「―――敵の新型艦!? でも太平洋では見たことないタイプでち!!」
ゴーヤは必死に自分の記憶を探る。
しかし眼前の異形の深海棲艦は、ゲーム『艦隊これくしょん』の中でも、そしてこちらに来てから読んだ帝国海軍刊行の艦型識別表でも憶えの無い未知のものだった。
「ほ~ら見るの!! ほら見るの!! イクの言った通り、やっぱり見えない深海棲艦はいたのね!!」
「喜んでる場合ですかっ!! Lass den Quatsch!!」
場違いなはしゃぎ声を上げるイクをはちが叱り飛ばす。
と、スクラップ置き場のガラクタを組み合わせたような、でたらめな形状の艤装に組み込まれた半裸の女性―――深海棲艦の素体―――が、その白骨化した左腕の一本をゆっくりとこちらに向かって突き出してきた。
「な、なんなんでち? 一体何をするつもりでち?」
「Angriff――――攻撃? それにしては……」
動きに気付いたゴーヤたちが見守る中、工場のマニピュレーターか波止場のクレーンのように機械的に伸ばされた腕が、イクの胸の中の少女に狙いを定める。思わずイクは抱きしめる腕にギュッと力を込めた。
『友達……』
どこか心配そうに少女、エリーゼが深海棲艦―――残骸戦姫を見つめる。
すると腕を伸ばしたままの姿で彼女は動きを止めた。
沈黙したままにらみ合いが続く間も、東の空に上り始めた太陽は少しずつ海面に投げかける光量を増していく。
その沈黙を気に破ったのは、深海棲艦の方だった。
意図を図りかね石像のように硬直したゴーヤたちの前で彼女の紫色の、水死体の色をした小さな唇が開かれる。
空気の振動とインカム、二つの経路で艦娘たちの耳に何語か分からない言葉が届く。
しかし何故か、その意味するところを理解できたゴーヤたちの表情は一瞬で凍りついた。
―――オイデ―――
「さっ、散開をっ!! Einsetzen!!」
はちが恐怖の中でなんとか号令を絞り出すのと、残骸戦姫の16inch三連装砲が火を噴くのはほぼ同時。
咄嗟に三方に散ったゴーヤたちのいた場所、その海面を高速で飛来した生体砲弾が抉り飛ばす。
「はっちゃん!! イク!! みんな無事でちか!?」
敵艦の左舷に逃れたゴーヤは次々と立ち上がる水柱と飛沫に視界を遮られながら、水上機動を取りつつインカムのマイクに叫ぶ。
「……らはち……き右舷方向で……」
返って来たのは激しいノイズに妨害され、途切れ途切れになったはちの声。
イクに至っては応答すら無いが、特徴的な彼女のトリプルテールが必死で敵から遠ざかっていくのが見えた。
「通信障害!? さっきまで問題無かったのに、どうして今になって!?」
その疑問に答える者はいない。
しかし相手がこちらに敵意を向けてきた今、戦うにしても、潜水艦唯一にして最大の武器である魚雷が通じないのでは、ゴーヤたちが取りうる手段はほとんど無いに等しい。
三十六計逃げるにしかず。
だが残骸戦姫から距離を取ろうとするゴーヤは、ふと自分への追撃が無いことに首をかしげた。
晴嵐の爆撃を受けた後、もはや姿を隠そうともしない残骸戦姫は、自分の正面、すなはちイクと彼女が抱えるエリーゼに向けてのみ砲撃を続けていた。
彼女はゴーヤたちの存在に気を留めた様子も無く、ただひたすら真っ直ぐイクたちを追いかけている。
「まさかあいつ、本当にエリーゼだけを狙っているんでちか?」
「……ーヤ!! ゴー……Hören、聞こえていますか!!」
ノイズの海の中で、次第に肉感を持ってハッキリしていく呼び声。
見るとゴーヤと同じように残骸戦姫に置いてきぼりにされたはちが、警戒しながらその航跡を横切り近づいてきた。
「はっちゃん、あれ……」
「ええ、にわかには信じがたい光景です。深海棲艦が特定の目標を追いかけるなんて……」
眼鏡に付いた水飛沫を親指で拭いながら、はちはゴーヤの隣に接舷する。彼女の瞳には困惑の色が浮かんでいた。
「でも、最近似たような話を聞いた気がするでち」
「……先のソロモン海で、救助活動中の深雪を執拗に狙い続けた泊地棲姫のことですね」
ゴーヤはこくんと首を縦に振る。
突然世界中の海に現れた謎の敵、深海棲艦。
彼らの目的を推し量る術は無いが、蓄積された様々なデータを分析する過程で浮かび上がったその戦闘行動には、一つの法則があった。
『敵を選ばない』
駆逐艦級や軽巡級が対潜行動を優先する、探照灯に砲撃を集中するなど説明可能理解なものもある。
しかし何と言っても、彼らはターゲットを選ばない。
中破大破状態でも駆逐艦がこちらの戦艦に全力攻撃を仕掛けてきたり、あと一撃で轟沈する状態の艦娘がいても無傷の新しい標的を狙ったり。
そういった特性から、商船護衛任務で敵の注意を逸らすのは進路に割り込むだけでよく、比較的簡単であった。一方で派手な陽動作戦を行っても、彼らの気を引くためにずっと攻撃し続けなければならない、という問題もあったが。
そんな見境なしに手当たり次第噛みついてくるはずの深海棲艦が、イクとエリーゼに固執している。
直前に同じようなケースを聞き知っていなければ、ゴーヤもはちも自分の目の前で起きている現象を理解できなかったかもしれない。
「けれども敵のtargetが分かっているのであれば、逆に与しやすいかもしれません」
逃げ回っているイクには悪いですけど、と前置きしてはちが見解を述べる。
「あの子が敵を引き付けて来てくれている間は、考える時間が稼げます。あとはどうやって倒すか、なのですが……」
ゴーヤたち潜水艦の使う九五式2型魚雷は、航続距離を5kmと短くした代わりに、1型より150kgも多い500kgの九七式炸薬を搭載している。そして魚雷は一旦発射されれば最大雷速48ノット、時速にして約90km/hの高速で敵艦目がけて襲い掛かる。
しかしその高速ゆえに帝国海軍の魚雷には、起爆装置としてはもっとも単純な『ぶつかったら爆発する』接触式信管だけしか搭載されていない。
深海棲艦は生物とも機械とも知れないのだから、磁気感知信管が使えないのは当然。
そして接触式信管を採用したことは、ある意味対深海棲艦では利点にもなっていた。
半身を海中に浸した駆逐艦級や潜水艦型を除き、軽巡洋艦級以上の深海棲艦は艦娘と同じく海面に立つようにして移動する。
その際足元の海中に発生する力場……艦娘も持つ、艤装を含めた一定の質量体積を沈まぬよう海面上に維持する『疑似排水限界』と呼ばれる領域に対して信管が鋭敏に反応。本来、海上の敵であれば足の下を通過していくだけのはずの魚雷が起爆し、有効なダメージを与えることができていた。
だが感度が高いということは、同時に簡単な衝撃でも信管が作動し、魚雷が起爆する可能性を示す。それを知ってか知らずか、敵は対潜水艦用アクティブソナーの探信音を収束発振。水中に衝撃波を作り出すことで信管を誤作動させ、ゴーヤたちの酸素魚雷を自爆させた。
つまりこの敵に対して、接触式信管は意味をなさない。
「せめてこちらの魚雷が時限式の遅延信管であれば、対処のしようもあるんですけど」
「もう魚雷攻撃は効かないって割り切るしかないでち。機銃弾も残り僅か、それにこんな地球の裏側までは補給も援軍も望めない」
「Hilflos……では打てる手段がありませんね」
言葉とは裏腹に不敵な笑み浮かべたはちの黒縁眼鏡が、徐々に強くなりつつあるアフリカの朝日を反射してきらり、と煌めいた。
「私たちが普通の潜水艦なら、の話ですが」
そう、常識的に主兵装を封じられた潜水艦が水中探信儀に爆雷投射機、その上巨大な艦砲を備えた水上艦に勝てるはずは無い。
しかし人の形をした艦艇である艦娘は、その常識をいとも簡単に飛び越える。
「だったらぶっつけ本番、奥の手のプランBを試すいい機会でち!! はっちゃん、作戦遂行可能海域の座標を!!」
「Bereits!! 海底地形データは以前の航海の時に落とし込んでいます。最適の場所は―――ちょうど私たちと敵とのほぼ中間地点、方位○○、距離2000!!」
懐から取り出したスマホの海図アプリを起動しながら、遠ざかってゆく黒い深海棲艦の背を指差した。
「このままイクに囮を続けてもらい、当該海域へ敵を誘導するのが良策と思われます!!」
「了解でち!! 無線……は突然使えなくなったから、晴嵐!! メッセンジャーボーイを頼んだでち!!」
短文であれば電波圏外や無線障害下であっても、艦載機を接近させれば機体に組み込まれた通信機で相手に作戦を伝えることができる。
『敵ガ対魚雷行動ニ移ルト同時ニ方位一八〇ニ転舵セヨ』
メッセージを托された上空の晴嵐は、白からオレンジに色を変えつつある陽光を深緑の両翼で切り裂きながらイクの元へ全速力で飛び去って行った。
「……怖い、ですか?」
謎の深海棲艦との決戦を前にして、小さくなっていく晴嵐の尻尾をぼんやりと眺めていたゴーヤに、はちが優しく声をかける。
「ちょっと……ちょっとだけでち。でも、もう大丈夫でち!!」
そう言い放ったゴーヤは、自分で自分の両頬を思いっきり引っぱたいた。
ぴしぃんっ、と水を打ったような鋭い音が響く。
「よぉしっ、気合入ったでち!!」
と、武者震いするゴーヤのセーラー服を着た肩に、白く細いはちの指が触れる。
「心配しないで下さいゴーヤ。あなたに何があっても、私が必ず迎えに行きます」
「ありがとう、はっちゃん……」
少しの間、二人の間を沈黙が支配した。
タァン――ッ!!
突然、空に向けて機銃弾が一発放たれる。
晴嵐からメッセージを受け取ったイクの合図だ。
互いに無言で頷き合ったゴーヤとはちは、同時に機関を再始動。半身を海面に出した洋上航海モードのまま、深海棲艦の航跡を追うようにして真っ直ぐ矢のように突き進む。
イクを追い艦砲射撃を続ける敵の影がぐんぐんと近くなる。
「艦首魚雷発射管4番、8番注水、発射口開放!! 全部もってくでち!!」
「Torpedo fünf, sechs, sieben――Feuer!!」
二人の発射した5本の艦首酸素魚雷が、残骸戦姫の背中に向かって殺到。敵は迫りくる機械仕掛けの猟犬たちに気付いた様子は無い。
が、彼女の艤装は違った。
切断された太腿と16inch三連装砲を接続する黒いフロート、そこに半ば埋め込まれたようになっている頭の潰れた駆逐艦級のような形をしたパーツが、ぐるりと頭を巡らせて魚雷の方を鬼火の燈った目で睨む。
『自律艤装角』-――主に姫級深海棲艦で膨大な数の火器を管制するため、巨大な艤装の一部が別個体状に変化したサブコントロールブレイン。照準補正や自動迎撃などに使用すると推測されているそれが、背後に迫る存在を脅威と認めたのだ。
すぐさま艤装の後部が展開。4本の黒い杖のような、柱のような細長いパーツがぬっと姿を現す。等間隔に配置された4本の棒が海中に深々と突き立てられると同時に、残骸戦姫の船足が緩んだ。
ギィィンッッ!!
甲高い金属音を放ち棒が震えたかと思うと、次の瞬間先頭の酸素魚雷が自爆する。
すぐさま蒼と白のマーブルを描く航跡の中に、盛大な水柱が立ち上がった。
鯨のそれとは比べ物にならない強烈な音響波が二度、三度と海を震わせるたび、魚雷が自爆。水柱はまるで道の両横に立ち並ぶ街頭のようだ。
しかし残骸戦姫が魚雷の対応に追われ肝心の艦砲射撃の狙いが甘くなる一瞬を、イクは見逃さなかった。
すぐさま少女を胸元に抱えたまま機関を停止し、メインタンクに急速注水。潜望鏡深度まで沈みながら、残りの手足を突っ張ってパラシュートのように目一杯広げる。
海水の抵抗を受け、シーアンカーとなった彼女の船体に急ブレーキがかかる。
『ぐぅっ……乗員がいる分負荷がキツいのね……』
きしきしと艤装が悲鳴を上げる中、歯を食いしばり必死で水圧に抗いながら数秒の減速の後、イクは体勢を戻し、海中でくるりと弧を描いて華麗なタンブルターンを決めた。
そのまま機関ユニット内に残った空気を総動員。
ディーゼルエンジンが力強く回り出し、推進力が生み出される。
進路反転に成功した彼女は、今度は急速浮上。水飛沫と共に海面に飛び出すと、機関最大出力を保ったまま元来た方に向けて逃走劇を再開した。
ズンッ!!
大気を揺るがす重々しい発砲音。すぐさまイクの隣に水柱が立つ。
振り向くと、さきほどより大きく見える残骸戦姫の16inch三連装砲が煙を上げている。
人型艦艇の旋回半径はゼロに等しい。隙を突いて方向転換には成功したが、そのためイクは距離のアドバンテージを失ってしまった。
「かっ、回避なのね!!」
とっさに面舵。
次弾がイクの背後を掠め、すぐ横で巻き立つ白波を弾き飛ばした。
そのまま之字運動で回避行動を続けるが、直進する敵との距離はさらに狭まっていく。
徐々に挟叉、至近弾が増える。敵の砲口は確実にイクを捉え始めていた。
「ゴーヤ!! はっちゃん!! まだなの?! もう、イクもう沈みそうなの!!」
インカムに向かって叫ぶが、今は無線妨害でもされているのか、返ってくるのはノイズばかり。
と、イクの進路のすぐ先で海が弾けた。そのインパクトが海中を伝わり、波に乗り上げたボートのようにイクの全身が激しく揺さぶられる。
「きゃうっ!!」
どうやらいっこうに砲弾が命中しないことから、敵はまず頭を叩いてイクの行き足を止める戦法に切り替えたらしい。
無理やり体勢を立て直すが、今度は身体の動揺が収まらない。それどころか速度を上げようとすると、さらに動揺は激しくなり直進さえ難しい。
「まさか―――さっきの衝撃で舵が歪んだのね!?」
こうなっては洋上で回避行動を続けても、状況は不利になっていくばかり。行き足の鈍った浮上潜水艦など、腹を見せて浮く死にかけの魚のようなものだ。
ならば潜航すれば良いかといえば、それこそ海中で爆雷の雨に晒され、ぼろきれのようになって大西洋深くに沈む未来しかない。
どちらにしてもイクの進退は窮まり、運命は決まった。
残骸戦姫の巨大な16inchの砲口が、正円の瞳でイクを見下ろす。
「……せめてこの子だけでも、もう一度お父さんに会わせてあげたかったのね」
固く目を閉じて自分にしがみ付き震える少女を一瞥し、イクは寂しそうに呟く。
ガウンッ!! ガウンッ!!
くっ、とイクは反射的に目を伏せる。
砲弾の風切音。砲火の炸裂音。そして弾け舞い上がった飛沫が雨のように海面を叩く音。
しかし最後の瞬間は、いくら待っても訪れなかった。
「ど、どうして止めを刺しに来ないの……?」
恐る恐る顔を上げたイクのインカムに、聞き覚えのある声が飛び込んできた。
『イク!! Antworte mir……答えて下さい!!』
「はっちゃん!」
仲間の呼びかけで、諦めかけていたイクの瞳に光が戻る。
『間に合いました!! 後は私とゴーヤに任せて、あなたは可能な限り回避運動を続けて下さい!!』
「分かったの!! でもはっちゃん、あいつには魚雷が効かないのね!?」
『Kein Problem……問題ありません!!』
波を蹴散らし進む何かが、イクの真横を残骸戦姫に向かって駆け抜けて行く。
それを目の当たりにしたイクは瞬きし、二度瞼を擦って自分が夢の中にいるのではないことを確かめた。
アフリカの朝日の中、濡れて照り輝く紺色の水着。頭にちょこんと乗せた海軍帽と、その下からぴょこっと覗く金髪を二つに纏めた短いお下げ。
すらりと伸びた両脚に履く白いニーソックス。その足元で同じくらい白い波が粉雪のような水しぶきとなって、後ろへ後ろへと勢いよく送り出されている。海面にはまるで雪山に描かれたシュプールような鮮やかな曲線の航跡が刻まれていた。
「奥の手……Trumpfは、最後まで取っておくものです!!」
駆逐艦や戦艦などの水上艦がそうであるようにすっくと海面に立ち上がったはちは、逃げることも忘れて目を白黒させているイクを置き去りに、一陣の疾風となって残骸戦姫へと向かっていく。
ふいに姿を現した新たな標的。だが残骸戦姫は一瞬動きを止めたものの、再び艤装から生えた黒光りする16inch三連装砲の照準をイクに合わせる。
「Halt!! やらせませんよ!!」
その虚ろな眼窩のような砲口が火を噴く前に、はちの背中の艤装と一体化した14cm連装砲が滴り落ちる海水を吹き飛ばしながら砲弾を吐き出した。
ガウンッ!! ガウンッ!!
駆逐艦の主砲に匹敵する火力を持つ潜水艦『伊8』の艦砲射撃。至近から放たれたその一発が、力無く垂れ下がる残骸戦姫の白骨化した左腕に着弾。腕は三本とも根元の切れ端だけ残して粉々に砕け散った。
『―――ヨクモ―――』
ひゅっと周囲の温度が下がったのを、はちは水着越しに素肌で感じ取れた……感情など無いと言われている深海棲艦が、激昂している。
イクに向けられていた16inch三連装砲がはちに狙いを変え、さらに艤装のあちらこちらからは無数の機銃群が姿を現した。
全身ハリネズミ、その姿はさながら海に浮かぶガンガゼか移動要塞。
間髪入れずに無差別飽和攻撃が始まった。しかし雨霰と降る機銃弾の中を、はちは16inch三連装砲のみ警戒しながら最小限の回避動作で潜り抜けていく。艦娘の足元に生み出される『疑似排水限界』の特性は靴型をした主機の形状に依存する。代替品のニーソックス型副主機で発生する彼女の力場は極めて不安定だったが、短時間の運用であれば問題ない。
「―――そんなにその腕が大事だったのなら、箱に仕舞って鍵でもかけておくべきでした!!」
はちが吠える。
時折当たる機銃弾が生体フィールドと接触し火花を散らす中、主機のハンデなど無いように軽やかに、そして確実に致命傷となる主砲弾を右へ左へと躱しながら、はちは残骸戦姫との間隔をぐんぐん詰めていった。
もう深海棲艦特有の漆黒の艤装、その細部から青白い肌をした素体となる女性の目鼻口まで容易に見て取れる距離だ。
反航戦、しかも明らかに衝突コース。
だがどちらも進路を譲ろうとはしない。
「ここまで来ればっ!!」
直前まで自分の体の陰に隠していた厚手の本―――専用の魚雷発射装置を取り出す。
『伊8』の雷撃システムは、魚雷発射管が艤装に組み込まれている他の伊号潜水艦のそれとは兵装のコンセプトが違う。目指したのはよりコンパクトで効率的な形態。そして採用されたのは、既に龍驤・飛鷹・隼鷹で艦載機に実用化されていた、兵装を形代として収納する道術の亜種だった。
撥水処理を施した和紙に魚雷の絵姿と諸元を書き込むことで、資源と等価交換的に実物の魚雷を顕現させる。
『空母から飛び立つのは艦載機』理論と同じく、『潜水艦から飛び出すのは魚雷』という呪術理論で構築されたそれは、使用者にも一定の魔術素養が求められる。それゆえ他の伊号潜水艦娘に比べても、海軍の中で艦娘『伊8』は存在自体が希少だった。
交差する航路、二隻の船が今まさに衝突する寸前、はちは海面を思いっきり蹴り高々と跳躍する。
「私も魚雷はこれで看板です!! Torpedo,Vier,Acht―――Feuer!!」
イルカのジャンプのように弧を描いて飛ぶはち。彼女は手に持った書籍のページを見せつける様にして開く。
見開きのページから53cm艦首酸素魚雷、残ったその最後の二本が先を争うようにして実体化、射出された。
敵に極限まで肉薄しての雷撃。
名にし負う、二水戦の『逆落とし戦法』。
接触信管の感度を最大に設定され、柳の枝が撫でても起爆する状態になった魚雷たちは、それぞれが残骸戦姫の腹部と脚部に激突。
瞬間、炸裂音と共に血飛沫が空に舞った。
無差別砲撃が途絶し、異形の艤装から盛大に黒煙が立ち上る。
はちは自分の戦果を確認することなく、背を晒したまま追撃されるのを避けるため、既にそのまま海に飛び込み潜航していた。
……やがて煙が収まり、中から身体を傾けた残骸戦姫が姿を現す。
元々朽ちた深海棲艦のパーツを寄せ集めたような艤装は、主砲一門を残して脚と一緒に吹き飛び、『疑似排水限界』も維持できず半ば浸水したような状態になっている。
向こう側が見えるくらいの大穴が開いた腹部からは、生き物が流すような赤い血は、一切流れ出していない。千切れ損ねた肉片が、傷痕からだらしなくぶら下がっていた。
ふらふらと幽霊船のように身体を揺らしながら手負いの残骸戦姫は、それでも何かを探す風に最後に残った16inch三連装砲をぐるり、と巡らせた。
「――――目標確認、アンカー放出!!」
だが息つく間もなくはちの後ろに隠れて接近していたゴーヤが、艤装から伸ばした係留用の鉄鎖を手に、勢いよく自分の錨を投げつける。
鎖に繋がれたストックアンカーの尖った平爪が、無防備になった残骸戦姫の艤装を貫通する。騒がしく唸る電動ウインチが鎖を巻き上げ始めると、その先端に付いた『返し』にがちん、とロックがかかった。
すぐさまゴーヤはベントを全開放し注水。蒼い海の底目がけて急速潜航を開始する。
「ゴーヤと一緒にダイビング、一名様ご招待でち!!」
力場を維持し海面に留まろうとする残骸戦姫は、しかし抵抗虚しく引きずられ、ゴーヤの後を追うようにして海中に姿を消していった。
海の上に残ったのは何が起きたのか分からず推移を見守っていたイクと、その胸にぐったりと身体をしなだれかからせるエリーゼだけだった。