開戦の火蓋が切られてから十数分。戦場から響き渡る無数の叫び声は、前線から数百メル離れているここ、補給部隊本部にまで届くほどのものだった。その叫び声のほとんどは、もちろん人間のものではない。耳にしたことのある声があることからおそらく、最初に突撃してきたのはゴブリンの集団だろう。その咆哮がだんだん近づいていることから、防衛線を強行突破したか、守備軍を避ける道から来ているということになる。後者ならば集団の長は、相当頭がきれるということになる。
そのためか補給部隊のほぼ全員がいくつも設けられた天幕に避難している。しかし、それもゴブリンたちがこの場に到着してしまえば意味がないということは、誰しも理解していた。だからと言ってこの場を離れれば、前線を支えることが不可能になってしまう。補給部隊にとって『逃げる』ということは、『戦争での敗北を促す』と同義だ。だから一人でも多く生き残るために、隠れているのだ。
もちろんそれに対抗する手段がないわけではない。この補給部隊には、修剣学院にいた生徒が少なからず参加している。彼らが率先してゴブリンたちと戦ってくれれば、この場にいる全員の恐怖心が少しばかり和らぐのだが、いくら才能があるからと言っても所詮は『寸止め』での立ち会いだけだ。実戦は、あんなものとはわけが違う。
ラテン自身、ダークテリトリーの住人と戦闘したことは一度しかない。あの時感じた恐れを今の学院生が耐えられるとは到底思えない。
そうなると、頼れるのは魔獣である狐だけなのだが、残念ながら前線でリリアを支えるように命じてしまっているため、この場にはいない。唯一ゴブリンたちに対抗できるのは……。
「………」
ラテンは無言で手のひらを見つめた。しかし、何度見つめても武器を握ることはできない。
そのまま握りしめると同じ天幕にいるシャロンが、両手を包み込むようにそっと添える。
「大丈夫ですよ。先輩は、私が守ります」
「後輩を頼ることしかできないなんて、先輩失格かもな」
思わず苦笑すると、「そんなことないです」という否定がすぐさま返ってくる。
シャロンの実力は誰よりも知っているつもりだ。彼女の剣筋はとても正確であり、誰かに似ているような感じなのだが、その『誰か』を思い出すことができない。おそらく自分にとって大切なものの一部だったのだろう。
無駄だとわかっていながらも思い出そうと悶々していると、いつの間にか先ほどまで絶え間なく聞こえていた叫び声は消え去っていた。意識を切り替え、外に向ける。
すると、ひたひた、ひたひた、と湿った足音が耳に入り込んできた。それは明らかに人のものではない。
まずい、と思った時にはすでに遅く、ばりりっ! という音とともに、入口の垂れ幕が引きちぎられた。
とっさに腰に手を当てるが、望みの刀は帯刀していない。
そんなラテンをあざ笑うかのように、垂れ幕を引きちぎった本人がニタッを不敵な笑みを浮かべる。
「ここにも白イウム……おおっ! 娘っこもいるじゃねえかぁ……!」
その言葉を聞き終えるのと同時に、隣のシャロンが抜剣した。シャリィィン、という軽い金属音とともに鞘から現れたのは、半透明の美しい細剣。サードレのおっさんに頼んでいた武器が完成していたのだ。
触れたら簡単に突き刺さりそうな鋭利な剣先を向けられているのにもかかわらず、ゴブリンの表情は崩れない。その原因は瞬時に分かった。
僅かながら震えている剣尖。そこから連想される光景は一つしかない。
「おいおい、震えてるじゃねえか」
「っ! ……それ以上近づいたら、八つ裂きにします!」
残念ながら、シャロンの言葉には威圧感が微塵も感じられない。彼女自身、まだ決心がついてなかったのだ。敵と出会うこと。そして、命のやり取りをすることに……
今の彼女では無理と判断したラテンは、身構える。ゴブリンの力に対抗できるかは不明だが、少なくともシャロンをこの場から逃がす時間を稼ぐことぐらいはできるだろう。
目の前のゴブリンが踏み込んだ瞬間、ラテンは地を蹴ることが―――できなかった。その理由はゴブリンの胸に突如出現した剣尖が原因だった。
ごく薄い鋼鉄の刃。足音が聞こえなかったことから、おそらく誰かが投げたものだろう。
――――一体誰が……
その答えは、ゴブリンが前に倒れたと同時に現れた。
容姿は優しそうな少年そのものだが、その身に包む鎧は返り血を浴びて薄汚れている。胸当ての中央には公理教会の紋章が刻まれており、背中から白マントが垂れていることから、彼が整合騎士であることを理解するのに、数秒もいらなかった。
「大丈夫かい? ……!」
目前の騎士が息を呑むのが伝わってくる。おそらくラテンを姿を見たからだろう。整合騎士ならば、作戦会議の時に一度ラテンを見ているはずだ。
「ああ、ありがとう。助かったよ」
素直な感謝を述べると、またもや騎士に驚かれたが、その表情は、聞き覚えのある声でかき消される。
「上位騎士さま、命令をお願いします」
誰がどう聞いても皮肉にしか聞こえないような言葉を投げかけたのは、カセドラルで出会ったあの二人組だ。服には少しばかり返り血が付いており、おそらく少年騎士とともにここら辺一帯にいたゴブリンたちを殲滅したのだろう。
あちらのほうもラテンの存在に気付いたのか、ひょこひょこ、と近づいてくる。
「こんなところにいたんだ。死んだかと思っちゃった」
「笑顔でとんでもないことを口にしてんじゃねぇよ……」
あはははは、とフィゼルとリネルが無邪気に笑ると、少年騎士が大げさに咳ばらいをした。
「僕は部隊に戻るから、君たちもそうしたほうがいいよ」
「はぁい」「了解です」
何とも気抜けた返事をすると、戦闘の疲れを感じさせないような軽い足取りで、走って行った。それを見た少年騎士は、こちらを向き頷くと、二人の後をついていくように走って行った。
「俺たちも行くか」
「…はい」
ゴブリンに恐れをなしてしまった自分を許せないのか、弱弱しく返事したシャロンの頭を撫でてやると、補給部隊のみんながいる元へと向かった。
♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦
「………」
開戦から数十分。
盛大な爆発音とともに、人界軍とダークテリトリーとの戦争は一旦停戦した。ラテンたち補給部隊は、怪我人を介抱するために前線へと来たのだが、その先に広がる光景は悲惨なものだった。
悲惨といっても死体が辺り一面に転がっているわけではない。おそらく、アリスが放った光線によって蒸発したのだろう。残っているのは、黒く焦げた土だけだ。
薄暗くなっていく空を見上げながら、そろそろ戻ろうかと考えていると、後ろから二つの足音が近づいてくる。一つは、のそのそと。もう一つは、すたすたと。歩くペースが明らかに違う気がするが、大きさのせいだろう。
「怪我は……ないか」
「ええ。私は第二部隊でしたから」
そう言って、隣で立ち止まる。もう一つの足音は、ラテンの後ろのほうで消えると、代わりにふさふさのしっぽが頭にのしかかってくる。それを撫でてやると、満足したのか引っ込めてしまった。
そしてしばらく無言の状態が続くが、それを先に破ったのはリリアだった。
「次の作戦が決まりました」
「そうか」
「あなたにも同行してもらいます」
「……マジで?」
「マジです」
今のラテンができることは補給部隊として支えるか、戦争を傍観することぐらいだ。そんな戦力にもならないラテンを連れていくというとは、いったいどんな内容なのか。
思わずリリアのほうに顔を向けると、彼女は突然つぶやく。
「先ほどの襲撃の話は聞きました。あなたとシャロンをここに残しておくわけにはいきません」
つまり、”私が守ります”ということなのだろうか。本来守るべき立場にあるのはラテンであるはずなのだが、今のラテンにはそのために力がない。
(お荷物になるのなら……って言ったら、怒るよなぁ)
ラテンは大きくため息をつくと、踵を返す。
目の前では、狐が伏せて目を閉じていた。その頭をそっとなでると、大きな欠伸を一つして、のそりと立ち上がる。
「俺はお前を守りたかったんだけどな」
「なっ……私には必要ありませんっ。早く準備をしてください」
ぷいっと顔をそむけると、すたすたと先を歩いて行ってしまう。その作戦とは、どうやらもうすぐで始まるらしい。
「それを先に言えよ……!」
もう一度ため息をつきながら、ラテンはリリアの後を追っていった。
リリアの言う作戦とは、ダークテリトリーの軍勢から、何故か《光の巫女》と呼ばれているアリスに人界軍の五割を同行させ、囮という形で闇の軍勢を分断するというものだ。もちろん有効的な策だとは思うが、一歩間違えれば囮部隊が全滅してしまう可能性だってある。もしくは残留部隊が全滅するか。その行く末は神のみぞ知る、というところか。
囮部隊に加わる上位騎士は、ベルクーリ、アリス、リリア、レンリ、シェータの五人。レンリという少年騎士は先ほど会っているため、大体わかるが、シェータという整合騎士のことは全く知らない。リリアやアリスに聞いてみたのだが、二人とも詳しくは知らないらしい。何がともあれ、上位整合騎士に選ばれるほどだ。相当な実力者であることは確かだろう。
囮部隊の物資については、四頭立ての高速馬車が八台用意されており、その一つに、車椅子のキリトと、シャロン、ロニエ、ティーゼが乗っている。
ラテンもそれに同乗しようとしたのだが、狐が明らかに”乗れ”と言わんばかりに、背中を向けてくるため、そこに乗ることにした。
その背中に乗り込むのと同時に、ベルクーリの騎竜《
その後ろを狐がついていく。他の騎士たちも騎竜を離陸させた。微速で先に行くベルクーリが、振り向いて叫ぶ。
「よし、峡谷を出ると同時に、竜の熱線を敵本体に一斉射! 向こうはもう遠距離攻撃手段はほとんどないはずだが、竜騎士だけは気を付けろよ!」
その言葉にアリスが、はいっ、と鋭く応える。
どう考えても飛龍のほうが効率的なのだが、この狐は飛龍の天命をも超える魔獣。どんなことができるのかわからないが、強力な攻撃をしてくれるだろう……根拠はないが。
「……あれ? 俺って結構やばくないか?」
『お前がこれでおれっちを持てたら、結構様になってたけどな』
「いや、それ以前に、確実に地上の俺のほうが危ないよね?」
『まあ、このキツネっちが乗れって言ったんだから大丈夫だろ』
それに応えるようにキツネっちが頼もしそうに唸る。
しかし、残念ながら今のラテンにとっては、飛龍のほうが数倍頼もしく感じてしまっている。
「ちょ、ちょまっ……!」
ラテンが動きを制止しようとするが、ベルクーリの騎竜が飛び立つのと同時に、狐は思い切り地を蹴った。
「ちょっと待てぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
ラテンの叫びが空しく響いた。
安定のむちゃくちゃですね…。
原作の場面展開をちょっとだけ変えてます。
この後の展開は、こんなテンションで行くものではないんですけどね(笑)
何がともあれ、原作十六巻はニヤニヤできる場面が数多くありましたね。あの場面をどうやって書いていくか……考えただけでもニヤニヤが……(笑)
それと、遅れてしまいましたがUA90000突破ありがとうございます!
お気に入り件数も五百件に到達しそうな勢い…!
これもすべて皆様のおかげです。
こんな駄目なエンジの作品を読んでくださり、本当にありがとうございます!
しばらくは早めに投稿したいと思っていますので、これからもよろしくお願いします!