周囲の水の色が見慣れた青から紺、藍、そしてついに光を失った闇色の黒へと変わる。
艤装に組み込まれた深度計の針は目盛の最大値、海面下200mを指したまま振り切れて久しい。
岩盤が剥き出しになったコンゴ海底谷の斜面を横目に、残骸戦姫を牽引するゴーヤはひたすらに下へ、下へと潜っていた。
前方を照らしているのは、背中の艤装に燈った小さな投光器の光だけ。深海に続く褐色の断崖絶壁には海藻一本、貝殻一つ見当たらない。時折、視界に輝く七色の風船玉みたいな丸いクラゲや真っ赤なスカートを履いたナマコなどが迷い出るが、見たことも無い光に驚いた彼らは必死で胴体をくねらし闇の中へと逃げ去って行った。
(にしてもこの深海棲艦、見た目が継ぎ接ぎだらけなのに、思った以上にしぶといでち……)
ゴーヤの艤装と敵船体に刺さった錨を結ぶ錨鎖からは、未だに浮上しようともがく残骸戦姫の動きが伝わってきていた。
深海棲艦は深海からやってくる。
深海棲艦は轟沈する。
海の中から現れた敵が、海に沈むという矛盾。
それを説明しようとする議論はこれまで数多くあったが、未だ明らかな結論は出されていない。しかしとある研究者はこれを、胎児と出生の関係に見立てて説明していた。
出生前の胎児は、母親の子宮内で海洋生物のように羊水を泳ぎながら育つ。しかしおぎゃあと産声を上げひとたび外気をその肺に取り込んでしまえば、胎児は二度と水中生活には戻れない。これと同じことが起きているのではないか。
つまり、海中で深海棲艦がどのような生態系を営んでいるかは不明だが、海面に姿を現すということは彼女たちにとっての『出生』。そして轟沈し、母なる海に戻るということは、人にとって『土に還る』ことと同義ではないのか、と。
これまで深海棲艦が海中から直接襲ってきたという記録、そして潜水艦級以外が再潜航したと言う記録が無いことから、このような認識が海軍関係者の間では暗黙の内に共有されていた。
(だったら、とことん我慢比べでち!!)
ちらと振り返り、鎖の先にまだ健在な敵の姿を認めたゴーヤは、さらに機関ユニットのモーターの回転速度を上げる。
いつの間にか降り始めたぼたん雪のようなマリンスノーが、逆戻しに上へ上へと昇っていく。
ゴーヤたちの元になった伊号潜水艦の設計限界深度は100m強。これを越えると水の重さに耐えきれなくなった艤装が圧壊し、二度と浮上できなくなってしまう。試したことは無いが、潜水艦娘の限界深度も同程度と推測されていた。
それを知った上でゴーヤとはちは、一つの仮説を立てた。
『潜水艦でも司令艦ならば、水圧に負けることなく理論上どこまでも深く潜航できるのではないか』、と。
ボンッ!!
ゴーヤの背後から何かが破裂する鈍い振動。くんっとそちらに投光器を向けると、円錐状に広がる淡いスポットライトが、降りしきる雪の中に揺らめき浮遊する黒い塊を捉えた。
残骸戦姫の艤装の一部。それが先端の花開いた16inch三連装砲と一緒に、主を失ってふらふらと闇の中に消えていくところだった。一方の素体の女性はと言えば、錨の先にはまだ黒い塊がぶら下がっている。しかし彼女の肢体に力は無く、枝に取り残された柿の実のように水流に身を任せゆらゆらと灯火の中で漂っているだけだ。
思わずゴーヤは顔を背け、視線を海底谷の先へ戻す。
(いくら敵だからって、潰れていくのは……沈んでいくのはやっぱり見たくないでち)
だがこうなれば、あとは時間の問題だ。防御フィールドの耐圧限界を水圧が上回ることで始まった崩壊の波は、すぐに全身へと広がっていく。脆くなった部位から侵入した重い海洋深層水の狂牙は、犠牲者の内部構造を容赦なく食い散らかしてくれるだろう……例えそれが、深海から生まれた深海棲艦だったとしても。
断続的な破壊の振動が、鎖を通してゴーヤの船体にも伝わってくる。もはやそこには、もがくような生命の意志など感じられない。
……早く終わりにしよう。
ゴーヤは敵の崩壊を加速させるべく、さらに深い闇の奥へと沈降を続けていく。
(そういえばこの暗闇……なんだか昔、どこかで見たことがあるような気がするなぁ)
そう思った時だった。
『……マショウ』
不意に誰かが囁いたような声がした。
ハッとなって辺りを見回し、照明を巡らせる。本来自動車のヘッドライトほどの光量を持つ投光器だが、太陽の光さえ届かない深海では、せいぜい10m先までしか見通せない。その儚げな光の中に浮かび上がったは、後ろに押しやられていくマリンスノーの吹雪。
念のため、鎖で繋がった残骸戦姫の方も見る。既にその艤装は殆ど圧壊し、残っているのは手足を失った青白い人体模型のような素体のみ。
(空耳、だったんだよね?)
この暗い無間の深海には自分と敵の二人しかいない、ということを今さらながらにゴーヤは痛感する。機関も生体フィールドも正常に稼働しているはずなのに、水の冷たさが鋭く肌を突き刺した。
完全破壊には至っていない。でも、敵の無力化には成功した。
そう判断したゴーヤはアンカーを投棄できる場所を探そうと、投光器を海底谷の荒れた岩肌へと向ける。
『―――シズミマショウ』
今度はもっとハッキリと聞こえた。
眼前に広がる闇より昏く、梵鐘の響きより重くくぐもった声が―――ゴーヤ自身の奥底深くから。
『沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう……』
壊れたレコードのように繰り返される単語がくるくるくるくるとワルツを踊る。
(伊58っ!?)
咄嗟にゴーヤは両腕で自分の細い身体を抱きしめる。瞬間、怒涛の如く押し寄せる記憶と感情の波が理性の堤防を突き破り、少女の全身を打ち震わせた。
(どうして、よりにもよって今なんでち!?)
自我もある。記憶も残っている。だからゴーヤの司令艦としての限界は、まだ大分先のはずだった。だが現に伊58は無意識の深淵から手を伸ばし、ゴーヤを呑み込もうとしている。
(あ―――)
抵抗をしようにもゴーヤ一人の人格など、伊58の内から湧き出すあまりにも多くの情報と情念の前では、荒れ狂う冬の日本海に浮かぶ木の葉の一片でしかない。
……潜水艦でなく特攻兵器運搬船として生み出された過去。敗色濃厚な戦況の中で次々と僚艦を失い、幾多の若者たちを『人間魚雷・回天』として死地に送り込んできた。
終戦を迎えるその時まで。
(--――そう、あの日私の戦争は終わった――――)
最後に艦長と乗員たちを生きて内地に送り届けられたのが、せめてもの心の慰め。
『でも戦争が終われば、穢れた兵器の私はこの世界には必要ない。だから―――』
シズミマショウ―――
小さな唇がそう呟いた瞬間、機関ユニットが緊急停止した。低い唸りを上げていたモーターが動力を失い回転を止めると、辺りを沈黙が支配する。
滲んだ視界の中で投光器の灯りが二三度明滅し、白から非常灯の赤に変わる。
力無く手足を垂れ艤装の重さに身を任せた彼女は、自由落下のようにしてゆっくりと再沈下を始めた。
目を閉じると、伊58の世界は黒一色に塗りつぶされた。
(やっと還れる―――)
自分の在るべき場所……仲間たちの亡骸に囲まれ永遠の安息と静寂に満ちた、あの懐かしい海の底へ。
(沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう沈みましょう……)
誰に言うとでもなく一人で呟き続ける伊58は、嬉しそうに、そして少し寂しそうに笑う。
―――機関再始動―――
ガグンッ!!
突然沈降にブレーキがかかり、船体が激しく揺さぶられる。伊58が混乱する間もなく、るんっ、と静止していたモーターが勝手に回転を再開。動力が生体フィールドを介して全身に循環を始めた。
(どうして―――沈みたいのに―――)
『どうして―――終わりたいのに―――』
と、伊58は何かが自分の頬にさらりと触れたことに気が付いた。閉じていた目をゆっくりと開く。
いつの間にか投光器のランプは赤から白に切り替わっている。その光の中に浮かび上がったのは、青白い肌をした残骸戦姫の素体の女性だった。
既に兵装は殆ど剥がれ落ち、錨の平爪は下腹部の艤装を貫いたまま、その圧壊に巻き込まれ一体化している。だが彼女の端正な顔だけは傷つくことなく、柔和な笑みを浮かべ、薄い蛍色に輝く二つの瞳が伊58を慈しむように眺めていた。
(何を―――)
眼前の深海棲艦の女性は砕け散って短くなった左腕を、不器用そうに伊58の頭上で動かしている。
最初、その奇妙な行動がどういう意味を持つのか理解できなかった。やがてそれが、母親が赤子にするようにあやす動作であることに気付いた伊58は、思わず言葉を呑み込んだ。
―――メインタンク緊急ブロー―――錨鎖強制パージ―――
圧縮空気が艤装のバラストタンクに送り込まれ、船体を浮き上がらせ始める。残骸戦姫と伊58を繋いでいた鉄の鎖が、艤装の一部と共に根元から切り離された。
咄嗟に伸ばした伊58の手の中を、鎖の端がするりと抜ける。
命綱を失った残骸戦姫の船体は、あっという間に彼女の生まれた暗黒の深海へと引きずり込まれていった。
その姿が光の届く範囲から消える最後の瞬間まで、まるで別れを惜しむかのように砕けた左腕を振りながら―――。
周囲の水の色が完全な漆黒から青みを帯びたものへと急速に変わっていく。
マリンスノーが再び降り始めた。
投光器の光を反射して雪のよう白く輝く粒子一つ一つは、命を終えた生き物たちの営みの証。
その中に仰向けになり艤装の浮力に身を任せながら一人、どこまでも広がる蒼穹を眺める伊58の心は、追憶の海を漂っていた。彼女の袂では大小様々の記憶の泡たちが生まれては消え、また溶け合いながら犇めいている。
(沈むことすら許されない―――)
悔しそうに唇を噛み、自分の代わりに深海へと消えた黒い船のことを思い出しながら、伊58が諦観の呟きを漏らす。その拍子に指先の触れた記憶の泡沫が一つ弾け、中から年老いた男性の姿が浮かんできた。
『―――あの艦は、私の人生の全てでした』
年老いて少し掠れてはいたが、間違いようが無い。
その懐かしい声を聞いた瞬間、伊58の冷たく錆びついた心にぽっと温かい火が宿った。
それは、伊58と混じりあった司令艦ゴーヤの記憶の欠片。
米軍に接収された伊58が雷撃処分される映像を、戦後何十年も経って初めて目の当たりにした、元大日本帝国海軍中佐・橋本以行艦長の姿だった。
切り取られた8mmフィルムのようにセピア色に染まった世界の中、瞳の輝きだけは昔と全く変わらない彼は、伊58に愛おしげな眼差しを向けながら静かにはらはらと涙を流していた。
(艦長――――)
「ゴーヤ!! どこですか、ゴーヤ!!」
見上げた蒼穹の天蓋から、聞き覚えのある音響波がマリンスノーに混じって降りてきた。それは伊58の船体にぶつかると、小さく心地よい振動を奏でる。
声の主は仲間の名前を呼びながらどんどん近づいて来る。視界の利かない海の中、イルカのように自分の声を探信儀代わりにして、伊58の姿を探っているのだ。敵に見つかる危険も厭わずに。
やがて伊58の直上に金色の髪を二つに結えた、空と同じ色の瞳を持つ少女が姿を現した。彼女の不安で今にも泣き出しそうに歪んでいた顔が、ぱっと喜びの色に染まる。
「やっと見つけました!! Die hand―――手を!!」
何気なく伸ばした腕が力強く握りしめられた。
あの時には無かった、自分の手の感触。そのまま伊58を手繰り寄せた少女は、伊58の身体をぎゅっと抱きしめる。生体フィールドが融合し、少女の体温が、生命の温かさが直接沁み込むようにして伊58に伝わって来た。
(―――私は生きている。またこの海を泳げる―――仲間と一緒に―――)
二隻分になった浮力で景色の変化が加速する。いつの間にか止んだマリンスノーの代わりに、分厚い水のガラスを通して昇ったばかりの太陽の光がゆらめく幾条ものヴェールとなって降り注ぎ、伊58と伊8の紺色の船体をくっきりと浮かび上がらせた。
『伊58……』
再生が終わり、静止していた橋本艦長の映像が再び動き始める。
存在しない続き。それは妄想、それは願望。
しかし幻影であるはずのそれは、纏う空気や息遣いさえまでも、伊58にとっては本当に艦長自身が喋っているかのように感じられた。
『伊58。もしお前が再び海を往くことがあれば、別のお前になるがいい』
いつしか見覚えのある30代の若々しい姿に戻っていた橋本艦長は、記憶の枠を乗り越えて伊58に優しく語りかける。
『そして今度こそ、希望を運ぶ船となれ。それは殺すのでなく、死なすのでなく……』
(それは奪うのでなく、失うのでなく……)
ごく自然に、伊58の口から言葉が紡がれる。
自分の乗艦の答えに頷いた艦長は、伊58の桃色の髪にぽん、と手を置きはにかんだ。その動作が伊58を強制浮上させた残骸戦姫に重なり、思わず彼女は息を呑む。
気付くと艦長の姿は消え、海はエメラルドブルーに染まり伊58と伊8を取り囲むようにして色とりどりの魚たちが泳ぎまわっている。
伊58はそっと自分の胸に手を触れた。伝わって来たのは鼓動の刻む穏やかな生命の旋律と、一度燈ったまま消えずに燃える炎の温かみ。
いつの間にか目尻に浮かんでいた涙の雫を、過ぎゆく海水が洗い流す。
天を仰げば、白く輝く海面がもうすぐそこに迫っていた。
(艦長-――あなたこそ、私の全てでした)
遠い未来、あの懐かしい場所から届いた思い出を抱きしめた伊58は、満足そうに微笑むと、柔らかい日差しの中でそっと目を閉じた。
つんつん、つんつん……
「全く起きる気配が無いのね」
筏の上に寝かせられたまままぴくりとも動かないゴーヤの頬を突きながら、イクが呆れた声を上げた。その隣で中腰になったエリーゼが、イクに倣ってこちらはセーラー服を捲り上げた二の腕の、柔らかいところでぷにぷにと遊んでいる。
「んふ~、こうなったら最終手段。イクの五連装酸素魚雷フィンガーをお見舞いするしかないの!! これを喰らったら、どんな奴でも一発昇天なのね!!」
「Stoppen-――冗談でも止めておきなさい。前にそれでゴーヤが丸一日入渠する羽目なったこと、もう忘れたのですか!!」
筏の端に腰かけニーソックス型主機を履いた足を海に浸し、推進力を発生させているはちが声を荒らげて制止する。
「でも、ゴーヤは喜んでくれてたのね」
「悦び違いです!! 大体あのせいで、彼女は四六時中でちでち言うようになってしまったんですよ!! それまでは普通に喋れていたのに……」
イクがリンガ泊地に着任した際、挨拶代わりに披露したフィンガーテクがゴーヤの大事なものを色々と大破轟沈させてしまった『リンガの淫夢事件』は、関係者の間では泊地史上最悪の事件として実しやかに語り継がれている。
つまんないの、とふくれっ面のイク。
と、それまで二の腕の感触を楽しんでいたエリーゼが、何を思ったか身動ぎしないゴーヤのセーラー服の襟口に小さな手を突っ込むと、そこからスクール水着の肩紐を引き出した。そのまま大根でも抜こうとするかのように、肩紐をゆっくり後ろに引っ張っていく。
止めようとしたはちは、面白そうになりゆきを眺めているイクに遮られる。無言で恐る恐る眺める二人の目の前で肩紐はぐいぐいと伸びてゆき、やがて生地が限界に達したところでエリーゼはぱっと手を離した。
びたーん!!
「ひでちぶっっ!?」
意味不明な悲鳴を上げながらゴーヤが跳ね起きる。
「ゴーヤ、やぁっと起きたのね!!」
「って、イク!? はっちゃんも……一体何が起きたんでちか?」
起きてすぐ仲間の姿を認めるのと同時に、自分が朽ちかけの丸太を束ねて作った簡素な筏に揺られていることに気付いたゴーヤは首をかしげた。
「ゴーヤ、このまま目が覚めなかったらって心配だったのね!!」
すかさずイクがゴーヤの華奢な身体に飛びつき、がっちりと抱きしめがなら身長の割に豊かな胸部装甲を力いっぱい顔にむぎゅんむぎゅんと押し付ける。
だがそれとは対照的に、ゴーヤの台詞を聞いたはちの表情がさっと曇った。
「ゴーヤ、『覚えていますか?』」
神妙な面持ちで尋ねる。
主語を明らかにしないそれは、『司令艦』と『秘書艦』の間だけで通じる符牒だった。
記憶が残っていれば回答には困らないはず。しかし万が一その意図を問い質してくるようなことがあれば、その時は……。
ゴーヤはイクに抱きしめられたままの恰好で、こきんこきんと首を動かし考えるような仕草をし、二、三度目を瞬かせた後、
「うん、『覚えている』よ」
ハッキリと答えた。
ふぅ、とはちが安堵の溜息を漏らす。
「Großartig……良かったです!! おかえりなさい、meine admiralゴーヤ!! 気分は悪くありませんか? 体の具合は……」
「むしろ前より調子がいいくらいでち。でも潜ってる途中で意識が無くなっちゃったから、ちょっと不思議なんだよねぇ……もしかして、はっちゃんが迎えに来てくれたんでちか?」
「あ、はい。ただ私が接触した時、既に機関はレスキューモードに切り替わっていたんです……ゴーヤには浮上時の記憶は無いのですか?」
首を横に振るゴーヤに、今度ははちが首をかしげる番だった。が、
「そんなことより、今は皆無事だったことを喜ぶの!!」
さながらノーチラス号に絡みつくクラーケンのように、今度は両手どころか両脚でもしがみ付こうとするイク。
「あー、嬉しいのは分かったから、いいかげん離すでち!!」
「ああんいけず、なのね!!」
その拘束を振りほどき、んしょんしょ言いながらやっとのことでゴーヤは泳ぐ18禁の魔の手から抜け出した。
自由になったゴーヤは朝の風を思いっきり吸い込み深呼吸。改めて自分が再び海の上に戻ってこれた事実を噛み締める。
そのセーラー服の襟口から覗く小さな肩には、ゴムぱっちんの要領で強かに叩きつけられた水着の肩紐が残した、朱い一条の痕が白い柔肌にくっきりと刻まれている。
「そういえば、エリーゼはどうなったで……」
言いながら視線を巡らしたゴーヤの表情が突然固まった。
狭い四角い筏、はちが座っているのとは反対側の舳の方に、黒や褐色の日焼けた肌をした筋骨隆々の男たちが5人、体育座りの姿勢でゴーヤを見ていた。肌の色とは対照的に印象的な真っ白な白目、その10の鋭い眼光がゴーヤを見据えている。
「ひぃっ!? ご、ゴーヤは潜水艦でち、ちっとも美味しくないでち!! 煮ても焼いてもチャンプルーでも食べられないでち!!」
想定外の同舟者に驚いたゴーヤは筏の上にしゃがみ込み、頭を抱えたかと思うと突然命乞いを始めた。
「顔を上げて下さいゴーヤ。何か失礼な勘違いしているみたいですが、別に彼らは私たちを取って食べたりはしません」
「エリーゼのお父さんと、その漁師仲間たちさんなのね!!」
呆れた顔のはちと、その横でぷふっと吹き出すイク。
「ほへ?」
間抜けな声で返事をしたゴーヤはおずおずと頭を上げ、改めて男たちの方を見た。確かに東洋では見慣れない黒人男性なのでインパクトはあるが、落ち着けば愛嬌も感じられてくる。彼らもゴーヤを好奇の目で見てはいるが、決して攻撃的ではない。
さらにそのうちの一人、まだ30歳前後の若い男性にエリーゼが寄り添っているのを見て、彼女の父親だと言うことが理解できたゴーヤは、やっとのことで警戒を解いた。
するとエリーゼが、筏の丸太の上を器用にとてとて歩いて、ぺたんと座り込んだゴーヤのすぐそばにやってきた。そして、
『ゴヤ、イクゥ、ハチャン……お父さんに会わせてくれて、ありがとう』
ぺこり、と頭を下げる。
「……はっちゃん、あれから何があったんでち?」
突然お礼を言われても、自分が潜水している間何が起きたのか全く知らないゴーヤは困惑するばかり。
「ゴーヤが敵と一緒に海に消えた直後、電波障害が解除されました。そこで危険は排除されたと判断し、私は警戒のため残留。イクにはそのまま対岸に向かってもらったんです」
「で、行ってみたらエリーゼのお父さんたちと首尾よく合流できたの。朝早くからドンパチやってたから、皆とっくに目が覚めていたのね!!」
確かに銃撃砲撃爆撃に雷撃と朝っぱらから海戦フルコースだったわけで、ご近所は騒々しいことこの上なかっただろう。
「彼らも遭難してから流木で筏を作り、ずっとFlucht……脱出の時機を見計らっていたところでした。なので、イクと一緒に出港してもらうことにしたんです」
騒ぎで刺激されたパルチザンが活発化する可能性もありましたし、と遠い目をするはち。そして現在、ゴーヤを回収したはちと海上で合流し、村に戻っているところだという。
「そうだったんでちか……」
何にしても皆無事で、敵も倒せてめでたしめでたしでち、と締めようとしたゴーヤは、エリーゼの茶色の瞳がまだ自分の方をじっと見つめていることに気が付いた。
「まだ何か言いたいこと、あるの??」
「……この子はあの深海棲艦がどうなったのか、知りたがっているんです」
察しの付かないゴーヤに、はちが助け船を出す。
「でも……」
「大丈夫です。あれが人類の敵であることも、私たちが戦わなければならなかった理由も、既に彼女には伝えてあります」
その上で、できれば彼女の気持ちに応えてあげて下さい、と言うと、はちはそれきり口をつぐんだ。
とはいえゴーヤ自身、残骸戦姫と一緒に潜水していたところまでは覚えているが、撃沈したところまでの記憶は無い。
(うう、でも何か言わないと正直気まずいでち)
誰かに助けを求めるように視線を宙で躍らせる。するとゴーヤの視界にきらり、と何かが反射した光が飛び込んできた。目を擦ってよく見ると、それは取り外され筏の上に無造作に置かれていたゴーヤの艤装から放たれている。
「破片?」
手を伸ばし艤装を引き寄せたゴーヤは、そこに刺さっていたものの正体に気付いて驚いた。
漆黒の滑らかな表面が黒曜石のようにキラキラと輝くそれは、あの謎の深海棲艦の艤装を構成していたものの一部。鏃程度の大きさになった破片は、ちょうど乙型巡潜の機関部をうまく避けるようにして突き刺さっている。
自分の艤装から破片を引き抜いたゴーヤは、しばらく品定めするように触ったり日に透かしたりしていたが、やがてうん、と心を決めると、それをエリーゼの小さな手に握らせた。
「ゴーヤ、Gefahr……危険では!?」
民間人には例え残骸であっても深海棲艦に接触させてはならないということは、わざわざ明文化されずとも帝国海軍では常識だ。
「うん、分かってる。でも多分、大丈夫でち」
身を乗り出して警告したはちに静かに答えると、ゴーヤはそのままエリーゼを見守る。
当のエリーゼは貰った破片を握りしめたまま自分の掌を無言で見つめていたが、不意にそのアーモンド形の瞳から、ぽろぽろと真珠の粒のような涙が次々と零れ落ちた。
「どうしたの? お腹、痛いのね?」
心配して声をかけるイクに、意味は分からないまま激しく首を振る。
『聞こえた……友達の声……“見つけてくれて、ありがとう“って……』
そう言うとエリーゼはゴーヤの腹に飛びつき、わっと泣き出した。乾きかけていた紺色のスクール水着の生地に、みるみる藍色の海が広がっていく。
そんな彼女の日焼けしたごわごわの長い黒髪を優しく撫でてやりながらゴーヤは、そういえば最近自分も同じように、誰かに頭を撫でてもらったような……と少し不思議そうな顔をしていた。
「良かったのね!! ちゃんとエリーゼの気持ちは届いていたのね!!」
「深海棲艦の残骸にzugriff……この子には『艦娘適性』があった……ならあの敵は……」
貰い泣きをしながら素直に喜ぶイク。その隣ではちは暗い深海へと続く足元の海面を睨みながら一人、思案に耽っていた。
『オーイ、オーイ!!』
岸の方から筏に向かって呼ぶ声がする。
ゴーヤが舳の方に目を向けると、細長いバナナのように海に突き出した半島の砂浜に多くの人が集まり、こちらに手を振っているのが見えた。
「はっちゃん、凄い歓迎ムードだけど、一体あれは何なんでち?」
「昨日訪れたバナナ村の人たちです。先に遭難者を連れて帰還することを伝えていたので、わざわざ出迎えに来てくれたのでしょう」
いつの間にそんなことを……とゴーヤが呆れていると、はちはぴっと上を指差す。
澄み渡ったアフリカの空には、はちから発艦したAr196改と、Ar196改に無線誘導されたゴーヤの試作晴嵐が仲良く緑の翼を並べて、輪を描くように飛んでいた。
「この海域の危険度が評価できなかったので、万が一の場合は陸路で書類をドイツ本国まで輸送してもらうよう、昨夜のうちに村長には話をつけていたんです」
「はっちゃん、ゴーヤやイクが無茶してもあんまり怒らなかったのは、保険があったからなんだねぇ」
「Ja……ここが一応ドイツ勢力圏だということが分かっていましたので、多少の無茶は許容範囲できました」
「さすが、我らがリンガ泊地の秘書艦様なの!!」
イクがちゃちゃを入れると、照れくさそうに頬を染めたはちはJaJaと呟き俯いた。
漣を掻き分け進む筏は、ゆっくりと岸に近付いていく。
既に待ちきれなくなった気の早い村人の幾人かは、砂浜から海の中に入って筏を受け止める準備を始めている。それを見た遭難者たちも湧き立ち、にわかに筏の上は騒がしくなった。イクなどは彼らと一緒になってきゃーきゃー言いながらはしゃぎまわっている。
そんな喧噪を尻目にゴーヤは、まだ自分のお腹に抱き着いているエリーゼにぐるりと腕を回すと、その胸に少女の小さな頭をかき抱いた。
『……友達は、生きている』
ハッと顔を上げるエリーゼに、シーッ静かに、と唇を指で押さえたゴーヤは優しい笑顔を向けた。
もちろん証拠はない。だが同じく艤装の破片に触れたゴーヤには、確信があった。
あの深海棲艦がまだ『沈んで』は、『終わって』はいないのだと。
『だから……』
誰にも聞かれないように、そっとエリーゼの耳元に唇を寄せ囁く。
『だから、海に行ったら呼んであげて』
深海棲艦を『友達』と呼んだ幼い少女は自分の腕で涙を拭うと、泣き腫らした顔のまま、うん、と力強く頷いた。
……以上のように海洋航路上での伝承・説話は海上交易により伝播、さらに現地の土俗説話と混ざり合うことで様々に変化していくのだが、その多くはアーキタイプと呼ばれる原型を留めているため、当該地域のように航路が限定されているところで源流を辿ることは難しくない。
しかし中には、突然何も無いところに現れた様な説話も存在する。これらの多くはアレクサンダー・スラヴィクのいうところの『神聖なる来訪者』の物語に相当し、突然現れた旅人が何らかの偉業を成し遂げた後、また去っていくというものである。海の向こうからの来訪者の多くは別文明の担い手であるものだが、時にそれが何者であったか類推するのは非常に困難である。今回のフィールドワークで採取した伝承で、このタイプのうち直系の関係者が生存している、また伝承自体がそれほど古いものではないという貴重な例があったため、最後にこれを紹介して終わりとする。
『昔々、この海には邪悪な黒い魚が我が物顔で泳ぎ回っていたという』
『あるところに一人の少女がいた。彼女は生まれたばかりの時分に母を海で亡くしたため、漁師の父と共に二人きりで暮らしていた』
『ある日、漁に出た父の船が黒い魚に襲われた、という知らせが入った。少女は村人が止めるもの聞かず、父の安否を確かめるため一人で海に漕ぎ出した』
『岸を離れるとすぐに、黒い魚が彼女の船を狙って集まって来た。しかし、彼女が襲われることはなかった』
『突然海から現れた黒い人魚が、黒い魚たちを火矢で打ち砕いたのだ』
『少女は自分を助けてくれた黒い人魚と友達になる。しかし平穏は長くは続かなかった。黒い人魚は黒い魚だけでなく、村人が海に出ようとすると船に向かって容赦なく火矢を放ち、沈めてしまうのだ。やがて海に船を出す者はいなくなってしまった』
『しばらくたったある日、少女は遠く離れた対岸に見慣れない煙が上がっていることに気が付いた。それを見て父が生きていると考えた少女は、また一人で海に漕ぎ出した』
『すると今度は、海から三匹の紺色の鱗の人魚が現れた』
『少女が別の人魚と一緒に居るのを見て、黒い人魚は嫉妬に怒り狂う。そして紺色の人魚に火矢を放った』
『けれども紺色の人魚たちも負けじと火矢を放ったので、黒い人魚はとうとう深い海の底に沈んでしまい、二度と浮かび上がってこなかった』
『少女が黒い人魚の死をとても悲しんだので、紺色の人魚たちは船の代わりになり、彼女を父親のいる向こう岸に連れて行ってやった。また彼女を慰めるため、海の底から黒い人魚の鱗を拾ってきて彼女に渡した』
『その後、少女は村で再び父と暮らすようになった』
『彼女は美しい女性に成長し、村一番の家の息子と結婚する。そして沢山の子供に恵まれ、幸せに老いていったのだが、彼女は死ぬまでずっと、紺色の人魚から貰った黒い人魚の鱗を体から離そうとはしなかった。なぜならこの鱗を持って海に行くと、いつも黒い人魚が一緒にいるようで、例え一人であっても決して寂しくなかったからだという』
(ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン
文化学部学生 クリスティアン・ショルのレポート
『南アフリカ大陸沿岸部における海洋伝説の変遷・比較研究』より)