艦隊これくしょん-艦これ-司令艦、朝潮です!!   作:めめめ

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任務3『「第八駆逐隊」ヲ編成セヨ!』

 この場所で一人、私はまたあの空を見上げていた。

 

 どこまでも広がる、あの果てしない真っ青な空。

 

 私と、私の大切な人たちが沈んだ、あの南の空。

 

 いつからこうしているのか、私には分からない。

 

 いつまでこうしているのか、私にも分からない。

 

 そういえば司令官は、あの人はどこに行ったのだろう。

 

 透けるような蒼穹の天蓋がにわかにかき曇った。

 

 遠くから蟲の羽音のような騒がしい音が響いて来た。

 

 もうすぐ鉄の雨が降る。

 

 もうすぐ人の雨が降る。

 

 何度も

 

 何度も

 

 何度でも

 

 何度でも

 

 繰り返されるあの日の光景。

 

 私は座ったまま、小さな二つの膝頭をぎゅっと抱え込んだ。

 

 誰も守れなかった私に、

 

 約束を果たせなかった私に、

 

 たった一つだけできること。

 

 せめてここでずっと、あの人たちの最後の場所を守っていこう。

 

 ああ、世界が真紅に染まってゆく。

 

 ああ、視界が血色に染まってゆく。

 

 私はもう、どこにも行かない。

 

 ------私はもう、どこにも行けない。

 

 

 

 

 

 

 

「朝潮さんも眠くなったのですか?」

 

 誰かがくすくすと上品そうに笑う声。

 

 そうかもしれない。何だか微睡んでいる間に、悪い夢でも見たような気分だった。

 

 額に浮いた汗の珠を二の腕で拭う。

 

 重くなりかけた瞼を上げると、向かい側に座る深雪と同じセーラー服を着た少女が口元に手を当て、さも面白そうに優しく目を細めていた。海上を走る涼しい夜風が、頭の後ろで二つに結って垂らした茶色のお下げをはたはたと揺らす。

 

 皆さんも、お腹一杯でお休みになられているみたいですし……そう言って少女は乗っている内火ランチの船上を見渡す。

 

 つられてそちらに視線を向けると、向かい合った椅子に並んで座るジャージに体操服姿の深雪と五月雨も、とんとんとん、と響く軽快なエンジン音に合わせてゆらゆら船を漕いでいた。

 

 訓練終了打ち上げの名目で行われた送別会では、本土でも有名な料亭のトラック泊地支店から仕出し料理を取り寄せ、皆盛大に食べて飲んで、また騒いでいた。深雪は調子に乗って、引きこもっていた姉妹艦の初雪にちょっかいを出そうとして叩き出されたり、一方五月雨はトラック泊地所属の涼風、春雨らと久しぶりの会話を楽しんでいるようだった。

 

 そして見送りにと出発間際に乗り込んできた、風呂上りの時津風。けれども彼女は座席を二人分占領して横になると、本来の目的を忘れて隣に座る少女の膝を枕に真っ先に夢の世界へと旅立ってしまっている。

 

 内火ランチの奥、積み込んだ艤装の脇では、同じく体操服ジャージに着替えた山城と、帰りがけに名取から渡された対潜データの入ったピンク色の布製手提げ袋を持った由良が、薄目でなんとか襲い来る睡魔と闘っていた。

 

 二人の年長者としての意地がそうさせているのだろうけれど、陥落はほぼ時間の問題と思われる。

 

 今船上で目を覚ましているのは、舵を握る軍帽を被った上半身白シャツ一枚の中年海軍兵士と自分、そして目の前の少女……吹雪型駆逐艦2番艦『白雪』の三人だけ。

 

 白雪も時津風や天津風と同じく、トラック泊地五十鈴旗下の駆逐艦だ。

 

 とはいえ香取カリキュラムの問題で自分たちとはすれ違いが多く、彼女と接触できる機会は最後までほとんど無かった。

 

「泊地ではあまり自由時間がありませんでしたので、帰り際に私も、皆さんとも少しお話ができれば、と思っていたのですが……」

 

 今日は泊地司令部での待機任務だった彼女は、たまたま定期チェックで見つかった整備不良のため一日中工廠に籠って艤装のマッチングに専念しており、それが長引いて送別会に出席できていない。

 

「ごめんなさい、疲れているみたいですから……ほとんど遊び疲れですけど」

 

「いえ、横須賀の皆さんもこれから飛行機で二日もかけて内地に帰らなければならないのですから。仕方ありません」

 

 白雪はすやすやと寝息を立てる時津風の、その犬耳のような癖毛を撫でる。時津風は、んん、と気持ち良さそうに喉を鳴らした。

 

 船は満天の星空の下、穏やかな内海を滑るように進んでいく。その通った航跡をなぞるようにして、きらきら輝く夜光虫たちが海の上に流れる一本の天の川を描き出した。

 

 自分たちが乗る本土への飛行機は、海軍トラック泊地のある『夏島』の露天風呂から対岸に見えた『春島』、その北部にある春島第一飛行場でエンジンを温めながら出発を待っている。

 

 泊地を出た内火ランチは島の東側を時計回りに飛行場のある北へと向かっていく。

 

 そうしている間にも右舷に暖色系の街明かりの連なりが、ゆっくりと流れて行った。

 

「朝潮さん……あの、朝潮さんは、また仲間に会いたい、と思うことはありませんか?」

 

「……仲間?」

 

 彼女の言わんとするところが、一瞬理解できなかった。

 

「はい。例えば姉妹艦、同じ駆逐隊の方ですとか、あとは同じ作戦に参加した仲間たち……」

 

 姉妹艦……自分の、朝潮の……。

 

「私はここで、また皆さんに逢えて嬉しかったです。11駆で一緒だった姉妹艦の初雪さん、深雪さん……そして、同じ場所で最期を迎えた時津風さんと、朝潮さんにも……」

 

「白雪ちゃん……」

 

「それが艤装によって植え付けられた『駆逐艦:白雪』の記憶だと分かっていても、やはり懐かしいものは懐かしいですし、嬉しいものは嬉しいんです」

 

 白雪は少し微笑んで視線を時津風に落とす。

 

『駆逐艦:白雪』……同型艦の吹雪、初雪、叢雲と共に第11駆逐隊に所属しあの戦争を戦った駆逐艦。

 

 そして最後は『八十一号作戦』、鈍足の輸送艦を護衛しながら昼間に敵中突破するという、大戦後期のあの無謀ともいえる作戦で沈んだ船。

 

 彼女と共に沈んだのが『駆逐艦・時津風』『駆逐艦・荒潮』と……『駆逐艦・朝潮』。

 

「朝潮さんは、もう一度仲間に逢いたいと思ったりしたことはありませんか? 例えばそう、朝潮さんでしたら第八駆逐隊の皆さんですとか……」

 

 何故だろう。彼女の言葉を聞いているだけで、頭が痛くなってくる。

 

 白雪の方に顔を向け続けることができずに、俯いてしまう。代わりに内火ランチの黒い木張りの床が視界を占領するが、その分だけ少し気が楽になった。

 

 何故彼女はそのようなことを言うのだろう。

 

「もう一度、仲間に逢いたいと思いませんか?」

 

 また同じ質問が飛んでくる。

 

 頭痛が酷い。

 

 白雪の声が頭の中でわんわんと鳴り響いている。

 

 その無遠慮な物言いに、いい加減うんざりしてきた。

 

「ごめん、悪いけど今その話は止めて。疲れてるから考えたくない」

 

 はっきりとそう言い切ってしまった。

 

 返事は無い。気分を悪くしてしまったのかもしれないが、自分も限界だった。

 

 向かい側の席で、白雪が立ち上がる気配がする。

 

 どうしたのだろう。まだ到着まで時間はあるのに。

 

 そう思っていると、不意に白い腕が自分の頸元に伸びてきて、そのままがっしと掴んだ。

 

「-――ッ!?」

 

 驚きで声が出ない。苦しくて息も吐けない。足をバタバタさせてもがくけれども、腕は頸から離れようとしない。

 

 そのまま片腕一本で高々と掲げられる。見下ろすと船上に仁王立ちになった白雪が、頸を掴んだままこちらを鬼の形相で睨みつけていた。

 

「何故、逢いたいと思わないの!? 何故!? 姉妹と引き離され、友と生き別れて……でも今なら、あなたなら、望めばまた皆と出会うことができるのに!?」

 

「ぐ――白雪――やめ―――」

 

 助けを求めて船内に視線を巡らせる。

 

 白雪の膝を枕にしていた時津風なら、さっきの衝撃で目を覚ましたはず。

 

 ―――しかし、時津風の姿はそこにはなかった。

 

 内火ランチの木製ベンチには、彼女の寝そべっていた形に赤黒い染みが残っている。

 

 そんな―――じゃあ深雪は? 五月雨、山城でもいい。由良も---いない、誰もいない!!

 

 皆のいたところには、やはり赤い染みが残されているだけだ。

 

 駄目元で船を操縦する海軍兵の方を見るが、そこでは舵だけがひとりでにカラカラと回っていた。

 

 いつの間にか空の星々も、街の灯りも海の夜光虫も消え失せて、船は真っ暗な海面を宛ても無く漂っている。

 

「私は逢いたい!! 妹たちに、仲間たちに―――もう一度、もう一度司令官に逢いたい!!」

 

 白雪―――いや、白雪だったそれ、もはや原型を留めていない少女の影は、絶叫するように激しい感情を叩きつける。

 

 長く伸びたストレートの黒髪。白いブラウスに軍緑色の吊りスカート姿。

 

 切れ長の目が真っ直ぐにこちらを睨みつけてくる。

 

 涙に濡れた空色の瞳を持つ少女。そう、私がずっと見上げていたあの空と同じ色の。

 

「朝潮―――!?」

 

 認識した瞬間、手にずしりとした重みがかかった。

 

 私は何を持っているのだろう。

 

 目をやると、私は誰かの首を掴んでいた。片手で空中に釣り上げられたその少女は、苦しそうにもがいている。

 

 私と同じ服装。私と同じ顔。私と同じ瞳。

 

 首を絞められているのは私。

 

 首を絞めているのも―――私。

 

 私を苦しめているのは、私。

 

 ならば私を苦しみから解き放てるのも、私。

 

 不意に言葉で形容できない巨大な感情の塊が、まるで間欠泉が突沸するように勢いよく私の奥底から湧き昇った。それは一瞬で身体を満たし脳髄を駆け抜け、心までその真っ黒な闇色に染め上げる。

 

 無数の苦悶、無数の悲嘆、無数の後悔、無数の憤怒、無数の憎悪、無数の困惑。それらが海の底で互いに喰い、互いに混じり合って生まれた、古くて新しい絶望---。

 

 逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい――――

 

 頭の中がただ一つの単語がリフレインされ、無我夢中で『司令艦』の操作パネルを開く。

 

 『工廠』画面から資源を最低設定で建造開始。

 

 すぐさま結果が表示される。

 

 違う、これじゃない。解体、次!!

 

 建造……違う、解体。次!!

 

 建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造違う解体、建造-――

 

 

 

 

 ---視界に鈍色の天井が薄ぼんやりと浮かんできた。機体と同じく、作られてからどれくらい経ったのか分からない簡素な備え付け二段ベッドの天板。

 

「――違う、解体-――建造-――違う、解体-――建造-――違う―――」

 

 どこかで誰かが、何事かを念仏のようにぶつぶつと呟いている声が聞こえる。

 

 不意に喉に強い渇きを覚えた。口の中がカラカラで、唾とも痰とも呼べない粘度の高い液体が舌の根に絡みついている。

 

 少しでも湿気を逃すまいと口を閉じる。

 

 すると途端に、さっきまで聞こえていた念仏も止まった。

 

 ……待ってみても再開される気配が無いことから、どうやら寝言の主は自分だったらしい。

 

 耳を澄ますと代わりにヴ―、という低いエンジン音が、僅かなベッドの揺れと同期するように聞こえてきた。寝ている間に外気が忍び寄っていたのか、壁側の頬がやけに冷たい。

 

「飲まないと……水……」

 

 重い体を持ち上げ、黄色い煎餅毛布をシーツで包んだ掛布団を跳ね除ける。ゆっくりとベッドの柵を跨ぎ、素足で板敷の狭い機内通路に立った。

 

 隣のベッドでは五月雨たちがまだ寝息を立てている。時折寝苦しそうに『フ~コ~、フ~コ~』と聞こえるのは誰のものだろう。

 

 一方通路の反対側にある窓際の椅子では、イヤホンを差したままの由良がリクライニングを倒して横になっていた。彼女のお腹の上にはファイルに綴じられた戦闘資料の束があるところか、書類に目を通している途中で眠ってしまったのだろう。彼女のいつもの巨大なサイドテールも今は解かれ、ヘアゴムで軽く留めるだけになっている。

 

 よろよろとおぼつかない足取りで居住区と格納区を過ぎ、機体尾部にあるトイレ兼洗面所へ。

 

 個室に入って洗面台の蛇口を捻ると、冷たい水が勢いよく吹き出してきた。それをぶら下がっていたアルマイトカップで受け、乾いた喉へ一気に流し込む。

 

 氷点下の大気に晒された水はまるで液体になった氷みたいで、冷たさというよりむしろ心地よい痛みとなって、口腔から咽頭、食道と胃を順番に灼いていった。

 

 一息ついてカップを戻したところで、洗面所の鏡に映った自分の顔が目に入った。

 

「酷い、わね……」

 

 苦笑と共に自然とそんな感想が漏れる。

 

 寝汗でべったりと額に貼り付いた黒髪。張りを失った肌、目元には何日も徹夜したような深い隈が刻まれ、唯一空色の瞳だけが異様な光を湛え顔の中心でギラギラと輝いている。

 

 幼い少女であるはずの朝潮の……自分の顔は、まるで墓の下から這い出してきたばかりの幽鬼のようだった。

 

 両手に冷水をたっぷり貯め、思いきり顔にかける。

 

 何度も何度も。

 

 繰り返しているうちにやっと目が覚めてきた。棚から新しいタオルを取り、顔と髪、水が飛び散ったところを拭いていく。

 

「つっ―――」

 

 頸を拭った際、電気が走ったかのようなぴりぴりとした痛みがあった。

 

 不思議に思い、ジャージの襟元を広げてみる。

 

 あったのは白い肌に刻まれた小さな掌の痕。

 

 薄い皮膚が剥がれ赤く腫れあがったその場所に、濡れた自分の指先でそっと触れた。

 

 ……滲み入るような疼きと共に、傷痕と手がぴったりと重なりあう。

 

「-――嘘-――」

 

 あれはただの夢だ。

 

 どれほどおぞましくとも、朝の目覚めと共に泡となって消える、ただの悪夢でしかない。

 

 なのに―――!!

 

 途端に膝の力が抜け、立っていられなくなった。浅く早い呼吸を繰り返すが、どんどん胸が苦しくなってくる。

 

 何とか手を伸ばしタオル棚に寄りかかった。しかし体重に耐えられなかった棚は、がらがらと音を立てて崩れ落ちる。

 

「ぁ――ぁぁ―――ぁあぁぁっ!!」

 

 震える身体を動かしずるずると床を這う。やっとのことで辿り着いた洗面所の扉に、背中を預けながら何とか立ち上がろうと試みる。

 

 だが両足は弱々しく萎えたままだ。

 

バンッ!!

 

 突然背後の扉が勢いよく開かれた。支えを失い、もたれかかった身体が後ろに倒れ込む。

 

 後頭部が何かに激突するごん、という鈍い音。床にぶつかったにしては妙に柔らかい衝撃……そう思ってゆっくりと首をもたげた。

 

「痛っ~」

 

 通路の照明をバックに、由良の緑翠の瞳が上から覗き込んでいた。

 

 

 

 

 

 窓際の席に戻り、その脇ポケットから取り出した魔法瓶の蓋を開け中身をこぽこぽ、と注いだ由良は、はい、飲んでみてね、と対面に座る自分にそれを差し出してきた。

 

 抹茶碗のように両手で受け取る。中を覗くとやや黒っぽい琥珀色の液体がなみなみと入っていた。

 

 ためらいながら縁に唇を付け、少し口に含んでみる……甘い。やや薄い紅茶の芳しさと濃厚な蜂蜜の柔らかさ、それにほんのり漂う檸檬の鋭さが一つになって鼻腔を通り抜けた。

 

 煎れてから大分経っているらしく、お茶にはほんのり温かみが残っている程度。けれどもそれが今の渇いた喉には優しく感じられ、そのまま一杯分を一気にごくごくと飲み干してしまった。

 

「どうかな? まだ飲む?」

 

 こくんと頷くと、すぐさまお代わりが注がれる。二杯目、そして三杯目も半ばに差し掛かったところで、やっと気分が落ち着いて来た。

 

 それを見届けてからリクライニングを戻して対面座席に腰を降ろしていた由良は、手を伸ばして寝台の下段から薄い掛布団を引っ張り出して渡してくれた。本人はさっきまで使っていた膝掛毛布の位置を直し、こちらに柔らかな視線を投げかけている。

 

 なんとなく気まずくなり、機内を見渡すふりをして顔を横に向けた。

 

 帝国海軍の兵員輸送、特に艦娘の運搬任務に使われているこの零式輸送機二三型改は、昭和飛行機工業がライセンス生産した米国のプロペラ旅客機ダグラスDC-3に軍の要望で改修を加えたものだという。

 

 エンジンを三菱製『金星六二型』に取りかえるのに併せて元々両側1列と2列、計3列の座席が据え付けられていたところを、片側の2列を撤去する代わりに二段ベッドを3つ縦に置き、残った空間は艤装の格納庫としている。

 

 その内部構造がDC-3開発の元になったDC-2改良型寝台機DSTと似通っていることから、関係者からは『先祖返りした』などと揶揄されたりもしていた。

 

 暗い海に突き出したトラック泊地の春島第一飛行場に現れた軍用の濃緑色に塗られた超ジュラルミン製ボディの機体は、レストアを繰り返されたといってもそれが作られてから70年以上経っているとは考えられないくらいしっかりしていたのを覚えている。

 

 それぞれがベッドに潜り込むのを待って南国の夜空に飛び立った零式輸送機は、哨戒の終わったB,C領域上空を西へ西へと進み、一旦夜明け前にパラオ泊地で郵便を降ろすとまた空へ。

 

 翌朝、機体はちょうど朝食時を見計らったようにフィリピン、ミンダナオ島のダバオ市郊外にある帝国海軍ササ飛行場に降り立った。

 

 そこで燃料の補給と気象観測、通過海域の哨戒が終わるまでの間、自分たちは基地の食堂で簡単な朝食を済ませると、大昔にここに駐留していた米軍から鹵獲した、というおんぼろジープに乗って気晴らしに市街地観光と洒落込むことにした。

 

 連絡員として忌日由良を残して、山城の運転でバナナ農園や麻畑を越え、日本人街を廻り屋台の氷屋や果物屋などを散々ひやかして(主に深雪が)から夕方ごろ飛行場に戻ったのだが、それでもまだ管制からの離陸許可は下りていなかった。

 

 せっかくなので現地華僑人の中華料理店に出前を頼む。そして皆が夕食を終えたところで夜遅くの出発予定を知らされ、一日遊んだ分の汗を宿舎のシャワーを借りて流した後、今度は横須賀に向かう機上の人となっていたわけだが……そういえば、

 

「今、どのあたりを飛んでいるんだろう」

 

「気になる? ちょっと待ってね」

 

 独り言だったのに、止める間もなく先ほどのポケットを漁る由良。そして彼女は折りたたまれた一枚の紙片を引っ張り出した。

 

 小卓の上に広げると西太平洋―――大日本帝国の勢力圏を描いた、使い古されてくたびれた地図が現れる。

 

「う~んと、今回の航路はここだから……」

 

 フィリピンのダバオと横須賀を結んだ赤い線を探し当てると、目盛が刻まれたその上を由良の指が辿る。

 

 飛行機は首都マニラのあるルソン島、そして台湾を左手に見ながら北上したところで東に進路を変え、沖縄、南西諸島沿いにユーラシアプレートの縁をなぞるようにして本土へと向かうことになっている。

 

 危険な深海に近づくを避け、敵の出現率が低い沿岸、島伝いの海上航路の、さらに上を飛ぶ最大限安全に配慮した航路だ。

 

 当初、横須賀までの所用時間は14時間程度を想定しているとのことだったが、

 

「出発して8時間だから、まだ半分を過ぎたところね」

 

 指は沖縄手前の海上、台湾の右あたりの8と書かれた目盛のところで止まった。どうやら数字は経過時間で大体の位置を把握するための補助だったらしい。

 

 この世界の宇宙開発、通信技術は、深海棲艦の存在もあるためあまり進んでいないのが実情だ。そのため衛星は精度の低い気象観測用のものしか無いらしい。

 

 よってGPSも衛星では無く、各地に設置された通信塔の発する電波を使った三点測位方式、もしくは航海データを使って出発場所から航路を地図上に直接プロットする疑似GPSが主流だ。しかも深海棲艦の活動が活発化すれば電波状況も悪化するため、これらの装置は真っ先に使い物にならなくなる。

 

 この零式輸送機にも通信、地上式GPSを兼ねた航空アンテナ用空中線が張られているのだけが、結局最後に頼りになるのは人間の力。そういった事情から機体の天辺には、アンテナと共に監視・天測のための見張り塔が備え付けられていた。

 

 自分たちの頭の上では今この瞬間も、海軍の熟練見張り員が静かに暗い夜空を見上げていることだろう。

 

「あれ、この航路は……」

 

 地図の上に赤い線とは違う、黒い線が記されているのに気が付いた。黒線は後からボールペンで書き込まれたものらしく、トラック泊地やパラオから直接本土に引かれた線の上に年月日が記入されている。

 

「それは緊急航路。何か理由があって、まだ偵察の終わっていない未知のF領域を目的地まで最短コースで強引に突っ切る航路ね」

 

「そんなこともできるんですか?」

 

「一応は、ね。ラバウル基地の飛鷹さんたちが訓練で横須賀に来た時、二式大艇で直接飛んで来たじゃない」

 

「そういえば……」

 

 自分たちも前回のE領域攻略の際ラバウル基地に行ったが、それは客船を乗り継いで何日もかかる長旅だった。

 

 今回のトラック泊地への行きも戻りも、中継地を挟みながら結局飛行機で丸二日かかっている。

 

「でもそれは、空母型の艦娘がいなければ使えない強硬手段なの。飛行機の中から艦載機を飛ばして、自分の進路のその先と周辺を常に偵察しながら飛ばなければならないから、とても負担が大きいのよね……」

 

 プロペラ機では出せる速度が限られている。そして空を飛んでいる時に襲われれば、艦娘も普通の人間も脆弱なことに変わりは無い。F領域で遭難したら救助は絶望的なため、あらかじめ艦載機を飛ばすことで万難を排した航路を選ばなければならない。

 

「そんなに大変なのに飛鷹さん、何でいきなり横須賀に来たのかな」

 

「さあ……」

 

 それに関しては、自分にも分からない。

 

 結局あの時突然彼女が来訪した理由は、今もって聞きそびれたままになっている。

 

「でも、だったらあの時飛鷹さんは……」

 

「ほとんど徹夜で飛んで来て、それでも彼女にはあなたたち全員を相手に圧勝するだけの実力があった、っていうことじゃないかな」

 

「…………」

 

 今さらながらに自分との差を思い知らされた気がした。

 

 そう、彼女は、飛鷹は強い。

 

 それは『司令艦』たちの中で、自身が軽空母であるにも関わらず金剛、榛名に次ぐ戦力として認められていることからも明らかだ。

 

 しかしそんな飛鷹のことを、五十鈴は『勝手に突っ走る』と評した。

 

 もちろん彼女の場合は若干の嫉妬が混じっていない、と言い切れない。そして自分の知る範囲では訓練に来た時以外は、飛鷹が独断専行に走ったところなど見たことが無い。

 

 なら彼女が『勝手に突っ走った』のは一体いつのことだろう。

 

 もしかすると自分がここに来る前に……。

 

「別の事を考えてたら、少し気が紛れたかな?」

 

「えっ―――」

 

 気が付くと卓に頬杖をついた由良がこちらを見つめていた。

 

「見たんでしょう? 悪い夢」

 

 どう答えればいいのか一瞬迷ったが、曇りの無い澄んだ彼女の目を見ていると、この人を相手に取り繕うのは無理だと言うことが何となく分かった。

 

「はい」

 

「そう……」

 

 目を閉じて少し考えるような仕草をした由良は、

 

「じゃあ、由良が一緒にいてあげる。到着するまでまだ大分あるし、ここでもう一度寝直したらいいんじゃないかな?」

 

 そんなことを提案してきた。

 

「ああ、別に深い意味はないから、そう恥ずかしがらないで。なんてことの無い戦闘の後でもね、駆逐艦の子は不安定になることがあるの。それをケアするのも由良たち軽巡の任務の一部なのよね」

 

「あの、由良さんは……」

 

「なぁに?」

 

 気が付くと自分の中で以前から気になっていた疑問の言葉が溢れ出していた。

 

 鎮守府の皆は、そして目の前の彼女は、自分たちと同じなのかどうか、と。

 

「由良さんも見るんですか……悪い夢」

 

 驚いて反射的に、ん、と唾を飲み込んだ彼女は、しかし自分のように視線を逸らそうとはしなかった。

 

 輸送機のエンジンの音と、そこに混じる深雪たちの寝息が機内を満たす。由良の横顔を映す正方形の窓の外では、夜明け前の暗闇の中、消え残った星が雲の上でまばらに瞬いていた。

 

「空を埋め尽くす敵機の群れ……」

 

 しばらくして由良の唇が小さく動いた。

 

「機銃の雨、爆弾の雨。燃え上がる炎、真っ赤に染まる世界。飛び交う悲鳴、怒号、流れる血と涙、そして命……」

 

「由良、さん?」

 

「朝潮が見たものとは違うけれども、良く似た光景を由良も見たことがある」

 

 そこで言葉を切った由良は、ふぅ、と物憂げなため息を吐き出す。

 

「けれどもね、朝潮……あんなものと無理に向き合う必要は無いの。あれはただの夢、ただの記憶と割り切ってしまうことができれば、深く傷つくことなく艦娘の任期を終えることができる……」

 

 頭に冷水を掛けられたような気持ちがした。

 

 一瞬脳髄が冷えた後、すぐさまかっと血が昇り、思わず椅子から腰が浮き上がる。

 

 ―――そんなこと、できるわけがない。

 

 確かに普通の艦娘には、そういう選択肢もあるのだろう。だけど自分たち『司令艦』は、戦わなければ元の世界に戻れない。

 

 そして戦えば必ず、今の自分のように人格が削り取られていく。自分の記憶が艦の記憶と入れ替わっていく。

 

 また由良の言うように任期が終わって、この朝潮となった少女が軍から解き放たれた時、彼女は市井に戻れるのかもしれないが、自分はどこに行くのか分からない。

 

 強制的に元の世界に引き戻されるのか。

 

 居場所を無くしてこの世界を幽霊のように彷徨うのか。

 

 泡と弾けて消えるのか。

 

 少女と一つになって別の人間になるのか。

 

 それとも再び別の朝潮となって、深海棲艦と無限に終わらない戦いを繰り広げるのか。

 

「でも―――」

 

 激昂しそうになった自分の肩に、由良の手がそっと置かれた。

 

「でもね、それを知った上で---それでも自分の中にあるものと向き合いたいというのであれば---その気持ちを助けるのもまた、由良たちの役目。今以上に強くなろうとすれば、いずれ避けては通れない道だから、ね」

 

 本当はこれ、改造を受ける時に話す内容なんだけど……霞もこんな感じだったのかな、と付け加える。

 

「だからこそ今は、その時に備えて休んでおいて、ね」

 

 そう言いながら、さっき立ち上がろうとした際床に落ちた薄手の掛布団をぱんぱん、と埃を払ってから渡してくれた。

 

 一方の自分は、由良の言葉で完全に毒気を抜かれてしまっていた。

 

 椅子に座り込むと、突然抗いがたい眠気が襲ってきた。。

 

 瞼が重い……だけど眠るとまた……。

 

「安心してお休みなさい、朝潮。由良はここにいるから。由良は、沈まないから……」

 

 彼女の言葉を聞いた途端ぷつりと緊張の糸が途切れたのか、意識は深く暗い、でも温かい暗闇の底に落ちて行った。

 

 

 

 

「おぃ、起きろ朝潮!! 横須賀に着いたぜ!!」

 

 突然肩をガクガクと揺さぶられて目が覚めた。

 

「深雪ちゃんやりすぎ!! 朝潮ちゃんの首が取れちゃいます!!」

 

「取れたらくっつけるから大丈夫だって」

 

 いやそれは無理。

 

 目を開けると、既に起きていたらしい深雪と五月雨が、例の体操服ジャージ姿でリュックサックを背負い、機内の通路に立っていた。

 

 そのまま林間学校に突入できそうだ。

 

 ちらりと視線を向けた窓の外にはコンクリートの滑走路が広がり、すぐその向こう側には船の行きかう東京湾の海と横須賀鎮守府の軍港、そして背の高い赤煉瓦の建物が見えた。

 

 ならば今いるのは出発の際にも使った、鎮守府から1kmも離れていない追浜第一横須賀飛行場なのだろう。

 

 床が水平ではなく斜めになっていることが、輸送機が滑走路の上をゆっくりと移動していることを教えてくれた。

 

 ふと、向かい側の席に座っていたはずの由良を探すが、どうやら彼女は機長と話しているらしく、操縦席に続くドアから小豆色の芋ジャージを穿いた二本足が覗いている。

 

 まだベッドの中で眠い目を擦っている山城の脇を抜け、洗面所で顔を洗う。 

 

 戻ってくると由良がおはよう、よく眠れたかな?と声をかけてきた。

 

「皆、そろそろ降りるけど忘れ物が無いように、もう一度確かめてね。艤装は整備班の人たちに引き渡すからそのままで」

 

「おう」

 

「分かりました」

 

 まるで引率の先生のように振舞う彼女の手には、自分のリュックの他に名取から受け取ったピンクの手提げ袋が握られている。

 

「そうそう、それから朝潮」

 

「はい」

 

「え~と、驚かないでね……」

 

 突然がたん、という大きな揺れと共に機体が停止した。立っていた皆がよろめき、ベッドの中の山城は天板に頭をぶつけて呻き声を上げる。

 

「ぃよーし深雪様、横須賀一番乗りぃ!!」

 

「深雪!! すぐ出たら危ないから---」

 

 由良が止めるのも聞かず、タラップと一体化した零式輸送機の扉が勢いよく開かれた。

 

 プロペラから送られてくる磯の匂いが混ざった暖かい日本の風が、さぁっ、とドアから吹き込んでくる。

 

 開けてしまったのなら仕方が無い、と由良は肩をすくめて皆に外に出るよう促した。

 

 まだベッドで蹲っている山城を残して、深雪に続く形でドアを潜り狭いタラップを踏みしめて降りる。

 

 南国とはまた違った照りつける太陽、そして滑走路からの輻射熱で、一気に汗が噴き出してきた。

 

「うむっ、皆のもの長旅ご苦労であった!!」

 

 外には機体に横付けする形で、海軍を示す錨のエンブレムを付けたいかにも昭和といったカーキ色の軽トラのような……確かくろがね小型貨物自動車とかいう自動車……その運転席から降りてきた利根が、仁王立ちで出迎えてくれる。

 

「利根さん、ありがとうございます。それで先ほどの連絡で……」

 

「そうじゃな。だが説明するより、直接会った方が話も早かろう」

 

 自分より背の高い由良相手に恰好をつけたものの、プロペラの風に吹き飛ばされそうになって必死に足を踏ん張りながら、利根は貨物自動車の後部、幌で覆われた荷台に向かって手招きした。

 

「なんなんでしょう?」

 

 不思議そうに五月雨が隣で耳打ちするが、自分にも見当がつかない。

 

 すると荷台の後ろから二つの小さな影が飛び出してきた。

 

 その姿を見た瞬間、思考が完全に停止するのが分かった。

 

「ほれ、二人とも先任者に挨拶せんか」

 

 利根の横に並んだ白ブラウスに軍緑色の吊りスカートを履いた二人の少女は、背筋を伸ばして敬礼の姿勢を取った。

 

 どうしてあの二人が……いや、理由は分かっている。

 

 二人を呼んだからだ---彼女たちに、姉妹に逢いたがっていた、自分の中にいる『駆逐艦・朝潮』が。

 

「朝潮型駆逐艦3番艦、満潮よ。私、なんでこんな部隊に配属されたのかしら」

 

 一人はライトブラウンの髪をお団子型ツインテールにした、その髪と同じ色の不機嫌そうなの瞳を持った少女。

 

「朝潮型駆逐艦4番艦、荒潮です」

 

 もう一人は少しだけウェーブがかったこげ茶色の長い髪に、どこか天然さを漂わせる朽葉色の瞳を持った少女。

 

「また一緒に戦えるなんて数奇なものね、朝潮」

 

 すっと細められた彼女の両目には表情を硬くした黒髪の少女の姿が、はっきりと映り込んでいた。


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