ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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※1:残酷な表現、性的な表現、人を不快な気分にさせる恐れのある表現が含まれます。ご注意ください。
※2:5/15:ネーレウスの記憶シーン書き足し(エルサ、ダンブルドア、アーサー、イオとの会話)、文章を読みやすいように一部微修正しました。


炎のゴブレット編
Petal1.父の記憶


――『あのお方に忠誠を誓いなさい。さもなくば、お前は永くは生きられない』――

 

 夢の世界で聞いたメーティスの声が、真っ暗なイリスの意識内にポツンと落ち、大きな波紋を描いて覚醒へ導いていく。ゆっくりと瞼を開くと、イリスはベッドではなく――()()()()にいた。一体、ここはどこだろう。まるで頭の中に(もや)が掛かっているみたいにぼんやりして、まともに思考を巡らせる事が出来ない。鉛のように重い身体を引き摺って周囲を見渡してみると、ほんの十メートル程先に、見慣れた出雲神社の鳥居があった。

 

 帰らなきゃ。そう思って、イリスが足を踏み出した途端、視界の全てが白く染まって、何も見えなくなった。無数の細かな水の粒子が、イリスのわずかな動きに反応して舞い踊る。

 

 ――辺りは濃霧に包まれていた。イリスは先程までの記憶を頼りに神社を目指して歩き続けたが、いくら歩いても辿り着かない。何十分歩いただろう。もうとっくに着いている筈なのに。やがて息が切れ、疲れ果てて、イリスはがっくりと地面に座り込んだ。

 

 ふと、どこか聞き覚えのある音が聴こえてきた。――大きな鳥の羽ばたく音。それは段々近づいて来て、上空の方から霧を突き抜け、――イリスのフクロウ、サクラが飛んできた。懐かしい相棒の姿を見て、イリスはホッと安堵の溜息を零し、「サクラ」と呼んで微笑んだ。サクラは少女の目の前に止まると、不思議そうに大きな目を丸くして「ホウ」と一鳴きした。

 

 ――サクラの言葉を理解する事が出来ない。

 

 どうやらサクラもこちらの言葉を理解出来ないようで、何度話しかけても、サクラは『何と言っているのか分からない』と言わんばかりに首を傾げ、鳴くばかりだった。晴れるどころか、ますます濃く立ち込めるばかりの乳白色の霧が、イリスの不安感に拍車を掛ける。ついに彼女は強烈な孤独感に襲われ、一時的なパニック状態に陥った。

 

 しかし、うずくまり喘ぐように呼吸を繰り返すイリスの精神は、徐々に和らいでいった。――優しいピアノの旋律が聴こえてきたからだ。顔を上げ、ゆっくりと音源を辿ると、一メートル程先に古びたカセットレコーダーが置いてある。レコーダーの傍にはサクラがいて、心配そうにこちらを見つめていた。

 

 サクラは、イリスが精神的に落ち込んだ時、レコーダーから流れる音楽を聴いて元気を出している事を覚えてくれていたのだ。『たとえ言葉は分からなくとも、サクラは私を大切に想ってくれている』――イリスは涙を拭い、サクラに手を伸ばした。相棒はとびっきりの愛情を込めて小さな主人の指を甘噛みした。

 

 その時、微かな足音がして、少女とフクロウは揃って音のする方向を見た。霧の中にじっと目を凝らすと、淡い光がゆらゆら揺れながら、足音と一緒にこちらへ近づいて来る。――きっとイオおばさんが迎えに来てくれたんだ。一人と一羽は思わず見つめ合い、微笑んだ。ぼんやりとした灯りの中に、ついに人影が見えた時、イリスはカセットレコーダーを拾い上げ、サクラを促してそちらへ近づいた。

 

「おばさん?」

 

 しかし、影は答えなかった。やがて薄い霧のヴェールを纏い、イオが片手に懐中電灯を握ってやって来た。イオはイリスを見つけた途端、ニヤリと不気味に笑い、懐中電灯を大きく振りかぶった。振り上げた瞬間、それは輝く大剣(ロングソード)へ変わった。イオは茫然と立ち尽くすばかりのイリスに狙いを定め、剣を振り下ろす。

 

 ――もう少しでイリスの髪に剣の切っ先が触れるという時、イリスと剣の間を”緑色のもの”がシュッと入り込んだ。かつてリドルがイリスに与え、夢の中でイリスを苦しめた”空飛ぶ絨毯”だ。絨毯はイリスを守るように包んでふわりと空中に浮かび、あっという間に遥か上空へと連れ去った。

 

「イリス!行くな!どうして逃げるんだ!」

 

 地上で懐中電灯を振り回し、イオは叫んだ。

 

 イオが普段、”慈雨(じう)”を使用して張る結界は『悪意のある者が近づくと濃霧の幻を出して迷わせる』効果を持っていた。――イオは先程のイリスの様子を思い出し、唇を噛んだ。あの子は、いくら懐中電灯で逆光になっているとはいえ、目の前にいる私の事が全く見えていないようだった。まるで()()()()()()()みたいに。そして自分が近づくと酷く怯えていた。おまけに、あの子を攫った”緑色の何か”。明らかに尋常じゃない。

 

 絨毯に追い縋ろうとしたサクラが、やがて力尽きて戻って来た。イオはサクラを肩に留まらせ、家に駆け戻り、逸る気持ちを何とかして押さえつけながら黒電話を掴み、アーサーの電話番号を押した。

 

 

 サクラの追跡を振り切った絨毯は、上空でぴたりと止まった。まるでイリスの命令を待っているかのように。――どこへ行ったらいいんだろう。落っこちないように絨毯の端をしっかり掴み、こわごわ地上を見下ろすと、鎮守の社である豊かな森林全体を乳白色の霧が覆い、月明かりを反射して淡く輝いているのが、遠目でもはっきりと確認できた。先程のイオの凶行を思い出し、イリスは思わずブルッと震えた。どうしておばさんが――誰も信じる事が出来ない。まるでまだ悪夢を――塔の夢の続きを見ているみたいだ。夢ならどうか早く覚めてほしい。

 

『”恐ろしい夢”を見る事は?』――ふと脳裏に、スネイプの言葉がよぎった。

 

 スネイプにそう質問された後、確かに自分は”恐ろしい夢”を見た。――今思えば、まるでその事を予期していたかのような様子だった。先生はきっと夢の事を知っている。『スネイプ先生のところへ』――イリスが命じると、絨毯は音もなくスルスルと空を飛翔し始めた。

 

 

 イギリス―日本間は、飛行機で片道約十二時間かかる。絨毯はその倍の時間を必要とした。休む事なく一定の速度で飛び続ける絨毯は、イリスにとって丁度良い温度を維持したり、表面をよりフカフカにして良い芳香を漂わせたりして、主の体調を細やかに気遣った。イリスはそんな絨毯のおもてなしに導かれ、何度も眠ってしまいそうになった。

 

 だがその度に、耳元で得体の知れない笑い声がして、その余りの不気味さにハッと意識を取り戻す。『眠ってはいけない』――眠ってしまったら、その声の主が自分に害を成すような気がした。イリスは握り締めたカセットレコーダーから聴こえる音楽に全神経を集中し、眠りの誘惑から目を逸らし続けた。

 

 日本を飛び越え、大いなる海の冒険を終えた絨毯は、廃墟となった工場と汚れた川の近くにある荒れ果てた袋小路(スピナーズ・エンド)を見つけ、緩やかに高度を下げていった。ひしめき合うように建ち並ぶ家々を通り過ぎ、ある一軒家の玄関前でイリスを優しく下ろすと、まるで『自分はただの絨毯です』と言わんばかりの様子でクルリと丸まり、近くの壁に立てかかる。――そんな一連の様子を、疑問も恐怖もなく自然に受け入れてしまえる程に、今のイリスは疲弊し切っていた。

 

 イリスはふらつく体に鞭打って、古びた造りの扉をノックした。――ガチャリと鍵の外される音がして、開いた扉の隙間からスネイプの警戒し切った顔が覗き、少女を見つけた途端にその表情は驚愕一色に染まった。スネイプは油断なく周囲を見張りながら、イリスを中に入れ、扉を閉める。

 

「君の家族から我々へ向け、『君が行方不明になった』と知らせがあった。今までどこにいた?それに、どうやってここへ?」

「空の上に。絨毯に連れて来てもらいました」イリスは今にも閉じようとする頑固な瞼と戦いながら応えた。

「絨毯は外にいます」

 

 スネイプは何か言いたそうに口を開閉させていたが、諦めた様子で杖を構えて玄関の扉を開け、イリスを連れて来たと言う”絨毯なるもの”を確認しに行ったようだった。やがて戻ってきたスネイプは、警戒心も露わに眉を潜めて唸った。

 

「ゴーント。あれは非常に強力な”闇の魔術”が編み込まれている。一体、どこであんなものを」

「二年生の時、リドルから譲り受けました」イリスは挑むような口調で遮った。

「『君の祖母の一族に代々伝わっていたものだ』と」

 

 ”祖母”という単語をイリスが口にした瞬間、スネイプの顔がより一層険しくなった。――その反応を見て、彼女は確信した。恐らく先生は、夢の秘密を知っている。

 

「昨日の夜、私は夢の中で、祖母・・・メーティスに会いました。とても”恐ろしい夢”でした。先生はこの夢の事について、何かご存じなのですか?」

 

 スネイプはゆっくりと目を閉じ、噛み締めた唇の隙間から長い溜息を吐き出した。やがて彼はダイニングルームにイリスを誘い、テーブルに二つ設置された椅子の一つに腰掛けるよう促した。

 

「君は”体を蝕む闇の力(オブスキュラス)”を知っているか?」対面の椅子に座るや否や、スネイプは言った。

「オブスキュラス?」

「直訳すると”抑圧された力の具現”、有体に言えば”純粋な魔法力の塊”だ。太古の昔に存在していたもので、現在は殆ど実例を見ないとされている。

 オブスキュラスは、魔法族の子供が何らかの理由により、魔法力を抑圧せざるを得ない状況で発生する。一度発生すると、もう二度と消す事は出来ない。暴力や苦痛に満ちた怒り等、マイナスな要因が引き金となるか、宿主が弱り制御を失うと、オブスキュラスは体外へ放出される。そして主に、宿主の苦痛の源を攻撃するが、周りにも被害を与えるとされている」

 

 イリスがオブスキュラスの事を凡そ理解した事を確認すると、スネイプは話を続けた。

 

「君の祖母、メーティス・ゴーントは、先日の夢を通して、君を『闇の帝王に忠誠を尽すための存在』へと生まれ変わらせた。現在の君の体には、先程のオブスキュラスに()()()()()の”呪い”が組み込まれている。

 今後、君が闇の帝王を敵とみなした時、また彼を滅ぼすために行動した時、呪いは増大する。あの人に仇名す事自体が、非常に大きなマイナスの要因――言わば『苦痛』となるからだ。君があの人を敵と認識する限り、呪いは際限なく膨れ上がり、やがて制御する事が出来なくなった時、放たれた呪いの力は主に苦痛の源である、()()()()()()()()

 

 イリスはスネイプの言葉を理解するのに、多くの時間を必要とした。『闇の帝王に忠誠を尽すための存在』――『あの人に仇名すと、呪いは増大し』――『放たれた呪いが自分自身を攻撃する』。スネイプは茫然とするばかりの彼女を静かに見つめ、薄い唇を開いた。

 

「君の父、ネーレウス・ゴーントは、わずか六歳の時に呪いが発現し、その後十七年間生きた。あの人に歯向かう毎に呪いは膨れ上がり、ついに彼は体内で暴れる呪いを押さえつけるために、他の魔法が使えなくなった。そしてあの人の前で自らの呪いを解放し、妻と共に死んだ」

 

 ――イリスの感情が爆発した。お父さんが呪いのために苦しみ、死んだ?そんな大事な事を、何故今まで誰一人、教えてくれなかったんだ!椅子を蹴立てて立ち上がり、彼女はよろめきながらスネイプの胸元に縋り付いた。

 

「どうして――どうして――教えてくれなかったのですか。先生は今までずっと私の傍にいて下さっていたのに!」

「教えたとして、それでどうなる?」スネイプは激情を秘めた声音で唸った。

「君が真実を知る事で、呪いが消えるのか?悪戯に不安を煽るだけだ。・・・私が出来る事は、来たるべき時が来るまで、君を見守り続ける事だけだった」

 

 

 二人の間に迸る情感の炎が鎮まると、今度は沈黙のヴェールが舞い降りた。俄かにイリスはまるで極寒の地に放り込まれたかのように、ガタガタと震えが来て止まらなくなった。

 

「案ずるな。あの人に敵意を抱かない限り、呪いが君を害する事はない」

 

 スネイプは再びイリスに席に着くよう勧めると、キッチンへ行って大皿を取って来た。中身を小皿に取り分けて蜂蜜を掛けると、スプーンを添えて差し出す。

 

「食べなさい。その後は湯浴みをし、眠るべきだ」

 

 イリスは隈のくっきり浮いた目で、お皿の中を見つめた。――レーズン入りのオートミールだ。皿から顔を上げると、スネイプがこちらを観察するかのようにじっと見つめている。不意にその眼差しと、霧の中で見たイオの笑みが重なり、イリスはスプーンに手を伸ばす事が出来なかった。

 

 スネイプはイリスのその様子を見て取り、黙って席を立って、小皿とスプーンを持って戻って来た。そして大皿からオートミールを取り分け、スプーンで掬って食べて見せた。

 

「ご覧の通り、毒は入っていない」自分の皿に蜂蜜を一匙足しながら、スネイプは言った。

「君がオートミールを口にする事で、呪いは増大しない。食べなさい」

 

 イリスはおずおずとスプーンを手に取り、オートミールを掬って口に入れた。――蜂蜜と牛乳と穀物、レーズンの素朴で優しい味が口内に広がった。冷たいけれど、不思議な暖かみを感じる”愛情の籠もった味”だ。それは舌を通じて脳に伝わり、彼女の中に巣食う呪いの一部を少しだけ遠ざけた。

 

 その時、イリスは気づいた。――霧の中で見たイオの恐ろしい姿は、()()()()だったのだと。イオは必死の形相で自分の名前を呼びながら、懐中電灯を振り回し、一心にこちらへ向かっていた。冷静に考えてみれば、おばさんが自分を傷つけようとする筈がない。どうして、あんな”見間違い”をしてしまったのだろう。

 

「家に帰りたい」イリスはそう言った途端、熱い涙が零れて止まらなくなった。

「言われずとも、君は数日後に家へ帰る予定だ」

 

 スネイプは冷静に切り返し、しゃくり上げながらオートミールを食べ続けるイリスを呆れが混じった目で眺めた。薄い唇が皮肉気に捲れ上がる。

 

「君は本当に”泣き虫”だな。これから先が思いやられる」

 

 イリスはその後、蜂蜜入りのオートミールをもう一杯お代わりし、湯浴みをして、スネイプのベッドを借りて横になった。スネイプは無地のティーカップに暖かいカモミールティーを淹れてくれた。お礼を言って受け取ったものの、イリスはそれに口を付ける事無く沈んだ声で囁いた。

 

「眠るのが怖い」

「何故?」スネイプが訊いた。

「眠りそうになると、耳元で・・・誰かが冷たく笑う声が聴こえるんです」

 

 スネイプは暫くの間、何も言わなかった。しかし、やがて不自然な程に優しい声音でこう言った。

 

「それは幻聴だ。さあ、お茶を飲みなさい。私が傍にいる」

 

 イリスは安心してカモミールティーを飲み、スネイプの見守る中であっという間に眠りに就いた。規則正しい寝息を立てる少女から視線を外し、スネイプは濁った窓ガラス越しに映る月を睨んだ。――月は欠ける事無く満ち、美しい輝きを放っている。

 

 

 寝室の扉を控えめにノックする音が響き、スネイプはゆっくりと振り返った。

 

「眠ったかね」

 

 扉を開けて静かに入って来たのは、上質な漆黒のローブに身を包んだ魔法使い、ルシウス・マルフォイだった。スネイプがしっかりと頷き、呪いが無事発動した事を告げると、ルシウスは満足気に微笑んだ。しかしスネイプの表情はそれに迎合する事無く、頑ななままだ。その様子を見咎め、ルシウスは言った。

 

「君が気に病む必要はない。呪いは必ず発動する。()()()()へ来させれば済む事だ」

「哀れな娘です」スネイプはポツリと呟いた。

「この子は眠る事を恐れていた。今はどのような夢を見ているのでしょう」

「滅多な事を言うな、セブルス」ルシウスはスネイプに詰め寄った。

「今や我らの行動は、この子を通してあのお方に筒抜けだ。()()()()()()()は、あのお方にこの子を差し出しておく必要があると言っただろう。その事が、引いては彼女の為にもなるのだ」

 

 その時、柔らかな笑い声がして、二人は凍り付いたように息を詰め、声の主を探した。――イリスだ。幸せな夢を見ているのだろう、かすかに微笑んでいる。ルシウスが静かに近づくと、少女は彼のローブの端に顔を寄せて「ドラコ」と呟いた。ルシウスのローブに染み込んだ”マルフォイ家の屋敷の香り”から、ドラコと過ごした幸福な日々を思い出しているのだろう。

 

 スネイプの目の前で、ルシウスのいつも冷たく取り澄ました表情が、一転して”父親の顔”になり、彼はベッドに跪いて少女の頭を優しく撫で、頬にキスをした。

 

「イリス。辛い思いばかりさせてすまない。もう少しの辛抱だ。二度と君に涙は流させないと約束する」

「良いのですか、ルシウス」スネイプは静かな声音で(たしな)めた。

「あのお方が・・・」

「分かっている!」

 

 苛立ちをたっぷり含んだ声で言い返し、ルシウスはベッドから立ち上がった。――もうすっかり元の表情に戻っている。鋭利な灰色の瞳が、扉の先を射抜いた。

 

「それに、ようやく邪魔者が来たようだ」

 

 

 イリスは夢の世界で、一年生の時にマルフォイ家の屋敷で過ごしたクリスマス休暇の思い出を追体験していた。大好きなドラコと思う存分遊んだ、輝きと胸の高鳴りに満ちた記憶。屋敷の前に広がる、一面の美しい雪景色の中で、イリスはドラコと一緒に雪合戦をしたり、ふざけて転げ回って笑っていた。

 

 雪塗れになった二人がフカフカの雪の上に倒れ込んだ瞬間、一面の雪原は――”緑豊かな草原”へと変わった。

 

 イリスはこの光景を、かつて見た事があった。――リドルに誘われて図らずも見た、どことも知れない谷の上での記憶。その思いを肯定するかのように、隣でゆっくりと起き上がったのはドラコではなく、リドルだった。彼は優雅な動作でパチンと指を鳴らした。

 

 ――その瞬間、イリスの世界は()()()()()。真っ白だ。何もない。

 

「もう君には必要のないものだ」リドルは冷笑した。

 

 リドルによって唐突に全ての記憶を奪われたイリスは、声もなくその場に崩れ落ちた。――何も思い出す事が出来ない。『ここはどこだ?』――『自分は誰だ?』――『一体、何を失ったんだ?』

 

 その時、イリスの前に――銀色の長い髭を蓄えた老人が現れた。その青く澄んだ瞳は、激しい怒りに燃えている。老人は淀みのない動きで杖を振るった。杖先から噴き出した炎がリドルを舐めると、彼の身体の表面がズルリと剥け、中から蛇を彷彿とさせるような外見の――背の高い痩せた男が姿を現した。

 

「もう遅いぞ、ダンブルドア!」

 

 老人がイリスを抱き抱え、夢の世界から離脱しようとする様子を見ながら、男は冷たい声で哄笑した。

 

「この娘は俺様のものだ!」

 

 

 ガチャン。何か硬いものが砕け散る音がして、イリスは意識を取り戻した。――音のした方向へ顔を向けると、ベッドのすぐ傍に、たっぷりとした銀色の髭を湛えた老人がいて、大きく身を乗り出した状態でこちらをじっと見つめている。きっとその時に引っ掛けたのだろう、一組のティーカップとソーサーが割れて、その破片がサイドテーブル上に散らばっていた。

 

 この老人は誰なのか、イリスは懸命に思考を巡らせて、思い出した。この人は――”ダンブルドア先生”だ。その瞬間、頭の中が熱いもので満ちて()()()()()()()()()()()。彼女はサイドテーブルに手を伸ばし、鋭く尖った陶器の欠けらを掴み取ると、自らの首に突き刺した。

 

 ブツッと音を立てて、イリスの首の薄皮が切れ、血が滲んでいく。しかし、血はそれ以上流れる事はない。ダンブルドアがその手をしっかりと掴んでいるからだ。イリスは欠けらを力任せに握り込んだ。指の隙間から、血がボタボタと垂れ落ちて、ダンブルドアの手を汚していく。

 

「何故止める?」イリスの口が勝手に動き、笑った。

「”お前がこれからしようとしている事”だ。今度はこの娘を使い捨て、殺すのか?」

 

 イリスの言葉を受け、ダンブルドアの手の力は明らかに弱まった。その隙を突いて、彼女はダンブルドアの拘束から抜け出し、彼の心臓に狙いを定めて、自らの血で真っ赤に染まった欠けらを――力の限り、突き刺した。

 

 肉を断つ鈍い音がして、ダンブルドアのローブからどす黒い血が滲み始める。しかし彼はそれを気にする事無く、少女を優しく抱き締めた。老人の深く閉じた瞼から涙が滲み、雫となってイリスの手に滴った時、頭の中で小さな呻き声が響いて、彼女の体は自由を取り戻した。イリスは余りの事にどうする事も出来ず、むせ返るような血の匂いの中、ただ力なく咽び泣いた。

 

「すまない」ダンブルドアは涙に滲む声で、その言葉を何度も繰り返した。

「きみの中に流れる”出雲の血”に甘えていた。いつかは必ず言わねばならぬことだったと言うのに」

 

 

 ダンブルドアは全てを話して聴かせた。――イリスには呪いを内包した”スリザリンの血”だけでなく、同じだけの力を持つ”出雲家の血”も流れていた。双方がお互いを滅ぼそうと戦っていたために、呪いの発動はダンブルドアが予期していたよりもずっと遅くなった。イリスが一つずつ年を重ねていく度に、ダンブルドアは”出雲の血”に対して期待を抱くようになった。これほど年を経ても、彼女は呪いの予兆である夢の片鱗すら見てはいない。『”出雲の血”は、呪いを打ち破るかもしれぬ』――しかし、その期待は儚くも消え去った。長い戦いの末にスリザリンは出雲を退けた。そしてより増大したスリザリンの血は、今まで以上に強力な呪いを生み出した。”今まで以上に強力な呪い”――イリスはその言葉を聞いて、先程スネイプに手当てをしてもらったばかりの、包帯を巻いた自分の手をじっと見つめた。

 

 その時、何の前触れもなく、懐かしい親友達――ハリー、ロン、ハーマイオニーの顔がポッと思い浮かんで、イリスの胸に熱い感情が込み上げた。

 

「あと何年、生きられるのですか」イリスは蚊の鳴くような声で訊いた。

 

 ダンブルドアは、その問いに答える事が出来なかった。イリスは震える手で、顔を覆った。

 

「一人にしてください」イリスは悲しみに喘いだ。

「お願いです・・・ひ、一人に、して・・・」

 

 ――微かな衣擦れの音と共に、パタンと静かに扉の閉じられる音がした。イリスは絶望に打ちひしがれ、力なく泣き崩れた。『たとえ今は辛くとも、自分に出来る精一杯の事をして一生懸命生きていれば、いつか必ず幸せになれる』――彼女は苦しい現実と立ち向かう内に、無意識の中でそんな信念を抱くようになった。だが、現実は無情だった。ヴォルデモートの庇護がなければ、自分は永く生きられない。

 

 ふと視界の端に何かが映り、イリスはサイドテーブルに視線を送った。――父がくれたカセットレコーダーが、部屋の灯りを反射して、鈍く表面を光らせている。手を伸ばし、それを手に取った。 

 

「お父さん」イリスはポツリと呟いた。

「私はどうして生まれてきたの?」

 

 問い掛けと共に生まれた涙が頬を伝って、カセットレコーダーに滴った。――その時、カチャンと音を立てて、レコーダーのテープ挿入口が開いた。

 

 イリスはびっくりして、レコーダーをまじまじと見つめた。以前、どれだけ頑張っても開かなかった挿入口が、急に開いた。挿入口からカセットテープをそっと取り出すと、何気なく裏返して、息を飲んだ。

 

 ――裏面には無地のシールが貼ってあり、そこには曲名のタイトルではなく金色の文字で『イリスへ』と書かれている。

 

 ”カセットテープには、A面とB面がある”。昔、イオに教えてもらった事を思い出し、イリスはテープをひっくり返して挿入し、再生ボタンを押し込んだ。暫くは、ジジジと磁気テープだけが回る、優しいノイズ混じりの静寂が続いていたが、やがてそれは破られた。

 

『イリス』優しい男性の声だ。少しリドルに似ていたが、その声は労りに満ちていた。

『これを聴いているという事は、君の”呪い”は発動してしまったんだね。このテープをダンブルドアに渡してほしい。僕達の一族についての情報と、僕自身の記憶が入っている。どうかこれが少しでも、君の人生の助けになる事を願って』

 

 テープの再生はそこで終わり、再びガチャンと挿入口が開いた。イリスはテープを引き抜き、部屋を飛び出してダンブルドアを呼び戻した。彼はテープを暫く見つめた後、杖を振るって、丁寧に磨かれた浅い石製の盆を呼び出した。外縁にはルーン文字が彫られていて、中は光を放つ銀白色の物質がゆらゆらと揺れている。

 

「”憂いの篩(ペンシーブ)”じゃ。他者の記憶をこの中に入れると、それを追体験することができる」

 

 ダンブルドアは、テープを静かに傾けた。するとテープの端から、銀色に輝く糸のような流れが一筋、篩の中に落ちていく。ダンブルドアに促され、盆に顔を近づけた途端、イリスはネーレウスの記憶の世界へ入り込んだ。

 

 

 ――気が付くと、至る所にノイズが走っている不安定な白黒の世界に、イリスはダンブルドアと共に立っていた。まるでボロボロにフィルムが傷ついた映画を観ているように、世界中の彼方此方に雑音やノイズが走っている。目を凝らすと、二人は粗末な造りの家の中にいるようだった。

 

 雑音の中に女性のか細い悲鳴が聴こえ、イリスは声のした方向へ顔を向けた。――襤褸切れを纏った美しい女が一人、両手で地面を搔いて、扉もない簡素な部屋から逃げ出そうとしていた。女の両足は麻痺しているように、ピクリとも動かない。彼女はひどく泣いていて、その身体には薄い布で隠し切れない程に、痛ましい暴行や鬱血の跡があった。

 

「こんな所はもう嫌!」

 

 女は悲しみで喘ぎながら、火のついていない暖炉の前で座り込んでいる少女に話しかけた。

 

「メローピー、あなたも・・・」

 

 メローピーと呼ばれた少女はゆっくりと振り返った。メローピーのその絶望に打ちひしがれているような顔は、『女が今から何をするつもりなのか』を悟った瞬間、歪んだ笑みに変わった。彼女は歓喜に震えた声で叫んだ。

 

「役立たずのマイアが逃げるわ!〖兄さん、マイアを捕まえて!〗」

 

 イリスは、最後にメローピーが唇の端から空気のように漏らした言葉の意味を理解する事は出来なかったが、それが良くないものである事だけは分かった。マイアと呼ばれた女の顔が恐怖に引き攣り、先程自分が逃げ出したばかりの部屋を見つめ始めたからだ。やがてそこから、髪に埃がへばり付いた不気味な風貌の男が出て来ると、マイアは恐れおののきながらも鋭く口笛を吹いた。

 

 するとどこからともなく絨毯が飛んできて、マイアを乗せてふわりと浮かんだ。追いすがる男に彼女は絨毯の上から杖を向け、閃光を放った。

 

 

 眩い光の乱反射が治まった頃、世界はモノクロからセピア色へ変わっていた。――こじんまりとした、清潔感のある部屋の中には様々な種類の植物が垂れ下がり、中央に設置された大きな作業用テーブルの上には、魔法薬の調合に必要な道具が整頓して並べられている。綺麗に磨かれた窓からは、穏やかな田園風景が見えた。暖炉の前にあるロッキングチェアに座り、マイアは幸せそうな顔で膨らんだお腹をさすっている。奥の方のキッチンでは、男が口笛を吹きながら料理を作っていた。

 

 ふと目の前に下がった植物から葉っぱが数枚ばかり、ひらひらと落ちていった。イリスが床に散らばった葉っぱから視線を戻した時、マイアはロッキングチェアではなく、ベッドに伏していた。病に侵されているのか、身体は痩せ、顔色も良くない。弱々しく咳き込んでいると、小さな少女が慌てて駆け込み、悲しみの表情を湛えながらベッドの傍に座り込んだ。

 

「メーティス。愛おしい子」マイアは娘の頬をそっと撫でた。

「私の命が尽きる前に、お前に言っておかなければならない事がある」

 

 ――その瞬間、世界全体を覆い尽くす程の砂嵐が突然発生し、イリスとダンブルドアを襲った。彼女は思わず目を深く瞑り、その場にしゃがみ込んで横殴りに吹き付ける暴風の衝撃に耐えた。

 

 やがて嵐は去り、イリスがそっと目を開けると、かつてマイアが逃げ出した――あの粗末な造りの家に再び立っていた。私服に身を包んだリドルとメーティスが、マイアに乱暴をした男と対峙している。あの時より年老いたものの、男が放つ不気味な雰囲気は変わらないままだった。男はメーティスを無遠慮に眺め、ニヤッと笑い、唇の端から空気が抜け出るような奇妙な言葉を喋った。――その途端、リドルの目は怒りの感情に熱されて赤く燃え上がり、杖を振り上げ、光線を放った。それは狙い違わず命中し、男は身体中を切り裂かれて、自らが生み出した夥しい量の血の海に溺れ、動かなくなった。何か靄のようなものがリドルの身体から抜け出て、メーティスの捧げ持つ小さな指輪の中へ吸い込まれていく。

 

 そこでふとリドルが()()()()()()()()、気さくに微笑んだ。

 

「おや。可愛らしい観客がいるね」

「まあ、本当に」メーティスも笑った。

 

 『違う、これは記憶だ』――イリスは思わずたじたじと後ずさりながら、自分に何度も言い聞かせた――『こちらに干渉できる筈がない!』しかし、イリスのその思いを踏みにじるかのように、二人は彼女に近づいて、捕えようとするかのように手を伸ばした。

 

 その瞬間、ダンブルドアがイリスの前に進み出て杖を構えた。杖先から迸る炎の海が、世界を焼き尽くしていく。真っ赤な炎の中に消える寸前、メーティスは「残念(Oops)!」と言って微笑んだ。

 

「記憶の一部が、呪いに侵されておる」

 

 ダンブルドアはイリスと共に、自ら作った結界の中から、業火の燃え盛る外の世界を眺めながら、静かに口を開いた。

 

「呪いが全ての記憶を浸食する前に、焼き払わねば」

 

 

 永遠に続くかと思われた火炎の世界が治まった頃、イリスは立派な造りの屋敷の一室に立っていた。部屋の真ん中には、上質な木材で作られたベビーベッドが設置されており、メーティスがその傍に座って、中ですやすやと眠る赤子を見つめている。

 

 しかしその平和な時間は長く続かなかった。突如として、凄まじい破壊音と人々の怒鳴り合う声が屋敷内に響き渡る。

 

「殺せ、レオ・ブラックだ!”従者(サーヴァント)の忌まわしい犬”め!」

「奇襲だ!逃げろ!メーティ・・・」

 

 レオ・ブラックと呼ばれた男の声は、途中で途切れた。やがて扉を荒々しく蹴り飛ばし、七名の魔法使い達が殺気立った表情で雪崩れ込んで来た。メーティスは生まれたばかりの赤子を守るようにして、ベビーベッドの前に立つ。そして居並ぶ敵の中からダンブルドアを見つけると、美しい目を輝かせ、歌うような声でこう囁いた。

 

「ねえ、親愛なるダンブルドア先生。()()()()()()()()()()()()()()?」

「黙れ、この――悪魔め!」

 

 ダンブルドアが凍り付いたように動きを止めた一方で、残る魔法使い達はメーティスを蔑む言葉を投げつけ、戦闘を開始した。戦いは熾烈を極め、メーティスは産後の肥立ちの悪い体でありながら、七名の優秀な闇祓いのうち、四名を道連れにして死んだ。生き残った二人の魔法使いは血走った目を、ベビーベッドの中の赤子へ向ける。しかし、それをダンブルドアが阻んだ。

 

「殺してはならぬ。それでは”死喰い人”共(やつら)と変わらぬ」

「この子は普通の子じゃない、ゴーントの子だ!生かしておけば、いずれ世の災いとなるぞ!」

「そうはさせぬ。わしが育てる」

「馬鹿を言うな。今に寝首を搔かれるぞ」

 

 記憶の中のダンブルドアは戦友たちの忠告を物ともせず、赤子を抱き上げた。無垢な感情を湛えた瞳が、ダンブルドアを見つめ返す。――その行動がメーティスの言葉に影響を受けた為なのか、彼自身の意志なのか、イリスには判断しかねた。ただ、自分の傍で静かにその様子を眺めている現在の彼の様子を見る事は、彼女には(はばか)られた。

 

 

「父さん。僕、”怖い夢”を見た」

 

 後ろから幼い声が聴こえて来て、イリスは振り返った。――いつの間にか、世界は彩りに満ちていた。少年は淡い褐色の瞳を翳らせ、枕をギュッと抱えて、書斎で書き物をしているダンブルドアに話しかけている。

 

「母さんが怖い顔をして言うんだ。『ヴォルデモートに従うために僕は生まれてきた。従わないと役立たずだから死ぬんだ』って」

 

 メーティスが夢を通して我が子に与えたのは”愛情”ではなく”死に至る呪い”だった。席を立ち、少年の前にしゃがみ込むダンブルドアを仰ぎ見て、彼は小さな声で言った。

 

「僕、ヴォルデモートのところへ行かなくちゃ」

「ネーレウス」ダンブルドアは静かに少年の名前を呼んだ。

「それはきみの意志か?」

 

 ネーレウスと呼ばれた少年は暫く黙りこくった後、首を横に振った。ダンブルドアは小さな肩に手を置き、揺るぎない声で言い聞かせた。

 

「きみがどう生きるのか。それはきみの母でも、ヴォルデモートでも、わしでもない。他の誰が決めるのではなく、きみ自身が決めるのじゃ」

「僕が決めていいの?」

 

 ネーレウスが素直に尋ねると、ダンブルドアは微笑みながら頷いた。ネーレウスは枕を強く抱き締め、恥ずかしそうに耳を真っ赤にしながら呟いた。

 

「僕、父さんが好き。父さんと一緒にいたい」

 

 ダンブルドアはギュッと強くネーレウスを抱き締めた。

 

 

 不意に耳をつんざくような悲鳴が響き渡り、イリスは声のした方向へ駆け出した。お父さんの声だ。ダンブルドアが少年を抱き締めている書斎の、向かいの部屋から聴こえて来る。彼女は躊躇う事なく扉を開けた。

 

 ――部屋の中は、地獄のような有様だった。闇の帝王を敵とみなした事で、ネーレウスの呪いが増大したのだ。ダンブルドアの目の前で、少年の体から黒い液体状の禍禍しい魔法力が放出され、彼自身を傷つけていく。

 

「父さん、苦しいよ!助けて!」

 

 ネーレウスは血を吐き、泣き叫んだ。ダンブルドアがすぐさま”失神呪文”で眠らせると、黒い魔法力はじわじわと彼の肌に染み込むようにして消えていった。小さな傷だらけの体を抱き締めて、ダンブルドアは茫然としたまま動く事が出来なかった。

 

 

「ニュート、きみの書物で”オブスキュラスを魔法の泡で閉じ込めることができた”と・・・」

 

 丹念な手当てを受け、ベッドの上で穏やかに眠るネーレウスを見つめながら、ダンブルドアは並び立つ老齢の魔法使いに話しかけた。しかしニュートと呼ばれた魔法使いは、力なく首を横に振るばかりだった。

 

「アルバス。あれは”宿主が死んだ後”の事だ。宿主がまだ生きている状態ではどうする事も出来ない。しかもこの子の場合は、オブスキュラスと構造自体は非常に良く似ているが、呪いを組み込まれた人工物・・・つまり()()()()()だ」

 

 ニュートは静かに唇を引き結ぶダンブルドアの肩に手を置いた。

 

「君に友人として忠告しておく。この子は君の手に負える存在ではない。魚は陸の上では生きられない。あるべき場所へ帰すべきだ」

 

 

 俄かに弾けるような熱気が立ち込め、気が付くとイリスは懐かしいホグワーツ魔法魔術学校の大広間に立っていた。――厳正なる組分けの結果、ネーレウスはスリザリン生になった。周囲から注がれる畏怖の視線を物ともせず、友好の手を差し伸べたルシウス・マルフォイと特に親しくなり、ネーレウスは寂しいばかりの学生生活にやっと拠り所を見つける事が出来た。

 

 ルシウスは人望に厚く勉学に秀でているだけでなく、”闇の魔術”に関する造詣も非常に深かった。ネーレウスは純粋な知的好奇心に駆られ、その世界へ足を踏み込んだ。”決してダンブルドアが教えてくれない世界”――そこは、善悪の区別がない無限の可能性に満ちていた。厳しく難解である筈のその場所で、呪いを制御する方法を編み出し、まるで水を得た魚のように自在に泳ぎ回るネーレウスを見初め、食指を伸ばす者がいた。

 

 ネーレウスは、いつものように書斎で書き物をしているダンブルドアの所へ向かった。大きな書斎机の上には、血に関する魔法や呪い、古の魔法、オブスキュラスについての書物が山のように積んである。

 

「父さん。僕はヴォルデモートの下へ行く」

 

 ダンブルドアは書物から顔を上げ、じっとネーレウスを見つめた。

 

「それは君の意志かね」

「そうだ。僕の意志さ」ネーレウスは冷たく吐き捨てた。

「ならば止めはせぬ。行くがよい」

「ああ行くさ。でもただでは行かない。あなたの首を手向けに持っていく」

 

 そう言うや否や、ネーレウスは杖を引き抜いて、その先をダンブルドアに向けた。――しかし、手がぶるぶると震え、焦点を合わせる事が出来ない。ダンブルドアは穏やかな口調で、同じ言葉を繰り返した。

 

「それ()君の意志かね」

「うるさい!黙れ!僕の苦しみなど、何も知らない癖に!」

 

 ネーレウスは激昂し、杖を振るってダンブルドアをその場から引き摺り下ろし、床に引き倒した。そして抵抗せず、されるがままとなっている老人に馬乗りになり、杖をその胸に押し当てた。

 

「僕を殺してみろ!」ネーレウスは怒鳴った。

「お前のせいで、僕は本当に行きたい所へ行けない!したい事だって出来ない!どうしてあの時、母さんと一緒に僕を殺さなかった!どうして・・・」

 

 ネーレウスは言葉の途中で杖を取り落とし、老いた養父の胸に縋って泣き崩れ、蚊の鳴くような声で囁いた。

 

「・・・()()()()()?」

 

 

「ルシウス、僕は”死喰い人”にはなれない」

 

 親友が放った突然の”決別の言葉”に、ルシウスは驚いて目を見開いた。

 

「そんな。まさかダンブルドアに”破れぬ誓い”を・・・」

「違う」ネーレウスは首を横に振り、微笑んだ。

「そんなものよりずっと強く抗えないものだ。・・・僕は、父さんを愛している」

「そんなものは()()()()だ!」

 

 ルシウスは激昂し、ネーレウスの肩を掴んで揺さぶった。

 

「目を覚ませ、ネーレウス。あいつは聞こえの良い言葉や態度で、君を懐柔しているだけだ。君の生きるべき場所は()()()()だ。今ならまだ間に合う!あのお方も君を哀れんでいらっしゃる。このままでは君は、自分の呪いに食われて死ぬぞ!」

「母さんは僕に”愛情”ではなく”呪い”を与えた」ネーレウスは静かに応えた。

「ヴォルデモートは僕に、今までの悪行に対する償いとして”ダンブルドアの殺害”を命じた。そんな場所で長く生かされるより、例えほんの僅かな間でも、僕は暖かく安らかな場所で生きてゆきたい」

「愛のために君は死ぬと言うのか!」

 

 ネーレウスは何も言い返さなかった。ルシウスは友人の決心が固く揺るがない事を思い知り、彼の肩から力なく手を下ろし、その場に崩れ落ちた。

 

「頼む、ルシウス。君はとても良い友達だった。傷つけたくない」

 

 そう言って背を向けたネーレウスに向けて、ルシウスは灰色の目に涙を湛え、歯を食い縛りながら”服従の呪文”を唱えた。ネーレウスが振り向き様に放った呪文とぶつかり合い、周囲は一際明るく輝いた。

 

 

 眩しくて瞑っていた瞼をそろそろと開くと、辺りの景色は鬱屈とした森の中へ変わっていた。以前に何度か立ち入った事のあるイリスは、ここが何処かすぐに分かった。――禁じられた森だ。

 

 樹齢何千年の樫の古木が複雑に絡まり合い、生い茂った枝葉の隙間から差し込む陽光が、前方にある小さな泉を照らしている。泉のほとりにはネーレウスがいた。イリスはそっと近寄って、父の隣にしゃがみ込んだ。ネーレウスは杖を足元に放り出し、座り込んで、ぼんやりと澄んだ水面を見つめている。

 

 後方で草を踏み締める静かな音がして、イリスは振り向き、驚いて目を丸くした。――エルサ、自分のお母さんだ。スリザリンの制服に身を包んだその姿は、イリスが大好きなイオおばさんに良く似ていた。エルサは迷いのない足取りでネーレウスの傍までやって来ると、彼の隣(イリスの反対側だ)にそっと座った。ネーレウスは水面からエルサへ視線を移し、軽く笑った。

 

「やあ。君は確か、エルサ・イズモだね」

「ええ」エルサはネーレウスを見つめ、儚げな微笑を浮かべた。

「あなたと同学年よ。同じ寮生でもあるわ」

 

 イリスは若き両親の様子をじっと見守っていた。どうやら二人はこの時まで、面識は殆どなかったようだった。ネーレウスは傍らに転がした自分の杖を取り、訝しげな口調で呟いた。

 

「可笑しいな。”人避けの呪文”を重ね掛けした筈なんだけど」

「私は人じゃないわ。動物だもの」エルサはクスクス笑った。

「”動物避けの呪文”も掛けたよ。”敵避けの呪文”もね」ネーレウスは納得がいかないと言わんばかりの口調だ。

「この泉に来る時は誰にも邪魔されたくないから、ありとあらゆる魔法を掛けている。人一人、動物一匹足りとも、この場所を認知する事すら出来ない筈だ。・・・()()()()()()()()()()。一体どうやって?」

 

 ネーレウスの警戒した眼差しを受けても、彼の杖先が自分へ向けられていても、エルサは動揺する素振りすら見せず、静かに微笑んだままだった。彼女の青い瞳は曇り一つなく澄んでいて、まるで世界の全てを見通しているかのように静謐な輝きを放っている。ネーレウスは暫くの間、魅入られたように彼女を見つめていたが、やがて杖を放り出し、泉へ視線を戻した。

 

「僕が心を覗けない学生は、君が初めてだよ」ネーレウスが皮肉混じりに笑った。

「怯えないで。私はあなたの敵じゃない」エルサは静かに応えた。

「あなたはここへ来て、一人で何をしているの?」

「考え事さ。誰にも邪魔されずに思案したい事が、僕には山ほどあるからね」

 

 ネーレウスは一旦そこで言葉を区切り、暫くしてから口を開いた。

 

「今日、大切な友達を失った。まるで兄のように慕っていた人だった。僕は本当は・・・彼と共に生き、同じ道を歩みたかった。だけど、それは僕の父を裏切る行為だ。

 結局、僕は父を選んで友達を捨てた。”何かを得るには何かを捨てなければならない”。分かってはいる事だけど、とても苦しくて寂しいよ」

 

 エルサはそっとネーレウスの肩に手を置いた。彼女の方を向いた青年の目から、一筋の涙が頬を伝い落ちていく。

 

「”友達を捨てた”なんて言わないで」エルサは優しく言った。

「あなたと彼の友情はそんなことで終わったりしない。たとえもう会えなくとも、魂の絆で繋がっている。

 人も動物も、最初はみんな同じ場所で生まれ、そして同じ場所へ帰っていくわ。苦しく寂しいのは生きている間、ほんの一瞬だけ。最期にはきっとまた彼と会える」

 

 ネーレウスは言葉もなく、縋るような目でエルサを見つめた。やがて彼は震える声で尋ねた。

 

「死ぬ事は怖い?」

「いいえ」エルサは静かに応えた。

「痛みや苦しみもなく、眠るように穏やかで、自由だわ。そしてあなたの愛する人たちが、いつも傍にいる」

 

 その言葉を聴いて、ネーレウスは肩を震わせて泣き始めた。――彼はたった一人で呪いと向き合い、死の恐怖に苛まれていた。イリスは唇を噛み、触れる事の出来ない父の肩へ、そっと手を伸ばした。エルサが娘の気持ちに応えるかのように、自分より一回りも大きな青年をギュッと抱き締め、労しげに頭を撫でる。

 

「ありがとう」ネーレウスは湿った声で言った。

「少しだけ、気が楽になった」

「良かったわ。()()()()()()()()()()()()もの」

 

 ネーレウスは思わず吹き出して、身体を離し、エルサを見つめた。淡い褐色の瞳に明るい光が戻っている。

 

「君は不思議な事を言うんだね。まるで自分のなすべき事が全て分かっているみたいだ」

「ええ、その通りよ」エルサは動じる事なく、微笑んだ。

「私は自分の未来が全て見える。どのように生きて、死を迎えるのか、もう分かっているわ。私は、あなたと出会うために生まれたの」

 

 

 二人の様子を言葉もなく見つめるイリスの耳に、軽快な音楽が聴こえて来た。その方向へ顔を向けると、周囲の景色は森の中から寂れた酒場へと変わっていた。――漏れ鍋だ。客は、カウンターに赤毛の魔法使いが一人座っているだけで、音楽はそこから聴こえていた。きっとアーサーおじさんだ。イリスの予想は当たった。老年の亭主が顔を顰めながら、彼の事をそう呼んだからだ。

 

「頼むから、そんな物騒なものをここに持ち込まんでくれ。”死喰い人”に見つかったら、この店ごと燃やされちまう」

 

 アーサーはうっとりと古びたテープレコーダーを見つめていたが、亭主の指摘にハッと我に返り、慌ててレコーダーを弄り始めた。

 

「すまないね」アーサーは亭主の冷たい視線を一心に浴びながら、必死に言った。

「何しろ最近手に入れたばかりだから、嬉しくって。・・・分かった、すぐに止めるよ。あれ、どうすれば止まるのだったか・・・いや勿論、分かっているさ。頼むから、杖をこちらへ向けないでくれ」

 

 試行錯誤の末、アーサーが弄ったのは音量調整用のつまみだった。音楽は止まるどころか逆に大きくなる始末で、怒りに燃える亭主が今にもテープレコーダーを吹き飛ばそうと杖を振りかざした時、来店者を告げるための店のベルがカランと鳴った。

 

 固まった二人とイリスが恐る恐る戸口を見ると、ネーレウスが立っていた。彼は驚いたと言わんばかりに目を丸く見開き、朗らかな口調で言った。

 

「その音楽は一体、どこの国のバンドなんだい?とても素敵な曲だね」

 

 やっと純粋な興味を示した相手が現れた事に、アーサーは気を良くした様子だった。亭主はネーレウスの顔を見たとたん、緊張が解けたのか溜息を零して杖先を下ろした。ネーレウスは亭主に軽く挨拶し、アーサーと短い自己紹介を交わしてから、彼の隣に座った。

 

「この曲は確か、イギリスのバンドだ」

「イギリス?」ネーレウスは眉を顰めた。

「この国の魔法界の音楽なら、ほとんど聴き尽した筈なんだけど。聴き零しがあったのかな」

「マグルのバンドだよ」

 

 その言葉に、ネーレウスは衝撃を受けた様子だった。――元々魔法界で生まれ育った彼にとって、マグル界は馴染みの薄い存在だった。完全な無関心でいる事は出来ないため、必要な時は踏み入るけれど、自分から好んで知ろうとは思わない。だがネーレウスはこの時、音楽を通じて初めてマグル界に興味を持った。彼は好奇心と驚嘆が入り混じった目でテープレコーダーを見つめ、やがて感嘆したように唸った。

 

「マグルがこんなに素晴らしい音楽を作れるなんて!」

 

 

 テープレコーダーから流れる曲が切り替わると、記憶の風景も一変した。――魔法省の「マグル製品不正使用取締局」だ。狭苦しい室内には、机が三つ、ぎゅうぎゅうに押し込まれ、そこらじゅうに書類の山やらマグル製品やらが散乱している。その内の一つの窓際の席で、テープレコーダーの奏でる音楽に耳を傾けながら、ネーレウスが古びた電気ポットを弄っていた。ポットの底には小さな足が生えていて、ネーレウスの拘束を逃れようと激しく暴れている。しかし彼が杖を振ると足はパッと消えて、何の変哲もない電気ポットへと戻った。

 

「直ったよ。念のため、確認を」

「ありがとう」

 

 アーサーは電気ポットを受け取り、くまなく調べ、やがて感心した口調で「完璧だ」と唸った。

 

「君のおかげでどれほど仕事が捗っているか。自慢の部下だよ。私には勿体ないほどだ」

「よしてくれ、単にスピードが早いだけさ」ネーレウスはレモンキャンデーの包装紙を解きながら、笑った。

「僕はこの仕事が好きなんだ。大好きな音楽を聴きながらこの窓の景色を見て、マグル製品を弄っていると・・・無心になれる。職場環境も申し分ない。ボスは信頼のおける素晴らしい人だし、先輩も良い人だ。レモンキャンデーも食べ放題だしね」

 

 二人が親しげに笑い合ったその時、突如としてネーレウスが口元を抑えて、身体をくの字に折り曲げた。少しして、彼の体の表面から黒い液体状の禍禍しい魔法力がじわじわと染み出していく。血相を変えて駆けつけようとしたアーサーを片手で押し留め、何とか呪いを体内に押し込めたネーレウスは、噛み砕いたレモンキャンデーの欠片と共に、込み上げてきた血の塊を飲み下した。

 

 

 雨の降りしきる鬱蒼とした天候の中、ネーレウスは一人の男と対峙していた。男が被っていた銀色の仮面を外した時、イリスは驚いてアッと声を上げた。――()()()()()()だ。

 

「セブルス、”闇の陣営”から手を引け。今ならまだ間に合う。このままでは、君は大切なものを失う事になるぞ」

「フン、また()()()()()()か?」

 

 スネイプは冷たくせせら笑い、杖を引き抜いてネーレウスに向けた。

 

「私はお前のような”弱虫”とは違う。あのお方に心から忠誠を誓っているのだ。お前こそ、自分の立場を自覚してはどうだ?」

 

 その言葉を皮切りに、スネイプと同じように銀色の仮面を被り、漆黒のローブに身を包んだ魔法使い達が大勢現れて、ネーレウスに向けて一斉に光線を放った。強力な防護呪文でそれらを弾き飛ばし、迎撃するための呪文を唱えようとしたネーレウスは、突如として体内から滲み出てきた黒い液体状の靄に自らを攻撃され、杖を取り落して跪いた。そこへ決死の表情を湛えたアーサーが出現し、ネーレウスを連れてその場から消え去った。

 

 

 気が付くと、イリスは懐かしい出雲神社の境内に立っていた。古めかしい鳥居の下に、ネーレウスとエルサ、そしてイオが立っている。イリスは三人の近くへ歩み寄った。

 

「イオ、君を”秘密の守り人”に」ネーレウスが静かに言った。

 

 イオはその言葉に応えず、険しい表情でネーレウスを睨み付ける。彼女の腕の中にあるものを見て、イリスは小さく息を飲んだ。――ブランケットに包まれた赤子、きっと過去の自分だ。

 

「嫌だね!」イオは吐き捨てた。

「頼む。この子を守るためなんだ」

 

 ネーレウスが誠意を持った声でそう言うと、イオは言葉を荒げた。

 

「この子を守るためなんだったら、その”悪い魔法使い”に従えばいいじゃないか!そうしたら、あんたは犬死しなくて済むんだろ?」

「ヴォルデモートは、娘に異常な執着心を抱いている」ネーレウスが歯噛みした。

「それに僕らは余りに抗い過ぎた。許しを乞うたところで、ヴォルデモートは僕らを許さず殺し、娘を自分の玩具にするだけだ。

 今までは僕が守り人となって所在地を隠していたが、もうこれ以上は無理だ。僕に残された力は、ほとんどない。イリスには物心つくまで信頼できる人と共に、安全で穏やかな場所で育ってほしいんだ」

 

 イオは納得がいかない様子で、唇を真一文字に引き結び、健やかに眠る小さなイリスを見つめている。やがてイオは二人を見て、懇願するようにまくし立てた。

 

「わたしたちは、親なしだ。なあ、エルサ。両親のいる他の子供が羨ましくて、”わたしたちもそうだったら”って、話した事が何度もあったよな?

 頼むよ、この子から両親を奪わないでくれ!どうにかならないのか?わたしもそのヴォルデモートって奴に、一緒に謝るよ。どんな罰を受けたっていい。どんな悪事の手伝いだってするさ。この子を一人ぽっちにしないでくれよ」

 

 やがて泣き始めたイオを、エルサは赤子ごと優しく抱き締めた。ネーレウスは沈痛な表情でその様子を見つめている。不意に彼は顔をわずかに背けて、鼻を啜った。口惜しそうに噛み締めた口の端から、震えた声を漏らす。

 

「すまない、イオ。イリスを頼む」

 

 エルサはそっと体を離した。露わになったイオの顔は、悲しみの涙でぐしゃぐしゃに汚れている。イオは片手で乱暴に涙を拭うと、忌々しげに叫んだ。

 

「ああ、分かったさ!どこへでも行っちまえよ、()()()の親め!この子は・・・この子は、わたしが守る。わたしの子だ」

 

 二人は悲哀の表情を湛え、後ろ髪を引かれる思いで何度も振り返りながら、その場を去って行った。二人が遠ざかるほどに、イオの姿は――ネーレウスの記憶の世界から外れていくのか――少しずつ染み出してきた暗闇に覆われていく。やがて完全にその姿が消えてしまうまで、イリスは彼女の傍から動く事が出来なかった。

 

「可哀想に・・・可哀想に・・・」

 

 イオは小さな赤子を抱き締め、涙に暮れながら、何度も同じ言葉を繰り返していた。

 

 

 世界が完全な闇に閉ざされた時、ふと後方から本のページを捲る音がして、イリスは振り向いた。その瞬間、彼女は以前に何度か見た事のある、ダンブルドアの書斎に立っていた。書斎机には、ネーレウスの呪いに関する書物が山のように積まれていて、その中に埋もれるようにして、ダンブルドアが書き物をしている。

 

「父さん」

 

 不意に穏やかな声がして、イリスは戸口の方を見た。ネーレウスが静かに立っていて、愛おしそうな目でダンブルドアを見つめている。

 

「今までありがとう」ネーレウスは微笑んだ。

「僕はヴォルデモートのところへ行くよ」

 

 その言葉を聴いた途端、ダンブルドアは形振り構わずに書き物を放り出し、机を離れてネーレウスの肩を掴んだ。キラキラと光っているブルーの瞳は、今は見る影もなく霞み、目の下には酷い隈がしっかりと刻まれている。――ダンブルドアは、かつてのように落ち着いた様子で”ネーレウス自身の意志か”と尋ねる事はなかった。

 

「待っておくれ。もう少しなんじゃ」ダンブルドアは懇願した。

「もう少しで、きみの呪いを解く魔法式が完成する。あともう少しで・・・」

「父さん。エイプリルフールはもう終わったよ」ネーレウスは涙を流しながら弱々しく笑った。

「これは僕の意志だ。僕は・・・”父さんの息子”として死にたい」

 

 ネーレウスは小さい頃のように、ダンブルドアにギュッと抱き着いた。そして「さよなら」と言って体を離し、戸口から出て行った。イリスはその様子を見ている現在のダンブルドアを仰ぎ見る事など出来なかった。その代わりに視線を下ろし、彼の靴を見つけると、そっと傍に近づいて、老いた指先に自分の指を絡めた。やがて節くれだった暖かい手は、イリスの手を優しく握り返した。

 

 

 深々とした森に張られたテントの中で、ネーレウスは病状に伏していた。痩せ細った身体の周辺を取り巻くように、黒い液状の靄が不気味に漂っている。やがてエルサが走り寄り、彼の手を優しく握り締めた。

 

()()()()()()を見たわ」

 

 彼女は熱を帯びた声でそう言うと、ネーレウスの瞳をじっと見つめた。やがて生気を失っていた彼の双眸が丸く見開かれ、みずみずしい潤いと優しい光が蘇り――歓喜の涙が幾筋も零れ落ちた。まるで素晴らしく幸せなストーリーの舞台を観終わったかのように、ネーレウスは感極まったような笑みを浮かべた。

 

「ああ、エルサ」ネーレウスはしわがれた声で囁いた。

「僕のやってきた事は、間違いではなかった」

 

 二人は互いを見つめ合い、声もなく咽び泣いた。 

 

 

 ネーレウスは最後の力を振り絞り、エルサを伴ってマルフォイ家の屋敷の門を叩いた。数年振りに再会した友人は、見る影もない程にやつれ果てていた。――数日前に最愛の一人息子が、敵に”呪いの道具”を贈られた事で命を落としたのだ。ドラコの亡骸を愛おしそうに抱え、あやし続ける妻の姿を見て、ルシウスは憔悴しきった様子で笑った。

 

「安心したまえ、今はもう君とやり合う気力すらない。・・・良く来たな。私を嘲笑いに来たのか?それとも殺しに?」

「違う」ネーレウスは労りに満ちた声で応えた。

「お別れを言いに来たんだ、ルシウス」

 

 その言葉は、ルシウスの心をほんの少しだけ正気に戻した。

 

「待て、早まるな。君まで失ったら・・・」

「僕の命はもう残り少ない。最期に、君にお別れを言いたかった」ネーレウスは穏やかに微笑んだ。

「君に会えて良かった。君になら、安心して娘を任せられる。少し泣き虫過ぎる所が心配だが、とても優しい子なんだ。どうか宜しく頼むよ」

「何を言っている?」ルシウスは困惑している様子だった。

「君の娘を我が家の養子にする事を、君は拒否していたじゃないか」

 

 ――その時、ルシウスの耳に信じられないものが聴こえ、彼の思考は真っ白になった。()()()()()()だ。ナルシッサがぐしゃぐしゃに泣き崩れた顔で、ルシウスの胸に縋り付いた。

 

「あなた――ドラコが――エルサが、この子を生き返らせてくれた!」

 

 『信じられない、息子は死んだ筈だ』――そう突っぱねる理性を押しのけ、ルシウスはナルシッサの腕に抱かれたドラコを食い入るように見つめた。健やかに息づいている。温かい。生きている。ルシウスは溢れる歓喜の涙を拭いもせず、ネーレウスとエルサを探した。しかし、彼らはもうすでに去った後だった。

 

 

 イリスは気が付くと、懐かしい出雲家の居間に立っていた。ベビーベッドの中ですやすやと眠る赤子の頬を撫でながら、ネーレウスは静かに話しかける。

 

「イリス、愛しているよ。”君に寂しい思いをさせて、本当にすまなかった”」

 

 『お父さんは()()()()()()に話しかけているんじゃない』――イリスはその事に気づき、ベビーベッドの前までやって来て、彼と同じ目線までしゃがみ込んだ。『()()()に向けて、話しかけてくれているんだ』――木製の柵越しに、ネーレウスの淡い褐色の瞳が赤子をじっと見つめているのが見える。

 

「僕は君に、自由を与えたかった。養父が僕に与えてくれたのと同じように。

 ――イリス、君は自由だ。”呪い”に怯える必要なんてない。

 ヴォルデモートに従う道を選んでも良い。ダンブルドアと共に戦う道を選んでも良い。自分自身で道を切り開いても良い。君の望む道を進むんだ。例え今は辛く険しい道程でも、きっとその先には幸福が待っている」

 

 

 イリスは”憂いの篩”からゆっくりと顔を上げた。――父の記憶の世界で見た様々な出来事が頭の中で綯交ぜになり、とても複雑な気分だった。しかし、それは決して悪いものではなかった。

 

 お母さんが予知した”私の未来”を見て、お父さんは嬉しそうに笑って泣いていた。『例え今は辛く険しい道程でも、きっとその先には幸福が待っている』――お父さんがくれた言葉を信じて、もう一度頑張ってみよう。いつか素敵な未来を実現出来るように。イリスはテープレコーダーを握り締めて、静かに決意を固めた。やがてスネイプがやって来て、思慮深い眼差しでイリスを見つめた。その姿は、記憶の中で見た――傲慢で冷たい態度の昔の様子とはまるで違って見えた。

 

「先生は”死喰い人”だったのですか?」

 

 スネイプは先程イリスと目を合わせた時に彼女の心の内を読み取ったのか、驚く様子もなく自分の”闇の印”を見せた。

 

()()()私はそうだった。あのお方に心酔し、”闇の魔術”が持つ魅力に憑りつかれた。君の父は命を賭して私を諫めてくれたが、私は聞き入れなかった。そして――大切なものを失った」

 

 スネイプの昏い色を湛えた瞳の奥が、少しだけキラリと光ったような気がして、イリスは目を凝らした。だがもうその輝きはない。見間違いだったのだろうか。

 

「私には”呪い”を消し去る事は出来ない。だが、選んだ道を進む力を与える事は出来る。

 闇の帝王の力はまだ不完全だ。しかしやがては先程のように、君の心身を完全に掌握しようとするだろう。それまでに君は、心を閉じる術と呪いを制御する術を習得しなければならない。もし君が望むなら、私は師となってその術を教えよう」

 

 スネイプはそう言って、痩せた自分の手を差し出した。イリスは迷う事無く、その手を握った。




ネーレウスの記憶編、結局書き足してしまいました。忘れる前に書く!(使命感)

わかりにくい所などございましたら、修正しますのでご一報ください!

いつもお読みくださっている方々、お気に入り登録してくださった方々、感想をくださった方々、評価を付けてくださった方々、加筆修正してくださった方々、本当にありがとうございます(*´ω`)

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