作中の『スノードロップ社のリボン』はオリジナルです。
※2/23 一部微調整しました。
マルフォイ邸のイメージは、イギリスのカントリーハウスです。
イリスが階段で頭を打って気絶した上に記憶を飛ばしたという話は、誰が吹聴したのか瞬く間にホグワーツ中に広がり、『泣き虫イリスの落ちこぼれ伝説』における新たな1ページとして語り継がれる事になった。イリスはクィレル先生の手により『クィディッチの時に彼がハリーに呪いをかけた』と主張していた事すら忘れてしまっていたので、ハリーたちがスネイプを疑っているのを自信を持って否定する事はもう出来なかった。話し合いの結果、四人の間でクィレル先生の事はイリスの見間違いで、改めてスネイプが怪しい(イリスだけは本意でないが)という結論に達した。
さて、季節はもうすぐクリスマス。十二月も半ばになると、ホグワーツは深い雪に覆われ、湖は凍り付いていた。グリフィンドールの談話室や大広間には轟々と火が燃えていたが、廊下は隙間風で氷のように冷たく、身を切るような風が教室の窓をガタガタ震わせた。
生徒たちはクリスマス休暇が待ち遠しいようで、みんな例外なくそわそわと浮き立った様子で残りの日数を過ごしている。イリスも一刻も早く日本に帰ってイオに会いたい一心で、寒さに耐えながら勉強を頑張っていた。休暇中は、ハリーとロンは家庭の事情でホグワーツに残り、ハーマイオニーとイリスはそれぞれの実家に帰る事になっていた。
いよいよクリスマス休暇が翌日に迫った金曜日の朝、イリスが大広間で朝食を取っていると、イリスの向かい側に座っているハリーとロンが不意に食べる手を止め、急に険しい表情になって立ち上がりかけた。何事かと思ったイリスの肩に、後ろから誰かが軽く手を置いた。振り向くと、仏頂面のドラコが立っている。
「イリス。明日の朝十時、荷物をまとめてスリザリン寮まで来てくれ」
・・・は?
イリスは訳が分からなかった。事情が全く飲み込めていないイリスの様子を見て、ドラコはいらいらした口調を隠そうともせず言った。
「おい、正気か?今年の夏に僕のパパと約束しただろう?クリスマス休暇は僕の屋敷で過ごすって」
イリスは頭を捻って捻って――思い出した。ダイアゴン横丁でルシウスに『クリスマス休暇をマルフォイ邸で過ごしてはどうか』と提案されていた事を。イリスはそれに対する返事をイオに相談してからドラコにしようと思ってはいたのだが、連日の忙しさにかまけている内に、今日に至るまですっかりと忘れてしまっていたのだ。イオにはマルフォイ親子に会ったという事すら言いそびれていたので、彼女は当然イリスが休暇中は日本に帰るものと思っている。冷静に考えれば、お誘いの返事をし忘れていただけで約束まではしていないのだが、イリスがその事実に気づく前にドラコが畳み掛けるように言った。
「言っておくが、
・・・まさか、僕の父の顔を潰すつもりじゃないだろうね?」
ドラコのイリスに確認したという話は、彼女の退路を断つための嘘だった。イリスも当然身に覚えはなかったが、階段の話をされると本当に忘れてしまったのかもしれないと不安になって、何も言えなくなった。イリスが助けを求めるように三人を見ると、ハリーとロンは怒りに打ち震えた顔で「絶対に行くな!」と言わんばかりに首を横に振った。一方、ハーマイオニーはイリスを心配そうに見て「約束してたのなら仕方ないわ」と言わんばかりに肩を竦めて見せた。
「私、その、忘れてて・・・本当にごめんなさい。でも、あの、おばさんにクリスマス休暇は日本に帰るって言っちゃってるし・・・」
「フン。どうせそんなことだろうと思って、僕の父が一足先に君のおば宛に手紙を送ったよ。君のおば君も快諾したそうだ。もうじき君にも手紙が来るだろう」
ドラコがイリスの言葉を遮るようにして釘を刺していると、ちょうどふくろう便の時間になった。頭上を飛び交うふくろうたちの中にウメの姿が見えた――寒さでかじかむ羽根を懸命に動かしながらイリスの下へ飛んできて、雪に濡れた手紙を落とす。イオからの手紙は急いで書いたのか筆跡が荒々しく、インクの染みが所々にあった。
『イリスへ
アホかお前!クリスマス休暇はマルフォイさん家で過ごすって約束してたみたいだな。
そういう大事なことは、事前に必ずわたしに相談しろ。まさか忘れてたんじゃないだろうな?
クリスマスは会えなくて寂しいが、マルフォイさん家で楽しく過ごせよ。
P.S. ルシウスさんたちに、きちんとご挨拶すること。
イオより』
「・・・ほらね」
茫然とするイリスの後ろからドラコが手紙を覗き込んで、にやにや笑った。イリスは恐る恐るハリーとロンの方を見ると、二人は般若のような顔つきでイリスを睨んでいた。
☆
昼食前、四人は図書館でニコラス・フラメルについて調べていた。ハーマイオニーは調べる予定の内容と表題のリストを取り出し、イリスはリストに載っている本を探し出しては、ハーマイオニーのいる机にどんどん積み上げ、彼女が探し終わった本を元の場所へ戻す作業を繰り返した。司書であるマダム・ピンスに聞けば一番手っ取り早いのかもしれないが、四人の間では『聞かない』という暗黙の了解ができていた。スネイプの耳に入る危険を冒すわけにはいかないのだ。
結局、今日も進展なしだった。かれこれ二週間、ニコラス・フラメルについての情報を探し続けたが、授業の合間の短い時間に探すこともあってか収穫は得られなかった。お互いの顔を見合ってため息をこぼした四人は、大広間へ昼食を取りに向かう。ハーマイオニーがハリーとロンに話しかけた。
「私が家に帰っている間も続けて探すでしょう?見つけたら、ふくろうで知らせてね」
「君の方は、家に帰ってフラメルについて聞いてみて。パパやママなら聞いても安全だろう?」
「ええ、安全よ。二人とも歯医者だから」
それを聞いてロンが露骨にがっくりした表情を浮かべると、八つ当たりするようにイリスをじろっと睨んだ。
「君は聞いちゃダメだぞ、忘れん坊イリス。マルフォイ家は僕らの敵なんだから」
「いいかい、絶対にダメだ。いくら君でも、これだけは忘れちゃいけないよ」とハリー。
「う、うん・・・」
イリスはタジタジになって頷き、ハーマイオニーがイリスを庇うように自分の元へ引き寄せながら二人をたしなめた。朝食時の事件から、ハリーとロンはイリスに冷たく当たるようになってしまったのだ。
☆
次の日の朝、イリスはまとめた荷物を持ち、ハーマイオニーに早目のお別れの挨拶――お互い別行動になるためだ――をした後、談話室にいたハリーとロンの無言の威圧感から逃げるように足早にスリザリン寮へ向かった。寮の入り口には、ドラコとクラッブとゴイルがそれぞれの荷物を持って、イリスを待っていた。
「来たな。行こう」
イリスを確認したドラコが言うと、イリスを促して四人一緒に歩き始めた。お互い特に会話をするという事もなくホグワーツを出て、プラットホームから列車に乗り、適当なコンパートメントに荷物を押し込めて四人で座る。ドラコは窓際でイリスはその隣(ドラコが逃げようとするイリスの手を引っ張り込んだので、ほぼ強制的にその席になった)、向かい側にはクラッブとゴイルが座った。列車が走り始めると、沈黙がコンパートメント内を包んだ。思えば、スリザリン生三人に対しグリフィンドール生のイリスは、よそ者以外の何者でもなかった。気まずい場の雰囲気を少しでも良くしようとして、イリスがドラコに話しかける。
「ドラコのおうちって、どこにあるの?」
「ウィルトシャーだ」
ドラコは窓際に視線を向けたまま、ぶっきらぼうに答えた。取り付く島もない。イリスはもう少し粘って、辛抱強く話しかけた。
「そっか。クラッブとゴイルも、クリスマスはドラコの家で過ごすの?」
「君は馬鹿か?かわいそうなポッターじゃないんだ、二人とも帰りを待ってる家族がいる。それぞれの家に帰るのさ」
ドラコがイリスを馬鹿にしてせせら笑い、クラッブとゴイルはそれに合わせてげらげら笑った。
「そうですか・・・」
イリスはもう反抗する気力も残っていなかった。その時、コンパートメントの戸が開いて車内販売がやって来たので、イリスは心底ほっとした。四人はそれぞれお菓子を買って、食べ始める。イリスはクラッブやゴイルと良い勝負をする位大量のお菓子を買い込んで、ゆっくり時間をかけて食べ始めた。その内、三人がお喋りを始めたのをいいことに、イリスはなるべく気配を消してお菓子を食べる事に専念した。
☆
やがて列車はキングズ・クロス駅に到着した。荷物を下ろすのをクラッブとゴイルに手伝ってもらい、二人にお礼とお別れを言ってから、イリスはホームに降り立った。
生徒たちはみんな口々に「ただいま!」と叫んでは、迎えに来てくれた家族と思しき人々に嬉しそうに駆け寄って、抱き着いている。イリスは人込みの中でイオの姿を探したが、当然いるはずもなく、胸が締め付けられたように痛んだ。――代わりに、見覚えのある銀髪の男の人とその隣に立つきれいな女の人の姿を見つけた。ドラコがイリスを追い越して、一目散に駆けてその二人に飛びつき、代わる代わるハグとキスをしてもらっていた。イリスは親子の再会が落ち着いてから、おずおずと近づいた。
「お久しぶりです、ルシウスさん。初めまして、ドラコのお母さま。イリス・ゴーントです。
今日からお世話になります・・・その、ルシウスさん、私、ご迷惑をおかけして・・・すみませんでした」
ルシウスとドラコの母はイリスに気づくと穏やかに笑って、ドラコと同じようにそれぞれハグとキスをしてくれた。
「来てくれて嬉しいよ、イリス。君に会いたいが為に、私が少々先走ってしまったのだ。気にしないでくれ」
「イリス、会えて嬉しいわ。ドラコの母で、ナルシッサといいます。一緒に楽しいクリスマスを過ごしましょうね」
ルシウスとナルシッサは、上品な服装に身を包み、とても優しそうだった。イリスは二人の事が大好きになった。
☆
四人はダイアゴン横丁へ向かうと、とある宿の二階の一室に設置してあった『移動キー(マルフォイ家の家紋が刻まれた純銀の装飾皿だった)』を使用して、イギリスはウィルトシャーのマルフォイ邸前まで瞬間移動した。イリスは移動中のまるでジェットコースターに乗っているような強烈な遠心力と浮遊感に驚き、ルシウスとドラコがしっかり体を掴んでいてくれなければ、危うく移動キーから手を離して
「屋敷しもべ妖精だ。家の雑用を担当している。怯えることはない」
ルシウスはイリスに優しく教えてくれ、イリスが屋敷しもべ妖精に自己紹介をしようとするのをやんわりと手で制した。屋敷しもべ妖精は恭しく四人に一礼した後、ドラコとイリスの荷物を荷室へ運び入れ、一人ずつ手を取って馬車の中へ誘導する。馬車の中は拡張呪文が掛けられていて、広々としていた。馬車は丘の上の屋敷へ向かい、巨大な門扉をくぐり、玄関前で止まった。
「我が屋敷へようこそ、イリス。さあ、君の部屋を案内しよう」
馬車を降りながら、ルシウスが言った。
大理石の輝く壮大な玄関ホールを通り、飴色に磨き上げられた階段を上がる。――イリスの部屋は、ドラコの隣室だった。立派な装飾の施された扉を開けると、中はグリフィンドールの談話室が丸ごと入りそうな位に広く、高級そうな調度品の数々が設置されていた。意匠の施されたテーブルの上には、高級そうな服やアクセサリー類がどっさりと積んであった。
「あなたのお部屋よ。あそこの服や装飾品は、私が選んだの。あなたの気に入るといいんだけど」
ナルシッサがイリスの肩に手を乗せながら、優しく言った。
「こ、こんな立派なお部屋・・・服まで・・・私、いただけません。相応しくないです」
イリスは恐縮し、震え上がった。こんな一国の王女のような立派な部屋を使う資格なんて自分にはどう考え尽しても見当たらないのだと、つっかえながらも懸命にナルシッサに訴える。廊下で布団を敷いて寝た方がよほど気が楽だ。しかし、ナルシッサはイリスの言葉をきっぱりと否定した。
「いいえ、あなたにはその資格があるの。私も夫も、あなたのことが本当に大好きなのよ。ここをあなたのおうちと思ってくれていいわ。・・・さ、明日はあなたのクリスマスパーティーのためのドレスを買いにいかなくちゃね」
ナルシッサが去って行った後、イリスは豪奢な造りの天蓋付ベッドに腰掛け、茫然と考えていた。自分にその資格があるだって?ナルシッサもルシウスも、もしかして自分を他の誰かと勘違いしているのではないだろうか。イリスが段々不安を募らせていると、荷物を片付け終えたドラコがノックをしてから部屋に入って来た。
「どうしたイリス、いつものみっともない阿呆面が今日は飛び抜けて見えるぞ」
イリスはドラコの憎まれ口が有難かった。いつもの自分に戻れた気がして安心したのだ。ドラコをたしなめることなく、イリスは彼に問いかける。
「ねえドラコ、私、良い家柄でもないのに、どうしてルシウスさんとナルシッサさんは、こんなに良くしてくれるの?」
「それは僕が一番疑問に思っていることだ。はっきり言うが、君にマルフォイ家はふさわしくない。こんな部屋や服だって君には不釣り合いだ。ウィーズリー家の汚らしい継ぎ接ぎだらけの家で、毛玉だらけの服を着て仲良く雑魚寝している方がお似合いさ。・・・でも、パパとママは君のことを心底気に入ってる。いいか、特にクリスマスパーティーは名家の方々も来るんだ。パパは君を客人として出席させると言ってる。くれぐれも下品なことをして僕らに恥をかかせるな」
「はい・・・」
イリスはしょげ返った声で返事をした。
☆
次の日、イリスはマルフォイ親子と共に――今度は『煙突飛行粉』という道具を使って(イリスは粉を叩きつける時、咳き込まないよう我慢するのに苦労した)――ダイアゴン横丁へ出かけた。イリスはナルシッサに連れられて、彼女が行きつけなのだという高級ブティックへ向かう。
「娘ができたみたいで嬉しいわ。あなたは可愛いし肌の色も雪みたいに白いから、何でも似合うわね」
ナルシッサは楽しそうに頬を綻ばせ、店員とあれこれ話をしながらイリスに様々なドレスを試着させた。――最終的に、イリスの瞳の色に合わせた深い藍色のドレスローブに決まった。一方で、ドラコはルシウスの贔屓にしている紳士服店で、正装用のローブを買ったようだった。
その後、イリスはイオやハグリッド、ハリーたちのためにクリスマスプレゼントを買い、ふくろう便で飛ばす手続きをした。ハリーには新しいクィディッチの考察本、ロンには蛙チョコレートの大きな箱、ハーマイオニーには質の良い羽ペン・・・などなど。マルフォイ家の人には直接渡そうと思い、大分奮発して、ルシウスにはマントの留め具、ナルシッサには髪飾り、ドラコにはネクタイピンを選んだ。あとこっそりと、いつも眉間にしわを寄せてイライラしているスネイプ先生に癒しを提供しようと思い、現在魔法界で癒しを求める人々の間で流行しているという観賞用のガラス玉(中に浮遊する虹色の液体が入っていて、きらきらと輝きながら液体―氷―水蒸気へと姿を変えていく)を送った。――イリスは休暇明けの補習授業でスネイプに「嫌味か?」等と散々その事をいびられ、罰則と補習時間を増やされるという結末を、その時点では知る由もなかったのである。
その夜、イリスは夕食後、ルシウスに――まるで自分の父親のように――学校生活について尋ねられた。すかさずドラコが嬉々として「イリスは落ちこぼれで、スネイプ先生の補習を受けてるんだ」と言うと、ルシウスはドラコを軽く叱った。
「確かに君は魔法薬学の授業で一度大きな失敗をしてしまったようだが、補習授業ではよくやっているようだね。――私とスネイプ先生は友人なのだが、以前彼に会った時、君のことを『実力がある』と評価していたよ」
「ほ、本当ですかっ」
イリスは跳び上がりそうな位、喜んだ。補習授業もいずれはなくなるかもしれない。イリスが期待に胸を弾ませていると、ドラコが面白くなさそうに鼻を鳴らした。ルシウスはドラコがイリスを貶そうとして諦めずに言った「スリザリンを蹴ってグリフィンドールに入った裏切り者」という言葉にも眉根を上げ、厳しい口調でたしなめてくれたので、イリスはますますルシウスに好感を持った。
その後、イリスはルシウスに自分の父――ネーレウスの写真をたくさん見せてもらった。ルシウスはネーレウスとの学生時代や卒業後の思い出話をぽつりぽつりと話した。時折何かを思い出しているのか、目に涙を浮かべて言葉を詰まらせるルシウスを見て、イリスはきっと二人は親友だったに違いないと思った。
「ルシウスさんにとって、私のお父さんはどんな人だったんですか?」
イリスが聞くと、ルシウスはイリスを見つめ返しながら少し思案した後、「少し考えさせてくれ」と言い、イリスにもう寝るよう促した。イリスは自分の部屋に入る直前、ドラコに捕獲されて彼の部屋へ連行された。そして彼に「眠くなるまで付き合え」と命令されて、魔法使いのチェスの手解きを受ける事となった。ドラコと自分の駒にあーだこーだと叱責されながら夢中でチェスをやり込むうちに、いつのまにか日付が変わっていて、二人はびっくりした。
☆
クリスマス当日、イリスが眠い目を擦りながら起き出すと、足元にプレゼントの箱や包みがうずたかく積まれているのに気付いた。こんなに沢山のプレゼントをもらったのは生まれて初めてだ。イリスが感動していると、間もなくドアがノックされて、すでに身支度を終えたドラコが入ってくる。
「メリークリスマス。今日は忙しいぞ。プレゼントを開けるのはパーティーが終わってからにしろ」
「メリークリスマス、ドラコ。わかったよ。・・・あと、はい。クリスマスプレゼント」
ドラコは青白い顔を少し赤らめると、「ああ」と言うなりプレゼントをひったくるように受け取った。少し遅れてルシウスとナルシッサもやって来てクリスマスの挨拶をしてくれたので、二人にもプレゼントを渡した。
☆
パーティーの数刻前、イリスは大広間の隣にある控え室でドレスローブに着替え、大きな姿見の前に立って身だしなみを確認していた。後ろからナルシッサがやってきて、イリスの髪を触った。すると、彼女の手からイリスの頭へ美しい銀色のリボンが蛇のように巻き付いて、イリスの肩につく位まで伸びた髪をしゅるしゅると巻き上げ、サイドの髪を編み込み、優雅なシニョンのように結い上げた。驚いたイリスがわずかに頭を揺らすと、リボンは耳に心地良い位の大きさの鈴の調べを奏でた。
「私とルシウスからのクリスマスプレゼントよ、イリス。スノードロップ社のリボンなの。あとで説明書をあげるわね。合言葉を言うことで色んな髪型にまとめてくれるの。私も学生時代は便利だから愛用していたわ。・・・あなたのきれいな黒髪によく似合ってる」
そう言うと、ナルシッサは母親が娘にそうするように、鏡越しにイリスを優しげな眼差しで見つめながら彼女の髪を梳いた。イリスは居たたまれなくなって、ナルシッサに問いかけた。
「プレゼント、ありがとうございます。その・・・ルシウスさんだけじゃなくて、どうしてナルシッサさんも・・・私に良くしてくださるんですか?」
ナルシッサは少し悲しげに微笑んで、イリスの頭を撫でた。
「私はね、あなたのお母さんに、本当に大変な時、助けてもらったことがあるの。――ドラコは彼女のおかげで健康に生まれる事が出来たのよ。あなたのお母さんにお礼を言いたかったけれど、彼女はその前に亡くなってしまった。・・・私はその時の恩返しがしたいってずっと思ってたわ。あなたさえ良ければ、私のことをお母さんと思ってくれていいのよ」
ナルシッサはそう言うと、背後からイリスを抱きしめた。ふわりと良い匂いがして、イリスは訳もなく泣きたくなった。ナルシッサも目に涙を浮かべていたようで、二人は少し笑った後、揃って控室を出た。大広間ではルシウスと共にドラコが待っており、彼が魂を抜き取られたような顔でイリスをぼんやり見つめていたので、イリスは不安に駆られて尋ねた。
「どうかな、変?」
「・・・フン、君が変なのは元々だろ。行くぞ」
我に返ったドラコがエスコートするためにイリスに腕を突き出した。イリスはためらいながらも腕をからめる。
――マルフォイ家主催のクリスマスパーティーは、非常に豪勢で素晴らしいものだった。荘厳なシャンデリアが天井から大広間全体を照らし、部屋中に散りばめられた美しい絵画や調度品、屋敷しもべ妖精が作った数々の料理が、大勢の客人たちを楽しませる。家主であるルシウスが挨拶を終えると、みなそれぞれの思惑を胸に秘め動き出した。イリスはルシウスたちと共にドラコとついてまわり、挨拶をしてはドレスの裾をつまんで、優雅に頭を下げ続けなければいけなかった。イリスは十分もしない内に疲れ果ててへとへとになったが、マルフォイ家の三人は表情一つ変えずぴんぴんしている。――途中、見覚えのあるスリザリン生たち(クラッブとゴイルにも)に会い、格式ばった挨拶を交わした。彼らは誰もホグワーツの時のようにイリスをからかったりしなかったので、イリスは安心した。
☆
パーティーが終わったのは夜十時を回った頃で、四人は食堂室で集まり、身内だけのささやかなクリスマスパーティーが行われた。お腹がいっぱいになると、イリスとドラコはそれぞれの部屋に戻った。イリスが寝間着に着替えた後、クリスマスプレゼントの開封を始めていると、ドアがノックされ、チェスセットを抱えたドラコが入って来た。
「どうしたの?」
「気が立ってな。寝れないんだ。チェスでもしないか?」
「いいよ」
チェスをしながら、イリスはドラコを見て一人思いを馳せた。ドラコは最初こそイリスに対して意地悪だったが、日が経つにつれてその態度は軟化していき、今ではこうして仲良くチェスをするまでの仲になっている。
「ドラコって、実家に帰ると良いやつだね。ホグワーツに行くと意地悪になる魔法でもかかってるの?」
「フン。そういう君はどこに行っても、とろくさくて忘れっぽいな」
ドラコはやり返した後、イリスの目をじっと見た。
「何?」
「君の目は、不思議な色をしているな」
「よく言われるんだけど、そんなに不思議かな?」
ドラコはチェスの手を止めて、イリスの傍に近寄ってその目を見つめた。ぱっと見れば深い青色だが、じっくり見ると――海の底を通して太陽を見ているように――金色の光がちらついている。もっとよく見ようと接近すれば途端に光は消えて元の青色に戻り、諦めて目を離そうとすると再びゆらゆらと煌めき出す。まるで貴重な宝石を鑑賞しているようだと、ドラコは思った。
「ドラコ、近いよ」
気が付けば、お互いの鼻と鼻がくっ付く位の距離にイリスがいた。少し背筋を伸ばして距離を置こうとしながら、眉根を下げて困ったような表情でドラコを見ている。居心地悪そうに彼女が身じろぎした拍子に、耳にかけていた黒髪が一房はらりと解け、微かな花の香りがドラコの鼻をくすぐった。ドラコの脳裏に、パーティーで美しく着飾っていたイリスの姿が浮かぶ。きっとその時に付けた香水の残り香だろう。
――ドラコは何も考えずにイリスの顎に手を添え、彼女の唇にキスをした。
キスの時間は一瞬だったが、我に返ったドラコが慌てて唇と手を離すと、イリスは状況が全く飲み込めていない様子で、ぽかんとした表情を浮かべてドラコを見つめている。
「さっきのは就寝前のキスだ。もう寝ろ!」
ドラコは顔を真っ赤にして、勝負半ばで片付けられる事に口々に文句を言い続けるチェスの駒たちを慌ただしく掻き集めると、勢いよく扉を開けて出て行った。イリスは外国のキスの文化にまだ不慣れだったため、唇にされるキスの意味も余り理解しておらず、そういうものなのかと一人納得し、ベッドに入った。
☆
翌朝、イリスが身だしなみを整えてから朝食を取りに食堂室へ向かうと、ドラコとナルシッサは不在のようで、ルシウス一人だけがテーブルに着いていた。
「おはよう、イリス。二人はまだ起きていないようだ。先に食べる事にしよう」
そういうと、読んでいた日刊予言者新聞を閉じて置き、イリスにテーブルに着くよう促した。テーブルには豪華な朝食が並べられており、どれから食べようかと頭を悩ませているイリスに、ルシウスが唐突に話しかけた。
「君は『バロット』という卵料理を知っているか?」
「『バロット』ですか?」
聞いたことがない料理名だ。魔法界では定番なのだろうか。イリスが頭を捻っていると、ルシウスは納得したように頷いて、話を続けた。
「『バロット』というのは、一部のアジア領域内においてマグル界や魔法界でも食べられているもので、孵化直前の卵を茹でて雛ごと食べる料理だ。・・・すまない、君はアジア育ちだと聞いていたから、知っているのかと思っていたよ。
君は以前、自分の父がどのような人間だったか、私に尋ねていたね。どういえば君にわかりやすく説明できるか考えていた時に、ふとそれを思い出したのだ。何故私が知っているかと言うと、学生時代、学友とフィリピンを旅行していた時、興味本位でそれを一度食べた事があってね。見た目は勿論いびつな雛の姿をしていて憐れみを誘ったが、その分どこか背徳的で、味も非常に美味だった。
――イリス。君の父は、まさに『バロット』だった。誰にも引けを取らない程の才能や魔力を有しているのに、それを一度も開花させる事なく殻の中に閉じ籠もったまま成長し、本来の姿になる事を拒み、殻を破る事無く未完成な姿のまま死んでしまった。・・・君は彼によく似ている。似ているからこそ、私は君に、
イリスはルシウスの言葉の意味を考えたが、よく理解が出来なかった。とにかく、勉強をがんばれって事かな。曖昧な返事をした後、ルシウスの視線から無意識に逃げるようにテーブルを見ると、精緻な造りのエッグスタンドに卵が設置してあった。果たしてこれはゆで卵なのか、生卵なのか、それとも『バロット』なのか。未知の料理に固まったイリスに気づくと、ルシウスは口元だけで微笑んで鷹揚な動作で席を立ち、イリスの背後からそっと手を伸ばした。
「――
耳元でそう囁くと、イリスの手を取り、スタンドの横に置かれた小さな銀製のスプーンを握らせる。エッグスタンドに空いた手を添えさせ、卵の頂点をスプーンの頭で軽く数度叩き、上品に殻を割らせた。中身を飛び散らせる事無く優雅に殻を取り除けると、現れた半熟の中身をスプーンで掻き雑ぜ、すくってイリスの口元に持って来させる。大人に食べさせられるなんて、まるで赤ちゃんみたいだ。イリスは恥ずかしがって少しためらったが、おずおずと自らの手を包み込むルシウスの手から、卵を食べた。
「美味しいかね?」
「はい」
イリスの返答を聞くと、ルシウスは猛禽類を思わせる鋭い目つきを隠そうともせず、満足気に笑った。