サクラ サイド
GGOにラフィン・コフィンの元メンバーがいる。その事実が発覚してから、誰もが固唾をのんでアスナさんが呼びつけた人物の到着を待っていた。
「アスナ、ちょっとは落ち着きなって」
「うん……でもごめんリズ。私、さっきから嫌な予感がするの……キリト君が何も言わないでGGOにコンバートしたのは、そこで何か起きているからだと思うの。ラフィン・コフィンって因縁だけじゃなくて……何か、現実世界での危機みたいな事が……」
「クロトだけ頼ったのも……そのせい、だとしか思えません」
「考えすぎ、とは言えないわね。アスナとサクラの言う通り、何かが起きていて……あの二人は自分達だけで解決しようとしてる」
この場にいる全員が、クロト達が今している事がもうただのバイトじゃないって思っていた。だからこそ、アスナさんはつい先程一時的にログアウトして、依頼主をここに呼び出したのだから。
(クロト……!)
中継映像を映すスクリーンの中で、生存を示す表記と共に名前だけが表示されている彼の無事を祈らずにはいられない。クロトがもしラフィン・コフィンの生き残りと戦う事になってしまったら……クロトはまた
息苦しささえ感じる程の沈黙の中で、待ち望んだ人物の到着を告げるノックが仮想の鼓膜を震わせる。
「おっそーい!」
「こ、これでも最寄りのセーブポイントから超特急で飛んできたんだよ。ALOに速度制限があったら免停確実だよ」
簡素なローブを身に纏い、マリンブルーの長髪を揺らすウンディーネの男性の名は、クリスハイト。本名、菊岡誠二郎。かつてはSAO対策チームに所属し、当時寝たきりだった全SAOプレイヤーの為に様々な便宜を図ってくれた恩人であるとキリトから聞いてはいたし、何となく胡散臭いものを感じながらも悪い人ではないと思っていた。でも今は……彼がキリトとクロトに依頼を出した真意を聞き出すまでは疑心と警戒心しかない。
「何が起きているの?」
「……何、と言われてもね。一から十まで説明するとなると、少々時間が掛かってしまうし、かといって一体どこから説明するべきか」
「誤魔化さないでください!どうして二人を行かせたんですか!
クリスハイトさんの回りくどい言い方に、思わず立ち上がって詰め寄る。
「ま、待ってくれ。元ラフィン・コフィンだって?そんなの僕だって初耳だよ。僕の方こそ、君たちが何を知っているのか聞きたいくらいだって」
「―――では、私から順を追って説明しましょう」
鈴を転がしたような愛らしい声と共に、ユイちゃんがわたしとクリスハイトさんの間を飛んでいく。それからアスナさんの掌に降りた彼女は、声色とは対照的に厳しい表情で
アスナさんがクリスハイトさんを呼び出して、彼がここにくるまでのほんの僅かな時間で、ネットに散らばる膨大なデータから必要な情報を拾い上げ、正確に言語化してみせたユイちゃん。彼女の力に皆が驚く中で、アスナさんは愛娘を労わるように抱き込んだ。
「これは驚いた。そのおちびさんはALOサブシステムのナビゲーション・ピクシーだと聞いていたけど……いや、今は置いておこう。結論から言えば……おちびさんの説明は事実だよ。
「おいクリスの旦那よ。野郎の正体以前の問題だろうが!アンタが……殺人事件の事を知っててキリト達を行かせた事に変わりはねぇんだぞ!!」
「ちょっと待ったクライン氏。
腰を浮かせたクラインさんをはじめ、危険な場所で戦う二人を案じて感情的になるわたし達に対して、クリスハイトさんはあくまでも冷静だった。
「そもそも、ゲーム内の銃撃でどうやって相手を殺すんだい?百歩譲って脳に損傷を与える事が出来ればともかく、VRマシンと直接リンクしていない心臓を止めるなんて不可能だ……例えナーヴギアを用いたとしてもね」
「ッ……だがよぉ、実際に人が死んでんだろうが!しかも犯人は元ラフコフ……殺すっつった時はマジで殺す連中なんだぞ!!」
「確かに
「ぬぐ……!」
言葉に詰まったクラインさんが、一度立ち上がりかけた腰をスツールへと再び下ろす。でも硬く握られた拳が震え続けていて、彼の心が納得できていないのは明らかだった。そしてわたし達の誰もが、クリスハイトさんの言葉を否定できない。あるはずの繋がりが見つけられない限り、わたし達の言葉はただの言いがかりにしかならない事が悔しい。
「クリスさん、貴方はさっき殺人事件じゃないって言いましたよね。なら、どうしてわざわざお兄ちゃんに依頼を持ちかけたんですか?一体何の目的でGGOへ行かせたんですか?」
ハル君を抱いたまま、それでも眼力は戦う時のそれで、リーファちゃんがクリスハイトさんに問いかける。
「君達が納得するかは分からないが……端的に言えば政治の為だよ。何しろVRMMOは誕生したばかりだというのにSAO、ALOで立て続けに不祥事が起こっているからね。仮想世界が犯罪の温床になりかねないから規制すべきだ、という声は決して小さくない。フルダイブの可能性を閉ざすべきじゃないと考える僕としては、規制派の攻撃材料になりかねない火種は先に調べて対処しておきたかったんだ」
デマならよし、けどもしそうではなかったら……放置して後悔するよりも、自分で調べて後悔した方がいい。そう言ってキリトは依頼を受けてくれたとクリスハイトさんは教えてくれた。
「―――クリスハイトさん。私にも、
「ちょっと待ってくれ。そんな事をするとしたら裁判所の令状が必要になるし、捜査当局を説得するにも何時間かかるか分かったものじゃない……いや、それ以前に不可能だよ」
「ど、どうしてですか?」
アスナさんの提案に不可能だとと答えるクリスハイトさん。そんな彼に、シリカちゃんが問いかける。
「仮想課にあるSAOプレイヤー諸君のSAO内についてのデータはプレイヤーネームと最終レベル、位置情報のみなんだ。どのプレイヤーがどのギルドに所属していたのかや、何をしてきたかという記録は一切無い」
「つまり……アレか?野郎のプレイヤーネームをおれ達が思い出さねぇ限り、調べようがねぇって事かよ」
「ああ。その通りだ」
クリスハイトさんが静かに頷くと、わたし達は押し黙る事しかできなかった。あの切れ切れな口調や、画面越しに向けられた殺意を知っている筈なのに……思い出せない。あの討伐戦を忌まわしい記憶として無理矢理忘れようとしてしまった罰だっていうの……?
「名前……分かり、ます……!」
小さな声が、静寂を破った。そちらへと目を向けると、いつの間にか姉の腕の中から青白い顔を上げたハル君の姿があった。
「あか、め……あいつは、
「ハル!?無理しないでいいから……!」
声も体も震え続けているのに……ハル君はリーファちゃんの制止を振り切って叫んだ。
「あいつが……あのザザが、僕を殺して兄さんを苦しめようとしたんだ!」
叩きつけられた言葉に、クリスハイトさんの双眸が細められる。ずっと恐怖で震えていた彼が、一時でもそれを押しのけて名前を思い出してみせた心の強さ……それが戦う
「ザザ、か……クライン氏、スペルを確認してもいいかな?その名をこっちで調べてみる」
「お、おう」
クリスハイトさんがクラインさんと確認する最中、ザザというレッドプレイヤーの記憶が氷解していく。
赤眼の
「……めて……」
「ハル……?何て言ったの?」
「止めて……兄さんを……あいつと……戦わせちゃ……ダメ……!」
壊れそうなハル君の懇願に、アスナさんとクラインさんが俯いていた顔を弾かれたように上げる。
「もし、もしキリト君が戦っている途中で、思い出してしまったら……!」
「あぁ……絶対に我を忘れて暴れちまう。ンな事になりゃあ、キリトの心が……!」
「クリスハイトさん。お願い、今すぐキリト君をログアウトさせて!ザザは彼とハル君のトラウマなの!」
「確かに、キリト君達が戦う必要性は無くなったのかもしれないし、ここで二人を止めるべきなのかもね……」
キリトとクロトを止めよう、と話が傾いたその時……
「あっ……」
誰かが声を漏らす。ペイルライダーを撃った拳銃を取り出すザザの眼前には、同じようにスタンさせられた水色髪の少女が横たわっていた。
このままザザにあの拳銃で撃たれたら……彼女は、死ぬ。もし今キリト達を強制的にログアウトさせたら、ザザを止める人は……恐らくいない、それはつまり―――
(ザザが狙った人達を、見殺しにする……って事……?)
そう思った瞬間、とてつもない自己嫌悪が吹き上がってきた。己の大切な人さえ無事なら、他人はどうなってもいいという自分勝手な考えを抱いていた自分が、とてもショックだった。ザザが
―――ゆっくりと、ぼろマント姿のザザが左手で十字を切る。
このままじゃ、あの人が……殺される。今日二度目のザザの人殺しの瞬間から、視線を逸らせない。眼球がまるで凍ったように動かず、瞬きする事すらできなかった。
―――構えた拳銃の引き金に、包帯に包まれた指がかけられる。
目の前で見知らぬ人が殺される瞬間を、何もできないまま見続ける。これが……自分の大切な人の為に、誰かを見捨てる事への罰っていうの……?
じゃあ、SAOでそれを是としてきたクロトは……?仲間を助ける裏側で、見捨てた他人が死ぬ事を「どうでもいい」って言い切ってた彼だって……本当は後悔や自己嫌悪を抱えていたんじゃないの……?
―――銃声が響く。
「……え?」
スクリーンの中で、ザザがよろめく。その右肩には丸いダメージ跡が刻まれ、次の瞬間反対側の肩を後方から飛翔してきた弾丸が掠めた。素早く物陰に隠れたザザが担いでいたライフルに持ち替えて反撃する一方、その場に残された少女は死んでいなかった。
「た、助かったの?あの人……」
「でも、一体誰が……あっ!?」
フィリアとリズさんが声を発した最中で、ザザ達を映していた中継映像が白煙に覆われ、何も見えなくなる。
「おい、右上の画面拡大してくれ!さっきの子が映ってる」
「は、はい!」
やっと自由を取り戻した手で、わたしはクラインさんが示した画面を中央に移動、ズームさせる。そこには先程の水色髪の少女を抱え、さらに彼女の長大なライフルを背負って走る、黒づくめ姿の女の子の姿があった。バトルロイヤル形式のBoBで他人を助けるお人好しな女の子だなんて、ちょっと場違いな事を感じた次の瞬間、リーファちゃんの言葉に全員が固まった。
「えっと、名前が……Kirito……?お兄、ちゃん……なの……?」
見間違いじゃないのかと、衝撃から立ち直った皆で再度名前を確認するけど……何度見ても表示されている名前はKiritoのまま。後ろに靡く長い黒髪も、白磁のような色素の薄い肌も、抱えた少女と大差ない、普段のキリトからかけ離れた小柄な体躯も、女の子で通用するレベルの容姿をしている。
「でも、確かに……キリト君だよ。あんなに必死な顔して、誰かを助けようとしているんだから」
アスナさんの言葉に、ハッとなってスクリーンを見直す。後ろから何度も撃たれる中で他人を守り、助けようと懸命に走る姿は、今まで幾度となく見てきたキリトのもので間違いない。
(本当に……キリト達を止めていいの……?誰かを助けたいっていう、二人の想いを……否定していいの?)
キリトは恐らく、
「―――お兄ちゃん!」
「足が……!あれじゃ逃げられないわ!」
「キリトさん!」
十字路を横に跳んだキリトの左足首から先を、襲い掛かった弾丸がもぎ取った。思わず声を漏らすリーファちゃん、フィリア、シリカちゃんの後ろから、スツールを蹴飛ばす勢いでクラインさんが立ち上がった。
「起きろキリト!とにかく逃げろ!」
「片足無くなってんのよ!どうやって走れっていうのよクライン!?」
「おれだって分かんねぇよ!けど、とにかく逃げなきゃヤベェだろうが!」
リズさんの指摘にはっきりとした答えを返せないクラインさんだけど、彼の言葉は皆の気持ちを代弁していた。ここからキリトに声は届かなくて。片足を失った彼はもう、ザザから逃げられなくて。でも、それでも何とか「逃げて」と叫ぶ事しかできない。
「兄さん……!」
「キリト君!」
絶体絶命、そんなキリトを救えるのは……きっと―――
(クロト……!)
飛び降り、キリトと水色髪の少女を手早く乗せていくのは、思い描いていた通りの人で。気づけば目頭が熱かった。
「クロトッ!!」
見知らぬ人をザザから守ろうとするキリトと、そんな彼を守るクロト。自分の心のままに戦っている二人に、わたし達ができるのは……寄り添って、支える事。
「クリスハイトさん。貴方なら、クロト達がどこからダイブしているか知っていますよね」
「あー、それは……まぁ」
自然とそんな言葉が零れた。クリスハイトさんは逃げるように目を逸らすけど、アスナさんが力強く一歩踏み込むと、即座に口を割ってくれた。
「えー、千代田区お茶の水の病院だよ。すぐ傍にモニタリングしている人がいるし、セキュリティだって盤石。二人の肉体の安全は責任をもって保証する」
「千代田区……キリト君がリハビリで入院していた病院ですか!?」
「あ、ああ」
クリスハイトさんが首肯したのを確認したわたしとアスナさんは、互いの顔を見合わせると迷わずに頷き合う。
「みんな、私達はここで落ちるわ」
「今から行ってきます……二人の所へ。頑張れって、背中を押す為に!」
例え隣に立てなくたって……わたしの心はずっと貴方の傍にいるよって、伝えたい。
―――待っててね、クロト。