ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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※1 残酷な表現が含まれます。ご注意ください。
作中に登場する『怪我の痛みを和らげる薬』はオリジナルです。

※2 2/17 何が言いたいねんと思ったため、一部修正しました。重ね重ねすみません・・・。


File10.クィディッチ

 イリスは四人で行動するようになってからというもの、ルンルン気分で毎日を過ごしていた。そして今までの少食っぷりを返上するような勢いで、よく食べ飲んだ。四人の友情は図らずして、イリスのホームシックを克服させたのだった。

 

 十一月に入ると、強烈な寒波と共にクィディッチ・シーズンも到来し、今週の土曜日は記念すべきハリーの初試合となった。その前日の金曜日、四人は休み時間、凍り付くように寒い中庭に出た。ハーマイオニーが杖を振るって魔法の青い炎を出しジャムの空き瓶に入れてくれたので、四人は瓶の周りを囲むように背中をくっつけ合い、暖を取っていた。

 

 すると、そこへスネイプが通り掛かった。片足を引き摺っているのを見て、イリスは息をのんだ。四人はスネイプから瓶が見えないように一層身を寄せ合ったが、さも警戒しているような顔つきが不覚にも彼の目に留まってしまったらしい。スネイプは何か小言を言う口実を探しているように視線を彷徨わせた後、ハリーの持っている『クィディッチ今昔』という本に目を留めた。

 

「ポッター、図書館の本は校外に持ち出してはならん。よこしなさい。グリフィンドール5点減点。・・・ゴーント、何をじろじろ見ている?吾輩が怪我をしようとしまいと、君の補習は今晩予定通り行うから安心したまえ」

 

 スネイプはハリーから本を取り上げ、彼の足を凝視しているイリスに嫌味な笑顔を向けながら釘を刺すと、再び足を引き摺りながら行ってしまった。

 

「規則をでっちあげたんだ!」

 

 スネイプの姿が完全に見えなくなってから、ハリーが忌々しそうに顔をしかめて言った。

 

「だけど、先生、足を怪我してたみたい。どうしたのかな?」

「知るもんか。でもものすごく痛いといいよな」

 

 イリスの心配をよそに、ロンが腹立たしげに返した。

 

 

 その夜、イリスはこれから談話室で宿題をするという三人と別れ、いつものように研究室へ向かった。ノックしても返事がなかったので、恐る恐る扉を開けると、中には誰もいなかった。作業机の上には材料と道具一式が置いてあり、その隣に羊皮紙が置いてあった。それにはスネイプの字で『治療のため一時間ほど遅れるので、先に作業を始めておくように』と書き付けてある。

 

 イリスは自分でも不思議だと思う位に、スネイプの怪我の具合が心配でたまらなくなった。彼女は自覚こそしていないが、毎週金曜日の補習授業において長時間の恐怖に晒され続けた結果、マグル界でいう『ストックホルム症候群*』に罹ってしまっていたのだ。何か力になれることはないかと教科書をめくって探していると、少し先のページに『怪我の痛みを和らげる薬』なるものが載っていた。材料を見ると――幸運なことに――今回作る薬の材料と似たり寄ったりだ。

 

 初見の薬だ・・・イリスは生唾を飲み込んだが、意を決して作り始めた。呼吸を忘れるくらいに熱中して作業を滞りなく進めていき、程なくして奇跡が起きた。薬を――驚くべき事に一発で――無事完成させたのだ。教科書通りの色合いになっているのを確認し、ローブのポケットを探ると予備のフラスコ(コルク栓が一部欠けてしまっている)があったので、完成品を移し入れる。

 

 間もなく扉を勢いよく開けてスネイプがやって来たので、イリスは感動の余韻に浸る間もなく慌ててフラスコをローブのポケットに滑り込ませた。スネイプは足を怪我しているからといって、いつもより弱々しくなるという事は全くなかった。しかし、今日は後ろで立つ事はなく魔法で出した椅子に腰掛け、イリスの作業を監視していた。時折、痛そうに顔をしかめては足を摩っているのを見て、イリスは心を痛めた。

 

 

 補習授業を乗り越えて罰則も終えたのは、いつもより大分早めの九時を少し過ぎた頃だった。帰ってよいと許可をもらったため、イリスは一礼してから部屋を出る前にローブのポケットからフラスコを取り出して、勇気を奮い立たせスネイプに近寄った。

 

「お怪我の痛みが少しでも和らぐように作りました。お大事になさってください」

 

 スネイプは言っている事の意味が解らないという風に、黒髪の間から見える両目を見開いてイリスを凝視した。やがて我に返り、渡されたフラスコを見ながら彼は呟いた。

 

「これは『怪我の痛みを和らげる薬』かね?・・・君にはまだ教えていない筈だが。

 君は身の程も弁えず、準備した材料を無断使用し指定した薬以外の物を勝手に作り上げてしまう程、随分と偉くなってしまったようだね」

 

 固まるイリスを見て、スネイプは満足そうに口角を吊り上げ、絡みつくような声で続けた。

 

「私が君の思いやり(・・・・)とやらに感謝し、補習を取り止めるとでも思ったか?

 さすがは、ポッターの友人だな?彼に似て、傲慢で、思い上がった、自己顕示欲の塊だ。君の勝手な行いで、グリフィンドールは5点減点とする」

「そ、そんな!先生、すみません、私、そんなつもりじゃ・・・」

「言い訳をするな、グリフィンドールさらに3点減点。・・・もう帰りたまえ、ゴーント。これ以上減点されたくなければ」

 

 イリスは教科書を掴み、扉を開けて泣きながら去って行った。階段を駆け上がる音が完全に消えてから、スネイプは改めて渡された薬を見つめた。・・・完璧だ、非の打ち所がない。彼女はわずか数か月の間に、スネイプの指示が無くとも教科書を見ながら正確に初見の薬を作れるまでに成長したのだ。その事実を噛み締めると共に、スネイプには腑に落ちない事があった。

 

 何故、イリスが自分の為に薬を作ったか、という事だ。隙や弱みを見せる事を嫌い人との馴れ合いを厭うスネイプは、他者から心配されるという事など久しく経験していなかった。日頃彼女に嫌われこそすれ好かれるような接し方はしていないので、真っ先に悪戯かと思いイリスの目を見たが、開心術を使用するまでもなく、心から自分を案じているのがありありと解った。それが理解できなかったスネイプは動揺した挙句、イリスを拒絶した。『補習授業外の作業をする』という彼女の行動を厳しくたしなめた上、大幅な減点をし、彼女を傷つけ泣かせ、追い出してしまったのだ。その事に対して良心の呵責は全くないが、自分の心をかき乱す根源が去った事にスネイプは安堵した。そして、改めてイリスの理解不能な行動の答えを探すかのように、しばらくの間、足の痛みも忘れてフラスコの中で揺れる薬を眺めた。

 

 

 次の日の朝、イリスは昨日の悲劇を三人に慰めてもらった後、ハリーから職員室で起きた事を聞いた。ハリーとロンは『スネイプが三頭犬の守っているものを狙っているのだ』と結論づけたが、ハーマイオニーは『仮にも教師であるスネイプが、そんなことをする筈はない』と懐疑的だ。イリスも彼女と同じ意見だったが、四人の議論は一先ず保留となった。あと一時間でハリーの初試合が始まるからだ。

 

 十一時には、イリスはロンやハーマイオニーたちと共に、クィディッチ競技場の観客席最上段に陣取った。そして、みんなでハリーのために作った『ポッターを大統領に』と書かれた大きな旗を協力して掲げる。

 

 やがてグリフィンドールとスリザリンの各選手たちが、箒を持ってグラウンドに出てきて、整列し始めた。ハリーも緊張しているのか、ややぎこちない動きで列に加わっている。審判であるマダム・フーチの号令で、選手たちは全員箒に乗り、空中高く舞い上がった。

 

 間もなくホイッスルが鳴った。試合開始だ。

 

 試合中、イリスは夢中になって応援した。グリフィンドールの選手がナイスプレーをしたり点を入れる度に、ロンとハイタッチしたりハーマイオニーと抱き合って喜んだ。何しろ三種類もボールがあるし(その内の一つ、スニッチは高速で飛び回っているのか影も形も見当たらなかったが)、両チームの選手たちも凄まじいスピードで空中を滑走するので、実況の助けがあるとは言えども試合の流れについていくのは大変だった。

 

「ちょいと詰めてくれや」

 

 そうする内に、ハグリッドが双眼鏡を首に下げ、イリスたちの傍へやって来た。三人はギュッと詰めて、ハグリッドが座れるくらいのスペースを開ける。

 

 

 イリスが叫びすぎて痛めた喉をかぼちゃジュースで冷やしている時、スリザリンのマーカス・フリント選手がスニッチを狙うハリーにぶつかって邪魔をしたので、会場内は良くも悪くも大盛り上がりとなった。

 

 ハリーが何とか空中で体勢を持ち直したのを見て、ほっとしたのも束の間――再び彼の様子がおかしくなった。ぐらりと箒が揺れたように不安定な動きをしたかと思うと、空中をジグザグに飛んだり、箒から振り落とされそうになっている。会場内の人々が次第にハリーを指さしてざわめき出した。異変を察知したフレッドとジョージがハリーを助けようと近づくが、箒は嫌がるように彼を乗せたまま上へ上へと舞い上がっていく。

 

「箒、故障しちゃったのかな?」イリスが不安そうにハグリッドに聞いた。

 

「そんなこたぁない。ニンバス2000が故障なんぞ、ありえんことだ。・・・それこそ強力な闇の魔術でもなけりゃ、箒にあんな悪さはできん」

 

 ぶるぶる震えるハグリッドの声を聴くや否や、ハーマイオニーはハグリッドの双眼鏡をひったくり、ハリーの方ではなく観客席の方を注意深く見回した。

 

「思った通りだわ。・・・スネイプよ。見てごらんなさい。何かしてる――箒に呪いをかけてる」

 

 ロンはハーマイオニーから双眼鏡を受け取ると覗き込み、何かを発見したらしく真っ青な顔で呻いた。・・・二人は何を見たんだ?イリスは知りたくて堪らなくなった。

 

「ねえ、私にも見せて!」我慢できなくなったイリスがロンにせっついた。

 

「僕たち、どうすりゃいいんだ?」

 

 イリスに双眼鏡を押し付けながら、ロンが途方に暮れたようにハーマイオニーに尋ねる。ハーマイオニーは何か考えがあるのか「私に任せて」と言うなり、あっという間に観衆の中に紛れ消えてしまった。

 

 イリスはハーマイオニーを見届けた後、はやる気持ちを抑えて双眼鏡を覗き込んだ。一心不乱にスネイプを探す。――見つけた、向かい側の観客席だ。スネイプはハリーから目を離さず、絶え間なくブツブツ呟いている。イリスはショックを受け、血の気が引いていくのを感じた。

 

「・・・?」

 

 その時、イリスは強烈な違和感を感じた。双眼鏡で見える範囲はスネイプだけではない。彼の周りにいる他の先生方の様子も写し出されている。

 

 ――違和感の正体がわかった時、イリスは総毛立った。クィレル先生(・・・・・・)だ。他の先生方がみんな心配そうな表情でハリーの動向を見守っている中、クィレル先生だけは――憎しみを込めた顔つきで、瞬き一つせず、血走った目をぎらつかせながら、ハリーを睨み続けている。――『お前を殺してやる』――イリスには、その眼がそう言っているように見えた。

 

 イリスがクィレル先生を茫然と見ていると、俄かに先生方が騒然とし始めた。皆ハリーから視線を外し、口々に何か叫びながらスネイプの足元を指さしている。イリスが慌てて双眼鏡を向けると、スネイプのローブの裾に――見覚えのある――青い炎が一瞬揺らめいてすぐ消えた。恐らくハーマイオニーが、スネイプの注意を逸らすためにやったのだろう。

 

「やったぞ、イリス!ハリーが戻った!」 

 

 ロンの歓声にイリスが慌てて見上げると、ハリーは再び、箒に問題なく乗れるようになっていた。イリスはそれを確認した後、向かいの観客席に双眼鏡を向ける。スネイプはいつもの仏頂面でハリーの様子を見ていたが――クィレル先生は、苦虫を噛み潰したような表情でハリーを睨み付けていた。

 

 イリスはその後、ハーマイオニーが「作戦成功よ!」と後ろから抱き着いてくるまで、クィレル先生から目を離す事ができなかった。

 

 

 ハリーがあの後スニッチをキャッチし、試合は170対60でグリフィンドールの大勝利となった。だが、四人は試合後の騒ぎの渦中を外れ、ハグリッドの小屋でお茶を飲んでいた。

 

「呪いをかけたのは絶対スネイプ先生じゃない!真犯人は――クィレル先生だ!」

 

 三人の『ハリーに呪いをかけ、三頭犬の守っているものを狙っている犯人は、ずばりスネイプ論』を真っ向から否定し、イリスは――葉巻代わりにシナモンスティックを口に咥えながら――びしっと三人を指さした。イギリスだけにシャーロック・ホームズ気取りだ。しかし、三人のワトソン君たちは辛辣だった。

 

「絶対、君の見間違いだ。クィレル先生は、そんなことできっこないよ」とハリー。 

「君、やたらにスネイプを心配したりかばったりしてるけど、補習中あいつに服従の呪文でもかけられてるんじゃない?」とロン。

「ちょっとロン、冗談はよして。もし本当にイリスが服従の呪文をかけられているなら、彼女はスネイプの言う通りに行動できるんだからもうとっくに補習から解放されている筈よ。でも、クィレル先生のことは私も貴方の見間違いだと思うわ。あの人臆病だから、きっと恐怖に引き攣った表情がたまたまそういう風に見えただけよ」とハーマイオニーが一際辛辣にしめる。

 

 ハグリッドが急にティーポットを落としたので、四人は思わず話を止めて彼の方を見た。

 

「なんでフラッフィーを知ってるんだ?」

 

 フラッフィー?四人は一斉に首を傾げ、ハリーが代表してハグリッドに尋ねた。

 

「そう、あいつ・・・ハリー、さっきお前さんが言った三頭犬の名前だ。俺がダンブルドアに貸したんだ。守るため・・・」

 

「何を?」ハリーは聞き逃さなかった。目を輝かせ、身を乗り出して聞く。

 

「もう、これ以上聞かんでくれ。重大秘密なんだ、これは」

 

 ハグリッドがタジタジになって諭すが、ハリーは譲らない。

 

「だけど、スネイプが盗もうとしたんだよ」

「スネイプはホグワーツの教師だ、もちろんクィレルもな(そう言って生暖かい目でイリスを見やった)。そんなことするわけなかろう」

「ならどうしてハリーを殺そうとしたの?」

 

 ハグリッドの煮え切らない態度をぶち壊すように、ハーマイオニーが叫んだ。クィディッチでの出来事が、彼女の考えを変えさせたようだ。

 

「ハグリッド、私呪いをかけているかどうか、一目でわかるわ。本で読んだもの。じーっと目を逸らさずに見続けるの。スネイプは瞬き一つしなかったわ。この目で見たんだから」

「私だってこの目で、クィレル先生が同じ事してるのを見たよ!」

「貴方は(君は)黙ってて!」

 

 話に水を差されちゃならないとばかりに、怖い顔をした三人に一斉に突っ込まれ、イリスはファングの頭を抱え込みながら、しょげ返った。

 

「お前さんたちは間違っとる!俺が断言する!」

 

 ハグリッドはイリスの話を聞かなかったことにして、三人に向き直った。

 

「ハリーの箒が何であんな動きをしたか、俺にはわからん。だがスネイプは生徒を殺そうとしたりはせん。みんなよく聞け。お前さんたちは関係ないことに首を突っ込んどる。危険だ、あの犬のことも、犬が守ってる者のことも忘れるんだ。あれはダンブルドアとニコラス・フラメルの・・・・」

 

「あっ!」ハリーはすかさず突っ込んだ。

 

「ニコラス・フラメルっていう人が関係してるんだね!」

「お前さんたち、もう帰ってくれ!」

 

 ハグリッドは口が滑った自分に猛烈に腹を立てているようで、話の半ばで慌ただしく四人を追い出した。

 

 

 イリスは夕食後、明日までが期限の変身術の宿題を提出し忘れていた事を思い出し、職員室へ向かった後、一人、とぼとぼとした足取りで寮へと帰っていた。

 

「私、絶対見たのに、何で信じてくれないの?」

 

 あれから夕食の席でも力説したが、三人共うんざりした表情を浮かべ、ろくに話を聞いてもくれなかった。――だが、それは当然の事だった。クィレル先生が臆病で神経質、おまけに飛びっきり気が弱い事はホグワーツ中の人間が知っている。そんなクィレル先生が呪いをかけたなんて事、あの三人には到底信じられる筈もなかったのだ。しかもその証人がいつもぼんやりしていて天然気味のイリスなものだから、信ぴょう性は限りなくゼロに近い。よって三人は、イリスの話を欠片も信じてはくれなかった。

 

 イリスが浮かない足取りで進む廊下の突き当りは下りの階段で、一段目に足を乗せようとした時――不意に背後から声がした。

 

「わ、私は、し、信じ、ますよ。み、み、ミス・ゴーント」

 

 ――それは、他人の空似とするには余りにも特徴的で、疑う余地すらなく、そして今一番聞こえてはいけない声だった。イリスは錆び付いたブリキ人形のようなぎこちない動きで、恐る恐る振り返った。

 

 イリスから五メートルと離れてはいない距離に、クィレル先生が立っている。口角を吊り上げて笑みの形を作っているが、目だけは笑っていない。瞬きすらせず、食い入るようにイリスを睨み付けていた。――同じだ、イリスは思った。あの時、ハリーに呪いをかけていた時と同じ目をしている。

 

「あ・・・っ、せ、せんせ・・・」

 

 イリスは誰か助けを呼ぼうとしたが、恐怖の余り、唇が震えてまともな言葉にすることすらできない。――やっぱり、クィレル先生が真犯人だったんだ!!しかも、イリスが気づいたのを知っている。今すぐ逃げ出したいが、力が抜けたように動けない。悲鳴のようなか細い声を上げながら、ガクガク震える足を懸命に動かして、後ずさる。イリスはその時、後ろに階段がある事を忘れていた。

 

 不快な浮遊感を味わいながら、イリスは空中に放り出された。踊り場に体を叩きつけられる事を想定して思わず目を閉じた瞬間、誰かにふわりと抱き留められ、壁際に押し付けられた。――一体誰にそうされているのか、見えなくとも分かった。強いニンニクの匂いがしたからだ。

 

「ああ、ミス・ゴーント・・・」

 

 クィレル先生は恍惚とした声を出し、身動きができず子犬のように震えるイリスの手を取り、その手の甲を自らの唇に押し当てた。

 

「目を開けて、私を見なさい」

 

 イリスがクィレル先生の理解不能な行動に怯えて縮み上がっていると、不意に落ち着き払った声がした。嫌だ、絶対に開けない!目を開けたら今よりさらに恐ろしい事が起きそうな気がして、イリスは弱々しくかぶりを振った。

 

「ミス・ゴーント!!目を開けて、わたしを見なさい!!」

 

 今度は耳元で怒鳴られ、イリスは驚いてついに目を開けてしまった。その瞬間、満足気な笑みを浮かべたクィレル先生に顎を掴まれ、無理矢理目を合わせられる。互いの双眸が交錯した。

 

「そう、良い子だ。――― 開心、レジリメンス!」

 

 クィレル先生がイリスにその呪文を叫んだ瞬間、何か(・・)がイリスの頭に侵入してくるのを感じた。それ(・・)は見えない手のような形を取って、イリスの頭を内側から鷲掴みにした。イリスは怖気を震い、無茶苦茶に体を捩じってクィレルの拘束から逃げ出そうとするが、叶わない。それ(・・)はイリスの頭の中を満たした後、首を通って、とぷんと肩から下へ沈み込み、内臓の一つ一つに入っては――その内壁をぞろりと撫でた。

 

 自分の体の中に、他人が入り込んでいる。イリスは余りの気持ち悪さに痙攣し、嘔吐した。――やめて、やめて!!イリスは声にならない声で何度も叫ぶが、彼女の無駄な抵抗をあざ笑うかのように、それ(・・)は手や足の先に至るまでイリスの体中を蹂躙した。すがるように伸ばした手すら、無情にもクィレル先生に掴まれ下ろされる。朦朧とした意識の中で、縄のような感触が無理矢理組まされた両腕に絡まり、自分を縛り上げていくのを感じた。もう指先一本動かせない。イリスは気が狂いそうだった。お願い、何でもするから助けて・・・!

 

 

 その瞬間、目の前のクィレル先生がふっと消えて、イリスの目に一つの映像が浮かんだ。

 

 ――イオだ。随分と若いが、そうに違いない。イリスの両親、ネーレウスとエルサもいる。イオは出雲神社の境内で小さな赤ん坊を抱き締めながら、肩を震わせて泣いている。二人はそれを悲しそうに見て、出て行った。――パチンと音がして映像が消え、すぐまた現れた。今度は、一、二歳位と思しき姿の子供がイオに抱っこされて、近所の桜を観に行っている。

 

 ・・・これは自分の過去の記憶なのか?イリスは思った。――でも、自分ひとりで見てるんじゃない。何か(・・)が――イリスの体の中でさっきまで彼女の体を弄んでいたそれ(・・)が、イリスのすぐ傍にいる。それ(・・)はイリスの心の中を無遠慮に覗き込み、ティッシュを引き出すような気軽さで彼女のあらゆる記憶を引き摺り出しては、興味深そうに眺めている。イリスはそれを成す術もなく見ているだけなのだ。記憶の映像が目まぐるしく切り替わる度に、映像の中のイリスは少しずつ成長していく。やがて、映し出されるイリスは11歳になった。――ダイアゴン横丁での出来事――列車でのイオとの別れ――組分けの儀式――トロールとの出会い――最後にクィレル先生を見て目を見開いたイリスの映像が消えて、視界は闇に包まれた。

 

 

 気が付くと、イリスは薄暗い地下室のような場所に立っていた。周囲を見渡すが、クィレル先生はいない。ここはどこだ?

 

「あの子は、渡さない」

 

 すぐ後ろで声がして、イリスは弾かれたように振り返った。

 

 ――ネーレウスとエルサだ。生きている。イリスを凛とした表情で見つめている。

 

「お父さん、お母さん!!」

 

 イリスは一目散に駆けて二人に飛びつこうとしたが――イリスの体はまるでゴーストのように二人の体を擦り抜けてしまった。・・・どうして、触れないの?気づいてくれないの?両親を見上げるが、二人はイリスに気づく事すらなく――意を決した表情でイリスの背後の何かを見ていた。やがてネーレウスが杖をそちらへ向け、エルサがその手に自らの手を添えた。

 

 二人が揃って何かを叫んだ瞬間、杖の先から黒と白の稲妻で出来た球が発生し、瞬時に膨れ上がって、轟音と共に、辺り一帯を――イリスも含めて――飲み込んだ。びりびりとした衝撃を肌で感じて、イリスは堪え切れず耳を塞ぎ、目を瞑ってしゃがみ込んだ。

 

 

 衝撃が収まった頃、イリスが恐る恐る目を開けると――足元に変わり果てた姿の両親が倒れ伏していた。イリスは悲鳴を上げて二人にしがみ付こうとしたが、またも霧のように擦り抜けて触れる事ができない。これは何なんだ?これも自分の記憶だと言うのか?もうイリスの精神は崩壊寸前だった。

 

 その時、後ろから――確か、両親が杖を向けていた方角から――高くしわがれた声がした。

 

「――お前の両親は――愚か者だった――」

 

 イリスが振り向く前に、黒い霧が背後から彼女の体を覆った。それは肌に触れた瞬間、骨の髄まで染み込むような冷気を発し、抵抗しようとする意志を根こそぎ奪っていく。――それは言葉で表現するならば『恐怖』そのものだった。

 

 身動きが取れないイリスの目の前で、両親の体は腐敗し――白骨化し――やがて風化して、砂になり消えた。絶望に泣き叫ぶイリスを、声は嘲笑った。黒い霧はイリスから離れると空中で収束し、黒いローブを纏った人のような形になった。――死神だ。イリスは確信した。死神は赤い目を爛々と光らせて、イリスを睨みつける。

 

「――イリス・ゴーント――お前は俺様のものだ」

 

 そう言って、イリスに手を伸ばした。

 

 

「・・・ぁあああああっ!!!」

 

 イリスは汗びっしょりになって飛び起きた。そこは医務室のベッドの上だった。どうして??クィレル先生は??両親は??黒い霧は??情報が錯綜し、気が狂ったように周囲を見回すイリスを見て、マダム・ポンフリーが駆け寄って来た。

 

「落ち着いて、ミス・ゴーント!よほど怖い夢を見たのね、大丈夫よ」

 

 そう言って、イリスを優しく抱き締め、宥めるように頭を撫でてくれた。怖い夢?イリスは思い出そうとした。夢なんかじゃない、あれは――

 

 ――何だったっけ?思い出すことができない。つい数秒前まで確実に覚えていた筈なのに、記憶は両手に掬った砂のように零れ落ち、瞬く間にあやふやになり原型を留めなくなっていく。・・・必死に記憶の糸を辿っても、職員室から出た後、自分が何をしていたのか思い出せない。そもそも、何の夢を見てたんだっけ?

 

「思い出せない・・・」と言ったきり、茫然と黙り込んだイリスに、マダム・ポンフリーは穏やかな声で言った。

 

「私が教えてあげましょう。あなたは今日の夕べ、一階の階段の踊り場で倒れていたの。きっと足を滑らせて頭を打ったせいで、記憶が飛んでしまったのね(そう言って、彼女はイリスの頭と片足に巻かれた真新しい包帯を気遣わしげに見た)。クィレル先生が偶然通り掛かった時にあなたを見つけて、ここまで運んできてくれたのよ。先生がとても心配されていたから、明日お礼を言っておきなさいね」

 

 イリスの記憶はクィレル先生によって改竄され、クィディッチでの騒ぎからついさっき飛び起きるまでの『クィレル先生に関する記憶』を全て忘却させられていた。しかし彼女はそれに気づく事はなく――クィレル先生に開心術を掛けられて何者かに記憶を盗み見られた事も忘れ――マダム・ポンフリーの言葉を自分の本当の記憶なのだと素直に信じ込もうとした。・・・胸に漠然とした不安を抱えたまま。




補足*ストックホルム症候群とは
 精神医学用語の一つで、誘拐事件や監禁事件などの犯罪被害者が、犯人と長時間過ごすことで、犯人に対して過度の同情や好意等を抱くことをいう(※wikiより引用)
 作中では犯人がスネイプで犯罪被害者がイリスです。研究室という一種の閉鎖空間で、長時間共に過ごし、減点や嫌味、いつ飛び出すかわからないスネイプ独自の観点による忠告に対する恐怖の感情に支配される中、スネイプの許可が無ければ研究室から出る事も出来ない。そんな環境の中で、スネイプに対してハリーのように反抗や嫌悪で対抗するより、信頼や好意で対応する方が精神的ダメージが少ない(精神的に生き残れる)と判断し起こる心理的反応です。つまりイリスはスネイプに洗脳されてます。

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