ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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※11/3 修正完了しました。特にダンブルドア、スネイプとの会話が納得いかなかったので、念入りに修正しました(;'∀')


Page18.さよなら、ドラコ

 フォークスの広い真紅の翼が闇に放つ、柔らかな金色の光に導かれ、四人はバジリスクの亡骸を乗り越え、薄暗がりに足音を響かせて、トンネルへと戻って来た。背後で石の扉が、静かに閉じられる音がした。パイプの出口のところまで引き返すと、ハリーは屈んで、上に伸びる長く暗いパイプを見上げ、考え込んだ。

 

「どうやって上に登るか、考えてた?」ハリーが聞いた。

≪お嬢さん。通訳を頼めるかな?≫

 

 長い金色の尾羽を振りながら、フォークスがイリスに向けて、親し気に話しかけた。

 

 

 ハリー達はイリスの指示でそれぞれの手を繋ぎ、最後にイリスがフォークスの尾羽に掴まって、無事地上へと帰還した。

 

「さあ、どこに行く?」ロンが言った。

 

 ハリーは返事をする代わりに、指で示した。――フォークスの道案内はまだ終わっていないようだ。四人は、金色の光を放って先導するフォークスに従い、人気のない静まり返った廊下を歩き続けた。――やがて、マクゴナガル先生の部屋の前に出ると、フォークスは旋回して、イリスの肩に留まった。ここが終着点なのだろう。ハリーは一歩進み出て、ノックしようと手を挙げた。けれども一旦その手を留め、振り返ってドラコを見た。

 

「僕は、ここであった事を全部話そうと思う。――でも、君はどうなる?」

 

 ハリーの意図している事を理解した二人は、ドラコを心配そうに窺い見た。――全ての黒幕がルシウスだと判明したら、彼は間違いなくアズカバン行だ。そうしたら、彼の息子であるドラコも無事では済まない。今後の生活を、父親に関する誹謗中傷の中で過ごす事になるだろう。しかし、ドラコは寄り添うイリスを優しい眼差しで見つめながら、静かに言った。

 

「僕はそれで構わない」

 

 ロンはギョッとした目付きでドラコを見て、鳥肌の立った両腕をしきりに摩り始めた。イリスはその時、ドラコの瞳の奥に、何かが輝いているのを見つけ、目を凝らした。――虹だ。七色の輝きが、イリスを誘うようにキラキラと揺れている。見る見るうちにその輝きは強さを増し、彼女の視界全体に広がっていく。やがてイリスは、意識が急速に遠のいていくのを感じた――

 

 

 再び意識を取り戻した時、イリスは巨大な七色の輝きの中にいた。――もっと正確に言えば、七色のトンネルの中を風のような速さで飛んでいた(・・・・・)。冷たい空気がビュンビュンと耳元で唸りを上げる。――ここは何処なんだろう?イリスは狼狽して周囲を見渡すけれど、さっきまで傍にいた筈のハリー達の姿が見当たらない。トンネルの中はイリス一人きりだ。

 

 やがてトンネルは緩やかな放物線を描き、その先には重厚な造りの扉が見えた。イリスは不思議な事に、それを見た事があるような気がした。――このままではぶつかる!イリスはどうする事も出来ず、衝撃に備えて目をギュッと閉じた――近づくにつれ、誰かの怒鳴り声が聞こえてくる――誰の声だろう、この声も聞き覚えがある――

 

 覚悟していた衝撃は来ず、その代わりにイリスは、冷たい床の上に放り出された。強打した全身を摩り、目を白黒させながら、よろよろと起き上がる。

 

「情に絆されたか!ダンブルドアの犬になるなど!」

 

 不意に大声がすぐ近くで聞こえ、イリスは思わず飛び上がった。そして目の当たりにした光景に、目を疑った。

 

 ――そこは、かつてイリスが何度も使用したマルフォイ家のサロン室だ。先程の扉は、サロン室の扉だったのだ。道理で見覚えがある筈だ。――いつの間にマルフォイ家に?イリスが声も出せずに混乱していると、目の前に立っているルシウスが激昂した様子で、立ち竦むドラコの頬を張り飛ばした。

 

「やめて!」

 

 イリスは何も考えず、ルシウスに体当たりしてドラコを助けようとした。しかし、彼女はルシウスの体をゴーストのように擦り抜け、触れる事すら出来ない。イリスは唖然として、改めて周囲を見渡した。ドラコもルシウスも、二人の様子を怯えた表情で見守るナルシッサも、突然の侵入者であるイリスを気に留めないどころか、その存在すら気づいていないようだ。

 

「?」

 

 ――何が何だか分からない。イリスは一先ず現状を整理するため、三人の様子を注意深く見て、驚愕した。ドラコの背は随分と伸び、顔立ちも成長している。ルシウスやナルシッサの顔には老いの影が滲み、髪には白いものが混じり始めていた。――イリスはふと、”リドルの記憶”を見た時の事を思い出した。あの時の状況と似ている。だとしたらこれは――イリスはごくりと唾を飲み込んだ――マルフォイ家の未来の映像(・・・・・)なのだろうか?

 

 ドラコの足元には、見慣れない黒く煤けたゴブレットが転がっている。ルシウスはそれを蒼白な表情で睨み、食い縛った歯の間から唸り声を上げた。

 

「自分が何をしでかしたか、分かっているのか!」

 

 不意にサロン室の扉が荒々しく開かれ、ルシウスは恐怖で引き攣った声を上げた。ナルシッサが震える両手で口を覆い、へなへなと床に崩れ落ちる。

 

 ――イリスは、扉の前に立つ人物から、目を離す事が出来なかった。黒いローブに身を包んだ背はすらりと高く、肌は不気味な程に青白い。鼻は切り込みを入れたように潰れ、瞳は赤く、切り裂いたように細い。その容貌はまるで、蛇をそのまま人間にしたかのようだった。

 

 何より目立っているのは、その赤い瞳。それは、つい最近まで彼女が何度となく恐れ、苦しめられた魔法使いが持っていたものと同じだ。――イリスは直感で理解した。容貌こそかけ離れているけれど、間違いなく彼はリドル――未来のヴォルデモート卿なのだと。ヴォルデモートはドラコの傍に転がったゴブレットにチラリと視線を投げかけ、サロン室へ一歩踏み込んだ。

 

「ああ、我が君!どうかご慈悲を!どうか・・・」

 

 ルシウスはヴォルデモートの足元に身を投げ出して、弱々しく息子の命乞いをした。

 

「ルシウス、俺様は失望した。裏切り者の盗っ人め。親子共々、その死をもって償うがよい」

 

 ルシウスはヴォルデモートの放った呪文で縛り上げられ、声を出す事も出来ず、床に無様に転がった。ナルシッサが金切声を上げてドラコの前に立とうとするが、同じように縛り上げられ、崩れ落ちる。死を目前にしたドラコは、今にも倒れそうな程にガタガタと震えていた。しかし彼の瞳だけは、真っ直ぐにヴォルデモートを睨み付けている。

 

「アバダ・ケタブラ、息絶えよ!」

 

 そしてヴォルデモートの杖から、恐ろしい輝きを持つ緑色の閃光が、ドラコに向けて放たれた。イリスは無我夢中で駆け出し、両手を広げてドラコの前に立った。しかし、緑の光線はイリスの胸の辺りを無情に突き抜けていく。――振り返るイリスの目と、命の灯が消えゆくドラコの目が交錯した。ナルシッサが金切声で叫ぶ――ヴォルデモートが甲高い声で笑う――ルシウスの顔から全ての感情が拭い去られていく――

 

 

「イリス!どうしたんだ、しっかりしろ!」

 

 ドラコに力いっぱい揺さぶられ、イリスは現実へと戻った。どうやら気を失っていたらしい。何時の間にか床にしゃがみ込んでいたイリスを抱き竦めたドラコが、心配そうに顔を覗き込んでいる。彼の頭の上から、ハリーとロンもイリスを気遣わしげに眺めていた。

 

 イリスは何度も目を瞬いて、ドラコをじっと見つめた。――ちゃんと息をしている。生きている。それが嬉しくてたまらなくて、イリスはドラコにギュッとしがみ付いた。

 

「何も不安に思う事はない。君は僕が守る」

 

 ドラコは嬉しそうに声を弾ませ、イリスを強く抱き締めた。――夢だ。悪夢を見たのに違いない。イリスは自分にそう言い聞かせた。けれど、彼女に警鐘を鳴らすかのように、かつてのイオの言葉が、不意に耳元で木霊する。

 

『お前のお母さんは出雲家の中でも、とりわけ力の強い魔女だったんだ。動物以外のもの――植物や物とも話ができたり、時と会話して過去や未来を見通す事ができた』

 

 そうだ。今年、自分は植物――マンドレイク――とも会話が出来たじゃないか。私の力は強くなっている。もしそうなら、あれは”時と会話して見た未来”なのでは?そして、もしそうだとしたら――。イリスは残酷な真実に打ちのめされた。――近い将来、ドラコは死んでしまうんだ。”私の味方になったために”。

 

「大丈夫、大丈夫だよ」

 

 暫くの沈黙の後、イリスはみんなを安心させるために、微かに微笑んで見せ、ドラコに支えられながら立ち上がった。ハリーが扉をノックし、押し開いた。

 

 

 暖炉の傍には、ダンブルドア先生とマクゴナガル先生が立っていた。ダンブルドアは穏やかな顔で四人を見つめ、マクゴナガル先生は胸に手を当てて深呼吸をし、落ち着こうとしていた。

 

「一体全体、あなた方はどうやって・・・」

 

 ハリーはテーブルへ向かい、その上に組分け帽子とルビーの散りばめられた剣、リドルの日記の残骸を置いた。そしてハリーは、他の三人に代わって一部始終を語り始めた。――十五分も話しただろうか。先生方は魅せられたように、シーンとして聴き入った。姿なき声を聴いた事、それが水道パイプの中を通るバジリスクだとハーマイオニーがついに気づいた事、アラゴグがバジリスクの最後の犠牲者がどこで死んだか話してくれた事、そして、トイレのどこかに「秘密の部屋」の入り口があるのではないかと、ハリーが考えた事・・・。

 

「それで入り口を見つけられたわけですね。その間、約百の校則を粉々に破ったと言っておきましょう。でもポッター、一体全体どうやって、全員生きてその部屋を出られたというのですか?」

 

 散々話して声が掠れて来たが、ハリーは話を続けた。フォークスがちょうど良い時に現れた事、組分け帽子がハリーに剣をくれ、ドラコがそれでバジリスクの息の根を止めてくれた事。しかし、ハリーはここで言葉を途切らせた。それまでは、リドルの日記の事、ドラコがどうやって一緒に戦うことになったのかという事、イリスの事に触れないようにしてきた。全てを包み隠さずに告白すれば、イリスとドラコの立場はどうなるのだろう。リドルの日記はもう何も出来ない。壁の文字には”イリスが継承者だ”と書かれている。先生方は本当に、イリスがやったのではないと信じてくれるだろうか。それに短い間だが、ハリーはドラコに友情を抱き始めてもいた。ドラコに確認を取ったとは言え、真実を告げるには覚悟がいる。混乱した頭でハリーは考えた。

 

 本能的に、ハリーはダンブルドアを見た。ダンブルドアは微かに微笑み、暖炉の火が、半月型の眼鏡にちらちらと映った。

 

「わしが一番興味があるのは」ダンブルドアは優しく言った。

「ヴォルデモート卿がどうやってイリスに魔法をかけたかということじゃな。わしの個人的な情報によれば、ヴォルデモートは現在アルバニアの森に隠れているらしいが」

 

 ――良かった。一先ず、イリスの事は大丈夫だ。素晴らしい、うねるような安心感がハリーを包み込んだ。

 

「例のあの人が?どうやって、彼女に魔法を?」

「この日記だったんです」

 

 ハリーが急いで言いながら、日記を取り上げ、ダンブルドアに見せた。

 

「リドルは十六歳の時に、これを書きました」

 

 ダンブルドアは長い折れ曲がった鼻の下から日記を見下ろし、焼け焦げてぶよぶよになったページを熱心に眺め回した。

 

「見事じゃ。確かに、彼はホグワーツ始まって以来、最高の秀才だったと言えるじゃろう」

 

 ダンブルドアは、マクゴナガル先生に向き直った。太陽の光を反射した水面のように、いつもキラキラと輝いている瞳に、少しの陰りを宿して。

 

「ヴォルデモート卿が、かつてトム・リドルと呼ばれていた事を知る者は、ほとんどいない。トムは卒業後、消え、世界中を旅した。闇の魔術にどっぷりと沈み込み、魔法界で最も好ましからざる者達と交わり、危険な変身を何度も経て、ヴォルデモート卿として再び姿を現した時には、昔の面影は全くなかった。あの聡明でハンサムな男の子、かつてここで首席だった子を、ヴォルデモート卿と結び付け考える者は、ほとんどいなかった」

「ですが、あの人とゴーントと、一体何の関係が?」

「彼女は何も悪くありません。先生」

 

 ドラコが一歩進み出て、震える声で言った。

 

「僕の父が、イリスにそれを持たせました。そしてその日記に宿ったヴォルデモート卿の魂が、彼女を操っていたんです」

 

 ――長い長い沈黙があった。マクゴナガル先生だけでなく、イリス達も目を見張り、ドラコを見つめた。やがてダンブルドアが、感嘆の眼差しで彼を見やりながら、静かにこう言った。

 

「これほどまでに勇敢な者を、わしは今まで見た事がない。よくぞ勇気を出してくれた、ドラコ」

 

 続いてダンブルドアは、マクゴナガル先生に向け、感慨深げに話しかけた。

 

「のう、ミネルバ。みな無事に帰還し、ヴォルデモートも打倒された。ハグリッドも間もなく帰って来る頃合いじゃ。これは一つ、盛大に祝宴を催す必要があると思うんじゃが、厨房にそのことを知らせに言ってはくれまいか?」

「わかりました」

 

 ――ハグリッドが帰って来る、良かった。イリスは目頭が熱くなるのを感じた。マクゴナガル先生はきびきびと答え、立ち竦むイリスの肩に手を置き、優しくこう言った。

 

「あなたが無事でよかった。イリス」

 

 マクゴナガル先生の眦にはキラリと涙が光っていた。

 

 

「みな、本当に勇敢に戦ってくれた。さあ、お座り」

 

 先生が退室した後、ダンブルドアは暖炉のそばの椅子に腰かけ、四人はぎこちなくそれに習った。ダンブルドアの慈愛に満ちた眼差しが、イリスに注がれる。

 

「イリス。過酷な試練じゃったろう。ヴォルデモートとよく戦い、耐えてくれた。君が最後まで諦めなかったからこそ、誰一人死人は出ず、ハリーたちはみな生還を果たしたのじゃ」

 

 友人達の気遣うような目の表情、肩に優しく添えられる手が、今のイリスにとっては――暖炉の温もりよりも――とびきり暖かいものに感じられた。今までの出来事が走馬灯のように、脳内に駆け巡っていく。イリスはダンブルドアの言葉を聞き、静かに首を横に振った。

 

「いいえ、先生。私・・・諦めていました。何度も怖い思いをして、大切な人たちを、たくさん傷つけて、酷いことを・・・」

 

 イリスは話す途中で罪悪感に心が震え、それ以上言葉を続ける事が出来なくなった。ミセス・ノリス、ジャスィティン‐フィンチ・フレッチリー、ほとんど首無しニック、ハーマイオニー、ハグリッド・・・この事件の犠牲者達の顔が、イリスの脳裏に次々と浮かんでは消えていく。ダンブルドアは銀色の口髭を震わせ、彼女の手を両手で優しく包み込んだ。

 

「おお、君がそうしたのではない。断じて!」

「でも、でも、リドルはそれが正しい事なんだって、言いました!」

 

 気が付けば、イリスは自分でも驚く位の大声で叫んでいた。やっと身の安全が保証された場所に来て、今まで堪えてきた様々な感情が爆発したのだ。見る見るうちに目が熱くなり視界がぼやけ、涙が幾筋も零れ落ちていく。イリスは酷くしゃくり上げながらも、癇癪を起こしたように思いの丈をぶちまけ続けた。

 

「ハリーたちも本当の友達じゃない、ダンブルドア先生に与えられたニセモノなんだって!本当の、わ、私は、あの人の”従者”なんだって!お父さんも、お母さんも裏切り者だって!おばさんに育てられた事も、グリフィンドールに入った事も全部間違いだったって!・・・私、私、とても怖かった!何度も逃げ出したいって思ったけど、逃げられなくて・・・何度も罰を受けるうちに、本当に、リドルの言う通りなんじゃないかって・・・本当に、全部が間違いだったんじゃないかって、思うようになって・・・」

 

 イリスは俯いた拍子に、”闇の印”が視界に入って、唇をギュッと噛み締めた。――時間は巻き戻せない。この印と同じように、イリスが負った心の傷も、最初から無かった事にする事など出来ない。あの時、ハリー達が命懸けで自分を助けに来てくれなかったら、今頃どうなっていただろう。

 

 ――『全ては、ダンブルドアによって仕組まれた事だった』ふと、あの時のリドルの言葉が思い起こされ、イリスの激しい感情が怒りに変わっていく。そうだ。つまり、”ダンブルドアはイリスがメーティスの孫だと知っていたんだ”。先生が、最初から私にホグワーツに誘わなければ、こんなことにならずに済んだかもしれないのに――!イリスのやり場のない憤激は、やがてダンブルドアに向けられる事となった。

 

「先生は、知っていた筈です。私が、そうだって。でも、先生も、おばさんも、誰も教えてくれなかった!どうしてですか?もし知っていたなら、私、ホグワーツになんか・・・!」

 

 『ホグワーツになんか来なかった』――そう続けるつもりだったイリスの声が、不意に止んだ。確かに彼女は今年、魔法界で筆舌に尽くしがたい程、恐ろしい思いをした。しかしそれまでに、余りにも素晴らしい体験をし過ぎ、何物にも代えがたい友人を得過ぎていた。

 

「きみのわしに対する怒りは最もじゃ。わしは、きみに対して、余りに多くの事を隠していたのじゃから」

 

 ダンブルドアは、イリスの怒りごと受け入れるかのように、その小さな手を強く握り締めた。彼の手から、温もりがじんわりとイリスの心身に染み渡っていく。

 

「今はまだ、きみの父君の全てを話すには早い。だが、イリス、これだけは理解してほしい。彼はきみを本当に愛していた。愛するが故に、きみに出生を伏せ、代わりに”あるもの”を与えるよう、わしに頼んだのじゃ」

 

 イリスは言葉の意図が掴めず、ダンブルドアを見上げた。明るい透明がかったブルーの目が、イリスを見つめている。

 

「――それは”自由”じゃ、イリス。何にも強いられる事無く、あるがままを享受する事。それがあるからこそ、きみは人を心から思いやり、自分の意志で物事を決める事が出来た。人は誰しも純粋そのもので生まれ、育てる者達の考えに染まっていく。死喰い人やそれに賛同する純血の魔法族は、諸手を挙げてきみの教育者になりたがった。ネーレウスはきみをそういったものから守るために、マグルの世界へ隠し、普通の子供として育てるように、わしに頼んだのじゃ。『いつか彼女が成長して、ホグワーツで自分の宿命と向き合わなければならなくなった時、この十年間の経験が彼女を支え、また救ってくれるのだ』と」

 

 イリスは何も言う事が出来なかった。ハリー達も押し黙り、二人の様子を伺っている。

 

「ヴォルデモートときみの祖母メーティスの間には、主従関係以上の”特別なつながり”があった。

 いずれはきみも、父君と同じように、再び宿命と戦わなければならぬかもしれん。その時に一番必要となるのは、何が正しいのか、間違っているのか、判断する心なのじゃ。自分が本当に何者かを示すのは、血でも、家柄でも、持っている能力でもない。自分がどのように考え、どのような選択をするかという事なのじゃよ。きみは選択の末、自分が何者なのか、何が偽物で何が本物なのか、わかった筈じゃ。イリス、違うかの?」

 

 ダンブルドアの言葉は、イリスだけでなく、他の者達の心にも深く染み渡っていた。イリスは自分の周りに座る親友達を見渡した。――もしかしたら、これからもっと辛い事や苦しい事が待ち受けているのかもしれない。けれど、イリスには自分を支えてくれる友がいる。”自分は一人ぽっちではないのだ”。彼女はあれ程までに荒れ狂っていた心の嵐が静まり、代わりに青空が見えるのを感じていた。

 

「はい。でも、一人じゃ、できませんでした。みんなが・・・みんなが、助けてくれたから、私、ここに帰って来れました」

 

 

 みんなが和やかな雰囲気に包まれかけた時、不意にドアが勢い良く向こう側から開いた。余りに乱暴に開いたので、ドアが壁に当たって跳ね返って来た位だった。――ルシウス・マルフォイが怒りを剥き出しにして立っていた。イリスの心臓は縮み上がり、ハリーが顔を顰めて、彼女を傍に引き寄せる。ドラコが恐怖で引き攣った声を上げた。ルシウスの腕の下では、やせ細った屋敷しもべ妖精が、包帯でグルグル巻きになって縮こまっていた。

 

「こんばんは、ルシウス」ダンブルドアが穏やかに挨拶した。

 

 ルシウスは挨拶を返す事無く、さっと部屋に入って来た。屋敷しもべ妖精が、その後ろからマントの裾の下に這いつくばるようにして、小走りに付いて来る。怒りにギラギラと燃え滾った目は、ダンブルドアを通り過ぎ、ハリー達四人に行き着いて、今度は動揺と驚愕の色に染まった。ドラコが居心地悪そうに身じろぎする。やがてルシウスは、何事も無かったかのように、冷たい視線を再びダンブルドアへと戻した。

 

「それで、お帰りになったわけだ。理事たちが停職処分にしたのに、まだ自分がホグワーツに相応しいとお考えのようで」

「はて、さて、ルシウスよ」ダンブルドアは静かに微笑んでいる。

「今日、あなた以外の十一人の理事が、わしに連絡をくれた。まるでふくろうの土砂降りにあったかのようじゃった。ネーレウス・ゴーントの娘が連れ去られたと聞いて、理事たちがわしに、すぐ戻ってきてほしいと頼んできた。結局、この仕事に一番向いているのは、このわしだと思ったらしいのう。奇妙な話をみんなが聞かせてくれての。もともとわしを停職処分にしたくはなかったが、それに同意しなければ、家族を呪ってやるとあなたに脅された、と考えておる理事が何人かいるのじゃ」

 

 ルシウスの顔はより一層蒼白になったが、その細い目はまだ怒り狂っていた。

 

「すると・・・あなたはもう襲撃をやめさせたとでも?」嘲るように言い放つ。

「ああ、やめさせた」ダンブルドアは微笑んだ。

「犯人は前回と同じ人物じゃよ。しかし、今回のヴォルデモート卿は、他の者を使って行動した。この日記を利用してのう」

 

 ルシウスは、見るも無残な有様となったリドルの日記を見た瞬間、一切の感情を拭い去り、能面のような顔つきへと変わった。灰色の双眼だけが静かに動き、恐怖にたじろぐイリスを絡め取る。何かを探るような視線は彼女の頭ら辺を通過して、徐々に降下し――やがて、その右腕に色濃く刻み付けられた”闇の印”に到達した。イリスはやっと視線の先に”何が”あるのかに気づいて、反射的に袖を下ろして印を隠そうとしたが、もう何もかもが遅かった。ルシウスの口の端が、今にも笑い出しそうな程に、ひくひくと震え始めていたからだ。一方の屋敷しもべ妖精は、一連の奇妙な動作を繰り返していた。大きな目で曰くありげにハリーの方をじっと見て、日記とルシウスを交互に指差し、それから拳で自分の頭をガンガンと殴りつけるのだ。

 

「なるほど・・・」ルシウスはやっとイリスの右腕から目を離し、言った。

「狡猾な計画じゃ」

 

 ダンブルドアはルシウスの目を真っ直ぐに見つめ続けながら、抑揚を押さえた声で続けた。

 

「なぜなら、このハリーたちが」

 

 ルシウスは鋭い視線を、ハリーとロン、最後に――自分の息子であるドラコへと突き刺した。

 

「日記を破壊できなければ、イリス・ゴーントが全ての責めを負う事になったかもしれん。彼女が自分の意志で行動したのではないと、一体誰が証明できようか。何が起こったか、考えてみるがよい。彼女の父ネーレウス・ゴーントが、愛する娘のために、その生涯をかけて築き上げた業績や信頼、ウィーズリー氏と共に制定した『マグル保護法』に、どのような影響を及ぼしたか。彼女がマグル出身の者を襲い、殺していることが明るみに出たらどうなったか。幸いなことに日記は発見され、リドルの記憶は日記から消し去られた。さもなくば、一体どういう結果になっていたか、想像もつかん・・・」

 

 ルシウスは長い沈黙の後、静かに口を開いた。

 

「それは僥倖な」

 

 イリスにとって、その言葉はまるで違った意味(・・・・・)に聞こえた。ダンブルドアは穏やかな口調で、尚も言葉を続ける。

 

「ああ、それともう一つ。イリスの実家の周辺に、珍しくイギリスの観光客がいてのう。偶然(・・)観光中じゃったわしの知り合いと、楽しくお茶会をしたそうじゃ。聞けば、彼らはあなたの――」

「帰るぞ、ドビー」

 

 ルシウスはダンブルドアの言葉を遮り、鋭く言い放った。イリスは全身の血の気が引いていくのを感じた。『今度、私に対してこんな下らない抵抗を見せたら――ペットだけでは済まない。君の大好きなおば君を、君の目の前で嬲り殺す』――あの時、ルシウスはイリスをそう脅し付けた。ルシウスさんは本当に、イオおばさんを――。ブルブルと震え始めたイリスの手を、こわばった表情のドラコが力強く包み込んだ。ルシウスはドアをグイとこじ開け、出ていく直前に、振り返らずに厳格な口調で言い放った。

 

「ドラコ、来なさい」

 

 その発言に、四人は一斉に凍り付いた。ルシウスは去り、ドアが荒々しく閉じられる音だけが木霊する。これからドラコがルシウスにどんな仕打ちを受けるか、みんな何となく理解していた。

 

「マルフォイ、僕も一緒に行く」ハリーが立ち上がりながら、言った。

「絶縁状、叩きつけてやれよ。僕んちの庭の隅っこ位だったら、住まわせてやってもいいぜ」ロンがそっぽを向きながら、呟いた。

「勘弁してくれ。君の家の敷地に爪先でも触れる位なら、路上でのたれ死んだ方がマシだ。虱がうつる」ドラコが嫌味たっぷりに言い放ち、立ち上がった。

 

 イリスは矢も楯もたまらず立ち上がると、ドラコの腕に縋り付いた。胸がざわざわと騒ぐ。不安でたまらない。――もし、あれが本当に”未来の光景”だったら?ドラコはイリスを見つめ、何も案ずる事はないと言わんばかりに微笑んで見せた。しかし、彼女はその優しい眼差しに、あの時の”命の灯が消えゆく目”が重なって見えた。強い眩暈がする。ドラコはイリスの手を離し、ドアの方へ進んでいく。

 

 イリスは全ての決意を固め、杖を静かに引き抜いた。そしてその先を、ドラコの背中へ向けた。

 

 ――思い出すんだ。あの時の、冷たくなっていくドラコの体を。彼を本当に失った時の喪失感、悲しみを。それをもう一度味わう位なら、私はどんな苦しみだって受けて見せる。たとえ彼が、もう二度と私に微笑みかけてくれなくても。彼が元気に過ごしてくれるなら、生きていてくれるなら――私は、耐えられる。

 

「イリス?」

 

 ハリーが怪訝そうに問いかける。ロンが息を飲んだ。異変を感じて振り返ったドラコが最後に見たのは、イリスの杖先から放たれる呪文の光線だった。

 

「――オブリビエイト、忘れよ」

 

 イリスはドラコに忘却呪文を掛けた。驚愕に見開いたドラコの双眸は、光線を受けた瞬間に、自我を失っていく。――イリスは自分でも驚く程冷静に、そして速やかに行動した。ダンブルドアが杖を取り出すまでの僅か数秒の間に、彼の記憶の世界を覗き込み、「秘密の部屋」に関わる全ての記憶を忘却させ――自分と関わった全ての記憶を、限界まで薄め、希釈させたのだ。

 

 もうドラコは、イリスを愛していた事を覚えていない。今の彼にとって、イリスは”ただの知り合いだ”という認識しか残っていない。イリスが杖を下ろした後、ドラコは呆けたようにその場に突っ立っていた。しかし、ルシウスが再びドアの外から厳しい口調で声を掛けると、それに操られるように、彼はふらふらと部屋から去って行った。

 

 ――恐ろしい静寂が、部屋全体を包み込んでいた。誰もかれも、唇を固く引き結び、黙り込んでいた。やがてダンブルドアだけが、杖を下ろし、震える唇を開いて沈黙を破った。

 

「イリス、きみは」ダンブルドアが茫然とした口調で囁く。

「記憶を忘却させたのか。彼を、ルシウスから守るために」

 

 イリスはポロリと涙を零し、何も言わずにこくりと頷いた。

 

 

 ルシウスは驚愕の余り、二の句を告げる事が出来ないでいた。ほんの数秒の間に、息子の様子は明らかに変わってしまっていた。何度問い質しても、ドラコは何も――ここに立っていることすらどうしてだか――覚えていないと言い張るのだ。彼は思案を巡らせる。――唯一の証人であるドラコの記憶を、宿敵であるダンブルドアが消すとは思えない。ドラコ自身もそんな力はない。となれば、犯人は”一人しか”見当たらない。不意にドラコは首を傾げ、ルシウスに尋ねた。

 

「父上、どうして笑っているのですか?」

 

 ルシウスは、口元を静かに手で押さえた。犬歯を剥き出しにして笑っていた事に、指摘されるまで自分すら気が付かなかった。――彼の脳裏に、イリスの右腕に刻まれた”闇の印”が浮かぶ。ああ、彼女はこの短時間に正確に忘却術を扱えるまでに、成長したのだ。何と、何と素晴らしい――。彼の狂笑は、追いかけて来たハリーの策略に嵌まり、屋敷しもべ妖精のドビーを解放する羽目になるまで、治まらなかった。

 

 

 祝いの宴は夜通し続いた。大広間のテーブル中に所狭しとご馳走が並び、みんな大いに騒いで過ごしていた。イリスはグリフィンドールのテーブルに着いて、そわそわと落ち着かない様子で”待っていた”。――そう、もうすぐ復活したハーマイオニーが戻って来るのだ。一体どんな顔で、彼女を迎えたらいいんだろう。

 

「ハーマイオニー!」ロンが感極まって叫んだ。

 

 イリスが思わず戸口を振り向くと、輝くばかりの笑顔を浮かべたハーマイオニーが立っている。イリスは彼女と目が合う前に、テーブルの上に素早く顔を伏せ、両腕でがっちりガードした。

 

「イリス?寝てる場合じゃないぜ、君の大好きなハー・・・モガガッ、何するんだよ、ハリー!」

 

 ちょっかいを掛けようとしたロンが、ハリーに羽交い絞めにされ、その場を強制的に連れ去られていく。頑なに顔を上げようとしないイリスの頭を、ふわりと優しい両手が包み込んだ。

 

「イリス。約束して」

 

 とびっきり優しくて大好きな声が耳元で囁かれる。イリスの目頭が熱くなり、心臓がギュウッと震えた。――ハーマイオニーが、イリスを後ろからハグしている。

 

「もう二度と、私に隠し事はしないこと。どんなつまらない事も、大変な事もね」

「その約束、僕にもしてくれる?」ハリーが横から、悪戯っぽく付け加えた。

「・・・ウン」

 

 イリスの返事は、涙で湿っていた。

 

 

 その夜、イリスはハリーと一緒に、談話室でソファーに沈み込み、休憩を取っていた。生徒達の大部分はまだ大広間で、宴会の続きをやっている。ロンとハーマイオニーは、大広間に夜食を取りに行くと言って、出かけたばかりだ。

 

 不意にパチンと大きな音がして、二人は飛び上がり、目を疑った。――そこには、屋敷しもべ妖精のドビーがいた。彼はハリーの尽力により、ルシウスから解放された筈だ。何故ここに来たのだろう。ドビーは、状況を今一つ理解できていないイリスを見た途端、ボロボロと大粒の涙を零しながらその足元に縋り付き、甲高い声で懺悔を始めた。

 

「ああ、ゴーントお嬢様!どうかお許しください!ドビーめは、あなた様を・・・”お見捨ていたしました”!ドビーめは、全てを知っていたのに!あなた様は、初めて出会ったドビーめに、自己紹介をしてくださろうとしていたような、お優しい方でした!それなのに、ドビーめは・・・!(そう言って、ドビーは激しく床に頭を打ち付け始めた)どうか、どうか、この薄情で意地汚いドビーめを、思う存分罰してください!」

 

 イリスはハリーと一緒に、慌ててドビーの自傷行為を止めさせた。ドビーは頭をふらふら揺らしながらも、イリスを悲し気な眼差しでじっと見つめている。『罰してください』と懇願されても、ドビーのその酷く痛めつけられた体を見たイリスは、今更彼をどうにかしようという気にはなれなかった。それに、彼が彼なりに現状をどうにかしようと努力してくれていた事は、ハリーから聞いていた。イリスは静かに銀色のリボンを解きながら、ドビーに尋ねた。

 

「ドビー。君はどんなところにでも現れたり、消えたりできるの?」

「もちろんでございます!」ドビーは激しく首を縦に何度も降った。

「そっか。じゃあ、一つだけ、私のお願いを聞いてくれる?」

 

 

 マルフォイ邸で、ナルシッサはサロン室で一人、浮かない表情で夜の一時を過ごしていた。――ナルシッサは本当の娘の様に、イリスを愛していた。愛する娘の平穏と無事を願うナルシッサとは対照的に、ルシウスは愛する娘の”本来の在るべき姿”に向け、邁進し続けた。二人の望む”娘の幸せ”は遠くかけ離れていた。その結果、ルシウスからイリスの近況を聞くたびに、ナルシッサはやつれ果てるばかりとなってしまった。

 

「奥様」

 

 ふと屋敷しもべ妖精に呼ばれ、ナルシッサは振り返った。――そこには、ルシウスに解雇された筈のドビーがいた。ドビーは呆気に取られるナルシッサの前で、花を一輪テーブルの上にそっと置いた。そして、ナルシッサが制止しようと声を上げるか上げないかのうちに、パチッと音を立てて消えた。ナルシッサは恐る恐る立ち上がり、テーブルへ近づく。

 

 ――それは、白いケシの花だった。彼女は息を飲み、立ち竦んだ。――根元に、イリスにあげた銀色のリボンが結ばれていたからだ。

 

「イリス?」

 

 ナルシッサは、震える声で囁きながら花に触れた。その瞬間、花弁がふるりと震え、蕾が綻び、そして――花が、イリスの声で話し始めた。

 

『ナルシッサさん。こんなことになってしまって、何を言ったらいいのか。今も、心の整理はついていません。でも、私はドラコを愛しています。これだけは、はっきりわかります。

 だから、彼を守りたいから、私との記憶をほとんど消しました。きっと彼は私のことを、もう二度と愛さないでしょう。

 短い間だったけど、本当の両親のように接してくれて、とっても嬉しかった。ありがとう。さようなら』

 

 イリスの言葉が終わると共に、ケシの花は萎れて跡形もなく消え去り、後にはリボンだけが残された。――ナルシッサはリボンを掴み、床に崩れ落ちて号泣した。イリスが、これほどまでに繊細で高度な魔法を扱えるという事が、彼女自身がもう今までの平凡な女の子ではなくなってしまった事を物語っていたからだ。イリスのドラコに対する一途な思いは、ナルシッサの良心を強く責め立てた。

 

 

 そして日常が始まった。

 

 イリスがまずしなければならないと思った事は、「秘密の部屋」事件の犠牲者に対して謝意を示す事だった。イリスは真っ先にハグリッドの小屋へ向かい、ハグリッドに謝った。ハグリッドはイリスの話に辛抱強く耳を傾け、一区切りついた所で、首を傾げながらこう言った。

 

「お前さんの話はよーく分かった。けど、なんで”お前さんが”俺に謝らなきゃならねえ?」

「でも、でも」イリスは激しくしゃくり上げながら言った。

「私のせいで、ハグリッドはアズカバンに・・・」

「お前さんのせいじゃねえ」ハグリッドはキッパリ言い放った。

「あの人のせいだ。イリス、親戚とお前さんは、全く別の人間なんだ。一緒くたにしちゃならねえよ。それに、俺はとびきり頑丈だから、アズカバンに何年ぶち込まれたってヘッチャラだ」

 

 ハグリッドは朗らかに笑い、イリスの頭を優しく撫でた。しかし、ハグリッドの両目の下には、くっきりと大きな隈が出来ている。――イリスは「ごめんなさい」を繰り返す代わりに、ハグリッドに抱き着いて、顔を埋めた。

 

 

 次に向かったのは、「ほとんど首無しニック」のところだった。ニックはイリスの話を真剣に聞いてくれた。半透明の手で首を撫で摩りながら、彼は感慨深げに言った。

 

「成程。それにしても、残念でなりません。何せ、貴方とマルフォイの友情は、長年不仲が続いているグリフィンドールとスリザリンをまとめる架け橋になるのではないかと、「血みどろ男爵」と語り合っていたところでしたから」

「・・・ごめんなさい」

「いいえ、一番辛いのは貴方でしょうとも。私はご心配なく。ご覧の通り、無事、”生き返りました”から」

 

 ニックの冗談に、イリスは不謹慎だとは思ったものの、思わず吹き出してしまった。ニックは首の襟を直しながら、穏やかにこう続けた。

 

「男爵にも、私から口添えをしておきましょう。ご安心なさい」

 

 

 ジャスティンに真実を告げる事は、ハリーたちに断固反対され、出来なかった。

 

「君ってマジで律儀だよな」ロンが目を丸くして言った。

「やめておいた方がいい。騒ぎが大きくなるだけだろうし」ハリーが静かに言った。

「今はまだ、言う時じゃないと思うの。いつか言うべき時が来るまで、そっとしておいた方がいいわ」ハーマイオニーが優しくイリスの頭を撫でた。

 

 

 最後は、ミセス・ノリスだ。イリスは一人でフィルチの事務室に赴き、仏頂面をした管理人・フィルチに迎え入れられた。薄汚い窓のない部屋で、低い天井に古びた石油ランプが一つ、ぶら下がっている。

 

≪何しに来たの?≫

 

 ふと足元を見ると、ミセス・ノリスがフィルチとそっくりの仏頂面で、イリスを見上げていた。イリスは、フィルチの机の後ろに飾られているピカピカの鎖や手錠を見ないように努力しながら、ミセス・ノリスに一部始終を語り、誠心誠意謝った。ミセス・ノリスのまんまるい瞳が限界まで見開かれ、立ち竦むイリスを映し出す。

 

≪もしかして、貴方、私に謝りに来ただけ?≫

「・・・うん」

≪それだけのために、ここに?≫

「う・・・うん」

≪・・・あっははははは!≫

 

 ミセス・ノリスは、ころころと鈴を転がすような軽やかな声で笑い始めた。フィルチが狼狽し「お、お前・・・」と諫めようとするが、彼女の笑いは止まらない。

 

≪あ、貴方ったら・・・フフッ、本当に変わってるわね。猫に謝りに来るだなんて、最高だわ≫

 

 ミセス・ノリスは呆気に取られた様子のイリスを見つめ、上機嫌な声で「あなた」と呼んだ。

 

≪ねえ、ミルクを出して。横丁で良いのが入ったのよ。三人で乾杯しましょ。私たちの友情を祝って≫

 

 フィルチは渋々と言った調子で保管庫からミルクの瓶を取り出し、三つのグラスに注ぐ羽目になった。何が何だかわからない状態のイリスを加え、ミセス・ノリスとフィルチとの、三人の友情の盃は掲げられたのである。

 

 

 フィルチの事務室からの帰り道、イリスは廊下の先に見知った姿を見つけ、歩みを止めた。――スネイプ先生だ。彼は自身の研究室へイリスを誘った。――イリスは不思議と怖くなかった。おぼろげにしか覚えていない事もあるけれど、それでもスネイプは何度も何度も、ダンブルドアと共に、リドルに支配されたイリスを助けようとしてくれていたからだ。

 

 部屋のテーブルには、小さなゴブレットが一つ置かれている切りだった。イリスはスネイプに促され、彼の向かい側に腰掛けた。

 

「まず、君の忘却術は間違いなく成功している、と言っておこう。安心したまえ」

 

 イリスは曖昧に頷いた。喜ぶべき事なのだろう。しかし、イリスはその言葉が鋭く尖ったナイフのように、自分の心を深く傷つけていくのを感じていた。俯いたイリスを油断なく見つめながら、スネイプは言葉を続ける。

 

「”ドラコ・マルフォイを守護する”というのが目的ならば、今回の君の判断は正しかった。しかし、あくまでそれは、君が耐えられれば(・・・・・・)の話だ」

 

 スネイプの言葉の意図が掴めず、イリスは思わず彼を仰ぎ見た。スネイプは今までにない位、真剣な表情で、イリスを見ている。

 

「――君は、耐えられるのか?愛する者が、目の前で自分ではない者を愛し、親し気にその名を呼び、反対に自分を冷たく拒絶する事を。

 ルシウス・マルフォイは君を、復活した帝王に対する”強力な免罪符”だと考えているようだ。彼は君を掌握するためなら、いずれは息子すらも利用するだろう。――少しでも耐えられぬという気持ちがあるのなら、今からでも遅くない。”君の記憶も消すべきだ”」

 

 イリスはスネイプの言葉に打ちのめされ、茫然となって、暫くの間動く事が出来なかった。スネイプはイリスの様子を気にも留めず、テーブルの上に置かれたゴブレットを押し遣った。

 

「一息に飲み干せ。そうすれば、君はドラコ・マルフォイに関する記憶を忘れる事が出来る」

 

 イリスは、随分と長い間、ゴブレットに視線を注いでいた。ランプの光を反射して揺らめく水面に、かつてドラコと過ごした素晴らしく輝かしい思い出が、煌めいては消えていく。――イリスは目を瞑って、深呼吸した。スネイプ先生の言う通りだ。自分はこれから、胸が張り裂けるような辛い日々を送る事になるかもしれない。ドラコがもし、パンジーと付き合ってしまったら――。

 

 やがてイリスは目を開いた。薬は、イリスを誘うように優しく揺れている。

 

 イリスは片手をゆっくりと持ち上げ、ゴブレットを元の場所に戻した。

 

「これはいりません」

「どうしてかね?」

 

 スネイプが眉根を寄せ、尋ねる。イリスは瞳にいっぱい涙を湛えて、静かに、だがはっきりとこう言った。

 

「”彼を愛しているから”。どんなに辛くとも、彼を愛した記憶を忘れたくない。――それに、私が忘れたら、彼を守れなくなってしまいます」

 

 今度は、スネイプがイリスの言葉に打ちのめされる番だった。彼は大きく目を見張り、イリスをじっと見つめた。――まるでイリスの瞳の中から、何かを見出しているかのように。

 

「・・・そうだな」

 

 暫くの沈黙の後、スネイプが出した声は、自分でも驚く程、穏やかなものだった。――イリスが去った後、スネイプは思案を巡らせた。彼女の言った事は、所詮若さ故の”きれいごと”だ。今に、彼女は自分の選択に苦しめられる事になるだろう。スネイプは彼女が何を言ったとしても、薬を飲むのを拒んだとしても、最終的には忘却術を掛けるつもりだった。

 

 ――だが、できなかった。スネイプはいつしか、イリスに自分を重ねていた。スネイプはゴブレットを静かに見つめた後、杖を振って消した。

 

 

 時を同じくして、スリザリン寮の談話室では、ドラコがパンジー達とお喋りに興じていた。

 

「僕が「秘密の部屋」に行ってただって?馬鹿な事を言わないでくれ、ノット。それよりも、嬉しいニュースがある。父上がついに”ゴーントと友達付き合いをするな”と言ってくれたんだ。全く、父上も人が良すぎるよ。あんな”血の裏切り”と縁を切れて、僕は正々したね」

「その通りよ、ドラコ」パンジーが嬉しそうに叫ぶ。

 

 ドラコは不意に、心臓がギュウッと強く握りつぶされたような痛みを感じた。それと同時に、視界の端を金色の光がスッと掠めていく。――スニッチか?反射的に振り返るが、どこにもそれらしきものは見当たらない。何かの見間違いだったのだろうか。ドラコは首を傾げた。

 

「泣いてるの?」

 

 パンジーに心配そうに尋ねられて初めて、ドラコは”自分が泣いている事”に気づいた。――理由など分からない。けれど、胸にポッカリと大穴を開けられたように無性に苦しくて、息が出来なくて、ドラコは呆気に取られた寮生達が見守る中、暫く咽び泣き続ける事しか出来なかった。

 

 

 イリスは、スニジェットから元の姿へ戻り、スリザリン寮前の廊下をとぼとぼと歩いていた。――スネイプ先生の言う通り、ドラコは完全にイリスを愛していた事を忘れているようだ。”これで良かったんだ”。イリスは何度も自分にそう言い聞かせながら、グリフィンドール塔への帰路を辿る。

 

「君のやったことは偽善だぞ、イリス」

 

 不意に冷たい声が投げかけられ、イリスは声のした方を向き、唇を引き結んだ。――ノットが不敵な笑みを浮かべ、通路の壁に寄りかかって、イリスを見つめている。

 

「君はただ、自分の首を精一杯絞めているだけだ」嘲るような口調だった。

「何を言ってるの?」

「”君はあの時、マルフォイ氏に従うべきだった”。そうすれば君は、今でもマルフォイと仲睦まじくいれた筈だ」

 

 イリスは全身の血の気が引いていくのが感じられた。――何故、ノットが「秘密の部屋」に関する事実を知っているんだ?茫然と立ち竦むイリスを気にもせず、ノットは言葉を続けた。

 

「イリス。僕の父は”死喰い人”だ。父は、かつて君の祖母に師事していた。君の存在を知った父は、君に仕えろと僕に命じた」

「そんなの私に関係ない!」イリスは叫んだ。

「まだそんな戯言を言っているのか?」

 

 ノットは嘲笑し、去り行くイリスの背中に、残酷な言葉を投げつけた。

 

「”闇の帝王”は全てをご存じだ。僕たちは、血の宿命からは逃れられない。君の選択肢は二つしかないと、警告した筈だよ」

 

 

 夏学期の残りの日々は、焼けるような太陽で、朦朧としているうちに過ぎた。ホグワーツは正常に戻ったが、いくつか小さな変化があった。「闇の魔術に対する防衛術」のクラスは、ロックハート先生の一身上の都合により、急遽キャンセルになった(ハーマイオニーは不満をブツブツ言ったが、ロンが「だけどこれに関しては、僕たち随分と実技をやったじゃないか」と慰めた)。ルシウス・マルフォイは理事を辞めさせられた。フィルチとミセス・ノリスは、グリフィンドールの”ある生徒”にだけ、露骨な依怙贔屓をするようになった。

 

 あまりにも早く時が過ぎ、もうホグワーツ特急に乗って家に帰る時が来た。イリスはトランクに荷物を詰めている時、ふとベッドの下に視線をやり、息を飲んだ。――かつて、リドルに与えられた”空飛ぶ絨毯”が、クルリと丸められて転がっている。イリスは、絨毯を今すぐダンブルドアに提出するべきだと思った。

 

 ――けれど同時に、リドルと共に大空を思う存分飛び回った、素晴らしい思い出がよぎり、イリスの胸はズキンと痛んだ。”利用されていただけだ”――そうなのかもしれない。しかし、リドルの助けがあったからこそ、イリスは学ぶ喜びや、空を飛ぶ楽しさを知り、凄まじい成長を遂げる事が出来たのだ。リドルは豹変するまでは、とても良い教師だった。

 

 イリスはリドルを嫌い、憎み切る事など出来なかった。イリスの瞳から、一粒の涙が零れ落ちて、ポツンと絨毯に小さな染みを作る。イリスは黙って絨毯をトランクに仕舞い込んだ。

 

 

 イリス達は、汽車内のコンパートメントを一つ独占した。夏休みに入る前に、魔法を使う事を許された最後の数時間を、みんなで十分に楽しんだ。「爆発スナップ」をしたり、フレッドとジョージが持っていた最後の「花火」に火をつけたり、互いに魔法で武器を取り上げる練習をしたりした。

 

 ホグワーツ特急は速度を落とし、とうとう停車した。キングズ・クロス駅で、ハリーは羽根ペンと羊皮紙の切れ端を取り出し、三人の方を向いて言った。

 

「これ、電話番号っていうんだ」

 

 電話番号を三回走り書きし、三つに裂いてそれぞれに渡しながら、ハリーがロンに説明していた。

 

「君のパパに去年の夏休みに、電話の使い方を教えたから、大丈夫だと思う。ダーズリーのところに電話をくれよ。あと二カ月もダドリーしか話す相手がいないなんて、僕、耐えられない・・・」

「電話するよ、ハリー」

 

 イリスが言うと、ハリーは嬉しそうに微笑んだ。四人はそれぞれお別れを言うと、お互いの家族の元へ歩みを進めていく。イリスも、人込みの中にイオの姿を探して、歩き出そうとした。しかし、誰かがその手をガッと強く掴んだ。

 

「――これで終わったと思うのかい?」

 

 イリスは目と耳を疑った。――リドルの声だ。”目の前にリドルがいる”。スリザリン生の制服に身を包み、ルビーのように輝く双眸を煌めかせ、嗤っている。――信じられない。彼は消えた筈だ。イリスは恐怖で頭が真っ白になり、掴まれた手を振り解く事が出来なかった。周囲の雑音が急速に遠のいていく――視界がグニャグニャと歪んでいく――どうして――

 

「イリス、どうしたの?」

 

 イリスはふと我に返り、目を何度も瞬かせた。――目の前にハリーがいて、彼がイリスの腕を掴み、心配そうに彼女を覗き込んでいる。

 

「・・・何でもないよ、ゴメン」

 

 慌ててイリスは、ハリーに謝った。――どうかしてる。”ハリーとリドルを見間違えるなんて”。

 

 

 ドラコは、無事マルフォイ邸へ帰還した。小奇麗に整えられた庭には、少し季節遅れのスターチスの花が咲き乱れ、良い芳香を周囲に漂わせていた。早々と荷物を片付け終えたドラコはサロン室へ向かい、テーブルに置かれた菓子を摘まみながら、寛いでいた。

 

 ――ふとテーブルの隅に、キラリと煌めくものを見つけ、ドラコは立ち上がった。近寄って拾い上げると、それは銀色のリボンだった。日の光を反射して、優しく輝いている。

 

「きれいだ」

 

 ドラコは思わず微笑んだ。彼は迷う事無く――何故、自分がそんな行動に出たのか、疑問に思う事すらなく――リボンを自分の手首に、ブレスレットのように巻き付けた。

 

 その瞬間、ドラコは途方もない安堵感と幸福感が、全身を包み込むのを感じていた。初めて見るものなのに、ずっとずっと長い間、これを探し続けていたような気さえする。彼はリボンを見つめるうちに、気が抜けて、眠くなった。そして彼は、束の間の眠りに落ちた。




「秘密の部屋」編、完結です(^^♪感想を活動報告に上げました!

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