ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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※残酷な表現、人を不快な気分にさせる恐れのある表現が含まれます。ご注意ください。


Act14.インフェルノ

「聴いてくれ、イリス。わ、私は自首しに来たんだ。優しい君ならきっと、私の話をきちんと聞いてくれると信じて」

 

 ――自首するだって?イリスは信じられないものを見るかのように、まじまじとピーターを見つめた。まさか、今まで散々逃げ回っていたピーターが、自分の罪を償うために、やって来てくれたなんて。

 

 『だけど、どうして今更なんだ?』――イリスの中で警戒心がむくむくと持ち上がり、彼女は縋るように杖を握り締めた。しかし、もし自分の推測が全て当たっているとするならば、これで――シリウスやイリス、ロックハートの事でさえも――全ての問題が解決されるのだ。つまり、ハッピーエンドだ。

 

 ピーターを信じるべきか、信じないべきか。イリスは迷った挙句、かつてシリウスと出会った時のように、ピーターの瞳を見つめようとした。けれども、彼はイリスと目が合った瞬間、ひっと恐怖に息を詰まらせ、顔を背けてしまった。その姿は何とも哀れで痛々しく――シリウスが教えてくれたような――狡猾で卑劣な人間には、とてもじゃないが見えない。ピーターは、イリスの持つ”忍びの地図”を震える手で指差すと、涙を零しながら、ぎこちなく微笑んだ。

 

「”忍びの地図”。これを作った頃が、懐かしい」

「あなたがこれを作ったの?」

 

 イリスはびっくりして、思わず杖を下ろしてしまった。ピーターは大きく息を吸い込み、ゆっくりと頷いた。

 

「そうだ。だが、私だけじゃない。シリウス・ブラック、リーマス・ルーピン・・・そしてジェームズ・ポッター。我々は何をするにも、ずっと一緒だった。地図の製作者である四つの名前は、我々の中だけで通じる、秘密の呼び名だった。ああ、懐かしい。何も知らなかった、あの頃に戻りたい。戻れるのなら、何をしたって構わない」

 

 ピーターの伏せ目がちな瞳から、涙が一筋零れ出て、頬を伝ってポロリと床に落ちた。その様子を見たイリスは、心臓が締め付けられるようにギュッと痛んだ。過去を悔いるピーターの姿と言葉は、イリスに去年の辛い記憶を思い出させた。リドルの記憶に支配されたイリスも、ずっとそう思い、苦しんでいたからだ。

 

「あなたの気持ち、とても良くわかるよ。でも、なら、どうして・・・友達を裏切ったの?」

 

 ピーターの顔色は、たちまち土気色になった。哀れみを乞うように身を捩りながら、ネズミのようにキーキーと高い声で叫んだ。

 

「し、仕方がなかったんだ!あの方に脅された。あの方はあらゆるところを征服し、そして何でもご存じだった。あの方を拒んで、いったい何が得られただろう?仕方がなかった、言わなければ、私が殺されかねなかったんだ」

 

 ピーターはがくりと膝を折り、止めどなく震えながら、立ち竦むイリスのローブに縋り付いた。あまりの力の強さに、イリスの体勢が崩れ、杖が手を離れて床にカランと転がり落ちる。思わず拾おうとしたイリスを、ピーターはぐっと強く抱き寄せた。

 

「離して、ピーター!」

 

 ピーターの足が自分の杖を後方へ蹴り飛ばしたのが、彼の肩越しに見え、イリスはもがいた。しかし、相手は一回りも大きい成人した男性だ。びくともしない。ピーターは毒を吐き出すかのような苦しみに満ちた声で、こう囁いた。

 

「イリス。君は、かつての私のように、素晴らしい友達を持っている。みんな友達のために、躊躇なく自分の命を賭けられる人間たちだ。だが、君はどうだ?いざ、死を目前にして、自分の命よりも、友達の命を優先できるか?」

 

 ピーターは、イリスの胸に伏せていた顔を、ゆっくりと上げた。――その瞳は、ゾッとするほど濁っていた。イリスが恐怖に息を詰まらせたその時、真横からオレンジ色の毛玉が飛び出し、視界をいっぱいに塞いだ。毛玉は恐ろしい唸り声を上げ、ピーターの顔面にガッチリ組み付くと、滅茶苦茶に暴れ始めた。

 

 ――クルックシャンクスだ。ピーターは痛々しい悲鳴を上げ、イリスを乱暴に押しのけると、床の上を転げ回った。

 

≪逃げろ、イリス!こいつは、お前に明確な悪意を持っている!≫

 

 クルックシャンクスは振り返らずに、イリスに向かって怒鳴った。しかし、イリスが体勢を整える前に、ピーターはローブの奥底から埃だらけの杖を引き抜くと、クルックシャンクスに突き付けた。杖先から目も眩むような光が迸り、それをまともに受けたクルックシャンクスはボールのように弾んで壁にぶち当たって、床にくしゃっと丸まり、ピクリとも動かなくなってしまった。

 

「クルックシャンクス!」

 

 イリスが悲鳴を上げ、猫に駆け寄ろうとしたその時――、イリスの身体を()()()()()が襲った。最初は、背中の一点がとても熱いと感じただけだった。しかし瞬く間に、それは激痛へと変わり、体じゅうにわっと広がった。リドルの魂と融合した時に感じたものとは全く違う、悪意に満ちた痛みだ。イリスがまだ痛みの弱い箇所に縋ろうと無意識に身を捩るたび、面白がるようにそこを激しく責め立てる。もしこの痛みが意志を持っているとするなら、今頃それはきっと大笑いしているに違いない。まるで毒ナイフで全身をくまなく何度も突き刺されているような、その耐え難い痛みに、イリスは泣き叫んだ。

 

「ああああああああっ・・・!!」

 

 イリスは、やがて失神した。しかし、安寧の時は長く続かなかった。気を失っても尚、続く激痛から逃れるため、危険信号を発したイリスの身体は、再び覚醒してしまったのだ。胃が激しく痙攣し、イリスは食べたものを全て吐き戻した。冷たい石の床を掻き毟っても、どれほど叫んでも、この苦痛は終わらない。ああ、誰か、私を殺して・・・イリスはたまらず、誰かに願った。誰でもいい、早くこれを終わらせて、解放してほしい。

 

 ――不意に、痛みが治まった。誰かが、自分の傍にしゃがみ込んでいる。ピーターだ。涙でぼやけて滲んだ視界に入ったピーターの顔は、おびただしい猫のひっかき傷で真っ赤に染まり、まるで恐ろしい悪魔のようだった。彼は、倒れたイリスを助ける訳でもなく、観察するかのようにじっと見つめているだけだ。――どうして、こんな酷いことを?イリスは力なく咳き込みながら、ピーターに囁いた。

 

「ど、どうして、ピーター、こんな・・・」

「イリス、仕方がないんだ。私はまだ死にたくない。生き残るためなんだ」

 

 ピーターはそう言うと、イリスに杖先をピタリと当て、息を吸い込んだ。――駄目だ!イリスの心が叫んだ。逃げろ、逃げるんだ!次の瞬間、イリスは持てる力を総動員して、スニジェットに変身しようと試みた。しかし、金色の光がイリスの身体を舞い始めたのを見るや否や、ピーターの顔は焦りと驚愕に引き攣り、イリスの頬を張り飛ばして無理矢理魔法を解除させてしまった。か細い悲鳴を上げるイリスを、ピーターは憎々しげに睨み付ける。

 

「まだそんな力が残っているのか。・・・クルーシオ、苦しめ!」

 

 ――あの痛みが、再び、イリスを襲った。

 

 大小の痛みの波が理性を押し流し、何も考えることが出来ない。ピーターは馬乗りになってイリスの動きを完全に封じ込めると、ますます呪文の威力を強めた。イリスは掠れた声で泣き叫び、少しでも痛みから逃れようと、狂ったように首を横に振り続けた。必死にピーターを押し戻そうとするが、痛みに震える手では、何の抵抗にもならない。

 

 やがてイリスの魔法力が彼女自身を守ろうとするために暴走し、ピーターを攻撃し始めた。しかしピーターはいくら傷ついても、イリスへの呪いを止めなかった。すると魔法力はイリスの精神を守る方へ働き、徐々に威力を弱めていった。気の狂った拷問は、イリスの魔法力の暴発が完全に消えてしまうまで、ずっと続けられた。

 

 

 ――どれほどの時間が経っただろう。

 

 ピーターはやっと呪いを解除し、激しく息を荒げながら、イリスの白い頬を撫でた。たったそれだけで、イリスはびくりと大きく身体を痙攣させ、怯え切った目でピーターを見つめ、わずかに開いた口の端から唾液を垂らし、呂律の回っていない掠れた声で、何度もピーターに許しを乞い続ける。――イリスは心身ともに、ピーターに屈してしまったのだ。ピーターは安心したように大きく息を吐いて、あらかじめ周囲に張っておいた”人避けの呪文”の威力を弱めた。

 

「イリス、分かったね?これが()()()()()だ。人はこれに堪えられる勇敢な者と、そうでない臆病者に別れる。・・・君は残念ながら、私と同じ臆病者だったようだ」

 

 ”臆病者”――その言葉は、イリスの傷だらけになった心の奥底まで、すうっと染み込んでいった。ピーターはすすり泣くイリスを抱き寄せ、優しく頭を撫でた。今まで激痛に苛まれていたイリスにとっては、それがどれほど心地良かったか、嬉しく思えたか分からない。思わず涙が零れ落ち、イリスはおずおずとピーターの胸に小さな頭を寄せた。

 

 ピーターは、イリスを痛めつけるために”磔の呪文”を掛けたのではない。――イリスを自分に従う人形にするために、彼女を大切に想うルシウスやリドルの記憶では絶対に与えることの出来なかっただろう、”本物の恐怖”を教え込み、彼女の全てを支配しようとしたのだ。

 

 しかし、実際のところは、イリスだけでなくピーターも疲労困憊状態だった。イリスの魔法力が、傷ついた彼女の精神を回復する方へ働き続けたために、何度もイリスに”磔の呪文”を掛けることになってしまったためだ。”禁じられた呪文”はいずれも大量の魔法力を使うし、おまけに”人避けの呪文”を最大出力で掛け続けていたものだから、一時はピーターの方が先に気を失うかと危ぶんだほどだった。だが、計画はなんとか上手く運んだ。あとはイリスの魔法力が回復してしまう前に”服従の呪文”を掛け、共に帝王の下へ向かうだけだ。彼女を人質にすれば、あの忌々しいシリウスも手を出してこないだろう。ピーターは一人ほくそ笑むと、イリスだけでなく、どこか自分自身にも言い聞かせるように、静かにこう囁いた。

 

「臆病者のイリス。君もいずれは、私と同じように恐怖に負け、友達を裏切るだろう。あの方はメーティスの一族に、並々ならぬ執着心を抱いている。あの方に従わなければ君は、さっきよりも、もっと苦しく恐ろしい目に遭わされるに違いない。『友達のために死ぬ』?友情に命を賭けるなど、気が狂っている!馬鹿らしい!一番大事なのは()()()()だ、そうだろう?」

 

 『さっきよりも、もっと苦しく恐ろしい目に遭わされるだろう』――この言葉は、イリスをより一層、強い恐怖の渦に陥れるのに、十分なものだった。あの痛みよりも、もっと酷い目に遭うなんて――。イリスは極寒の地に放り込まれたかのようにガタガタと震え、すすり泣き始める。それを見たピーターは、ただ自分の成果に満足した。そして油断した挙句、魔法力が緩んで――知らずの内に、”人避けの呪文”を解除してしまったのだ。だが彼は気づかず、ねっとりとした視線をイリスに注ぐだけだった。

 

「私は、君のことなら何でも知っている。ずっと、君を見守ってきたのだから・・・」

 

 イリスは怯え切った眼差しをピーターに向ける。

 

「ルシウス・マルフォイが、友の忘れ形見である君に、随分とご執心だったのは昔から知っていたよ。だから、私の飼い主であるロンが、君と親友になったのは、私にとって本当に幸運なことだった。ルシウスは、唯一の情報源であるセブルス・スネイプすら知らない、君の細かな情報をずっと知りたがっていたんだ。

 だから、ある日、ダイアゴン横丁で彼に出会い、取引をもちかけた。そして私は、安全な隠れ家と大量のガリオンを報酬にと約束され、君の情報をセオドール・ノットに渡し続けた。ネズミの姿で羽根ペンを動かし、羊皮紙に書きつけるのは少々骨の折れる作業だったが、将来のことを考えると頑張れたよ。あと数年で、みすぼらしい家族や、ネズミの栄養ドリンクやパンくずと、おさらばできると思えたからね。

 ――だが、そんな日は来なかった。シリウスが脱獄したという知らせを聞くや否や、ルシウスは、私から手を切ったんだ!どうせ私が臆病者で、君やハリーに手出しすら出来ず、シリウスに殺されると踏んでいたんだろう。フン、だが実際はどうかね。私は見事、君を手中にしてみせた!――ああ、イリス!私の可愛いイリス!」

 

 ピーターは感極まり、イリスの汗ばんだ頬に強く口付けた。

 

「イリス。私以外の大人を、信用してはならない。ルシウスも、シリウスも、ダンブルドアでさえも、みんな君を利用するつもりなんだ。ルシウスは、自らの保身のために。シリウスは、私を殺すための道具として。ダンブルドアは、使い勝手の良い駒として、君を捉えているんだよ。

 あいつらはみな、”本物の恐怖”に堪えることの出来る、勇敢な人間だ。私や君のように臆病な人間を見下し、ただの道具として考えている。君をその気にさせるため、聴こえの良い言葉をずらずらと並べ立て、いざ都合が悪くなれば切り捨てられる。――かつての私のように。

 そんなやつらのところより、私と共にいる方が安全だ。君と私は似た者同士だ。私はルシウスのように、君を裏切ったりしないよ。ずっと一緒だ」

 

 ピーターは満足気に笑い、杖を取り出すと、イリスに”服従の呪文”を唱えた。

 

「インペリオ、服従せよ。・・・イリス、これからは私の言うこと全てに従いなさい。まずは私と共に、アルバニアの森へ行くんだ」

 

 たちまちイリスの心身を、圧倒的な多幸感が包み込んだ。イリスは正気を失った瞳で、ピーターをぼんやりと見つめ返す。――彼の濁った目の奥に、キラッと一瞬だけ、虹色の光が輝いた。イリスはすうっと意識を失い、ピーターの胸に小さな頭をもたせ掛けた。

 

 

 やがて、イリスは目を覚ました。ガタゴト、と妙に聞き慣れた音に合わせて、世界が揺れている。周囲を見回すと、やはりここは――イリスが思った通り――ホグワーツ特急のコンパートメントの一室のようだった。イリスは呆気に取られ、言葉を失った。一体、何がどうなって、自分はこんなところにいるんだろう。ホグワーツは――いや、それよりピーターはどこに行ってしまったんだ?

 

 おまけに硝子窓からは、お天道様の光が、燦々と差し込んでいる。イリスはますます首を傾げた。最早ここが現実なのか、夢なのかも分からない。さらにもっとヘンテコなことに、窓に近づいて外の景色を覗こうとすると、イリスが映っているはずなのに――全く違う姿が、硝子面に映っていた。ハムスターによく似た雰囲気の、小太りの男の子だ。

 

 イリスはその顔を見た瞬間に、はっと思い出した。――そうだ、()()()()()()、ピーター・ペティグリューだ。

 

 ふとコンパートメントのドアが、遠慮がちにノックされた。そして入って来たのは、鳶色の髪をした、大人びた様子の少年だ。少年は大きく深呼吸をしてから、ぎこちない笑顔を浮かべて、ピーターに話しかけた。

 

「やあ。ここ空いてるかい?ほかは、どこもいっぱいで」

「いいよ。どうぞ座って」

「ありがとう」

 

 少年が向かい側にそっと座ると、ピーターは穏やかに微笑んで、丸っこい手を差し出した。

 

「僕、ピーター。ピーター・ペティグリュー。君は?」

 

 少年は何とも不思議なことに、ピーターが差し出した手を、暫らくの間、信じられないとでもいうかのように、じっと凝視していた。しかし、やがてその手を、震える両手で包み込み、ピーターが「痛い」と思わず悲鳴を上げてしまうまで、勢いよく何度もブンブンと振り続けた。そして零れるばかりの笑顔を顔いっぱいに浮かべ、興奮で上擦った声で、こう答えた。

 

「よろしく、ピーター。僕はリーマス。リーマス・ジョン・ルーピンだ」

 

 そうして二人は、あっという間に友達になった。やがてピーターが空腹を訴え始めると、リーマスが車内販売のワゴンを探しに行こうと持ちかけ、二人はコンパートメントを出た。

 

「・・・ザリンは闇の魔法使いが入るところだ。フン、まともなところじゃないね」

 

 不意に、あるコンパートメントから、男の子の大きな声がして、二人はピタッと歩みを止めた。そっと中を覗き込むと、そこには、四人の男女が座り、何やら剣呑な雰囲気を醸し出している。くしゃくしゃの黒髪の少年が、その隣に腰掛けた、見惚れるほどハンサムな少年と一緒になって、向かい側に座る、陰湿な物言いの少年と言い争っているのだ。その傍にいる赤毛の美しい少女は、一生懸命三人の喧嘩を仲裁しているようだった。

 

「彼らは誰だい?」

 

 ピーターが余りにも熱心な様子で、くしゃくしゃの髪の少年とハンサムな少年をじっと見つめるので、リーマスは思わず小声で尋ねた。

 

「かっこいいなあ。君、知らない?ジェームズ・ポッターとシリウス・ブラックだよ。僕、ポッターのご両親が開催したお茶会に招かれた時、二人と初めて会ったんだ。きっと二人は、僕のことなんて覚えていないだろうけど」

 

 ――ピーターの脳裏に、ポッター家の壮大な屋敷で催されたお茶会に、母親と共に参加した華々しい記憶が蘇る。ピーターは父がマグルで、母が魔法族だった。とは言っても、母の実家はあまり著名ではない家柄であるため、サロンの席も末端に近い方だったが、それでも上座に座るジェームズは、幼馴染のシリウスと一緒になって、身体の内側からキラキラと輝いて見えた。彼らは容姿や才能、自信に満ち溢れ、またそれを使いこなす力を持っていた。ピーターにとって、二人の存在は、さながらスーパースターも同然だったのだ。

 

「ふうん」

 

 その一方で、リーマスは、それほど二人に対して憧れを抱いていないようだった。それよりもピーターの方が大切なようで、彼を急かして、次の車両へ行くようにもちかける。リーマスはピーターを引きずるようにして、次の車両へ繋がるドアを開けた。

 

 ――その瞬間、()()()()荒涼とした大地の上に、ぽつんと立っていた。

 

 ゆっくりと振り返ると、すぐ後ろには、人が一人すっぽり入れるほど大きなサイズの(たまご)が転がっている。卵には、まるで何かがそこから生まれ出てきたかのように、大きな穴が空いていた。イリスはこわごわ、穴の中を覗き込むと――俄かには信じられないことだが、そこには空洞の代わりに、イリスが先程いたばかりのホグワーツ特急の光景が広がっていた。

 

 どうやらイリスは、この卵から出て来たらしい。では、ピーターたちは一体、どこに行ったと言うのだろう。

 

 まったくもって訳が分からず、イリスは注意深く周囲を見渡した。――草木一本すら生えていない、荒涼とした大地が、地平線の果てまでずっと続いている。そして所々に、大小さまざまな大きさの卵が転がっている。上空は、血のような真紅色に染め上げられた分厚い雲が一面に広がっていて、時々走る稲光が、雲を不気味に光らせていた。

 

 なんて恐ろしい世界なんだろう。イリスは思わず、ブルッと身を震わせた。まるで”地獄(インフェルノ)”だ。

 

 突如として、世界が真っ二つに引き裂かれるような、凄まじく大きな音が轟き、イリスは悲鳴を上げてしゃがみ込んだ。よく聞いてみると、それは――とてつもなく巨大な乗り物(があるとすればの話だが)の駆動音に似ていた。音は、雲を掻き乱しながら上空を横切り、雲の上に巨大なシルエットを残して去って行った。――雲の上には、巨大な化け物が周回しているようだ。

 

 ますますどうしていいのか分からず、イリスは所在なげに立ち竦んだ。ふと足元に視線を落とした瞬間、イリスは息を飲んだ。――自分のものとは違う足跡が、ずっと先の方まで続いている。足跡は、先の方に転がっている卵まで、続いているようだ。イリスは導かれるように、足跡を辿った。卵にはやはり大きな穴が空いており、そこからガヤガヤと大勢の人々の話し声が聴こえてくる。イリスは思い切って、穴を覗き込んだ。

 

 

 二つ目の卵の中には、ホグワーツの大広間の光景が詰まっていた。一列に並べられた子供たちは、それぞれ緊張した顔を引き締める。序盤で呼ばれたシリウスは、自信満々といった様子で出て来て、組分け帽子を被るや否や、グリフィンドールに決まった。スリザリンのテーブルのざわめきをものともせず、堂々とした態度でグリフィンドールの席に着く。ピーターは、それを羨ましそうに見ていた。リーマスもグリフィンドール、ジェームズもグリフィンドール。そしていよいよ、ピーターの番だ。彼は緊張の余り、震える手で帽子を被り、願った。

 

「僕は、勇敢な人間になりたい。ジェームズやシリウスみたいに!」

「良かろう、君にはその素質がある。グリフィンドール!」

 

 組分け帽子が高らかに叫んだ。ピーターは信じられないと言わんばかりに目を見張り、転がるようにして椅子を飛び出した。グリフィンドールのテーブルでは、一足先に席に着いていたリーマスが、嬉しそうに出迎えてくれた。

 

「よかったよ、ピーター!君も一緒だったんだね」

「リーマス、お前の友達か?」

 

 シリウスが親しげな様子で、リーマスに話しかける。驚いたことに、早くもリーマスは、ジェームズたちと友達になったようだった。ジェームズは眼鏡の奥で気さくに微笑んでみせると、固まるピーターに手を差し出した。

 

「僕はジェームズ、こいつはシリウスさ。よろしくな、ピーター」

 

 ピーターは友人リーマスの助けで、その日に憧れのスターたちと友情を築いたのだった。そしてさらに幸運は続くもので、四人は同じ部屋だった。ピーターは興奮と喜びで一向に寝付くことが出来ず、四人で夜通し下らないことを話し、笑い続けた。

 

 

「僕は人狼なんだ」

 

 三つ目の卵の中は、リーマスの静かな告白で満たされた。誰もいない空き教室に、四人は集まっている。余りの衝撃的なその事実に、三人はそれぞれポカンと口を開いた。リーマスはその視線から逃れるように、顔を俯かせたまま、矢継ぎ早にまくし立てる。

 

「今まで黙っててごめん。でも怖かったんだ。今までずっと一人ぽっちだった。だから、せっかく出来た友達を失うのが怖くて。・・・だけど、それももう終わりだ。そうだろ?僕はホグワーツを退学になる」

「何言ってんだよ、誰が退学になるって?」

 

 一番最初に衝撃から立ち直ったのは、ジェームズだった。くしゃくしゃの髪を指で乱雑にほぐし、ちらりとシリウスに視線を送る。

 

「リーマス、お前を一人ぽっちになんかしないさ。そうだろ、ピーター?」

 

 シリウスの言葉に、ピーターはこくこくと頷いた。リーマスは静かに両手の中に顔を埋め、暫らく何も言わなくなった。

 

 

 四つ目の卵の中には、三人の特訓の日々がぎゅうぎゅうに押し込められていた。満月の夜に成熟した狼になるリーマスのために、三人は自らも同じ獣になることを選んだ。並みの魔法使いでも難しいと言われる”動物もどき”の訓練も彼らの敵ではなかった。ホグワーツ一の秀才と謳われたジェームズとシリウスは、三年の月日を重ねてついに、非公認の”動物もどき”になることが出来たのだ。

 

 ピーターも、二人より少しばかり遅れたものの、無事”動物もどき”になることが出来た。しかし、その姿が少々問題だった。”動物もどき”は、その人の資質に合った姿になる。ジェームズは立派な牡鹿、シリウスは熊と見まごうほど大きな黒犬、そしてピーターは――。

 

「おいおい、ドブネズミかよ!ピーター!全く、お前らしいぜ!」

 

 ピーターの晴れ姿を見たとたん、シリウスはジェームズと一緒になって、涙を零しながら大笑いし始めた。そう、ピーターは小さなドブネズミだったのだ。リーマスも少し申し訳なさそうに笑っている。どんなに頑張っても、三人には追いつけない。今の自分の姿は、そのことをただ残酷に、ピーターに知らしめた。彼の小さな心は、劣等感に苛まれた。

 

 しかし、ネズミだからこそ、ピーターには大いに役立つ一面があった。リーマスが閉じ籠もっている”叫びの屋敷”に繋がる、暴れ柳のこぶに触り、その動きを止めることが出来るのは、小さなピーターだけだったのだ。ピーターは、再び自信を取り戻した。

 

 三匹は、屋敷で狼になったリーマスに合流し、ありとあらゆる場所を、夜な夜な歩き回った。――冷たい夜特有の空気、心が浮き立つような背徳感、全ての生き物が寝静まった濃紺色の世界を、ピーターは一生忘れないだろう。そして彼らは夜明けと共に学校に立ち戻り、その情報を全て”忍びの地図”に書き起こした。

 

 

 五つ目の卵の中は、恐ろしい閃光が飛び交う、戦争の最中だった。仮面を被った”死喰い人”と、彼らに抗う者たちが混戦する戦場で、ピーターは戦っていた。しかし、血のように赤い光線が頬を掠めると、余りの恐ろしさに、ピーターは救いを求める小さな魔女の手を振り解いて、一心不乱に逃げてしまった。

 

「何をしてる、ワームテール!戦え!」

 

 すかさずジェームズの怒号が飛んでくる。――『戦え』だって?もう少しで、僕が死ぬところだったのに!ピーターは這う這うの体で、ボロボロに破壊されたパブに逃げ込み、バタービールの空き樽に身を隠して震えることしか出来なかった。樽の継ぎ目の隙間から、シリウスが数人の敵をまとめて相手にしている間に、リーマスが魔女を助け出し、安全な場所へ”姿くらまし”しているのが見える。結局、ピーターは戦いが完全に終結してしまうまで、その中から動くことが出来なかった。

 

「なぜ戦わないんだ、臆病者!」

 

 激昂したシリウスが、バタービールの樽の中に手を突っ込み、小さなピーターの胸倉を掴み上げる。ジェームズも腹立たしげに、ピーターを睨んでいる。三人共、最前線で戦っていたために、体中が傷だらけだった。しかし、ピーターは傷一つなく、ぴんぴんしている。ピーターは哀れな声で言い縋った。

 

「恐ろしかったんだ、光線がすぐ目の前を掠めて・・・!」

「黙れ、役立たずめ!この・・・!」

「やめろ、パッドフット!」

 

 リーマスがシリウスを押し留める。ピーターは再び、樽の中へ崩れ落ちた。――どうして、どうしてこんなことに。ピーターはみじめな思いで胸をいっぱいに膨らませ、小さな体をより一層縮こまらせた。学生時代は平和だった。僕はそれで充分だった。だけど、ジェームズたちはそれで終わらず――今度は、”闇の陣営”と戦いを始めるようになった。

 

 ”動物もどき”になり、あの特別な夜を一緒に過ごしたことで、やっと彼らと同じ場所に立てたと浮かれていた。だが、現実はそうではなかった。ピーターがほんの一秒立ち止まった間に、彼らは何十キロも先を歩いていた。やっとの思いでネズミになったピーターに、今度は命を賭けて人のために戦え、と彼らは言う。ピーターは、疲弊し始めていた。

 

 

 六つ目の卵の中は、暗闇と血の匂いに満ちていた。ピーターは”死喰い人”に捕えられ、”闇の陣営”の本拠地へ連行され、王座の間へと引っ立てられた。玉座へ優雅に腰を下ろしたヴォルデモート卿が、ピーターをじっと見つめる。ピーターは恐怖の余り、骨の髄まで震え上がっていた。

 

「ピーター・ペティグリュー、いや、ワームテールと呼んだ方が良いか?お前の選択は二つだ。一つは俺様に忠誠を誓うか、それとも・・・」

 

 ヴォルデモート卿が不自然に言葉を区切ると、ピーターの目の前に、一人の人間が引き摺り出された。衣服は全て剥ぎ取られ、あばらが浮いた体躯には、痛々しい傷跡が至る所に走っている。目玉は二つともくり抜かれ、虚ろな眼窩からは血の涙が滴って石の床を汚していた。髪や爪は残らず引き抜かれ、舌や歯すら抜かれた口からは、唾液混じりの嗚咽が漏れている。男はもう正気を失っているようで、芋虫のように、床の上で力なくのたうち回るだけだった。ピーターの周りを固める”死喰い人”たちはその様子を見て、面白そうに笑っている。

 

「このように、酷い目に遭うか」

 

 ヴォルデモート卿が気怠げな動作で指を振るうと、”死喰い人”たちが一斉に呪いをかけた。男は体じゅうを深々と切り裂かれ、声にならない悲鳴を上げて――やがて、血溜まりの中でピクリとも動かなくなった。ピーターは恐怖の余り、立っていられなくなり、ついには床に力なく崩れ落ちた。ヴォルデモート卿は、何時の間にか現れた巨大な蛇が、男の亡骸を飲み込んでいくのを眺めながら、静かに言った。

 

「お前は賢い男だ、そうだな?」

 

 ピーターは震えながら、ヴォルデモート卿に忠誠を誓い、”闇の印”を左腕に焼き付けた。

 

 ――そうして、ピーターのダブルエージェントの日々が始まった。最初の方こそ、ピーターは罪悪感に突き動かされ、いつシリウスたちに本当のことを打ち明けようかと悩んでいたが、やがてその気持ちは心の奥底へ沈んでいった。シリウスたちは、ピーターがいくら「真剣な話があるんだ」と相談を持ち掛けても、少しも耳を傾けようとしてはくれなかった。それどころか、相変わらず戦場で鳴かず飛ばずのピーターを「役立たずだ」と叱りつけるばかりだったのだ。

 

 その一方で、ヴォルデモート卿は、ピーターを高く評価した。実際、彼は自分自身が自覚している以上に、反”闇の陣営”勢力の重要な立ち位置にいたのだ。その彼から得られる情報は、ヴォルデモート卿に有益なものばかりだった。帝王は今までに聞いた事のないほどの、甘い言葉で、ピーターを誉めそやした。”死喰い人”たちから羨望や嫉妬の視線を向けられ、ピーターは有頂天になった。

 

 

 七つ目の卵の中は、恐れと不安が吹き荒れていた。『ジェームズとリリーの子、ハリーがヴォルデモート卿に狙われている』――反”闇の陣営”勢力内にその情報が流れ、緊迫した状況はより一層ひどくなった。シリウスは青ざめた表情で、いくつかある隠れ家の一つに、ピーターを呼び出した。ピーターが赴くと、そこにはジェームズとリリーもいた。リリーの腕には、すやすやと眠る赤子――ハリーが抱えられている。

 

「ワームテール、お前を”秘密の守り人”にする」

「ど、どうして?どうして僕が?」

 

 シリウスの言葉に、ピーターは恐怖と罪悪感の渦に飲み込まれそうになった。――いくらヴォルデモート卿に忠誠を誓っていると言っても、ジェームズたちはピーターにとって親友だ。今や、全ての”死喰い人”がポッター家の所在地を知りたがっている。その親友の家の情報を自分が知っているとなったら――、いいや、あのお方は全てを見通す。とてもじゃないが、隠し通せない。ピーターは慌てて言った。

 

「僕には無理だよ。君やリーマスの方が、よっぽど適任だ。そうだろう?」

「リーマスにはスパイの嫌疑が掛けられてる。知ってるだろ?」シリウスは苛立たしげに言い放った。

「それに、僕だと目立つからな。”死喰い人”どもに恨みを買い過ぎてる。目立たないお前がちょうど良いんだよ。

 僕が囮になる。お前には安全な隠れ家を用意した。お前はいつもと同じように、そこで一人で震えていればいい。()()()()()得意だろ?」

「シリウス!ワーミーに、そんな言い方・・・」

 

 リリーが苦しそうに言ったが、シリウスは気にも留めていないような様子だった。ピーターの心は、氷水に浸したかのように、急速に冷え切っていった。――”安全な隠れ家”だって?そんなもの、あのお方の前では、藁作りの小屋に等しい。たった一吹きで、跡形もなくなってしまう。

 

 ”秘密の守り人”にするということは、秘密を封じ込めた人間を命の危険に晒すということだ。何度すがっても僕の話は聞いてくれなかったくせに、いざ自分の命が危ないと知ると、僕の命を平気で危険に晒すのか。自分達は安全な場所に隠れておいて。

 

 ポッター家の所在地をピーターに封じ込めた後、ポッター一家は”姿くらまし”をした。ピーターは、去り行くシリウスの背中に話しかけた。

 

「もし僕がヴォルデモートに捕まって、ポッター家の在処を言えと脅されたら?」

 

 シリウスは立ち止まり、振り返らずにこう答えた。

 

「友を守るために、死ぬしかない」

 

 ――その時、ピーターの中で、ジェームズたちとの友情を大切に想う気持ちが、静かに崩れていった。『ジェームズたちを守るために、僕が死ぬ』――美しい友情だ。じゃあ、僕は?僕のために、ジェームズたちは死んでくれるのか?いいや、そんなはずはない。彼らは、僕の命のことなんて、大切に思ってなんかいない。じゃなければ、僕に厄介な秘密を押し付けるもんか。最初から、僕を友達と思っていなかったんだ。

 

 ピーターは想像した。手酷い拷問を受けた挙句、ボロ雑巾のようになって死んだ、哀れな自分の姿。しかし、ジェームズたちは、自分の家でぬくぬくと過ごし、嗤っている。『あの役立たずのワームテールでも、少しは役に立ったな』と。

 

 ピーターは一直線に、”闇の陣営”の本拠地へ向かった。そしてヴォルデモート卿の足元に恭しく跪き、こう言った。

 

「やりました、ご主人様。ポッター夫妻が、わたくしめを”秘密の守り人”にしました」

 

 

 十月三十一日、ピーターはネズミに変身し、ゴドリックの谷のポッター家付近で、ヴォルデモート卿の様子を見守っていた。――あのお方は他の誰でもなく、僕だけに同行をお許しになった。ピーターは歪んだ満足感に酔いしれ、帝王がポッター家を破壊していくのを眺めていた。そして屋敷の二階部分で、目も眩むばかりの緑の閃光が炸裂し、――ハリーの泣き声は一向に止まない。ずっと続いている。おかしい。一体、どういうことだ?

 

 ピーターはネズミの姿のまま、屋敷へ向かった。瓦礫だらけの玄関ポーチには、ジェームズの亡骸が転がっていた。ハシバミ色の目は光を失くし、虚空を見つめている。ピーターは、手摺を伝って二階へ上がった。子供部屋は、まるで嵐が過ぎ去った跡のようにひどい有様だった。ベビーベッドだけが、傷一つない綺麗な状態で残っており、その上に覆い被さるようにして、リリーがこと切れていた。ハリーは掠れた声で、ずっと泣き続け、物言わぬ母親にハグをせがんでいる。――しかし、ヴォルデモート卿はどこにもいない。

 

 ピーターは、開け放たれた窓から外の景色を眺めた。まさか、もうどこかへ行ってしまったのか?一番の目的である、ハリーを始末せずに?窓枠から身を乗り出したピーターの髭を、冷たい夜風がふわっと撫でた。

 

 ――その時、ピーターの心の中に、あの夜の素晴らしい思い出が蘇った。冷たい夜特有の空気、心が浮き立つような背徳感、全ての生き物が寝静まった濃紺色の世界。確かに、自分はみんなよりも――というより、ホグワーツ中の誰よりも――遥かに出来が悪く、劣っていた。しかし、みんなはそれをからかいながらも、今に至るまで、決して自分を見捨てようとしなかった。 

 

 どうして、今までそのことに気が付かなかったのだろう。ポッター家の所在地も、”秘密の守り人”に立候補する仲間たちは多かった。彼らの方が、自分よりよほどしっかりしていたし、出来が良かったはずだ。けれども、シリウスはあくまでピーターに固執した。――他の誰でもない、自分を信頼していたからだ。僕たちは、友達だったんだ。

 

 ヴォルデモート卿による恐怖の支配から解き放たれ、自由になったピーターは、やっと真実に気づいた。だが、もう全てが遅すぎた。ピーターは、玄関ホールに倒れ伏した、親友の虚ろな瞳を思い出した。どさり、と音を立てて、リリーの亡骸が床に崩れ落ちる。

 

「ギイイイイイイイイイ!!!」

 

 ピーターの精神は、音を立てて崩壊した。滅茶苦茶に暴れ、自分自身を引っ掻き、傷つけ、のたうち回る。ネズミの尋常ではない断末魔の声に怯え、ハリーはますます大きく泣き叫んだ。

 

「・・・ハリー!ハリー!」

 

 やがて轟くような大声と足音が、混沌とした子供部屋に飛び込んできた。――熊のように毛むくじゃらな大男、ハグリッドが、ハリーを助け出しにやって来たのだ。玄関ホールでジェームズの亡骸を見たのだろう、顔を悲しみに歪めたハグリッドは、ベッドに寄り添うようにして倒れ伏したリリーの姿が目に入ったとたん、ハリーをベッドごと抱き締めたまま、おんおんと泣き崩れてしまった。狂ったように踊り狂う奇妙なネズミの姿に、気づきもしないまま。

 

 不意にバイクの駆動音が遠くの方でこだましたかと思うと、やがて屋敷の空気を震わせるほど大きくなっていった。――空飛ぶ魔法のバイク、シリウスのものだ。きっと自分の裏切りを嗅ぎ付けたに違いない。こちらへ向かっている。幸か不幸かピーターは、その音で自我の一部を取り戻した。

 

「そうだ、あいつが元凶なんだ」

 

 ピーターはグルグルとその場を回りながら、自分に言い聞かせるように、何度も何度も呟いた。ネズミの声は小さく、ハリーもハグリッドも、誰も気付かない。

 

「あいつが、僕を”秘密の守り人”にしなければ良かったんだ。僕のせいじゃない、あいつのせいだ。僕は悪くない。僕は悪くない・・・」

 

 

 ――イリスは何時の間にか、荒涼とした大地の上に立っていた。とめどない流涙が、乾ききった地面を潤していく。しゃくり上げながら足元に目をやると、足跡はずっと先の方まで続いていた。あれほど沢山転がっていた卵は、もうこの先にはどこにもない。代わりに、小さな人影がよろめきながら、地平線の果てに向かって休むことなく進み続けている。

 

 イリスは、この世界が一体何なのか、理解した。卵の正体が何なのか、小さな人影が誰なのかも。イリスは走り出した。人影に近づく毎に、その足跡は乱れ――やがて血が混じり、肉片や体液までもが混入するようになっていった。イリスは息を荒げながら、足跡の主の下にたどり着いた。

 

「ああ、イリス。待ちくたびれたよ。来てくれたんだね」

 

 ピーターは振り返ってイリスを見ることはなく、前を向いたまま、穏やかな声で言った。しかし、歩き続けるその足は、イリスが思わず顔を背けてしまうほど、ひどい有様だった。ボロボロに傷つき、皮膚は破れ、筋肉や骨が突き出し、足を前に向かって踏み出すたびに、血や体液、肉片が周囲に飛び散っている。それでも、ピーターは歩くことを止めなかった。

 

「ピーター、私・・・」

「イリス、みなまで言わなくても分かる。あの卵の群れを見たんだね」

 

 ピーターの声には、はっきりとした恐怖の感情が滲んでいた。

 

「世にも恐ろしい化け物が生まれた卵だ。あいつらは生まれるたびに、互いを喰い合って、やがて一匹の大きな化け物になった。あの空を翔けているのが、()()だよ。

 だが、イリス。安心しなさい。あいつの足はとても遅い。こうして歩き続けていれば、決して追いつけない。だが、疲れて一瞬でも立ち止まると、たちまち追いつかれてしまう。あいつはとても素早いんだ」

 

 ピーターが進む先には、見渡す限りの広大な地平線が広がっていた。しかしまるで神様が、世界をそこから綺麗さっぱり消してしまったかのように、そこから先は、何もない。イリスは戸惑って、ピーターに問い掛けた。

 

「一体、どこへ向かっているの?地平線の先には、何もないよ」

「ああ、何もない」ピーターは当然だと言わんばかりに、応えた。

「だが、()()()()()()()だ。そうだろう?」

 

 ピーターは、隣を歩くイリスに向かって優しく微笑んでみせた。けれどもイリスには、その顔が悲しくて泣いているようにしか見えなかった。――イリスは泣き腫らした目で、じっと地平線の先を見つめた。確かに、ピーターの言う通り、全てを投げ出して逃げ続けていれば、安全な日々を送ることが出来るかもしれない。だけど、そこには()()()()。ただ死ぬまで、息を吐いて吸い、心臓を鼓動し続けるだけの生活。それに、何の価値があるっていうんだ?イリスは震えながらも、ピタリと立ち止まった。

 

「一緒には行けないよ、ピーター。たとえどんなに苦しくても、怖くても・・・私は、みんなと一緒にいたい」

「・・・僕だって」

 

 絞り出すようなピーターの声は、さっきよりもずっと若々しく張りがあった。見る見るうちに、ピーターの後ろ姿は若返り、グリフィンドールのローブを纏った学生時代のものへと変わる。彼にとって、一番輝かしく栄光に満ちた時代の姿だ。

 

「そうしたかった。でも、もう遅いんだ」

 

 ローブに包まれたピーターの手を、イリスは追い縋り、必死で掴んだ。

 

「そんなことない!私、ピーターが苦しんでいたこと、みんなに分かってもらうよ。・・・罪を償おう、ピーター」

 

 イリスは、卵の中に隠された”罪の記憶”を見た。ピーターの犯した罪は、到底許されることではない。しかし彼に石を投げ、責め立てることの出来る人間が、一体どれくらいいるのだろう。人間は誰しもが自分の命を顧みず、他者を守ることの出来る強さを持てる訳ではない。また、強い誘惑や恐怖に打ち勝てる忍耐強さを維持し続ける人間も、そう多くいる訳でもない。イリスは自分自身が強い人間ではないと、自覚していた。だから、自分自身に負けたピーターの心の弱さが、痛いほどに良く分かった。

 

 ピーターは立ち止まり、初めてイリスを振り返った。小太りの気の弱そうな男の子が、顔をぐしゃぐしゃに歪め、泣いている。

 

「ああ、こんなはずじゃなかったんだ。僕は、僕はなんてことを・・・!」

 

 イリスは何も言わず、咽び泣くピーターを、潰れるほど強く抱き締めた。

 

「ワーミー?」

 

 不意に後方から、柔らかな女性の声がした。二人は声のした方向を見つめ、そして絶句した。――それは、大小さまざまな大きさの人間を寄せ集め、ぎゅっと圧縮してドラゴンの形に成形したかのような、醜悪でおぞましい化け物だった。不自然に捩れた身体の一部から覗くいくつもの顔は、みんな瞬きもせず、ピーターを不気味に見つめている。化け物は、恐怖におののくピーターを掴み上げた。

 

 一番巨大な女性の顔――その美しい緑色の目が、ピーターを睨み付け、耳をつんざくような金切声でピーターを責め立てる。助けようと我武者羅に手を伸ばしたイリスは、何者かに首根っこを引っ掴まれ、どこかへ遠いところへ投げ飛ばされるのを感じながら、意識を手放した。

 

 

 イリスは気が付くと、現実世界へ戻っていた。冷たい石の床に倒れ込んだイリスに、苦しみに喘いでいたピーターが、ギラリと憎悪の視線を突き刺す。

 

「き、君は、私の心に、入り込んだな!」

 

 ずっと誰にも言わずに秘めていた、自分の心の内を勝手に覗き込まれたことで、怒り狂ったピーターは泡を飛ばしながらそう怒鳴ると、イリスに馬乗りになり、憎しみに任せてその細い首を絞めた。イリスはたちまち、意識が遠のいていった。おぼろげに霞んだ視界の中で、眼前に輝くステンドグラスを突き破り、熊のように大きな黒犬が侵入し、ピーターに襲い掛かったのが見えた。

 

 

 傷だらけで息も絶え絶えとなったクルックシャンクスが隠れ家にたどり着き、イリスの危機を伝えた時、シリウスは風のような速さで森を駆け抜け、中庭を飛び越し、件の場所までやって来た。

 

 そしてシリウスがステンドグラス越しに目にしたのは――ぐったりとしたイリスに馬乗りになり、その首を締める、宿敵・ピーターの姿だった。シリウスの全ての感情が爆発した。何も考えず、衝動に任せてステンドグラスを突き破る。突然の侵入者に驚いて、目を丸くしたピーターは、すぐさまイリスを突き飛ばし、ネズミに変身した。

 

 恐ろしい唸り声を上げ、シリウスはピーターに襲い掛かった。ピーターは寸でのところで逃げおおせ、ひび割れた壁の隙間に、スルンと入り込んだ。

 

 ――それで逃げたつもりか、忌まわしい裏切り者め。たぎる怒りは、シリウス自身を燃やし尽くすほどの激しさで、『殺せ、殺せ!』と狂ったように彼を急き立てた。ここにはイリスの杖も、”忍びの地図”もある。どんな手段を使ってでも、今すぐあいつを目の前に引き摺り出し、そして殺してやる。

 

 シリウスが本能に従って、今まさに人間の姿に戻ろうとしたその時――

 

 ――か細い呼吸音が、シリウスの耳をくすぐった。その音のした方向を睨み付けた瞬間、シリウスの中で膨れ上がった憎悪の感情が、急速に静まっていった。

 

 イリスの汗と涙で、ぐしゃぐしゃに汚れた顔の下には、嘔吐物が広がっていた。滅茶苦茶に暴れたのだろう、衣服は乱れ切っている。スカートの下には、恐らく失禁してしまったのか、黒い水溜りが広がっている。――シリウスには、一目で分かった。彼女は、ピーターに”磔の呪文”を受けたのだと。”死喰い人”共が好んで使った、拷問の呪いだ。かつてシリウスは何度も、この呪いを受けてこんな痛々しい姿になった仲間たちを見ている。

 

 『イリス!』と叫んだ声は、犬の鳴き声に変換された。――ああ、なんて小さく華奢な身体だ。こんな小さな女の子に、自分は助けを求め、縋っていたのか!シリウスの心の中を、凄まじい罪悪感が支配した。かつての忌まわしい罪の記憶、ジェームズとリリーの亡骸の姿が、イリスの弱り切った姿と重なった。

 

 ――今までの自分は、どうかしていた。こんな事態になることなど、想定出来ていただろうに。怒りと憎しみに任せて、この子を巻き込み、傷つけてしまった。ああ、自分のせいだ。シリウスは、駆け出した。

 

 

 スネイプは夜間の見回りをしている最中、フリットウィック先生に声をかけられた。小さな姿の後ろに、新しくホグズミード村で仕入れたのだろう、美しく輝くクリスマスオーナメントをふわふわと浮かせている。

 

「こんばんは、セブルス。よろしければ、見回りの交代の前に、中庭の飾り付けを手伝ってもらっても?」

「構いませんとも」

 

 二人が連れ立って中庭へ向かおうとすると――、不意に目の前の廊下を、()()()塞いだ。

 

「あれは何だ?」フリットウィック先生が、キーキー声で叫ぶ。

 

 スネイプは目を凝らした。細々とした月と雪明かりに照らされ、大きな黒犬の姿が浮き上がった。犬は身じろぎもせず、じっと二人を見つめている。そして、二人が自分を視認したことを理解した瞬間、身をひるがえして、次の角を曲がった。

 

「こら、待ちなさい!全く、またハグリッドの動物が逃げ出したのか?」

 

 二人が揃って角を曲がると、さっきの犬が廊下の先で待っていた。――まるで、何かの道案内をするかのように。しかし、今度はさっきよりずっと距離は近い。フリットウィック先生が杖に大きな灯りを点すと、その犬の姿がよく見えた。大きな犬だ。妙に凄味のある、冷たい灰色の瞳をしている。その目を見た時、スネイプの記憶の奥底が、ちくりと痛んだ。

 

 ――忌まわしいあの四人組。憎んでも憎み切れないあの男の隣にいて、いつも笑いながら嫌がらせの数々を仕掛けて来た、あいつ。そう言えば、かつて自分が奴らを懲らしめようとこっそり後を付けた時、奇妙な姿をしていたことが、しばしばあった。ジェームズ・ポッターは頭に鹿の角が生やし、シリウス・ブラックは狼のような黒い耳と尻尾が生え、その様子をピーターとリーマスが笑って見ていた。あの時は、また下らないことをしていると気にも留めなかったが――冷たい灰色の目、狼のような耳と尻尾、まさか、あれは――。

 

「シリウス・ブラック・・・」

 

 記憶の底から湧き上がった、忌々しいその名前が意図せずしてスネイプの口から出たその時、犬はぴくりと身を震わせ、また駆け出した。

 

「待てっ!」

 

 ――その瞬間、スネイプの心を憎悪の感情が支配した。追い縋るフリットウィック先生の言葉など、もう彼の耳には届かない。目の前の犬に焦点を合わせ、”切り裂き呪文”を唱える。光線は狙い違わず命中し、犬の腹部を大きく切り裂き、夥しい量の血が噴き出した。

 

 やがて犬は、よろめきながら立ち止まった。壊れたステンドグラスの穴から吹き込んだ雪が、その傍で倒れ伏した一人の少女を包んでいる。――犬は少女を見て、スネイプを見た。そして穴から飛び出し、白銀の雪景色に、痛々しい血の跡を点々と残しながら、外の世界へ走り去った。

 

 スネイプは、犬の視線に誘われるように少女の姿を視界に入れた後、思わず絶句した。――イリス・ゴーントだ。近づけば近づくほど、彼女がひどい暴行を受けていたことが分かった。”磔の呪文”だ。しかも、一度や二度ではない。何度も受けている。

 

「ゴーント!」

 

 スネイプは形振り構わず、イリスを抱きかかえた。彼女はそれに応えるように、透明な胃液を少し吐いたあと、ピタリと呼吸を止めた。スネイプの脳裏に、かつての辛く苦しい思い出が蘇る。彼は、自分でも気づかないほど無意識の内に、かつての幼馴染とイリスとを重ねていた。――あいつは、()()だけでなく、この子まで奪うつもりなのか。

 

「セブルス、一体・・・ああ、ミス・ゴーント!なんということだ!」

 

 やがてフリットウィック先生が追いつき、スネイプの抱えているものに気づくと、甲高い悲鳴を上げる。

 

「フィリウス、すぐにポンフリーに知らせを。この子は、シリウス・ブラックに暴行を受けた」




ピーター好き過ぎて、気合い入れて書きまくったら、25000字超えてしまった…。
よし、あと二話で終わらせる!祈ろう、なにとぞ上手くいきますように。

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