ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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※作中に残酷な表現が含まれます。ご注意ください。
また、蛇語は〖〗で表記します。
※6/28 一部修正完了しました。


Page9.堕ちた卵は

 花の咲き乱れる夢の世界で、イリスがリドルと邂逅を果たしている頃。

 

 現実世界でのイリスは、日記の上に突っ伏して規則正しい寝息を立てていた。部屋は静寂に満たされ、扉の外からは談話室の微かな喧騒が聴こえる。

 

 やがて――深い眠りについていた筈のイリスの双眸が――ゆっくりと開かれた。

 

 その目は不思議な事に、いつもの金混じりの青色ではなく――邪悪ささえ感じるような金色に輝いていた。眠りから覚めたばかりだというのに、彼女の顔には呆けた様子もない。

 

 彼女はおもむろに日記から顔を上げると、両手を――まるで動作を確認するかのように――開いたり閉じたりし始めた。奇妙なその動作を終えると、イリスは自分の杖を取り出した。コツン、と杖先を頭の天辺に当て、彼女が知る筈のない『目くらまし呪文』を掛ける。

 

 その瞬間、イリスは周囲の景色と完全に同化した。彼女は日記を無造作に掴んで、ローブのポケットに滑り込ませ、鷹揚な動作で立ち上がった。

 

「”ハンプティダンプティー 壁に座ってたら”♪」

 

 イリスは囁くような声音で歌を口ずさみながら、自室の扉を開け、螺旋階段を降り、談話室へたどり着いた。そこにはちらほらとまだ生徒たちがいて、眠りにつくまでの時間を思い思いに過ごしている。しかし、姿を消したイリスには誰も気づかない。イリスの小さな歌声は、生徒たちの賑やかな話し声と暖炉の火がパチパチと爆ぜる音に掻き消されていく。

 

「”ハンプティダンプティー 勢いよく落っこちた”♪」

 

 イリスは寮の出入口である『穴』へと向かった。穴付近に設置された肘掛け椅子に座り、読書をするハーマイオニーの横を通り――ちょうど肖像画を開け、穴から談話室へ這い入ろうとしていたフレッドとジョージの間を蛇のように擦り抜けて、イリスは難なく寮の外へ出た。再び閉じられた肖像画「太った貴婦人」は、すぐ目の前に佇む透明化したイリスに気づかず、扇子で顔を半ば隠しながら、大きな欠伸をした。

 

「”王様の家来や馬でも”♪」

 

 風邪でもひいたのか、引っ切り無しに鼻水を啜りながら、見回りをするフィルチを素通りし、イリスは学校の外へと向かった。静まり返った廊下に、イリスの歌声だけが不気味に木霊する。彼女の足取りは、自室を出た時から一切の迷いがない。

 

 やがて彼女は校外へ出て、真っ直ぐにハグリッドの小屋――その近くにある鶏小屋へと向かった。イリスは南京錠の掛けられた扉の前で杖を振り、またも彼女がまともに成功させた事の無い『開錠の呪文』を唱えた。たちまち南京錠のロックは解除され、少し錆びた錠は音もなく地面に落ちた。キイ、と少し軋んだ音を立てて扉が開く。眠っている鶏たちを、品定めしているかのように一羽ずつ覗き込みながら、イリスは歩く。

 

 そしてイリスは、目当ての鶏を見つけ、口元をきゅっと上げて微笑んだ。繁殖用に入れられたのか、唯一立派な”鶏冠”の付いている雄鶏の首根っこを無造作に掴み上げ、容赦なくその首を締め上げた。たちまち夢から覚めた雄鶏はくぐもった悲鳴を上げ、苦しげにもがき、羽根を飛び散らせて抵抗するが、それに比例していくようにイリスの力は強まっていく。

 

 ついに――ボキン――と首の骨が折れる嫌な音がして――雄鶏は、だらんと全身の力を抜いた。

 

「”ハンプティーは元に戻せない”♪」

 

 自分の手で殺したばかりの雄鶏をゴミのように投げ捨てると、彼女は踵を返して小屋を抜け出し、振り返る事無く杖を振り、扉を元通り閉じて鍵を掛けた。

 

「”ハンプティダンプティー 壁に座ってたら 

 ハンプティダンプティー 勢いよく落っこちた”♪」

 

 イリスは再び校内へ戻った。いくつもの階段を上がり、寝静まった絵の並ぶ廊下を通り抜けて――三階のある女子トイレへ向かう。床は水浸しだが、すぐさま『防水の呪文』を掛けたイリスの足は、不思議と水を弾き、濡れる事はない。一番奥の個室では、悲しげに泣き叫ぶ女の子の声が聴こえる。

 

 真っ暗闇の中、不気味に響き渡る泣き声を気にする事もなく、彼女は静かに手洗い台へと進んだ。やがて等間隔に並ぶ銅製の蛇口の一つへ近づき、ぴたりと止まる。その目は、蛇口の脇に描かれている――引っ掻いたような小さな蛇の姿を、じっと見つめていた。

 

「メーティス。僕らはもう一度、始めるんだ」

 

 イリスは微かにそう呟いた後、口を横に開き、シューシューと――まるで空気が漏れるような――奇妙な言葉を囁いた。その瞬間、蛇口が白い光を放ち、回転し始め――手洗い台そのものが動き出した。台が丸ごと床下へ沈み込み、見る見るうちに消え去った後に、大人一人が滑り込めるほどの太いパイプが剥き出しになった。

 

「さあ、”従者(サーヴァント)”の手によって、「秘密の部屋」は再び開かれた。老いぼれめ。”堕ちた卵”を元に戻せるのなら、やってみるがいい」

 

 イリスは地獄へと続いていくような、果て無い闇を孕んだその穴を見て、艶然とした微笑みを見せた。

 

 

 ハーマイオニーは、つい今しがた何とも不思議な体験をした。それは、イリスが自室で一人泣いているために――いつ頃、部屋に入って慰めようかと思案しながら、読書をしていた時の事だった。

 

 フレッドとジョージがどこかでまた悪戯でも仕掛け終えたのか、満足気に笑いながら穴から出て来た時、彼らの笑い声に混じって、イリスの歌声が聴こえたような気がしたのだ。ハーマイオニーは反射的に周囲を見渡したが、当然のようにイリスの姿は見えない。

 

 ――空耳かしら。彼女は自分の耳を疑った。イリスは今頃、自室にいる筈だ。冷静に考えてみれば、彼女はつい先刻前に起こったドラコとの諍いの結果、深く傷つき――とてもじゃないが、歌うような気分ではないだろう。それに、もし本当に外に出ていたとしたら、あの双子が素通りなんかしないで、必ずイリスにちょっかいを掛ける筈なのだ。ハーマイオニーは極めて理性的に結論を出すと、妄想を打ち消すかのように軽く頭を振り、読書に戻った。

 

 だが、数十分経っても、ハーマイオニーの胸騒ぎはいまだに治まらなかった。――少し、確認するだけよ。彼女は自分に言い聞かせると、本を閉じ、自室へと向かった。

 

「イリス、入るわよ」

 

 ハーマイオニーはノックをしてから、部屋に入った。――彼女が想定していた通り、イリスはちゃんといた。勉強机の上に突っ伏して眠りこけている。ハーマイオニーは胸を撫で下ろした。やはりあれは、自分の幻聴だったのだ。

 

「嫌ね。聞こえる筈のない声が聞こえるなんて」

 

 彼女の独り言は、思いのほか静寂で満たされた部屋に響いた。ハーマイオニーは、イリスの傍まで近寄ると、彼女を優しく揺り動かして起こす。もう夜も遅いし、彼女をベッドに促そうと思ったのだ。

 

 

「イリス!こんなところで寝ていたら、風邪をひくわよ」

 

 イリスはハーマイオニーに揺さぶられ、目が覚めた。さっきまで、夢の世界でリドルに優しく抱き締めながら、慰められていたので、イリスはぼうっと夢見心地だった。――今でも克明に思い出せる。むせ返るような花の匂い。リドルの腕の暖かさ。あの圧倒的な安心感。

 

「あれ?いまなんじ?」

 

 まだ現実と夢の区別がついていない様子のイリスを見て、ハーマイオニーはくすくす笑い、今の時間を告げた。やがて完全に覚醒したイリスは、咄嗟に手元にある筈の日記を掴んで隠そうと、片手で周囲を探り――やがてローブのポケットの中へ行き着いた。どうやら、眠りにつく前に、無意識にポケットに入れたらしい。イリスはホッとした。

 

「あら。貴方ったら、どこでこんなのくっつけてきたの?」

 

 一方、ハーマイオニーは吹き出しながら、イリスのローブについていた小さな羽根を摘まみ、ゴミ箱へ捨てた。――どこで付けたんだろうと、イリスも首を傾げた。もしかして、ハグリッドの小屋を訪れた時にでも、くっ付けてきたのかもしれない。

 

 ふと、つい先刻前に起きたドラコとの出来事が思い返されて、イリスの胸はまた狂おしい程の痛みを訴え始める。しかし、夢の中のリドルの笑顔を思い浮かべると、痛みは徐々に鎮められていった。

 

 ――忘れよう。そう、忘れるしかない。イリスは首を横に振り、ドラコとの楽しかった輝く思い出や、深く傷ついた痛みを心の奥底へ沈め込もうとした。リドルは『頑張った』って褒めてくれた。私、彼を理解しようと、頑張ったもの。もうこれ以上、どうしようもできない。

 

 

 翌朝、イリスたちはいつものように、大広間で朝食を取っていた。昨日のドラコとイリスとの喧嘩の騒ぎは、四人の中で”暗黙の禁忌(・・・・・)”となったようで、誰も話題にすらしなかった。イリスももう、ハリーパパの目をかすめてまで、スリザリンのテーブルを見ようとは思わなかった。

 

 今朝の話のネタは、主にハリーとロンの罰則の内容だった。二人共それぞれ別行動であったらしく、ロンは、フィルチと共にトロフィー・ルームで銀磨きをし続けるというもの(しかも魔法なしだぜ!とロンはいきり立った)、ハリーはロックハート先生のファンレターの返事を書き続けるというものであったらしい。

 

 ロンが銀磨き粉の強烈な匂いを微かに全身から発しながら、フィルチとナメクジとトロフィーとの”四つ巴の死闘”の顛末を熱く語っている間、ハリーは浮かない表情でゴブレットを弄んでいた。イリスは気になって、問いかけた。

 

「どうしたの、ハリー。元気ないね」

 

 ハリーはイリスをそっと見つめてから、その原因を話し始めた。ハリーは罰則を受けている時、部屋の壁から、微かではあるが――”不気味な声”がしたというのだ。

 

「君なら、その声の正体がわかるんじゃないか?動物の声が聞こえるし」

「何て言ってたの、それは?」

 

 イリスが目玉焼きをつつきながら尋ねると、ハリーは――その時の状況を思い出しているのか――表情をこわばらせ、肩をぶるっと震わせると、毒を吐き出すかのように苦しげな調子でこう言った。

 

「『来るんだ、殺してやる』とか『八つ裂きにしてやる』とか、ずっとそんな事を言ってた。骨の髄まで凍るような、冷たい声だった」

 

 『殺してやる』だって?イリスはショックを受け、思わずフォークを取り落した。今までホグワーツ内外問わず、様々な動物と話してきたが、そんな物騒な事を言う者にはついぞ会った事がない。

 

「そんな物騒な事を言う動物なんて、今まで見た事ないよ」

「やっぱり、ハリー。ストレスだよ。君、あいつの胡散臭い自慢話の聞き過ぎで、幻聴でも聞こえちまったんじゃないのかい?」とロンが混ぜっ返す。

「ロン。胡散臭い自慢話じゃないわ、実・体・験・よ」ハーマイオニーがムキになってピシャリと言い返した。

 

 イリスはごくりと生唾を飲み込んだ。誰にも聞こえない恨めしげな声。それは、毎年夏頃に決まって、イオに強請ってしてもらう『怪談話』に登場する幽霊や妖怪等と言われる存在に、酷似していたのだ。ホグワーツはとても歴史ある古い学校だ。ホグワーツならではの『七不思議』があったって――まあ実際は、七つどころではない程、不思議な事が日々起こり続けているが――当然の事だろうと、イリスは想像した。

 

「ねえ、それってゴーストなんじゃない?ゴーストなら、壁の中にも入れるでしょ」

「ゴーストなら、ロックハートだって聞こえたはずだ」ハリーは納得いかないようだ。

「ハリーにしか聞こえない位の、小さな声だったとしたら?それとも、ハリーに”霊感”があるとか」

 

 イリスが食い下がると、ハーマイオニーはかぶりを振りながら、毅然と言った。

 

「イリス。”霊感”だなんて。貴方、まだマグルの世界のオカルトを信じているの?ゴーストになれるのは、死ぬ時に強い未練を残した魔法使いや魔女だけ、そしてそれが見えるのも、”霊感”なんかではなく”魔法力”を持った魔法使いや魔女だけよ。

 それに、ホグワーツにいるゴーストは、そんな物騒な事言わないわ。仮にそんな――人を襲うような考えを持った恐ろしいゴーストがいたとしたら、何よりダンブルドアが放っておかないと思うし」

「ゴーストでもなく、動物でもないとしたら・・・一体、僕は何の声を聴いたっていうんだ?」

 

 ハリーが茫然と呟き、三人は頭を捻って考えを巡らせる。やがてハーマイオニーが口火を切った。

 

「じゃあ、こうしましょう。もし、またハリーがその不気味な声が聴いたら、イリスにも近くに寄って聴いてもらうのよ。イリスも聴こえたら、それは動物の声に間違いないし、もしイリスが聴こえなくって、ハリーだけに聴こえ続けてるとしたら・・・」

 

 言葉を最後まで言わず、ハーマイオニーは気遣わしげに、ハリーを見た。ロンが、何故かぶるぶる震え始めた自分の杖に、苦心してスペロテープを貼り直しながら、にべもなく言い切る。

 

「君は聖マンゴ行だね、モチのロンで。ロックハートに莫大な治療費を請求してやろうぜ」

 

 

 十月がやってきた。校庭や城の中は、湿った冷たい空気に満たされていく。季節の変わり目ともいえるこの時期に、生徒教師問わず、風邪が流行り始めた。ホグワーツ中で、マダム・ポンフリー特製の「元気爆発薬」が大活躍し、それを飲んだ人々は、数時間は耳から煙突のように煙を出し続けることになった。

 

 変わったのは暦や気温だけではなく――ドラコもそうだった。イリスは時々彼と擦れ違う事はあるが、その時は決まって彼の方から気まずそうに目を逸らした。そして彼は、イリスがいる時はハリーたちに絡みもしなくなった。イリスは余計な争いをしないで済むと安心する反面、そんな彼の素っ気ない対応に、かえって心を痛めた。

 

 イリスはあの夜以降、日記は一切書かず、毎晩夢の世界でリドルとの逢瀬を重ねていた。ハーマイオニーのスケジュール表の合間を縫って筆談するよりも、彼女が絶対に邪魔する事のできない夢の中で会う方が、イリスにとっても都合が良かった。イリスは眠りにつく度に、彼女の心からぽっかりと抜け落ちたかつての友人――ドラコの穴を埋めるようにリドルを求め、彼に夢中になった。リドルはホグワーツ中の誰よりも物知りで、話し上手だったのだ。

 

 そして彼は、やがてイリスの他愛無い世間話を聞くだけではなく、彼女に勉強も教えると明言した。

 

「君を首席にするって言っただろう?君は聡明な魔女だ、必ずできるよ」

 

 リドルはイリスに囁き掛け、パチンと指を鳴らした。――その瞬間、一面のリコリスの花畑の風景は、見る見るうちにホグワーツの教室へと姿を変えた。イリスは驚いて周囲を見渡す。――ここは、ロックハート先生が使用している「闇の魔術に対する防衛術」の教室だ。イリスはいつの間にか席に着いていて、机の上には全ての授業の教科書が並べられていた。教壇にはリドルが立ち、穏やかな笑みを浮かべ、イリスを見下ろしている。

 

「夢の中でまで、勉強したくないよ。リドル」

 

 イリスが捨てられた子犬のような目つきで訴えると、リドルは可笑しそうに吹き出した。

 

「イリス、勉強は本当はとても面白い事なんだよ。君の親友のハーマイオニーは、幸いにもその楽しさに気づいているが、君に教える事までは出来ていないようだ。

 僕は、当時ホグワーツの教師を目指していた。僕が君だけの教師として、”学ぶ喜び”を教えてあげよう」

 

 リドルはにっこりと微笑んだ。教師を目指していただけあって、リドルの教え方はとても上手だった。イリスは毎晩――朝目覚めるまでの間、夢中になって知識を詰め込んだ。呪文学、変身術、魔法薬学――イリスの頭は乾いたスポンジになったんじゃないかと思う位、夜毎多くの知識を吸収した。

 

 とりわけイリスが夢中になって学んだのは、「闇の魔術に対する防衛術」だった。他の授業は、担当する先生方の授業の流れに沿って行われるのに対し、「防衛術」の授業においてだけは、ロックハート先生の教科書のたとえ1ページでも使う事を、リドルが頑なに拒否した。そして、彼独自の観点で教鞭を取ってくれたのだ。

 

「ホグワーツにおいて一番重要なこの授業で、こんな自伝を読ませるなんて。どうやらダンブルドアは、人選を間違えたらしい」

 

 そう嘲りを含んだ声で言い捨て、リドルはロックハート先生の教科書類をゴミ箱に投げ込むと、イリスに向き直る。

 

「イリス。闇の魔術は、君が思っているよりもずっと厄介な代物だ。鉱物のように複雑な構成をしていて、水のように捉えどころがなく――引力のように人を惹き付け、善人をいとも容易く奈落の底へ引き摺り落とす力を持つ。

 ――毒をもって毒を制す。闇の魔術に抵抗するには、まずそれを知らなくては」

 

 リドルは繰り返し、イリスに言い聞かせた。その頃には、イリスはリドルに心酔し始め、彼の言葉を無抵抗に受け入れるようにまでなっていた。

 

「――君に僕の知る闇の魔術(すべて)を教えよう。君には才能がある。君は素晴らしい〖死喰い人〗になれるよ」

 

 だからイリスは、最後にリドルが言葉の継ぎ目に微かに放った――空気の漏れるような奇妙な言葉が”何”を意味しているのか、疑問に思う事すらなかったのだ。

 

 

 十月は飛ぶように過ぎ、やがてハロウィーンがやって来た。ホグワーツ中にパンプキンパイの焼ける良い匂いが立ち込め、大広間はいつものように生きた蝙蝠が群れを成して飛び交い、ハグリッド特製の巨大かぼちゃはくりぬかれて、中に大人三人が十分座れる位の大きなランタンになった。浮足立つ生徒たちとは対照的に、ハリーたち四人組は浮かない表情をしていた。――ハリーが、ハロウィーン・パーティと同時刻に開催される、寮つきゴースト「ほとんど首無しニック」の開催する『絶命日パーティ』に行くと約束してしまったからだ。

 

「『骸骨舞踏団』だぜ!」

 

 ダンブルドア校長がパーティの余興用に『骸骨舞踏団』なる魔法界の人気バンドを予約したとの噂を聞き、ロンが地団太を踏みながら憤った。

 

「絶命日パーティなんか、行ってられないよ!」

「約束は約束でしょ」

 

 ハーマイオニーは頑として譲らない。イリスはそんな二人の様子をぼんやりと見つめていた。朝から強烈なまでに体の怠さや寒気が続き、あまり話す気にもなれなかったのだ。

 

「絶命日パーティに行くって、貴方そう言ったんだから」

「はくしゅん!」

 

 ハリーが気まずそうに頭を搔いているのをみながら、イリスは一つくしゃみをした。三人は思わず、鼻を擦るイリスを見る。

 

「君、もしかして――風邪?」ロンが羨望の眼差しでイリスを見た。

 

 ハーマイオニーが慌ててイリスの元へ近づき、彼女の額に手を当て「ひどい熱だわ」と唸った。

 

「ごめんなさい、イリス。貴方いつもぼうっとしているものだから、気が付かなくて。すぐ医務室へ行きましょう」

「いやだ。――はくしゅん!絶対、わ、私も、絶命日パーティに、行く!」 

 

 イリスはふらふらになりながらも、必死に駄々をこねた。せっかくの仲良し四人組が揃ったハロウィーンに、自分一人だけ医務室でお留守番など耐えられない。三人に強制的に連行された医務室で、イリスはベッドに腰掛けながら元気爆発薬の入ったゴブレットを睨み付け、未練がましく言った。

 

「これ飲んだら、私も行っていいよね」

「馬鹿言うな。そんな死にかけで行ったら、君が絶命しちまうよ」とロンがバッサリ切り捨てた。

「ほら、飲んで」

 

 ハリーがゴブレットを持ち、イリスに薬を飲ませる。薬はとても苦かった。顔をしかめながら、両耳から煙を上げ始めるイリスの手を取り、ハーマイオニーが悲しそうに眉根を下げながらこう言った。

 

「ごめんなさい。きっと私のスケジュール表の内容が過密すぎたのね。貴方、確かに成績は上がったけど、顔色の悪い日が続いていたもの。もっとゆとりを持たせるべきだったわ」

「違うよ。は、は、はくしゅん!ハーミーのせいじゃない」

 

 イリスは慌ててかぶりを振った。ハーマイオニーのスケジュールは模範生の生活サイクルそのもので、健康的で実に良いとリドルも賞賛していた。――きっと、夢の中でも勉強しているから、それで体が一時的に疲れてしまったのに違いない。しかし、その事をハーマイオニーに伝えるには、まずリドルの存在を明かさなければならない。そんな事はイリスには出来なかった。

 

「そうだ!僕らもイリスの風邪が移ったってことにしてさ、絶命日パーティなんかドタキャンしちまおうぜ!」

「駄目よ。行くって約束したんだから」

 

 湿っぽい空気を打ち破るように、ロンが明るい声で提案するが、すぐさま元の調子を取り返したハーマイオニーが却下する。イリスはハリーに掛布団を掛けてもらいながら、言った。

 

「ハリー。楽しんできてね。おみやげ、期待してるから」

「ああ。ハロウィーンのパンプキンパイよりいいものが、絶命日パーティにあればだけどね。おやすみ」

 

 ハリーはイリスの額に口付けを落とすと、二人と連れ立って医務室を出て行った。

 

 

 イリスは、夢を見ていた。どこかの廊下を、ふらふら歩いている。意識も視界も、朦朧としていて、切れかけた蛍光灯のように明滅し、定まらない。

 

 ――ぱしゃん。急に冷たさを感じ、足元に目線を落とす。いつの間にか、廊下が水浸しになっていた。この水は、一体どこから来たんだろう。

 

 どこからか、女の子の悲しげな泣き声が聴こえる。この声を、私は知ってる。誰かが言ってた。ここには入っちゃダメって――とても大好きな誰かが――。でも、それ以上、思い出せない。

 

 ――不意に意識が沈み込み、視界は闇に閉ざされる。再び、イリスが目を開けた時、強烈なペンキの匂いが鼻をついた。

 

 イリスは壁の前に立っていた。糸で操られる人形のように、イリスの手がひとりでに動き――足元にあるバケツから赤色のペンキを刷毛に塗り付けると、壁に文字を描き始める。

 

 すぐ傍にある松明の光が、床の水溜りに反射して、視界を滲ませる。ペンキの匂いが鼻を狂わせる。そして――壁の中を、とても大きなものを引き摺るような、音がした。

 

 ――ずしん。とてもとても大きなものが、水を跳ね上げながらイリスのすぐ後ろに着地した。だというのに、イリスは不思議と怖くなかった。ただ、文字を書き続ける。

 

 それは、シューシューと空気が漏れるような音を立て、イリスの背後で蠢き始めた。――イリスの視界の端を、大きな緑色の尾っぽが掠める。

 

 イリスは、書き上げた文字を茫然と眺めた。松明の輝きに照らされて、文字は鈍くきらめいている。

 

 ”秘密の部屋は開かれたり 継承者の敵よ 気を付けよ”

 

 ――どうして私は、こんなことを書いたの?――

 

 彼女にとっては、全く意味の分からない言葉の羅列に過ぎなかった。イリスが首を傾げていると、不意に背後の大きな気配が消え去った。

 

 ――ぱしゃり。代わりに、今度はとても小さな足音が聞こえて、イリスはゆっくりと振り向いた。

 

 その正体は、灰色のやせ細った老猫 ミセス・ノリスだ。彼女はイリスを訝しげに見上げると、その鋭い目を丸くさせ、全身の毛を逆立たせながら、唸るようにこう言った。

 

≪あなたは誰?本物の彼女はどこ?≫

 

 ミセス・ノリスは何を言っているんだろう。イリスが考えをまとめる前に、彼女の口が勝手に開き――さっきのとても大きなものが発していたのと同じ――空気が漏れるような奇妙な言葉を紡いだ。

 

 ――どしん。再び、とても大きなものが、イリスのすぐ傍に着地した。

 

≪あの人に知らせなきゃ!≫

 

 彼女の相棒・フィルチの元へ駆けようとしたミセス・ノリスは、不意に目の前に現れたそれを見るため、足元から視線を上げようとして――甲高い断末魔の悲鳴を上げた。


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