ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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※4/20:文章の微調整、完了致しました。


Act18.プリベット通り四番地(後編)

 学期の最後の日に、試験の結果が発表された。四人共、全科目合格だった。あれほどひどい薬の出来だったのに、「魔法薬学」をパスした――ビリから二番目(ビリは勿論イリスだ)の成績ではあるが――のには、ハリーも驚いた。ダンブルドアが中に入って、スネイプがハリーを落第しようのを止めたのではないか、という推理が、ハリーとロンとの間で盛んに立てられた。

 

 パーシーはN・E・W・T(いもり)テストで一番の成績だったし、フレッドとジョージはそれぞれ、O・W・L(ふくろう)テストでかなりの科目をすれすれでパスした。グリフィンドール生達が思い思いの成果を残す一方で、グリフィンドール寮は、主にクィディッチ優勝戦の目覚ましい成績のおかげで、三年連続で寮杯を獲得した。学期末の宴会は、グリフィンドール色の真紅と金色の飾りに彩られ、グリフィンドールのテーブルはお祝い気分で、一番賑やかだった。みんな、大いに食べ、飲み、語り、笑いあった。

 

 今学期最後の「魔法薬学」の補習授業は、そんな楽しい宴会の後に予定されていた。その事実を告げた瞬間、憤懣やる方ない表情で『スネイプをホグワーツから追放する会~クソ爆弾を添えて~』を結成し始めたハリーとロン、フレッド&ジョージ等の面々を見なかった事にして、イリスは一人、談話室を出て地下牢へ向かった。

 

 スネイプはいつもの陰湿陰険な調子で、今学期の総復習と来学期に向けての予習の要点を説明した。補習を続けるうちに、何時の間にか苦手だった「魔法薬学」が一番大好きな授業になっていたイリスは、一つも聞き漏らすまいと夢中でノートに書き取った。――どれほど実力をつけても、イリスの成績はずっと落第すれすれの低空飛行状態を続けている。その理由は分からない。分かるのは、きっと来年も補習授業が行われるだろうという事だけだ。

 

 しかし、イリスはそれを嬉しくも思っていた。スネイプは厳しく意地悪な先生だが、いつもイリスが完全に理解できるまで根気強く丁寧に教えてくれるし、教科書に載っていない新しい知識をたっぷりと与えてくれるからだ。講義は滞りなく進んでいき、脱狼薬の調合についての簡単なテストと、”守護霊の呪文”の実施訓練を終えると、スネイプは「授業終了」と唸った。

 

 イリスを見送る事なく背を向け、壁面に設置された薬棚の整理を始めたスネイプに向けて、イリスはしっかりと一礼し、今学期も教鞭を振るってくれた事に対して、心を込めたお礼の言葉を告げた。そして地下牢と階段に繋がる扉を開けようとした時――

 

「ゴーント」

 

 ――スネイプに呼び止められ、振り向いた。暫くの間、何も言わず、幽鬼のような昏い表情を湛えて、スネイプはイリスを見つめていた。やがてその薄い唇がわずかに開き、抑揚のない声でこう尋ねた。

 

「良く眠れているかね?”恐ろしい夢”を見る事は?」

 

 ――『恐ろしい夢』だって?質問の意図が掴めず、イリスはすぐに返事をする事が出来なかった。どうして先生はそんな事を訊くんだろう。ピーターに乱暴を受けた自分が悪夢に魘されていないか、心配してくれているのだろうか。そこまで考えて、イリスはふと”不思議な塔を登る夢”を思い出した。――確かにその夢で、一度怖い思いをした事はあった。しかし、おぼろげにしか思い出せないけれど、あの夢自体が悪いものだとは思えない。イリスは首を横に振り、柔らかな声音で応えた。

 

「はい。大丈夫です」

 

 スネイプはその返答に安堵した様子もなく、静かに唇を引き結んだ。やがて彼はイリスから目を逸らし、ぽつりと呟いた。

 

「ならばいい。行きなさい」

 

 イリスがその場を立ち去って暫くしてから、スネイプは自らの作業机へ近寄った。採点を終えた生徒達のレポートの束に紛れて、旧友、ルシウス・マルフォイからの手紙が封を切った状態で置いてある。スネイプは鷹揚な動作で服の袖を捲り、痩せた土気色の腕を見つめた。

 

 ――かつて闇の帝王と契約を結んだ証、髑髏と蛇をモチーフにした”闇の印”は、日毎にその輝きを増していく。

 

 

 「”時は来た。いよいよだ”」ロンは芝居がかった口振りで叫んだ。

 

 翌朝、ホグワーツ特急がホームから出発し、イリス達はコンパートメント内で思い思いの時を過ごしていた。ロンが時折軽快な鼻歌を交えながら、終始楽しそうな様子を崩さない一方で、ハリーはそわそわと落ち着かない様子だった。そんな二人を、向かいに座るイリスとハーマイオニーは少し心配そうに見つめている。

 

 ロンは、親友のハリー宅が”大の魔法嫌いのマグルが住む家”から”魔法族が住む家”へ変わった事で、気軽にフクロウ便を飛ばしたり遊びに行けるようになった事を喜んでいるようだった。そんな単純で明るい考えのロンとは違い、小さな頃から不幸に慣れっこだったハリーは、前から分かっていた事ではあるが――『ダーズリー家と離れてシリウスと一緒に暮らせる』という信じられない程の幸福をいざ目の前にした途端、その眩しさに目が潰れ、尻尾を巻いて逃げ出しそうになっていた。

 

 最早茫然自失状態となっているハリーを見兼ねて、イリスが声を掛けようとした時、ハーマイオニーが窓の方を向いて、出し抜けに「ねえ」と言った。

 

「そっちの窓にいるもの、何かしら?」

 

 三人は示し合わせたように、窓を見た。――窓の外に、何か小さくて灰色のものがピョコピョコ見え隠れしている。近づいてみると、それは小さなチビフクロウだった。イリスが急いで窓を開けてやると、フクロウはハリーの席に手紙を落とし、コンパートメント内をブンブンと元気良く飛び回った。

 

≪速達です、速達です!≫フクロウは幼い声でさえずった。

≪シリウス・ブラックから、ハリー・ポッターへ!≫

 

 ハリーは物も言わずに手紙を掴むと、乱暴な手つきで封を破り、中身を読んだ。固唾を飲んでその様子を見守る三人の前で、ハリーの表情はみるみるうちに曇っていく。

 

 やがてハリーは三人に手紙の内容を話してくれた。――今日、ハリーはキングズクロス駅で、最後のお別れに来てくれる筈(()()()()と、ハリーは笑った)のダーズリー家の人々から自分の荷物を回収し、シリウスと共に新しい家へ向かう予定だった。しかしシリウスには、ハリーの荷物の他に、ダーズリー家から絶対に手に入れなければならないものがあった。

 

「”ペチュニアおばさんの血”?」イリスは茫然と呟いた。

「うん」ハリーは力なく頷く。

「バーノンおじさんが物凄く怒ってるんだって。シリウスは『必ず説得するから、駅のカフェで時間を潰しててくれ』って書いていたけど・・・」

「そんなのいざとなれば、魔法で無理矢理奪っちまえばいいじゃないか」

「ちょっとロン!」

 

 物騒な事を言い放つロンに、ハーマイオニーが眉を潜めた。しかし、ハリーの表情が和らぐ事はない。

 

「僕だってそうしたいさ。だけど、”無理矢理”じゃダメなんだって。ペチュニアおばさんが”自分の意志で”くれた血じゃないと、効果がないんだ。・・・そんなの、あり得ると思う?」

 

 ――ハリーの中には”守りの魔法”が流れている。ハリーの母親、リリーがヴォルデモートから我が子を守るため、自らの命を燃やして遺した”愛の魔法”だ。これがあるから、ヴォルデモートはハリーに指一本触れる事が出来ない。但し、その魔法を維持するためには条件があった。『リリーの血縁者と同じ場所で生活し、その場所を”自分の家”だとハリーが認識する事』。ダンブルドアの計らいで”守りの魔法”は保たれ、今日に至るまで、家は確かにハリーを守った。しかし、そこに愛はなかった。

 

 けれどもシリウスの登場で、状況は一変した。ダンブルドアが、”守りの魔法”のルールを一部改変したのだ。

 

 強い愛情は時として、血の繋がりをも凌駕する。血こそ繋がっていないものの、実の親に負けない程、強い愛情を持ったシリウスを、『ハリーの血縁者である』と”守りの魔法”に誤認させる技術を、ダンブルドアは密かに開発していた。但し、それにはある条件を満たした道具が必要だった。――それは、ペチュニアが自らの意志で差し出した、一滴の血だった。

 

 ハリーは両手で頭を抱え、特大の溜め息を吐いた。――ダーズリー一家の人々は、僕に与えるものなら、家の隅に落ちてる埃の一欠けらだって惜しいだろう。それが、まさか、()だなんて!バーノンおじさんが顔を真っ赤にしながら断固拒否し、ペチュニアおばさんが恐怖に引き攣った顔で罵る光景が、目に浮かぶようだった。そうして僕は、またあの家に連れ戻される・・・。

 

 暗く沈んだ空気を少しでも和ませようと、ロンが『今年の夏に開催されるクィディッチのワールド・カップが、父の伝手で手に入るので、みんな一緒に見に行こう』と持ち掛けても――イリスとハーマイオニーは、わざとらしい位に歓声を上げて喜んで見せた――ハリーは生返事だった。遊びに来たフレッドとジョージがいきなり炸裂させた”爆発スナップ”にもほぼ無反応だったし、イリスがハリーの分も買い込んだ、盛り沢山のランチにもほとんど手を付けようとしなかった。

 

 そうこうする内に、ホグワーツ特急は駅に到着し、四人は列車を降りた。――とてもじゃないが、今の状態のハリーを一人にする事など出来ない。三人は暗黙の了解で、ハリーの後を無言で着いて行った。

 

 魔法の柵を通り抜けると、人が混雑する中で、大きな怒声の飛び交うエリアがあった。ハリーに続いて、野次馬の人垣を押し退けるようにして中に入ると、ちっぽけなトランクを一つ抱えた、でっぷりとした中年男性(この人がバーノンおじさんだと、ハリーがこっそり教えてくれた)が、マグルの服装を小粋に着こなし、髪と目の色を明るく変えたシリウスと、大層な剣幕で言い争っている。

 

 かつてイギリス中を恐怖のどん底に陥れた大量殺人犯が目の前にいるとは思いも寄らないバーノンは、恐怖に怯えて立ち竦むばかりの、痩せて背の高い女性(この人がペチュニアおばさんらしい)を背に庇い、口角泡を飛ばしながらシリウスにがなり立てた。

 

「断る!何故、愛しい妻の血をやらねばならんのだ!」

 

 ――その言葉を聞いた瞬間、ハリーの顔から一切の感情が消え去った。そして、『ほらね』と言わんばかりに三人を振り返った。

 

「ハリーの命を守るためだ!」シリウスは吼えた。

()()()()()()()()()()()()!たったそれだけだと言っているだろう!」

 

 シリウスは最早狂犬のように歯を剥き出してバーノンを威嚇していたが、ハリーに気づいて優しく微笑みかけた。

 

「やあ、ハリー。取り込んでいてすまない。大丈夫だ、すぐに話を付けるよ」

「話など付けん!!」

 

 バーノンは丸太のような足を踏み鳴らし、声の限りに絶叫した。その余りの声の大きさに、様子を見物していた野次馬の群れが風もないのにガザガザと揺れて、バーノンから一歩距離を置いた。

 

「全くもってマトモじゃない!・・・もういい!小僧はやはりこっちで預かる!訳の分からん気狂い達に、私の妻を傷つけられてたまるか!」

 

 さも憎々しげにそう吐き捨てて、バーノンはシリウスを乱暴に押し退けると、ハリーの手を掴んで力任せにグイと引っ張った。その時、イリスはハリーを見て絶句した。――なんて冷たい表情なんだろう!

 

「ハリー!」イリスは夢中で、ハリーの腕にしがみ付いた。

 

 氷のように冷ややかな仮面を被った、緑色の目の奥がキラリと虹色に光る。――ハリーがダーズリー一家で過ごした日々の思い出が、イリスの頭の中に流れ込んでくる。なんて悲しい、寂しい、辛い記憶・・・。

 

 イリスは何としても、ハリーをあの家に戻すのは絶対に駄目だと思った。たった一日、たった一秒足りとも。ピーターとの対決で”開心術”の使い方を習得したイリスに、迷いはなかった。

 

 その時、イリスはふと視線を感じ、振り返った。――ペチュニアだ。ハリーにしがみ付くイリスを、何とも言えない複雑な表情で見つめている。イリスは彼女の目を見つめ、力を込めた。やがて目の奥に虹色の煌めきを見出し、彼女の心の世界へ入り込んでいく――

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 悲しみの涙で濡れた緑色の双眸が、幼いペチュニアを見つめ返す。――”あの時”と同じだ。私の制止を振り切って、何度も振り返りながら、魔法の世界へと行ってしまったリリー。ホグワーツの校長へ手紙を書き、自分も学校に行きたいと何度も訴えたが、願いは聞き届けられず、断りの手紙を読んでは泣いた日々。両親はペチュニアに構わず、リリーがホグワーツから帰って来る度に、彼女を盛大に誉めそやした。

 

 確かにリリーは、私よりずっと可愛かったし、優秀だったし、優しかった。パパとママがリリーばかり可愛がるのも、納得はいかないけど、理解はしていた。

 

 だけど、いつかは追いつけると思っていた。最初は、一緒の場所に立っていたんだもの。私がリリーに対して抱えている劣等感の数々も、努力すれば何とかなるレベルのものだ。リリーとは、これからもずっと一緒にいるんだから。少しずつ向き合って、消化していけばいいわ。――そう思ってた。だけど魔法の世界は、ペチュニアだけを無情に突き飛ばし、違う場所へ弾き出した。

 

 リリーは、一気に手の届かない存在になった。魔法の世界なんて、努力ではどうにもならない。ペチュニアは、床に散らばった断りの手紙を見て、思った。自分に見向きもせず、魔法の世界に陶酔するリリーと両親を見て、思った。

 

 居場所を奪われたペチュニアは、自分の力で居場所を見つけるしかなかった。――長い事彷徨ってやっと見つけた、まともな夫、可愛い息子、自慢のマイホーム。

 

 しかし、その幸せは永く続かなかった。突如として押し付けられた赤ん坊は、ペチュニアに再び、()()()()()()()を思い出させた。――もう二度と関わりたくない!それなのに()()()()()()()()()()、私が育てないといけないだって?”魔法界のお友達”にさせりゃあ、いいじゃないか。冗談じゃない!

 

 ミルクをせがんで泣き続ける赤ん坊を見下ろし、ペチュニアは思った。――魔法界は勝手だ。いくらこっちが願っても聞き入れてくれない癖に、こっちが拒否しても厄介事は押し付ける。こっちの都合はおかまいなしで。フン、じゃあこっちだって勝手にするわ。育てりゃいいんでしょう、育てりゃあ!ペチュニアは、無垢な緑色の目を忌々し気に睨み付けた。

 

 ――長く葬られていた筈の、複雑な感情がペチュニアの心の世界を満たしていく。”あの時”と同じように、ハリーが去っていく。もう自分の手が届かない場所へ。だが、”あの時”と違い、自分が拒否すれば引き留める事が出来る。”あの時”、リリーがホグワーツへ行っていなかったら。いや、私がホグワーツへ行っていたら。リリーに対する劣等感は、変わらずあるだろう。だけど今でも、私達は仲良く暮らしていただろうか。お互いの家族を交えて食事会をして、子供の名前を付け合って、子供たちも仲良くなって・・・。

 

 

「ペチュニア、どうしたんだ?しっかりしておくれ!」

 

 ペチュニアは、バーノンに揺さぶられて意識を取り戻した。愛する夫が、自分を心配そうに見つめている。その頼もしい肩越しに、泣くのを我慢するかのように唇を固く引き結んだ、黒髪の少女の姿がチラリと垣間見えた。――その時、ペチュニアは理解した。『自分はあの子供に、記憶を弄られたのだ』と。

 

 ペチュニアは頑なな表情で、(あらかじ)めダンブルドアから渡されていた”魔法の待ち針”をポシェットから取り出した。指先を軽く突き刺すと、ちっとも痛みはないが、針は銀色から真紅色へ変わる。そしてそれを、すっかり毒気を抜かれた様子のシリウスに押し付けた。

 

「月に一度、送ります」ペチュニアはシリウスと目を合わせる事無く、冷たい声で言った。

「フクロウ便を送る」シリウスは礼も言わず、ただ唸った。

 

 ペチュニアはバーノンに手を引かれてその場から立ち去る寸前に、イリスを憎しみのこもった眼差しで睨み付けた。――その時、イリスは気づいた。ハリーを守るためにした行為が、ペチュニアを傷つけた。相手の同意を得ずに行う”開心術”は、ディメンターが人の心を踏み荒らす事と同じなのだと。

 

「さあさあ、行こう、ペチュニアや!やっと厄介払いができた!ダドリーが喜ぶぞ!早速、あいつの部屋の掃除をせねば!」

 

 バーノンが構内に響き渡るような大声で、上機嫌に叫んだ。ついに堪忍袋の緒が切れたシリウスが、今にもダーズリー夫妻の背中へ杖を向けようとするのを、駆けつけたアーサーが必死になって止めている。――ハリーはその場から動かず、黙りこくってダーズリー夫妻を見つめていた。暫くの間、イリス達はハリーに声を掛ける事が出来なかった。

 

 

 シリウスは”移動(ポート)キー”で、ハリーを新居へ連れて来た。――ホグズミード村に比較的近い地区に建つ、こじんまりとした造りの一軒家(デタッチドハウス)だ。家の前には小川が流れ、規模こそ小さいものの、緑豊かな表庭と裏庭もある。シリウスは茫然とするばかりのハリーを伴って、家の間取りの説明を始めた。

 

「本当はもっと良い物件があったんだが、諸事情でお流れになってね。こんなしょぼくれた家ですまない」シリウスが残念そうにハリーに言った。

「ここがキッチン、ここがダイニング兼リビングルームだ。あの暖炉は見かけより狭いから、”煙突飛行粉(フルーパウダー)”を使う時、頭をぶつけて失敗しないよう気を付けて。ここがゲストルームで、ここは・・・言わなくても分かるだろうが、一応、バスとトイレだ。さあ、二階に上がろう」

 

 二階に上がると、突き当りがバルコニーと繋がる廊下を挟んで、二つ部屋があった。

 

「左側は私の部屋で、右側が君の部屋だ」

 

 シリウスは、向かって右側の部屋のドアを開けた。――室内に入ると、心地良い風がハリーの頬をくすぐった。程好い大きさの空間に、シンプルな造りのベッドと勉強机、本棚(魔法界で流行りの漫画がぎっしりだ)、クローゼットが収まっている。どれも買ったばかりなのだろう、みずみずしい木の匂いを漂わせている。カーテン越しに木漏れ日が差し込んで、周囲を優しく包み込んだ。

 

「ここが()()()()?」ハリーは『信じられない』と言わんばかりに、掠れた声で尋ねた。

「ああ」シリウスはハリーの反応を見て、焦って言った。

「やっぱり、少し殺風景過ぎるか?気に入らないものがあるなら・・・明日、変えればいい。新しい家具を見に行こう」

 

 シリウスは親しみを込めて笑い、ハリーの肩を優しく抱いた。『大丈夫だよ、ハリー。私が見た時にはね、馬に見えたんだ』――その拍子に、ハリーの耳に大好きな人の声が蘇った。前学期の「占い学」でグリムの意味を知り、不安な気持ちになっていた自分に、イリスが掛けてくれた言葉だ。”馬”は”望み事が叶う兆候”を示す。イリスの予言は当たった。自分の本当に望んでいた事、欲しかったもの。それは今、間違いなく目の前にあった。

 

 

 やがてハリー達の引っ越し作業を手伝うため、イリスとイオ、ハーマイオニー、ウィーズリー一家の面々がガヤガヤとやって来た。大人達が、他愛無い世間話を交えながら作業を進める一方で、すっかり元の調子を取り戻したハリーは、フレッドとジョージの持ち込んだ”スーパー爆発スナップ”に、イリス達と一緒になって興じていた。

 

 その頃、家の地下室では、”血の魔法”を更新するための儀式が厳かに執り行われていた。――部屋の中心部には複雑な魔法陣が描かれている。シリウスは純金製のゴブレットを両手に捧げ持ち、陣の中心へ静かに立った。

 

「シリウス。君はハリーの後見人として、ハリーを生涯守る事を誓うかね?」

「誓います」

 

 シリウスが宣誓した瞬間、ゴブレット自体がバチバチと火花を散らし、電気を帯びたように青白く輝いた。シリウスは躊躇う事なく、その中身を飲み干した。

 

 シリウスのハリーに対する強い愛情が、仮初めの”血の魔法”を強くする。毎月の初め、シリウスは然るべき手続きを踏んで、ペチュニアの血が含まれたこの薬を飲み、”血の魔法”を更新しなければならない。そうすればこの家はダーズリーの家と同じ効力を持ち、リリーがハリーに与えた”守りの魔法”は継続される。

 

 ――その日の夕食はとても豪華だった。イオとモリー夫人が腕に寄りをかけたフルコースが食卓に並び、みんな舌鼓を打ち、全部の料理をお代わりした。ハーマイオニーはローストビーフを上品に切り分けながら、三人に今学期の自分の秘密――”逆転時計(タイムターナー)”の事だ――を話して聴かせた。

 

「”逆転時計(タイムターナー)”を使えば、過去に戻って別の授業を受けられるの。でも正直言って、あの時計、私、気が狂いそうだった。だから先生にお返ししたわ。「マグル学」と「占い学」を落とせば、また普通の時間割に戻るし。何より、私が一番大切にしたいのは、()だもの」

 

 そう言って、ハーマイオニーはイリスに親しみを込めてウインクし、優しく微笑んでみせた。

 

「”逆転時計(タイムターナー)”!」ロンが呻き、絶句した。

「君が僕らにそのことを言わなかったなんて、信じられないよ。まるで裏切られた気分だ!」

「『使ってる間は、誰にも言わない』って先生と約束したのよ」ハーマイオニーが言った。

「だけど僕ら、親友だろ?」ロンが食い下がった。

「ハリー、本当に良かったわね。これから幸せな生活が待ってるわ」

 

 ハーマイオニーはロンが仕掛けた永遠の言葉のループをばっさり断ち切り、ハリーへ慈愛に満ちた視線を送った。

 

「うん。今でも何だか夢を見てるみたいで、実感がないけどね」ハリーは肩を竦めた。

「色んな人に感謝しなくちゃ」

「でも、ダンブルドアは流石だわ。そう思わない?だって彼、”血に関する魔法の権威”でもあるもの」

 

 ハーマイオニーは『みんなもそう思うでしょう』と言わんばかりに、自信満々な様子で三人を見渡し、誰もついてきていない事実を目の当たりにして、愕然とした。

 

「貴方達、ダンブルドアの執筆した”血の魔法”に関する書物を読んだ事、ないの?とっても興味深いのに!蛙チョコレートにも『彼はその分野の権威である』って書いてあったでしょう?」

「そんな血腥(ちなまぐさ)いの読んでるのは、君だけさ。ところで君、”マッドマグルの冒険”を読んだことないのかい?とっても興味深いのに!」すかさずロンが混ぜっ返した。

 

 

 引っ越し作業が一段落した後、イリスとイオは空港へ向かい、日本へ帰国した。二人は結界を抜け、鳥居をくぐり、手水舎で手を清め、拝殿へ赴き、一年の無事と力を与えてくれた事を神様に感謝した。イリスはくたくたに疲れ切った身体をシャワーで軽く清め、ベッドに倒れ込んで、あっという間に眠りについた。

 

 ――ふと気が付くと、イリスは夢の世界にいた。美しい大理石で出来た、立派な造りの大広間の中心に立っている。周囲には大勢の人々がいて、皆イリスに向けて賞賛の拍手を送っていた。

 

「おめでとう、おめでとう」

「良く此処まで辿りついた」

 

 人々の中から豊満な体つきの美しい女性が進み出て、イリスを我が子のように愛おしそうな様子で抱き締める。痩せ細った初老の男が(かしず)き、「お嬢様」と呻きながら、イリスの手の甲に恭しく口付けた。最後にルシウスがやって来て、リドルがくれた”空飛ぶ絨毯”をイリスの背中にそっと掛けてくれた。その瞬間、絨毯は上質なローブへと変わった。

 

「さあ、あの御方が待っている。行きなさい」

 

 ルシウスはイリスの前髪を掻き上げ、小さな額に優しく口付けた。そして静かに彼女の背中を押した。沢山の惜しみない拍手に送られて、イリスは迷う事無く大広間の出口へ向かった。

 

「駄目だ、行くな!」

 

 不意に誰かの叫ぶ声がして、イリスは立ち止まり、声のした方を振り返った。――ドラコだ。何時の間にか、銀色の仮面を被り、黒装束に身を包んだ人々の群れの中に、スリザリンの制服に身を包んだ少年が立っている。その目は奇妙な虹色に輝き、イリスを心配そうに見つめていた。しかし次の瞬間、彼の姿は、怒り狂った周囲の人々に揉みくちゃにされて、あっという間に見えなくなってしまった。

 

 ドラコを助けようと一歩を踏み出した瞬間、あの荘厳で美しい歌声がイリスの脳髄をどろりと蕩かした。彼女は歌声に導かれるように、覚束ない足取りで出口の敷居を跨いだ。

 

 

 出口の外は、塔の天辺だった。広々とした濃紺色の空に星々が散りばめられ、神秘的な煌めきを放っている。天辺はこじんまりとした石造りの空間で、その中央にはローブを目深に被った女が、古びた糸車を回しながら、同じ歌を繰り返し口ずさんでいた。――なんて美しい声なんだろう!イリスは思わず聴き惚れて、涙を流した。

 

『 スカーバラの市へ行ったことがあるかしら?パセリ、セージ、ローズマリーにタイム、

  そこに住むある人によろしく言って、彼はかつての恋人だったから 』

 

 イリスは誘われるようにして、女の傍へ近づいた。――糸車には、ダイアモンドのように美しい輝きを放つ、純白の糸が紡がれている。

 

「とても綺麗。何を紡いでいるの?」

()()よ」彼女は鈴を転がすような声で応えた。

「もっと近くで見てもいい?」

「ええ、どうぞ。これは()()()()()だもの」

 

 女は上品な所作で椅子から立ち上がり、イリスに座るようにと促した。イリスはお礼を言って椅子に座ると、その煌めく糸を思う存分眺めた。――なんて綺麗なんだろう。イリスはうっとりとして溜息を零した。ほんの少しで良い、触ってみたい。そして何も考えずに、指先を伸ばそうとした時――

 

「駄目だ!!!」

 

 ――凄まじい怒声が響き渡り、イリスは驚いて飛び上がった。それから声のした方を振り返って、絶句した。――イオおばさんだ。体じゅうを傷つけられ、出口近くの壁に寄りかかって息を荒げながら、イリスに真摯な眼差しを向けている。イオの目は青色ではなく、奇妙な虹色に輝いていた。

 

「イリス、それに触るな!こっちに来るんだ!」イオが叫んだ。

「まあ」女は、形の整った眉を潜めた。

「死に損ないが、随分としつこいのね」

 

 女は、白魚のような指を軽やかに鳴らした。――その瞬間、イオは苦悶の表情を浮かべて(くずお)れた。そしてその体がスルスルと縮んでゆき、やがて小さな虹色の蛇になった。そんなイオの只ならぬ状況を見て、イリスは椅子を蹴倒すようにして立ち上がり、彼女の傍へ駆け寄ろうとした。

 

 しかしそれを阻むかのように、ローブの四隅にあしらわれた銀色の房飾りが鋭いナイフに変わり、石造りの床に深々と突き立ってイリスをその場に縫い止めた。――イリスは身じろぎしたが、指先一本動かす事が出来ない。声を出す事も。

 

「これはお前の親戚ではない。その姿を借りた邪魔者よ」

 

 涼やかな声でそう言って、女は蛇を踏みつけた。蛇は苦しそうに鳴いて、煙のように霞んで消えたしまった。『おばさん!』――声にならない声で、イリスは叫んだ。

 

 ――その声に気づいたかのように、女はこちらを振り返った。彼女は鷹揚な動作でフードを外し、イリスに自分の顔が良く見えるようにした。

 

 黒檀のように美しい髪が、風に遊ばれて翼のように舞い踊る。明るい褐色の瞳が、内側から満ちる魔法力を帯びて金色に煌めき、蠱惑的に瞬いた。凛とした佇まいの、妖艶な雰囲気を放つ女性。――イリスは驚きと絶望に打ちのめされ、息をする事すら忘れて喘いだ。かつて見たリドルの記憶のまま、その姿は変わらない。間違いない、自分の祖母、メーティス・ゴーントだ。

 

 メーティスはイリスの右手を優しく取って、その人差し指の先を糸車の針に突き刺した。輝く程に純白だった糸は、イリスの血を吸い込んで真っ赤に染め上げられていく。その様子を確認し、メーティスはゾッとする程、凄艶な笑みを浮かべた。

 

「この時をずっと待っていた。私の可愛い孫娘」

 

 鈴を転がすような声でそう歌い、彼女は糸車の針に、今度は自分の指先を突き刺した。――その瞬間、轟音と共に糸車が爆発した。粉々に砕け散った破片から夥しい量の血が噴き出して、イリスを――メーティスを――塔全体を――この世界を、飲み込んでいく。

 

 イリスは(おぞま)しい血の海に溺れ、声もなく足掻いた。体にまとわりつくローブがずしりと重みを増し、イリスを海の奥底へ誘っていく。やがて肺の中の空気が尽きて、イリスは夢中で血を飲んだ。一口飲む毎に、イリスの心身に”呪い”が染み込んでいく。しかしイリスはそれをどうする事も出来ない。

 

「あのお方に忠誠を誓いなさい、イリス」

 

 真っ赤に滲む世界の中で、メーティスの声だけが冷酷に響いた。

 

「さもなければ、お前は永くは生きられないでしょう。――お前の父親のように」

 

 イリスの肺に”呪い”が満ちた時、少女の全てが血の海に融け込んだ。その小さな身体だけでなく、精神や魂の一欠けらまでもが、一度分解されて”呪い”を組み込まれ、新しい存在へと()()()()()()()()。急速に霞んでいく意識の中、イリスはただ助けを求めて手を伸ばした。――何もかも分からなくなる寸前、誰かがその手を掴んだような気がした。

 

 

 日本を遠く離れた、イギリスの地で。

 

 ――ドラコは息を切らして跳ね起きた。心臓が今にも飛び出しそうな位、大きな音を立てて波打っている。汗でぐっしょり濡れた髪を気にもせず、ベッドの上で座り込んだまま、彼は小刻みに震え続ける自分の手を見つめた。

 

 ほんのついさっきまで、この手は『何か』を掴んでいた。――今までの虚栄に満ちた、つまらない灰色の人生を丸ごと塗り替えてしまえるようなものを。例えるならばそれは、陽だまりのように暖かく、野に咲く花のように素朴で、春風のように優しく、大地のように慈愛に溢れたものだった。

 

 こんなに安らかで暖かい気持ちになったのは生まれて初めて、の筈だった。しかしドラコはその気持ちに対して()()()()()()を感じてもいた。彼はごくりと生唾を飲み込んで、思考を巡らせた。――僕はかつて、こんなにも満たされて幸福な気持ちになった事があった。じゃあ、僕をそんな風にしたものとは、一体何だ?

 

 ドラコがそこまで考えた瞬間、またあの脳髄を蕩かすような頭痛が襲って来た。彼は思わず頭を抱え、呻きながらベッドの上でうずくまる。

 

 ――その時、ドラコの頭の中に、狂ったような痛みに混じって、今にも消えそうな程に儚く小さな少女の声が聴こえた。その瞬間、彼は理解した。誰かが助けを求めていて、自分だけがその子を助けられる。そしてその子こそが、かつて自分に幸せを与えてくれ、また先程の夢の中で自分が掴んでいたものなのだと。

 

 『君を助けたい』――永久に続くかのような痛苦(つうく)の中で、ドラコは歯を食い縛って足掻き続けた。

 

 ドラコは例えこの痛みで気が狂ってしまったとしても、その子を忘れたくないと思った。――まるで自分の影が消えてしまったかのような、漠然とした寂しさを抱えて、彼は今まで生きてきた。何故、僕はこんなに寂しく空しいのか。その問いの答えは、いつも決まってこの痛みだった。しかし今日彼は痛苦の中に、ついに一縷の望みを見出した。

 

 きっと痛みの中に聴こえた声の主が、問いの答えを知っている。頭痛はいつも治まると同時に、苦しんだ時の僕の記憶を少し奪っていく。痛みが消えてこの声も忘れてしまうのなら、いっそこのままでいい。やっと手にしたわずかな手がかりを、絶対に忘れたりするもんか。――ドラコは惨痛の末にベッドから転げ落ち、脂汗を滲ませ、のたうち回りながらも、恐ろしい痛みに耐え続けた。

 

 

 ――どの位の時間が経ったのだろう。ドラコは床に突っ伏していた顔を、のろのろと上げた。虚ろに開いた唇の端から、血の混じった唾液が垂れ落ちる。もう痛みはない。しかしあの声の記憶は、色褪せる事無く今でもはっきりと覚えている。

 

 ドラコは、イリスが掛けた”忘却術”の一つである”想起妨害魔法”を凄まじいまでの執念で打ち破った。彼にはまだ、夢の中でその手を掴み、痛みの中で聞いた声の主の正体が誰かは分からない。けれどその子は必ずどこかにいて、今も自分に助けを求めている――その事だけは、しっかりと分かっている。やがて疲れて気を失ってしまうまで、彼は熱に浮かされたように、部屋の中に詰まった暗闇に向け、同じ言葉を繰り返し囁き続けた。

 

「僕が助ける。必ず、君を見つけ出す」




『アズカバンの囚人』編、完結しました( ;∀;)わーい!
活動報告にあとがきを書きました!

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