ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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※作中の後半、残虐な表現が含まれます。ご注意ください。
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Page12.奈落の底へ落とされる』

 夜八時、四人は大広間へ急いだ。各寮生が座る四つの長いテーブルは取り払われ、一方の壁に沿って金色の舞台が設置されている。何千本もの蝋燭が宙を漂い、その舞台を照らしていた。天井には見慣れた魔法仕掛けの夜空が広がり、その下では、杖を持った大勢の生徒達が集まっていて、それぞれ興奮した面持ちでお喋りに興じている。

 

「一体、誰が教えるのかしら?」

 

 興味深げに周囲を見渡しながら、ハーマイオニーがハリーに尋ねる。イリスが、ふと強い視線を感じて振り向くと、人垣の向こうに此方を睨むパンジーが立っていた。彼女はイリスと視線がバチッと合うや否や、底意地の悪そうな笑みを浮かべて、「逃げんじゃないわよ」と唇の動きだけで囁いた。

 

「誰だっていいよ。”あいつ”じゃなければ・・・」

 

 ハリーの不吉な予言は的中し、彼は露骨に顔をしかめて呻き声を上げた。ギルデロイ・ロックハートが、輝くようなスマイルで舞台に登場したのだ。煌びやかな深紫のローブを纏った彼は、その後ろに――誰あろう――いつもの黒装束のスネイプを従えていた。ロックハートは生徒達に手を振り、「静粛に」と呼びかけた。

 

 ロックハートは自分が主賓として『決闘クラブ』を執り行う事を告げると、スネイプを――恐れ多くも――自分の”助手”だと、戸惑う事無く紹介した。

 

「ねえ、ロックハート先生って、目が見えないのかな?」

 

 好き放題な表現で”助手”を紹介するロックハートの隣に立つスネイプが、明らかに殺気立ち、その上唇もめくれ上がっているのを見て、たまらず震え上がりながら、イリスがハリーに尋ねた。ハリーも肩を竦めながら答える。

 

「そうなんじゃない?もし僕だったら、スネイプがあんな表情で僕を見たら、回れ右して全速力で逃げるけど」

「なぁ。相討ちで、両方やられっちまえばいいと思わないか?」ロンが二人に囁いた。

 

 ロックハートはスネイプの殺意を気にもせず、生徒達の――さまざまな意味での――期待に満ちた眼差しを一身に受けながら、「模範演技」を始めた。しかし、「模範演技」は、ほんの数秒足らずで終わってしまった。開始直後にスネイプが唱えた『武装解除呪文』によって、ロックハートは吹き飛ばされ、無様にも床に伸びてしまったからだ。彼は慌てて立ち上がり、身だしなみを整えつつも、こう言い放った。

 

「模範演技はこれで十分!さて、ではこれから、いきなり実戦は難しいでしょうから・・・そうですね、モデルとなる組を選びましょう。誰か、いませんか?」

 

 スリザリン生で固まったグループから、手が挙がった。――パンジー・パーキンソンだ。イリスも迷う事無く自分の手を挙げた。隣でハーマイオニーが驚愕の余り、口をポカンと開けていたが、イリスは見ない振りをした。スネイプが制止しようとする前に、ロックハートが快活な声で叫んだ。

 

「これは二人共、私の素晴らしい演技を見て、やる気満々になったかな?よろしい、よろしい!では、この二人に壇上へ上がってもらいましょう!」

「ちょっと待てったら、イリス!」

「君が『決闘』?ご冗談だろ?」

 

 ハリーとロンの驚きの声に、イリスは「マーリンの髭!」とだけ返して、黄金に輝く舞台へと上がった。「いや、こっちがマーリンの髭だよ!」というロンの突っ込みは、グリフィンドール生とスリザリン生達の怒涛の応援と野次で掻き消された。パンジーは自分の杖を弄びながら、悠然とイリスを見据える。

 

「相手と向き合って!そして礼!」

 

 ロックハートが上機嫌で号令をかける。――イリスは深呼吸をした。集中するんだ。イリスはリドルに教えられた”決闘の作法”の通りに、スッと背筋を伸ばして優雅に一礼した。その一連の動作が、流れるように上品で洗練されていたために、一部の生徒達からイリスに向けて感嘆のため息が漏れた。

 

「すごいや、ハーマイオニー。君、”決闘の作法”までイリスに教えていたの?」とハリー。

「私、あんな事、教えていないわ」

 

 訝しげな表情で、ハーマイオニーが答える。

 

「スネイプのあの顔、見ろよ!」

 

 ロンが興奮した様子で、二人に注意を促した。スネイプは黒髪の間から見える双眸を驚愕に見開き、イリスの決闘スタイルを見つめている。

 

「杖を構えて!」ロックハートが声を張り上げる。

 

「私が三つ数えたら、最初の術を掛けて下さい。いいですか、行きますよ。一、二、・・・」

「タレントアレグラ、踊れ!」

 

 パンジーは「三」まで待たなかった。彼女は「二」の段階で杖を振り上げ、イリスに呪いをかけた。

 

 しかし、ハリーやロンが、ルール違反をしたパンジーに憤りの声を上げるよりも、ハーマイオニーが思わず両手で顔を覆いながら悲鳴を上げるよりも、パンジーの呪いがイリスに命中するよりも早く――イリスは、正確に呪文を唱えた。

 

「プロテゴ、護れ!」

 

 イリスの前に、半透明の盾が出現し、パンジーの呪いをパチンと弾いた。思いがけないイリスのナイスディフェンスに、グリフィンドール生達のみならず、他寮の生徒達からも大歓声が上がる。当のパンジーも、驚愕に口をパクパク開閉しながら、次の呪文を掛けるのも忘れてイリスを見つめている。イリスはそのチャンスを見逃さず、一歩踏み出すと『武装解除呪文』を唱えた。

 

「エクスペリアームス、武器よ去れ!」

 

 イリスの呪文は見事に命中し、パンジーの手から杖が弾き出されると、空中をクルクル回転し、イリスの空いた方の手に収まった。

 

「素晴らしい、ミス・ゴーント!私のお手本をよく観察していたが故の、素晴らしいお手並みでした!グリフィンドールに十点あげましょう!」

 

 ロックハートが嬉しそうに叫ぶ。イリスは、誇らしい気持ちで胸を一杯にしながら、奪った杖をパンジーに返しに行った。屈辱を感じて顔を真っ赤に染めたパンジーは杖を毟り取るように奪うと、イリスを涙交じりの目で悔しそうに一睨みして、舞台を駆け下りて大広間を飛び出して行った。

 

 ――勝った。イリスは舞台の下を、万感の思いで見下ろした。ドラコを意地悪なパンジーから守ったのだ。スリザリン生以外は――というよりも、イリスがドラコを見る勇気がなかったので、スリザリン生のグループから露骨に目を背けていたのだが――みんな、ハリー達も含め、イリスに向けて惜しみない拍手や歓声を送ってくれた。

 

 やがてイリスは、生徒達に混じって、優しげな微笑みを浮かべて拍手を送るリドルを見た。しかし、イリスが嬉しくなって手を振ろうとした一瞬の間に、リドルの姿は跡形もなく消えていた。

 

 

 それから数十分もしない内に、イリスたち四人組は『決闘クラブ』を途中で抜け出し、人気のないグリフィンドール寮の談話室で、深刻な表情で互いの顔を見合っていた。

 

 ――その原因は、”イリス対パンジー”の決闘の後で行われた、次なる決闘のコンビ――”ハリー対ドラコ”の時の事だった。

 

 凄まじい殺気を飛ばし合う二人の様子を、イリスがハラハラと見守る中、スネイプに何かを耳打ちされたドラコは、いきなり呪文で蛇を出した。蛇は、その場を治めようとしたロックハートの愚かな行いのために”挑発された”と感じて怒り狂い、やがて舞台の下で事の成り行きを見守っていたジャスティン・フィンチ・フレッチリー目掛けて滑り寄ると、彼が逃げ出そうとする前に、攻撃の構えを取った。

 

 イリスはジャスティンを助けたいのは山々だったが――不思議な事に、蛇が何と言ってるのか全く理解する事が出来ない。蛇の鳴き声は、一向に、いつものような人間の言葉へと変換されないのだ。

 

 訝しむイリスは、やがて「蛇とだけは話す事ができない」とイオに言われた事を思い出した。蛇は今にもジャスティンに噛み付こうとしている。イリスが無我夢中で杖を振り上げ、『打撃呪文』を唱えようとしたその時――ハリーが操られるように前に進み出て、”蛇と同じ声”を出した。

 

 その途端、蛇はまるで庭の水撒き用のホースのように大人しくなり、床に平たく丸まり、従順にハリーを見上げたのだ。ハリーはジャスティンに向けて、心配する事はないと言わんばかりにニッコリと笑い掛けたが、ジャスティンは感謝するどころか、怒り狂って大広間を出て行ってしまった。生徒達は一瞬にして静まり返り、ハリーが不吉の象徴であるかのように遠巻きに眺めながら、不穏なヒソヒソ声で何事かを囁き始める。スネイプは、鋭く探るような目でハリーを見ていた。

 

 

 そうして、ロンがハリーを急いで大広間から連れ出し、今に至るわけである。

 

「僕は納得いかないよ。蛇と喋れる事が、どうかしたの?ここにはそんな事できる人、掃いて捨てる程いるだろうに。現にイリスだって、動物と喋れるじゃないか」

 

 ハリーは首を傾げながら、そう言った。

 

「ねぇ、イリス。君は、蛇とも喋れるの?」ロンがこわごわ尋ねた。

「ううん。おばさんから聞いたんだけど、うちの神様が蛇だから、同じ蛇とだけは喋れないんだって。だから、さっき力を持ってから初めて蛇を見たけど、何て言ってるか分からなかった」

 

 イリスが首を横に振りながらそう言うと、ロンとハーマイオニーはホッとため息をついた。

 

「でもさ。他の動物は良くて、蛇と喋れるのだけが、どうしていけないんだい?」

 

 ハリーの疑問に対し、イリスも素直に同意を示した。イリスは、自分と同じようにハリーが動物と喋れるという事実を知って、単純に嬉しいと感じていたのだ。しかし、会話できる対象が『蛇』だと言うだけで、どうして皆があんなに怖がったのか、それだけが理解出来なかった。ハーマイオニーは浮かない表情でハリーをチラッと見ると、静かに答えた。

 

「どうしてかというと、サラザール・スリザリンはパーセルマウス――つまり、蛇と話ができる事で有名だったからよ。だから、スリザリン寮のシンボルが蛇でしょう?」

 

 ハリーとイリスは、揃ってポカンと口を開けた。

 

「ハリー。イリスみたいに動物と話せる能力を持ってる人は、魔法界でもホントに珍しいんだよ。――でも、パーセルマウスはそれ以上だ。今度は学校中が君の事を、スリザリンの曾々々々々孫かなんかだと言い出すだろうな」とロン。

「だけど、僕は違う」ハリーの表情は、明らかな恐怖で引き攣っていた。

 

「それは証明しにくい事ね。スリザリンは千年ほど前に生きていたんだから、貴方だという可能性もありうるのよ」

 

 ハーマイオニーは、深い思案を秘めた瞳で、ハリーを見つめた。

 

 

 一足先に自室に戻ったイリスは、一人考えを巡らせながら、眠りにつくためにネグリジェに着替えた。

 

「イリス。君は、ハリー・ポッターを”無実の罪”から救いたいか?」

 

 ふとリドルの声がして振り向くと、彼女のベッドにリドルが腰かけている。彼は――瞳の奥に奇妙な赤い光をちらつかせながら――真剣な表情をして、イリスを見つめていた。

 

「”スリザリンの継承者”は、彼ではない。僕は”秘密の部屋”の真実を知っている」

 

 ――リドルが、ホグワーツ中の誰も知らない”部屋の真実”を知っている?イリスが思わず息を飲んで彼を見上げると、リドルは自分の傍に座るよう彼女を促し、静かに言葉を続けた。

 

「今から五十年前、”スリザリンの継承者”が”部屋”を開き、マグル生まれを一人殺害した凄惨な事件があった。僕とメーティスはその当時、事件の解決に尽力し、力を合わせて”部屋”を封じた。君に以前、トロフィー室で見せた「特別功労賞」の盾は、その時のものだ。

 ”部屋”の真実が、保身に走る愚かな教師達の手によって葬り去られぬよう、本物の僕は、当時の記憶をこの日記に託した」

 

 イリスの脳裏に、リドルと最初に出会った日が思い浮かんだ。――あの時彼は、自身を「ある目的のために作られた」と言った。まさか、それは――。イリスの考察を見抜いたかのように、リドルは精悍な笑みを見せた。

 

「そう。”秘密の部屋”の真実の開示、それこそが僕の目的であり、存在意義だ。イリス。それを知る覚悟があるのなら、君を――過去の、僕の記憶の世界へと連れて行こう」

 

 

 イリスはリドルに促されるまま、ローブのポケットから日記を取り出した。リドルが半透明の手を翳すと、日記の表紙がひとりでに開き、ページが強風に煽られたようにパラパラとめくられ、中程で止まった。真っ白な両開きのページに、小型テレビの画面のようなものが浮かび上がる。

 

「さぁ、イリス。覗いてごらん」

 

 リドルが静かに促した。イリスはごくんと生唾を飲み込み、興奮の余り震える手で日記を掴み直すと、こわごわその小さな画面に目を押し付ける。すると、体がぐーっと前のめりになり、画面が見る見るうちに大きくなり、体がベッドを離れ、ページの小窓から真っ逆さまに投げ入れられる感じがした。

 

 ――色と陰の渦巻く中へ――

 

 イリスは両足が固い地面に触れたような気がして、震えながら立ち上がった。怖くてギュッと瞑ったままだった瞼をゆっくりと開くと、そこは――イリスの慣れ親しんだ、ホグワーツの大広間だった。空中に無数の蝋燭が浮かび、天井には魔法の夜空が映し出されている。四つのテーブルには、彼女が見た事の無い顔ぶれの生徒達が座っていて、ざわざわと興奮したような大勢の話し声がする。

 

「リドル?」

 

 イリスは不安になって周囲を見渡すが、どこにもリドルの姿は見当たらない。しかも、ネグリジェ姿で佇むイリスの姿を、誰も気にも留めないのだ。

 

 イリスはやっと冷静さを取り戻した。ここはリドルの記憶の中の、過去のホグワーツなのだ。ここでは自分はせいぜい幻みたいな存在で、記憶の中の人達には全く見えないのだ。だけど、それならそうとリドルも教えてくれたらいいのに。どうして記憶の中に自分を一人ぽっちで放り出してしまったのか、イリスには皆目見当もつかず、彼女はただ、大広間のど真ん中で、途方に暮れて立ち尽くすだけだった。

 

 不意に、生徒達の賑やかな喋り声が、ピタッと止んだ。大広間の扉が開く音がして、イリスは振り返り、慌てて端っこへと移動した。扉を開けたのは、長いふさふさした鳶色の髪と髭を蓄えた、背の高い魔法使いだった。どこかで彼を見た事があるような気がして、イリスはアッと声を上げた。――ダンブルドア校長先生だ。今より随分と若いけれど、過去のダンブルドアに違いない。――という事は、とイリスは教職員テーブルを見た。校長席には、見知らぬ、皺くちゃで弱々しい小柄な老人が座っている。教師の顔ぶれも、見覚えの無い人達ばかりだ。

 

 ――私は、本当に”過去”に来ちゃったんだ。イリスは興奮して、高鳴る鼓動を落ち着ける事が出来なかった。

 

 ダンブルドアは自らの背後に、一列に並ばせた生徒たちを引き連れている。――イリスはようやく理解した。これは『組分けの儀式』だ。彼は――今と変わらない――飄々とした笑みを浮かべ、イリスの横を通り過ぎ、一年生たちを四つのテーブルの前に並べると、スツールを取り出し、その上に組分け帽子を置いた。組分け帽子が歌っている間、イリスはマジマジと一列に並んだ生徒たちを眺める。

 

 その中の一人に、イリスは不思議と視線を吸い寄せられた。真っ黒な髪に明るい褐色の瞳、少し背の高いハンサムな男の子。彼は、リドルにとても良く似ていた。――リドルは、五十年前は十六歳だったと言っていた。イリスは首を傾げた。もし彼が一年生の時のリドルだとするならば、この『組分けの儀式』の記憶も、”秘密の部屋”と関連があるものなのだろうか。

 

 やがて、ダンブルドアが長い羊皮紙を持って前に進み出て、『組分けの儀式』の始まりを告げた。次々と生徒たちが呼ばれていく。

 

「ゴーント・メーティス!」

 

 不意に呼ばれたその名前に、イリスは心臓が止まりそうになった。――メーティス・ゴーント。自分の祖母の名だ。彼女はリドルと同級生だ、と聞いた。ならば、きっとこの記憶はリドルが一年生の時のもので、間違いないだろう。イリスは、興味をそそられて、祖母の姿を探した。列の中から進み出たのは、癖のない黒髪を肩の半ば位まで伸ばした、凛とした佇まいの女の子だった。不思議な事に、彼女はリドルと同じ――明るい褐色の目をしていた。

 

 彼女は緊張した面持ちで椅子に座り、帽子をぐいと被った。帽子は短い沈黙の後、「スリザリン!」と叫んだ。スリザリンのテーブルから拍手と歓声が上がる。帽子を脱いだ時に、彼女はホッとした笑みを見せ、スリザリンのテーブルへ向かった。

 

 暫くしてリドルの名前も呼ばれた。帽子を被ったのは、やはりイリスが予想した『あの男の子』だった。彼も程なくしてスリザリン寮に決定し、テーブルへ向かう。彼は友好的な笑顔を浮かべながら、同級生達と握手を交わし――やがて、何番目か隣の席に座るメーティスにも、手を差し出した。

 

 二人の同じ淡い褐色の双眸が、交錯した。その時、二人はハッとしたような表情になり、暫くの間、手を繋いだまま、互いをじっと探るように見つめ続けたが――やがて、どちらからともなく、視線と手を静かに離した。

 

 

 不意に全ての景色が煙のように掻き消え、イリスの視界は闇に包まれた。

 

「リドル、君は蛇語が使えるのかい?」

 

 イリスがパニックの余り、声を出す事も出来ず、暗闇の中で茫然と突っ立っていると、不意に後ろから、見知らぬ男の子の声がした。

 

 思わず振り向くと同時に、周囲の景色は、大理石に囲まれた壮大な大部屋へと変わっていた。緑色のランプが部屋を照らし、暖炉の中では火がパチパチと爆ぜ、全体的に落ち着いた雰囲気が漂っている。声のした方向には、いずれもスリザリン生である事を示す、緑色のタイを締めた生徒達が集まっていて、大きな円を作っていた。

 

 イリスが背伸びして覗き込むと、その円の中心には、リドルがいた。彼は、得意げにテーブルの上に乗った蛇に向かって、口を横に開き、まるで空気が漏れるような”不思議な言葉”を喋った。すると、蛇は水撒き用のホースのように平たく丸まり、従順にリドルを見上げたかと思えば、次の瞬間には、鎌首をもたげて攻撃の構えを取った。――知らなかった。リドルもハリーと同じで、蛇語が使えるんだ。イリスは驚きの眼差しで、リドルを見つめた。

 

「サラザール・スリザリンと同じだ。パーセルマウスだ」

 

 周囲のスリザリン生たちはみな、蛇を自在に操るリドルに対し、畏怖の目を向けていた。ヒソヒソと興奮と恐れで上擦った囁き声を聞くと、リドルは冷たく傲慢な笑みを見せた。まるで、人から好意や信頼を寄せられるよりも――怖がられ、畏れられる事の方が満足だ、と言わんばかりの彼の様子に、イリスは疑問を抱いて首を傾げた。イリスが大好きな優しく親しみやすい日記のリドルと、今目の前にいる過去の記憶のリドルとが、全く結びつかなかったからだ。

 

 そんな中、一人の女生徒が、図書室で借りて来たのか、沢山の本を抱えながら談話室に入って来た。――イリスは息を飲んだ。メーティス・ゴーントだ。彼女も興味をそそられたのか、イリスの隣に立つと、精一杯背伸びしてリドルの様子を覗き見た。そして、他のスリザリン生達と同じように、目を丸くした。

 

 しかし彼女はその後、他のスリザリン生とは違った反応を見せた。白磁の頬をバラ色に染め、その明るい褐色の瞳を――まるで貴重な財宝を見つけた時のように――キラキラと輝かせたのだ。彼女は蛇語使いのリドルを恐れ、これ以上円の半径を縮めようとしない生徒達の間を擦り抜けると、その中心にいるリドルに戸惑う事無く近寄った。

 

「ねえ、リドル。あなたは、蛇語が使えるのね」

 

 メーティスは、ソファに腰掛けたリドルの傍におずおずと跪くと、熱を帯びた声でそう囁いた。その時の彼女の目は、リドルに対する、純粋な憧れや賞賛に満ち溢れていた。イリスは、”その目”を見た事があった。おばのイオが”神様(御神体)を見る時の目”だ。まるで神様を目の前にした熱心な信者のような眼差しに撃ち抜かれ、リドルは思わず、蛇を操る事も忘れて彼女を見返した。

 

 

 再び、全ての景色が煙のように揺らいで消え、程なくして、今度はどこかの廊下になった。イリスの目の前を、随分成長して背も伸びたリドルとメーティスが仲良く肩を並べて歩いていく。イリスは小走りで二人の横に並んだ。容姿端麗な二人は揃いの監督生の銀色のバッジを付け、親しい友人というよりもむしろ、お似合いのカップルにさえ見えた。

 

「今週のスラグ・クラブ。勿論行くだろう、メーティス?」

 

 リドルがローブのポケットから紫色のリボンで飾られた封筒を取り出し、メーティスに見せる。『スラグ・クラブ』って何だろう。イリスは首を傾げるばかりだが、メーティスは合点がいったようで従順に頷いた。

 

「ええ。貴方が行くなら私も行くわ。リドル」

 

 リドルが不意に歩みを止めたので、イリスは慌ててバックステップを踏む羽目になった。彼は露骨に眉をひそめ、彼自身が標準よりも背が高いために、頭一つ分以上も小さなメーティスを見下ろした。

 

「どうして君は、入学してから今までずっと、僕の事をファーストネームで呼ばないんだい?まるで他人行儀だな」

 

 咎めるような様子の彼の言葉に、メーティスは堪え切れないといった調子で、くすくすと笑った。

 

「だって、”トム”だなんて!そんな平凡な名前で、貴方の事を呼びたくないもの。貴方は、Tom(トム)よりも、Riddle(リドル)――そう、Riddle(なぞなぞ)の方が、余程しっくり来る呼び名だわ」

Riddle(なぞなぞ)だって?」

「ええ。貴方は、いつも私の事を親友だと言ってくれるわ。でも、一度だってその本心を見せてくれた事なんて、ないじゃない」

「心外だな。いつも僕は、君に本心を見せているっていうのに」

 

 リドルは指でメーティスの顎をクイと持ち上げ、彼女の瞳を――まるでそれを通して彼女の心中を盗み見るかのように――無遠慮に覗き込んだ。まるで彼の所有する人形のように、粗野な扱いを受けながらも、彼女は抵抗する事もなく、されるがままにリドルを見上げ、穏やかにこう言った。

 

「嘘は駄目よ、リドル。私には分かるの。きっと貴方自身が、とても大きな”Riddle(なぞなぞ)”なんだわ」

 

 

 イリスの視界は、再び、闇に閉ざされた。やがて音もなく世界が再構築された時、イリスは自分が、薄暗い空き教室にいる事に気づいた。周囲を見渡すと、窓際の席にリドルとメーティスがいた。

 

 しかし、二人の様子がどこか可笑しい。リドルは机に両手を突いて、俯いたまま小刻みに震えている。その震えが恐怖から来ているのか、それともまた”別のもの”から来ているのか。イリスには判断しかねた。窓の外では、真っ赤に熟した太陽が今にも山の向こうに落ちかけていて、その最後の光が――まるで何かを警告するかのように――唇を真一文字に引き結んだリドルの横顔を、不吉な赤色に染め上げていた。メーティスは彼の傍で、両手を祈るように組んだまま、固唾を飲んで見守っている。やがて、リドルが口を重たげに開いた。

 

「僕は、ずっと自分の出生が謎だった」

 

 それはメーティスに語り掛けているようでもあり、独白のようでもあった。

 

「最初は、死に屈した母親が魔女である筈がないと思って、父親の名前でホグワーツ中のあらゆる書物を調べた。――だが、違った。父親の名前はどこにも存在しなかった。今度は母親について、父親の時以上に、魔法族の家系に関する古い書物を、つぶさに調べた。そうしたら・・・」

 

 リドルは、皆まで言わずにメーティスを見た。その目の奥には、奇妙な赤い光がちらついている。

 

「メーティス。僕の母親、メローピー・ゴーントは、スリザリンの末裔(・・・・・・・・)だった。僕は、”スリザリンの継承者”だ」

 

 その時、イリスは、世界の時間が全て止まったと思った。彼女がそう錯覚しても何ら不思議ではない位、辺り一帯は不気味に静まり返り、三人の呼吸音すら聴こえない。

 

 ――”リドルが、スリザリンの末裔”?そんな事、彼は今まで、一言も言っていなかったじゃないか。イリスは一時的に呼吸をする事も忘れ、茫然とリドルを見つめた。メーティスも、イリスと同じ気持ちのようで、虚けたようにその場で立ち尽くすばかりだ。リドルはおもむろに机から手を離すと、真剣な表情で、メーティスの両肩を――彼女が怯えてビクリと肩を跳ねさせるのも構わずに――静かに、強い力で掴んだ。

 

「”ゴーント”」

 

 リドルは、噛み締めるように言った。――”ゴーント”。それは、リドルとメーティス、そして彼女の孫であるイリスのファミリーネームだ。イリスの頭の中で、真実に気づき始めた何かが叫んだ。

 

 ――駄目だ!彼の言葉をこれ以上、聞いてはいけない!――

 

 だが、イリスの好奇心は愚かにも『その続きを聞きたい』と欲してしまった。彼女は彼女自身の忠告を無視し、耳を塞ぐ事すら忘れ、二人の様子を一心に見つめる。蛇に睨まれた蛙のように震え、おずおずと見上げるメーティスを、蹂躙するかの如く凝視しながら、リドルは続けた。

 

「ゴーント家は――公には途絶えたとされているが――スリザリンの末裔だ。メーティス・ゴーント(・・・・)。まさか、君は・・・」

 

 長い沈黙の後、メーティスは、わなわなと震える唇を、やっとのことで開いた。

 

「そうよ、リドル。私も、貴方と同じ、スリザリンの末裔だわ」

 

 その時、メーティスは、確かにそう言った。

 

「どうして、僕に、明かさなかった?」リドルの声は、明確な怒気を孕んでいた。

「ごめんなさい。リドル!」

 

 メーティスは、途端に両手で顔を覆い、悲しげにすすり泣き始めた。

 

「私の母は、ゴーント家の一員だったけれど――蛇語を喋れなかった。で、出来損ないだったの!だから、家族からひどい虐待を受けて、命からがら逃げ出したと聞いたわ。母が亡くなるその時に出生を明かされて、”誰にもスリザリンの末裔である事は言うな”って、そう忠告されたの。私も、母と同じで蛇語が使えなかったし、ホグワーツの誰も彼も、私がそうなんじゃないかって疑いすらしなかったわ。でも、でも、まさか、貴方が――蛇語使いだったのは知っていたけれど――ゴーント家の一員だったなんて、私、知らなかった!」

 

 その時、リドルは――大きく口を開け、笑った。その笑みは――まるで、長い間、極限の飢餓状態にあった野獣が、やっと御馳走にありつけた時に浮かべるような――どす黒い欲望と狂気に満ちた、醜悪で恐ろしいものだった。むさぼるようにメーティスを見つめ、彼は興奮で上擦った声で、こう言った。

 

「僕らは、いとこ同士だったのか」

 

 メーティスは泣きじゃくりながらも、弱々しく頷いた。リドルはメーティスを愛しげに抱き締め、旨そうに舌なめずりをしながら、彼女の耳元で囁いた。

 

「メーティス。君は、”秘密の部屋”の場所を知っているのかい?」

 

 

 イリスは気が付けば、どこかの女子トイレにいた。数秒もしない間に、メーティスがリドルを連れてやって来た。彼女は迷いのない足取りで手洗い台へと向かい、白く細い指先で、震えながらも――等間隔に並ぶ銅製の蛇口のうち、脇に小さな蛇が彫ってあるものを指差した。

 

「リドル。これが、”秘密の部屋”の入り口よ。母が亡くなる前に”ここには決して近づくな”と、私に教えてくれたの。”部屋”は、本来はもっとずっと複雑な行程を経た場所にあったけれど、何世紀か前に排水管工事が執り行われた時、私たちのご先祖がここへ場所を移したらしいわ」

 

 メーティスの指が、そっと、引っ掻いたような蛇の絵を撫でた。

 

「この蛇口の前で、蛇語で”開け”と言えば、開くのよ。バジリスクが、貴方を待ってる」

 

 メーティスは感極まったように、リドルを羨望の眼差しで見つめ、一筋の涙を零した。

 

「私は、今まで自分を、ずっと出来損ないの生まれ損ないだと思っていた。でも、そうじゃなかった。きっと”真のスリザリンの継承者”である貴方を”部屋”へ導くために、私は生まれて来たんだわ。この命は――人生は、決して意味のないものなんかじゃなかった。――さあ、リドル。扉を開いて」

 

 リドルは悠然と進み出ると、蛇語で〖開け〗と唱えた。その途端、蛇口が眩く白い光を放ち、回転し始める。やがて手洗い台そのものが沈み込み、ぽっかりと黒い闇を孕んだ太いパイプが剥き出しになった。――”秘密の部屋”を開いた二人は、暫くの間、ものも言えずに興奮で震えていた。

 

 

 イリスの視界が瞬きをしたかのように一瞬、闇に閉ざされ、再び元の景色に戻った。

 

 彼女の目の前で、リドルは苦悶の表情を浮かべながら息を荒げている。彼の足元には、一人の女生徒が倒れていた。イリスは思わず駆け寄ろうとして、息を飲んだ。

 

 その女生徒は「嘆きのマートル」にそっくりだった。レイブンクロー生の証である青いタイを締めた彼女は、カッと驚愕に目を見開いたまま、硬直している。――イリスは全身が粟立った。まさか、死んでいるのか?

 

 不意に大きなものを引き摺るような音がして、イリスは弾かれるように振り返った。――緑色の巨大な蛇の尾っぽが、”秘密の部屋”へ続くパイプの中へと消えて行く。

 

「ハハハ、素晴らしい!僕は、僕は、ついに――”死を乗り越えた”!」

 

 リドルは、目の前で、女の子が尋常ではない状態で倒れ伏していると言うのに、気にも留めないどころか、凡そ彼に似つかわしくない、冷たく甲高い笑い声を上げた。イリスはゾッとして、たまらず震え上がる。しかし、彼は随分と衰弱しているようだった。顔色は不健康な程に青白く、フラフラとよろめいて、ついには床に倒れそうになった所を、傍にいたメーティスが慌てて抱き留め、支える。

 

「素晴らしいわ。誰もが克服できない死を支配した。貴方は、世界一偉大な魔法使いだわ」

「メーティス。君もあれ(・・)を作ればいい」

 

 リドルは、熱に浮かされたような目でメーティスを見つめると、女の子の傍に落ちた”黒い革表紙の日記帳”を指差した。

 

「そうして二人で永遠に生きよう。誰もが僕たちを恐れ、敬うようになる。二人で魔法界を、未来永劫支配し続けるんだ」

 

 メーティスは彼の言葉を聞くと、大きくその双眸を見開いた。しかし、イリスが見つめる中で、彼女の表情は――徐々に、驚愕から悲愴さを感じさせるものへと変わっていく。やがて彼女は――まるで何かに耐えるように――瞼を固く閉じた。暫くの沈黙の後、彼女は、ただゆっくりと首を横に振り、静かにこう言った。

 

「リドル。貴方は、いずれ魔法界を支配する”王”となるのでしょう?死さえも超越した貴方は、今とても特別な存在だわ。特別な存在は、ただ一人でなければ(・・・・・・・・・)。私は、貴方が何よりも大切なの。だから、貴方の覇道を邪魔したくない。スリザリンの末裔にも関わらず、蛇語を使えない私のようなものが、同じ不死の命を戴き、隣に並び立つのは滑稽だわ。貴方を汚してしまう」

 

 メーティスは、もう自力で立てる程の力を取り戻したリドルから手を離し、その場で恭しく跪いた。

 

「でも私は、貴方と同じ高みに立つ資格はないけれど――貴方の事を誰よりも理解し、その力になれる実力と自信がある。――リドル。私は、今この時をもって”王”となる貴方の”従者(サーヴァント)”になるわ。偉大なる貴方と同じスリザリンの血は、決して途絶えさせない。この体が朽ち果てた時、私の子供がその遺志を継ぐでしょう。貴方に一族共々、永遠の忠誠を誓います。”陛下(ユア・マジェスティ)”」

 

 

 イリスはもう、まともに頭を働かせる事すら出来なかった。無意識にその場から一歩引こうと後ろに踏み出した足が、サクッと柔らかな草を踏む。いつの間にか、周囲の風景は、ホグワーツ城を遠く離れ、どことも知れない谷の上へと変わっていた。谷の下には見知らぬ小さな村があり、建ち並ぶ民家の中で、一際立派な屋敷が目立っていた。

 

「これでスリザリンの末裔は、僕らだけだ」

 

 イリスが振り返ると、すぐ後ろに私服姿のリドルとメーティスがいた。リドルは、掌の中で何か小さなものを転がしながら、改めてメーティスに向き直ると、自分の杖を取り出してこう言った。

 

「ずっと考えていたんだ。汚らわしいマグルの名前はもう使わない。これこそが、僕の本当の名前だ」

 

 リドルは空中に、杖で自分の名前を書いた。

 

 TOM MARVOLO RIDDLE(トム・マールヴォロ・リドル)

 

 彼が杖を一振りすると、文字は炎のように揺らめきながら、その並び方を変えた。

 

 I AM LORD VOLDEMORT(俺様はヴォルデモート卿だ)

 

 空中でゆらゆらと怪しげに光るその文字を見て、メーティスは恍惚とした表情で囁いた。

 

「”死の飛翔、もしくは窃盗(ヴォルドゥモール)”。とっても素敵だわ」

「そう遠くない未来、魔法界中の魔法使いや魔女がこの名前を口に出す事すら恐れ、僕に平伏すようになるだろう。メーティス、君も付いてきてくれるね」

 

 メーティスは、野獣のように獰猛な笑みを浮かべるリドルのローブの端を摘まみ、愛しげにそっと口付けた。

 

「御意のままに。陛下」

 

 

「あ・・・あっ・・・り、リドル・・・っ」

 

 イリスは喘ぎながら、やっとの事でリドルの名を呼んだ。

 

 ――リドルが、ヴォルデモート卿だった。イリスやハリーの両親を殺し、魔法界で残虐の限りを尽くした”最も恐ろしい闇の魔法使い”。それだけではない、イリスの祖母・メーティスは――彼の血縁者であり、”従者(サーヴァント)”だった。彼らが”秘密の部屋”を開け、バジリスクを解放し、「嘆きのマートル」を――恐らく――殺したのだ。五十年前の事件は、二人が巻き起こした事だったのだ。余りにも残酷過ぎる真実に打ちのめされ、イリスは恐怖の余り、ガクガクと震える足を懸命に動かし、一刻も早くその場から逃げ去ろうとした。

 

 しかし、彼女の体を、誰かが背後から強い力で抱き竦める。実に愉快そうな声が、怯えるイリスの耳元で聞こえた。――リドルだ。

 

「もう遅いよ、イリス。君は、余りにも自分の魂と魔法力を、この僕に明け渡し過ぎた!今や、君の体の支配権は、君じゃなく僕にある。それよりも久々の”(あるじ)”との再会を喜びたまえ、小さな”従者(サーヴァント)”。未来の僕の信奉者が、僕と君を再び引き合わせたのだ」

 

 ”未来のリドルの信奉者”?言葉の真意が掴めず、戸惑うばかりのイリスに向け、リドルは惚れ惚れする位に爽やかな微笑みを見せた。

 

「そうか。君は、彼に忘れさせられていたんだね。そろそろ君も、夢から覚めるべきだ。僕が君にした事も含めて、全て思い出させてあげよう」

 

 リドルは小柄なイリスを抱き、草むらの上に押し倒した。イリスが身の危険を感じて起き上がろうとする前に、リドルが指を鳴らすと、草の一本一本が彼女の体中に巻き付き、一切の動きを封じてしまう。

 

「やだっ・・・ま、待って、リドル!そんな、信じてたのに!」

 

 イリスは信じられなかった。いや、信じたくなかった。リドルは彼女にとって、今やかけがえのない存在――大切な親友であり、教師であり、家族だった。だが、目の前で、歪んだ欲望を剥き出しにした醜悪な笑みを見せるリドルは、もうイリスの知っている『彼』ではない。――優しいリドルは、邪悪なけだものへと変わってしまった。否、これこそが彼の本性なのだろう。リドルは、イリスが生理的に流してしまった涙を指で掬い取ると、彼女の耳元でこの上なく優しく囁いた。

 

「イリス。もう僕は、十分過ぎる程に待った」

 

 そしてリドルは、嫌がるイリスの額に手を押し当てると、彼女の奥底に封じられた記憶を、容赦なく暴いた。

 

 ――イリスは、突然、全身に強い電流を流されたかのように、大きく痙攣した。頭の中へ急激に情報を流し込まれたために、視界が、意識が、バチバチと音を立てて明滅する。彼女の中に、”真実”――ルシウスの手によって忘却された”あの日の記憶”や、リドルに体を操られて行った”事件の記憶”が、無理矢理押し込まれていく。それらは、捏造された”偽りの記憶”を――イリスの心の整理が付く前に――凄まじい勢いで押し流していった。

 

 そうしてイリスは、全て思い出した(・・・・・・・)。――ルシウスに襲われ、”服従の呪文”を掛けられた事――日記の主であるリドルに操られ、雄鶏を絞殺した事――壁の文字を書き、バジリスクを解き放ってミセス・ノリスを襲った事――

 

 ――駄目だ!おぞましい現実を突きつけられ、気が狂いそうになったイリスの心が、自分の身を守るために、必死に叫んだ。――これは夢だ!ここにいてはいけない!起きろ!

 

 イリスは渾身の力を振り絞って、リドルの記憶の世界から現実世界へと帰還した。勢いよく飛び起きた拍子に、彼女はベッドから転がり落ち、全身に鈍い痛みが走る。だが、イリスはそんな痛み等、もうどうでも良かった。息を荒げながら、ぶるぶると震え始めるイリスの目の前で――彼女を嘲笑うかのように――傍に落ちた黒い革表紙の日記が、ひとりでに開き、パラパラとページがめくられ、空いた真っ白なページに金色に光る文字が浮かんだ。

 

”君は僕のものだ”

 

「ひっ、あぁっ・・・!」

 

 イリスはたまらず、絶望の悲鳴を上げた。――私は、何て事をしてしまったんだろう!”スリザリンの継承者”は、自分自身だったのだ。今まで忘れていたのが不思議な位、今は全てを克明に思い出せる。――ルシウスと対峙した時の、あの恐怖。ミセス・ノリスを襲った時の、彼女の断末魔。雄鶏の首の骨をへし折った時の、あの感触。――イリスは耐え切れず、その場で嘔吐した。

 

「イリス!どうしたの?!」

 

 やがてイリスの異変に感づいたハーマイオニーが起き出し、悲鳴を上げてイリスに縋り付いた。彼女は杖を振ってすぐさま嘔吐物を清めると、イリスの背中を懸命に摩り始める。

 

「医務室へ行きましょう。やっぱり貴方、最近様子が変だわ」

 

 我に返ったイリスは大好きな親友を見ると、途端に張り詰めていた心が緩み、蒼白な顔をくしゃくしゃに歪ませて、ハーマイオニーに矢も楯もたまらず抱き着いた。――伝えなければ。イリスは勇敢にも、そう決意していた。私が犯人だったって。賢いハーミーなら、きっと助けてくれるし、最善の策を考えてくれる。これ以上、犠牲者を出してはならないんだ。

 

「ハーミー、どうしよう・・・!わ、私、大変な事を・・・!」

 

 イリスは喘ぎながら、ハーマイオニーの顔を見上げ――

 

 ――声もなく、凍り付いた。ハーマイオニーの背後に、何時の間にかリドルが立っている。彼は穏やかな微笑みを浮かべ、ハーマイオニーの肩にそっと手を置き、もう一方の手でイリスに向けて「静かに」と合図をした。現実世界のリドルは、イリスにしか見る事が出来ない。ハーマイオニーは当然のように彼の姿に気づかず、心配そうに絶句したままのイリスを見つめている。――イリスは表情をこわばらせ、ゆっくりと彼女から視線を逸らした。

 

「何でもないよ、ハーミー。ちょっと怖い夢を見ちゃったの」

「でも、貴方、さっき何か・・・」

「本当に、何でもないの!もう寝るね」

 

 イリスは、俄然納得のいかない様子のハーマイオニーから逃げるように、自分のベッドに戻ると、布団を頭から被って寝た振りをした。

 

「賢い子だ、イリス。もし君が、僕の事を彼女に打ち明けていたら、次の犠牲者は彼女になっていただろう」

 

 リドルがイリスのベッドの傍で、悠然とそう言い放つ。イリスは恐怖の余り、涙と震えが止まらなかった。――イリスは、残酷な現実を飲み込むしかなかった。もう、どこにも逃げられない。元のようには、なれないと。




ついにリドルが本格始動(;O;)やっとダークヒロインタグに追いついてきたよ~。

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