「よーし。次の授業は小テストやるからちゃんと準備しておけよー」
軽快な鐘の音と共に発せられた無気力な教師の言葉に、教室のあちらこちらから不満の声が上がる。だが、そんなことを微塵も気にかけないかのように、大型パネルモニタの電源を切ると早々と立ち去って行った。
それに合わせるかのように、教室内で次々と生徒たちが立ち上がり各々仲いい奴らと談笑しながらカフェテリアへ歩いていく。
「じゃ俺たちは先に席を取りに行ってくるな」
一つ前の席に座っていた友人が振り向きながら親指を立てた。
「また、カツサンド目当てか。さすがに毎日食ってると飽きるだろ」
「お前は何もわかっちゃいないな。《数量限定》という肩書でそんなものいくらでも打ち消されるんだよ」
「何その万能な肩書」
天理の言葉に前の席の奴は唇を尖らせながら再び口を開く。
「いいよなー。毎日妹に弁当作ってもらってる《神速》様は」
「俺の妹は優しいからな、嫁にしたいくらいだぜ。後、俺の名は《天理》な」
《神速》。それは天理がSAO時代に一部のプレイヤーたちから呼ばれていた異名《神速の剣帝》を略したものだ。もちろんそんなあだ名を知っている人間は、あの世界にいた者たちだけ。
ここは、普通の《学校》少し異なる特殊な学校だ。ここに通うすべての生徒は、中学、高校時代に事件に巻き込まれた旧SAOプレイヤーである。もちろん積極的に殺人を行っていた本格的オレンジプレイヤーは、カウンセリングやらなんやらと色々義務付けられている。だから、安心といえば安心なのだがあの世界での出来事は根強いもので、今も天理のようにあだ名で呼ばれる人間や、あの世界で仲良くなったプレイヤー同士で現実でも仲良くしているなど、色々引き継がれているものもある。
目の前にいるこの男も、この学校に来て話すまでは天理は存在を知らなかった人間だが、向こうは天理のことをよく知っていたようで積極的に話しかけてきた奴だ。今では仲いい友人の一人であるため、あだ名呼びも一応は許容をしている。
「うるせー、このシスコン野郎! 今度紹介してくれ!」
「お前が義弟なんざ死んでもお断りだ。それより売り切れちまうぞ」
「やっべ。じゃあ後でな!」
そう言って、颯爽とカフェテリアへ走って行った。それを見送り、机の横に置いていたリュックのジッパーを引いていると、隣の席の会話が耳に入り込んでくる。
「ひめー! お昼一緒に食べない?」
「ええと、ごめんね。今日は先約があるの」
「こらこら、今日は王子様との食事の日でしょ。邪魔しなーい邪魔しな―い」
「王子様って……そんなんじゃ」
「あら、違うの?」
「……もー!」
からかう様に笑みを浮かべた女子生徒は、もう一人の背中を押しながらカフェテリアへ歩いていった。そして天理は《姫》と呼ばれた人物へ顔を向ける。
「今日もアツアツですなー」
「ラテ……んりくんまで、やめてよー」
「ちょっと待って、混ざってないそれ」
ふふっと栗色の長髪を揺らしながら目の前の女性は優しい笑みを浮かべる。
彼女の名は《結城明日奈》。ALOでキリトが救出した、あのアスナだ。どうやら年齢は天理と同じだったらしく、こうして同じ教室で勉学に励んでいる。
ALOの出来事が起きてから約一か月が経とうとしている。天理や和人のようにSAOクリア時点で現実世界に戻って来られた人間とは違い、アスナはつい最近まで囚われていた。無事生還してから現在のように歩くことができる程度まで回復した間の苦労は想像に難くない。
「わざわざ待ち合わせじゃなく、和人の奴を迎えに来させればいいのに」
彼女の体調は万全とはいえない。今でも走ることを含めた運動は禁止されているらしい。
「そんなことしたら、また揶揄われちゃうでしょ」
「公認なんだし、もっと甘えてもいいと思うけどなー」
「恥ずかしいんだからね。天理くんもそのうちわかると思うよ」
「……どーせ俺はいませんよ。恋人なんて……」
「あは……あははははは」
肩を落とした天理を見て明日奈が苦笑する。
机に額をこすりつけていると、ポケットに入っていたスマホが振動する。画面を見れば、天理の祖母の名が表示されていた。昼休みとはいえ、普通授業がある日の学生に電話してくるだろうか。
「悪い、電話だ。また後で」
「うん」
天理が席を立つと、合わせてアスナも席を立つ。そして、バスケットを片手に教室を出て行った。
周りに人がいないことを確認して教室の隅でスマホをタップする。
「もしもし」
『元気かね、少年』
「そういうのいいから、わざわざ電話なんて一体どうしたんだ?」
『なんか、つまらないわね』
本気で落胆したような声に、呆れそうになるがいつもほぼはこんな感じだ。気にしたほうが負けという奴だろう。
『で、あんたにちょっと頼みたいことがあってね』
「頼みたいこと? メールじゃダメなのか?」
『メールだと気づかない可能性があるからねぇ。まあそれは置いといて、今日は何時に授業が終わるの?』
「あー、十五時過ぎくらいかな」
時計を見ながら言えば、安心したかのような声音で祖母が続ける。
『実は今日、木綿季ちゃんの定期検診があってね。あんた彼女を連れて来てくれない』
「……はい?」
木綿季とは、前に祖母が院長をしている病院で会った、元気で可愛らしい少女のことだ。その帰りに連絡先を交換してからは何度かやり取りをしているが、その日以来会ってはいない。
「何でまた俺が?」
『前も言ったでしょ。一人で来させるのは心配なのよねぇ』
世の中物騒だから、などという理由だった気がするが天理からしてみれば少々過保護のような気がしないでもない。
「心配し過ぎだろ」
『そりゃ心配するわよ。まだ子供なんだから』
「俺も一応まだ子供なんですが」
『アンタはもう大人でいいわよ。何のために剣道やってたと思ってんの。木綿季ちゃんの護衛をするためでしょ』
「初耳だな、それ!」
とはいえ、祖母の気持ちはわからなくもない。
「……わかったよ。俺が連れていくよ」
『本当!? やっぱできた孫だわ、アンタは。じゃあよろしくねぇ』
「え、ちょ、まっ…………切れた……」
木綿季の学校を聞く前に電話を切られてしまった。仕方なく、木綿季本人に〖突然で悪いが、木綿季の学校ってどこだ?〗というメッセージを送ってみる。はたから見れば、不審に思うだろうと送ってから気付いたが、もう遅い。ため息をつきながら仕方なくスマホを閉じる。
今はお昼時だろう。そうじゃなくても、休み時間の間に返信がもらえればいい。
友人の元へ行こうとした天理の右手が再び振動する。見れば彼女からの返信がもう来ていた。
ご丁寧に学校名だけでなく、地図アプリでの位置情報も送ってきてくれていた。その位置情報をタップし、どの辺にあるのか確認しようとしたところ、スマホ画面の上部に新たなメッセージが表示される。
〖いきなりどうしたの?〗
どうやら祖母は木綿季には伝えていないらしい。とりあえず、祖母に言われたことをそのまま木綿季に伝える。
〖今日お前の定期健診だって、さっきばあちゃんから電話があってな。わけあって俺が同伴することになった〗
〖ええ、そうなの!? ボクは別に一人でも大丈夫なのに〗
〖そこは諦めろ。今日は何時に終わるんだ?〗
〖ちょっと呼び出しがあるから、四時くらいかな〗
〖四時ね、了解。じゃあ、また後で〗
〖うん、ありがとう〗
そこでやり取りを終える。
呼び出しとは、木綿季の体調のことだろうか。それとも、成績があまりよろしくないからとかだろうか。まあ考えても仕方がない。
今度こそ愛妹弁当を片手に、カフェテリアへ歩き出した。
時刻は十五時四十分。
木綿季から提供された位置情報をもとに、一応彼女が通っている学校にはたどり着いた。到着したとは言っても、現在天理がいる場所は学校の丁度裏側に位置する場所だ。横を見れば住宅街で、ここら辺に住んでいる中学生はこの学校に通っているのだろうと容易に予想できる。そして、何故天理がこんな場所にいるかというと、単純に近道らしき道を見つけたからだ。地図アプリに示されたルート通りに行けば学校の正門に到着するが人間、目測でこちらの方が近いのでは、と思うときがあるだろう。今の天理はそれに該当する。
「少し早めについたか。どっかのコンビニで時間をつぶそうかね」
再び地図アプリを開いて、周辺にあるものを詮索していると、少年らしい声が耳に入り込んできた。
「好きです、付き合ってください!」
――おお、青春ですな~
声のした方向から木綿季が通う学校で行われているようだ。確かにここは丁度裏側で、見る限り人通りも少ない。告白する場所にはもってこいだろう。
ここで人は二つの選択肢に迫られる。
一つは、聞かなかったことにしてこの場を去る。
いや普通はこの選択をするべきなのだろう。他人に聞かれているなど当人たちからしたら恥ずかしいどころの話ではない。
だが人間には、好奇心という厄介な悪魔が住み着いており、時にはそれに抗うことができずに乗ってしまう。
――ちょっと様子を見るだけだ。別に俺は好奇心で見るわけじゃない。他の誰かに聞かれていないか、偵察してあげるだけだ、うん。
自分で正当な理由を立てて、こそこそとフェンスの間から覗き込んだ。見れば、背丈は高くも低くもない短髪の少年が頭を下げていた。
次は相手側の女性を見るべく視線を動かした天理は、その人物を見て固まる。
そしてよく知る少女が返事をするよりも先にその場を立ち去った。
「おまたせ、天理」
早足でやってきた木綿季を笑顔で迎える。
「いーや、今着いたばっかりだから気にすんな。それじゃあ行こうか」
天理が歩き出せば、木綿季がその横に並んで歩き出す。
ちらっと視線を木綿季に移す。
藍色のセーラー服に胸元には赤いリボンが綺麗に結ばれている。そして、頭には前回会った時と同じように真っ赤なヘアバンドを付けており綺麗な長髪に似合っている。夏になれば藍色のセーラー服も白く生地が若干薄いものへと変わるのだろうが、それも似合ってそうだ。少し見てみたい気もするが、その願望は胸にしまっておこう。
「そういえば、結構久しぶりだよな。こうして会うのは」
「そうだね。天理の家とは離れてるから簡単に遊ぶこともできないし……」
少し残念がる姿は、はっきり言おう。非常に可愛らしい。
「まあ今の時代は非常に便利だからな。顔が見たくなったらいつでもビデオ通話すればいいさ」
自分の口は何を言っているのだろうか。確かに彼女とは連絡先を交換している仲だが、わざわざ顔を見あうような仲ではない。前回、彼女は『友達』と言ってくれたがそれも、親密な友人でなければわざわざビデオ通話などしないだろう。
「そうだね!」
てっきり困惑した表情になるかと思っていたが、意外にも嬉しそうに肯定してくれた。そういえば、木綿季はそういう人間だ。誰にでも明るく誰にでも優しい、他人から好かれるような人種だろう。暗い影などない太陽そのもののような彼女には多少あこがれる。
それから数分歩いて、いざ駅に入ろうとしたところ、横から女性の声が飛んできた。
「あれ、木綿季ちゃん? やっほー」
「あ、やっほー」
駅に隣接されたコンビニから出てきたのは、木綿季と同じ制服を身にまとった少女だった。おそらく木綿季の友達なのだろう。
「あれ、その人は……」
手を振りながら近づいてきた少女は天理を見るや否や、にやりと笑う。
「もしかして、木綿季ちゃんの
「うぇっ!?」
口に手を当てて、ニヤニヤとこちら見てくるその姿はどっかの鍛冶屋の少女に重なる。隣では木綿季が、顔を少し赤らめながら顔をぶんぶん振っていた。
「そ、そんなんじゃないよ! と、友達! ただの友達だから!」
「ふーん、本当かなぁ……?」
表情を崩さない木綿季の友人は、天理と木綿季を交互に見る。おそらくお互いの反応を見て、
「残念ながら、君が思っているような関係じゃない。互いの両親が知り合いってだけで、木綿季が言った通り、ただの友達だ」
「そうなんですか……」
ちょっと残念と、小さく呟いた彼女を見て思わず苦笑する。やはりこの年頃の少女はこのような話には興味津々らしい。まあわからなくはないが、天理たちはそういう関係ではないため、おかずにはなれそうもない。
「じゃあ、私はもう行きますね。また来週ね、木綿季ちゃん」
「うん、また来週!」
手を振って恋バナ大好き少女が去っていくと、微妙な空気が天理とユウキの間に漂い始める。とはいえ、無言になっても仕方がない。
「……まあ、行くか」
「う、うん」
ぎこちなく返事した木綿季と共に駅へ入り込んだ。
「はーい、じゃあ次が最後ねー」
院長室で待たされていた、天理と木綿季に向かって軽い声音で祖母が言った。
時刻は十七時半を過ぎたくらいだ。約一時間ぐらいの木綿季の検診も、聴診を残しただけだ。
「木綿季ちゃん、ここに座って」
「はーい」
祖母の言われた通り用意された椅子に座ると、祖母は聴診器を付けた。流石にこの場にいるのは倫理的にまずいだろう。そそくさに部屋の外に出る。
そして数分後、部屋の中から遠慮がちに木綿季が入るように促してきたため、それに従って、再び部屋に入る。
「無事終わったみたいだな」
「うん!」
可愛らしい笑みを浮かべて木綿季は頷いた。電車に乗っている間は、妙な気遣いが感じられたが、今では元通りだ。このまま自然な空気で木綿季を家に送り届けられそうだ。しかし、突然ここで祖母のいらんスキルが発動される。
「そういえば木綿季ちゃん、彼氏はできたの?」
「うぇっ!?」
――なんちゅうことを言ってくれたんだこの老婆が……!
本日二回目の驚き声を聞きながら、天理は心の中で悪態をついた。ようやくほとぼりが収まった矢先に、よりによってこのような話題を出すとは。
だが、祖母の爆弾投下はそれだけでは済まない。
「もしいないなら、うちの天理なんかはどう? 若干めんどくさがりだけど、性格はいいから悪くはないわよー」
――ババア!!
思わず飛び出そうだった言葉を慌てて飲み込む。
何故この祖母はこんなにも空気が読めないのだろうか。いや、祖母からしたら本日一回目の話題であるから空気を読むもない。それに、天理がめんどくさがりなのは祖母に対してだけだ、たぶん。
隣に立っている木綿季を見てやれば、顔を赤くしてうつむいたまま「えっと……その……」と言葉にならない様子だった。先ほどみたいに天理のことは《友達》と言えれば切り抜けられるだろうが、質問が質問だ。そう答えれば、天理が振られたみたいになって、この後気まずいまま帰ることになることを恐れているのだろう。ここも助け舟を出した方がよさそうだ。
「おいおい、木綿季を困らせんなよ。それにこいつは学校ではモテモテでついさっきも告白されてたんだ。俺を選ぶほど困ってはない」
「え……?」
「あらそうなの……まあ確かにそうよねぇ」
こんなにも可愛いらしいもの、と一人で納得している祖母を見てさらに畳みかける。
「それにこういうことは全部本人に任せればいい。恋人なんて、木綿季が本気で思っている人じゃなきゃ意味ないだろ?」
「……そうね、これはおせっかいだったわ。ごめんなさいね、木綿季ちゃん」
「あ、うん……」
木綿季は流されるまま頷き、横目でこちらを見てきた。
「どうした?」
「あの、えっと……」
そのあと続く言葉を待ったが、数秒後に「何でもない」と小さく呟いたので、それ以上は聞かなかった。
天理はこの部屋にかけられている時計を見て、祖母へ顔を向ける。
「じゃあそのまま木綿季を送り届けてくるわ。行こう、木綿季」
「う、うん。またね、おばあちゃん」
「はーい、また来月ね」
天理と木綿季は委員長室を後にする。
この様子じゃ、来月にもある木綿季の定期診断に天理も駆り出されそうだ。だが、どうしても外せない用事でも入ってなければ、それもいいだろうと思っている。意外と木綿季との時間が気に入っているのかもしれない。
病院前の駅のホームにたどり着くとそそくさにスマホを取り出して、メッセージを打つ。
〖悪い、やっぱりオフ会には行けそうにない。二十三時の方には行けるから安心してくれ〗
送り先は桐ケ谷和人だ。
数秒もしないうちに既読が付き、了解、という二文字が返ってくる。
オフ会とはエギルたちが企画した《アインクラッド攻略記念パーティ》のことだ。本当ならば今頃、天理もそれが開かれる場所である《ダイシー・カフェ》にいるはずなのだが、木綿季の送迎、という用事ができてしまい参加することができなかった。
とは言っても、そこまで落ち込んではいない。何故ならば、これは《一次会》であり今夜十一時から行われる《二次会》が本命だからだ。そして、そこではとんだサプライズが待っている。
思わず、口角を上げていると隣に立っていた木綿季が遠慮がちに声をかけてきた。
「あの、天理……」
「ん、どうした?」
顔を向けてみれば先ほどと同じように、何かを言いたげながらも口に出すか迷っている木綿季の姿があった。だが、さっきと違ったのは、言葉をそのまま飲み込んだのではなく、吐き出したことだった。
「……どこで知ったの? その、ボクが……こ、告白されてたこと」
「え、あ……いや……」
思わず言葉が詰まってしまう。
心の中では見なかったことにしようとしていたにも関わらず、先ほど祖母の爆弾投下を防ぐためとはいえつい口走ってしまったのを思い出す。
木綿季からしたら至極当然な疑問に、天理は目をそらしながら答えた。
「じ、実は……お前の学校の裏側を歩いていたら偶然、な……」
「そうなんだ……」
木綿季は静かに目を伏せる。
またこの空気だ。本日三度目。いい加減胃が痛くなってくる。
天理は何とか空気を変えようと、慌てて口を開く。
「そ、それにしてもやっぱ木綿季ってモテるんだな。俺も昔は何度かあったけど……今じゃそういう話は全然ないしなー、アハハ……」
――俺は一体何を口走ってるんだァ!?
話題を逸らすどころか全力で掘り下げるようなことを言ってしまった。どう考えても、木綿季が触れてほしくない話だろう。
拒絶の言葉に備えて天理は目を瞑る。
しかし、意外にも木綿季は苦笑いをしながら困ったように答えた。
「最近ちょっと多いんだよね……。ボクには……その……事情があるから、全部断ってるんだけど……」
「そ、そうなのか」
まあ同級生にこれほどの美少女がいればアタックしたくなるのは当然と言えば当然だが、意外だったのはその後に続けられた言葉だった。
「憧れてはいるんだけどね」
木綿季が抱えている事情と、病院に通っていることとは無関係ではないだろう。しかし、どんな角度から見ても、彼女が恋愛できないような状態であるようには見えない。どちらかといえば、快復に向かっているように見える。
だが、それは実は仮初で、本当はもう時間が決まっているんだとしたら――。
嫌な予想を慌てて振り払うと、隣から「それに」と続けられる。
「まだまだみんなお子様だからね! ボクはやっぱり落ち着いた大人な感じの人がいいかなぁ」
急に元気を取り戻した木綿季は、星がいくつも顔をのぞかせた夜空を見上げる。憧れている、というのはあながち嘘でもないようで、ちゃんと木綿季の中で理想像ができているようだった。
「ほう、その歳で年上の良さに気付くか。わかってるな。まあでも、そのうちで会えるさ、そんな雰囲気の同級生に」
天理が肩をすくめて見せれば、木綿季がくすくす笑いながら口を開く。
「でも、天理は時々子供っぽいよね。何だか年上って感じがしないなぁ」
「おいおい、言ってくれるじゃねぇか。だったら今から、俺の『大人なすごさ』を説かなきゃならないな。お子様にはわからないかもしれないが」
「だったら、ボクの『大人なすごさ』も説かなきゃね!」
木綿季が無邪気に笑った。
時刻は二十二時五十分。
約束の時間まであと十分に迫ったところで天理はペンを動かす手を止め、ベットの上に仰向けで寝転んだ。そして、頭上にあったアミュスフィア頭部へ装着し、ゆっくりと口を動かす。
「リンク・スタート」
集合場所についてみれば、二人を除いて他のメンバーは全員そろっていたようで、その中から赤い髪に黄色と黒のバンダナを巻いた野武士ヅラの男がズカズカとこちらへ歩いてきた。
「このやろっ、遅せェぞ!」
「悪かったって。でも遅れてはないだろ?」
ラテンの片腕を首に手を回し、片手で頭をぐりぐりしてくるクラインに対して笑いながら言った。だが、早く着いてしまう気持ちはわからなくもない。それほどラテンたちがこれから行く場所は、特別な場所なのだ。
一通り右手を動かした後、ようやく満足したのか少し離れたクラインがにんまりと笑う。その姿は、あの世界――SAOでの姿と酷似していた。クラインだけではない。先ほどと同じようにズカズカとこちらにやって来る元鍛冶屋のリズベットや、その後ろを笑いながらついてくる、肩に青い小さな飛竜を乗せた少女のシリカと元ぼったくり店主のエギル。そしてこの世界で救出し、現実世界の学校でも隣の席に座っている元副団長アスナもSAOでの姿と酷似していた。違うのは、妖精の種族的特徴が加えられた点だろう。
《ケットシー》を選んだシリカには猫耳と尻尾が付いているし、《ウンディーネ》選んだアスナの髪は栗色ではなく綺麗なアクアブルーだ。
かくいうラテンも、SAOとは相違ない姿をしているだろう。
実は、このアルヴヘイム・オンラインを稼働させている運営体が、前運営であるレクトプログレス社から全ゲームデータが移管されたのだが、その中には旧ソードアート・オンラインのキャラクターデータも含まれていたのだ。
別に変な話ではない。
元々、前運営であるレクトプログレス社は、旧SAOを管理していたアーガス社があの事件によって手放すことになった《SAOサーバー》の管理を引き継いで行っていたのだ。多くが茅場晶彦に削除されたとはいえ、キャラクターデータが残っていても不思議ではない。
そこで、新運営体は元SAOプレイヤーが新ALOでアカウントを作成する場合、外見も含めてキャラクターを引き継ぐかどうかを選択できるようにしたのだ。
だが、もちろん装備が引き継がれることはなく、ラテンはコトネの協力を経て、最初にこの世界へダイブしたアバターが持っていた装備を、今のアバターに移している。
「そろそろ時間何じゃないか?」
「そうだな……キリトの奴がいねェがまあ先に行ってるだろ。行こうぜ!」
そう言って、クラインが飛び立つとラテンたちもその後を追うように翅を広げる。飛び立ってから数秒してふと後ろを見てみれば、追随してくるアスナたちのさらに後ろで見知った面々もこちらに向かって飛行していた。
サラマンダー将軍のユージーンに、《シルフ》領主であるサクヤ。《ケットシー》領主のアリシャ・ルーにその部下たち。彼らもこれから向かう場所を目指しているようだ。
視線を前に戻すと、前方で黒い二つの影が何かを話している。そこに向かって、クラインが大声で叫んだ。
「おーい、キリトー!」
呼ばれたスプリガンの青年と、その隣にいたシルフの女性がこちらを向いた。やがて二人の場所まで到達すると、クラインが笑いながら再び叫ぶ。
「ほら、置いてくぞ!」
その声を残して大パーティが我先に夜空へ舞い上がっていった。
その先にあるもの。
二年前、画面の外から何度あれを見ただろうか。
様々な思い出が残る、円錐型の空飛ぶ巨大な城。《浮遊城アインクラッド》。
ラテンはそこへ向かう大パーティから離れ、未だに滞空しているキリトとリーファの横で止まる。
「よ! どうしたんだ、こんなところで止まって」
「いや、ちょっとな」
キリトが小さく笑いながら答えた。
見れば彼の外見は天理たちのように、旧SAOのアバターではない。キリトは選んだのだ。新しい自分で前に進むことを。
そうか、と納得の声を上げればキリトの横にいたリーファがじっとこちらを見ていた。
「な、なんだ?」
「ラテンさんって……そこはかとなく誰かに似てる気がするんだよねぇ」
うーん、と片手を頭に当てながら唸るリーファを見て天理は苦笑する。見たことある気がするのは、きっと本当だろう。
現実世界での彼女の名は桐ケ谷直葉。木綿季が以前言っていた、剣道の全中で上位に残るほどの人物だ。そんな彼女が、対策として一、二年前の大会の試合を見ていても不思議ではない。そしてそこには、あの世界に囚われる前のラテンの姿が映っているはずだ。
「まあ、そのうち思い出すんじゃない?」
「それもそっか」
言ってやれば、リーファは納得したように頷いた。わざわざ。自分から言う必要はない。それに加え、ここはネット所の世界だ。現実世界でどうこうはマナー違反になる。
「さあ、行こ、みんな!」
後ろからやってきたアスナがリーファの手を握る。その肩から、小さな妖精姿のユイが飛び立ち、キリトの肩に着地する。
「ほら、パパ、はやく!」
ユイはその肩を可愛らしく叩く。キリトはというと、うつむいて小さく誰かの名前を呼んだかと思うと、勢いよく顔を上げた。そこにはいつものような不敵な笑みが浮かんでいる。
「んじゃあ、今度こそクリアするとしますか!」
「そうだな! 行こう!」
ラテンたちは、巨大な城に向かって翅を羽ばたかせた。
またまた追加です! 申し訳ありません!