ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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※1:作中に一部、R-15的な表現が含まれます。ご注意ください。
※2:イオとイリスの再会~イオの苦悩のシーン、隠れ穴の様子、イリスとアーサー、シリウスとの会話など書き足し…ていたら…別の話になってもうたやないかーい☆(乾杯)すみません…。


Petal2.クィディッチ・ワールドカップ

 翌々日の朝、イリスはスネイプと共にロンドンの空港へ向かった。広々としたエントランス内は、色取り取りのスーツケースや旅行鞄を下げたマグルの人々で溢れ返っている。そんな中で一人だけ、鞄も何も持たずに落ち着かない様子でウロウロと歩き回っている女性がいた。――イオおばさんだ。イリスは一直線に駆け出して、彼女の胸に飛び込んだ。

 

「この馬鹿たれが!」

 

 イオはイリスをしっかり抱き留めた後、少女の小さな肩を掴んで体を離し、強い口調で叱った。自分を睨むイオの目は真っ赤に充血していて、肌は病人のように青ざめ、いつもきちんと結い上げている髪はぐしゃぐしゃに乱れていた。――おばさんはこんなボロボロになるほど自分を案じてくれていた。姪を案じる余りにやつれ果てたイオの姿は、イリスが数日前に靄の中で見た”イオの幻”の記憶をくしゃくしゃに丸め、遥か遠くへ放り投げた。

 

「勝手に家を飛び出して、どれだけ心配かけたと思ってる!みんな必死でお前を探し回ってたんだぞ!もしお前に何かあったら・・・」

 

 イオはそれ以上言葉を続ける事が出来ず、イリスをギュウッと潰れるほどに抱き締めながら咽び泣いた。イオおばさんの腕の中はとても暖かくて、優しくて、世界中のどこよりも安心できる場所だった。今まで無意識に張っていた緊張の糸がプツリと切れた瞬間、一人ぽっちで空を彷徨った時の記憶がどっと押し寄せて来て、イリスは幼い子供のように泣きじゃくりながら、イオにしがみ付いて「ごめんなさい」の言葉を繰り返した。

 

 そんな二人の様子を、野次馬の中に紛れて遠巻きに見守っていたスネイプに、イオは涙でくぐもった声で何度もお礼を言った。スネイプはイオが差し出した御礼の品を慇懃丁重に断り、二人がチェックインを済ませて搭乗口へ向かうまでの様子をしっかりと見送り、去って行った。

 

 

 二人は日本へ帰国し、靄の晴れた出雲神社へ帰り着いた。二人が結界を抜け、鳥居をくぐり、手水舎で手を清めていると、後方から懐かしい羽ばたきの音が聴こえてきて、イリスは急いで振り返った。

 

≪イリスちゃん!おかえりなさい!≫

 

 フクロウのサクラだ。イリスはまたサクラとお話しできるようになった事が嬉しくて、明るい歓声を上げながら相棒を腕の中へ迎え入れた。どうやらスネイプ先生が教えてくれた通り、自分の体にあの人が介入した影響で、一時的に会話魔法が使えなくなっていただけらしい。サクラは小さな主人の頬に自分の頬を擦り付けながら、涙混じりの声で必死にさえずった。

 

≪本当に心配したんだから!もうどこにも行かないでね!≫

「ごめんね、サクラ」イリスは相棒の健気な愛情を受け、たまらなくなって涙に滲む声で囁いた。

「心配かけて、ホントにごめんなさい」

 

 そうして二人と一羽は拝殿へ赴き、イリスが無事に帰って来れた事を神様に感謝した。やがてイリスは参拝を終えたが、イオは依然として目を瞑ったまま、一心に祈りを捧げ続けている。そのひたむきな姿を見て、イリスは体の内側からふつふつと力が湧いてくるのが感じられた。――『このままじゃ駄目だ』、ギュッと両手を握り締めながら彼女は思った。『おばさんに心配をかけてばかりじゃダメ。もっと強くならないと』

 

 イリスが決意を新たにしている間にイオの祈りは終わり、二人は拝殿を出て居住所の玄関前までやって来た。扉を開けたとたん、黒電話のジリジリと鳴る音が二人の耳に飛び込んで来て、イリスは慌てて居間に駆け込み、受話器を手に取った。

 

「もしもし、出雲・・・」

「イリス!!」

 

 ――ハーマイオニーの声だ。彼女が余りにも大きな声で叫んだので、イリスは耳がキーンとなり、目を白黒させながらも踏ん張った。イリスの声を聴いて張り詰めた糸が切れたのか、ハーマイオニーは泣き出しながらも親友の無事を心から喜んでくれた。

 

「無事だったのね!ああ、本当に良かった!パパ、ママ!イリスが帰って来たわ!」

 

 大好きな親友の声は、イリスの心を暖かくて安らかな気持ちでいっぱいに満たしてくれた。そんな幸福な感情と、友を不安にさせてしまったという罪悪感とが綯交ぜになり、イリスは喉に込み上げてくる熱いものと戦いながら、心からの謝罪の言葉を送り、改めて二人で無事を喜んだ。受話器を置いた数秒後、また電話が鳴った。イリスは受話器を取り、自分の家の名を名乗るか名乗らないかの内に、また親友の叫び声が聴こえた。

 

「イリス!!」

 

 ハリーだ。まるで全力疾走をしてきたかのように、激しく喘いでいる。受話器のすぐ近くで、ロンが慌てて父とシリウスを呼ぶ声がはっきり聴こえた。二人はそれぞれの親に伴われ、同じ場所にいるようだった。やがて誰かが話しながら慌しく駆け寄ってきて、受話器からガサゴソという音がした。

 

「無事で本当に良かった。少し待ってくれ」シリウスの声だ。深く安堵した様子だった。シリウスが一旦言葉を区切ると、ガサガサという音が再び生まれ、今度は素朴で懐かしい声がした。

「イリス」アーサーだ。陽だまりのように暖かな声は、涙に濡れてくぐもっていた。

「先程、スネイプ先生からフクロウ便が来たよ。・・・本当に良かった。君に何かあったらと心配でたまらなかった。また私の家に来た時、今回の話を聞かせてくれ。

 疲れただろうから、今日はゆっくりと休みなさい。おばさんに代わってくれるかい?」

 

 イリスは沢山の人々の愛情と心配を受けて、溢れてくる涙を拭いながら、イオに受話器を渡した。彼女は小さな姪の頭をポンと優しく叩いてタオルを渡し、アーサーと話をし始める。柔らかなタオルからはイオが良く使っている柔軟剤の香りがした。イリスの心はますますフニャフニャに和らぎ、イオがキッチンで料理をし始めた様子をぼんやり眺めている内に、ダイニングテーブルでそのまま寝入ってしまった。

 

 やがてイリスはそっと起こされて、目が覚めた。テーブルにはイオが腕によりをかけた日本料理の数々が、所狭しと並んでいる。どれも自分の好きなものばかりだ。二人は揃って手を合わせ、遅いディナーを摂り始めた。美味しいご飯は、イリスの体に栄養と大切な事を話す勇気を注ぎ込んでくれた。――今までの出来事をおばさんに報告しなくちゃ。彼女はだし巻きを飲み込むと、”塔の夢”を見たあと、気が付くと神社の外にいた事――靄の中で”イオの幻”に襲われ、空飛ぶ絨毯に助けられた事――スネイプの家で聞いた、祖母が遺した呪いの事――闇の帝王に心身を掌握されかけた事――”憂いの篩”で見た、父の記憶の事などを、イオに全て話して聴かせた。

 

「おばさん。私、自分にできることを精一杯やってみる」イリスは迷いのない声で言った。

「お父さんがくれた言葉を信じるよ」

 

 イオは真剣な眼差しで、話の腰を折る事なく、時折相槌を交えながら聞いてくれた。そしてイリスの決意を受け、優しい声でこう言った。

 

「お前の思う道を進んだら良い。いつだって、わたしはお前の味方だよ」

 

 イオはありったけの愛情を込めて、イリスをギュウッと抱き締めた。――イリスは今なら守護霊を百匹も出せるのではないかと思う位、とても幸せな気分になった。素直に甘える少女の額にキスをして、イオは歯を磨いて寝るようにと言う。デザートの杏仁豆腐をかき込んでから洗面台に向かったイリスを見送ると、イオはキッチンのシンクによろよろと歩み寄り、今まで食べたものを全て吐き戻した。

 

 ――()()()()()()。イオはブルブルと震える両手で何とかシンクの端を掴み、倒れないようにしがみ付きながら思った。たった一晩の夢で、姪の体は”闇の帝王に忠誠を尽すための存在”へと変わってしまった。あの子はもう自由に生きられない。闇の帝王に仇名すと呪いは増大し、放たれた呪いが彼女自身を攻撃するからだ。

 

 何故こんな大切な事を、私に誰も教えなかった?イオの心を激しい怒りの感情が駆け巡り、炎のように熱い涙が頬を伝い落ちていく。ネーレウス、エルサ、ダンブルドア、アーサー、今まで自分が信じていた人達は、イリスの呪いの事を知っていたんだ。なのにその事を隠し、代わりに”イリスをホグワーツへ行かせるように”と何度も言い聞かせた。だが結局、ホグワーツへ行って何が起きた?あの学校へ行く度にイリスは恐ろしい目に遭い、学年を一つ上げる度にその内容は凄惨さを増していく。挙句の果てに、闇の帝王に従わなければいつ死ぬかも分からない、おぞましい呪いを植え付けられた。

 

『お父さんがくれた言葉を信じるよ』

 

 イリスの健気な笑顔と言葉がふっと頭をよぎり、イオはへなへなと力なく床に座り込みながら、深い失意の感情に溺れ、泣き崩れた。――ネーレウス達は、あんな素直で感じやすい子に『呪いに抗いながら生きろ』と言うのか。いつ死ぬかも分からない恐怖と戦い、呪いに体を冒され、血反吐を吐きながら、それでも生きろと。そして私はあの子の意志に従い、黙ってその様子を見守っていろと。ネーレウスは自らの記憶を通して、イリスに『君は自由だ』と言った。『呪いに怯える必要なんてない』とも。――()()()()()イオは唇の端から唾液が垂れ落ちるのも構わず、正気を失った顔でうっすら笑った。自由に物事を考え、闇の帝王と戦う道を選んでしまったら、あの子は死ぬ。よくもそんな残酷な事を言えたもんだ!イオは血走った目で床を睨み付け、掌に血が滲むほど強く握り締めた。お前があの子に遺した呪いだろうが!

 

 ――ネーレウスとイオの間には、イリスに対する考え方において、()()()()()()()()があった。ネーレウスはイリスを娘として深く愛していたが、同時に”自分と同じ過酷な運命を背負った、一人前の立派な魔女”だとも考えていた。しかし育て親であるイオにとっては、イリスは愛する娘以外の何者でもない。今まで信じていた人々への信頼が、ボロボロと腐り落ちていく。イオは床に這いつくばりながら、無力な自分を呪い、ダンブルドア達を恨み、神様に救いを求めた。

 

「助けてくれ」イオは呻いた。

「誰か、あの子を助けてくれ」

 

 その時、ズボンのポケットから何か白いものがするりと抜け出して、イオの視界の端で止まった。まるで神様が救いの使いを出してくれたような気がして、イオは藁にもすがる思いでそれを手に取った。――それは、上質な羊皮紙で作られた一通の手紙だった。金箔混じりの封蝋にはマルフォイ家の指輪印章(シグネットリング)が捺されていた。

 

 

 それから休暇の日々は何事もなく流れていった。イリスはハリー達に手紙を書いたり、宿題をしたり、カセットレコーダーから流れる音楽を聴いたりして過ごした。ある日、イリスが魔法薬調合用の鍋を熱心に磨いていると、黒電話がジリリと鳴った。立ち上がって受話器を取り、耳に押し当てる。

 

「もしもし、出雲です」

「コンニーチハ。ヴォーク、ロン・ウィーズリー、デース」

 

 出し抜けにロンのヘタクソな日本語が飛び込んできて、イリスはたまらず笑い転げてしまった。つられてロンも吹き出しながら、いつもの砕けた英語に戻って話し始める。

 

「何だよ、フレッドは”ネイティブさながらの発音だ”って褒めてくれたのに。(イリスはますます笑った)

 ねえ、早めにイギリス(こっち)へ来れる?イリス喜べよ・・・()()()()()()に泊まってから行くんだ。ホラ、前に言ってたクィディッチ・ワールドカップだよ。僕らだけじゃない、ハリーとハーマイオニーも一緒だ!」

「行く!」イリスは即決した。

 

 ロンは明るい歓声を上げた。すると受話器の向こうでガサゴソと音がして、懐かしい声がした。――アーサーだ。

 

「やあ、イリス。おばさんに代わってくれないか?私から話をしよう」

 

 イリスはイオを呼んで、受話器を渡した。イオはアーサーと何かを話し込んでいたが、やがて電話を切り、鍋磨きを早めに終わらせて出発の準備をするようにと優しい口調で言った。いつもの仲良し三人組に会える事がたまらなく嬉しくて、イリスは軽やかにスキップしながら、使い込まれた黒鍋の下へ向かった。

 

 

 イリスはイオと共に空港に向かい、イギリスの魔法族御用達パブ・漏れ鍋へ到着した。暗くて古めかしい店内では、モリー夫人とハーマイオニーがイリス達を待っていた。ハーマイオニーはイリスを見たとたん、華やかな笑顔をパッと浮かべて、一回りも小さなイリスを包み込むように優しく抱き締めた。モリー夫人も愛情溢れる眼差しでイリスを見つめ、熱烈なほっぺキス&ハグをしてくれた。イオとモリー夫人が連れ立ってカウンターへ向かう様子を眺めながら、イリスは和やかな気持ちで口を開いた。

 

「迎えに来てくれて、ありがとう」

「どういたしまして。でもそれだけじゃないのよ」

 

 ハーマイオニーは、可笑しくってたまらないと言わんばかりにクスクス笑った。その言葉の意図が分からず、首を傾げるばかりのイリスを引き連れて、ハーマイオニーはダイアゴン横丁へやって来た。彼女は真っ直ぐにお洒落なブティック、”グラドラグス魔法ファッション店”へ向かっていく。店内は色取り取りのパーティードレスやドレスローブでぎっしりだった。

 

「余り時間はないんだけど」ハーマイオニーは腕時計を確認してきびきびと言った。

「貴方と私のドレスを選ばなくちゃ」

「ドレス?」

 

 イリスが思わず呆気に取られて鸚鵡返(おうむがえ)しすると、ハーマイオニーは呆れ顔でため息を零した。

 

「貴方ったら!四年生の学用品必要リストに書いてあったでしょ?どうして必要なのかは分からないけど、どうせなら素敵なのを選びたいじゃない?」

 

 そうして二人はドレスを選び始めた。タイミングの良い事に、同じ寮生で友人のラベンダーとパーバティもやって来て、四人は団子のようにくっ付いて他愛無い世間話に花を咲かせた。

 

 ふと、イリスは目の前のドレスローブが気になって、自分の傍に引き寄せた。――濃紺色でシンプルなデザインのものだ。それは、かつて彼女が一年生の時に出席した”マルフォイ家のパーティ”で着たドレスローブと、少しだけ雰囲気が似ていた。懐かしく切ない思い出が、心の表面を焦がしていく。ラベンダーがそのドレスを取り上げ、しげしげと眺めた。

 

「あなたに似合うと思うわ」ラベンダーがドレスをイリスにあてがいながら言った。

「でも、ちょっと地味過ぎない?」パーバティが眉を寄せながら唸る。

「華やかなデザインのアクセサリーを付けるのはどう?ブレスレットとかネックレスとか」ハーマイオニーがまとめた。

 

 その後、あーでもないこーでもないと言い合いながら、四人はそれぞれに合うドレスとアクセサリー類を購入した。ラベンダーにお茶を誘われたが、用事があるため丁重に断って二人は漏れ鍋へ戻り、一旦帰国するイオと別れを告げ、漏れ鍋の古暖炉を借りて、モリー夫人と共にロンの家――”隠れ穴”へ向かった。

 

「やあ、イリス。久しぶりだね」

 

 高速回転を何とかやり過ごして、そろそろと目を開けると、頭の上からハリーの声がした。イリスは急いで顔を上げ、そして言葉を失った。――背が高く、がっしりした体格のハンサムな男の子が、自分に笑いかけている。この人は一体誰だろう。彼女は困惑して声も出せず、しばらく目の前の少年を見つめた。優しい緑色の目に、古びた銀縁の丸眼鏡――信じられない、()()()()

 

「は、ハリーなの?」イリスはびっくりして呟いた。

「良かったな、ハリー」ロンがニヤニヤ笑いながら痛烈に言い放った。

()()()()()()()()()()()()()()甲斐があったじゃないか!」

「黙れよ」ハリーが顔を赤らめて吐き捨てた。

 

 たった数週間、愛情と栄養をたっぷり与えるだけで、人はこんなにも変わるものなのだろうか。イリスはしみじみと感じ入り、ハリーを眺めた。――少し青白く痩せ気味だった体は、しっかりと筋肉が付き背も伸びて、健康的に引き締まっている。衣服や靴も、彼の身の丈に合ったお洒落なデザインのものに変わっている。クシャクシャの黒髪は整髪料を使って小粋な感じにまとめられていた。トレードマークである丸眼鏡も若々しい格好に不思議とマッチして、彼の大人びた魅力をより際立たせていた。

 

「ハリー、すごく素敵になったね。カッコいいよ!」イリスは素直に賞賛した。

「ありがと」

 

 ハリーは口籠りながら、イリスを助け起こした。その時、彼の体から爽やかな香りがした。きっと香水を振ったのだろう。しばらく見ない間に、すっかり洗練されたハリーに感心しながら、ふと視線を感じて前方を見ると(後ろの方で「あら、ハリー!」とハーマイオニーの仰天する声が聴こえた)、洗い込まれた白木のテーブルに、ロンとジョージが座っていて、他にもイリスの知らない赤毛の男性が二人座っていた。二人はそれぞれ、ビルとチャーリー、ウィーズリー家の長男と次男だと紹介してくれた。チャーリーはがっしりとした筋肉隆々な体躯で、ルーマニアでドラゴン関係の仕事をしている。ビルは魔法銀行のグリンゴッツに勤めているが、職場の雰囲気にそぐわないようなワイルドで格好良い服装をしていて、それが良く似合っていた。背が高く、長く伸ばした髪をポニーテールにし、片耳に牙のようなイヤリングを付けている。

 

 イリスはテーブルの端っこに腰掛けて、興味深そうに周りを見渡した。ずっと遊びに行きたいと願っていたロンの家は、木々のぬくもりと賑やかな生活感がぎっしり詰まった、とても魅力的な場所だった。――暖炉の上には『自家製魔法バターの作り方』、『デザートを作る素敵な呪文』、『一分間でご馳走を――まさに魔法だ!~ホームパーティー編~』などといった料理に関する不思議な本が、うず高く積まれている。キッチンの流しに置かれたラジオからは、放送が聴こえて来た。人気歌手のセレスティナ・ワーベックなる人物をゲストに迎え入れるというような事を、ラジオパーソナリティの魔女が興奮した様子で説明している。

 

 ロンが紅茶の入ったポットとマグカップを持って来てくれたので、みんなでティータイムの準備をしていると、ポンと小さな音が二つして、テーブルの近くにアーサーとシリウスが現れた。ダイアゴン横丁で購入したのだろう、両手にどっさりと大きな荷物を抱えている。シリウスはますます健康的になり、ハンサムに磨きが掛かった様子だった。今のハリーとシリウスは、どことなく雰囲気が似通っているように感じられた。

 

 アーサーはイリスを見ると、お茶を飲みながら少し話をしようと言って庭先へ連れ出した。――外から見る”隠れ穴”もとても面白かった。大きな石造りの家からニョキニョキといくつもの部屋が芽を出し、それらは出来損ないのトーテムポールみたいに、くねくねと曲がりながら連なって建っている。きっと魔法で支えているに違いない、とイリスは思った。赤い屋根に煙突が数本、ちょこんと乗っかっている。広々とした庭じゅうを駆け回る鶏と、我が物顔で花壇を占領する庭小人を避け、伸び放題の芝生に腰掛けると、イリスはアーサーに全てを話して聴かせた。アーサーは目頭を押さえながら、イリスの差し出したテープレコーダーをじっと見つめ、しばらく何も言わなかった。

 

「君のお父さんは本当に勇敢な人だった。私の誇りだ」アーサーは静かに口を開き、優しく微笑んでイリスを見つめた。

「イリス。君は強い。きっと呪いを克服し、ご両親の見た”素晴らしい未来”を実現できるだろう」

 

 ――()()()()()アーサーの口から飛び出した思いも寄らぬ言葉に驚き、イリスは紅茶にむせ返りながらも、慌てて首を横に振った。

 

「私、強くなんてないです。力もないし、泣き虫だもの」

「イリス。腕っぷしの強さや魔法力の豊富さ、精神の強靭さが、人としての強さを示すのではないよ。本当の強さとは、他人の弱さを受け入れて許し、心に寄り添えることだ」

 

 イリスは言葉もなく、しんとなって聴き入った。アーサーはテープレコーダーを彼女の手に握らせると、熱意の籠もった声で話し続けた。

 

「誰にだって出来ることじゃない。だが、君はやり遂げた。そして無実の男を地獄から救い出し、悪人を見事に改心させた。これは、世界中のどんなに素晴らしい魔法使いや魔女でも・・・そう、ダンブルドアでさえもできなかった事だ。君はたった一人で、この世界を良い方向へ変えたんだ」

 

 アーサーの言った事を呑み込むのに、多くの時間が必要だった。――私が、ダンブルドア先生ですらできない事をやってみせた?世界を良い方向に変えたなんて、大袈裟だ。私はただ、周りの人々に助けてもらいながら、ジタバタしていただけだったのに。イリスは心臓がとてもむず痒くなって、もじもじとしながらアーサーに言い返した。

 

「アーサーさん。世界が良い方向に変わったとするなら、それは私を助けてくれた皆のおかげです。私は皆に守られながら、泣いてただけだもの」

 

 アーサーはその言葉に反論することなく、優しく微笑んだだけだった。やがて二人は立ち上がり、花壇からモリー夫人が料理に使うためのハーブを沢山摘み取って、家の中へ戻った。

 

 

 イリスがキッチンのシンクでマグカップを洗っていると、ジニーがひょっこり顔を出した。燃えるような赤毛に鳶色の瞳が特徴的な、可愛らしい女の子だ。しかし彼女はイリスを見つけた途端、すっと目を逸らした。イリスが三年生の時に起きた”ロックハート事件”以降、ジニーとの仲はずっと()()()()だった。

 

「久し振り、ジニー」イリスは遠慮がちに言った。

「ハイ」ジニーは短く答えて、ジョージの傍にすとんと座った。

 

 気を利かせたハーマイオニーの合図で、四人はキッチンを抜け出し、狭い廊下を通って、グラグラする階段を上の方へジグザグ昇っていった。小さな踊り場をいくつも通り過ぎて、やがて一行はペンキの剥げかけたドアに辿り着いた。小さな看板が掛かり『ロンの部屋』と書いてある。こじんまりとした室内は、ほとんど何もかもが――ベッドカバー、壁、天井に至るまで――燃えるようなオレンジ色で統一されていた。まるで暖炉の中に入り込んだみたいだ、とイリスは目を見張りながら思った。壁と切妻の天井には、ロンの贔屓のクィディッチチーム、チャドリー・キャノンズのポスターが貼られ、絵の中で選手が自在に飛び回ったり、手を振ったりしている。窓際の水槽にはとびきり大きな蛙が一匹入っていた。そしてその部屋じゅうを、かつてホグワーツ特急にいるハリーに手紙を届けた、チビフクロウがブンブンと飛び回っていた。

 

≪僕はロン・ウィーズリーのフクロウです!僕はロン・ウィーズリーのフクロウです!≫

「ロンのフクロウだって自慢してるよ」

 

 イリスがそう言うと、ロンは鼻を乱暴に擦りながら、『スキャバーズの代わりにとシリウスがくれたんだ』と嬉しさを隠し切れない声で言った。名前はピッグウィジョン、愛称はピッグと言うらしい。三人は、ロンがペットに対して愛情深い性格である事を知っていたので、ピッグが声高に自慢するのも無理はないと思えた。窓から外を覗くと、庭の中でクルックシャンクスが夢中で庭小人を追いかけ回して遊んでいるのが見える。

 

 ――こんなまったりとした空気の中で、数週間前に経験したあの出来事を話すことは、イリスにとって非常に勇気のいる行為だった。彼女が親友達の心配そうな眼差しを一心に受けて、どうすれば彼らが比較的ショックを受けないように上手く話せるのかと考えあぐねていると、ドアが軽くノックされる音がした。ロンが返事をすると、ドアが静かに開いた。

 

「やあ」シリウスだ。五人分のお茶と山盛りのお菓子が載った盆を、片手に乗せている。

「もし良ければ、私も話を聴きたいのだが」

 

 頼りになる大人・シリウスの登場で、重苦しくなり始めた空気は一気に和んだ。イリスはゆっくりと記憶の糸を辿りながら、全てを包み隠さず正直に話した。誰もお茶やお菓子に手を付けようとせず、話に聴き入った。やがて長い話が終わり、彼女は乾いた喉を潤そうと冷めた紅茶を一息に飲み干し、クリーム入りの大粒チョコレートを口に押し込んだ。イリスが”やりきった”という満足感に浸っている一方で、ハリー達は”金縛りの術”に掛けられたかのように、ピクリとも動く事ができないでいた。シリウスは重々しい表情で、何事かを考えている様子だった。

 

「そんな・・・私・・・」やがてハーマイオニーが口火を切ったが、それ以上言葉を続ける事ができず、蒼白な表情でイリスを見つめるばかりだった。

「私・・・何て言ったら良いか・・・」

「大丈夫だよ」イリスはチョコレートを急いで飲み込むと、取り成した。

「本当にこの先、どうなるか分からないけど・・・お父さんの言葉を信じて頑張ってみる。それに私には、助けてくれる優しい人達が沢山いるもの。スネイプ先生もあの人に抵抗する魔法を教えてくれるって仰っていたし」

 

 すると、イリスが発した”スネイプ先生”と言う言葉で忘我状態から回復したのか、ハリーとロンが猛反撃を始めた。

 

「”()()()()”の、スネイプだろ?」ハリーとロンの声がハミングした。

()()()だよ」イリスは子供に言い聞かせるように優しく言った。

「かつてっていうのは、()()()()()()()()っていうこと」

「だが、その証拠がない」シリウスが静かに口を挟んだ。荒野を生きる狼のように鋭く尖った灰色の目が、冷静にイリスを見つめている。

「イリス、あいつを頼るのは危険だ。ヴォルデモートは(ロンがヒッと叫んで耳を塞いだが、シリウスは気にしなかった)裏切り者を決して許さない。

 ”死喰い人”にはヴォルデモートに対する忠誠心なんてない。あるのは”自己保身”、ただそれだけだ。奴らは我が身可愛さに平気で嘘を吐く。スネイプが本当に足を洗って反省しているなら、然るべき罰を受ける筈。だが、あいつはそうしなかった。ピーターと変わらない。おまけにあいつはルシウス・マルフォイと旧知の仲だと聞いている。

 これから何か困った事があれば、スネイプではなく私かアーサーを頼りなさい。いいね?」

 

 イリスは素直に返事をする事ができなかった。――シリウスが自分の事を本当に心配してくれているのは、痛いほど伝わって来る。だがそれ以上に、イリスはスネイプを心から信頼していた。三年間の学生生活で築き上げられた二人の絆は、シリウスの言葉一つで壊れるほど柔なものではなかった。イリスが毅然とした態度で言い返そうとしたその時、扉をノックする音が聴こえた。扉の向こうから、ジニーの遠慮がちな声がした。

 

「皆降りて来て。ママが食事の用意が出来てるって」

 

 

 ビルとチャーリーが杖を振るって庭に大きなテーブルを二つ並べ、白いテーブルクロスを掛けた。七時になり、モリー夫人の腕に寄りを掛けたご馳走が幾皿も並べられ、ウィーズリー家の人々とシリウス、ハリー、イリス、ハーマイオニーが食卓についた。イリスは燻製されたチキンハムとポテトサラダをお皿に盛りながら、パーシーとアーサーの話をぼんやり聞き流していた。

 

 パーシーは魔法省の”国際魔法協力部”に就職していて、自分のボスであるクラウチ氏がどれだけ素晴らしい人であるか(ロンがイリスに『この二人、その内()()()()するぜ』と耳打ちしたので、イリスは飲んでいたかぼちゃジュースを吹き出した)と言う事を力説し、それに比べて”魔法ゲーム・スポーツ部”のルード・バグマンという男は不甲斐ない人物で、部下であるバーサ・ジョーキンスという魔女が休暇でアルバニアへ行った切り、一ヶ月も行方不明なのに野放しにしている事を嘆いていた。

 

「私もバーサが心配だ」シリウスはチキンを大きく齧りながら唸った。

「バグマンはバーサを忘れっぽくぼんやりした人物だと評していたが、私の知る彼女は()()()だ。ゴシップとなると素晴らしい記憶力を誇っていた。いつ口を閉じるべきかを知らない女で、そのせいで良くトラブルに巻き込まれていた。だからこそ、バグマンが長い間探そうともしなかったのだろうが・・・」

「私もルードに言及したのだが」アーサーが落胆のため息を零しながら言った。

「『彼女は前にも何度かいなくなった事がある』と言って一向に動かない。ルードは楽観的と言うか、ある種ルーズな所がある。彼女に万が一の事があれば、一体どうするつもりなのだろう」

 

 パーシーは大袈裟に嘆いて見せ、ニワトコの花のワインをグイッと煽った。

 

「”国際魔法協力部”ももう手一杯で、他の部の捜索をする余裕がないんですよ。その後に()()()()()()()()()を控えているし。ねえ、お父さん?」

 

 パーシーはさも意味ありげな目付きでハリー、イリス、ハーマイオニー、ロンを見て、最後にアーサーを見た。アーサーは困ったように眉を寄せて「ああ」と唸った。シリウスは苦笑しながら葡萄酒をゴブレットに注いでいる。

 

「あいつ!」ロンが呆れたような口調で三人に囁いた。

「パーシーのやつ、僕らに何の行事か聞いてほしくて、就職してからずっとあんな調子なんだ。聞いても教えてくれないくせにさ!どうせ今やってる仕事関係だろ。”厚底鍋展覧会”とか」

 

 庭が暗くなってきたので、アーサーが蝋燭を取り出して火を灯し、空中にいくつも浮かべた。デザートは手作りのストロベリー&バニラアイスクリームだった。皆が食べ終わる頃、夏の虫がテーブルの上を低く舞い、ラベンダーの香りが暖かい空気を満たしていた。それからモリー夫人の合図で、皆協力して夕食の後片付けをし、明日の準備をしっかり済ませ、寝る準備に入った。クィディッチ・ワールドカップ観戦のため、夜明け前に出発するのだ。イリスはハーマイオニー、ジニーと同じ部屋だった。

 

 予定時刻になりモリー夫人に起こされた時、イリスはたった今ベッドに横になったばかりのような気がした。

 

寝坊助(ねぼすけ)さんたち!」モリーは呆れた声で言った。

「男の子たちはもう皆起きていますよ!」

 

 イリスはむっくりと起き、半分目を閉じたまま服を着て、サイドテーブルに置いてあったクリームケーキを一口齧りながら何気なく二人の様子を見て、ギョッとした。――二人共、手鏡を見ながら薄く化粧をし、口紅を塗っている。イリスは女の子らしく着飾る事に無頓着で、化粧もした事がなかったため、自分の先を行くこの二人がとても大人びて見えた。

 

「な、何してるの?」

「メイクよ。あなたってそばかすがなくて膚が白いから、必要ないのかもしれないけど」

 

 イリスが圧倒されて尋ねると、ジニーがつっけんどんに言い返した。その直後、ジニーは気まずそうに俯き、自分のバッグから小さなものを取り出して、顔を背けたままイリスに突き出した。

 

「これ、あげる。私には色が合わなかったの。表面を削って使うと良いわ」

「ありがとう、ジニー」

 

 イリスは小さな友の親切に嬉しくなり、お礼を言って受け取った。――パールの入った可愛いピンク色のリップで、小さなクリスタルの繰り出し式容器に入っている。早速表面を薄く削り、手鏡を見ながら唇に塗ってみた。

 

「どうかな。ハーミー」

 

 イリスに喰ってかかるジニーの様子を心配そうに横目で伺っていたハーマイオニーは、イリスを見た途端、絶句して、それから爆笑し始めた。ジニーも涙を流しながら大笑いしている。イリスは訝し気に自分の手鏡を見て、アッと驚きの声を上げた。――彼女は何時の間にか、()()()()()()()に変身していた。

 

WWW(ウィーズリーウィザートウィーズ)新商品、カナリア・クリーム大成功だ!」部屋の様子をこっそり見ていたフレッドが、ヒーヒー笑いながら言った。

「さすがだ、食いしん坊イリスよ。誰が置いたかも分からないクリームケーキを躊躇いなく齧るなんて、君くらいのもんだぜ!」ジョージが痛烈に言い放った。

 

 やがて鳥の羽は全て抜け、中から羞恥の余り、耳まで真っ赤に染まったイリスが姿を現した。言葉もなく、フレッドとジョージを憎々しげに睨み付けている。やがて騒ぎを聞きつけたモリー夫人が、悪戯双子をグウの音も出ない程締め上げるまで、皆の笑いは止まらなかった。

 

 

 クィディッチ・ワールドカップの開催地へは、移動する時間と地点が決められた”移動(ポート)キー”を使用する事になっていた。何とか身支度を終えた一行は、村に向かって暗く湿っぽい道をひたすら歩いた。静けさを破るのは、自分の足音だけだ。村を通り抜ける頃、ゆっくりと空が白み始めた。ストーツヘッド・ヒルの頂上に辿り着き、”魔法生物規制管理部”に勤めるエイモス・ディゴリーとその息子、ハッフルパフの上級生セドリック・ディゴリーに合流し、皆は押し合いへし合いしながら”移動キー”に集まり、開催地へ向かった。

 

 無事に到着するとディゴリー親子と別れ、一行は荒涼とした荒れ地を歩き、キャンプ地を目指した。――クィディッチは『シーカーがスニッチを掴むまで』試合は終わらない。試合が何日も続く場合もあるため、宿泊する場所が必要だった。ロバーツというマグルの男性(疑り深い性根が祟って”忘却術”を何度も受け続けており、ポーッとしていた)の下で受付の手続きを済ませ、指定の場所まで歩いた。アーサーたっての願いで、魔法を使わず手作業で男性用と女性用のテントを設置した後、イリスはハリー達と一緒に水を汲みに出かけた。

 

 水を汲んで戻って来ると、テントの前に焚火が熾されていて、その前にアーサーとシリウスと、見知らぬ男が二人立っていた。一人は鮮やかな黄色と黒の横縞が入ったクィディッチ用の長いローブをしていて、少したるんではいるものの、たくましい体をしている。顔つきは少年のようにあどけない。まるで人間サイズのミツバチのような外見で、とても目立っていた。

 

 もう一方の男はシャキッと背筋を伸ばしており、非の打ち所のない程、立派なスーツとネクタイを着こなしていた。髪も口髭も一部も狂いもなく整えられており、マグルの銀行の総取だと言われても納得出来る程の堂々とした佇まいだ。――二人の男は見事なまでに対照的だった。アーサーはイリス達に気づき、笑顔で二人を紹介した。まずはミツバチのような外見の男性からだ。

 

「みんな、こちらはルード・バグマン。今回の我々のチケットを取って下さったんだよ」

 

 イリス達が口々にお礼を言うと、バグマンは人好きのする顔で「気にするない!」と笑った。何だか、憎めない感じのする男だった。その時、ふと強い視線を感じてイリスは顔をそちらへ向けた。スーツを着こなした初老の男が眉を潜め、不愉快そうな表情でこちらを睨んでいる。アーサーはそれに気づく事無く言った。

 

「こちらはバー・・・」

「クラウチさん!こんばんは!」

 

 アーサーがバーティ・クラウチの『バ』を言った瞬間、テントの中からパーシーがスニッチのように勢い良く飛び出し、クラウチの前へ飛んで行った。イリスは彼の表情を見る事が出来なくなった。クラウチはパーシーと二、三、言葉を交わした後、バグマンを伴って”姿くらまし”した。

 

 次の瞬間、様々なお土産をぶら下げた行商人があちこちに”姿現し”したため、『どうしてクラウチさんは、私の事を睨んだのだろう?』と言うイリスの思考は一旦中断された。シリウスは『四人全員分のお小遣いだ』と言って、ハリーに小袋一杯のガリオン金貨を持たせてくれた。イリス達は思う存分、露店を吟味した。光るロゼット、踊る三つ葉のクローバーがびっしり飾られた緑のとんがり帽子、打ち振ると国家を演奏する両国の国旗・・・などなど。ハリーが”万眼鏡(オムニオキュラー)”を、ハーマイオニーがプログラムを、それぞれ人数分買い込んでいる間、ロンはイリスが”百味ポップコーン”(クィディッチ・ワールドカップの限定品だ)を買うのを止めていた。

 

「やめときなって!食う暇なんか、絶対ないぜ!」

「じゃあ、帰りがけに買うよ。・・・それなあに?」

 

 ロンが嬉しそうに掌へ乗せているのは、コレクター用の有名選手の人形だった。ブルガリアの名シーカー、ビクトール・クラムだ。イリスが近寄ってしげしげ眺めると、クラムは猫背のまま、うろうろと落ち着きなく掌の上を歩き回っていた。

 

 クィディッチ・ワールドカップの競技場は、とてつもなく大きかった。この中に大聖堂なら優に十個は収まるに違いない。観客席への階段は深紫色の絨毯が敷かれていた。一行は階段を昇り続け、てっぺんに辿り着いた。そこは”貴賓席”と銘打たれた小さなボックス席で、観客席の最上階、しかも両サイドにある金色のゴールポストの中間に位置している。紫に金箔の椅子が二十席ほど二列に並んでいて、イリス達はみんな前列に並んだ。――文句の付け所のない、素晴らしく良い席だった。競技場そのものから発する神秘的な金色の光にじっと魅入っていると、トン、と誰かに後ろから軽くぶつかられたような気がして、イリスは振り向いた。

 

「いけません――いけません――()()()()()()()――なられては!」

 

 ――後列の奥から二番目の席に、一匹の屋敷しもべ妖精がいた。妖精は甲高くか細い声で何事かを呟き、バタバタと両手足を暴れさせ、不思議な事に椅子よりちょっぴり()()()()()。やがてすぐに重力に従い、ストンと座った。イリスの視線の先を辿ったハリーが「ドビー?」と出し抜けに問いかけると、その妖精はふっと顔を上げた。

 

 屋敷しもべ妖精は、自分はドビーではなく、クラウチ家に仕えるウィンキーである事、ドビーは友人だが、ハリーの助けを借りて自由になった事で有頂天になり、雇い先に休暇と給金を要求し始めたために一向に仕事が見つからないのだと嘆いていた。ハリーは屋敷しもべ妖精が無給無休で働かなければならない事に衝撃を受け、ハーマイオニーは『奴隷労働だ』と憤懣やる方ない様子だったが、イリスはそれどころではなかった。――ファッジ魔法大臣が()()()()()()()を連れて上がって来たからだ。

 

 イリスのマルフォイ家に対する思いは、色々な事象が重なり、最早複雑極まりないものとなっていた。しかしそれでもイリスはドラコがとても大切だし、ナルシッサが与えてくれた”母のような優しさ”を忘れる事も出来ないし、ルシウスを憎み切る事だって出来なかった。結局、今のイリスが出来る事と言えば、彼らの視界に入らないよう、なるべく遠くへ後ずさる事だけだった。

 

 ナルシッサは『何て嫌な匂いなんでしょう』と言わんばかりに美しい顔を顰めていたが、人々の中に紛れたイリスを見た瞬間、その薄い色の目に涙の膜を張った。ルシウスはいつもの慇懃無礼な調子でアーサーを馬鹿にし、ハーマイオニーにまでその毒牙に掛けようとした所で、シリウスが口達者に言い負かし、現在憎々しげに睨み合っている。ハリー達だけでなく、ドラコも固唾を飲んでその勝負の行方を見守っていた。ナルシッサはその隙を突いて、静かにイリスに近寄った。

 

「イリス。変わりはありませんか?」ナルシッサの声が熱を帯び、イリスの手を包んだ。

「何かあれば私の力の及ぶ範囲ではありますが、必ず助けます。いつでも知らせを」

 

 まるで実の母親のように自分を案じてくれるその姿に、父の記憶の世界で見た”ドラコの亡骸をあやす姿”が重なり、イリスは何も言えず、こくんと弱々しく頷いた。イリスはハリー達と同じようにマルフォイ家を『敵』として見る事も、完全に繋がりを断ち切る事も出来そうにないと感じた。断腸の思いで関わりを断とうと頑張っても、彼らの方がそれを許してくれない。ナルシッサはイリスに向け、今学期には高級店のケーキやチョコレート菓子の詰め合わせ(マルフォイ家に滞在していた時、イリスが好んで良く食べた銘柄のものだ)を贈ると言い、今やファッジ大臣を差し置いて激しい舌戦を繰り広げ続けるシリウスとルシウスの様子を見守るドラコを連れ戻して、席に座ろうとした。

 

 余りの気まずさにイリスが急いでその場から離れようとした時、ドラコがこちらをじっと見て、口を開き掛けた。――その時、ゾッとするような憎しみに満ちた低い声が、後方から聴こえた。

 

()()()()

 

 イリスは本能的に身の危険を感じ、思わず杖に手を掛けながら振り返った。しかしそこには誰も居ない。ウィンキーがまた謎のジタバタ運動をしているだけだった。やがて試合開始の時間が近づき、ルシウスとシリウスの戦いも収束に向かったようだった。

 

 

 試合は本当に素晴らしかった。ロンの言う通りポップコーンなど食べる暇もなく、イリスは試合に熱中した。合間に行われる各チームのマスコットキャラ――ブルガリアは魅了のヴィーラ、アイルランドはレプラコーンだ――のミニショーも見応えがあった。何より良かったのが、ブルガリアのシーカー、ビクトール・クラムだ。彼はチームの点差を縮められないと理解するや否や、スニッチを掴んで自ら試合を終わらせたのだ。その潔い結末に、四人は残らずクラムのファンとなり、興奮冷めやらぬ様子で何度も試合の内容を話し合った。イリスは帰りがけに、ポップコーンと一緒に彼の人形を買っておく事も覚えておかなければならなかった。

 

 イリス達はテント前の焚火に立ち戻り、”百味ポップコーン”の大きなバケツを囲み、アーサーの作ってくれた温かいココアを飲みながら、試合の話に花を咲かせた。やがて消灯の時間となり、イリスはハーマイオニー、ジニーと共にテントに潜り込んで眠りに就いた。

 

 

「起きて、イリス!早く!」

 

 ジニーの恐怖で引き攣った声が聴こえ、イリスはびっくりして飛び起きた。――キャンプ場の様子が可笑しい。先程まで聴こえていた歌声や賑やかなお喋り声が止み、代わりに人々の悲鳴や叫ぶ声で溢れている。胃の中に冷たい氷を滑り落とされたような悪寒が走り、イリスは枕元の杖に手を伸ばし、握り締めた。ハーマイオニーがカーディガンを押し付け、急き立てた。

 

「森へ急ぐのよ!」

 

 外に出ると、キャンプ場の向こうから何かが奇妙な光を発射し、大砲のような音を立てながらこちらへ向かってくるのが確認出来た。大声で野次り、笑い、酔って喚き散らす声が段々近づいて来る。そして、突如強烈な緑色の光が炸裂し、辺りが照らし出された。揃って銀の仮面を付け、黒いローブを纏った魔法使い達が杖を一斉に真上に向け、キャンプ場を横切り、ゆっくりと行進して来る。その遥か頭上に宙に浮かんだ四つの影が、グロテスクな形に歪められ、必死にもがいている。

 

 多くの魔法使いが浮かぶ影を指差し、笑いながら次々と行進に加わった。群れが膨れ上がると、その中から光線がいくつも飛び出し、それが命中したテントは次々に潰され、倒された。燃えるテントの上を通過する時、宙に浮いた姿が突然映し出された。キャンプ場の受付人、ロバートとその家族だ。思わず助けようと駆け出すイリスの腕を誰かがグッと掴んだ。――シリウスだ。

 

「君達は森へ行きなさい、いいね」有無を言わせぬ強い口調だった。

「シリウス!」ハリーが叫んだ。

「僕も行く」

「駄目だ、お前にはまだ早い!」

 

 ハリーにピシャリと言い返し、シリウスは集団に向かって駆け出し、杖を振り上げた。アーサー、ビル、チャーリー、他の役人の魔法使いや魔女達も次々に交戦を始めている。だが、助けようとする者達よりも、集団に加わっている者達の方が数が多く、宙に浮いている四人の人質がいるために、戦いは難航しているようだった。

 

 一番小さい子供のマグルが、首を左右にグラグラさせながら、二十メートル上空で独楽のように回り始める。『どうしてあんな酷い事が出来るんだ?』――イリスは余りの残酷さに涙が滲み、視界がぼやけた。

 

 ハリーが無言でイリスの腕を引っ張り、四人は森へ向かって駆け出した。競技場への道を照らしていた色とりどりのランタンはもう消えていた。木々の間を黒い影が右往左往している。ひんやりとした夜の空気を伝って、子供たちが泣き叫ぶ声、不安げに叫ぶ声、恐怖におののく声が響いている。

 

 不意に周囲が明るく輝いた。ハーマイオニーが杖に光を点したのだ。それに習って、イリスとロンも光を掲げた。しかし、四つ目の光が生まれる事はない。三つの光源が重なり、昼間のように煌々とした空間が、ハリーの慌てふためいた表情を照らし出した。

 

「・・・僕、杖をなくしちゃった!」ハリーは信じられない事を言った。

「エーッ!」三人の声がハミングした。

 

 魔法使いは基本的に皆、杖は肌身離さず持っている。きっとこの暴動の最中で止む無く落としてしまったのだろうが、この逼迫した状況で丸腰でいるのはとても無防備だ。しかし、今更来た道を戻る訳にも行かない。三人は無意識にハリーを囲むような陣形を取り、森の奥へ向かってそろそろ歩き出した。

 

 やがて三人は月が生み出す白銀の光を浴びた一角に入り込んだ。ここなら開けているし、見晴らしも良い。四人はこの場所で待機する事に決め、腰を下ろした。ロンがそっと下ろしたクラムの人形が、サクサクと音を立てて落ち葉の上を歩く様子を、皆は疲れ切った表情のまま、ぼんやり眺めていた。

 

「下ろしてあげられたかな。あの人達」イリスが言った。

「きっと大丈夫さ。シリウスもいる。どうにかして助けるよ」ハリーが慰めた。

「でも、今夜のように魔法省が総動員されている時にあんな事をするなんて、どうかしてるわ」ハーマイオニーが憤然とした口調で呟いた。

「あんな事をしたら、只では済まないじゃない?飲み過ぎたのかしら。それとも単に・・・」

 

 ハーマイオニーの声が不意に途切れ、後ろを振り向いた。三人も急いでその方向を見た。誰かがこちらへ向かって歩いて来る音がする。四人は物も言わず、暗い木々の影から聴こえる音に耳を澄ませた。――突然、足音が止まった。

 

「誰かいますか?」ハリーが静かに言った。

 

 突然、イリスは()()()()()に覆い被さられた。巨大な手にグッと押さえ付けられたかのように背中が大きく曲がり、成す術なく落ち葉だらけの地面に突っ伏した。――すぐ傍で、誰かの息遣いを感じる。余りの恐ろしさに息を詰めたイリスの耳元で、静かな声がした。

 

()()()()()()()()()()

 

 ――嘲笑うような、深い憎しみの籠もった男の声だ。男は喉の奥で低く笑い、イリスの首筋を強く吸い上げ、鈍い痛みを残した。イリスは杖を握り締め、夢中で叫んだ。

 

「プロテゴ、護れ!」

 

 イリスの周囲に淡い半透明の防護膜が展開され、()()を近くから弾き飛ばしたように、魔法の膜が大きくドンと振動した。ロンとハーマイオニーが恐怖に怯えながらも立ち上がって杖を構え、ハリーがイリスの傍に駆け寄って来ようとした時、男の大きな声がした。

 

「モースモードル、闇の印よ!」

 

 すると巨大な緑色に輝く何かが暗闇から打ち上がり、木々の梢を突き抜け、空へと舞い上がった。四人は空に現れたものを凝視した。エメラルド色の星のようなものが集まって描く髑髏の口から、舌のように蛇が這い出している。それは高く昇り、緑がかった靄を背負って、真っ黒な空にギラギラと禍禍しい輝きを放った。イリスは無意識に自分の右腕を掴んだ。――信じられない、”闇の印”だ。

 

 周囲の森から爆発的な悲鳴が上がった。ハーマイオニーが恐怖におののき、逃げるためにイリスの手を掴んだ時、ポン、ポンと立て続けに音がして、どこからともなく二十人の魔法使いが現れ、四人を包囲した。次の瞬間、イリスが見たものは、自分目掛けて飛んでくる無数の赤い光線だった。




一生に一回で良いから、”隠れ穴”とハグリッドの小屋に遊びに行きたいな…。
分かりにくい所など御座いましたら修正致しますので、仰ってください!

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