ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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Act7.企む動物たち

 「闇の魔術に対する防衛術」の教室にやって来た時には、ルーピン先生はまだ来ていなかった。四人が席に着き、教科書と筆記用具類を取り出して、あれこれとお喋りをしていると、やっと先生が教室に入ってきた。ルーピンは曖昧に微笑み、くたびれた古いカバンを先生用の机に置いた。

 

「やあ、みんな」ルーピンが挨拶した。

「教科書はカバンに戻してもらおうかな。今日は実地練習をすることにしよう。杖だけあればいいよ」

 

 素直に教科書をカバンに仕舞うイリスとロンとは対照的に、ハリーとハーマイオニーは怪訝そうに互いの顔を見合わせた。今まで「闇の魔術に対する防衛術」で実地訓練など受けたことがない。ただし、昨年度の担当だったロックハート先生が、ピクシー妖精をひと籠持ち込んでクラスに解き放し――そして生徒達を置いて一人逃げ出した事件を、一回と数えるなら別だが。

 

「よし、それじゃ。私についておいで」

 

 ルーピンは生徒達の準備が出来ると声を掛け、ゆっくりと立ち上がった。みんな好奇心溢れる表情を浮かべ、彼のあとに続いていく。向かった先は職員室だった。その道中で一行は、悪戯ゴーストのピーブスが、掃除用具入れのドアの鍵穴にチューイングガムを詰め込んでいる現場に遭遇した。するとルーピンは見事な”逆詰め呪文”でピーブスの鼻の穴にチューイングガムを逆詰めし、撃退してしまったのだ。その鮮やかな手並みに感動したグリフィンドール生達は、ルーピンに対する好感度を爆上げした。

 

 みんなが冴えないルーピン先生を尊敬の眼差しで――昨年のロックハート先生の時とは大違いだ――見つめていた。しかしルーピンの快進撃はそこで終わらなかった。図らずも再び、彼の好感度を引き上げる出来事が、職員室の中でもう一つあったのである。

 

「さあ、お入り」

 

 ルーピンは職員室にたどり着くと、ドアを開け、生徒達を先に入れるために一歩下がった。職員室は板壁の奥の狭い部屋で、ちぐはぐな古い椅子がたくさん置いてあった。がらんとした部屋には、たった一人の先生がいるだけだった。――スネイプ先生だ。

 

 スネイプは肘掛け椅子に座ったまま、生徒達が列を成して入って来るのをジロリと見回した。淀んだ色の目を不穏にギラつかせ、口元には意地悪なせせら笑いを浮かべている。――ちなみにスネイプと視線が合った時、イリスはおずおずと挨拶をしたが完全に無視された。ルーピンが最後に入ってドアを閉めると、スネイプが口を開いた。

 

「ああ、開けておいてくれ。我輩、出来れば見たくないのでね」

 

 スネイプは悠々とした所作で立ち上がり、黒いマントを翻して大股にみんなの脇を通り過ぎていった。そしてドアのところでくるりと振り返り、捨て台詞を吐いた。

 

「ルーピン、たぶん誰も君に忠告していないと思うが、このクラスにはネビル・ロングボトムがいる。この子には決して難しい課題を与えないようにご忠告申し上げておこう。ミス・ゴーントが自分の知識をひけらかしたいが為に、こそこそ指図を与えるなら別だがね」

 

 ソルジャー・スネイプによる唐突な爆撃を喰らったネビルとイリスは、たちまち顔を真っ赤に染め上げ、揃って俯いてしまった。ハーマイオニーは両手で口を押え、ハリーとロンはスネイプを憎々しげに睨み付ける。他のグリフィンドール生の反応も同じようなものだった。スネイプが自分のクラスでいじめをしているのは有名な話だが、他の先生の前でもいじめを強行するなんてとんでもない!と、みんな考えているのだ。

 

 するとルーピンは眉根をキュッと吊り上げ、はっきりとこう言った。

 

「僕にはそうは見えない。今回の授業では、ネビルに僕のアシスタントを務めてもらいたいと思っています。彼はきっと上手くやるだろう。・・・それに、君の”可愛い教え子(・・・・・・)”の成長をそんな風に言ってはいけないよ」

 

 すでに熟したトマトのような色になっていた二人の顔は、違う意味でもっと赤くなった。――”可愛い教え子”――この言葉がイリスの脳内で、何度も何度もリフレインした。もしかして先生もそう思ってくれているのかな。イリスはそんな期待を込めてチラッとスネイプを見たが、怒り狂った目にギラギラと睨み返されてしまったので、慌てて顔を俯けた。

 

 ルーピンの毅然とした態度に、ハリー達はみんな息を飲み、ますます彼を尊敬の眼差しで見つめた。スネイプは憎々しげにルーピンを睨んでいたが、そのままバタンとドアを閉め、出て行った。

 

「ねえ、”可愛い教え子”だって!」イリスは嬉しそうに声を弾ませ、ハリーに囁いた。

「スネイプ先生が否定しなかったってことは、先生もそう思ってくださってるってことかな?」

 

 その時、ハリーだけでなく、たまたま近くにいたロンとネビルも、初めてディメンターを見た時のような顔をイリスに向けた。

 

「君、気が狂ってるよ!!」

 

 そして三人は同時にそう叫んだ。イリスはしゅんとなって肩を竦めた。

 

「さあ、それじゃ」

 

 場の興奮が鎮まってから、ルーピンは部屋の奥まで来るようにと、みんなに合図した。奥には、先生方が着替え用のローブを入れる古い洋箪笥がポツンと置かれている。ルーピンがその脇に立つと、箪笥が急にわなわなと揺れ、バーンと轟音を立ててジャンプした。イリスだけでなく、何人かも驚いて飛びのいたが、ルーピンは静かに言った。

 

「心配しなくていい。中にまね妖怪――ボガートが入ってるんだ」

 

 それからルーピンは、ボガートは生来暗くて狭い場所を棲家として好む事と、このボガートは昨日の午後に偶然入り込んだもので、今回の授業に使用したいため、許可を取った上で放置していた事を告げた。

 

「それでは最初の問題ですが、まね妖怪のボガートとは何でしょう?」

 

 その言葉に、みんなが一斉にハーマイオニーを見た。こういう知識の問題にかけては、彼女が一番優秀だと知っていたのだ。みんなの期待を込めた眼差しを誇らしげに受け止め、ハーマイオニーは手を挙げてすらすらと答えた。

 

「形態模写妖怪です。私達が一番怖いと思うのはこれだと判断すると、それに姿を変えることが出来ます」

「素晴らしい。私でもそんなに上手くは説明できなかっただろう」

 

 ルーピンは心を込めてハーマイオニーを褒めた。イリスが小さく拍手を送ると、ハーマイオニーはポッと頬を染め、にっこり微笑んだ。

 

 次いでルーピンは、時に質問を挟みながら、ボガートを退治する方法を説明した。先生曰く、方法は二つある。一つは、複数の人間と一緒にいる事で、怖いと思うものをミックスさせ、妖怪を混乱させる方法。二つ目は、簡単な呪文を使用し、妖怪に怖いどころか滑稽だと思える格好をさせ、その姿を笑い飛ばす事で撃退する方法だ。

 

「リディクラス、馬鹿馬鹿しい!」

 

 ルーピンの詠唱に続いて、生徒達が一斉に呪文を唱えると、彼は満足気に頷いた。

 

「そう、とっても上手だ。でも呪文だけでは十分じゃないんだよ。そこでネビル、君の出番だ」

 

 いきなり名指しで呼ばれたネビルは、いまや洋箪笥よりもガタガタ震えていた。ルーピンはそんな彼を落ち着かせるように優しく微笑むと、彼にとって一番怖いものとは何かを尋ねた。ネビルは少しまごついた後、消え入りそうな声で答えた。

 

「・・・スネイプ先生」

 

 ほとんど全員が笑った。しかしルーピンは真面目な表情をしたまま、今度はネビルの祖母の服装について問いかけた。可笑しな質問だと言わんばかりに首を傾げながらも、ネビルは服装の特徴を丁寧に説明する。ルーピンは満足気に頷くと、ネビルに朗らかな口調でこう言った。

 

「よし、それじゃ。ネビル、君の場合だとこういう流れになる。

 ボガートが洋箪笥からウワーッと出て来るね。そうして、君を見るね。そうすると、スネイプ先生の姿に変身するんだ。そしたら君は杖を上げて、呪文を叫ぶんだ。そして、君のお祖母さんの服装に精神を集中させる。・・・全てが上手くいけば、ボガート・スネイプ先生はてっぺんにハゲタカのついた帽子を被り、緑のドレスを着て、赤いハンドバッグを持った姿になってしまう」

 

 全員が大爆笑した。洋箪笥が抗議するように一段と激しく揺れた。

 

「ネビルが首尾よくやっつけたら、その後、ボガートは次々に君達に向かってくるだろう。みんな、ちょっと考えてくれるかい。何が一番怖いかって。そしてその姿をどうやったら可笑しな姿に変えられるか、想像してみて・・・」

 

 部屋がしんと静まり返った。――イリスは考えた。この世で一番恐ろしいもの。トム・リドルの姿がパッと思い浮かんだ。ハンサムなスリザリンの模範生、その実態は最も恐ろしい闇の魔法使い――彼を可笑しな姿に変える?じわじわと足元から冷たい恐怖の感情が染み出して来て、イリスは必死にネビルの祖母の服装をイメージした。てっぺんにハゲタカのついた帽子、緑のドレス、赤の――

 

『これで終わったと思うのかい?』

 

 しかしそれを遮るかのように、プラットフォームで聞いた”リドルの幻聴”が木霊する。怒りに燃え滾るあの赤い双眸、美しく冷徹な声、嫌だと泣き叫んでも圧倒的な力でねじ伏せられ、逃げ出そうとしても無理矢理引き戻され、全てを蹂躙し焼き尽くされた、あの絶望感――。イリスは大きく身震いした。たった一年足らずのあの経験は、彼女の心に深い傷跡を残していた。

 

「みんな、いいかい?じゃあ、始めようか。ネビル」

 

 ルーピンの言葉で、イリスはふっと我に返った。そして突然、恐怖に襲われた。――まだ心の準備が出来ていない。本当にリドルが出てきたらどうしよう。しかし、これ以上待ってとは言えなかった。なにしろ、みんながこっくり頷き、勇んで腕まくりをしていたからだ。

 

 ルーピンはネビルに合図を送った後、杖を振るって洋箪笥を開けた。扉は勢い良く開いて、スネイプそっくりに変身したボガートが、ネビルを憎々しげに睨み付けながら現れた。ネビルは杖を上げたものの、恐怖に顔を歪ませ、口をパクパクさせながら後ずさりしてしまった。生徒達から不安そうな声が上がる。ボガート・スネイプは、ローブの懐に手を突っ込みながら、ネビルに迫った。

 

「り、リディクラス、馬鹿馬鹿しい!」ネビルは上擦った声で呪文を唱えた。

 

 パチンと鞭を鳴らすような音がして、スネイプが躓いた。それがやっと体勢を取り戻した時、服装は劇的に変わっていた。いつもの漆黒のローブではなく、長いレースで縁取りした緑色のドレスを着ている。見上げる様に高い帽子のてっぺんに虫食いのあるハゲタカをつけ、手には巨大な真紅のハンドバックをゆらゆらぶら下げている。

 

 ――その恰好の可笑しなことといったら!イリスの恐怖心は木っ端みじんに砕け散った。そしてみんなと一緒に大声で笑った。ボガート・スネイプは途方に暮れたように立ち止まる。ルーピンは大声でパーバティを呼んだ。

 

 パーバティの前で、スネイプはパチンと音を立て、血に塗れた包帯のミイラに姿を変えた。しかし彼女が「リディクラス!」と叫んだ瞬間、包帯が少しばかりハラリと解けてミイラの足元に落ちた。それに絡まって、ミイラは頭からつんのめり、床の上でジタバタもがいた。

 

 ルーピンは生徒がボガートを退治する度に、次の生徒を呼んだ。シェーマスは泣き妖怪バンシーの声をガラガラに枯らし、ディーンは切断された手首をネズミ捕りに挟ませた。

 

 ボガートは混乱してきたのか、誰も目の前にいないのに、次々と姿を変え始めている。辺り一面、生徒達の熱気と歓声で満たされている。イリスも段々自信がついてきた。みんな順調に出来ているじゃないか。きっと私だって上手くやれる。リドルに、ネビルのお祖母さんの服装を着せるんだ。そして思いっきり笑うんだ。イリスは何度もそう自分に言い聞かせた。

 

「混乱してきたぞ!」ルーピンが叫んだ。

「ロン、次だ!」

 

 ロンの目の前で、ボガートは二メートル近い毛むくじゃらの大蜘蛛に姿を変えた。何人かの生徒が悲鳴を上げる。おどろおどろしく鋏をガチャつかせ、向かってくる大蜘蛛に杖を突きつけ、ロンは轟くような声で「リディクラス!」と叫んだ。

 

 蜘蛛の足が消え、丸っこくなった胴体だけが、ゴロゴロと転がり出した。ロンが可笑しそうに笑った。ラベンダーが金切声を上げて、スパイダー・ボールを避ける。ボールは緩やかな弧を描いて――やがてイリスの目の前で急停止した。イリスに迷いはなかった。

 

 ボガートはパチンと音を立て、そして――――一人の男子生徒の姿に変身し、床にうつ伏せに倒れた。

 

 ――イリスは言葉もなく、立ち尽くした。カラン、と彼女の杖が床に転がる音が、生徒達の怪訝そうなざわめきに溶けていく。うつ伏せでも分かる。冷たい銀色の髪、スリザリン生である事を示すローブの縁取りの色。それは紛れもなく――ドラコ・マルフォイの亡骸だった。

 

「ねえ、あれってマルフォイじゃない?」ラベンダーがパーバティに囁いた。

「あいつってマルフォイが怖いのか?」ディーンが首を傾げた。

「イリス、気をしっかり持つんだ!そいつは幻だ!」

 

 ルーピンの声が、どこか遠くで聴こえた。イリスは恐怖で凍り付いた意識を、必死に解かそうと努力した。可笑しな姿にしなきゃ。笑えるような姿に・・・。

 

 しかしイリスの視界はたちまちぼやけ、熱い涙が幾筋も零れ落ちていく。いや、そんな事出来ない。だってこの姿をどう変えて、笑えるっていうんだ?何をしたって変わらない。彼が死んだら、私の世界は・・・。

 

「こっちだ!」

 

 不意に目の前がクシャクシャの黒髪で覆い尽くされ、ハリーの大声が轟いた。――ハリーがイリスを庇い、前に立って、ボガートの注意を引きつけている。ボガートはすぐにハリーの一番怖いものを認識した。ドラコのローブがますます大きく広がり、裾はボロボロになり、大きなフードが頭をすっぽり覆った。そしてそれは、ゆっくりと立ち上がりかけた。

 

 その時、ルーピンがハリーを押しのけるようにして、さらに前へ出た。ボガートはバチンと音を立て、銀白色の玉になって空中にふわふわと浮かび始める。ルーピンはほとんど面倒臭そうに「リディクラス!」と唱えた。ボガートがまたもや混乱し、ゴキブリに変身して床にボトッと落ちたところで、ルーピンが叫んだ。

 

「ネビル、前へ!やっつけるんだ!」

 

 ネビルは今度は決然とした表情でぐいと前に出て、「リディクラス!」と叫んだ。ほんの一瞬、レース飾りのドレスを着たスネイプの姿が見えたが、ネビルが大声で笑うと、ボガートは破裂し、何千という細い煙の筋になって消え去った。

 

「よくやった!」全員が拍手する中、ルーピンが大きな声を出した。

「ネビル、よくできた。みんな、よくやった。そうだな、ボガートを退治したグリフィンドール生一人につき五点やろう。ネビルは十点だ。二回やったからね。ハーマイオニーとハリーも五点ずつだ」

「でも、僕、何もしていません」ハリーが訝しげに言った。

「イリスを庇ってあげただろう?」ルーピンはさりげなく返した。

 

 やがて終業のチャイムが鳴り、授業終了となった。みんな興奮した様子でペチャクチャ喋りながら職員室を出る。ロンとハーマイオニーは、互いにルーピンの事を褒め合っていた。――しかしハリーは心が弾まなかった。ルーピン先生は、自分がボガートと対決するのを意図的に止めた。どうしてなんだ?ハリーは自分が勇敢である事を知っていたし、他の生徒達と同じように敵をやっつけたいと思っていた。もしかして先生は、また僕が気絶すると思ったのか?物思いに沈むハリーの肩を、イリスがポンと叩いた。

 

「ありがとう、ハリー。助けてくれて」

 

 ハリーはぎこちなく微笑んで、イリスの頭を撫でた。――イリスを目の前にしたボガートは、”マルフォイの死体”に変身した。彼女にとって一番恐ろしいものは、マルフォイの死なんだ。イリスはあいつを愛している。もしあれが”自分の死体”だったなら――ハリーは一人想いを馳せた。そんなことを考えるなんて、それこそとっても馬鹿馬鹿しい(・・・・・・)事だけど――もしそうだったなら、どれほど幸福だっただろう。僕はこんなに君を愛しているのに。

 

 イリスの髪から、ふわりと百合の香りが漂う。いつも大好きなその香りが、今だけは、ほろ苦く感じられた。

 

 

 「闇の魔術に対する防衛術」は、たちまちほとんど全生徒の一番人気の授業になった。ドラコとその取り巻き連中のスリザリン生だけが、ルーピンの粗探しをした。

 

「あのローブを見ろよ!」

 

 大広間での昼食中、スリザリンのテーブルの脇をルーピンが通ると、ドラコは――グリフィンドールのテーブルにいるイリスにも聞こえるほど――大きな声で嘲笑った。

 

「僕の家の屋敷しもべ妖精の格好じゃないか!」

「”小物ほど大きな声で吠える”とはこの事だな」

 

 ドラコの暴言に落ち込むイリスの肩をポンと叩き、フレッドが明るく言った。

 

「あいつのボガート、何に変身したと思う?・・・こわ~いディメンターさ!そしたら、やっこさん小便チビッて、ルーピンの足元でブルブル震えてたみたいだぜ」ジョージがゲラゲラ笑った。

 

 イリスは辛うじて笑ってみせ、鬱屈した気持ちを発散させるように、焼き立てのブラックベリーパイを四切れも食べた。

 

 

 ルーピンの授業は二回目以降も、最初と同じように面白かった。ボガートのあとはレッドキャップで、次はカッパだ。どれも実地訓練のため、スリルがあり、退治させることで生徒達の自信を付けさせた。

 

 「闇の魔術に対する防衛術」が絶大的な人気を誇る一方で、「魔法薬学」は過去最悪の不人気さを記録していた。スネイプはますます不機嫌となり、みんなの頭(※スリザリン生を除く)を悩ませた。理由ははっきりしていた。ボガートがスネイプの姿になった、ネビルがそれにおばあちゃんの服をこんな風に着せた、という話がホグワーツ中に、野火のように広がったからだ。

 

 ルーピンの名前が出ただけで、スネイプの目はギラリと剣呑に光ったし、ハリーとネビルいじめはいっそう酷くなった。イリスも死にゆく覚悟を固めていたが、何とも不気味な事に、待てど暮らせどスネイプは、授業中も補習中でさえも、イリスに対して理不尽な理由で当たる事は全くなかった。

 

 「占い学」は相変わらず意味不明だった。ハリーは教室に入るたびに、トレローニー先生が大袈裟に息を飲み、巨大な目に涙を浮かべて自分を見つめる”お馴染みのリアクション”に心底うんざりしていたし、イリスに至っては何を占っても先生が毎回毎回『敵の手に囚われている』と主張して、ハーマイオニーと目の前で口論を繰り広げるものだから、正直辟易していた。

 

 しかし先生を崇拝に近い敬意で崇める生徒もたくさんいた。パーバティやラベンダーなどは、昼食時に先生の塔に入り浸りになり、みんなが知らない事を知ってるわよ、とばかりに、鼻もちならない得意顔で戻って来る。

 

 「魔法生物飼育学」の授業は、最初のあの大活劇のあと、とてつもなくつまらないものになり、誰も心から楽しむ事は出来なくなった。ハグリッドは完全に自信を失い、レタス食い虫の世話を毎回の授業で教え続けた。文字通りレタスが好物で、ほとんど動かない褐色の太い芋虫だ。しかも引っ切り無しに生徒達が喉に刻みレタスを押し込み続けるものだから、レタス食い虫たちはみんな『もう満腹だ』という抗議の声を上げ、まるまると太った体を苦しそうにくねらせていた。

 

「ハグリッド。レタス食い虫が、『もうお腹いっぱいだ』って言ってるよ」

 

 たまりかねてイリスがハグリッドに主張すると、ハグリッドは虚ろな声で「そうか」と言うなり、巨大な樽いっぱいに入ったエサ用の刻みレタスを、そのままムシャムシャと食べ始めた。心ここに在らずといった様子だだ。胸が痛くなったイリスはサラダクリームの瓶を呪文で呼び寄せ、クリームをレタスいっぱいに掛けて、少しばかり一緒に食べた。

 

 

 十月になると、俄かにホグワーツ中が活気づき始めた。クィディッチ・シーズンの到来だ。諸々の授業による影響で鬱々とした気分になっていたハリーも、今年こそ大きなクィディッチ銀杯を獲得するためにチーム一丸となり、練習に励み始めた。

 

 ある夜、イリスは談話室で、ロンとハーマイオニーと共に「天文学」の星座図を仕上げていた。二人が、十月末に開催される運びとなった”ホグズミード観光”について楽しげに会話をしている中、イリスはなるべく丁寧に『りゅう(Draco)座』の綴りを書いていた。やがてハリーがクィディッチの練習を終え、満足気な顔で談話室へ戻ってきた。

 

 ハリーは室内が生徒達で賑わい、明るい雰囲気に包まれている事に、疑問を抱いたようだ。イリスの隣にドサッと座ると、ロンに尋ねた。

 

「何かあったの?」

「第一回目のホグズミード週末さ」

 

 ロンはくたびれた古い掲示板に張り出された「お知らせ」を指差した。そこには『十月末、つまりハロウィーンの日に、ホグズミードへ訪れる事が許可される』と明記してある。ハリーの表情がみるみるうちに沈んでいくのを見兼ね、ハーマイオニーが彼の膝にポンと手を置きながら、言った。

 

「ハリー、この次にはきっと行けるわ。ブラックはすぐに捕まるに決まってる」

「いーや、次なんて永遠に来ないね!マクゴナガルに聞けよ。今度行っていいかってさ」ロンが被せる様に言い放った。

 

 無言で睨み合うハーマイオニーとロンをおろおろと見守っているイリスを見ているうちに、ハリーの覚悟は決まった。

 

「ウン、やってみる」ハリーの言葉に迷いはなかった。

 

 反論するためにハーマイオニーが口を開けたその時、クルックシャンクスが軽やかに彼女の膝に飛び乗って来た。大きな蜘蛛の死骸をくわえている。

 

「わざわざ僕らの目の前でそれを食うわけ?」ロンが眉をしかめた。

≪ああ。だってお前、蜘蛛が嫌いなんだろ?≫

 

 クルックシャンクスはとても楽しそうにそう言うと、小馬鹿にしたようにロンを見据えたまま、大きく口を開け、蜘蛛が咀嚼されていく様子を見せつけた。――ロンとクルックシャンクスがお互いを見る目は、はっきりと『お前なんか大っ嫌いだ!』と言っている。イリスは胃がキリキリと痛んだ。少しでも場の雰囲気を良くするために、クルックシャンクスがゴクンと蜘蛛を飲み込んだのを確認してから、イリスは屈託なく話しかけた。

 

「久しぶりだね、クルックシャンクス。元気にしてた?」

 

 ――本当にクルックシャンクスとこんな風に、腰を落ち着けて話すのは久しぶりだ。イリスはオレンジ色のふわふわした尻尾を撫でながら、そう思った。

 

 それというのも新学期が始まって以来、クルックシャンクスの姿がほとんど見えなかったからだ。しかし、いつもイリス達が眠りにつく頃にベッドに戻って来て、イリスかハーマイオニーどちらかの傍で丸まって眠り、朝にはまたどこかへ消えていた。そしてハーマイオニーが寂しがって呼ぶと、どこからともなく姿を現す。彼はとても賢い猫だった。

 

≪おれは元気だよ、イリス。それよりも、お前に頼みたいことがある≫

「何?」

 

 クルックシャンクスは不意に黄色い目を細め、イリスの椅子の肘掛けにトンと飛び乗った。そして、他の三人がフレッドとジョージと一緒になって、ホグズミードの事について話し合っているのを確認してから、口を開いた。

 

≪お前に会ってほしいやつがいるんだ≫

「会ってほしいやつ?」

 

 イリスは首を傾げた。――イリスは気付かなかった。何時の間にか、ロンの内ポケットからスキャバーズが抜け出て、二人の会話に聞き耳を立てている事を。しかしクルックシャンクスはそれを知っていて、わざとスキャバーズの耳にも入るように、大きく鳴いた。

 

≪そして、そいつに力を貸してほしい≫

「私、力なんてないよ」イリスは慌ててかぶりを振った。

≪おれはお前を信じているし、評価してる。だからこそ、頼みたいんだ≫

「どうして私を信じてくれてるの?」

≪お前の頭が、動物みたいに単純で曇りがないからだ。普通の人間の頭はゴチャゴチャした雑念で溢れてて、周りの汚れた空気に簡単に染まっていく。だから隠された本当の感情や、真実に気づかない。・・・でもお前は違う。お前の澄んだ眼は、真実を見通せると信じている≫

 

 それは、一見巧妙に隠された”悪の存在”をすぐさま見抜く事の出来る、稀有な能力を持つクルックシャンクスだからこそ言える事だった。イリスは言葉の意味を暫く考えた後、少しばかり頬を膨らませながら言い返した。

 

「・・・それって褒められてる?」

≪ああ、褒めてる。おれなりに≫クルックシャンクスはきっぱりと言い切り、さりげない調子で言葉を続けた。

≪それから、あのネズミの正体もわかった。あいつは・・・≫

「ギイイイイイッ!!!」

 

 その時、突如として金属を引っ掻いたような、耳障りな音が響き渡り、イリスは驚いて悲鳴を上げた。――スキャバーズが凄まじい鳴き声を上げながら、ロンの肩から大ジャンプを決行し、クルックシャンクスに襲い掛かったのだ。

 

 クルックシャンクスが素早く前足でスキャバーズを払いのけると、スキャバーズはべシャッと床に落ち、ロンの下へと一目散に駆け戻って行った。あわやスキャバーズが、追いついたクルックシャンクスに食われる寸前――ロンがカバンを無茶苦茶に振り回し、愛するネズミを魔猫の手から救い出した。

 

≪今ので確信がいったよ!≫クルックシャンクスが嘲笑った。

「この猫を引っ掴まえろ!」ロンが怒りで顔を真っ赤にして叫んだ。

 

 この一連の騒ぎに、今やロンだけでなく、ハリーとハーマイオニーも立ち上がっていた。他のグリフィンドール生達も、ちらほらと興味深げな視線を向けている。ハーマイオニーは眉をしかめて言い返した。

 

「今回はスキャバーズが悪いわよ。だって、クルックシャンクスに襲い掛かってたじゃない!」

「こいつは頭がおかしくなっちまったんだ!可哀想に!君の猫が四六時中、こいつを付け狙ってるからだ!」

 

 ロンはカンカンになって怒鳴り、両手にしっかりと抱き締めた、よれよれのスキャバーズを三人に見せた。

 

「見ろよ!こんなに骨と皮になって、やつれ切ってる!」

「ロン、猫はネズミを追っかけるものなのよ!」ハーマイオニーが、あんまりな言い訳をした。

 

 ――ロンには悪いけれど、今回の件はハーマイオニーの言う通りだ。確かにスキャバーズの方が、クルックシャンクスを襲っていたもの。でもどうしてなんだろう。イリスは顎に手を添え、思案した。

 

 新学期が始まってから、イリスはスキャバーズにも会えていなかった。何しろ、飼い主であるロンにスキャバーズの「ス」でも言おうものなら、親の敵のを見るような目で睨まれてしまうからだ。

 

だから最近のスキャバーズの調子はてんで分からないけれど、さっきはまるで人ならぬネズミが違ったみたいに、凶暴になっていた。もっと穏やかな気質だった筈だ。もしかして本当にスキャバーズの気が――。イリスはそこまで考えて、ふと視線を感じて顔を上げ・・・ゾッとした。

 

 スキャバーズが黒いビーズのような目をギラギラと滾らせ、じっとイリスを見つめていた。

 

 

 ――その夜、イリスは数日振りに”塔の夢”を見た。塔の中の螺旋階段を少しずつ昇っている。中には、あの美しい歌声がずっと木霊している。石造りの外壁には、採光用の窓が等間隔にあって、そこから月や星の光が優しく差し込んで、内部を照らしていた。

 

 もう随分と上の方まで昇ってきたみたいだ。窓から外を覗き込むと、草原がずっと下の方に見えた。

 

 ふと新たな歌声が聴こえて来て、イリスは足を止めた。あの鈴を転がすような女性の声ではなく、たくさんの子供たちが合唱しているような声だ。繰り返し、同じ歌を口ずさんでいる。イリスは単純に興味を惹かれ、声のする方へ足を向けた。

 

 やがて螺旋階段が一旦途切れ、踊り場が現れた。そこで道が二手に別れている。一方は、塔の頂上へ行くための階段が続いている。そしてもう一方はアーチ状に壁をくり抜かれ、くぐると外に出る事が出来そうだった。――歌声は、そこから聴こえていた。イリスはアーチをくぐって、外に出た。

 

 外は広々としたバルコニーになっていて、美しい景色――見上げれば満点の星空、見下ろせば一面の草原が穏やかな夜風に揺れている――を存分に見渡せた。歌は後ろの方から聴こえているようだ。イリスはくるりと振り向いた。

 

 アーチの傍に、大きなイチイの木が生えていた。そこの枝にフクロウ達が止まっていて、みんなで体を揺らして拍子を取りながら、歌をさえずっていた。

 

”もうすぐ、蛇の女王が目覚める

  深い海から太陽が昇る時、女王が目覚める

   仮初めの言葉は永久に枯れ、真の言葉が蘇る

    ああ、幸いあれ!我らが蛇の女王に幸いあれ!”

 

 イリスはイチイの木に近寄って、息を飲んだ。フクロウ達はみな、一羽のフクロウの指揮に従って歌っていた。指揮者のフクロウを、イリスは見た事がある。――マルフォイ家のフクロウ、イカロスだ。夢の中という事もあり、イリスの心に警戒心は無かった。

 

「イカロス、一体何の歌なの?」

 

 イリスが尋ねると、イカロスは一旦歌を中断させ、首をぐるりと回して彼女に目を留めて、厳かな口調で答えた。

 

≪蛇の女王を称える歌さ≫

「蛇の女王って誰?」

 

 イカロスは、イリスの問いに答えなかった。フクロウ達に向き直ると、両翼を指揮棒のように器用に振るって、再び指揮を執り始める。イリスは首を傾げたが、再び階段を昇るため、アーチをくぐろうとした。

 

 すると、ふと右肩にトンと優しい重みを感じ、耳を小さく甘噛みされた。イリスはすぐにそれが誰か分かった。――自分のペットのフクロウ、サクラだ。サクラはイリスの耳元で、静かにこうさえずった。

 

≪イリスちゃん。これ以上、階段を昇っちゃダメ≫

 

 思わずイリスは振り向いて、驚く余りたじろいだ。――サクラの両目は、奇妙な虹色に輝いている。その目を見ているうちに、イリスの意識はゆっくりと霞んでいった。――どこか遠くの方で、イカロスがサクラを罵り、怒っている声が聴こえる――そして、意識はふつりと途絶えた。

 

 

 ハロウィーンの前日まで、ロンとハーマイオニーは仲が悪いままだった。おまけにもう一つ、悪い出来事が起こった。ハリーは”ホグズミード行き”をマクゴナガル先生に掛け合ったものの、結局許可してもらえなかった。

 

 そうして、ハロウィーンの日がやってきた。ハリーはあくまで気丈に振る舞い、玄関ホールまで三人を見送ってくれた。管理人のフィルチがドアのすぐ内側に陣取り、長いリストを手に名前をチェックしていた。それだけでは飽き足らず、一人一人疑わしそうに顔まで覗き込んでいる。イリスが列に並んで順番を待っていると、後ろにいるハーマイオニーが息を飲む声がした。

 

「ゴーント、少し話がある」スネイプの声だ。

 

 ロンがくりくりとした目玉を人類の限界まで見開いて、列を抜け出すイリスとスネイプを凝視している。スネイプはイリスを見下ろすと、出し抜けにこう言った。

 

「吾輩はこれから夕方に掛け、非常に高度な魔法薬を調合する。しかし一人では少々骨が折れる作業だ。良ければ君に、手伝ってもらいたい。あー・・・”可愛い教え子”である君に。

 勿論、君が素晴らしい友人達と共に、ホグズミードでくだらない観光に身を投じたいと言うならば、話は別だがね」

 

 ――それはイリスにとって間違いなく、夢のようなお誘いだった。彼女は感激する余り、ウサギのようにピョンッと高く飛び上がった。尊敬するスネイプ先生が、ついに自分を認めてくれた!おまけに自分の事を”可愛い教え子”だと言ってくれた!今までの苦労が、やっと報われたような気持ちだった。

 

「私、やります!やらせてください、先生!」

 

 イリスは夢中で叫んだ。――まだ見ぬホグズミード村と、ロンとハーマイオニーの姿がチラリと脳裏を掠めたが、スネイプにようやく認められた嬉しさの方が勝った。それにホグズミードは次回もある。こんなチャンス、二度とないもの。イリスは自分を奮い立たせた。二人だって、きっと理解してくれるはずだ。彼女に迷いはなかった。

 

「・・・よかろう。ならば付いてきたまえ」

 

 スネイプは満足気に言うとローブを翻し、研究室に向けて歩き出した。イリスは、ポカンとするばかりのロンとハーマイオニーに事情を説明し、スネイプについて駆け出した。――彼が、邪悪極まりない笑みを浮かべているとも知らずに。


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