今回はちょっと短いです。
クロト サイド
キリトの慟哭が終わっても、彼の涙は止まらなかった。アスナの胸に抱かれている為顔は見えないが、シーツへ滴り続ける透明な雫から容易に察する事ができた。
彼の慟哭が続いたのはせいぜい五分くらいだろう。けれどもオレには、とても長いものに感じられた。
「本当に、よく頑張ったね」
泣き疲れ、寝入った彼を優しく撫でるアスナ。先程の彼女の行動にはかなり驚かされたが……きっとそれこそが、キリトが心の奥底では望んでいた事だったのかもしれない。オレが言おうとしていた事とは大違いだ。
(何が’気にしない’だよ……!結局ただの先送りじゃねぇか……)
今までのオレは、彼の何を見てきたのだろうか。本当にオレは、キリトの相棒だと言えるのか?
(キリトは……誰よりも先に、オレに言ってくれただろ!化物じゃないって。なのにオレは……!)
あの時彼は、化物ではないと否定し、オレの事を受け入れ手を伸ばしてくれた。オレはその手を掴む事ができなかったが、間違いなく救われた。だがオレが彼に言おうとした、気にしない、はそれとは全く違う。受け入れるわけでは無く、ただ拒絶しないで放置する事と……目を逸らす事と同義だ。もしキリトに言ってしまっていたら、オレはどれだけ彼の心を傷つけていたのか。
「最低だな……オレ」
つい、そんな言葉が零れた。一番の助けになれた筈なのに、全く何もできなかった。結局あの日から、何一つ変わる事ができていない。
「ううん、そんな事ないよ」
「ア、スナ……?」
何故、そう言えるのか。オレの困惑をよそに、彼女は穏やかな笑みを浮かべまま続けた。
「キリト君いつも言ってたもん。何も言わない自分を信じて、一緒にいてくれるいい奴だって。クロト君はずっと、キリト君を孤独から守ってくれたんだもの、最低なんかじゃないよ」
「オレは……それしかできなかった…………踏み込む勇気が、オレには無かったんだよ……!」
彼が何かを抱えているのはずっと前から分かっていた。だがオレは今の関係が壊れる事を恐れ、目を逸らし続けた。いつかキリトが、自分から話してくれるようになるまで待とう……そう自分に言い訳をして。
「……それでよかったんです。
「ハル……」
顔を上げると、ハルの目からも大粒の涙が零れていた。それでも彼は、誰かに泣きつこうとはせず、まっすぐアスナを見据えた。
「アスナさん……さっきの言葉に、嘘は無いんですよね」
「ええ。私は傷跡を含めたキリト君の事全部、受け止めるよ」
穏やかな声に秘められた、確かな意志。ハルを見つめ返す瞳にも宿っているそれが、今のオレにはとても眩しかった。
「あの……何でアスナさんは平気だったんですか?キリトの、その……」
「確かに初めて見た瞬間はびっくりはしたけど……嫌いになる理由が無いでしょう?ちょっと言い方は悪いけど……
取り繕っている訳でも、気負っている訳でも無い。アスナは本心からキリトの傷跡を―――本人が醜いと言ったそれを―――愛おしい、と思っている。ああ、本当に―――
「……本当に、敵わないですね。アスナさんには……」
―――本当にアスナには、敵わない。オレもハルも、思った事は同じだった。窓から差し込む光に照らされながら微笑む彼女は、決して陰る事の無い光を放ち続ける聖女のようだった。
「ダメだな、僕……うれしい筈なのに、アスナさんに嫉妬してます」
「……サクラ」
「うん」
自嘲し、何かを堪える様に俯いたハルを、オレはサクラと二人で抱きしめた。少しだけ体を強張らせるハルだったが、しばらくそのままでいると、ぽつりぽつりと口を開いた。
「もう……六年くらい前……事故に遭ったんです、僕達。お父さんも……お母さんも死んで……兄さんの傷も、その時にできました……」
僅かに声が震えていた。きっと今でも、ハルやキリトにとっては辛い記憶なのだろう。だがそれでも、ハルは話してくれた。
「本当は……
「ハル君……」
「…………ずっとずっと、後悔してたんです。どうして僕は……怖がったんだろうって。あの時ちゃんと、傷跡を受け入れていたら……兄さんの笑顔が、無くなる事もなかったんじゃないかって……」
キリトが一番望んでいた事。それが分かっていたのに、できなかった。ハルはそう自分を責めている。
「だから……ずっと僕ができなかった事を、知り合って二年のアスナさんができたのが……羨ましいんです」
「私だって、そんなによくできた人じゃないよ。キリト君の……好きになった人の一部だったからで……」
少し困った様な笑みを浮かべるアスナだが、彼女の心の強さは本物だと思えた。
「お願いします。どうか……どうか兄さんの事、裏切らないでください」
その言葉を口にする事が、ハルにとってどれほど苦しいのかは分からない。ずっと支えてきた兄の幸福を願い、自分以外の人にその役目を託すのだから。
「うん……約束するよ。キリト君は私が守る」
アスナは、ハルから目を逸らす事無く頷いた。
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「訓練?」
「うむ。君達には私と共にパーティーを組んでもらい、この層の迷宮区を突破してもらう」
翌日、白いコートに袖を通しKOB本部へと出勤したオレ達を出迎えたのは、ゴドフリーのそんな言葉だった。どういう事か分からずオレはサクラの方を見たが、彼女は首を横に振る。どうやら何も聞いていなかったのはオレとキリトだけではないらしい。
「ちょっとゴドフリー!彼等は―――」
「腕が立つとはいえ、それはコンビ、ソロでの話。パーティーで使えるかどうかは、フォワードの指揮を預かるこの私が確認させていただきます」
「そ、それこそボス戦で見てきたでしょう!何で今更そうなるの!?」
ムキになって声を荒げるアスナだが、一方のゴドフリーは堂々とした表情を崩す事なく告げた。
「いかに副団長と言えど、規律を蔑ろにしてもらっては困りますな。お二人の護衛となる以上、形だけでも実力を証明させなくては他の団員達に示しがつきません」
「あー、そういう事か……」
彼はヒースクリフのおっさんが自ら引き入れた団員の一人であり、良識のある方だ。多分ゴドフリー自身はオレ達の事を認めてくれているんだろうが、下っ端の連中はそうもいかないのだろう。とりあえず今は味方を多くした方が身のためだ。
サクラは何か言いたげなアスナをなだめると、ゴドフリーに向き直った。
「わたしも、参加していいですか?」
「いやちょっと待てサクラ。何考えてんだ?」
彼女の突然の言葉に、オレは困惑した。元々オレ達の力を測りたいと言っているのだから、わざわざサクラが参加する必要は無い筈だ。
「理由をお聞かせ願えますかな?」
「この訓練には、他の団員も参加するんですよね?二人は少々人付き合いが苦手なので、緩衝材になれればと思ったんです。ちゃんとコミュニケーションが取れないと連携も難しいですし」
「むぅ……一理ありますな。では団長には私から言っておきましょう」
サクラの言い分に、少しばかり唸るゴドフリー。だが彼はすぐに納得したように頷いてくれた。 話がまとまったのを見計らい、オレは残りの必要な情報を訪ねた。
「それで、時間と集合場所は?」
「おっと、まだ言っていなかったな。今から三十分後に、街の西門に集合。以上だ」
両手斧を背負った背中を見せながら、ゴドフリーはのっしのっしと歩き去って行った。
「―――せっかく一緒になれたのに……」
「何かあったらメッセージ送りますから……二人の事は任せてください」
「……ええ、お願いねサクラ」
アスナが意気消沈している一方で、キリトはどこか安堵したようにため息をついていた。別にアスナを嫌っているのではない。気まずいのだ。オレもサクラに泣き付いた後は気まずくなったからある程度はわかる。
(距離感か……オレも親父とは狂っちまったからなぁ……)
加えて今のキリトは、他人との心の距離が全然掴めていない。今朝だって、オレと話す事さえぎこちなかった。何年も心に壁を作り、凍らせていた彼にはまだ時間が必要なのだろう。
―――きっと兄さんは、まだ何処かでは信じ切れてないんだと思います。
本当は信じたい。でも怖くて信じきれない。キリトの心はそんな状態で、アスナの想いに向き合う準備ができていない。オレ達にもだ。
「キリト」
だからオレは―――
「―――今日から改めてよろしくな、相棒」
―――ゼロからやり直す事にした。馴れあいじゃない、本当の友情で、キリトの唯一無二の親友になる為に。
「……あぁ、俺の方こそ……よ、よろしく」
いつものように、軽く互いの拳をぶつける。キリトのそれはぎこちなかったが、それでもこの二年間の中では彼の心を一番近く感じられた気がした。
「……ま、とりあえず後ろでむくれてるアスナに何か言ってやれよ」
「ぅ、あ、いや……それは……」
頼む、本当に何でもいいから。マジでアスナがお前の背後でムッチャ羨ましそうにこっち見てるんだぞ?
「……えぇっと……その……」
少々強引に促すと、キリトは何とかアスナに振り返ってくれた。だが俯いていたかと思えば顔を上げて何か言おうと口を開きかけ、そうかと思えば口を閉ざして再び俯く。
今まで無かった彼の様子が新鮮で、オレもサクラもアスナも急かす事無く待ち続ける。
「……すぐ、帰ってくるさ。俺も……その……」
「’俺も’……?」
キリトが言いかけている言葉が分からず、アスナは首を傾げる。一方でキリトの頬は僅かに紅く染まっていて、続きを躊躇っているようだった。
「~~っ!何でもない!行ってくる!!」
「あ、キリト君!?」
慌てて立ち上がり、手を伸ばすアスナ。だがそれよりも先にキリトはコートを翻して部屋から出て行ってしまった。
「ありゃ、恥ずかしかったんだろうなぁ……」
「ふふっ、奥手なのもクロトとそっくりだね」
……否定できない。散々ヘタレと言われてきたのだから自分でも分かっているつもりなのだが……恋人にまで言われてしまうと、何かこう……少々凹む。
「と、とにかく行こうぜ。アイツ一人先に行かせたって集合場所でボッチだろうし」
「……うん、キリト君が他の人と話してるとこ、全然イメージできないよ」
「それでは、行ってきます」
オレの言葉に苦笑しながらも、アスナは大人しく待つ事を示すように、再び椅子に座った。そんな彼女に軽く手を振り、オレはサクラと共にキリトを追いかけた。
(絶対に、守らないとな……)
今まで己の心を閉ざし続けてきた彼は、今やっと新たな一歩を踏み出そうとしているのだから。
「カァ!」
「いて!?何すんだよヤタ!」
「クロトがキリトの事ばかり気にしてるから拗ねてるんだよ。わたしだって……もっとこっちを見てほしいって思ってるんだよ?」
「……ごめん」
サクラの寂しげな言葉に申し訳ないという思いが沸き上がる。最愛の恋人の笑顔が見たくて、無意識のうちに左手が彼女の右手へと延び―――
「え、クロト……これ」
―――指と指が絡まるように握る。俗に言う恋人繋ぎだ。今まではただ手を握るだけだったが、いつまでもヘタレてたら男が廃る。それに寂しい思いをさせてしまったのだ、オレから踏み込むのが筋だろう。
「これからは……街を歩く時、こうしようぜ」
「うん……クロト、大好き」
満面の笑みを浮かべたサクラは、何よりも愛おしかった。
連休明けの仕事って辛いですね……