ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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※1/21 文章微調整完了致しました。ご指摘、誤字報告ありがとうございました。
※作中に一部、残酷な表現やR-15的表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


Act15.変わるもの、変われないもの

 イリスは、医務室でマダム・ポンフリーによる懸命な看護を受けながら、自分の体に充分な魔法力が満ちるまで、短い覚醒と長い睡眠のサイクルを繰り返した。

 

 ――三度目の覚醒の時、イリスはゆっくりと目を開いた。意識も視界も、何もかもがぼんやりしている。一体、ここは何処だろう。誰かの話し声がする。年老いた男性の声と、暗い調子の女性の声。けれども肝心の話の内容が、耳から脳にのろのろと移動していくように聴こえてちっとも理解できない。

 

 イリスは枕の上で頭を動かした。(かすみ)がかった視界の中で、小豆色のローブに身を包んだ女性と、漆黒のマントを羽織った男性が向き合い、何事かを話し合っている。その時、イリスの視線に気が付いたのか、男性が此方を向き、杖を持って近づいて来た。男性はよく見ると小太りで、イリスのベッドの傍までやって来ると、心配そうな口調で話しかけた。

 

「イリス!目が覚めたんだね。安心しなさい、もうあいつはいない。ここは安全だ」

『イリス、仕方がないんだ。私はまだ死にたくない。生き残るためなんだ』

 

 しかしイリスには、男性が自分を労わるために掛けてくれたその言葉が、全く違ったものに聴こえた。

 

 『小太りの男性が、自分に対して杖を向けている』――たったそれだけの事で、つい数時間前に受けたあの恐ろしい拷問の記憶がフラッシュバックし、心身を蹂躙していく。イリスは、男性をピーターだと()()した。――全身からぶわっと汗が噴き出し、心臓は激しく鼓動を打ち始める。完全なパニック状態に陥ったイリスは、息を荒げながら、男性から逃れるように這いずって、ベッドから転げ落ちた。

 

「大臣、杖をお仕舞いになってください!この子は、それに対して恐怖心を抱いています!」

「ああ、わ、悪かった。ほら、イリス、杖をしまったよ!」

『まだそんな力が残っているのか。・・・クルーシオ、苦しめ!』

 

 イリスの視線の先と反応を一目見ただけで、素早く現状を把握した女性――マダム・ポンフリーは、鋭い声で言い放ちながらイリスを抱きすくめた。しかし小太りの男性――ファッジ大臣がいくら優しい言葉を掛けても、彼女の耳には届かない。イリスはポンフリーの拘束から抜け出そうと、ますます強く暴れた。もうイリスはここがどこで、周りにいるのが誰かなのも理解できないほど、ひどく錯乱していた。ファッジはどうしていいか分からない様子で、杖を仕舞ったり出したりしては、二人の周りをうろうろと歩き回っている。

 

「ゴーント!」

 

 やがて騒ぎを聞きつけたのか、医務室の扉が大きく開かれてスネイプが入ってきた。イリスのただならぬ様子を見るや否や、大股で歩み寄ると、ポンフリーに代わって彼女を強く抱き締める。

 

「ゴーント、私の声を聞け。もう大丈夫だ。あいつはどこにもいない」

 

 喘ぐように呼吸を繰り返すイリスは、空気に混じってツンとした独特の匂いが鼻を突いたのに気づいた。――無数の薬草や材料が混ざり合う事で生まれた、不思議な香り。芳香は鼻から脳へ伝わり、イリスに良い記憶を思い出させた。

 

 この匂いのする人は、いつも私を助けてくれた。『この人はピーターじゃない』――イリスは硬直していた身体の力を抜き、スネイプのローブに深く顔を埋め、子犬が母親に甘えるように、ローブの匂いをくんくんと嗅いだ。そして彼の腕の中でポンフリーが差し出す薬を飲み、あっという間に深い眠りに落ちた。

 

 やっと眠ったイリスを見て、三人はそれぞれ安堵のため息を零した。スネイプはイリスを慎重にベッドに横たえ、ポンフリーは悲しみの涙を堪えながら、イリスの首へ薬に浸した布を巻き付ける。

 

「言語道断、何たることだ・・・ブラックが学校に侵入していたなんて。ディメンターは一体全体、何をやっていた?」ファッジは怒りに震える声で言い放った。

「”動物もどき”です。閣下」スネイプは冷え冷えとした声で応えた。

「あやつは動物に変身し、ディメンターの監視をかいくぐって学校へ侵入した。恐らく、一年の中で最も人気のないクリスマス休暇を狙い、ポッターを殺害しに来たのでしょう。だが、いくら動物に変身できても・・・」

「寮に入るには、合言葉が必要だ。だから、同じ寮生であるこの子を襲ったというのかね?」

 

 ファッジが後を続けた。まるで理解しがたいものと対峙しているかのように、眉根を寄せてたっぷりとした顎を撫で、落ち着かない様子でその場を歩き回る。

 

「しかし、なぜあの子は、夜中に寮を抜け出していたのだ?・・・(ファッジは目を見開き、息を飲んだ)・・・まさか、いじめで寮に居場所が・・・」

「大臣、これを。彼女のいた場所に落ちていたものです。フリットウィック教授が拾いました」

 

 スネイプはファッジに、小さく裂かれた羊皮紙片を差し出した。――そこには乱雑な文字で、『友の命を助けたければ、夜更けに一人で中庭に来い シリウス・ブラック』と書かれている。

 

「学校内に侵入した奴は、この子の目に着く所にこれを置いたのでしょう。そして彼女はそれを鵜呑みにし、寮を出た」

「だが何故、この子は危険を顧みず、たった一人で向かったのだ?もし本当に友人の命が危機に晒されていたとしても――相手は狂った殺人鬼だ――子供一人で立ち向かえる相手ではない。何より、彼女はそんな無謀な事をするようには見えないが・・・」

「閣下。この子は、ハリー・ポッターの親友です。少なからず、彼の影響を受けている」

 

 スネイプは土気色の顔を歪め、いつも通りの陰湿陰険な物言いで、話を続けた。

 

「ポッターは人々から英雄視され、自分が特別な存在だと思い込んでいる。彼の親友の、ウィーズリーやグレンジャーも同じです。彼らはこれまでも色々と上手くやりおおせ、どうも自分達の力を過信している節があるようで・・・。それに、勿論ポッターの場合、校長が特別扱いで、相当な自由を許してきました。彼は校則のすべてを違反し、好き勝手な行動をして目立つ事が好きなのです。

 そしてこの子は、その彼をまるで兄のように慕っている。彼のようになりたいと憧れているのです。だからこの子は一人で行った。尊敬するポッターなら、そうするだろうと。――だが、自分の助けなど待っている友はいない。いるのはブラックだけだった」

 

 二人の間を、重苦しい沈黙のヴェールが包み込んだ。やがてイリスへ視線を投げかけながら、ファッジが口火を切った。

 

「ああ、ブラックは合言葉を尋ねたのだろう。やつは、この子を”例のあの人”のものだと思い込んでいる。だから彼女を呼びつけた。ハリーのそばにいながら彼に手をかけなかった事も、責めたに違いない。しかし彼女はハリーの親友だ。合言葉を教える事も、彼を殺す事も拒んだ。そしてその事にブラックは激昂し・・・”磔の呪文”を掛けた」

「それも一度や二度ではありませんわ、大臣!」ポンフリーが涙ながらに訴える。

「何度もです!この子の魔法力が生まれつき潤沢でなければ・・・ショック死してしまっても、可笑しくない状況でした」

「勇敢な子だ、なんと勇敢な」ファッジは、押し潰されたような声で唸った。

「そして、何度痛めつけても口を割らない彼女に殺意を覚え、ブラックは首を絞めた」

 

 スネイプが怒りに打ち震えた声で後を続けると、ポンフリーは鼻をすすりながらイリスの髪を撫で、ファッジは唇を噛み締めた。

 

「か弱い子供に何ということを。正に鬼畜の所業だ。この子はやはり、日本に帰らせるべきだった」

「閣下、これで信じていただける筈です。この子は”あの人”の意志など継いでいないと。この子についての良からぬ噂は間違いなくデタラメであると、公の場で証言して頂けますか?」

「ああ、勿論だとも」ファッジは力強く頷いた。

「この子は命を賭けて親友を――ハリーを守った。この姿を見て、一体誰がそんな事を言えるだろう!」

 

 ファッジはスネイプを見つめ、しみじみとした口調で言った。

 

「この子が生きているのは君のおかげだ、スネイプ。君がいなければ、彼女は命を落としていたか、やつにもっと惨い目に遭わされていたに違いない」

「ええ、その可能性も充分にあり得ました、閣下。奴は人々に対する見せしめのために、この子の下へ吾輩を導いたのでしょう。だが、相手が悪かった。吾輩は、奴に深手を負わせる事に成功致しました。そう長くは持ちますまい」

 

 

 日付が変わってクリスマス・イブの早朝、イリスの意識はゆっくりと浮かび上がった。なんだかとてもふらふらしている。けれど今、自分が医務室にいる事だけはしっかりと理解できた。手足が鉛のようだ。瞼が重くて開けられない。この心地良いベッドに、何時までも横たわっていたい。

 

≪起きたのか?≫クルックシャンクスの声だ。

 

 陽だまりの匂いが鼻腔を掠め、イリスは頑張って瞼をこじ開けた。――クルックシャンクスが、イリスの枕元に座り込んでいる。イリスが身じろぎしようとすると、猫は首を横に振り、前足で医務室の扉の方を差した。そこにはマダム・ポンフリーがいて、瑠璃色に輝く液体の入ったボールに、清潔な布をしっかりと漬け込んでいる。

 

≪イリス、おれもシリウスも無事だ≫

 

 クルックシャンクスは、今イリスが一番聞きたかった事を教えてくれた。安堵のため息を零したイリスに、猫は不器用に微笑んで見せた。

 

≪シリウスから伝言を預かってきた。どうか何も言わずに、このまま聴いてほしい≫

 

 ――そして一瞬の沈黙の後、猫から静かに告げられた伝言は、イリスにとって本当に驚くべきものだった。

 

≪”イリス。私のせいで、君を危険な目に遭わせてしまった。本当にすまない。

 この先、君は誰から何を言われても『ブラックに襲われた』と言うんだ。些細な事だが細工もした。後は、上手く周りが対処してくれるだろう。安心しなさい、ピーターは必ず私が始末する。君は何があってもこの医務室から出るな。

 君は私を地獄の底から救い上げてくれた。そのことを、私は永遠に忘れないだろう。あともう一つ、ハリーに伝えてくれ。『”忍びの地図”は元の持ち主のところへ帰ったよ』と”≫

「ま、待って、クルックシャンクス!訳が分からないよ、どういうことなの?」

 

 イリスは掠れた声で問いかけた。――シリウスは一体、何を言っているんだ?他でもない彼自身が、ピーターの魔の手から自分を救ってくれたのに。しかしクルックシャンクスはイリスの問いに答えず、彼女の頬にふわふわした顔を擦り付けるだけだった。

 

≪さよならだ、イリス。おれはシリウスと共に往く。ハーマイオニーには、新しい猫を飼えと言ってくれ≫

「待って、行かないで!」

 

 イリスは去り行くクルックシャンクスを引き留めようと、無我夢中で手を伸ばした。けれども猫はその手を器用に擦り抜け、物陰にするりと入り込み、どこかへ歩き去って行く。

 

「ああ、ゴーント。意識が戻ったのね」

 

 イリスの声を聞きつけ、ポンフリーが作業を中断し、優しげな笑みを浮かべて此方へやって来た。そして、イリスが必死にベッドから這い出そうとしている様子を見て取ると、慌てて彼女をベッドに押し込んだ。

 

「何をしているのですか、ゴーント!安静にしていなさい。――大丈夫ですよ、ブラックはもうじき捕まります。魔法省から派遣された闇祓いや先生方が、学校中を捜索しています。ここは安全ですよ」

 

 ――『シリウスが捕まる』だって?!イリスはたまらず驚愕の叫び声を上げた。しかしその声は廊下まで聴こえたらしく、次の瞬間、ファッジ大臣とスネイプが医務室へ飛び込んできた。

 

「イリス、何事だね?」

 

 ファッジは慌てふためいた口調で尋ね、自分の杖を――イリスを怖がらせないために――ローブの奥底にサッと仕舞い込んだ。

 

「しっかり眠っていないといけないよ」

「大臣、どうか聞いてください!」

 

 イリスは無我夢中で、呆気に取られるばかりのファッジのローブに縋り付いた。

 

「シリウス・ブラックは無実です!ピーター・ペティグリューが、自分が死んだと見せかけたんです!私はピーターに拷問を受けました!」

 

 三人は神妙な顔で互いを見つめ合った。ファッジはイリスの視線に合わせてしゃがみ込み、微かに笑いを浮かべて首を横に振った。

 

「イリス、君は混乱している。あんなに恐ろしい目に遭ったのだ。さあ、横になりなさい。この件は、我々が全て掌握している。ブラックは必ず捕まえるよ、安心しなさい」

「掌握してません!」イリスは叫んだ。

「捕まえる人を間違えています!」

 

 しかし、三人はイリスの話に耳を傾けてはいるものの、話の内容までは信じていないようだった。みな一様に沈黙し、イリスに対して憐れみの視線を注いでいる。イリスにはそれが、とてつもなく不気味に思えた。――何故みんな、自分の話を信じてくれないんだ?拷問を受けたのは、他でもない自分の筈なのに。イリスは焦って、ますます強くファッジにしがみ付いた。

 

「大臣、ピーターはネズミの”動物もどき”だったんです!ロンのネズミのスキャバーズだったんです!指を切り落として、自分が死んだという事にして、事件の犯人をシリウスのせいにしたんです!それに――」

「お分かりでしょう、閣下」スネイプが静かに言った。

「”錯乱の呪文”です。ブラックは見事に術を掛けたものだ」

「私、錯乱してなんかいません!」

 

 イリスはついにボロボロと泣き出した。――どれほど喉を嗄らして真実を訴えても、みんな自分の話を信じてくれない。まるで自分の発した言葉が、全て嘘になる呪いを掛けられたみたいに。ひどい癇癪を起こした子供のように泣きじゃくりながら、ブラックの無実を訴えるイリスを、ファッジは宥めるように優しくあやしつけた。

 

「イリス、落ち着きなさい。もう君は休むべきだ。・・・ポンフリー、この子はしばらく聖マンゴで入院した方が良いのではないかね?もしかしたら他の呪いも受けている可能性がある」

「ええ、その件でさきほどフクロウ便を送ったばかりです。ゴーント、この薬を飲んで。何も心配することはないのよ」

 

 ポンフリーはイリスに小さなゴブレットを差し出した。中には、澄んだ水の色をした薬がチャプチャプと揺れている。――強力な眠り薬、”生ける屍の水薬”だ。こんなものを飲まされたら、たちまちぐっすりと眠ってしまう。一刻も早くシリウスを助けないといけないのに!イリスは我を忘れてゴブレットをポンフリーの手から払い落とした。床に落ちたゴブレットは、粉々に砕け散る。

 

「いやっ、薬で眠らせないで!」

「まあ、何ということ!」ポンフリーがイリスの暴挙に、たまらず悲鳴を上げた。

「ゴーント」

 

 スネイプは深々と眉根を寄せ、新しいゴブレットをポンフリーから受け取ると、イリスを落ち着かせるために、静かにベッドに乗り上げた。イリスは何とかしてスネイプ――の持つ薬入りのゴブレットから逃げ出そうと壁に背中を擦り付けながら、縋るような目で彼を見つめた。

 

「スネイプ先生。どうか、どうか信じて下さい、お願いします。私、一番強い”真実薬”を飲みます。何度でも証言します」

「もう何も喋るな。君は本当に良く頑張った。さあ、この薬を飲みなさい」

 

 しかしスネイプは、嫌々と言わんばかりに首を振るイリスの頭を優しく抑え込み、ゴブレットの口を近づけた。――もう駄目だ。イリスは自分の非力さをひしひしと感じ、涙を流した。シリウスが、また無実の罪で捕まってしまう。イリスの口内に、今まさに薬が流し込まれようとしたその時――まるでそれが幻であったかのように、何の前触れもなく、ゴブレットがスネイプの手から消え去った。

 

 

「その子を離してやりなさい、セブルス」ダンブルドアの声だ。

 

 四人は一斉に、声のした方を振り向いた。――医務室の扉が開け放たれ、ダンブルドア校長が真剣な表情を湛えて立っていた。その後ろには、息を切らした様子の管理人、アーガス・フィルチが佇んでいる。

 

「暫くの間、イリスと話がしたい。コーネリウス、セブルス、ポピー。席を外してくれないかの」

「校長先生!」ポンフリーが慌てた。

「この子は休息が必要なんです。さきほどもひどい癇癪を起こして――」

「ポピー。この子に必要なのは、休息ではない」ダンブルドアは穏やかな口調で言った。

「現状を理解する事じゃ」

 

 ポンフリーは大きなため息を吐き、イリスを心配そうな目付きで一度見て、病棟の端にある自分の事務所に向かった。ファッジはベストにぶら下げていた大きな懐中時計を見た。

 

「そろそろマクネアが来る頃だ。迎えに出て、処刑が延長になった事情を説明しなければ。ではアルバス、終わったら上の階で待っているよ」

 

 ファッジは医務室の外で、スネイプのためにドアを開けて待っていた。しかし、スネイプは動かなかった。先程のダンブルドアの言葉がどうにも引っかかる、と言わんばかりに目を細め、囁くように小さな声で言った。

 

「まさかこの子の話を信じる訳ではないでしょうな?」スネイプはダンブルドアの方に一歩踏み出した。

「お忘れになってはいますまいな、校長?ブラックは十六歳の時に、人殺しの能力を露わにした。かつて吾輩を殺そうとした事を、忘れてはいますまい?」

「セブルス。わしの記憶力は、まだ衰えてはおらんよ」ダンブルドアは、どこかイリスにも言い聞かせるように、静かに言葉を続けた。

「リーマスの秘密を暴こうとしたきみに、シリウスが()()()()()()()()で――完全な人狼になりかけていた彼と会うように、そそのかした事も。――そしてそれをジェームズが阻止し、きみの命を救った事も」

 

 その言葉を聞いたスネイプは納得するどころか、ますます土気色の顔を怒りで歪めた。踵を返し、ファッジが開けて待っていた扉から肩を怒らせて出て行った。そして医務室には、イリスとダンブルドアの二人だけが残された。ダンブルドアはキラキラ光るブルーの瞳で、イリスをじっと見つめた。

 

「我々は、何という過ちを犯してしまったのじゃ。――イリス、シリウスは無実なんだね?」

 

 ダンブルドアは、イリスの話を――シリウスの無罪を信じてくれた。イリスはもう我慢出来なかった。何度も何度も頷きながら、ダンブルドアにすがり付き、思いの丈をぶつけるように泣きじゃくった。

 

 ――イリスの涙が落ち着くのを待ってから、ダンブルドアは事の次第を話して聴かせた。『イリスがブラックに暴行を受けた』という知らせが、学校中に広まった時、フィルチが息せき切った様子でダンブルドアの下へやって来た。そしてシリウスについての真実を、包み隠さずダンブルドアに話してくれたのだと言う。ダンブルドアが、かつてシリウスの親友だったルーピンにその事を告げると、彼は強い自責の念に駆られながら、今まで秘めていた、シリウスたちが在学中に非公認の”動物もどき”になるに当たった経緯を明かしてくれた。ルーピンは現在、シリウスを救うために、密かに彼の行方を捜しているのだと言う。

 

 イリスは世界じゅうに希望の光が満ちていくような気持ちがした。ダンブルドアがいれば、安心だ。きっとシリウスは助かる。――しかし、彼の表情は硬く、口調は静かなままだった。

 

「イリス、どうか落ち着いて聞いておくれ。実際のところ、状況は非常に厳しいのじゃ。シリウスの無実を証明するものは、今の時点では()()()()()に等しい。あの通りには、シリウスがペティグリューを殺したと証言する目撃者が沢山いたのじゃ。わし自身、魔法省に、シリウスがポッター家の”秘密の守り人”だったと証言した」

 

 ダンブルドアはその時の光景を思い返しているのか、瞳を曇らせた。

 

「対してシリウスの証人は、君たち十三歳の子供、スクイブであるアーガス、そして猫、人狼であるリーマスのみ。みな、我々の仲間内では『立場が弱いとされている者』ばかり。君らがいくら支持したところで、ほとんど役には立たぬじゃろう。それに、リーマスとシリウスは旧知の仲でもある」

 

 イリスはダンブルドアの深刻な表情を見上げ、さっきまでの幸福な気分が跡形もなく消え、足元の地面がガラガラと急激に崩れていくような感覚に囚われた。ダンブルドアなら、何もないところからでも、驚くべき解決法を引き出してくれると信じていた。――だが、そうではなかった。いくらダンブルドアでも不可能な事があるのだ。『シリウスは助からない』――その残酷な事実を突きつけられ、茫然とするばかりのイリスの肩に手を置き、彼はこう言った。

 

「分かるかね、イリス?必要なのは()()()()()()――ペティグリューそのもの。生きていても死んでいても、とにかく彼がいなければ、シリウスに対する判決を覆すのは不可能なのじゃ」

「でも校長先生」イリスは悲しみに喘ぎながら言った。

「ピーターはどこにもいません。きっとネズミに変身して、どこか遠くへ逃げてしまったのかもしれない!」

「いや、その可能性は低い。必ず、この学校内のどこかに潜んでいるはずじゃ」

 

 ダンブルドアは厳しい口調でそう言うと、医務室の扉へ向かって歩き出した。

 

「きみは本当に良く戦った。安全のために、医務室から決して出てはならぬ。わしは理解のある友人らに協力を求め、少しでも上手く事が運ぶよう尽力しなければ」

 

 最後にイリスへ労いの言葉を掛けて、ダンブルドアは部屋を出て行った。――イリスは逸る気持ちを抑える事が出来ず、そわそわしながら周囲を見渡した。医務室を出るなと言われても、自分だけじっとしているなんて、とてもじゃないが出来そうにない。一刻も早くピーターを捕まえなければ、シリウスがまたアズカバンへ引き摺り戻されてしまうのだ。

 

「ハリー、ロン、ハーミー・・・」

 

 イリスはまるで祈りの言葉のように、親友たちの名前を呟いた。今ここに彼らがいてくれたら、どんなに心強いだろう。救いを求めるように、グリフィンドール塔のある方角へ顔を向けた時、不意にマクゴナガル先生の緊迫した声で校内放送が流れた。

 

『ホグズミード村で、ブラックの目撃情報がありました。生徒達は引き続き、寮外への外出を禁じます。作戦に参加している先生方、応援の方々は、至急ホグズミード村へ向かって下さい』

 

 イリスが慌ててベッドの傍にある大きな窓を覗くと、大勢の魔法使いたちが、深々とした雪原の中を同じ方角へ向かって進んでいくのが見えた。ざっと数えただけで、二十人以上はいる。シリウスの助っ人は猫だけだ。おまけにシリウス自身も衰弱し切っていて、今まで気力で持ち応えてきたようなものなのに。――イリスは思わず、絶望の悲鳴を上げた。シリウスに勝ち目はない。なんとかして彼を助ける方法はないだろうか?

 

 ――その時、窓枠の外を何かが動いた気がして、イリスは視線を下ろした。そして心臓が止まりそうになるほど、驚いた。信じられない、()()()()()()だ!古ぼけた硝子越しに、灰色の老ネズミが欠けた前足の指をちょこちょこと動かし、黒いビーズのような目でイリスをじっと見つめている。暫くしてスキャバーズは窓枠から飛び降り、どこかに向かって駆け出した。

 

「待って、スキャバーズ!」

 

 イリスは何も考えられなかった。無我夢中で枕元の杖を掴み、”開錠の呪文”で窓の鍵を開けると、ネグリジェの上にローブを羽織る事も忘れ、裸足のままでスキャバーズを追いかけた。まだ充分に回復し切っていない体は鉛のように重く、深く降り積もった雪も手伝って、思うように進めない苛立ちを感じながら、イリスは覚束ない足取りでネズミを追い続ける。学校中の人手は今、ほとんど村へ回されていて、一人と一匹の奇妙な鬼ごっこを不審に思う人間は、幸か不幸か誰もいなかった。

 

 やがてスキャバーズは、雪の重さでずっしりと枝を俯かせ、ますます鬱屈とした雰囲気を募らせるばかりの”禁じられた森”へと入り込んだ。イリスも森の中へと続き、息を荒げながら、懸命にスキャバーズに手を伸ばす。――あと、もう少しで手が届く。イリスの指先が、ついにスキャバーズの尻尾に触れた。

 

 ――その時、目の前が真っ赤な光に染まり、イリスの視界は真っ暗になった。

 

 

「一丁上がりだ。まったく、学習心や警戒心の欠片もありゃしねえ。こんな扱いやすい生き物、おれは今までお目に掛かった事がないね!」

 

 魔法省の処刑人であるマクネアは、”失神呪文”を受けて気を失ったイリスの身体が重力に従って地面に崩れ落ちる前に、片手で軽々と抱き上げた。そしてスキャバーズ――によく似せたネズミに杖を向け、”服従の呪文”を解除する。ネズミはあっという間に野生に戻り、森の奥へと消えて行った。

 

「面倒臭え奴らはニセの情報を掴まされて、みんな村に行っちまったし。・・・チッ、やっぱあれから体重は増えてねえか。この子と同じ重さのガリオンをくれるっつー約束だったのによ。

 おい、ロックハート。ぼやっとしてねえで、さっさとこっちに来いよ。この子を抱っこしてろ。腫れ物に触るように、丁寧にだぞ」

 

 マクネアは少し離れた場所から、茫然と様子を見守っているばかりだったロックハートを呼び寄せ、イリスを押し付けた。そして茂みの中に隠していたトランクを引き摺り出し、鍵穴の横に付いた大きなダイヤルを三度回した。鍵を外してガチャリと蓋を開けると、そこには上質なビロードの貼られた空間が広がっていた。暖かく良い匂いがして、高級そうなクッションが敷き詰められている。マクネアはロックハートからイリスを受け取ると、彼女をそこに横たえた。そしてイリスに対する罪悪感から逃れるように、必死にトランクから視線を背け続けているロックハートを嘲笑い、マクネアはこう続けた。

 

「次にトランクが開けられた時、この子は一体どこにいると思う?・・・ルシウス閣下の地下牢だ。可哀想に、もうこの子は一生まともには生きられねえ。閣下が腕によりをかけて、”あのお方”好みに調教するんだからな。頼むぜ、あいつだけじゃなくておれも助けてくれよ?」

 

 まるで出荷前の商品に傷がないか確かめる、熱心な商人のように、マクネアはイリスの全身をくまなく確認した。彼女の服に付いた汚れを清め、わずかな傷を癒すと、蓋を閉めて鍵を掛ける。――『ガチャリ』と言う鍵の音が、ロックハートの耳に重々しく響き渡った。かすかに残った良心が、彼の心臓をチクリと突き刺す。ロックハートは乾いた唇を舐め、掠れた声で問いかけた。

 

「本当に大丈夫なのか?この子の親が魔法省に捜索依頼を出したら?世間や学校の人間だって黙ってはいないだろう。この子の失踪は、私の時のように大騒ぎになるに違いない」

 

 マクネアは大きく吹き出して、ゲラゲラと笑い始めた。そして小馬鹿にしたような目で、立ち竦むロックハートを見上げる。

 

「お前は馬鹿か?こいつの親は、役立たずのスクイブしかいねえ。それに”メーティスの一族”の、おまけに”秘密の部屋”の”継承者”だとされる子供が行方不明になったって、一体誰が心配するっていうんだ?みんな、『ついにこの子も闇に堕ちた』と思うだけさ。

 おいおい、今更善人面するんじゃねえよ。お前が先陣切って、この子の人生を滅茶苦茶にしたんだろうが!他の間抜けな被害者共と同じようにな」

 

 マクネアの辛辣な言葉は、ロックハートの硝子の心臓を粉々に破壊した。真っ青な顔で黙り込んだロックハートを見向きもせず、マクネアはトランクのダイヤルを二度回した。そして蓋を開けると――今度は、ムッとする悪臭が鼻を突いた。腐った血肉の匂いだ。ロックハートが恐る恐るトランクの中を覗き込むと、そこには――全身をバラバラに切断された動物の死骸がぎゅうぎゅうに押し込まれ、耐え難い臭いを放っていた。思わずゾッとしてマクネアを見ると、なんと彼はこちらに杖を向けている。

 

「な、何をするつもりだ?」ロックハートは引き攣った声で言い、たじたじと後ずさった。

「この子をトランクに詰めたら、私を解放してくれると言ったじゃないか!」

「そうだ、解放してやるんだよ。()()()()()()

 

 身の危険を感じたロックハートは慌てて杖を引き抜いたが、マクネアは無言呪文で彼の杖を弾き飛ばした。

 

「ロックハート、お前は知り過ぎた。お前が生きていると、色々と面倒な事になるんだよ。

 安心しな、すぐには殺さねえ。ブラックをアズカバンへぶち込んで、獣をぶっ殺してから、おれの部屋でじっくりいたぶってやるよ。人間の獲物は久々だからな」

 

 ――ロックハートが自らの死を予感したその時、マクネアの背後の茂みが音もなく揺れ、熊のように大きな黒犬が飛び出して、彼に襲い掛かった。黒犬はマクネアに鋭い牙で噛み付いた。そして咄嗟に身動きが取れないマクネアに渾身の体当たりをかまし、木の幹に叩きつけて昏倒させた。情けない悲鳴を上げ、その場を這いずりながら逃げ出して行くロックハートを見向きもせず、犬は人間の姿に戻り、そばに落ちていたイリスの杖を拾い上げ、トランクに”開錠の呪文”を掛けた。何とかイリスのいる空間を見つけ出したシリウスは、昏睡状態のイリスに”蘇生呪文”を掛け、優しく抱き起こした。

 

「エネルベート、活きよ。イリス、起きるんだ。しっかりしなさい」

「シリウス、シリウス!」

 

 イリスは目を覚まし、目の前にシリウスがいるのを見た途端、涙を流して彼にしがみついた。――もう会えないかと思った。まだ彼は生きている。本当に無事で良かった。対するシリウスは、戸惑うようにイリスの頭を撫でた。

 

「何故、こんな危険な事を。『医務室から出るな』と言ったのに」

「シリウス、お願い、死なないで。あなたを助けたかったの」

 

 シリウスの瞳が揺れ、彼はイリスを強く抱き締めた。そして周囲に素早く視線を巡らせ、静かな口調でイリスに言い聞かせた。

 

「ここは私が何とかする。君は振り返らず・・・――ッ!」

 

 不意に、シリウスの身体が――誰かに突き飛ばされたかのように――大きく揺れ、噛み締めた唇の端から血が噴き出した。シリウスは、怯えて悲鳴を上げたイリスを庇うように抱き寄せ、後方を忌々し気に睨み付けた。

 

 ――ピーター・ペティグリューだ。茂みの中から杖を構え、シリウスに向けて、狂気の笑みを浮かべている。

 

「やっとお出ましか。裏切り者め!」シリウスが吼えた。

「ひひひ、君なら、必ずこの子を助けると思っていた!」ピーターが叫んだ。

「作戦は成功、今や君は風前の灯、虫の息だ。その大怪我ならもう動けまい。”地図”で血眼になって私を探していたようだが、無駄だったね。私はずっと教授達の傍にいたんだから!」

「イリス、大丈夫だ。私の後ろから離れるな」

 

 トラウマの元凶であるピーターを見て、イリスは思わず震え上がった。シリウスは力強い口調でそう言ってイリスの頭を撫で、よろめきながら立ち上がる。――その後ろ姿を見て、イリスは余りの痛々しさに息を飲んだ。背中は大きく切り裂かれ、血が流れている。腹部に巻かれた包帯には、どす黒い血がたっぷりと滲んでいた。

 

「優しいなあ、シリウス!涙が出そうだ!()の時は助けてもくれなかった癖に、この子の時は――命を賭けて守るのか!」

「黙れっ!」

 

 シリウスが激昂し、二人の杖から迸る光線が中空で激しくぶつかり合い、爆発した。ピーターは信じられないものを見たとばかりに、驚愕に顔を歪めて叫んだ。

 

「何故だ!その子の杖は、他の人間では使い物にならない筈なのに!」

「何を言っている?」シリウスは冷たい声で言った。

「この杖は自分のもののように、良く馴染んでいるがな」

 

 深手を負った状態であるにも関わらず、シリウスは凄まじいまでの執念と卓越した戦闘能力を発揮し、確実にピーターを追いつめていった。ピーターの放った呪いを捻じ伏せ、杖を吹き飛ばした時、ピーターは恐怖の余り腰を抜かして、情けない声でキーキーと喚き出した。

 

「誰かああ!助けてくれえええ!ここにシリウス・ブラックがいるんだああ!」

「ああ、存分に叫ぶがいい!」シリウスはせせら笑った。

「この子は助かる。――だが忘れるな、ピーター。()は何度アズカバンへ戻っても、お前を殺しにやって来る。例え”接吻”を受け、心を失いディメンターに成り果てたとしても、お前に対するこの憎しみと殺意だけは、永遠に消えないだろう!」

 

 その言葉を聞いたピーターはまるで頬を平手打ちされたかのように、ブルッと大きく震えた。血の気を失った虚ろな顔は――やがて、身の毛もよだつような不気味な笑顔に変わった。ピーターは大きく息を吸い込み、シリウスの影に隠れているイリスに怒鳴った。

 

「イリス、こっちに来い!早く!」

 

 ――イリスは不意に気が遠くなり、気が付くと()()()()()()()()()。イリスは無意識の内にスニジェットに変身し、ピーターの下へ飛んで行ったのだ。シリウスが憎々しげにピーターを睨み付ける。

 

「”服従の呪文”を掛けたな!この子に!」

 

 ピーターは卑屈な笑い声を上げ、咄嗟に逃げようと身を捩るイリスの髪を掴み、力任せに揺さぶった。

 

「この子は僕のものだ!冷血なお前たちとは違って、この子だけが僕を助けてくれる。イリス、良いか。少しでも妙な動きをしてみろ。またあの痛いお仕置きをしてやるぞ!」

 

 ピーターの掛けた”服従の呪文”は見えない鎖となって、イリスの心身をきつく締め上げた。怯えるイリスの腕を掴み、ピーターは”暴れ柳”の動きを止めて、穴の中へ入った。――穴の先には、”叫びの屋敷”がある。あの子に何をするつもりだ?シリウスは今にも気を失いそうなほどに重症の身体に鞭を打って、二人の跡を追いかけた。

 

 

 グリフィンドール塔の談話室で、ハリーたちは気を揉みながら話し合っていた。ハリーたちは早朝からマクゴナガル先生に叩き起こされ、『イリスがブラックから暴行を受けた事』と、『今後、許可が出るまで塔の外に出ない事』を厳命させられた。ハーマイオニーは目に涙を浮かべ、蒼白な表情で言った。

 

「イリスにひどい事をしたのは、ペティグリューに違いないわ。あの子は無事なのかしら。どうにかして、イリスに会う事は出来ないの?」

 

 その時、三人の不安を更に助長させるかのように、マクゴナガル先生の緊迫した声で、校内放送が流れた。

 

『ホグズミード村で、ブラックの目撃情報がありました。生徒達は引き続き、寮外への外出を禁じます。作戦に参加している先生方、応援の方々は、至急ホグズミード村へ向かって下さい』

 

 三人は絶望に塗れた顔を突き合わせ、先を争うようにして、窓の外を覗き込んだ。ロンが引き攣った声で叫ぶ。

 

「あれ見ろよ、闇祓いたちだ!みんなホグズミード村へ行くんだ。シリウスが危ない!」

 

 ――何でも良い、この現状を打開出来る方法はないか?ハリーは焦る気持ちを落ち着けようと努力しながら、頭をフル回転させた。グズグズしている間に、シリウスがまた無実の罪で逮捕されてしまう。おまけに頼みの”地図”は忽然と消えてしまったし、ペティグリューの行方も掴めていない。何より、イリスが心配で仕方がない。

 

 その時、ハリーの視界の端を何かが掠め、何気なくその方向を見て――彼は目を見張った。()()()が、中庭を歩いている。

 

「ねえ、イリスがいる!」

 

 ハリーが指差す方向を、ロンとハーマイオニーが互いのおでこを嫌というほどぶつけながら、覗き込んだ。――間違いない、イリスだ。寝間着姿のまま、よろよろと”禁じられた森”の方へ歩いていく。何かを追いかけているかのように、指先を進む方角へ伸ばし、顔を下に向けている。

 

「何かを追いかけてる。何だろう?」ハリーが目を細め、囁いた。

「待って、双眼鏡を取ってくる!」

 

 ロンは飛ぶような速さで、自分の部屋からクィディッチ観戦用の双眼鏡を取って来ると、早速覗き込み、それから素っ頓狂な悲鳴を上げた。

 

「おい、嘘だろ。ネズミ・・・きっとスキャバーズだ!」

 

 三人が双眼鏡を奪い合うようにして覗き込んでいる間に、イリスの姿は森の奥へと消えた。――そして赤い光が一瞬、森の中を明るく照らした。

 

「ねえ、あの赤い光は何?」ハーマイオニーが引き攣った声で囁いた。

「まさか・・・」

 

 ハリーは、もう我慢出来なかった。矢も楯もたまらず自分の杖を掴み、”透明マント”を引っ掴んで、談話室の外へ繋がる穴へと走る。ロンとハーマイオニーも、無我夢中で彼の跡に続いた。

 

 

 幸運な事に、みんなホグズミード村へ出払っていて、誰かに見つかる可能性はなかった。三人は”禁じられた森”へ辿り着き、息を荒げながら”透明マント”を脱ぎ捨てた。

 

 ――森の中は、大変な事になっていた。そこら中に血が飛び散り、雪は踏み散らされている。おまけに一番大きな木の根元には――屈強な体格の男がだらりと四肢を投げ出し、伸びていた。ぱっくりと口を開けたトランクが、良い芳香を辺りに漂わせている。

 

「何があったんだ、一体」

 

 ハリーは茫然と呟き、イリスの姿を探した。しかし、彼女は何処にも見当たらない。失神している男の顔をこわごわ覗き込んだロンが、確信を得たとばかりに叫んだ。

 

「こいつ、マクネアだ!パパがこいつの悪口言ってた。『マルフォイの父親と繋がってるクソ野郎』だって」

「ロン、近づいちゃ駄目よ!」ハーマイオニーがロンの腕を引っ張った。「起きていたらどうするの?」

「”忍びの地図”だ!」

 

 ハリーは茂みの近くに、”忍びの地図”が落ちているのを見つけた。無我夢中で雪を取り払い、血眼でイリスを探す。――イリスはどこだ、どこにいる――いた!”イリス・ゴーント”と書かれた点が、”ピーター・ペティグリュー”の点に引き摺られるようにして、”暴れ柳”の下を移動し、今まさに”叫びの屋敷”に入ろうとしている。そしてその後を、”シリウス・ブラック”が一定の距離を保ちながら追いかけている。

 

「大変だ、イリスが危ない!」

 

 何も考えずに”暴れ柳”に近づこうとするハリーの腕を、ハーマイオニーが強く引っ張った。ほんの数秒後に、さっきまでハリーの身体があったところを、凶暴な大枝のブローがぶちかまされた。小枝が握り拳のように、固く結ばれている。

 

「ハリー、ロン。助けを呼ばなくちゃ」ハーマイオニーが喘ぎながら言った。

 

 ハリーとロンはあちらこちらを飛び回り、息を切らしながら、恐ろしい大枝の攻撃をかいくぐる道を何とかして見つけようとしていた。しかし、柳の枝の届かない距離から、一歩も近づく事が出来ない。

 

「駄目だ、ハリー」ロンが激しく息を荒げながら唸った。

「僕らじゃ入れない。誰か助けを呼ばなくちゃ」

「そんな時間はない、何としても入るんだ!」ハリーは諦めなかった。

「グズグズしている間に、イリスが殺されてしまうかもしれない!」

「フリペンド、打て」

 

 不意に、しわがれた声がした。後方から呪文の光線が飛んできて、柳が振り回す枝の隙間を擦り抜け、幹のこぶの一つを叩いた。次の瞬間、柳は大理石になったかのように、ピタリと全ての動きを止めた。木の葉一枚そよともしない。

 

「ルーピン先生!」

 

 三人は声のした方を向き、口々に叫んだ。――ルーピン先生だ。ルーピンは厳しい表情で杖を振るい、マクネアを魔法で出した縄できつく縛り上げてから、ハリーたちに言った。

 

「ここからは私が対処する。今こそ、過ちの償いをしなければならない。君たちは今すぐ学校へ戻りなさい」

「その必要はない」

 

 ――冷たい嘲るような声がして、ルーピンはどこからか噴き出した魔法の縄で全身を縛り上げられ、地面に転がった。程なくして茂みを掻き分け、杖を構えたスネイプがやって来た。スネイプは少し息切れしてはいたが、勝利の喜びを抑え切れない顔をして、ルーピンを見下ろした。

 

「単独行動をする貴様を不審に思い、つけていたら・・・やはりブラックと繋がっていたか!」

「やめろ、先生を離せ!」ハリーが叫んだ。

 

 スネイプの目は、今や狂気を帯びてギラギラと光っていた。――スネイプの杖から再び、蛇のように細い縄が大量に噴き出て、ハリーたちを縛り上げる。学生時代の憎悪の感情に囚われたスネイプは、ルーピンたちの言葉に耳を貸す事も、周りを見る事も出来ないほど興奮していた。

 

「セブルス、君は誤解している」ルーピンは切羽詰まった口調で言ったが、スネイプは無視した。

「吾輩は繰り返し校長に進言した。お前が旧友のブラックを手引きして城に入れていると。ルーピン、これが良い証拠だ。いけ図々しくもこの古巣を隠れ家に使うとは、さすがの私も思い付かなかったよ・・・」

 

 ハリーは何とか縄を解こうともがきながら、目の前に投げ出された”地図”に視線を落とした。――”イリス・ゴーント”が”ピーター・ペティグリュー”に激しく突き飛ばされたように、何センチも地図上を飛んだ後、また引き摺り戻されている。『イリスが、ペティグリューに暴行を受けている!』――その事実にハリーの理性が音を立てて爆発し、気が付けば彼は声を限りに叫んでいた。

 

「イリスが死んだらお前のせいだ、スネイプ!」

「何だと?ポッター!」

 

 ルーピンと言い争っていたスネイプが、憎々しげにハリーを睨み付けた。しかし、ハリーは引かなかった。涙に濡れた緑色の双眸と、昏い感情を宿した黒い瞳がぶつかり合う。

 

「『イリスが死んだらお前のせいだ』って言ったんだ!」

「頼む、セブルス。私はどうなっても構わない」ルーピンが押しつぶされたような声で言った。

「どうかその”地図”を見てくれ」

 

 ――イリスの名前は、スネイプの心身を支配していた憎悪の感情を瞬く間に鎮めて行った。スネイプは眉根を寄せながら”地図”を見て、そして唇を噛み締めた。

 

 

 スネイプとルーピン、そしてハリーたちの五人は、柳の穴からトンネルに入り、やがて”叫びの屋敷”の内部へ侵入した。『学校へ戻れ』という命令を無視し、縄を解くや否や、決死の形相でくっ付いて来て一歩も離れないハリーたちを、スネイプはうっとうしいと言わんばかりの目で睨み付ける。――しかし、その顔はすぐに張り詰めたものへと変わった。二階に繋がる階段へ近づくにつれ、男たちの怒鳴り合う声に混じって、女の子のすすり泣く声が聴こえてきたからだ。階段へ近づく程、声はもっとはっきりしたものになった。

 

「その子を離せ、ピーター!」

「なら杖を捨てろと言ってるんだ、シリウスっ!捨てないなら・・・」

 

 耳をつんざくような、凄まじい女の子の悲鳴が響き渡った。――イリスの声だ。パニック状態に陥ったハーマイオニーの口を、すぐさまルーピンが塞いだ。今にも崩れ落ちそうなほどに震えるハーマイオニーと目を合わせ、『静かに』と合図する。ハーマイオニーはなんとか嗚咽を堪えようと努力し、その肩をハリーとロンが支えた。ルーピンとスネイプの深刻な表情は、ハリーたちの激情を抑えるのに役立った。相手は邪悪な魔法使いだ。もし自分達がへまをして気づかれてしまったら、イリスは最悪の場合――殺されてしまうかもしれない。

 

「やめろおおお!分かった、杖を捨てる!」シリウスは悲痛な声を上げた。

 

 男の狂ったような笑い声が聴こえ、バーン!と凄まじい爆発音がして、屋敷中がガタガタと揺れた。

 

「止めてえ!シリウスが死んじゃう!」

「黙れっ!」

 

 何かがドサッと倒れ込む音がした。虚ろな呻き声混じりの、男の呼吸音と、イリスのすすり泣く声がする。

 

「無様だな、シリウス!ええ?!あの時、僕を見捨てなければ、利用しようとしなければ、お前はこんな事にならなかった。全てお前のせいだ!」

 

 激情のままに喚き散らしている男の声に紛れるように、スネイプとルーピンは互いに目配せをして、音もなく階段を昇り、踊り場までやって来た。開いている扉が一つだけある。奇しくもそこはかつて、シリウスと対峙した部屋だった。ハリーは、そっと扉の中を覗き込んだ。

 

☆ 

 

 ――消えゆく意識の中、シリウスは懸命に呼吸を繰り返した。しかし、口の中だけでなく肺にまで血が溢れ返り、ろくに酸素を取り込む事が出来ない。シリウスの身体じゅうが傷つけられ、血がドクドクと溢れ出して、埃だらけの床を汚していく。まだ死ぬ訳にはいかない。シリウスは霞む視界に活を入れ、目の前のピーターを睨み付けた。

 

 不意に、シリウスは人の気配を感じ、扉の方に少しだけ眼球を動かした。――見覚えのある緑色の目が二つ、薄らときらめいた。それだけではない。扉の奥では、何人かの影がひっそりと蠢き、息を潜めている。ああ、助けがやって来た。この子は助かる、良かった。安心した瞬間、シリウスは気を失いそうになった。走馬灯のように、今までの記憶が脳内を猛スピードで駆け巡る。彼は最後の力を振り絞り、口の中に溢れた血を吐き出すと、ピーターの注意を自分だけに向けるため、掠れた声で言った。 

 

「ああ。全ては僕のせいだ、ピーター。僕はお前を信頼していた。だから他の誰でもない、お前に秘密を託した。・・・だが、それは過ちだったようだ」

「うるさい!きれいごとを言うな!」ピーターは泡を吹きながら喚いた。

「お前は僕を利用したんだ!信頼していたなら、僕に秘密を押し付け、命の危険に晒すものか!」

「臆病者め、僕が怖くてたまらないか?親友を裏切った事実と向き合う事が?」シリウスはせせら笑った。

「僕を殺してどうする。また逃げるのか?」

「黙れ――黙れ――黙れ!」

「断言してやろう。僕を殺しても、お前は永遠に逃げ続ける。お前に安全な場所など存在しない。そうして恐怖に怯え、一人ぽっちで死ぬんだ。

 ピーター、お前が逃げているのは、()()()()だ」

 

 二人が言い争っている時、イリスは全く違うものを見ていた。

 

 ――目の前の古ぼけた壁に、三人の影が薄っすらと映っている。突如としてピーターの影がもごもごと動き、二つに分かれた。その一つは、やがて巨大な卵の姿になり、二つに割れて、中から――恐ろしい化け物の影が、奇声を上げながら姿を現した。イリスの脳裏に、かつてピーターの心の世界で見た『本当の姿』がフラッシュバックした。彼女は無我夢中で、虫の息のシリウスに向けて”死の呪文”を放とうとするピーターにしがみつく。

 

「だめ、ピーター!殺してはいけない!」

「黙れ!また痛い目に遭いたいのか!」

 

 ピーターはイリスの髪を乱暴に引っ掴み、脅すように目の前で杖先の火花を弾けさせた。しかしイリスは負けなかった。――イオおばさん、お母さん、虹蛇様。どうか力を貸して。イリスは意識してピーターの心に接触しようと試みた。イリスの青い目とピーターのくすんだ目が、交錯する。ピーターの目の奥に、あの虹色の輝きが見えた。

 

「やめろ――僕の心に――入り込むな!」

 

 ――イリスはピーターの制止を擦り抜け、彼の心の最深部へ潜り込んだ。

 

 荒涼とした大地の上で、世界の果てに向かい、ピーターは歩み続ける。すぐ後ろの方で、卵の殻を蹴破り、恐ろしい産声を上げる、新たな化け物から逃げるように、ボロボロの足を踏み出し続けるピーターの手を、誰かがガッと掴んだ。

 

「ピーター、『あの夜』を思い出して!」

 

 空を覆っていた分厚い雲が、ぱっかりと二つに裂けた。そこから陽だまりのように暖かな記憶が流れ落ち、乾き切った大地を潤していく。――冷たい夜特有の空気、心が浮き立つような背徳感、全ての生き物が寝静まった濃紺色の世界。ジェームズたちと過ごした、輝かしい思い出の数々。それらの全ては間違いなく、ピーター自身の手で勝ち取ったものだ。ピーターの耳に、目に、肌に、心に――その素晴らしい記憶が染み渡っていく。思わず立ち止まったピーターに、新たな化け物を飲み込んだばかりの、あの醜悪なドラゴンが襲い掛かった。

 

「戦って、ピーター!戦って!」

 

 イリスはピーターの隣に並び立ち、竦み上がる彼の手をギュッと握った。このドラゴンは、今までピーターが積み重ねて来た『罪の記憶の権化』だ。これから逃げ続ける限り、ピーターはずっと救われないままだ。

 

「自分に勝って!ねえ、全部失ってもいいの?!」

 

 イリスは力強い口調で叫んだ。自分自身(ドラゴン)を見つめるピーターの目に、一筋の涙が零れ落ちた。

 

 

「エクスペリアームス、武器よ去れ!」 

 

 スネイプの合図で、五人が一斉に掛けた”武装解除呪文”は、イリスを傷つける事無くピーターだけを吹っ飛ばした。強制的に現実世界へ戻ったイリスを、ハリーたちが息せき切って取り囲む。スネイプは険しい表情でピーターを拘束し、ルーピンは一直線にシリウスの下へ向かった。

 

「シリウスが死んでしまう!」

 

 イリスが悲痛な声で叫ぶと、スネイプはバケツ一杯の苦虫を噛み潰したような表情で、シリウスへ杖先を向けて歌うように美しい呪文を唱えた。すると、シリウスの身体中を走る夥しい量の傷跡が、みるみるうちに塞がっていった。

 

「フン、やはり”闇の魔術”か」シリウスが唸った。

「薬が効かず、苦しんだかね?」スネイプは冷たくせせら笑った。

 

 二人はギラギラと睨み合った。二人の顔に浮かんだ憎しみは、甲乙つけがたい激しさだった。スネイプは、シリウスに近づこうとするイリスの腕を掴んで、自分の傍へ引き寄せた。

 

「”魅了の呪文”か?」スネイプとシリウスの声がハミングした。

 

 ――その場をルーピンが上手く取り成してくれなければ、二人の間で殺し合いが始まっても可笑しくない状況だった。かくして全ての誤解は解かれ、みんなは屋敷から出た。スネイプは一番先頭で、気絶したピーターの体を縄で繋ぎ、空中に浮かばせてバルーンのように持ち歩いた。その後ろを、ロンとハーマイオニーが続く。安心して全身の力が抜けてしまったイリスをハリーが背負い、シリウスはリーマスに肩を貸してもらい、しんがりを歩いた。

 

 イリスは微睡みながら、ハリーの首元に顔を埋めた。――良かった、本当にこれで全部上手く行く。シリウスは無罪になるんだ。強い睡魔が襲って来て、イリスは束の間の眠りに落ちた。

 

 

 やがてイリスはトンと何かにぶつかり、目を覚ました。一行は長いトンネルを抜け、”暴れ柳”の穴の前までやって来ていた。穴全体を塞ぐようにしてスネイプが立ち止まり、外の様子を伺っている。その事で歩みが停滞し、イリス(と彼女をおんぶするハリー)は前を歩くハーマイオニーと軽くぶつかってしまったのだった。

 

「用心した方が良い。マルフォイの手先が、この子を攫おうとしていた」シリウスが疑わしげにスネイプを睨み、言った。

 

 俄かに木々の騒めく音が強くなり、そして急速に治まった。

 

「どうやら、奴らは逃げ遂せたようだ」

 

 スネイプは静かにそう囁いた後、やっと穴を出た。イリスは、ハリーの頭越しに夜空を見上げた。複雑に絡み合う樹木の間からでもはっきりと、美しい満月が輝いているのが見える。みんな、冷たい月明かりを浴びていた。

 

 ――不意に後方から、強い獣の匂いが鼻を突いた。

 

「逃げろ」シリウスが低い声で言った。

 

 『逃げろ』って何の事だ?イリスは思わず振り返った。――月光に照らされ、ルーピンがシリウスに肩を貸した体勢のまま、硬直している。そして、手足が震え出した。イリスの頭の天辺から足の先までを、一筋の稲妻が駆け抜けた。満月――月光――ルーピン先生は人狼だ――今夜、”脱狼薬”を飲んでいないとするなら――!異変に気付いたハリーが振り返り、大きく息を飲んだ。

 

「私に任せて、逃げるんだ!」

 

 恐ろしい唸り声がした。ルーピンの頭が長く伸び、体も伸びた。背中が盛り上がり、体中に毛が生え出した。手は丸まって、鋭い鉤爪が生えた。人狼と化したルーピンが後ろ足で立ち上がり、バキバキと牙を打ち鳴らした時、地面に投げ出される寸前に大きな黒犬に変身したシリウスが襲い掛かった。人狼の首に食らい付いて後ろへ引き倒し、イリスたちから遠ざけようとした。しかし人狼はシリウスを振り飛ばし、バネのようにしなやかな筋肉を使い、跳躍した。――余りの出来事に茫然とするばかりの、イリスたちを狙って。

 

 スネイプは咄嗟に生徒たちの前に躍り出て、”守りの呪文”を唱えようとした。しかし、それよりも早く人狼の鋭い爪はスネイプの杖を弾き飛ばし、彼の身体を蹴り飛ばした。

 

「先生!」イリスたちは金切声で叫んだ。

 

 茂みの中に放り込まれたスネイプは意識を失ったのか、ピクリともしなくなった。舌なめずりをしながら、こちらを見る人狼に、再びシリウスが襲い掛かる。――イリスたちはこの光景に立ち竦み、他のもっと大事な事に気が付かなかった。

 

「エクスペリアームス、武器よ・・・――ッ!」

 

 ハリーのひっ迫した声で、イリスはハッと我に返った。いつの間にか意識を取り戻していたピーターが、ルーピンの落とした杖に飛びつき、それに気づいたハリーを失神させていた。ロンが夢中でピーターに襲い掛かり、ハーマイオニーも掠れた声で”武装解除呪文”を唱えようとするが、相次いでピーターに”失神呪文”を受け、力なく地面に倒れ伏す。

 

「エクスペリアームス、武器よ去れ!」

 

 イリスは杖を向け、無我夢中で叫んだ。ピーターの手から、ルーピンの杖が弾け飛ぶ。しかし、もう何もかもが遅かった。ピーターはもう小さなネズミに変身し、草むらの中を慌てて走り去っていった。跡を追いかけようとしたイリスの耳に、情けない男の悲鳴が聞こえた。

 

 イリスはその方向を見て、思わず自分の目を疑った。――ギルデロイ・ロックハートだ。人狼に茂みから引っ張り出され、泣きじゃくりながらもがいている。何故、彼がこんなところにいるんだ?

 

☆ 

 

 ロックハートは、マクネアが昏睡状態から回復し、縄を無言呪文で切った後、目を皿のようにして自分を探している間、茂みの中に隠れ、必死に息を潜めてやり過ごそうとした。

 

 幸運な事にその捜索は長く続かなかった。突如として、マクネアは”暴れ柳”の方を睨みながらブツブツ言い始め、足早にトランクを掴んでその場から逃げて行ってしまったのだ。しかし今度はスネイプを始めとする魔法使いの集団が、”暴れ柳”の中から出て来たために、逃げ出そうとしたロックハートは再び茂みの中へ隠れる羽目になった。おまけに不運な事は続くもので、その内の一人の魔法使いが人狼に変わり、人々を襲い始めた。そして人狼はあろうことか近くにいた自分の匂いを嗅ぎ付け、襲い掛かって来たのだ。

 

「ひ、ひいいい・・・!」

 

 ロックハートは掠れた悲鳴を上げた。けれども人狼が鋭い爪で彼を押さえつけ、その首元にいざ噛み付こうとしたその時――淡く光る透明な膜が目の前に展開され、彼を守った。

 

「先生、早く逃げて!」

 

 ロックハートは、我が目を疑った。――信じられない、イリス・ゴーントだ。我が身可愛さに人生を無茶苦茶にしてしまったその子が、守りの結界を張って自分を守ってくれている。折角の楽しみを邪魔された人狼は怒り狂い、今度はイリスに狙いを定めて襲い掛かると、地面に荒々しく引き倒した。

 

 イリスのか細い悲鳴を聞かなかった事にしながら、ロックハートは一目散に逃げ出した。――何も考えるな、自分だけ助かればそれで良い。ロックハートは何度も自分に言い聞かせた。どうだっていいじゃないか、あんな子。すぐに忘れるさ。自分の身さえ良ければ、いいんだ。今までずっとそうして生きてきたじゃないか。

 

 森から出る直前、ロックハートは人狼が自分を追いかけていないか確認するために、振り返った。――イリスは、人狼に組み伏せられていた。鋭い爪がイリスの服を無残に引き裂き、ざらざらとした熱い舌が、白い膚を旨そうに舐め上げる。

 

「先生、お願いです・・・元の先生に戻って・・・」イリスは恐怖にもつれる声で、囁いた。

≪元の僕に戻る方法?それはたった一つしかない≫ルーピンは苦しそうに喘いだ。

≪人間を傷つける事で、僕は楽になる。元に戻れるんだ。君の柔らかな膚を引き裂いて溢れた血を啜り、引きずり廻し存分に辱めて・・・最後は僕と同じにしてやる。イリス、嬉しいだろう?≫

「いや、いや・・・」

 

 イリスの懇願も空しく、ルーピンが涎を垂らしながら彼女の身体に食らいつこうとした時、誰かの声がある呪文を高らかに叫んだ。

 

『アレーソース、アフェシス、アポリュトローシス!異形の者よ、元の姿へ戻れ!』

 

 たちまちルーピンは苦しそうな悲鳴を上げ、イリスの拘束を解くと、地面の上をのたうち回った。みるみるうちに体毛が抜け、牙や鉤爪が引っ込み、体が縮んで――ボロボロの服をまとった人間の姿へ戻った。イリスは震えながら、ルーピンの下へ近づいた。気を失っているようで、ピクリともしない。

 

『危ないところだったなあ、お嬢ちゃん。あんたも人狼にされるところだった!』

 

 頭上から見知らぬ男の声が聴こえ、イリスはびっくりして空を見上げた。大きく背の曲がった鷲鼻の魔法使いが、ふわふわと宙に浮いている。おまけにその身体は、ゴーストのように銀色で透き通っていた。魔法使いは、杖先をイリスに向けたまま、茫然と立ち尽くすばかりのロックハートを睨み付ける。

 

『この忌まわしい盗っ人め!元の体に戻ったら覚えておけよ!』

 

 魔法使いは透き通った腕で、ロックハートの頭を一発殴った後、風のような速さで空の彼方へと飛んで行った。

 

「ああ、もう・・・終わりだ。全てが・・・終わった」

 

 ロックハートはがくりと膝を突き、うな垂れた。イリスはおずおずとロックハートに近づき、彼の傍にしゃがみ込んだ。

 

 ロックハートは人生の全てを諦めたかのような、暗い表情で、イリスに全てを話して聴かせた。自分は今まで他者の輝かしい記憶を盗み取り、自分のものとして本を書き、有名になったのだと。そしてマルフォイ氏にその秘密を暴かれ、イリスを陥れるよう強いられたのだと。あの魔法使いのゴーストは盗んだ記憶の一つで、自分が解放したことで『元の持ち主』のところへ還った。きっと今頃、記憶の戻った持ち主はカンカンに怒り、盗っ人である自分を血眼で探し始めているだろうと。

 

「どうして自分がこんな事をしたのか、理解出来ない。気が付いたら呪文を唱えていたんだ。これから先、どうして良いのかも分からない。今、君の記憶を消すべきなのかも・・・」

 

 ――その時、ロックハートは狼狽して口を噤んだ。自分を憎んでいる筈のイリスが、ギュウッと抱き着いてきたからだ。

 

「助けてくれて、ありがとう」

 

 イリスは涙混じりに囁いた。それは生まれて初めてロックハート自身に向けられた、素直な”感謝の言葉”だった。

 

 

 不意に、暗闇の中から、キャンキャンと苦痛を訴える犬の鳴き声が聴こえて来た。――シリウスの声だ。助けを求めている!イリスは疲弊し切った身体を叱咤し、森の奥へ駆け出した。

 

「駄目だ!危険だ!行ってはいけない!」ロックハートの声がどんどん遠ざかっていく。

 

 甲高い鳴き声は、湖のそばから聴こえてくるようだ。イリスはその方向へ疾走した。引き裂かれた衣服から覗く白い膚に、降り続く雪の結晶に混じって、ゾッとするような冷気が染み込んでいく。鳴き声が、急に止んだ。湖のほとりに辿り着いた時、それが何故なのかをイリスは理解した。

 

「やめろおおお・・・!」シリウスが呻いた。

 

 ――ディメンターだ。人間の姿に戻り、うずくまって頭を抱えるシリウスの頭上を、少なくとも百人を超えるディメンターが黒い塊になり、渦巻きながらこちらへ近づこうとしている。ディメンターたちが発する余りの冷気に、湖面が音を立てて凍り付いていく。氷のような冷たい空気は、イリスの心をも凍らせようと襲い掛かった。目の前が霧のように霞んできた。四方八方の闇の中から、ディメンターが包囲してくる。イリスは必死に頭を振り払い、心の内側から聴こえ始めた――あの死の間際のドラコの息遣いを振り切ろうと、頑張った。

 

「エクスペクト・パトローナム、守護霊よ来たれ!」

 

 銀色の輝きが杖先から噴き出して、イリスとシリウスの周りを守るように取り囲む。シリウスが大きく身震いをして地面に横たわり、動かなくなった。死人のように青白い顔だ。守護霊を押し潰すように、ディメンターがドーム状に重なり、イリスの視界を覆い尽くしていく。銀色の輝きがぶるぶると震え、瞬く間に弱く霞んでいく。

 

「エクスペクト・・・おばさん、おばさん、助けて・・・エクスペクト・パトローナム、守護霊よ来たれ・・・」

 

 イリスは膝に冷たい下草を感じた。形にならない守護霊の弱々しい光で、イリスはディメンターがすぐ傍に立ち止まるのを見た。マントの下からヌメヌメとした死人のような手が伸びて来て、守護霊を振り払うような仕草をした。守護霊は揺らぎ、果てた。

 

「エクスペクト・・・」

≪娘の―口を―塞げ―また―邪魔を―されるぞ≫

 

 ザーザーというディメンターの吐息に混じり、邪悪でざらついた声が聴こえて来た。一番近くのディメンターが、イリスをじっくりと眺め回し、腐乱した両手を上げ、フードを脱いだ。――目があるはずのところには、虚ろな眼窩と、のっぺりとそれを覆っている灰色の薄いかさぶた状の皮膚があるだけだった。しかし、口はあった。がっぽりと空いた形のない穴が、死に際の息のように、ザーザーと息を吸い込んでいる。

 

 恐怖がイリスの全身を麻痺させ、動く事も声を出す事も出来ない。真っ白な霧が視界を覆った。べっとりとした冷たい腕が、イリスの杖を取り上げていく。何本もの手がイリスに伸び、口を塞ぎ、四肢を押さえつけ、幸せな記憶を思う存分吸い上げた。

 

≪素晴らしい―良い味だ―どれだけ吸い付いても―滲み出て来る―そしてそれと同じだけ―暗い記憶を―秘めている≫

 

 ディメンターはガザガザと笑い、イリスの黒髪を掻き分け、隠れてしまっていた顔を露わにした。青ざめたその顔に生気はなく、伝う涙は途中で凍り付いていく。塞いでいた手を外し、ディメンターは虚ろな口を、イリスの唇に近づけた。――腐ったような息が顔にかかる――耳元でドラコが最期に、自分に愛の言葉を囁いているのが聴こえた――ドラコ、私も愛してる。イリスは思った。最期に聴く声が、あなたの声で良かった――

 

 ――その時、イリスをすっぽり包んでいる霧を貫いて、銀色の光が見えるような気がした。段々強く、明るくなっていく。イリスは自分の身体が、ゆっくりと草の上へ落ちていくのを感じた。最早身動きをする力もなく、吐き気がし、震えながらイリスは目を開けた。目も眩むような光が、辺り一帯を照らし上げている。耳元のかすかな声や冷気が、徐々に退いていった。

 

 何かが、ディメンターの群れを追い払っている。イリスとシリウスの周りをグルグルと回っている。ディメンターのザーザーという邪悪な声が、遠のいていく。暖かさが戻ってきた。あらん限りの力を振り絞り、イリスは顔を持ち上げた。眩い光の中で、三つの人影がこちらへ近づいて来る。女性なのか男性なのか、大人か子供なのかも分からない。けれど、三人は自分の大好きな人たちだ――その事だけは、はっきりとわかる。イリスはかすかに微笑み、意識を手放した。

 

「ハリー、私、信じられない。あんな大量のディメンターを追い払えるほどの、守護霊を創り出せるなんて。はっきり言って、イリス以上の規模だったわ」

 

 ハーマイオニーはイリスの介抱をしながら、ハリーに言った。ハリーはロンと協力して、シリウスの身体を担ぎ上げる。

 

「僕、ルーピン先生に教わったんだ。今度は僕が、イリスを助けたいと思ったから。――でも、こんなに大きなものを出せたのは、今回が初めてだ」

「いったい、どんな幸せな記憶を思い浮かべたんだい?」ロンが屈託のない口調で尋ねる。

 

 ハリーは少し寂しそうな微笑みを浮かべ、あどけなく眠るイリスをチラリと見た。たったそれだけで、ハーマイオニーはハリーが一体何の記憶を思い浮かべたのか、分かったような気がした。

 

 

 ピーターは必死に雪原を駆け抜け、逃げていた。しかし、突如として凄まじい衝撃が体じゅうを襲い、ピーターはクシャクシャになって、冷たい地面に叩きつけられた。激痛で滲んだ視界の中に、驚くべきものが目に入り、ピーターは引き攣った悲鳴を上げた。

 

 ――猫だ。痩せた灰色の老猫、ミセス・ノリスが、自分に狙いを定めている!身の危険を感じたピーターが人間の姿に戻ろうとしたその時、猫は恐るべきスピードでネズミの首根っこを咥え、鋭い牙に力を入れた。プツッと音を立てて首の薄皮が切れ、太い首の血管を猫の牙がコリコリと遊ぶように撫でさする。その余りの恐怖に、ピーターはたまらず失神した。

 

≪そうだ、忘れるところだった。前足の指が欠けてるか、ちゃんと確認しないとダメなんだったわ≫

 

 ミセス・ノリスはネズミを噛み砕く直前に、イリスとの約束を思い出した。そして彼女は地面に落としたネズミの手足を確認し、やがて嬉しそうに一鳴きした。

 

≪まあ、欠けてるじゃない!あの子がきっと喜ぶわね!≫

 

 猫はしっかりとネズミを咥え、軽やかにスキップをしながら学校へ戻って行った。

 




明けましておめでとうございます!今年もどうぞ宜しくお願い致します!!

お気に入り登録してくださった方々、感想をくださった方々、評価を付けてくださった方々、本当にありがとうございます。感謝の気持ちでいっぱいです。くじけそうな時、とても励みになります。

よし、あと1話でアズカバン編終わらせるぞー!


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