「……ここは?」
瞼を開けば広がっていたのは、先ほどまで皇帝ベクタと激戦を繰り広げていた巨大な円形の岩山の上ではなく、やや橙色の何もない空間だった。
「まーたいつものやつか」
今までの経験上、このようなとてつもなく広く何もない空間で目を覚ましたということは、どこかに
辺りを二、三度見まわした後、ふと自分の体を見てみれば、ベクタから受けた傷がきれいさっぱり消えていた。それだけではない。赤黒く染まった服も、今朝着たばかりのようにシミ一つない純白だ。
「まあ、ありがたいっちゃありがたいけどな」
左目に手を当てながらラテンは呟く。
あのような瀕死の状態では、この場へ来るであろう訪問者の話よりも自分の意識を保つのが精一杯だっただろう。
「それにしても今回はやけに遅いな…………おーい!!」
腰を下ろしてから五分ほど経っているはずだが、肝心の訪問者がこの場へ来ていない。痺れを切らしてラテンは立ち上がる。
「おーい、いるんだろ!」
きょろきょろと周りを見渡すが、一向に現れる気配がない。
「いったい何なんだよ…………あれ?」
いつまで経っても現れない訪問者のことは無視して、この空間からの脱出方法を考えようとした矢先、ラテンの視界の隅に先ほどまではなかった物体が映りこんだ。
ゆっくりとその物体に近づいていけば、その物体はより鮮明になる。
「……蜂蜜パイ?」
おそるおそる拾い上げたラテンは蜂蜜パイらしき物体を顔を近くまで持っていく。手の平からは、熱すぎず、かといって冷めているわけでもない丁度良い熱が伝わってくる。それと同時に、甘く香ばしい匂いが鼻孔をくすぐった。
「蜂蜜パイ、だよな」
目の前にあるものは正真正銘蜂蜜パイだ。現に、これでもかというくらい蜂蜜パイを食らいつくした胃袋が唸っている。
「……腹減ってるし、いいよね?」
どのくらい落ちていたのかも分からないものを拾い食いするのは気が引けるが、如何せん先ほどまでぐっすり眠っていた胃袋が暴れ出すのだ。これは食べるしかないだろう。
まあ、この空間はラテンの夢の中のようなものであるため、実際に腹が膨れるわけではないが。
「――んめぇ! やっぱ蜂蜜パイは最高だな! ……これは琴音に作らせるしかないな。仮想世界だけしか味わえないなんて勿体なさすぎる!」
思わず感動の涙を流しながらラテンは上を見上げた。視界にとても小さな黒い物体が映りこむ。
「…………あ?」
滲んでいた視界を袖で擦りながらもう一度見上げれば、黒い物体は先ほどの二倍ほどの大きさになっていた。それも一つだけではない。次々と黒い物体が空中に発生していく。
「……なんだ、あれ」
徐々に大きくなっていく黒い物体にラテンは目を離さずにはいられない。
「こっちに、落ちてきてる?」
気づいた時には黒いシルエットは目の前にまで迫ってきていた。
「嘘だろ!?」
持ち前の反射神経で大きくバックステップを取ると、黒い影が地面へと衝突する。最初の一つに呼応するかのように一つ、また一つと黒い影が地面に衝突していった。その度に爆風が辺りに舞い、ラテンは思わず両腕で視界を遮る。
ドコッ、ドコッ、と断続的に続く鈍い音が止むまで吹き飛ばされないように踏ん張っていれば、ものの数秒で音が止み再び静寂が辺りを包み込んだ。
「今度はなんだ……よ……」
両腕を下げながら瞼を開ければ、ラテンは両目を見開いた。
「た、大量の蜂蜜パイィィ!?」
目の前には、大量の蜂蜜パイが山のように積み上げられていた。
甘く香ばしい匂いが瞬時に辺りに充満し、ラテンの胃袋が再び唸り声を上げる。
「これって、食べていいってことだよな?」
きょろきょろと辺りに誰もいないことを確認すると、ゆっくりと蜂蜜パイの山へと歩を進める。辺りに誰もいないということは、目の前にある大量の蜂蜜パイはラテンが全部食べてもいいということだ。
「俺、食べるからなー! お代とか請求されても俺は知らんからなー!」
「ソレデダイジョウブダヨ」
確認するように叫んだラテンの問いに、ラテン自身で返答する。
「それじゃあお言葉に甘えさせていただいて……いっただっきまーす!」
空中で美しい『大』の字を形作ったラテンはそのまま蜂蜜パイの山へと落下していく。数秒後には、フワッとした感触がラテンを包み込むはずだ。
しかし、現実はそううまくはいかない。
「――ぐへぇ!?」
ラテンが待っていたのは体を優しく包み込んでくれる甘い蜂蜜パイではなく、明るい色の割に随分の冷たい床だった。
鼻を抑えながら顔を上げれば、先ほどと同じように蜂蜜パイの山が目の前でそびえ立っている。どうやら目測を見誤っただけらしい。
「ったく、びっくりさせんなよな」
首に手を当てコキコキと鳴らすと、改めて蜂蜜パイの前に立つ。
今度はしっかりと距離を確認済みだ。
「では改めまして……いっただっきまーす! ――ぐへぇ!?」
再びダイブしたラテンを待っていたのは、先ほどと同じように冷たい橙色の床だった。同じく鼻を抑えて顔を上げれば、そこには当然のように蜂蜜パイの山がある。
「……きっと疲れてるんだろうな。余計なことしないで普通に食べよう」
肩を落としながらラテンは積み上げられた蜂蜜パイの内の一つに手を伸ばす。しかし、その手は何故か空を切った。
「……あれ?」
右手を閉じては開いてを何度か繰り返し、再び手を伸ばせば先ほどと同じように空しく空を切る。何度手を伸ばしても、手に取るのは最高にうまい蜂蜜パイではなく、ただの空気。しかし、蜂蜜パイは消えたわけではなく、今もなおラテンの前に佇んでいる。
「……おい、いい加減にしろよ」
額に青筋を浮かべたラテンは、勢いよく右手をパイに突っ込んだ。だが、パイはラテンの手の動きに合わせるかのように後ろへ下がる。
「まさか……」
嫌な予感がして、ラテンはおそるおそる一歩踏み出す。その歩幅と同じ距離、パイたちは後ろに下がった。また一歩踏み出せば、それと同じ距離を。また一歩踏み出せば、同じ距離を。また一歩、また一歩、また一歩。
「――こなくそぉぉぉぉ!!」
いきなり全力疾駆を開始したラテンはごり押しでパイに到達しようとする。しかし、パイはラテンと常に同じ距離を保ちながら後ろへ下がり続ける。
(手を伸ばせば……手を伸ばせばそこに、パイがあるのに!!)
「くそったれぇぇ!!」
ラテンとパイの鬼ごっこは数十分間にも及んだ。しかし、依然としてラテンはパイの山へたどり着くことができず、途中でダウン。両ひざに手を当てて呼吸を整えていた。
「はぁ、はぁ……何で、お前たちは俺に応えてくれないんだ。というかそもそも俺は何を……」
静かに呟いたラテンの言葉がトリガーとなったのか、パイの山は少しずつラテンから離れていく。
「え、おい。ちょっと、待てよ」
慌ててラテンも歩き始めるが先ほどまでとは違い、ラテンのペースよりも速いペースでラテンから離れていく。
「冗談だろ。なあ、ここまで来たんだぜ? さすがに少しぐらいは慈悲を――」
そこまで言うと、大量の蜂蜜パイは一気に加速し先ほどのラテンの全速力よりも速い速度で動き出した。当然ながらバテバテのラテンは、それに追いつけるほどの体力があるわけもなく膝から崩れ落ち、離れていくパイたちに手を伸ばす。
「
「……ラテン」
依然としてピクリとも動かないラテンを抱きしめたままアリスは静かに呟く。背後ではいつの間にか近づいてきていた二頭の飛竜がラテンに向けて頭を垂れていた。結果はどうあれ、主人であるアリスを救ってくれた事に対しての感謝の意だろう。
「あなたが私のために死ぬ必要なんて……」
ラテンは変人ではあったが嫌いな人間ではなかった。はたから見ればおかしな行動や行為でも芯だけはしっかりとしていて、まったくと言っていいほどぶれない。
初めて出会った時なんて特にひどいものだ。普通に考えて、友人のためにわざわざ禁忌目録違反を犯してまでついていこうとするだろうか。いや、しないだろう。当時は一体どのような思考を持っているのか気になったものだが、今はわかる。
どうなってもいいのだ。たとえ深い傷を負うことになり、死の危機に瀕しても。大切な人を守るためなら。
ともすれば自分はラテンにとっての『大切な人』の内に含まれているのだろうか。もしそうならばラテンには死んでほしくはない。
今回の出来事はすべて自分が軽率だったのが原因だ。自分の浅はかな行動のせいでラテンが死ぬ必要などないのだ。
「ラテン、お願いだから死なないで……」
もう一度、届くことはないとわかってはいても祈らずにはいられなかった。
「うっ……」
「っ!?」
いきなり聞こえた呻き声にアリスは体をびくつかせる。この場にいるのはアリス以外に二頭の飛竜だけだ。当然飛竜たちが人間めいた呻き声など上げるわけがない。となると今の声の持ち主は一人だけになる。
「ラテン!? 生きていたのですね!」
急いで両手をラテンの肩に乗せて自分の胸から離してみれば、ラテンの首はかくんと折れる。しかし目に見えて呼吸はしているので、どうやらただ気を失っていただけらしい。
何度も体をゆすってみれば、再びラテンが呟いた。
「……お」
「お?」
続く言葉をアリスはじっと待った。
気を失ってでも呟こうとしているのだ。きっと大切な言葉なのだろう。
「……おっ……………………パイ…………ない…………」
「……」
「――ゔへぇ!?」
強烈なアッパーが気を失っている基、寝ているラテンの顎に炸裂した。
二メルほど吹き飛ばされたラテンは後頭部を地面に打ち付け、左右に転がりながら悶絶する。
そして、そんなラテンに一言。
「訂正。死んでください」
「本当に死ぬとこだったわ!!」
ようやく顔を上げたラテンは涙目で叫ぶ。
しかし、さすがは慣れてる(?)だけあって回復も早く、ラテンはゆっくりと上体を起こした。
「どうやら無事だったみたいだな」
「ええ……その…………申し訳ありませんでした」
無事、とはラテン自信のことではなくアリスに対して言ったのだろう。目立った外傷がないアリスは頭を下げて謝罪する。自分の軽率な行動と、ラテンの手助けができなかった二つの意味を込めて。
そんなアリスを見たラテンは頭を掻きながら口を開く。
「ああ、まああれに関しては説教が必要だな。すべてが終わった後で」
「うぐ……」
「まあ、そんなことよりも」
「……何か?」
いきなりじっと視線を向けられたアリスは怪訝なまなざしをラテンに向ける。ラテンはそのまま小刻みに頷くと不意に口元に笑みを浮かべた。
「いや? 泣いてるってことはそれほど心配してくれてたってことだと思ってな」
「なっ……」
慌てて目元を拭うが時すでに遅し。ラテンは笑みを止めない。
「こ、これはあれです。突如飛来した謎の物体が目に入って――」
「言い訳下手くそだな!?」
ラテンは苦笑いしながら左右に落ちていた鞘と刀を拾い上げると納刀する。すると、すぐにラテンの手元から光が発生し、刀が小さな物体へと形を変えた。
『おせぇぇぇ!!』
「悪かったって」
ジャビは現れるや否やラテンに突進をかました。
それを右手でキャッチすると、自分の頭にジャビを乗せる。
『ったく、大変だったんだぜ? お前は刀を鞘に戻さないわ、そこの小娘は必死に「死なないで」連呼しながらピィピィ泣き出すわ――』
「――すぐに黙らないとその羽ぶち抜きますよ」
『ひぃぃぃぃ!』
ジャビは怯えるようにラテンの肩へ移動し首の後ろに隠れた。そんなジャビを慰めながらラテンは額にしわを寄せる。
「……ん? 『死なないで』を連呼してた? そんなの天命を確認すれば生きてることぐらい一発で……」
「…………」
「おおい、ちょっと待てぃ!?」
無言で金木犀の剣の柄に手をかけたアリスの右手をラテンは慌てて押さえる。
「お前が剣を抜くタイミングがだいたいわかってきたわ……」
「……はあ」
アリスはため息を一つ着くと、柄から手を離す。そのままラテンに視線を向けながら口を開いた。
「……あの、一つ聞きたいことが」
「何だよ急に改まって」
「…………何故命を懸けてまで私を――いたっ」
言葉の途中でおでこに軽い痛みが発生し、思わず手で押さえる。どう考えても犯人は一人しかいないため、腕を上げて正面にいる男に睨みつける。対してラテンはゆっくりと立ち上がりながら口を開いた。
「んなもん決まってんだろ。お前がベクタの手に渡ったら俺たちの負けだろうが」
「そう、ですか……」
どうやら自分が思っていたこととは違ったようだ。確かにラテンとはそこまで濃い付き合いをしていなかったため、彼にとっての『大切な人』入るわけがない。
わかってはいたが少し心にくるのはなぜだろうか。きっと、キリトやリリアと同じように大切な仲間だと思っていたからだろう。
思わず少し目を伏せれば、再びおでこに軽い痛みが発生した。
驚いて顔を上げれば、笑みを浮かべながらラテンがこちらを見ている。
「ばーか。さっきのは建前の話だ。なんせお前はすでに俺が守るべき大切な
そう言って手を差し伸べてくる。
「そうですか」
先ほどよりも明るい口調で呟きながらその手を取った。
「さぁて、どうしますかね」
周りを見渡しながら呟く。
この場には飛竜が二頭いるが乗り手も二人いる。それぞれ一頭ずつ乗ったとしても、ベクタを追うために飛んだ距離は二頭の乗り継ぎによるものであるため、単純に考えて移動時間が二倍になってしまうだろう。
ラテン自身はユウキの元へ戻るために、来た道を戻らなければならないのだが、アリスには《果ての祭壇》行ってもらいたい。アリスがそこへたどり着ければ、すべてが終わるからだ。しかし当の本人は
「なぜ私が仲間を見捨てて一人で逃げなければならないのですか!」
と頑なに拒否している。
ここは再びアリスを気絶させて飛竜に任せるべきだろうか。ロープぐらいなら何とか作れそうだ。
「こうなったらやるしかないか」
時間はかかってしまうが二頭の飛竜にそれぞれ乗ってそれぞれの向かうべき場所へ行くしかない。
ジャビに刀の姿へ戻るように促したラテンを見て、アリスは怪訝なまなざしを向けながら柄に手を乗せる。
「何をですか? まさか私を気絶させて《果ての祭壇》へ連れていく気ではないでしょうね? 残念ながら瀕死のあなた相手には後れを取りませんよ」
「ほーう。じゃあやってみるか? 何やかんやお前とは手合わせしたことがなかったからな」
じりっと間合いを取りながらラテンは刀を抜く。それに合わせるようにアリスも金木犀の剣を抜いた。
両者のにらみ合いが数秒続き、いざ駆けだそうと足に力を込めた瞬間、二人に呆れが含まれた声が降りかかった。
「あなたたち、一体何をしてるの?」
この声には聞き覚えがある。
はっと顔を上げれば、ALOで見慣れた猫耳が視界に入ってきた。
「――シノン!?」
間違いなくGGOの死銃事件で知り合ったシノンのアバターだった。しかし、ALOのそれとは比べものにならないくらい妙に神々しい。
「なんでお前がここに?」
「ユウキに頼まれたのよ、あなたの手助けをしてって……どうやらその必要はなかったようね」
シノンはそのままゆっくりと降りたつ。
「……あなたもリアルワールドから来たのですか」
「ええ、私はシノン。そこにいるラテンとアスナ、キリト、ユウキの友達よ。あなたがアリスさん?」
「……ええ。私は整合騎士アリスです」
シノンは「よろしく」と言いながら手を差し出せば、アリスもゆっくりとそれに応え二人は握手を交わす。それを見届けてからラテンはシノンに声をかけた。
「あっちの方はどうなってるんだ? ユウキとリリアは?」
「アスナたちが何とか防いでいるわ」
「そうか、じゃあ急がないとな……それはそうとシノン」
「何?」
そこまで言ってラテンはシノンに詰め寄ると、その両肩をがしっと掴んだ。シノンは驚きながらもラテンの次の言葉を待つ。
「……お前、さっき飛んで……たよな」
「え、ええ。このソルスには《無制限飛行》が――」
「ソルスぅ!?」
いきなり叫んだラテンにシノンは体をびくつかせる。
「ソルスってことは《スーパーアカウント》ってことか?」
「え、ええ、そうよ」
それを聞いたラテンは肩を落とした。
そのままブツブツと小声で何かを言い始める。
「……なんでおまえらだけすーぱーあかうんとなの? なんで? なんでなの? おれらはいちからがんばってるんだよ? もうすこしくらいじひがあってもよくない? たとえばちょうきょうりょくなぶきとか、ちょうつよいあいぼうもんすたーとか……ぶつぶつ」
『それ、だいぶお前に当てはまってるぞ』
「チキショォォォォ!!」
絶望するラテンを見てシノンとアリスは苦笑する。アリスに至っては「なぜこんな男がベクタを倒せたのか」とでも言いたげな視線を向けているが気にしても仕方がないだろう。
「……それにしても相当苦戦したのね。あなた、ボロボロじゃない」
「それ、今言いますか!?」
ラテンは改めて自分の姿を見る。
相変わらず半分近く視野は狭まっており、見るのも耐え難い傷が無数に存在している。しかし、見た目に反して何故か痛みや気だるさはなく、頭も妙にすっきりしている。本当に瀕死なのかどうか疑問に思うくらいだ。天命の数値を見れば一目瞭然ではあるが。
「……まあ、もう一度あいつと戦えって言われたらさすがに拒否するかもな。正直なところ、百回やっても一回勝てるかどうか……」
頭の掻きながら呟くラテンにシノンは声をかける。
「そう。じゃああなたはここに残らないほうがいいわね。見た目的にも精神的にも」
「……何のこと?」
「ベクタがこの場で復活するってことよ」
その言葉にはさすがのラテンも絶句した。
しかしそれも一瞬で、先ほどまで自分がしていた軽い冗談を言っているのだと思い口元に笑みを浮かべる。
「何言ってんだよ。ベクタならさっきそこで……え?」
振り返ってベクタの死体に指を差そうとしたが、その肝心なベクタの死体が見当たらない。あるのは赤黒く変色した血だまりだけだ。
「……そうか。そういうことか」
数秒の思考を経てラテンはようやくこの場になぜベクタがいないのか理解した。
暗黒神ベクタとはアスナやシノンと《スーパーアカウント》すなわち単なるアカウントでしかないのだ。アカウントがいくら消滅しようがそれを制御する本体さえあればいくらでもこの世界へ再ログインすることができる。つまりこの場には、暗黒神ベクタを操っていた人間が別のアカウントでログインしてくる可能性が高いのだ。狙いはもちろん《光の巫女》と呼んでいるアリスただ一人。
とはいえ、ラテンが暗黒神ベクタに苦戦した最も大きな理由は、奴に搭載されていたシステムアシストだ。アスナの話によれば《スーパーアカウント》は四つあるらしいが、今回の黒幕が手に入れたのは一つだけらしく、次にこの場へ現れるアカウントにはほぼ百パーセントの確率でシステムアシストが搭載されていないだろう。
ならば瀕死のラテンでさえも勝機はある。
「シノン、やっぱりここは俺が――」
「ユウキが。待ってるわよ」
ラテンの言葉を遮るようにシノンが静かに呟いた。
「わかった……だけどベクタが復活するなら話は別だ。アリス……《果ての祭壇》に行ってくれないか」
「私は……」
再び抗議の声を上げようとしたアリスだったが、途中で口を閉ざす。おそらく自分の置かれた立場をしっかりと再思考しているのだろう。
一分ほどの静寂が訪れ、最初にそれを破ったのはアリスだった。
「……私は、もう一度この世界へ戻ってこられますか? 大切な人たちに、もう一度会えますか?」
その言葉にラテンとシノンは顔を見合わせる。
二人は同時に頷きアリスに向き直った。
「ああ、きっと戻って来られる。いざとなったら俺が菊岡さんをぶん殴っててでもお前をこの世界へ戻れるように説得するよ」
さすがに殴るのは冗談だが、説得はするだろう。彼らがまいた種なのだ。彼らには責任を取ってもらわなければならない。
「……解りました。ならば、私は南へ向かいましょう。《果ての祭壇》へ」
アリスの言葉にラテンはもう一度頷く。
ベクタが復活する可能性があるのなら、一刻も早く《果ての祭壇》へ到達するために、二頭の飛竜にはアリスを運んでもらう方がいいだろう。
となれば問題はラテンだ。
シノンのアカウントのように《飛ぶ》ことができれば話は簡単なのだが、ソルスアカウントから《無制限飛行》を譲渡できるわけがなく、手段がない。やはりここは全速力で走っていくしかないのだろうか。
「……ん? 待てよ……《飛ぶ》?」
ラテンは顎に手を当てながらシノンへ顔を向ける。その視線の先には、シノンの武器であろう、巨大な弓。
「ひらめいた!」
ポンッとでも効果音が鳴りそうな仕草で両手を叩く。シノンとアリスは怪訝な視線をラテンに向けた。
「なあ、シノン。その弓の射程はどのくらいなんだ?」
「え? そうね……というか何故そんなことを?」
シノンの問いにラテンは「ふっふっふっ」と、完璧なアイデアが閃きすべてを見通しているかのような態度で口を開いた。
「聞いて驚きたまえ。何か細い棒状の物に俺を括り付けて、その弓で北の方向へ発射するんだ……完璧なアイデアだろ!! ああ着地に関しては安心してくれ。神聖術で何とかするから」
「「…………」」
これぞまさに絶句という言葉がふさわしいだろう。二人はぽかんと口を上げてラテンを凝視している。
「おい、どうしたよ二人とも。そんなアホみたいな顔をして――」
「「アホはあなたの方でしょォォォ!!」」
「ひぃぃぃぃ!?」
二人の形相に怖気づき、思わずラテンは尻餅をつく。いつの間にか刀から変形していたジャビはというとすでに遠くへ避難していた。
「棒状の物にくくられて矢のように発射? 何を言っているのですかあなたは。バカも休み休み言いなさい」
「さすがの私もそんな発想はしないわよ。それに弓と言ってもあなたの重さで簡単に失速するわよ? この高さだと良くて二百メートルってところね。現実的じゃないわ」
「い、いや。俺なりにいい考えかな、と、思いまして……」
二人の言葉にラテンはだんだんと小さくなっていく。さすがにここまで言われるとは思ってはいなかったからだろう。
ガミガミと説教されて数分が経過した頃、突然ラテンたちがいる岩山の地面が大きく揺れる。
「おい、俺の後ろに下がれ!」
すぐさま戦闘態勢に入ったラテンは驚いている二人に声を飛ばした。
刀を抜き去りだんだんと近づいてくる音の方向へと構える。後ろではシノンが弓を、アリスは記憶解放術の準備をしている。
やがて一瞬の静寂が辺りに訪れたと思うと、迫ってきていた音の正体が三人の目の前に現れた。
「お、お前は」
その姿を見たのと同時にラテンは刀を下げた。
先ほどまでの音の正体、それは東の森で出会ったあの魔獣であった。
「何でこんなところに」
刀を納刀し、魔獣へ近づく。後ろでは魔獣を知っているアリスと、ラテンの反応から察したシノンが武装を解除して近づいてきていた。
「ラテン、これは」
「ああ、こいつはとある森で出会ったモンスターだよ。ありがたいことに俺たちに協力してくれているんだ」
魔獣はのそりと前足を上げるとラテンの頭の上へ乗せる。
「……見ての通りにこいつが主人で俺が下僕みたいな関係だけどな」
青筋を浮かべているラテンにシノンは苦笑する。
ラテンは魔獣の足に手を乗せていつもの儀式をすると、魔獣に声をかける。もちろん通訳はジャビだ。
「俺は、お前に人界軍を守れって頼んだはずなんだが」
『どうやら人界軍側に大量の援軍が来ていて優勢だったからラテンの元へ向かうように頼まれたらしいぞ』
「大量の援軍? どんなやつらなんだ?」
『え~と……ほとんど全員が羽を持っていて、中には赤いバンダナをしたいかにもモテなさそうな男とか、斧を持った巨漢なチョコレートとか――』
「ああ、なんとなくわかったわ……」
二人ともおそらくラテンがよく知る人物だろう。しかし問題はそこではない。何故彼らがこの世界へ来ているかだ。
「シノン、お前何か知ってるか?」
「ええ……知っているわ」
シノンは今回の出来事を簡潔に話す。
どうやらこういうことらしい。
キリトのナビゲーションピクシーで娘でもあるユイが俺たちの危機を察知して、それをいつものメンツに伝えた。その後リズベットたちがALOで、助けてもらうように呼びかけ、その呼びかけに応じた何千人ものALOプレイヤーたちがアカウント消失の危険を顧みず、コンバートして駆けつけてくれたらしい。
「……だったらなおさら急がないとな。魔獣、走れるよな?」
魔獣は当然とでも言いたげに反転し背中に乗るようにラテンへ促す。ジャビを刀に戻してラテンは振り向いた。
「シノン、ここは任せる。アリス、すべてが終わったらまた会おうぜ。まだ説教が残ってるしな」
二人は強く頷くとアリスは二頭の飛竜の元へ、シノンはこの場の中央へと足を運んだ。ラテンは急いで魔獣の背中に乗る。
「全速力で頼むぜ、相棒」
「ぐるる」
巨大な狐型の魔獣はラテンの言葉に応えて駆けだした。
それが強みであり、弱点でもある。