストラングの船が繋がれ、水面に黒い影を落としている。

 

「つまり、何にも学んでないのよ。イリスを巡って起きた、去年の出来事からね」ハーマイオニーが憤懣やる方ない口調で言い放った。

「ロックハートの本の内容を鵜呑みにしてイリスを疑って、今度はゴブレットからハリーの名前が出てきただけでハリーを疑って!物事の上辺だけを見て、騒ぐのが大好きなお子ちゃまたち!少しは考えるって事をしないわけ?」

 

 ハーマイオニーの叱声に驚いて、イリスは思わずレーズンパンを地面に落としてしまった。慌てて拾い上げて土を払い落とし、こっそり食べようとしたイリスの試みは、ハリーパパによって阻止された。彼は”全く油断も隙もない”と言わんばかりの顔つきで、彼女の手からパンをそっと取り上げ、湖に放り投げる。パンはしばらくの間、水面にプカプカと浮いていたが、すぐに吸盤つきの太い足が一本空中から伸びて来て、さっと拾って水中に消えていった。

 

「いつものことだし、気にしないさ。僕はね」

 

 ハリーは肩を竦めて言い、バスケットから新しいレーズンパンを取り出して、イリスに手渡した。ダーズリー家という戦場でソルジャー並みに鍛え上げられた彼の心は、ハッフルパフ生顔負けの忍耐力を誇っていた。おまけに彼には、如何なる時も自分を信じてくれる、心強い戦友たちがいる。ハリーは深い緑色の目を優しく細め、彼らをじっと眺めた。

 

「それに君達がいてくれるしね」

「そうだぜ」ロンはチキンの骨を湖に放り投げながら、言った。

「少なくとも、グリフィンドールは君の味方さ。だろ?」

「ええ、貴方のおかげでね」ハーマイオニーは頬を赤らめ、ロンをちらりと横目で見て、微笑んだ。

「やあ、ここにいたのか。ハリー」

 

 ふと後方から明るい声がして、四人は一斉に振り返った。――ルード・バグマンだ。以前とはまた違った色合いではあるけれど、相変わらず派手なデザインのローブに身を包んで、ニコニコと笑っている。バグマンはイリスと目が合うなり熱烈なウインクをよこしたので、彼女はまた吹き出してしまった。それから彼は弾むような足取りでハリーに近づくと、グイッと腕を掴んで立ち上がらせた。

 

「さあ、行こうハリー。これから”杖調べ”の儀式がある」

「”杖調べ”?」

 

 聞き慣れない言葉に四人が揃って首を傾げていると、バグマンは快活に笑い、爽やかな口調で教えてくれた。

 

「”杖調べ”とは、三校対抗試合に出場する代表選手の杖が、万全の機能を果たしているかどうかを調べる儀式だよ。杖はこれからの課題に最も重要な道具なんでね」

 

 かくしてハリーはバグマンに連れ去られ、イリス達が大広間で夕食を摂っている頃に、憔悴しきった顔で帰ってきた。――ハリー曰く、”杖調べ”の儀式はオリバンダー老人の手により滞りなく進められ、彼の杖に問題は見当たらなかった。しかし、()()()()()はその後だった。かつてクィディッチ・ワールドカップで起きた”闇の印”事件や、いまだ行方不明の魔法省職員、バーサ・ジョーキンズ事件を散々にこき下ろして書き、魔法省を”吼えメール”の海に沈めたとされる恐怖の新聞記者、リータ・スキーターその人が現れたのだ。

 

 もれなくハリーは彼女に捕まり、インタビューを受ける羽目になった。――イリスはアーサーが、スキーターの事を『でっち上げの中傷記事が大得意なフリーライターだ』と言っていたのを思い出した。アーサーの表現はそのものずばりだった。彼女が操る魔法仕掛けの”自動速記羽根ペンQQQ”は強敵で、インタビュー中、ハリーはほとんど口を開かなかったのに、ずっと羊皮紙上をスケート選手のように軽やかに動き回り続け、ダンブルドアの介入によってインタビューが強制終了される頃には、優に羊皮紙数巻き分もの記事を書き上げていたのだと言う。

 

「あの人、最初から最後まで、僕の話を全然聞きやしない。自分でストーリーを作ってるんだ」ハリーはうんざりしながら、かぼちゃジュースのジャーを取った。

「今度はホグワーツが”吼えメール”の海に沈むかもね。まったく、お楽しみだ」

 

 

 翌日の昼過ぎ、イリスはハーマイオニーと共に「数占い学」の教室へ向かっていた。二人で占いに関連した数字を諳んじながら、廊下の角を曲がると、マクゴナガル先生にばったり出くわした。彼女は両腕に沢山の書物を抱えていて、厳格な眼差しでイリスを射抜くと、確かな足取りでこちらへ近づいて来た。

 

「ミス・ゴーント。探していました」マクゴナガル先生がそう言うと、二人は不安そうに視線を交わし合った。

「今すぐ、医務室へ向かいなさい。聖マンゴの方から、あなたへ大切なお話があるそうです。「数占い学」の授業は特別に免除するようにと、私から先生に伝えておきます」

 

 『どうして聖マンゴの人が、私に大切な話があるんだろう?』、イリスは頭上に無数のクエスチョンマークを浮かべながらも頷き、ハーマイオニーに後で授業のノートを見せてもらうように頼んでから、医務室へ急いだ。やがて辿り着いた彼女が、息を弾ませながら扉を開けると、そこにはマダム・ポンフリーとライム色のローブを着た知らない男性、そしてルーピン先生がいた。

 

「ルーピン先生!」

 

 イリスが明るい声を上げて近づくと、ルーピンは疲れた顔に優しい笑みを浮かべ、彼女を優しくハグして頭を撫でてくれた。彼はシンプルではあるが、上質な造りのマントを着込んでいて、髪もこざっぱりと整えられ、白いものが目立つ事はなかった。たったそれだけで、彼は随分と若返って見えた。

 

「久し振りだね、イリス。だが、もう私は()()ではない。どうかリーマスと呼んでくれ」リーマスは照れ臭そうに笑った。

「あなたがミス・ゴーントですね?」

 

 ふと名前を呼ばれて、イリスは声のした方に顔を向けた。――リーマスの隣には、先程のライム色のローブを着た魔法使いが立っている。縮れた黒髪と褐色の肌が特徴的で、黒縁眼鏡に縁取られた理知的な瞳が、イリスを興味深げに眺めていた。リーマスは気さくな調子で彼の肩に手を置き、紹介してくれた。

 

「紹介するよ。聖マンゴで勤務する魔法薬学者、プロセウ・コマイ氏だ」

「よろしく、ミス・ゴーント。お会いできて光栄です」プロセウは手を差し出した。

「初めまして、コマイさん。イリス・ゴーントです」

 

 イリスは快く応えた。二人が友好的な握手を交わす様子を静かに見守りながら、リーマスは言葉を続ける。

 

「私はダンブルドアの命を受け、君の呪いを治す方法を探しているんだ。その時にプロセウに出会った。彼は、”君の血”について研究がしたいと言っている」

 

 イリスは驚いて、思わずリーマスを仰ぎ見た。――まさか彼が自分の呪いのために頑張ってくれているなんて、知らなかった。プロセウは興奮した様子でイリスの手を握り、熱心な口調で言った。

 

「あなたに流れる”出雲家の血”は、我々が手の施しようがないほど、強力な闇の呪いの進行を何年も遅らせた。今もその血の力は弱まってはいるものの、依然として君を守り続けている。

 ”出雲家の血”は、”呪い全般に対する特効薬”になりえるかもしれない。あなたの存在は、魔法薬の歴史を大きく変えるでしょう。ぜひ聖マンゴに来て、私達に協力していただきたいのです」

 

 イリスは茫然となり、二の句が告げなかった。私の中に流れる”出雲家の血”が、呪い全般に対する特効薬になるかもしれないだなんて。プロセウは知的好奇心がみなぎり、今にも爆発しそうなほど高まった声で、リーマスの持つ人狼の呪いや、許されざる呪いを受けて心身を壊した者にも効果はあるのだと説いてみせた。イリスはまだ見ぬネビルの両親を思い描き、大いなる期待に胸を膨らませた。

 

 その時、ふと心の片隅にある光景が引っかかった。ホグズミード村のマダム・パディフットのカフェで、ドラコとアステリアがカップル専用のメニューを見て、恥ずかしそうに笑っている様子だ。彼女は慌てて首を横に振ってそれを追いやると、「協力します」と応えた。

 

 しかし、リーマスとプロセウは戸惑ったような表情を浮かべて、イリスを見ているばかりだった。――あれ、おかしいな。彼女は首を傾げた。私の声が聴こえなかったのかもしれない。もう一回言わなきゃ。イリスは慌てて息を吸い込んで、口を開いた。

 

()()()()

 

 ――イリスは自分の放ったその言葉を聴いて、愕然とした。「協力します」と言ったはずなのに、何故「いやです」と言ったんだ?まるで自分の意志と反した言葉を口走ってしまう呪いを掛けられてしまったような思いがして、彼女はひどく狼狽して立ち竦んだ。一方のプロセウはしばらくの間、何かを考え込んでいたが、やがて優しい声でイリスにこう言った。

 

「心配しないで。君の血を少し採取するだけで、それは痛くもなんともないんだ。怖がる必要はないんだよ」

「そういうことじゃない」

 

 突然、イリスの口が勝手に動いて話し始めた。もう止められなかった。

 

「あなたは、私の呪いを『我々の手の施しようがないほど、強力な呪い』だと言った。他の呪いは私の血で治せても、メーティスの呪いだけは無理だということ?私のことはどうだっていいの?」

 

 『違う、違うんだ!』イリスは心の中で、必死になって叫んだ。こんな意地悪なことを言いたいんじゃない!だけど、彼女がいくら大きな声で叫んでも、その声は喉の奥でダムのように塞き止められ、口から飛び出す事はできなかった。やがて彼女はハッと思い出した。

 

 ――今の状況と同じ事が、以前にもあった。『きっと”闇の帝王”が自分に取り憑いて、こんな酷いことを言わせているに違いない』、イリスはそう思い込み、今にも爆発しそうに高ぶっている、自分の”本当の気持ち”を力任せに押し退けた。

 

 プロセウは自分の言葉が原因で彼女を傷つけてしまった事にやっと思い至り、慌てて少女の肩の手に置いた。その温もりは思いのほか優しく感じられ、次の瞬間、イリスの体は再び自由を取り戻した。

 

「ごめんなさい!」

 

 イリスは突如として、両目が溶けるほどに熱くなったと感じ、涙がボロボロと零れ出していくのを止める事が出来なかった。

 

「私、こんなことを言うつもりじゃ・・・」

「こちらこそ本当にすまなかった!」プロセウは土下座をする勢いで、心から謝った。

「私が無神経だった。君の呪いだってもちろん・・・」

 

 その時、どこかから少女の小さな泣き声がして、三人は一斉に振り向いた。医務室にあるベッドの一つにカーテンが引かれていて、泣き声がそこから聴こえている。イリスはその声の主を知っているような気がして、言いようのない不安を感じ、胸がざわざわと騒いだ。

 

「ミス・グリーングラス」マダム・ポンフリーが困り果てた様子で、泣き声の主に声を掛けた。

「カーテンを開けてはいけないと言ったでしょう。・・・”防音の魔法”が解けてしまったわ」

 

 ――イリスの不安は的中した。彼女はもう我慢できず、プロセウ達の制止を振り切って、医務室を飛び出した。彼らは追ってこなかった。

 

 

 その頃、ドラコは「占い学」の授業を受けていた。暖炉から立ち昇る甘ったるい匂いがまとわりつき、カーテンは閉め切られ、円形の部屋はスカーフやショールで覆った無数のランプから出る赤い光で、ぼんやりと照らされている。そこかしこに置かれた布張り椅子の一つに腰掛け、ドラコはトレローニー先生の霧の彼方から聴こえるような声をぼんやりと聞き流していた。

 

 ――イリスが自分の記憶を消したという可能性に行き至ってから、彼の心はずっと暴れ柳のように荒れ果てていた。きっとイリスはポッターを愛していて、僕が邪魔だから記憶を消したんだ。ドラコはそう思い、ポッターへの憎しみをますます募らせた。どうせ”炎のゴブレット”だって、目立ちたがりのあいつが名前を入れたに決まっている。

 

 だが、ドラコは諦めなかった。イリスがポッターに心変わりしたとしても、またその心を僕に戻せばいいだけだ。――ただ、あいつだけは許さない。かくしてドラコは憎っくき恋敵に報復するため、父に頼んで、お騒がせ新聞記者であるリータ・スキーターを買収し、ポッターについて少し()()()()()()の記事を書くようにと依頼したのだった。図らずも、彼はかつての父と同じ手口を使って、偽りの情報で人を陥れる方法を選んだのである。

 

 リーターは非常に優れた諜報能力を有していて、たった数日でハリーと彼を取り巻く人間関係を調べ上げた結果、()()()()()()をドラコに教えてくれた。なんと『ポッターとイリスは付き合っていない』と言うのだ。『ハリーはイリスに熱を上げているが、イリスには全くその気がない』とも。それを聴いたドラコは、どれほど安心したか分からない。けれど、今度は違う疑問がムクムクと頭をもたげた。――それなら何故、彼女は僕の記憶を消したんだ?

 

 ドラコが深い思案に暮れる一方で、トレローニー先生は熱に浮かされたような覚束ない足取りで教室内を歩き、生徒達を見回していた。生徒達はみんな居眠りをしたり、テーブルの下で他の授業の宿題をすることで精一杯だったが、トレローニー先生も自己陶酔に浸ることで精一杯だった。彼女はいつもの特徴的な囁き声で、今回の授業内容について話し始めた。

 

「みなさま、ついに”未来視”を学ぶ時が来ました。・・・ああ、ミス・パーキンソン。教科書を閉じなさい。これはそれに載っていることではございませんわ」

 

 トレローニー先生はパンジーが開き始めた教科書を見咎め、わずかに首を振りながら、たしなめるような口調でそう言った。――パンジーが複雑そうな表情で閉じたのは「変身学」の教科書だった。彼女は次の時間に始まる「変身学」の予習をしたかったのだ。最早スリザリン生達のちょっとした自由時間と化している現状を知る事無く、トレローニー先生は悦に入った口調で話を続ける。

 

「そう、”未来視”とはその名の通り、”未来の映像を見る能力”の事。残念な事ですが”未来視”は魔法省の認可が下りなかったため、正式な存在ではありません。かの有名な神秘部は『真の未来を指し示すのは予言のみである』と証言しました。”未来視”は不可解な白昼夢に過ぎないと。しかし、あたくしは信じております。”未来視”は本当にあるのです」

 

 トレローニー先生は、暖炉の傍でふと立ち止まった。ごってりと身に付けたビーズやチェーン、腕輪が、暖炉の光を受けてキラキラと輝いている。今や誰一人としてその話に耳を傾けている者はいないが、彼女はそんな事を気にもせず、ますます巨大な眼鏡に縁取られた大きな目を悲劇的に輝かせ、口を開いた。

 

「かつて、あたくしにそのことを教えてくれた魔女がいました。ちょうどあなた達と同じ学年のグリフィンドール寮に彼女の血を受け継ぐ者がいましたが・・・残念ながら、彼女はここから永久に去ってしまった。()()()()()に耳を貸してしまったのです」

 

 ”グリフィンドール寮”、”同じ学年”、”彼女”――ちょうどイリスの事を考えていたドラコにとって、それらの言葉は彼女の事を連想させるのに最適なものばかりだった。たちまち彼の意識は覚醒し、椅子から勢い良く体を起こし、トレローニー先生を見つめた。

 

「それは誰です?」ドラコは素早く周囲に視線を巡らせ、誰もこちらに注意を向けていない事を確認してから、小さな声で尋ねた。

「イリス・ゴーントですわ」トレローニー先生はうっとりとした声で応えた。

「彼女の母、エルサ・ゴーントは優れた”未来視”の才能を持っていました。エルサは在学中、”未来視”について素晴らしい論文を書き残しています。本来出会うべきではなかった、あたくしと彼女との運命的な出会いをお話しいたしましょう。それは今から・・・」

「その論文はどこに?」

 

 ドラコはバッサリと話の腰を折り、鋭い口調で尋ねた。トレローニー先生のいつ終わるか分からない”なれそめ話”を我慢して聞いているより、実際に論文を読んだ方がずっと手っ取り早くて確実だ。彼女はせっかくのお楽しみを邪魔され、明らかにイライラした様子だった。それからいつもの間延びしたかすかな声音とは打って変わった、きっぱりした声でこう言い放った。

 

「図書館にあります。場所はマダム・ピンズに訊くと良いでしょう。そろそろ、本題に戻って良いかしら?さあ、”未来視”とは・・・」

 

 

 終業のチャイムが鳴った瞬間、ドラコは梯子を急いで降りて、夕食も摂らずに図書室へ向かい、マダム・ピンズにエルサが書き残した論文について尋ねた。”未来”に関する書物を集めた区域の片隅に、それはひっそりとあった。夢中でその本を取ろうとした時、横からすっと白い手が伸びて来たので、ドラコは驚いて身を引いた。――スリザリンの下級生、アステリア・グリーングラスだ。彼女もちょうど同じ本を手に取ろうとしていたようだった。アステリアの目は泣き腫らした後のように、少し赤かった。しかし彼女はそれでも気丈に微笑んで、スカートの裾を摘まんで一礼した。

 

「こんにちは、ドラコ」

「ああ、アステリア」

 

 ドラコは見知った顔に少しばかりホッとしながら、挨拶に応えた。二人は家同士の繋がりもあり、顔見知り以上の関係だった。アステリアは両腕に書物をどっさり抱えている。そんな彼女に断りを入れて、目当ての本を棚から抜き取ると、ドラコは改めて彼女をじっくりと見つめた。彼女が所持している本の内容は、いずれも”未来”に関するものだった。

 

「君はこういったことに興味があるのか?」ドラコは本を軽く振ってみせ、問いかけた。

「ええ。自分の将来がどうなるのか、とても気になるから」

 

 アステリアの言葉を聴いて、ドラコは納得がいったように小さく頷いた。――アステリアは病弱な体質で、小さな頃から聖マンゴに入退院を繰り返していた。彼女の姉であるダフネ・グリーングラスは同じ寮の友人だが、彼女から『アステリアは一族の先祖に掛けられた呪いが先祖返りしたのだ』という事を聞いている。ドラコはアステリアから書物の山を取り上げると、空いていたテーブルに運んであげた。

 

 その時、書物の隙間から、分厚い羊皮紙の束がピョコンと飛び出しているのを見つけて、ドラコは思わず目を凝らした。大きなクリップで留められたその羊皮紙の下部には、聖マンゴのエンブレムが捺してある。何度も読み返されているのだろう、羊皮紙の四隅はいずれもボロボロに擦り切れていた。やがてドラコはその中の一文に目を吸い寄せられる事となる。

 

()()()()()()()()に流れる”出雲家の血”の可能性は・・・』

 

 しかしドラコがそれ以上を読み込もうとする前に、アステリアが素早くそれを取り上げて、抱え込んでしまった。彼女は強い警戒心に満ちた表情で、ドラコを見つめている。

 

「イリス・ゴーント、僕と同学年のグリフィンドール生だな。どうして彼女の名前が、聖マンゴの公的資料に載っているんだ?」ドラコは努めて冷静になろうとしながら、問いかけた。

「どうかこれ以上、何も聞かないで」

 

 アステリアは恐怖に震える声で言い放った。――自分の不注意のせいで、イリスの秘密を他者に見せてしまったのだ。医務室で見た彼女の苦悩が思い起こされ、アステリアはギュッと唇を噛み締めた。

 

「彼女のプライバシーに関わる事です」

「アステリア」

 

 だが、ドラコは許さなかった。イリスに関する”新たな情報”を握っている人物が、目の前にいるのだ。どんな手段を使ってでも、彼はその情報を手に入れるつもりだった。ドラコは至って冷静な眼差しで、アステリアを値踏みした。彼にとって実に幸いな事に、グリーングラス家よりもマルフォイ家の方が位は高い。おまけに彼女のかかりつけ病院である聖マンゴには、父が定期的に多額の寄付金を送っている。その事に思い至った彼は冷たい笑みを浮かべながら、こう言った。

 

「今まで通り、聖マンゴで治療を受けたいだろう?グリーングラスの家名に不要な傷を付けられたくないなら、僕に知っている事を話せ」

 

 余りにひどい恐喝の言葉に、アステリアは青白い顔を怒りに染め上げて、ドラコをキッと睨んだ。それでも彼女はしばらくの間、思い悩んでいるかのように口を閉ざしていたが、ドラコがわざとらしく咳払いをすると、やがて観念したように浅い溜息を吐いて、ゆっくりと話し始めた。

 

「私のかかりつけ学者、コマイから、『イリスは非常に強い”血の呪い”を受けている』と聞きました。たった一つの条件を満たすだけで宿主を死に導く、とても恐ろしい呪いです。

 しかし彼女に流れるもう一つの家系の血は、長らくの間、その呪いの進行を食い止めていました。コマイは、その血こそが”他の呪いを壊す力”を持っていると言い、イリスに協力を要請しました。けれどイリスは協力を断った。それから、泣いて苦しんでいました。

 その様子を見て、私は自分が恥ずかしくなりました。自分のことしか考えず、優しい彼女が協力することが当たり前だって思っていた。・・・彼女も私と同じ苦しみを抱いていたのに。きっと彼女はあの時、こう思っていたんだわ。『どうして私だけ辛い思いをして、みんなは平和に生きられるの』って」

 

 アステリアはそう話し終えると、やがて強い自責の念に堪えられなくなったのか、静かに泣き出した。その肩に手を置いて慰めながら、ドラコは思いを馳せた。――イリスはとても強い呪いを掛けられている。アステリアは”イリスが苦しんでいる”と言った。ポッターを愛していないなら、僕への気持ちは消えていない筈だ。どうして僕に助けを求めずに、記憶を消した?ドラコはイリスが何を考えているのか、分からなくなった。彼は縋るような目で、手元にある本を見た。”未来視について エルサ・イズモ著”――そう銘打たれた本は、まるで彼の気持ちに応えるかのように優しく輝いて見せた。

 

 

 その様子を、静かに見つめている者がいた。――イリスだ。医務室を飛び出した彼女は、終業のチャイムが鳴るのを待ってハーマイオニー達と合流を果たし、彼女立ってのリクエストで図書室へ来ていたのだった。詳しい状況は遠く離れていて良く分からないけれど、アステリアが泣いていて、それをドラコが慰めているのはしっかりと理解できた。

 

 ――きっとアステリアは、さっきの自分の事を言っているのだろう。余りの申し訳なさに、イリスは小さく縮こまった。アステリアを傷つけてしまった。ドラコは自分の事をますます嫌うに違いない。そしてかつて見た”未来の映像”の通りに物事が進むとしたなら、これから二人は付き合い始めるんだ。

 

 ハリーは「占い学」の宿題のために”悲劇的な魔法使い・魔女の人生百選~あなたは涙なしではいられない~”を熱心に読み、羊皮紙に使えそうなネタを書き写していたが、自分の向かいに座るイリスが小さくすすり泣いているのを聴き、驚いて顔を上げた。――彼女の澄んだ目は、じっと一点を見つめている。急いでその方向を見たハリーは、露骨に顔をしかめた。マルフォイだ。知らないスリザリン生の女の子と一緒にいる。

 

 その瞬間、ハリーの心を恐ろしい考えがよぎった。――あいつとイリスが関係を断ってから、もう一年余りが過ぎた。それなのにイリスはまだあいつの事を愛しているのか?ハリーの心身は激しい嫉妬の炎で燃え盛り、彼はすぐさま席を立ち上がると本を返却棚に入れ、SPEW関連の本を熱心に閲覧しているハーマイオニーと彼女の本持ち役となっているロンに”先に大広間へ行く”と断りを入れてから、イリスの背後に立つと両手を伸ばして視界を優しく塞いだ。

 

「イリス、行こう。僕、お腹が空いちゃった」

 

 我に返ったイリスが見上げると、大好きな親友の暖かな緑色の目が自分を見下ろしている。二人は仲良く図書室を出た。夕食を摂りに大広間へ向かう道すがら、ハリーはやけに明るい声で言った。

 

「ねえ、そう言えば昨日、レイブンクローのテーブルにマカロン・タワーが出てたんだ。もし今日また出てきたら、こっそり持って来てあげる。一緒に食べようよ」

 

 イリスは親友の思いやりに応えるため、頑張って微笑んで見せた。

 

 

 やがてハーマイオニーとロンも合流し、四人はあれこれと話をしながら夕食を摂った。イリスはいつもの通りに沢山食べ、ハリーがレイブンクロー生に頼んで(というよりも、彼が話しかけたとたんに皆、ざっと引いたので、ろくに会話もできなかった)、もらってきたマカロン・タワーを食べた。歯が解けるほどに甘いと聞いたマカロンは、不思議と味がしなかった。

 

 夕食を終えた後、イリスとハーマイオニーは寮の自室へ行ってお風呂セットの入った袋を掴み、シャワールームへ向かった。監督生以外の生徒には男女別の大型シャワールームが用意されていて、消灯時間までにそこへ向かう必要があった。イリスはなんとか空いている個室を確保すると、カーテンを閉め、蛇口を捻った。

 

「イリス、シャンプーハットをちゃんと着けた?忘れちゃダメよ」

 

 右の個室からハーマイオニーの声がした。――まるでお母さんみたいだ。すかさずその声を聴きつけた、左の個室にいるラベンダーがクスクス笑っている。イリスは恥ずかしくなって、慌てて言った。

 

「い、今から着けるから!」

 

 イリスは急いで自分の袋を探り、シャンプーハットを取り出した。――その時、自分の右腕が視界に入って、イリスはピタリと動きを止めた。ちょうどスネイプ先生の薬の効果が切れたのか、じわじわと”闇の印”の輪郭が形を成し始めている。イリスはアステリアと初めて会った時に見た、彼女の滑らかな白い膚を思い出した。制服越しでも分かるほど傷一つない、綺麗な身体だった。

 

 ――『他の呪いは私の血で治せても、メーティスの呪いだけは無理だということ?私のことはどうだっていいの?』――

 

 プロセウに投げつけた心無い言葉が、イリスの耳にこだました。――本当は、分かっていた。あれは”闇の帝王”が取り憑いて言わせた言葉じゃない。”自分の本当の気持ち”なのだと。

 

 周囲はシャワーの流れる音と湯気、様々な香り、女の子達のざわめく声で溢れている。みんな笑ったり、喋ったり、恋愛や宿題の事で、一生懸命に頭を悩ませている。――もし私もそんなことを考えるだけでいい、”普通の女の子”だったら。イリスは虚ろな目で、ますますくっきりしてきた”闇の印”を見つめながら、思った。

 

 ――それは決して考えてはいけない事だった。いくら考えたってどうしようもできないし、思考から覚めた時、余計に現実の辛さが襲い掛かるだけだ。だけど、イリスはそうせざるを得なかった。シャワーの音と少女達の声のおかげで、彼女が泣いているのを気づく者は誰もいなかった。

 

 『自分のするべき事は分かっている』――イリスはプロセウの顔を思い浮かべながら、静かに思った。きっとアステリアは未来、私の血から作られた薬を飲んで呪いを克服し、ドラコと一緒におばあちゃんになるまで長生きするんだ。それはとても素晴らしい事だ。おばさんだって、きっと私を誇りに思うはず。イリスはシャンプーハットをギュッと握り締め、自分に言い聞かせた。私の血で皆を助ける事が出来るなら、そうしたい。アステリアだけでなく、リーマスやネビルのご両親も快復するかもしれないんだもの。

 

 『だけど、私はどうなるの?』――その声に反抗するように、イリスの胸の隅っこで、意地悪な声が、惨めに泣き叫んだ。みんなが健康を取り戻し、私に心からのお礼を言って、それぞれの輝きに満ちた人生を歩んでいく。私は同じ場所にずっと取り残されたまま、その様子をぼんやり眺めていることしかできないの?――でも皆の幸せを願うなら、私は決断するべきなんだ。

 

 アステリアにドラコを盗られるのは嫌だった。だけどイリスはアステリアがとても良い子だと分かっていたし、彼女に友情を抱き、助けてやりたいと思ってもいた。どうすることもできない、相反する感情が自分の心臓を滅茶苦茶に傷つけて、イリスは余りの苦しさに呻き、うずくまった。『ドラコ、私を見て』――イリスの叫びは、空しく泡のように弾け、誰に聴かれる事もなく湯気の中に溶けていった。『アステリアじゃなく、私を愛して』

 

 

 その夜、イリスはベッドからむっくりと体を起こした。ルームメイトが寝静まった事を確認すると、杖先をコツンと頭に当て、”目くらまし呪文”を掛け、部屋を出た。透明になった彼女はスニジェットに変身し、談話室の壁のひび割れから外へ出ると、静まり返った学校内を飛び回り、地下牢へ忍び込んだ。

 

 地下牢にはもちろんスネイプ先生はいない。部屋の片隅に目当ての物を見つけると、イリスは人間の姿に戻り、そっと近づいた。――”憂いの篩”だ。またイリスの気持ちが迷った時のためにと、スネイプ先生は”閉心術”の訓練が再開された後も、これを置いていてくれていた。イリスは虚ろな目で、盆の中を覗き込んだ。水面に風が渡るように、表面にさざなみが立ったかと思うと、雲のようにちぎれ、滑らかに渦巻いている。イリスは盆の中に顔を突っ込んだ。

 

 盆の中を満たす銀色の物質の奥は、透明になっていた。――マルフォイ家の屋敷にある、ドラコの部屋が見える。窓際の特等席で、ドラコはイリスに魔法使いのチェスのルールを丁寧に教えていた。カーテン越しに陽光が差し込んで、仲睦まじい二人を優しく包んでいる。氷のように冷たいものがイリスの頭を包んだが、彼女は構わずに盆の両端に手を置いて、ますます顔を近づけた。

 

 その時、誰かが彼女の肩をグッと掴み、後ろに引いた。たちまち過去の思い出は消え去り、イリスは我に返って後ろを振り返り、大きく息を飲んだ。――スネイプ先生だった。ゆったりとした寝用ローブに身を包んでいたが、その目は厳しい怒りに燃えていた。

 

「何をしている」スネイプは低い声で唸った。

「私が”憂いの篩”をここに残したのは、君に気持ちを整理させるためだ。記憶と遊ばせるためではない。君が過去の思い出を乗り越えようとしない限り、いつまで経っても今を生きる事などできないぞ」

 

 スネイプの言葉は理路整然としていて、その正しさはイリスの繊細な心を傷つけた。彼女は所在なく立ち竦み、光を失った目でスネイプを仰ぎ見た。

 

「先生、私は”普通の女の子”に生まれたかった」イリスは掠れた声で呟いた。

「血の呪いもない、平凡な女の子に・・・」

「嘆いたところで、呪いが消える訳でもない」

 

 スネイプは容赦なくピシャリと言い放った。――彼は小さく縮こまるイリスを見守りながら、数日前にムーディと起こした”静かな諍い”の記憶を思い起こしていた。ムーディはカルカロフと同様、元”死喰い人”であるスネイプも警戒していた。彼はスネイプの地下牢と保管庫を抜き打ち調査した後、イリスとの補習授業についても厳しく問い詰め始めたのだ。スネイプがいくら冷静にダンブルドアから許可を受けて行っているという事を説明し、授業の詳細な内容をレポートにまとめて提出しても、ムーディは”甚だ疑わしい”と言わんばかりの目でスネイプを睨み付けるだけだった。

 

 本気になったムーディの手に掛かれば、この授業もいつまで続けられるか分からない。スネイプは強い危機感を抱いていた。限られた日数の中で、少しでも多くの事を彼女に教えなければ。イリスは儚い想いに迷っている時間などないのだ。スネイプはそう思い至り、更なる残酷な真実を彼女に突き付けた。

 

「ゴーント、そろそろ君は”自分の出生”を受け入れる時だ」スネイプはイリスの肩に手を置いた。

「君は”特別な女の子”だ。今までの平凡な生き方を捨て、宿命を受け入れなさい」

 

 ”特別な女の子”、イリスはその言葉を心の中で茫然と呟いた。――今までの平凡な人生を捨てなければ、これから先を生きていく事はできない。呪いが孕む”死の恐怖”に怯えながら、自分の本当に欲しかったものは永遠に手に入らず、善い人々からは警戒され、悪しき人々から狙われ続ける。そんな苦しいばかりの人生が自分の生きる道だと言うのなら、私はこれ以上生きていたくない。

 

 ――その時、イリスはちょうど十四歳だった。その年頃の子供たちは思春期真っ只中にあり、とても多感な時期であることが多い。男女共に成長期でありながら、学校内での社会的な役割も意識するようになり、理想の自分と現実の自分の狭間に立ち、本格的に悩むことだってある。しかし”特別な女の子”であるイリスにとって、そんな子供たちと同じように自分の人生を思い悩むことは、メーティスの呪いを増幅させる、非常に危険な行為に他ならなかった。

 

 イリスは自分の人生に深く絶望した。嘆きはやがて怒りに変わり、そして激しい憎しみの感情へと形を変貌させていく。こんな呪いさえなければ、私はこんな苦しい思いをしなかった。『呪いを作ったのは誰?』、ふとイリスの胸の端っこで、意地悪な声が囁いた。――メーティス・ゴーント、私のお祖母さん。『じゃあ、どうしてメーティスはこんな呪いを作ったの?』、意地悪な声は苦しそうに血を吐きながらも、悲しい笑い声を上げた。

 

()()()()()()()()()()()」イリスは静かに呟いた。

 

 イリスはヴォルデモートを恨んだ。彼がいなければ、メーティスは呪いを作らなかった。――全部、彼のせいだ。イリスの憎悪の感情は、血の呪いを大きく増幅させた。歪なオブスキュラスが彼女の体内で膨れ上がり、じわじわと皮膚上に黒い靄となって染み出してきて、周囲の大気を揺らめかせる。その様子を見た瞬間、スネイプは絶望の呻き声を上げ、なりふり構わずイリスに縋り付いた。

 

「ゴーント!感情を鎮めろ!君はまだ呪いを制御する方法を学んでいない!」スネイプは自分の手が傷つくのも構わず、彼女の膚を覆う黒い靄を払い落とそうとした。

()()()()()()()()()()()

 

 体内のオブスキュラスは突然、針のように表面を尖らせ、イリスの内臓をズタズタに突き刺した。イリスは呼吸ができなくなって、空気の代わりにゴボッと大量の血を吐いた。――薄れゆく意識の中で、イリスはスネイプが自分を搔き抱き、杖を何度も振るって助けようとしてくれているのを、ぼんやりと見つめていた。もうどうだっていいんだ。イリスは思った。きっと私はもう死んでしまう。だけど、呪いの痛みは”磔の呪文”よりずっと優しい。自分を殺すのに必要な痛みしか与えないからだ。

 

 ふとイリスの頭の片隅に、父の記憶の中で見た光景がポッと思い浮かんだ。死の恐怖に怯える父に、母が優しく掛けた言葉が思い起こされる。――お母さんは、『死は怖くない』って言っていた。イリスの目にどっと新たな涙が溢れた。『眠るように穏やかで、愛する人たちがずっと傍にいる』とも。死ぬことは怖くない。天国で、きっとお父さんとお母さんは私を褒めてくれる。イリスは静かに目を閉じ、襲ってくる眠気に身を任せた。頑張ったねって、でももう頑張らなくていいんだよって、優しく抱き締めてくれるはずなんだ。

 

 

「ああ、止めてくれ!頼む!」

 

 スネイプは黒い靄からイリスを守るかのように、深く抱き締めながら、絶望に呻いた。かつてダンブルドアに教えられたように、”失神呪文”を掛けて宿主であるイリスを気絶させようとしたが、靄はまるで防護呪文のように強固で、どれほど魔法力を込めても光線を通しはしなかった。ありとあらゆる呪文を掛けても、強力な護りの魔法を唱えても、呪いは嘲笑うかのようにその全てを跳ね返し、スネイプの前でイリスの命を喰らい続けている。

 

 やがてスネイプの腕の中で、イリスは大量の血を吐いた。――その瞬間、彼の脳裏にかつての幼馴染の姿が鮮やかにフラッシュバックした。荒れ果てた子供部屋の中で、ハリーの眠るベビーベッドだけが傷一つない状態で守られていた。そしてその上に覆い被さるようにして事切れているリリー・エバンズの亡骸を見たとたんに自分を襲った、あの耐えがたいほどの絶望の感情がスネイプをわっと覆い尽くし、彼はたまらず慟哭した。

 

「君を愛している!」スネイプは黒い靄が自分の体じゅうを突き刺すのも構わず、イリスを抱き締めた。

「頼む、二度も失わせないでくれ・・・!」

 

 スネイプの目から一粒の涙が零れ落ち、黒い靄を通過して、イリスの頬に滴った。涙に含まれた深い愛情は、恐ろしい呪いを退け、白い膚を通り過ぎ、イリスの心の奥深くに浸透して、闇に囚われた彼女の魂を強く揺さぶった。

 

 

 やがて彼が見守る中で、イリスを覆い尽くしていた靄は徐々に体内へ染み込むようにして消えていった。イリスが緑色に輝く目で再び自分を見つめてくれた時、スネイプは感極まる余り、その小さな額に優しく口付けた。

 

「私の負けだ。()()()」スネイプはイリスを初めてファーストネームで呼び、微笑んだ。

「君は私の心を開いた」

 

 スネイプの黒い目の奥に、虹色の輝きがちらついている。彼はずっと閉ざしていた心の扉を開き、イリスに永久に愛する者の記憶を見せてくれた。――豊かな赤い髪の可愛い女の子が、小さな彼と一緒に笑っている。スネイプは彼女を愛していた。しかしその愛は彼女に届かず、ホグワーツで喧嘩別れしたのを最後に会えなくなってしまった。けれど彼はずっと彼女を想っていた。やがて自分の過ちで彼女を死なせてしまい、愛が嘆きと後悔の感情に代わるまで。

 

 イリスはスネイプの愛を受け取り、ただ柔らかに微笑んだ。まだ意識はぼんやりしていて、身体は満足に動かないけれど、さっきまでイリスを覆い尽くしていた暗い感情は、スネイプのおかげできれいさっぱり消え去っていた。――今の二人に言葉はいらなかった。自分が向けた想いを受け止め、同じだけの愛情を返してくれる。まるでずっと寒さに凍えていた者が、生まれて初めて暖炉の炎のぬくもりを知ったかのように、スネイプはリリーと仲違いしてから凡そ感じる事のなかった、その幸福に酔いしれ、また涙を流した。

 

 この子を失う訳にはいかない。一刻も早く呪いを制御する方法を教えなくては、次はないかもしれない。スネイプはそう思い、静かに唇を噛み締めた。それから彼は杖を振って一人掛けのソファを呼び寄せ、まだ快復し切っていない状態のイリスをそっと座らせると、ダンブルドアから伝え聞いている情報を思い返しながら、医務室へ連れて行く前に、可能な限りの治療を始めた。彼の手際は素晴らしく、イリスの意識は大分はっきりとしてきた。その様子を確認すると、彼はイリスの前にひざまずき、そっと彼女の手を取って小さな胸に当てさせた。

 

「イリス、これから私の言うことを良く聴いてくれ。君が自分の宿命と共に生きていくには、もう”この方法”しかないのかもしれない」

 

 ――それはスネイプが独自に編み出した魔法の一つだった。今日に至るまでずっと自分を支え、導いてくれたものだ。イリスは戸惑うようにスネイプを仰ぎ見た。

 

「これから先、君は先程のような思いを何度もする事になるだろう。その時に、胸に手を当てて問いかけるのだ。『自分は何のために、ここにいるのか』と。さあ、やってみなさい」

 

 スネイプに促され、イリスはおずおずと目を瞑り、自分自身に問い掛けた。自分は何のためにこの世界に生きているのだろう。――その時、ふとイオおばさんの優しい笑顔がポッと思い浮かんだ。いや、彼女だけではない、ハリーやロン、ハーマイオニーにネビル、ハグリッドやシリウス、サクラにウメ、スネイプ先生にドラコ・・・イリスが今までの人生で出会った大切な人々の素晴らしい記憶の数々が、彼女の頭に次々浮かんでは、心の奥底へ降り注いでいく。

 

 やがてそれらは一つの炎となり、永遠に消えない魔法の火のように、彼女の心の中で静かに燃え盛り始める。血を失った自分の体はとても冷たいのに、心だけはポカポカと暖かかった。その様子を見て、スネイプは安心したように微笑んだ。

 

「その炎は、”闇の帝王”が()()()()()()()()()()だ。誰にも消す事はできず、あらゆる脅威から君を守る。そして君が暗闇の中に閉じ込められた時、その炎は君を明るく照らし、成すべきことを教えてくれるだろう」




次は大好きなウィンキーとジニーと自動速記羽根ペンQQQを出そう。
スネイプの表現が分かりにくかったら、修正しますのでご一報ください(*´ω`)

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