ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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※4/17追記:何か違うと思い、一部修正(シリウスとイリスの対話修正、シリウスとルーピンの飲み会シーン追加等)致しました。いつもこんな感じですみません!


Act17.プリベット通り四番地(前編)

 学期末の試験は、子供たちの頭から下世話なゴシップ記事を奪い取り、非情な現実を突きつけた。――城はあっという間に、異様な静けさに包まれた。月曜日の昼食時、三年生は「変身術」の教室から、血の気も失せ、よれよれになって出て来て、結果を比べ合ったり、試験の課題が難し過ぎたと嘆いたりした。ティーポットを陸亀に変えるという課題もあった。ハーマイオニーは自分のが陸亀というより海亀に見えたとやきもきして、みんなを苛立たせた。他の生徒は、そんな些細なことまで心配するどころではなかったのだ。

 

「なあ、亀ってそもそも口から湯気を出すんだっけ?」

「出さないよ、ロン」イリスは「呪文学」の教科書と睨めっこしながら、冷静に返した。

「出すのは紅茶だよ。私のは完璧な陸亀だったと思う。口から出る紅茶も、ちゃんとアールグレイの良い香りがしたし」

「マジかよ!マジなのかよ!」ロンは気が狂ったように、頭を掻き毟った。

「おいおい、二人共待ってくれ。亀は、口から湯気も紅茶も出さない」

 

 ハリーは頭を抱えながら、際限なくボケ続ける二人に突っ込んだ。減点される未来を予想し、絶望の呻き声を上げる二人を見て、ハリーは自嘲気味に笑って続けた。

 

「だけど安心して。僕のなんか、尻尾のところがポットの注ぎ口のままだったんだ。まるで悪夢だよ。減点されるのは、ハーマイオニーを除いてみんな一緒さ」

 

 昼食後、少しの空き時間を挟んで、すぐに教室に上がって「呪文学」の試験が始まった。ハーマイオニーが予想した通り、フリットウィック先生は「元気の出る呪文」をテストに出した。イリスとハーマイオニーのペアが、程好い加減で呪文を掛け合う一方で、ハリーは緊張してしまったのか少しやり過ぎてしまい、相手のロンは笑いの発作が止まらなくなり、静かな部屋に隔離され、一時間休んでからテストを受ける羽目になった。夕食後、みんな急いで談話室に戻ったが、のんびりするためではなく、次の試験科目、「魔法動物飼育学」、「魔法薬学」、「天文学」の復習をするためだった。

 

 次の日の午前中、「魔法動物飼育学」の試験監督はハグリッドだった。バックビークが助かったことが余程嬉しかったのか、ハグリッドは大きな顔いっぱいに溢れるばかりの笑みを浮かべ、イリスたちに課題を出した。――”禁じられた森”の手前にある、古い木に棲ませたボウトラックルに攻撃される事なく、葉っぱを一枚取って来るというものだ。ボウトラックルとは最大二十センチほどの小さな生き物で、見かけは樹皮と小枝で出来ており、そこに小さな茶色の目が二つ付いているため、肉眼で見つけるのは極めて難しい。普段は昆虫を食べ、大人しく内気な性格だが、自分の棲む木に危険が迫ると、棲家に危害を加えようとする木こりや樹医に襲い掛かり、長く鋭い指で目玉をほじくると言われている。そのため、魔法使いや魔女が杖用や薬用に木の一部を切り取る時には、ワラジムシを供えると、ボウトラックルをその間、宥めておく事が出来るとされる。

 

「目玉をほじくる、ですって?」

 

 ハグリッドが手本を見せるため、嬉々としてボウトラックルの棲む木に向かっている間、ハーマイオニーが『信じられない』と言わんばかりに目玉をグルリと回し、イリスに囁いた。

 

「ハグリッドって、どうしてこう・・・極端なの?」

「あいつにとっては、きっと魔法動物はどっちかなんだよ」ロンがしたり顔で頷いた。

「生きるか死ぬか、レタス食い虫(フロバーワーム)かヒッポグリフか・・・そういうことさ」

 

 ハリーとイリスは盛大に吹き出してしまったが、ハーマイオニーだけはクスリとも笑わなかった。

 

「三人共笑いごとじゃないわ、ホントに。こんな危険な課題、また怪我人が出かねないもの!」

 

 だがハーマイオニーの心配をよそに、ハグリッドの課題は怪我人を出す事無く、無事に終了した。――よく見るとハグリッドらしからぬ、細やかな気遣いや工夫が、随所に凝らされていたためだ。まず初めに、ハグリッドは生徒全員に、防護魔法の施されたサングラスを配って回った。課題の木は、素人目でもボウトラックルが見つけやすいように、程好く剪定されていた。そしてトラップとして、ボウトラックルに似た人形を所々に置き、生徒が誤って人形の方にワラジムシを供えると、人形はブーブー音を鳴らし、自分がニセモノであると生徒に知らせた。生徒が間違える度に、ハグリッドがやってきて、本物と人形の違いを説き、正しい外見のものを見つけるようにと教えた。三回連続でニセモノを掴んだネビルに、ハグリッドは言った。

 

「落ち込むこたぁねえ。最初は誰だって失敗するさ。この世界にゃ、フレディ(このボウトラックルのことらしい)みてぇに不思議な生き物が、たーんとおる。おれはそんな生き物たちがいるってぇことをお前さんらに知ってほしいし、対処法を間違えさえしなけりゃ、怪我もしねぇし仲良くもなれる。そのことを知ってほしいんだよ。

 ネビル、お前さんは草花が好きだろう。フレディたちは、それこそ杖の元になるような、魔法力に満ちた良い木にしか棲まねえ。今頑張って、こいつと仲良くなる方法を覚えときゃあ、いつかきっとお前さんの役に立つ。そう思わねえか?」

 

 ――その時、生徒たちのハグリッドを見る目が、少し変わったような気がした。ネビルは勇気を奮い起こし、コクリと頷いて根気強く課題に励んだ。

 

 午後は「魔法薬学」で、課題は「混乱薬」の調合だった。教科書以上にドロリとした濃度の薬を調合したイリスとは対照的に、ハリーは完全に大失敗してしまったようだった。彼の薬はいくら頑張っても濃くならず、イリスの薬を見終えたスネイプは、ハリーの傍に立って、日頃の恨みを晴らすかのようにそれを楽しんでみていたが、次の生徒のところに行く前に、ノートに大きく”ゼロ”のような数字を書き込んだ。

 

 その後は、真夜中に一番高い塔に登っての「天文学」で、水曜の朝は「魔法史」。水曜の午後は、焼け付くような太陽の下で、温室に入っての「薬草学」だった。みんな首筋を日焼けでひりひりさせながら、談話室に戻り、すべてが終わる翌日の今頃を待ち焦がれた。

 

 最後から二つ目のテストは木曜の午前中、「闇の魔術に対する防衛術」だった。ルーピン先生はこれまで誰も受けたことがないような、独特の課題を出題した。――戸外での障害物競争のようなもので、睡魔のグリンデローが入った深いプールを渡り、赤帽のレッドキャップが潜んでいる穴だらけの場所を通り、道に迷わせようと誘う、おいでおいで妖怪のヒンキーパンクをかわして沼地を通り抜け、最後に、最近捕まったまね妖怪・ボガートが閉じ込められている大きなトランクに入って戦うというものだ。

 

「素晴らしい、イリス。満点以上だ」

 

 仲良し四人組の中で、一番最初に呼ばれたイリスが、銀色に輝く双頭の蛇を片腕に絡ませて、トランクから出て来ると、ルーピンが低い声でそう言って大きく頷いた。――本当に良かった、スネイプ先生のおかげだ。イリスは蛇を消し、安堵の溜め息を吐いた。それからトランクの付近の壁に寄りかかって、三人が試験を終えるのを待つ事にした。

 

 次に呼ばれたのはロンだ。ロンはヒンキーパンクのところまではうまくやったが、ヒンキーパンクに惑わされて泥沼に腰まで沈んでしまい、そこで終了となった。イリスが泥だらけで落ち込むロンを一生懸命慰めている間、ハリーは全て完璧にこなし、イリスの視線をチラッと気にしながら、ボガートが潜むトランクに入ったまでは良かったが、一分程して真っ青な顔で飛び出してきた。

 

「ハリー」ルーピンが驚いて声をかけた。

「どうしたんだい?」

「シリウスが」ハリーがそこで言葉を失い、トランクを振り返った。

「シリウスが『僕を嫌いになった』って。『ダーズリーの家に戻れ』って言われたんだ。どうしよう?」

 

 ルーピンは何とも言えない表情を浮かべた。ロンは余程ツボに入ったのか、教室を飛び出して廊下で崩れ落ち、笑い転げていた。イリスが茫然自失状態となったハリーを落ち着かせるのに、しばらく時間がかかった。ハリーがやっと『あのシリウスは本物ではなく、ボガートだ』という事実に気づき始めた頃、ハーマイオニーが叫びながらトランクから飛び出してきた。

 

「マ、マ、マクゴナガル先生が!先生が、私、全科目落第だって!」

 

 ――もう、現場は()()()()()()()()()()状態だった。やっと笑いが治まって教室に戻って来たばかりのロンは、笑いのツボの暴力に再び打ちのめされ、床の上で”磔の呪文”を掛けられたように、もがき苦しむ羽目になった。二人がようやく普段の調子を取り戻してくれたところで、イリスたちは連れ立って城へ向かった。いつも優秀な二人の弱みを知ったロンは、”ボガート騒ぎ”をちょいちょいからかった。

 

「いい加減にしろよ、ロン」ハリーはイライラしながら言った。

「わーかったよ、ゴメンゴメン。・・・あっ、シリウスだ!」

「エッ?!」

 

 ハリーは慌ててロンの指差す方向を見たが、そこにはシリウスどころか、誰もいない。――ロンはまたしても笑い転げ、イリスはその顔に、あの”悪戯双子”の片鱗を見た気がした。ハリーは般若のような形相で、呪いを掛けるために、ロンに向けて杖を振り上げた。これから起こる悲劇を予知したハーマイオニーは呆れ顔で、イリスの目を『見ちゃダメ』と言わんばかりに両手で塞いだ。かくしてロンは、この猛暑の中、激しいタップダンスを繰り広げながら、ゼイゼイ息を切らして、一人で城へ向かう羽目になったのであった。

 

 

 大広間では、周りのみんなが昼食を食べながら、午後には全部試験が終わるのを楽しみに、興奮してあれこれ喋っていた。最後のテストは「占い学」、ハーマイオニーの最後のテストは「マグル学」だった。大理石の階段をみんなで一緒に登り、二階の廊下でハーマイオニーが去り、イリス達は八階まで駆け上がった。トレローニー先生の教室に登る螺旋階段にはクラスの他の生徒が大勢腰掛け、最後の詰め込みをしていた。三人がそれぞれ座ると、ネビルが「一人一人試験するんだって」と教えてくれた。

 

 教室の外で待つ列は、なかなか短くならなかった。銀色の梯子を一人ひとり降りて来る度に、待っている生徒が小声で課題の内容を尋ねた。しかし、全員が固く口を閉ざした。

 

「もしそれを君たちにしゃべったら、僕、ひどい事故に遭うって、水晶玉にそう出てるって言うんだ!」

 

 一足先に試験を終えたネビルが、梯子を下り、イリスたちのところまでやって来ると、甲高い声でそう喋った。

 

「勝手なもんだよな」ロンがフフンと鼻を鳴らした。

「アイツが当たってたような気がしてきたよ(ロンは頭上の撥ね戸に向かって中指を突き出したので、イリスが慌ててその手を掴み、下ろさせた)まったくインチキばあさんだ!」

「まったくだ」ハリーも悪びれずに呟いた。

「イリス・ゴーント」

 

 まるで二人の会話を聴いていたかのようなタイミングで、聞き慣れた、あの霧のかなたの声が、頭の上から聴こえて来た。三人は肩をビクッと跳ね上げ、それぞれの顔を見た。

 

「僕、君が水晶玉に何が見えるか予言してあげる。今日の晩飯だろ?」

「違うよ」ハリーが勝ち誇ったように言った。

「デザートさ。イリスはディナーの時のデザートを、一日の中で一番沢山お代わりするんだから」

 

 軽口を叩き合う二人をしかめっ面で睨んでから、イリスは大きく返事をして、階段を上がった。――塔の天辺の部屋は、いつもよりいっそう暑かった。カーテンは閉め切られ、火は燃え盛り、むせ返るような香の匂いで、イリスは頭がクラクラした。大きな水晶玉の前で待っているトレローニー先生のところまで、椅子やテーブルがごった返している中を、イリスは躓きながら進んだ。

 

「こんにちは。良い子ね」先生は静かに言った。

「この玉をじっと見て下さらないこと。ゆっくりでいいのよ。それから、中に何が見えるか、教えてくださいましな」

 

 イリスは先生に言われた通り、水晶玉を食い入るように見つめた。――しかし、白い靄が渦巻いている以外に、何も見えない。

 

「どうかしら?」トレローニー先生がそれとなく促した。

「何か見えて?」

 

 ――イリスは返事をしようと息を吸い込んだが、すぐ傍の暖炉から漂ってくる煙と香を喉に引っかかり、咳き込んでしまった。おまけに、異様に暑い。イリスは段々、意識がぼんやりしてきた。どれだけ頑張って控えめに呼吸しても、暖炉の熱と癖のある香が、泥のように体内へ入ってくる。汗びっしょりで暑さに喘ぐイリスの肩に、トレローニー先生は枯れ木のように細い手を載せた。

 

「ここだけの話、わたくし、あなたを気に入ってますのよ?あなたには、未来を見据える才覚がありますわ。わたくしには分かるのです。あなたはエルサ・イズモの娘ですもの」

 

 しかし、トレローニー先生の言葉は、イリスの右耳から左耳へと、空しく受け流されていくのみだった。

 

「あの高慢ちきな理解のない友人が、あなたの才能を潰しているのですわ」

 

 不意に、水晶玉の煙が、風もないのにユラユラと揺らめいた。イリスは吸い寄せられるように、顔を近づけた。

 

 ――水晶玉の中から、歌が聴こえて来る。美しい女性の声だ。どこかで聴いた事のあるような気がする。煙を掻き乱して、玉の中を何かが走っている。――ネズミ、スキャバーズだ。イリスは驚いて、息を飲んだ。

 

 スキャバーズは、その小さな口にキラキラ輝くものを咥えて、一心に走っている。野を越え、山を越え、深々とした森を越えた時、キラキラ輝くものは口から消えていた。そしてネズミは森を越え、ボロボロの屋敷を通り抜けて、寂しい墓場に辿り着き、やっと足を止めた。

 

 そしてダイアモンドのように輝く涙をひとつぶ零した。零れた涙は地面に落ちた瞬間、つんざくような女の悲鳴が聴こえ、煙が真っ赤に染まり、水晶玉が粉々に砕け散った。生暖かい血飛沫がイリスの顔にビシャリと掛かって、耐え難い鉄錆びの匂いが鼻腔に突き刺さる。イリスは恐怖の余り、悲鳴を上げて転びそうになった。

 

「まあ、どういたしましたの?」トレローニー先生が叫んだ。

「あなた、何か見えましたのね。一体何が?」

 

 イリスは早鐘のように打ち続ける心臓を押さえ、喘いだ。そして何度も目を瞬いて、水晶玉を見た。――ただの灰色の煙が詰まっているだけだ。今の光景は、一体何だったのだろう。幻覚だったのだろうか。だが、血の匂いだけは、それが現実のものであったかのように、未だに鼻にこびり付いている。イリスは急に気分が悪くなった。

 

「先生、何か匂いませんか?その・・・」イリスは言い淀んだ。

「血の匂いとか」

「いいえ?」

 

 トレローニー先生は疑わしげに鼻を動かし、暫くして首を横に振った。

 

「良いお香の香りしかいたしませんわ」

「先生、すみません。私、気分が悪くて・・・」

 

 イリスは突然苦いものが喉元に込み上げて来て、手で口を押えた。――吐きそうだ。

 

「試験は棄権します。すみません、先生」

 

 トレローニー先生は落胆と好奇心が綯交ぜになった声を出したが、イリスは一刻も早く此処から立ち去りたかった。成績が落ちたって構わない。イリスは振り返る事無く、勢い良く螺旋階段を駆け下りて、一目散に談話室へ飛び込んだ。一足先に戻って来たハーマイオニーに、先程の出来事を話すと、彼女は冷たい水をゴブレットに入れ、一息に飲み干すように助言した。

 

「イリス、それは幻覚よ。さあ、これを飲んで。気分がすっきりするわ。マグルの世界でも良くある事よ。幻覚を見せるような作用のある香を焚いてるに違いないわ」

 

 ハーマイオニーの言葉を信じ、イリスは頭の中に掛かっていた(もや)が、少しずつ消えていくような気がした。水を一気に飲み干すと、血腥い匂いも綺麗さっぱりしなくなった。――数十分後、ロンを伴って談話室へ戻って来たハリーは、険しい表情をしていた。ハリーは『トレローニー先生が予言をしたのだ』と、三人に言った。トレローニー先生はいつもとは打って変わって太く荒々しい声で、こう言ったのだと。

 

『闇の帝王は朋輩に打ち捨てられて、孤独に横たわっている。たまさかに訪れる魂の欠片(プシュケー)だけが、渇きを癒す。その召し使いは十二年間、鎖に繋がれていたが、その鎖は腐り落ちた。三度目の満月の夜、召し使いは帝王の下へ馳せ参ずるであろう。召し使いは、闇の帝王の庇護なくして生きられぬ。しかし召し使いだけが、闇の帝王を救う力を持つ。闇の帝王はその血肉を喰らい、再び立ち上がるであろう。以前より、さらに偉大に、より恐ろしく!』

 

 ハリーは唇を噛み締めながら、低い声で言った。

 

「きっとペティグリューに関する予言だ。いいかい?『十二年間、鎖に繋がれていた』、『鎖は腐り落ちた』――これはペティグリューのことに違いないよ。つまりあいつは、ヴォルデモートの復活に手を貸すんだ」

「ちょっと。ハリーまで、しっかりしてよ!」ハーマイオニーは呆れたように言った。

「それは先生の虚言、つまりはパフォーマンスよ。マクゴナガル先生も仰ってたわ。『占い学は魔法の中でも一番不正確な分野の一つ』だって。現に、ハリー。貴方、あの人に死の宣告をされた事をもう忘れたの?マグルの世界でも、胡散臭いオカルト信奉者が良くやる事だわ!」

「だけど、()()()様子が可笑しかったんだ」ハリーは語気を強めた。

「えっとそれは・・・()()()()()()?」

 

 混ぜっ返すロンの言葉を聞き、ハリーは一瞬、吹き出した。しかし、すぐ真顔に戻った。

 

「笑い事じゃないんだ、ロン。僕は真剣だ」

 

 ――イリスは顎に手を当て、思案を巡らせた。さっき自分が水晶玉で見た、スキャバーズの映像が思い出される。もしあれが、未来の出来事だったとしたら?ハリーもイリスも、ピーターに関連する事象を見た。それを『ただの偶然』という言葉で片付けてしまう事は出来そうにない。イリスはおずおずと、ハリーに自分が占い学のテスト中に見た事を話して聴かせた。ハリーは確信を得たように、しっかりと頷いた。

 

「やっぱり、ダンブルドアに報告しよう。それが一番良いよ」

 

 イリスとハリーが、どこか安心したように微笑み合う一方で、ロンとハーマイオニーは『全くしようのない』と言わんばかりに大きな溜め息を零した。頑固なところのあるハリーは、一度大きな決心をすると、何があってもそれを実行する性格である事を二人は知っていたのだ。ハリーは明るい声で言った。

 

「それで、それが終わったら、みんなでホグズミード村に行って、冷たいバタービールをしこたま飲もうよ。・・・勿論、ロンのおごりで」

「勘弁してくれよ!」不意打ちを喰らったロンが、焦って捲し立てた。

「あの時はホントに悪かったって!」

 

 四人の雰囲気は一気に和やかになった。

 

 

 四人は揃って談話室を出て、校長室を目指して廊下を歩いていた。すると先方から、大柄な人物が歩いて来るのが見えた。――ハグリッドだ。

 

「ああ、お前さんたち。おれの試験、よう頑張ったな。みんな満点にしといたぞ」ハグリッドはそう言って、にっこり笑った。

「まあ、ありがとう」ハーマイオニーが恐る恐る言った。

「ねえ、ハグリッド。その・・・誰も怪我人は出なかった?」ハーマイオニーがそっと付け加えた。

「・・・例えばスリザリンとかで」

「だーいじょうぶだ、ハーマイオニー。だーれも出んかったよ。問題も何一つ、起きんかった」

 

 ハグリッドは人を安心させるような暖かい笑みを浮かべ、頬をポリポリ搔いた。四人は安心して、肩の力を抜いた。

 

「ルーピン先生に、大分手伝ってもらったからな。本当に良い先生だったよ、あの人は。人狼じゃなけりゃ、()()()此処にいれたろうに・・・」

「何だって?」ハリーは驚いて咳き込みそうになりながら、尋ねた。

「なんと、まだ聴いとらんのか?」

 

 ハグリッドは面食らい、周りに誰もいないのに声を落として、こう言った。

 

「ほれ、その・・・(ハグリッドはイリスをチラリと見て、一瞬、言い淀んだ)、()()()()があったろうが。

 ダンブルドア先生は誰も大事にも至ってねえし、内々に済ませようとしたんだが・・・それを知ったスネイプ先生がカンカンに怒ってな。ルーピンに猛抗議をした。で、またあんなことが起きちゃなんねえってことで、テストが終わって一区切りついたとこで、辞表を出したんだ」

 

 ――四人は急いで、ルーピン先生の部屋へ向かった。部屋のドアは空いていた。グリンデローの水槽は空っぽになっていて、その傍に使い古されたスーツケースが蓋を開けたまま、ほとんどいっぱいになって置いてあった。ルーピンは机に覆い被さるようにして何かをしていたが、ハリーのノックで初めて顔を上げた。

 

「やあ、みんな」

 

 ルーピンは穏やかに笑いかけ、机の上に置いてあった”忍びの地図”を取り上げた。

 

「君たちがやってくるのが見えたよ」

「先生、ハグリッドから聞きました。お辞めになるって、本当ですか?」

 

 ハリーが単刀直入に尋ねた。彼の目には、薄らと涙が浮かんでいる。

 

「本当だ」

「どうしてですか?」イリスはたまらず、追いすがった。

「私のことなら、お気になさらないでください。私、先生に噛まれていません。みんな無事です。それに、先生は何度も謝ってくださいました。・・・あの夜、先生は()()()()薬を飲み忘れてしまった、ただそれだけです」

「そうだ」ルーピンは真剣な表情で、イリスに向き直った。

「そして君は()()()()出くわしたロックハートに救われ、人狼にならずに済んだ。彼がいなければ今頃、私は君を傷つけ・・・噛んでいただろう」

 

 恐らく人狼になった時の記憶が蘇ったのだろう、ルーピンは震える唇を噛み締め、力なく俯いた。――イリスは何も言えなくなった。確かにその通りだ。

 

「こんなこと、二度とあってはならないんだ。やはり、私のような者がここに来るべきではなかった」

「そんなこと仰らないでください!」イリスは叫んだ。

「そうです。先生は今までで最高の「闇の魔術に対する防衛術」の先生です!辞めないでください」ハリーも続けた。

「二人共、ありがとう」ルーピンは疲れた顔に、微笑みを浮かべた。

「イリス、あんな恐ろしい目に遭わせてしまった私に、そんな優しい言葉を掛けてくれるなんて。・・・その言葉だけで、私は充分だ」

 

 ルーピンは、黙り込んだハリーの手を取り、森で回収したと言って”忍びの地図”と”透明マント”を返してくれた。不意にドアをノックする音がした。――ダンブルドア先生だ。イリス達がいるのを見ても驚いた様子もない。

 

「リーマス、門のところに馬車が来ておる」

「校長、ありがとうございます」

 

 ルーピンは古ぼけたスーツケースと、空になったグリンデローの水槽を取り上げた。そして四人一人ずつに、微笑みかけた。

 

「それじゃ、さよなら。短い間だったが、君たちの先生になれて嬉しかったよ。私が唯一誇れる点は、それだけだ。君たちを見ていると、昔を思い出す。またいつかきっと会える。校長、門までお見送りいただかなくて結構です。一人で大丈夫です」

 

 そうして、ルーピンは部屋を出て行った。主のいない部屋は、ダンブルドアとイリス達がいるのにも関わらず、がらんとしているように感じた。暫くみんな喋らないでいると、ダンブルドア先生がいつもの飄々とした顔で尋ねた。

 

「どうしたね?そんなに浮かない顔をして。”永遠の別れ”という訳ではないのじゃよ」

「・・・何もできませんでした」ハリーは苦いものを噛み締めるように言った。

「何もできなかったとな?」

 

 ダンブルドアは静かに言い、一人ずつの顔をじっと覗き込み、最後にイリスの顔をじっと見つめた。

 

「とんでもない。それどころか、君たちは大きな変化をもたらした。君たちは、隠された真実を明らかにするのを手伝った。一人の無実の男を、恐ろしい運命から救ったのじゃ」

 

 『恐ろしい』――その言葉は、ハリーの記憶を刺激した。『以前よりさらに偉大に、より恐ろしく』――トレローニー先生の予言だ!ハリーはイリスに目配せし、二人はそれぞれ「占い学」のテスト中に見聞きした出来事を、ダンブルドア先生に話して聴かせた。ダンブルドアは少し感心したような顔をした。

 

「これは、これは。トレローニー先生はもしかしたら、もしかしたのかも知れんのう」

 

 ダンブルドアは感慨深げに言った。

 

「こんなことが起ころうとはのう。これでトレローニー先生の本当の予言は全部で二つになった。給料を上げてやるべきかの・・・」

 

 ハリーもイリスも思わず呆気に取られて、ダンブルドアを仰ぎ見た。――ダンブルドアは、トレローニー先生の予言を本物だと信じている。だとしたら、ヴォルデモートは本当に復活するんだ。どうしてダンブルドアは平静でいられるんだろう?

 

「皆に言うておくが・・・我々の行動の因果というものは、非常に複雑で多様なものじゃ。だから、未来を予測するというのは、まさに非常に難しいものなのじゃよ」

 

 ダンブルドアは、何故かハーマイオニーに向けて、パチンとウインクして見せた。ハーマイオニーはハッと息を飲み、三人に気づかれないように、胸ポケットにそっと手を置いた。

 

「どうあっても過去は変えられぬし、未来を予測することも困難じゃ。近い未来、ヴォルデモートは復活するじゃろう。ペティグリューを逃がしたことが吉と出るか、凶と出るかは、その時になってみないと分からぬ。悲しい事に、ちっぽけな我々にとって唯一出来る事と言えば、今を精一杯生きることだけなのだから!」

 

 ダンブルドアは、四人それぞれに微笑んだ。それだけで、イリス達は不思議と勇気づけられる気がした。

 

「しかしその積み重ねが過去となり、未来となる。過去は後悔するのではなく、そこから学ぶためにある。未来は恐れるものではなく、現在を一生懸命生きている者たちが、目指すべきものとするためにあるのじゃ。そう考えて生き続ける限り、ヴォルデモートも、ペティグリューも、わしらが恐るるものに足らぬ」

 

 ――ぽたり。不意に、あたたかな滴が手の甲にしたたったような気がして、イリスは顔を上げた。ダンブルドアのキラキラ輝くブルーの瞳から、涙が零れ落ちている。イリスが驚いて瞬きすると、ダンブルドアの目から涙はきれいさっぱり消えていた。いつもの飄々とした表情を浮かべているだけだ。――自分の見間違いだったのだろうか、イリスは首を傾げた。ダンブルドアは、ポケットに手を突っ込んで、のんびりとした口調で言った。

 

「さて皆、レモンキャンデーを食べるかね?少し買い過ぎてしもうてのう」

 

 

 リーマス・ルーピンは古ぼけたスーツケースを抱え直し、廊下を歩いていた。――『一人で大丈夫です』、自分の言った言葉が、心の中で何度もリフレインした。

 

 そう、僕は一人で大丈夫だ。いや、そうでなければならない。

 

 小さな頃に狼男に噛まれて、忌まわしいあの呪いを受けてからというもの、リーマスはずっと一人でいなければならなかった。両親は惜しみない愛情を注いでくれたが、人狼になる夜――人生で一番恐ろしく辛い時――には、傍にいてくれなかった。それは仕方のない事だったが、リーマスにとっては、人狼である自分も、自らの一部に他ならない。

 

 血を分けた両親ですら受け入れる事が出来ないなら、もうこの世界に僕を理解してくれる人はいないのだろう。幼いながらにリーマスはそう結論づけ、世の中のもの全てから、少し距離を置くようになった。――それはリーマスなりの処世術だった。

 

 しかしホグワーツに来て、ピーター、ジェームズ、シリウスに出会い、彼らが人狼になる満月の夜に、同じ動物となって傍にいる事を選択してくれた時――、リーマスの人生はがらりと変わった。自分の全てを理解し、受け入れてくれる人達がいる。毎日がとても楽しくて、人狼になる夜すら、最早恐れなどなかった。

 

 その時、リーマスは賢いはずなのに、呪いで変質した自分の危険性を見てみない振りをした。”同じ動物”とは言っても、ピーター達はヒトの皮を被った動物もどき、対して自分は”理性を失った怪物”だ。いくら素晴らしい友人がいても、強力な薬を飲んでも、呪い自体がなくなる事はない。たった一度の失敗が、取り返しのつかない事態を招く。

 

 ――人狼になった時の記憶は、おぼろげではあるが脳の片隅にいつも残っている。イリスの怯え切った表情が浮かび、リーマスは慙愧に耐えない思いで、唇を強く噛み締めた。大切な教え子に、私はなんて恐ろしいことを。あの時、ロックハートが助けてくれなければ、きっと私は・・・。

 

 『もう何も考えるな、人間もどき。化け物のくせに、人間を装って生きるのはやめようぜ』

 

 ふと頭の中で、とても意地悪な声がした。呪いを受けた時から、自分だけに聴こえる声でずっと囁き掛けてくる、大嫌いなやつだ。リーマスは思わず立ち止まった。少し曇った窓硝子には、白髪交じりの痩せた男が突っ立っている様子が見えた。誰に向けるでもなく、くたびれた愛想笑いを浮かべている。声は舌なめずりをして、さらに続けた。

 

 『なあ、分かってるんだろ?自分を擦り減らして、こんなにボロボロになるまで頑張っても、世間はあんたを認めてはくれない。ここがあんたの生きる場所じゃないからさ。本当のあんたを認めてくれるやつらは、違う場所にいる。暗くてジメジメしていて、血肉と悲鳴が迸るところさ・・・』

 

「リーマス」

 

 突然、優しい声が矢のように飛んできて、意地悪な声に突き刺さった。――ダンブルドアの声だ。声はくぐもった悲鳴を上げたのを最後に、もう聞こえなくなった。リーマスは一瞬びくりと身体を強張らせたが、すぐにいつもの落ち着いた調子を取り戻し、穏やかな表情でダンブルドアに向き直った。

 

「校長先生。見送りは良いと、申し上げた筈なのに」

 

 そう言ってリーマスはダンブルドアを見上げ、言葉を失った。ダンブルドアがこれ以上ない程に真剣な眼差しで、自分を見つめていたからだ。

 

「きみに頼みたいことがある」ダンブルドアは静かに言った。

「わしの力になってくれぬか?ヴォルデモートが復活を遂げようとしている。共に働き、人々を守ってほしい」

 

 リーマスの痩せた肩が、ぎくりと強張った。ヴォルデモートが不滅の存在だという事は予想していたし、戦いの最中に再び身を投じる事にも躊躇いはなかった。だが、ダンブルドアと手を取り戦う資格が、果たして今の自分にあるのだろうか。学生時代の自分の傲慢さや、組み伏せた教え子の華奢な身体を思い出し、リーマスは思わずその場から一歩、退いた。意地悪な声が、さも愉快そうに嘲笑する。

 

「せっかくのお話ですが、私は・・・」

「きみにしか出来ぬことじゃ、リーマス」ダンブルドアは、迷いなく一歩踏み込んだ。

「きみのように呪いと向き合い、抗いながら懸命に生きた者にしか、成しえぬことじゃ」

 

 リーマスの感情は爆発した。――ああ、この人も、本当の僕を理解していない。本当の僕は・・・

 

「私は抗えてなどいません!」リーマスはしわがれた声で叫んだ。

「今まで、誘惑に耐え切れず、数々の過ちを犯してきました。ピーター達が何故”動物もどき”になったのか、そして私の不注意で薬を飲み忘れ、イリスを噛みかけた事も、校長はご存じの筈。

 私はあなたの思っているような、良い人間ではない。ヒトの皮を被った怪物だ。現に今だって、欲望や恐れに飲み込まれそうになりながら、やっとの思いで立っているんです」

「そう、きみはこうして()()()()()。・・・見るがよい」

 

 ダンブルドアは揺るぎない口調でそう言うと、ローブの中から両手で抱える程の大きさの箱を取り出して、リーマスに手渡した。――リーマスが訝し気な表情で蓋を開けると、そこには手紙やカード(吼えないように魔法で封印された”吼えメール”もある)がぎっちりと詰まっている。どうせこれは人狼である自分が教鞭を取っていた事に対する、クレームの手紙達だろう。落胆の溜め息を零すリーマスに、ダンブルドアは飄々とした口調でこう言った。

 

「遠慮せず、読んでみてはどうかね。それは、きみを擁護し、退職することに対する抗議の手紙達じゃ」

 

 リーマスは思わずダンブルドアを仰ぎ見た。――『人狼である自分を擁護する』だって?恐る恐るカードを一枚取って、メッセージを読む。二年目のハッフルパフの男子学生が、拙い文字で一生懸命、ダンブルドアに抗議の意思を示している――『校長先生、ルーピン先生はとても良い先生です。もう一度チャンスを与えるべきです。僕は先生が大好きですし、他のみんなもそうです(※純血のアイリーンを除きます)。現に僕は先生のおかげで・・・』

 

「きみを慕っていた生徒達は、このように沢山いた。人狼だと分かってもそれは変わらない」ダンブルドアは穏やかに言った。

「さすがに皆”動物もどき”になれるほどの才能は持ち合わせてはいないじゃろうがの」

 

 人狼のみならず、強い呪いを受けた人間は皆、程度の違いはあれど不自由な人生を歩む事となる。リーマスもその一人だ。『この苦しいばかりの人生に、意味はあるのだろうか』――人狼となった瞬間に芽生え、今日に至るまでリーマスを悩ませ続けたこの疑問に、彼は今、やっと答えの一部を見い出せたような気がした。

 

 協力を申し出たリーマスに、ダンブルドアは早速、”ある情報”を精査する仕事を依頼し、ローブの内側から二巻き程の羊皮紙を差し出した。諜報活動なら、以前の自分の得意分野だ。リーマスは情報を把握するために羊皮紙の文面をざっと読み込もうとしたが、ある単語を見た途端、――リーマスの目の動きが、ピタリと止まった。

 

 

「自由に」

 

 その日の夜、ホグズミード村の外れにある小さなパブで、シリウスとリーマスはビールグラスをカチンと合わせ、乾杯した。お互いに何かと忙しい身であるため、こうしてじっくりと時間を掛けて話すのは、実に数週間ぶりだった。二人はクリスプス(ポテトチップス)を摘まみながら、ハリーの新しい部屋に置く家具の木材や小物、漫画の種類について話し合ったり、リーマスへ向けた学生達からの手紙を読んだりして、和やかな一時を過ごした。

 

 ふと二人の会話が途切れた頃、シリウスは口を開いた。――イースター休暇明けの土曜日、優勝杯を賭けたグリフィンドール対スリザリンの試合の日、”炎の雷(ファイアボルト)”を持ってハリーに会いに行った日の事だ。

 

 

 イリスは試合が始まる前に、『聞いてもらいたい事がある』とシリウスに向け、恐る恐るといった調子で切り出した。シリウスは快諾し、イリスの目の高さまでしゃがみ込み、話の続きを促した。――彼女には返し切れない程の恩がある。彼女の話ならどんな事だって聞いてやりたいし、力にもなってやりたかった。

 

 しかし、イリスが『ピーター』という単語を口にした瞬間、彼のその気持ちは鋭く凍てついた。

 

「ピーターの心の世界を見たの。彼は今も、自分のしてしまった事を悔やんで、とても傷ついて心を痛めている」

 

 シリウスは驚きを通り越して呆れが生じ、二の句が告げなかった。――何を言い出すかと思えば、お人好しにも程がある!あんな酷い仕打ちを受けたのに、彼女はまだあいつを庇うつもりなのか。直情的なシリウスの心の声は、そのまま言葉になって飛び出した。

 

「『心を痛める』?あいつが?」シリウスはせせら笑った。

「本当に心を痛め、罪を償う気持ちがあるなら、逃げない筈だ。だが、あいつはまた逃げた。そして今も逃げ続けている」

 

 シリウスの脳裏に、かつて”叫びの屋敷”でピーターと対決した時の記憶が思い起こされる。結局、あいつは自分の犯した罪を認める事が出来なかった。本当に救いようのない奴だ。もうどうしようもできない。

 

 そう結論づけた後、俄かにシリウスはイリスが心配になってきた。この筋金入りのお人好しの女の子――実際、自分も彼女に救われたのだが――に忠告をしなければ。いつ何時、またピーターのような悪人に、言葉巧みに利用され傷つけられるか分からない。彼は、小さな子供に言い聞かせるようにゆっくりとした口調でこう言った。

 

「イリス、君はとても優しい。私も君に救われた。だが世の中には、ピーターのように、その優しさを向ける価値のない者もいる」

「どうして?ピーターが間違ったことをしてしまったから?」

 

 イリスが尋ねると、シリウスは当然のように「そうだ」と頷いた。この子は、全ての人間が良い心を持っていて、どんな悪人でもいずれは改心すると信じている。だが、実際はそうではない。ピーターのように救いようのない悪党も存在する。この事実をどう分かりやすく言えば、彼女に理解してもらえるのかと思い悩みながら、”炎の雷(ファイアボルト)”の包みを持ち直すシリウスに、イリスは意を決したように再び口を開いた。

 

「去年の夏、私が迷っている時、アーサーさんが教えてくれたの。『誰しもが人生において、正しい事と間違っている事の間で迷いながら、歩んでいくものだ』って」

 

 シリウスは思わず包みからイリスへ、その視線を移した。彼女は宝石のように輝く双眸を瞬かせ、シリウスをじっと見つめ返す。――まるで禁じられた森で、初めて二人が相対したように。

 

「私はそれを聞いて『間違えたらどうしよう』って、不安な気持ちになった。・・・正しい事をし続けるって、とっても難しいことだから」

 

 イリスの伏せた瞼の裏に、図らずも見た、二人の大人の心の世界の光景が蘇る。――ロックハートは、他人の記憶を盗み取り、自分のものとした。ピーターは親友達を裏切り死へ導いて、無実の罪を着せて牢獄に押し込めた。それらは決して許される事の無い、間違った行為だ。だがその裏には、誰にも語られない、強く激しい悩みや苦しみ、悲しみがあった。

 

「でも、周りの人達を見て思ったの。たとえ間違っていたとしても、その人がどんな思いでそうしようと決めたのか。それを考えると、どんな事だって意味があるんじゃないかって思えるんだ」

 

 

 シリウスは全てを話し終わった後、温くなったビールを一口飲んだ。傷だらけのグラスを見ると、泡立った黄金色の水面が揺れ、店の灯りに反射して煌めいている。アルコールか、それともイリスの言葉に影響を受けたのかは分からないが、その時シリウスは珍しく感傷的な気分に包まれていた。

 

 ――弟と比較されて孤独に育ち、愛情に飢え、苛立った気持ちを学校で発散させた学生時代。誤った人物を信じたために親友たちが死に、自分は十二年間も牢獄に閉じ込められた。裏切り者を制裁するために命掛けで脱走を図り、死にかけたが九死に一生を得、今は濡れ衣も晴れて、ハリーと共に暮らす新しく素晴らしい人生が始まろうとしている――

 

 こうして振り返れば、激情に身を任せるばかりの、不安定で間違いだらけの人生だった。間違い続けたのは、ピーターだけでなく、自分も同じだ。これこそが正しいと信じて進み続け、振り返って間違いだと知った時、それは変えようのない過去の出来事となっていた。けれども、その行動一つ一つにも、意味があったとしたら。

 

 失ったものは決して帰らないし、心の傷が癒える事はない。しかし、それを踏まえた上で、現在が不幸であるとはシリウスには思えなかった。あいつもいつか、そう思う日が来るのだろうか。

 

「それで、君は訊いたのか?」

 

 リーマスが静かに尋ねると、シリウスはまるで人狼薬を飲んでいるかのように、苦々しい表情で残り少ないビールを飲み干して、低い声で応えた。

 

「ああ」

「僕にも教えてくれ」

 

 リーマスは疲れ切った顔をわずかに微笑ませ、シリウスに言った。

 

「僕は、ピーターを許す事は出来ない。だが、・・・あいつは、僕にとって一番最初に声をかけてくれた友達だった。どんな思いであんな事をしてしまったのか、本当の理由を知りたい」

 

 二人はついに空になったビールグラスを気にする事もなく、話し続けた。一度話し出すと、もう止まらなかった。『ジェームズとリリーの死』――もう変える事が出来ないために、お互いに蒸し返す事を避けていたその悲しい出来事の中には、ピーターだけでなく、シリウスとリーマスにも数えきれない程の苦悩や強い思いが秘められていた。話して話して、もううんざりだという所まで話しても、二人は店を出ようという気にはなれなかった。二人は少し吹っ切れたような表情で、湯気の立つホットバタービールを注文した。

 

「あの子は純粋だ」シリウスは届いたバタービールを啜り、上機嫌で言った。

「泥の中に咲く蓮の花(ロータス)のように、穢れなく清らかだ」

 

 リーマスは、暫らく何も言わずに、バタービールから立ち昇る湯気を見つめていたが、やがて抑揚のない声でぽつりと呟いた。

 

「つまりそれは、善にも悪にもどちらでも染まりうるという事だ」

「何が言いたい」シリウスは苛立った口調で唸った。

「まさか彼女を信じていないのか?」

「違う。僕は心配しているんだ」

 

 シリウスの訝し気な視線を気にする事無く、リーマスは熱に浮かされたように滔々と話し続ける。

 

「ずっと疑問に思っていた。ダンブルドアは何故、厄介者の僕にあんなに親切にしてくれるのかって。たった一人の人狼のために、”叫びの屋敷”を用意してくれたり新しい薬の開発に携わってくれただけでなく、ホグワーツの教師という仕事まで与えてくれた。

 だが、今日その謎が解けた。本当に救いたいのは僕じゃなかった。似た環境である僕と()とを重ねていたんだ」

「”彼”?」

 

 リーマスは観念したように目を深く閉じ、言った。

 

「ネーレウスだ。彼も呪いに蝕まれていた。僕と同じ、血に取り憑く呪いだ」

「人狼の呪いか?」

「違う、そんな()()()()じゃない・・・()()()()()()だ」

 

 シリウスは呆気に取られ、茫然とリーマスを見つめた。ネーレウス・ゴーントはイリスの父親の名だ。”血に取り憑く”、”死に至る呪い”だと?

 

「ヴォルデモートが何故、ダンブルドアの下にいたネーレウスを自由にさせていたと思う?殺す必要がなかったからだ。

 ネーレウスの祖母の血を受け継ぐ者は、ヴォルデモートに忠誠を尽さなければ、永くは生きられない。・・・それは、イリスも例外じゃない」

 

―――――――――

 

 

 

――――――

 

 

 

―――

 

 魔法省から逃げ出したピーターは、小さな手足を懸命に動かして、アルバニアの森を目指し、草むらの中を一心に走っていた。

 

 『みんな、八つ裂きにしてやる!』ピーターは声にならない声でそう吼えて、狂ったようにゲラゲラ笑った。僕を裏切った奴らは全員許さない。報復してやる。ルシウスもファッジもシリウスも、みんなみんな、あのお方の餌食になるがいい!

 

 『戦って!ピーター、戦って!』

 

 ふと、復讐に狂うピーターの頭の中に、イリスの澄んだ声が響き渡り、彼はその小さな歩みをピタッと止めた。今でも克明に思い出せる。あの恐ろしい化け物と対峙し、恐怖で震えながらも、彼女は繋いだ手を離さなかった。

 

 『ねえ、全部、失ってもいいの?!』

 

 そうだ、今ならまだやり直せる。ピーターは我に返った。あの子と約束した。罪を償うんだ。罪を・・・。ピーターは、草むらに出来た小さな水溜りにその身を映した。美しい月や星灯りに照らされて、やつれた老いぼれネズミの輪郭がゆらゆらと揺らいでいる。口に咥えた指輪の宝石が、灯りを反射してほんの一瞬キラッと光り、水面を明るく照らした。

 

 ――その時、ピーターは世にも恐ろしい光景を目の当たりにし、恐怖で息を引き攣らせた。自分のすぐ後ろに、あの恐ろしい化け物が迫り、今にもその歪な鉤爪を伸ばそうとしている!

 

 ピーターは情けない悲鳴を上げ、その拍子に水溜りへ落とした指輪を咥え直し、一目散に駆け出した。

 

 不意に、彼の黒いビーズ玉のような目に涙が溢れた。やがてその小さな粒は、朝露に紛れて何処へともなく消えて行った。




早く後編を書いて炎のゴブ編に行きたいよー( ;∀;)
アズカバン編しんどいよー( ;∀;)

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