艦隊これくしょん-艦これ-司令艦、朝潮です!!   作:めめめ

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寄港地1『大食艦と主計科提督』

「司令ぇ、もう勘弁したってや!! うち、こんなんやっとれんわぁ~!!」

 

 南洋ブルネイ泊地司令部の木造建物内部に、京都っぽい少し間延びした少女の関西弁での悲鳴が響き渡る。

 

 どたどたと廊下を慌ただしく走る音。それが提督執務室の前で止まったかと思うと、次の瞬間、入り口の薄い板戸が遠慮なくバンッと開かれ、黒髪をショートカットにしたブレザー姿の小さな影が飛び込んできた。

 

「むゎ熱ッ!? ちょいと司令、何でこの部屋こないにくっそ暑いんですのん!?」

 

 少女―――陽炎型駆逐艦3番艦『黒潮』は、入るなり中から吹き出してきた熱い空気の塊に、思わず京人形のように細やかな目鼻口のパーツをしかめた。

 

「おう黒潮、のっけからご挨拶だな。まああれだ、今伝票の整理をしててな。風で飛んでいくと困るから、下手に窓も開けられね~んだわ」

 

 提督用の大きな事務机の脇に積み上げられた大小様々なサイズの紙の山の中から覗く、短く切り揃えたスポーツ刈りの頭が気怠そうに答える。

 

 ざざっ、と書類の雪崩を起こしながら現れたのは、眼光の鋭い二十代前半くらいの、やや気難しそうな顔をした青年だった。白い第二種軍装の襟元をだらしなく開け放した下には、細身ながら引き締まった胸筋が、汗ででらてらと輝いている。

 

「うぁあ~ん!! 提督、やっぱりエアコン買いましょうよ、エアコン!! でなきゃ機関ユニットの装着を許可してよ!! こんなにむんむん暑苦しい場所で仕事って言われても、私、本っ当に困るんですけどぉ!!」

 

 その隣、もう一つの紙の山の中から黒を基調にしたセーラー服を着た別の少女が、薄い色の茶髪をツインテールにした頭をバサッ、と浮上させた。タコ焼きみたいにほっぺたを膨らませて可愛らしく不満をアピールする、彼女の白い肌には珠どころか滝のような汗が何条も流れ落ちている。メイクの必要の無い少女だからこの程度で済んでいるが、これが化粧した女性なら大参事になっていただろう。

 

「却下だ村雨。知っての通り、うちの泊地にそんな財政上の余裕はまぁッたく無いッ!! でなきゃ今さらヘソクリ探して伝票漁りなんざやってやしないぜ」

 

 お、これは最新の資源管理表か。相変わらずボーキ少ねぇな、と言いながら手に持った書類を机の上に放り投げる。

 

「そうそう一応言っておくが、こんな密室で機関ユニットを起動させたりしたら煤煙で真っ先に俺が死ぬぞ」

 

 上司に二階級特進をプレゼントしてくれるなんて、優しい部下に恵まれた俺は幸せだなぁ、と嫌味たっぷりに呟く。

 

 うむむぅ、と一頻り唸った白露型駆逐艦3番艦村雨は、釈然としない顔のまま再び紙片の海に飛び込んだ。

 

「赤城さんもずるいよ!! 今日はただの書類整備だって言うから、間宮アイスの当たり棒3本で秘書艦代わってあげたのにぃ!!」

 

 頭を伝票の山に埋め、体の曲線が露わになった黒スカートの尻が叫ぶ。

 

「なるほど、それで朝から姿が見えないってワケか。空母の癖にいらんところで逃げ足早いな、あいつ」

 

 まぁそれならなおさら、赤城に魂を売った昨日の自分を恨むしかないな、とトドメの一言。

 

 ぐうの音も出ないほど論破された村雨は、書類の海に大破轟沈していった。

 

「そんなに拗ねるな村雨よ。これが終わったら、俺が昨日こっそり作った水羊羹を進呈してやろう。間宮のでなくて悪いがな」

 

 提督―――ブルネイ泊地司令、『海軍軍令部総長直属、人型艦艇運用専任特務提督』南雲大佐は、やはり室内の熱気に中てられているのか、茹蛸になって溶けかけた顔を入り口に向ける。

 

「で黒潮、そんなに慌ててどうしたんだ? お前、今日は第三艦隊で資源運搬任務じゃなかったっけ」

 

「そ、そうやったわ!! いや、遠征は無事終わってもうてんですけど、せっかく運んできた資源が、その……」

 

「はっきりしないな、おい。まさか持ってた資源全部、帰り際の異常潮流に呑まれちまったとでも言うんじゃないだろうな」

 

「ああいえ、その、呑まれたというか、食われたというか、持ってかれたというか……」

 

 もごもご口を濁してハッキリしない黒潮。

 

 と、その後ろ、開け放たれた外の廊下から、パタパタと草履かサンダルを履いたような足音が早走りで近づいて来た。

 

 勢いよく執務室の入り口に現れたのは、紅い袴に白道着、『ア』の字が書かれた垂と黒い胸当てを着けた弓道着姿の女性。

 

 元天城型巡洋戦艦2番艦、現赤城型航空母艦1番艦『赤城』。

 

「提督!! 先ほど提督特製の水羊羹があるって聞こえたのですが、本当ですか!? 空母赤城、これよりご相伴に預かります!!」

 

 鴉の濡れ羽色の長い黒髪をしゃらりとなびかせながら、いかにも大和撫子といった風体の彼女は、瞳を輝かせ開口一番そう言い放った。

 

 

 

 

 

「お前なぁ赤城……少しは旗艦やってた黒潮の気持ちも考えてやれよ」

 

 司令部とは別の建物、ブルネイ泊地の敷地内にある木造平屋の広い職員食堂スペース。

 

 あれから結局、水羊羹を狙って入り口から虎視眈々と監視する赤城の視線に耐えられなくなり伝票整理は中止。皆で揃って少し遅い昼食を摂りに行くことになった。

 

 赤城と南雲が向かい合って座った後ろの席では途中で別れた際に軽くシャワーを浴びて来たのか、まだ髪の毛をしっとりと湿らせた村雨が黒潮たち第三艦隊の駆逐艦娘たちと一緒に、楽しそうに談笑しながら厚切りにした薄墨色の水羊羹にかぶりついている。どうやら機嫌は直ったらしい。

 

「せっかくあいつらが持ち帰ってくれた資源を、俺に報告する前に勝手に奪ってくなんて……銀蠅と一緒じゃねぇか」

 

 食後のサービスコーヒーにクリープを入れ、かき混ぜながらぼやく。

 

「でもですよ、提督。このブルネイ泊地に空母は私一人なんです。彼女たちが運んだボーキサイトは全て私の補給に使われるのですから、その手間を省いてあげて何の問題があるのでしょうか?」

 

「ああ問題だ。空母が一人っきりじゃ、お前の負担が大きすぎるんだよ。俺としちゃ、お前の出撃を控えさせてでも資源を貯めて、建造で早いとこ空母を作って航空戦力の充実を図りたいんだがな」

 

 何も言わずに小鉢に入ったタケノコの煮しめを箸で掴んでひょいっ、と口に放り込む赤城。彼女が咀嚼する度に、ぽりぽりと小気味良い音が奏でられる。

 

 それを見ながらはぁ、と南雲は深いため息をついた。

 

 艦娘の消費する資源―――燃料、弾薬、鋼材、ボーキサイトは、勿論実物をそのまま消費するわけではない。内地では専用の処理施設、泊地では工廠に併設された整備科設備での加工を経て、資源はそれぞれ機関ユニットを動かす高精化燃料、兵装に装填される小型特殊弾薬、艤装を構成する超々圧縮鋼材へと姿を変えることで、艦娘の出撃や補給修理に使用することができるようになる。

 

 またこれら加工された資材は鎮守府同士での取引に使用されたり、また軍令部に対して新艦娘の建造陳述を行う際、書類上ではあるが対価として必要になったりする。

 

 この点、ボーキサイトは他の三つとは趣を異にしていた。対価として取引材料に使える点は同じだが、ボーキサイトを精錬して得られる軽くて丈夫な超々ジュラルミンは本来は空母艦載機など航空機の機体材料であり、艦娘の艤装構造には直接関係しない。そしてこのボーキサイトは艦載機を持つ艦娘だけが補給のために使用・消費することができる、という特徴がある。

 

 とはいうものの提督である南雲には理解できない感覚なのだが、赤城たち空母の艦載機補給は、正確にはボーキサイトそのものを『消費』するのではないらしい。

 

 呪術理論だかなんだか知らないが、彼女たちはどうやってかボーキサイトの持つ『航空機になる可能性』だけを取り出して、それを艦載機の発艦媒体である矢に装填する。そして可能性を付与された空母の矢は、弓から放つことで艦載機に姿を変えて標的の元へと向かうのだとか。

 

 一度南雲も赤城に、何故矢が艦載機に変わるのか聞いてみたことがある。すると彼女からは『パイロットを載せて空母から飛び立たせたら、それは艦載機じゃないですか』と、分かるような分からないような答えが返ってきた。

 

 ちなみに彼女の言うパイロットとは、話を聞く限りどこかの神様たちから派遣してもらう神使のような存在らしい。泊地に勤務する寺生まれだとかいう海兵の話では、空を飛びまわる空母艦載機の翼上には時折、妖精のような小さな人影が見えるのだとか。

 

 艦攻や艦爆を乗りこなす神使を持つ神様、それが沢山いる神社となると南雲に心当たりは一つしかないが、赤城が敢えて明言を避けたため、彼もそれ以上は突っ込まなかった。

 

 そして補給の後に残ったボーキサイトは、これまた理由は分からないが軍事兵器に使うことができなくなるため、民間に払い下げられて窓のアルミサッシや車のフレームなどの材料とされることになる。ある時、勿体ない贅沢は敵だ、とばかりにこの使用済みボーキサイトを回収して超大型戦略爆撃機の試作機に流用した陸軍関係者がいたが、出来上がったのは離陸と同時に100%の確率で空中分解する、飛行機の形をした全自動自殺装置だったという。

 

「……あのな、赤城。第三艦隊に専任させてるボーキサイト輸送任務が駆逐艦のガキどもに何て呼ばれてるか、お前知ってんのか?」

 

 南雲はチンチン、とコーヒーカップの端をスプーンで叩く。

 

「はてさて皆目」

 

「『赤城給食』だぞ『赤城給食』!! おかげで第三艦隊のローテーションは『給食当番』呼ばわりだ!! ちったぁ恥じろや一航戦!!」

 

 剣幕に驚いたのか、後ろで騒いでいた村雨たちの声が小さくなった。

 

 知らずに中腰で大きな声を出していたことに気付き、南雲はゆっくりと座り直す。

 

 一方赤城はきょとん、としてしばらく提督を見つめていたが、やがて思い出したように横に置いたお櫃の蓋を取り、自分専用のどんぶりに白飯をよそい始めた。

 

「おい、こんな時くらい食うのを止めろ」

 

「そう言われましても、食欲旺盛なのは大型艦の宿命みたいなものですから」

 

 少し困ったように赤城が微笑む。

 

 艦娘は人であり艦艇。素体となる少女の意志が機関ユニットや艤装、兵装を動かすのと同時に、それら諸装備からのフィードバックも少女自身に影響を及ぼすことになる。少女から軍艦に『人間性』を、軍艦から少女には『兵器性』を。

 

 あの戦争―――太平洋戦争での記憶や戦闘経験もその一つ。

 

 だが他にもフィードバックされるものがあった。

 

『食欲』

 

 今回のボーキサイト奪取にしてもそうだが、補給欲とも呼べる彼女たちの生理的欲求でもあるそれは、元となった船舶の燃料搭載量に比例して強くなり、特に空母や戦艦などの大型艦艇で顕著に表れる。しかも機関ユニットを起動させ『艦艇』状態になれば経口摂取した余剰エネルギーも燃料の一部として消費されることから、大食いにはメリットこそあれデメリットは無い。

 

 そうでなくても娯楽の少ない軍隊生活だ。

 

 三度の食事を思いっきり楽しむことは、軍務に支障をきたさない健全な趣味として暗黙のうちに推奨されていた。

 

 が、

 

「ったく、別に食わなければ死ぬわけでもあるまいに」

 

 言いながら南雲はずずっ、とカップに入った卵色の液体をすする。

 

 その瞬間、苦味と言うより木の生皮でも齧ったような渋味に近い、コーヒーにあるまじきエグ味が彼の舌を凌辱した。思わずうえっ、と顔をしかめる。

 

 最低限の物資は届くとはいえ戦時中のこのご時世、ブルネイ泊地も補給が潤沢なわけではない。食堂の誰かがコーヒーの嵩増しに、焙煎した木の根か大豆などの代用コーヒーでも混ぜたのかもしれない。サービスとはいえ、これは有難迷惑だ。

 

「……本当は逆なんですけどね」

 

「ん、どうした?」

 

「いえ、別に……」

 

 氷の入っていないグラスの生ぬるい水でまだピリピリする舌を漱ぎながら尋ねるが、赤城はわざと口ごもって誤魔化した。

 

 ともかくこのコーヒーもどきで、これ以上犠牲者が出んようにしなければな、と愚痴る南雲の様子を眺めながら、彼女は薄い衣を纏った鯨カツに漆黒の海ができるくらいたっぷりとウスターソースをかけ、箸でつまんでまず一口。そして、

 

「あら、これは……何もつけない方が良かったですかね」

 

 と、噛み切った鯨カツの断面を見ながら感想を漏らす。

 

 普通なら独特の獣臭さが気になる鯨肉だが、この鯨カツに使われている肉にはたっぷりの生姜をきかせた大和煮のような下味処理が施されていた。硬さも力を込めず自然に噛み切れる柔らかさ。

 

「なるほど、そのために衣を薄手にしたのですか。カツというよりもはやフリットに近い感じですが、肉の歯ごたえとマッチして上々ね」

 

 美味しいです、との台詞も半ばに山盛りの鯨カツと白米を、ひょいぱくひょいぱく交互に口へと運んでく。

 

「そう言ってもらえると、作った方としては恐悦至極」

 

 南雲としては素っ気なく言ったつもりだったが、

 

「ふふ、提督、顔がにやけてます」

 

「……うるせぇよ」

 

 指摘されて赤くなった南雲は、ぷいっとそっぽを向いた。そんな彼を優しく見つめながらも、赤城はマイペースに食事を続ける。

 

 このブルネイ泊地には、一つ特徴があった。

 

 それは今も赤城が食べている、泊地職員食堂の期間限定メニュー『提督定食』の存在。

 

 商品広告で良くある『宮内庁御用達』や『提督の愛した~』とかいう煽り文句ではなく、文字通り『提督が作った定食』という変わり種だ。

 

 元々南雲は実家が老舗の日本料亭だったところを、跡を継ぐのを嫌がって兵役年齢に達して調練に召集されたのを、これ幸いにと海軍勤務を希望しそのまま残留。本人としては、どこかの水雷艇あたりでカレー鍋をかき回しながら生きていければ、とぼんやり考えていたところに、何を間違ったか人型戦闘艦艇『艦娘』を指揮運用する『特務提督』としての適性を見出されてしまった。

 

 霞が関の赤レンガで一通り形だけの研修を受けた後、帝都東京から南下すること直線距離で4,300km余り。

 

 彼はインドネシア、マレーシア、ブルネイ王国の三カ国が領土を有するボルネオ島、その北部にあるブルネイ王国内帝国海軍駐屯地『ブルネイ泊地』の司令官として着任する。

 

 そんな中一人きりで放り出されて右も左も分からない彼を最初期から支えてくれたのが、食習慣に難はあるものの秘書艦として、そして貴重な航空戦力としても極めて優秀な正規空母『赤城』。元々彼女の提案で南雲のストレス解消と所属艦娘の士気高揚を兼ねて始まったのが、この『提督定食』システムだった。

 

 基本的に南雲の気が向いた時、食材がある時に食堂メニューの黒板に告知される『提督定食』は、本土から遠く離れて和食に飢えている少女たちにとって、その味はいつしか究極の目的となっていた。作戦任務でMVPを取った時に貰える『提督定食』の食券は、文字通りお金に変えられないプラチナチケットとしても認識されている。

 

 この『提督定食』が軌道に乗った頃、何かお礼を、と南雲が赤城に尋ねたところ、彼女は『それでは好きなだけ、提督のご飯を食べられる権利をお願いします!!』と間髪入れずに答えた。

 

 以降、件の提督定食とは別に出撃の無い日はできる限り毎日、他の艦娘に提供するもとは別にして、南雲は彼女に手料理をご馳走しているわけなのだが……最近はそれが、泊地構成員の殆どを占める駆逐艦娘と赤城の間に溝を作っている気がしないでもない。

 

「しかしまあ何だ、俺としては艦種と役割は違っても、自分の部下には仲良くやって欲しいってのが正直なところだ。特にお前みたいな空母は攻撃力こそ一級品だが、駆逐艦その他の直掩艦隊がいなければ運用に不安が残る」

 

「それは重々承知していますけれど……」

 

「なら猶更、お前のために護衛も遠征も頑張ってくれている連中のこと、慮ってやってくれないか。俺としても、お前があいつらに食欲魔人みたく言われているのは、あまり聞いてて楽しいもんじゃない」

 

 知っての通り、こっちはお前らが出撃したら銃後で待つしか無い身だからな、と付け加える。

 

「―――善処します」

 

 鯨カツを平らげ終えた赤城は、そう言って付け合せのお新香をぽりん、と噛む。

 

 いつの間にか夕立たちの声は聞こえなくなっており、食堂には南雲と赤城だけが残されていた。その隣のテーブルでは褐色肌をした現地人のおばちゃんが一人、汚れが取れないのか無愛想な顔で何度も天板を台拭きで擦っていた。

 

 

 

 

 

 

「先制攻撃、か……」

 

「はい。先日の遠征任務で、ボルネオ島・マレー半島シンガポール間の定期航路近傍に、E領域発生の兆候と思しき敵の集簇を認めました。現在、長良が駆逐艦を連れて戦闘予定海域の絞り込みと周辺警戒を行っていますが、これまでの情報を分析したところ敵戦力の中心は、軽巡と雷巡が主体となっている模様です」

 

 黒髪をロングボブにした頭から、針を生やした様な空中線支柱を模したカチューシャが特徴的なヘソ出しセーラー服の眼鏡っ娘、高雄型重巡4番艦『鳥海』が、執務室の机の前でレポートを手に説明を続ける。

 

「では、作戦を具申させていただきます。まず軽巡を中心とした快速船団から水偵を飛ばして、海域深部を偵察し位置の詳細を確認。次に敵の反撃を受けないアウトレンジから空母艦載機による爆撃を行い、砲雷撃戦に移行。私の計算ではこの時点で敵戦力の大部分は殲滅できているはずです」

 

 そう言って彼女は、作戦見取り図を南雲の前に差し出した。

 

 ボルネオ島からシンガポールに行く航路は、ちょうどブルネイ泊地から南西に600kmの位置にあるマレーシア領クチン港を経由する形になっている。

 

 クチン港を出た船はボルネオ島沿岸を離れた後はほぼ真西に進み、問題が無ければ約一日でシンガポールに到着することになる。

 

 今回敵艦が集まっているのは航路の北。艦娘たちの記憶にあるマレー沖海戦で、機雷敷設拠点となったアナンバス島を含むリアウ諸島州と呼ばれる小さな島々だった。

 

 F領域に含まれるそこは、放置された無線観測施設がある他は何もない無人島群。その島影に精度の低い監視通信衛星の目を逃れるようにして、多数の深海棲艦が集まってきている。

 

 たまたま定期航路を外れる必要のあった船の護衛任務で、索敵行動を行っていた鳥海がそれを見つけてきたのは、泊地にとって予想外の成果だった。

 

 現時点で確認された敵戦力は、駆逐艦4隻、軽巡4隻、雷巡5隻に重巡が3隻。

 

 幸い軽空母や空母、戦艦級は確認されていないことから、こちらの航空戦力を活用することができれば一方的に有利な状況を作り出せる、というのが鳥海の読みだ。

 

「敵残存艦数が予想より多ければ、空母は損傷を受けた艦を直掩として帰投。現場では健在な艦を中心に臨時の水雷戦隊を編成し、ブルネイに向かって微速で転進し敵を引き付け、そのまま夜戦に入ります。そして空母が帰投次第、交代で泊地の守備艦隊が駆逐艦を中心とした新たな水雷戦隊を編成し出撃。これを追加戦力として戦場に投入し、夜明けまで掃討を行います」

 

「つまり、先行偵察による正確な敵戦力把握と、開幕爆撃でどれだけ敵戦力を削げるか、が作戦の成否を分けるわけだな」

 

「はい。海域の核となるべき鬼級や姫級が出現していないことから、今回の作戦で敵殲滅に成功すれば次のE領域発生を未然に防ぐことができるかもしれません、が……」

 

 ちらっと鳥海が、黒い革張りのワーキングチェアに座った南雲の横に立つ赤城に視線を向けた。

 

「……作戦の性質上、空母の艦隊編入は必須。そして単純な戦力比は深海棲艦有利のため、下手を打つと藪蛇で手が付けられなくなる、と」

 

「仰る通りです。この作戦はハイリスク・ハイリターンかつ、唯一の空母である赤城さんに全てを委ねる形になっています。他の鎮守府、例えば近隣のリンガ泊地やタウイタウイ泊地から応援を得られれば、作戦成功率も飛躍的に高まるのですが……」

 

 そう言って眼鏡の奥で橙色の瞳を閉じる。

 

 既に南雲の名前で両泊地に協力を打診はしているのだが、一週間が過ぎているというのに何の応答も無い。

 

「どこも苦しい状況だ、無理は言わんさ。実際ここ10年の間に急激に進んだ海上劣勢のせいで、アジアの定期航路は優先度の低いものからどんどん閉鎖されてっている。最近は物資輸送も滞りがちだし、現地住民が帝国海軍に向ける視線も冷たい。何でも本土の方じゃ戦況打開のため、秘密裏に特殊な艦娘の配備が始まったとかいう噂もあるが、そんなのがうちに来る頃には、俺たちは海から締め出されているだろう……」

 

 机の上の南雲の拳が、ぎゅっと強く握りしめられる。

 

「だからこそ、俺たちのブルネイ泊地単独で準E領域を攻略できる機会は逃したくない!! これ以上の敵の進出を食い止めるためにも、東亜の海を守るためにも!!」

 

 普段職務中はあまり感情を露わにしない彼のいつになく熱の入った様子に、眼前に立つ鳥海の方はこの人にもそんな一面があったのか、と少し驚いていた。

 

「―――行きましょう」

 

 それまで南雲の横で黙っていた赤城がゆっくりと、だがはっきりとした声で言い切った。

 

「ですが私の計算でも、不確定要素を完全には……」

 

「航空母艦の真価は専守防衛でなく、脅威の事前排除において発揮されます。特に索敵と先制攻撃に於いては、他の艦種の追随を許しません。危険というのであれば、有視界で行う通常の砲雷撃戦の方がよほど危険です。提督……」

 

 彼女は一歩、南雲に向かって踏み込む。

 

「私たち艦娘は提督の『手段』です。そして提督、あなたは私たちの『目的』なんです」

 

 赤城の手が南雲の肩に置かれた。小さな桜貝がその耳元で囁く。

 

「教えて下さい提督……『目的』は『手段』に何を望みますか?」

 

『勝利を』

 

 ―――そう言ったつもりだったが、何故か南雲の声帯はそれを音にすることを拒んだ。

 

 だが彼の唇の動きを呼んだのか、赤城は満足そうに頷いて、すっと身体を離した。

 

「ありがとうございます。空母機動部隊を編成するなら、私にお任せくださいませ。鳥海さん、これから作戦の具体的な内容について……」

 

 その時、とたとたとた、と軽い足音が走ってきて執務室の扉の前で止まった。

 

「提督、早く開けて下さ~い!! 先行偵察に出てる長良さんから、提督宛に緊急無線が入っているよ~!!」

 

 南雲が目で了承すると、鳥海がつかつかと歩み寄り扉を開く。

 

 そこに立っていたのは村雨だった。いつもと変わらぬマイペースな口調とは裏腹に、彼女の顔には何やら焦りが見て取れる。

 

「緊急無線? 偵察任務中ですから、長良さんには無線封鎖を指示していたはずですけれど……」

 

 鳥海が首をかしげる。

 

「余裕が無くて偵察機に短文無線を託して送った、ということでしょうか。村雨さん、中に入って通信文を読み上げてください」

 

「はいはーい!!」

 

 赤城に促されて村雨は、ぴょんとスカートの端を翻して執務室に飛び込んだ。

 

「え~とですね、

 

『ワレ作戦海域ニ接近スル新タナ敵影ヲ認ム』

 

『敵中破ノタメ艦影識別困難、オニ級装甲空母鬼ト推測』

 

『8時間以内二海域侵入、旗艦化ノ恐レアリ』

 

『大至急追加指令乞ウ』

 

……以上です」

 

 最初は元気だった村雨の声が、どんどん小さくなっていくのが分かった。

 

『装甲空母鬼』

 

 巨大な両腕を備えた深海棲艦の生首に、長髪の少女が跨ったような姿をした『鬼』級深海棲艦。16インチ連装砲と艦上爆撃機を備えた、火力・装甲とも一般的な艦娘を軽く凌駕する強力な個体だ。

 

 彼女たちのような『鬼』『姫』級深海棲艦が敵性海域の中心で司令塔となることで、海軍の基準ではE領域と認定される。

 

 これまで『鬼』『姫』級は海域最深部で自然発生的に出現すると考えられていたが、今回のように他の海域から流れてくるパターンがあるというのは、南雲にとっても初耳だった。

 

「鳥海、悪いがさっきの作戦は無かったことにしてくれるか」

 

「妥当な判断だと思います。E領域発生を未然に防げなかったのは痛恨ですが、逆にE領域だと軍令部に認識されれば、他の鎮守府も協力せざるをえなくなりますから」

 

 すぐに長良には撤退指示を出しましょう、と鳥海は回れ右して村雨と一緒にその場を離れようとする。

 

「本当にいいんですか、提督?」

 

 執務室に赤城の凛とした声が響いた。思わず皆の動きが止まる。

 

「敵が旗艦化してしまえば、E領域となった海域の深海棲艦は爆発的に数を増やします。また集まった仲間を材料にして、敵旗艦は驚異的な回復力を発揮します。オニ級であればヒメ級に自己改装する可能性も……。そうなってしまえば通常船舶はもちろん、艦娘の被害も甚大なものになるでしょう。この劣勢下で軍令部は、むしろ貴重な戦力を温存しようと海域の放棄を決定するかもしれません」

 

「何が言いたい、赤城?」

 

「敵を叩くのならば今この瞬間しかない、ということです」

 

 きっぱりと言い切る。

 

「……確かに長良さんの報告が正しいとすれば、装甲空母鬼は中破している上に海域到着まで時間があります。その間に敵戦力を殲滅することができれば、あるいは……」

 

 落ち着かなさげに眼鏡の縁を上げ下げする鳥海。

 

 だが時間との勝負になる上に、ただでさえ戦力的に劣っているところに装甲空母鬼が増援として現れることになる可能性が高い。

 

「やはり却下だ。こんな分の悪い賭けに、多数の艦娘の命を注ぎ込むわけにはいかん。すまんが今回は……」

 

 赤城は握りしめられたままの南雲の拳に、そっと自分の白く掌を重ねる。

 

「相変わらず提督は、自分に嘘をつくのが苦手ですね」

 

「俺は極めて合理的な判断をしているつもりだぞ」

 

「ならば何故、そんなに悔しそうな顔をしてらっしゃるのですか?」

 

 ぐっ、と言葉に詰まった南雲は思わず赤城から視線を外してしまった。

 

「分かっててそれを聞くかよ」

 

「ふふ、こうして突っついてあげでもしななければ、提督は頑として私たちを危険な戦場に遣ろうとしませんから」

 

 もちろんですと言わんばかりに、にこやか答える赤城。

 

 南雲は深く息を吐き出した後頷き、机から立ち上がる。そしてきっと意志を込めた瞳で、鳥海と村雨の方を見つめた。二人は直立して提督の言葉を待つ。

 

「さっきの中止命令は撤回だ、鳥海。これより我々ブルネイ泊地は、泊地の総力をもって準E領域の攻略に臨む!! 正規空母赤城は艦隊旗艦として、待機中の重巡摩耶を副艦に直ちに出撃!! 以降前線での戦闘指揮判断は旗艦に委ねる!! 村雨は通信室に向かい、長良に一旦警戒海域を離れ赤城の合流を待つよう伝えた後、随伴艦として赤城の指揮下に入れ!! 鳥海は秘書艦代理兼守備艦隊旗艦として泊地で待機、第二次攻撃部隊としていつでも出撃できるようにしておけ!! 」

 

『了解!!』

 

 海軍式敬礼で応えた村雨はすぐに執務室を飛び出す。鳥海は部屋を辞する際振り返り、南雲たちの様子を覗いながらぺこっ、と頭を下げ村雨の後を追った。

 

「―――俺は卑怯な男だ。お前たちに『死ね』と命じておきながら、自分はいつも傷つかない場所で悩んだふりだけしているんだ」

 

 二人が去ったのを確認して再び椅子に座りなおした南雲は、音が聞こえるくらい強く唇を噛み締めた。

 

「提督……」

 

 ふわり、と南雲の身体が優しい風に包まれる。微かに甘い香りを漂わせる長い黒髪が、優しく彼のうなじを撫でた。

 

「子を産み育てるはずの女しか戦場に出ることが叶わない……嫌な、世界です。本当に……」

 

「赤城、お前……」

 

 両腕で南雲の頭を掻き抱きならが、まるで自分に言い聞かせるように呟く。

 

「大丈夫です、提督。あなたの艦は沈みません。だって……」

 

 ぎゅっ、と力が込められる。

 

「だって提督のご飯、まだ全然食べたりないんですもの」

 

「……おい、この期に及んで飯の心配かよ」

 

 南雲が苦笑を漏らす。それはやがて笑いに変わり、執務室にいつものような二人の楽しそうな声が満ち溢れた。

 

「ったく、分かったよ。帰ったら好きなだけ食べられるよう、艦隊全員分準備して待ってるさ……ありがとな、赤城」

 

「いえ私こそ。ごちそうさまです、提督」

 

 見えないように口の端の涎をこっそり拭いながら身体を離した赤城は、背筋を伸ばして南雲に対し敬礼の姿勢を取る。

 

「それでは敵性海域攻略のため、提督のため―――南雲機動部隊、これより出撃します!」

 

 凛とした赤城の姿を見ていると、不意に何故か南雲の舌の上に、以前飲んだ代用コーヒーのような苦みが浮かんできた。

 

 

 

 

 

 ―――深夜○一三○、ブルネイ泊地食堂裏。

 

 誰もいない厨房で一人、南雲は黙って包丁を研いでいた。

 

 しゃっ、しゃっ、と石を鉋で削るような音がシンクに溜めた井戸水の上を走っていく。

 

 既に明日の分の仕込みは終わっていた。そして赤城たちがいつ帰ってきてもいいように、夜食のおにぎりや出汁巻き卵などが調理台の上に、ラップを被せられ並んでいる。

 

 ……赤城たち第一陣が泊地を出撃してから、既に10時間が経過していた。

 

 予定では日が暮れる前に爆撃を終えた赤城は帰投しているはずだったが、日没直前に追加戦力の投入要請があって以降、無線封鎖は解除しているのにも関わらず彼女たちからの通信は無い。泊地としても既に駆逐艦2隻を除き鳥海たち守備艦隊も出撃してしまっていることから、手元には状況確認に出す艦娘戦力さえ残されていない。

 

 そして戦闘海域への偵察機の派遣は、何度頼んでも泊地の海軍航空隊に頑なに拒否されてしまった。

 

 深海棲艦蠢く海への深夜飛行は死と同意義。

 

 結局今の彼にできることは、ただひたすら信じて少女たちの帰りを待つことだけだった。

 

 ……南雲は砥ぎ終わった包丁をふと、鉄格子の填まった小さな窓から注ぐ月光に透かし見てみた。

 

 14歳、まだ国民学校高等科二年の時、亡くなった祖父の形見分けとして父から譲り受けた包丁。その刃は十年以上の歳月を経て擦り上げられ短くなってはいたものの、月光を照り返し青白く輝くそれは、何やら迷いを断ち切る魔力が宿っているかのようだった。

 

『提督、綺麗な包丁ですね』

 

 泊地に着任してしばらくの頃、不慣れな提督業務に押しつぶされそうになっていた時……昔よくそうしていたように厨房裏で一人この包丁の手入れをしていると、秘書艦の赤城が話しかけてきた。

 

 それまで彼女とは事務的な会話しかした覚えが無かったので、びっくりしたのを覚えている。そうでなくても男所帯の軍隊生活がいきなり女学校教師のような提督職に変わり、少女たちとコミュニケーションを取りあぐねていたところだったのだ。

 

 ここ数年、郷里の老いた母親以外の女性と会話した経験すら数えることしか無い南雲にとって、外見年齢が近く、その上目の覚めるような和風美人の赤城が秘書艦業務以外で自分に話しかけてくることなど想像もしていなかった。

目を白黒させて動揺する南雲を赤城は、今夜と同じ蒼い月光の中、彼が落ち着きを取り戻すまで柔和な笑みを湛えたまま、何も言わずにずっと待っていてくれた。

 

 やがて気を取り直した南雲が、自身が元々主計科希望だったこと、気持ちを落ち着けるために包丁をいじっていることをぽつりぽつりと打ち明けると、彼女はゆっくり口を開いた。

 

『でしたら提督、提督ご自身のストレス解消も兼ねて、泊地の皆のために料理を作ってあげてはいかがでしょう?』

 

 そんな言葉が返ってきた。

 

『艦娘は船霊との相性問題から、一部を除いて本土の日本人子女にしか適性がありません。お国のためとはいえ泊地の艦娘には、まだ親元から離れるのに早い年齢の子も含まれています。そんな子たちに懐かしい日本の料理を作ってあげられれば、きっと皆、喜んでくれるはずですよ』

 

 翌日、試しに茶碗蒸しを作って昼食時の艦娘たちに振舞ってみたところ、出汁と卵、扇切り紅白カマボコにミツバを散らしただけの簡単なものだったにも関わらず、予想以上の反響が返ってきた。

 

 熱いのにも構わず大量に掻き込む者、黙ってそのプリン色の表面を見つめる者、ひたすら匂いを嗅ぐ者、少しずつ舌先に乗せてゆっくりと楽しむ者、一口食べて泣き出す者……。

 

 そして頃合いを計って『これは提督が、皆のために作って下さったのです』と赤城が打ち明けた瞬間、全員の視線が南雲に集中する。

 

 怖気づいた彼が逃げ腰になると、その背中を赤城がぽん、と押してくれた。

 

 なんとか腹を括って姿勢を正し、自分を見つめる艦娘たちと視線を交差させた時、南雲は初めて少女たちと通じ合えたような気がした。

 

 これをきっかけに艦娘たちと打ち解け普通に接することができるようになった南雲は、赤城の助力もあり徐々に泊地運営を軌道に乗せていった。

 

 だがようやく泊地が落ち着いてきた頃のことだった、理由も無く遠征の輸送物資を横取りするなど、赤城の単独奇行が目立つようになってきたのは。

 

「あいつ、何であんなことを……」

 

 自分に一歩踏み出す勇気をくれた赤城自身が、今は勝手な行動で泊地の不和を広げている。それが南雲には理解ができなかった。

 

 と、軽快な革靴の足音と共に、艤装のがしゃがしゃという忙しない金属音が近づいて来た。

 

 ぱぱっ、と食堂の、続いて厨房の照明が点灯された。

 

「ここにいたんですねっ、司令官っ!! 電話、何度も鳴らしたのに出ないから、直接迎えに来ましたっ!!」

 

 そういえば連絡用の携帯は上着と一緒に食堂入り口に掛けてしまっていた。失敗したな、と南雲は声の主に視線を向ける。

 

 蛍光灯の放つ淡い白色光の中に立っていたのは、先行偵察部隊を指揮していた長良型軽巡1番艦『長良』。短い黒髪をサイドテールにまとめ白鉢巻を締めた、高等学校の陸上部員のような健康美溢れる少女。

 

 だが今の彼女は、脇下に紙垂をあしらったいつものセーラー服ではなく、薄桃色のスポーツブラにえんじ色のブルマ、切り裂かれた白のオーバーニーソとあられもない姿で肉感的な素肌を南雲の前に晒している。背中の艤装も片方のジョイント部分が千切れ、歪んだ魚雷発射管がだらしなく頭を垂れていた。

 

「長良、お前装甲が……いや、よく無事で戻って……」

 

「そんなこと、今は関係ないよ!! 司令官、私なんかより赤城さんが―――赤城さんがっ!!」

 早くっ、そんなんじゃ全然遅いっ!! と彼女に無理やり手を取られ、俎板に包丁を置くや否や職員食堂から引っ張り出される。濁った暗闇の中、厨房の窓からも見えた月光と数多の星影が赤道直下にも関わらず寒々しく二人を照らす。

 

 いつもは元気で饒舌な長良が、今日に限って何も言わずに必死で走っている。

 

 その先にあるのが見慣れた泊地司令部でなく、普段は使っていない艦娘療養施設に併設された緊急医療棟の白い建物だということが分かった時点で、南雲の胸の中に芽生えた不安の影が少しずつ育っていった。

 

 そしてそれは扉を開け、集まった沈痛な面持ちの艦娘たちの姿を目にした瞬間、最高潮に達する。

 

「赤城ッ!!」

 

 群れ為す少女たちを掻き分け、その中心を目指す。

 

 そして彼が見つけたのは、金属製の救急担架の上で白い裸体にシーツをかけただけの姿で横たわる女性。

 

 艤装も装甲も取り払われた彼女の身体には火傷や血痕が残り、突き出された手足は血の気が失せ、マネキンのように生命力を感じさせられない。腕に繋がれた2本の点滴と輸血パック、絡まった幾つものコード線に心電図の波、そして顔を覆う酸素マスクの曇りだけが、かろうじて彼女がまだ死んでいないことを教えてくれていた。

 

「赤城―――どうして―――」

 

 思わず彼女に縋り付こうとした南雲を、白衣を着た若い女性衛生兵が「本来なら緊急手術なのを、本人の強い希望で待機しているのでどうか……」と押し留めた。

 

 一旦引き下がった後、改めて恐る恐る手を伸ばし、赤城の細くしなやかな指先を握る。彼の掌に、人の身ではありえない冷たさが伝わって来た。

 

「うちのせいなんや……」

 

 俯いたまま、赤城の横に立つ黒潮がぼそりと呟く。艤装を付けたままの彼女自身も、ブレザーは焼け焦げスパッツは裂け、酷い有り様になっている。

 

「どういうことだ、黒潮!?」

 

 握った手はそのまま、顔だけを上げて黒潮に鋭い視線を向けると、彼女はぽつりぽつりと喋り出した。

 

「一次攻撃の後うちが…うちが間違って艦隊進路から外れてしもたせいで、皆の艦隊機動が乱れて装甲空母鬼に追いつかれましてん……それで赤城姐さんが時間を稼ぐため、囮に……」

 

 黒潮は言うなりその場でしゃがみこみ、自分の連装砲を抱えて声も無く泣き始めた。

 

「艦隊旗艦なのに、夜戦じゃ空母は役に立たねぇから、って強引にな」

 

 あたしが付いていながらよ、クソが!! と行き場の無い怒りを露わにする高雄型重巡3番艦『摩耶』。鳥海と同じ服装髪型だが、妹と違って男らしいとも言える勇壮さに溢れた彼女は、紺碧色の瞳に悔しさを滲ませながら吐き捨てた。

 

「撤退には失敗したものの、おかげで残存戦力は攻撃に専念することができました。夜戦に入ってから3度の反復雷撃を行い、装甲空母鬼も含め敵戦力の殲滅には成功……したのですが……」

 

 姉に続いて戦績を報告する鳥海だが、そこから先は南雲の事を慮ってか、彼女は口を噤む。

 

 それは、赤城の自己犠牲によって得られた勝利。

 

「……俺が望んだからなのか、赤城……俺が……俺が無理な出撃を命令しなければ……」

 

「提督のせいじゃありません」

 

 目を閉じ顔を歪め自分を責める南雲の耳元で、幽かな声が囁いた。

 

「赤城―――」

 

「ふふ、雷撃処分してくれてもよかったんですけど……また提督のご飯、食べたくて帰ってきちゃいました」

 

 薄く目を開けながら、冗談めかして笑う赤城。だがその声は、いまにも消えてしまいそうなくらい弱々しい。

 

「馬鹿言うな!! 沈まないと言ったのはお前の方だろうによ」

 

「そうでした、ね……」

 

 彼女は一度瞳を閉じ、一呼吸置いてからゆっくりと唇を動かし始めた。

 

「提督……私の慢心が原因で、お預かりした艦隊に手痛い損害を出してしまいました。申し訳ありません」

 

「他の艦娘の事なら気にするな。お前は艦隊旗艦として立派に役目を果たしたし、その上仲間も守り切った。大体資源が足りないことを言い訳にして、お前以外の空母を建造しようとしなかった、攻められるべきは俺の……」

 

 そこまで言って南雲ははた、と気が付いた。

 

 何故自分は空母を建造しなかったのか。

 

 資源に、特にボーキサイトに余裕が無かったのが理由だが、その原因を作ったのは……。

 

「お前……まさか俺に空母を作らせないため、わざと資源を……」

 

 確信が持てず半信半疑で尋ねる。

 

 担架の上の赤城は困ったように少し眉の端を下げて頷いた。

 

「どうしてそんな勝手なことをした!? せめてもう一隻空母が、そうでなくても防空可能な艦娘が揃っていれば、お前を危険に曝さずに済んだのに!!」

 

「それが慢心―――私一人で全てを果たすことができるはずだと、そう思っていたんです。結果はこの有り様ですが」

 

 自嘲するように唇の端を小さく歪める。

 

 だがお前だけのせいでは、と言いかけた南雲をよそに、赤城は言葉を続けた。

 

「ご存知でしたか、提督……あなたが一回艦娘建造を陳情する度に、何も知らない少女の元へ召集を知らせる赤い紙が一枚、届くんです。そして艦娘として異国の海に放り出される……我儘で独善なのは承知していますが、これ以上艦娘になる子を……私は……」

 

 突然赤城が苦痛に顔を歪めた。

 

 心電図が激しく波打ち、耳障りなアラート音が鳴り響く。担架を囲む艦娘たちに不安のさざめきが広がった。廊下の向こうから白い服を着た何人もの軍医や看護師たちがこちらに向かって来るのが見えた。

 

「赤城!?」

 

 だが彼女は自分の事は構わず、酸素マスクの下で荒く息を弾ませながらも必死で言葉を絞り出そうとする。

 

「―――提督、お願いがあります。私がいなくなったら、泊地の皆に私の分も提督のご飯、いっぱい食べさせてあげて下さいね」

 

「ふざけんな、こんな時に何言ってやがる!! いいからもう静かに―――」

 

 狼狽した南雲は赤城を押し留めようとする。彼の耳元では相変わらず鋭いアラーム音が鼓膜を突き刺し続けている。

 

 だが赤城は制止などものともせず、どこにそんな力が残っていたかと思うくらい強く南雲の手を握り返した。彼女の瞳だけが、まるで蝋燭の火が消える前に一瞬激しく燃え上がるかのように、ギラギラと異様な輝きを放っている。

 

「いいえ、聞いて下さい―――明日は海の藻屑になるかもしれない艦娘にとって、今日のご飯が最後の晩餐なんです。だからせめて―――提督、お願い―――」

 

 そう言ったきりくたりと手の力が抜け、彼女の指は南雲の掌をすり抜け硬い金属製担架の上にことり、と音を立てて落ちた。

 

「赤城!! おいしっかりしろ赤城ィィッッ!!」

 

「赤城さん!!」

 

「嫌やっ、赤城姐ぇさんっ!!」

 

 衛生兵の制止も構わず南雲は赤城の肩を激しく揺さぶった。だが生命の焔が消えた彼女の身体は、まるで糸の切れた操り人形のようにされるがまま、何の反応も示さない。

 

「提督、お退きください!!」

 

 白衣を着た衛生班主任らしき男性が南雲と赤城を引き離し、心電図を確認する。

 

「除細動が必要です!! 全員離れて!!」

 

 続いて現れた白衣の男女が艦娘たちと赤城の間に割り込み、人の壁を作った。

 

 主任はそれを確認し、心電図モニターと一緒になっている除細動器の充電スイッチを押す。

 

 電力がチャージされる警告音の後、起動スイッチが押される。

 

ドンッ!!

 

 激しい電気刺激を受け、意識の無い赤城の白い体が担架の上で跳ねる。

 

「よし戻った!! 今のうちに集中治療室に運ぶんだ!! 追加の輸血が届き次第、緊急手術を始めるぞ!!」

 

 よろしいですね提督、と確認する主任に、南雲はただ頷くしかなかった。

 

 担架で運ばれていく赤城の表情は、まるで眠り姫のように美しく安らかだった。

 

「皆、先に行って手術の準備を。提督、私から少々お話があります」

 

 主任の男は呆然自失とする南雲の腕を取り、離れた廊下の隅に誘導する。

 

「正規空母赤城のことです。提督もご覧になられた通り、彼女は今、非常に危険な状態です。敵の攻撃による全身の打撲、熱傷、裂傷に加え、生体砲弾の破片がそこかしこに喰い込んでいます。また外装だけでなく内臓にも大きなダメージを受けていることから、回復には相当時間がかかるでしょう」

 

「―――お前、言いたいことは何だ?」

 

 頭上で明滅する蛍光灯が、ジジッと嫌な音を立てた。

 

「単刀直入に申し上げます。あの空母はもう使い物になりません。たとえ命が助かっても、元のスペックは発揮できない。あれは解体、除籍処分にするべきです。もしくは陳情で高速―――」

 

「―――ッ!!」

 

 気付いた時には既に、南雲の右手は主任の襟元を締め上げ廊下の壁に押し付けていた。

 

「かはッ!! て、提督何を……」

 

 宙吊りにされた白衣の男は空気を吐き出し、自分に起きたことが理解できず眼を白黒させる。

 

「一つだけ言っておく――――俺の赤城はあいつ一人だ。手前らもプロなら死ぬ気で助けろ」

 

「ですがあの状況からの修復は……」

 

「もし!! あいつに何かあってみろ―――手前ェら全員開きにして、司令部の軒下から吊るしてやるぞ!!」

 

 南雲の喉からは、本人も驚くほど低く重い声が湧き出した。

 

「ヒッ!!」

 

「分かったら行け!! 行って、お前のやるべきことを為せ!!」

 

 縛めを解かれた男はよろめき、一度怯えた顔で振り返った後、逃げるようにしてその場を立ち去った。

 

「……くそ、何をやってるんだ俺は!!」

 

 やり場のない怒りでセメントの壁に拳を打ち付ける。何度も何度も、握りしめた指から血が滴り落ちるのも構わず。それは自分が傷つけば、その分赤城の助かる可能性が上がる、という願掛けにも似た無意識の行為だった。

 

「やめろ提督!! あんたまで壊れちまったら、あたしたちどうすりゃいいんだよ!!」

 

 後ろから羽交い絞めにされ、無理矢理壁から引き離される。

 

「摩耶……」

 

「あんたにもまだ、やれることがあんだろ!! 自分だけ怪我して逃げようってんなら、ぶっ殺すぞお前!!」

 

 ほとんど彼女に抱きしめられるような形になった南雲は、ゆっくりと腕を下ろした。

 

 自分の手を見る。血塗れになった拳は、何故か全く痛みを感じなかった。

 

「提督、帰投中に赤城さんから彼女が独自に備蓄した資材のリストをいただきました。これまでの遠征結果と照合しましたが、計算上でも合致しています。現在保有する資材の約3割に相当する量が、手つかずでそのまま倉庫に仕舞われている様子です」

 

 姉の後ろから報告する鳥海。

 

「そうか……ありがとう鳥海。すまん摩耶、もう大丈夫だ。」

 

「お、おぅ……」

 

 摩耶が自分から手を離すと、南雲は自分の服を整えぱんぱんと埃を払い、艦娘たちに向き直った。

 

 幾つもの少女たちの瞳が、不安そうに彼を見つめている。

 

 ……こんな場面が前にもあったっけ、と南雲は妙に冷静になった頭で思い出していた。

 

 その時は赤城が傍にいて、背中をぽんと押してくれたな。

 

「分かってるさ、赤城よ。俺は俺でやってみる。だからお前も、な」

 

『はい、提督!!』

 

 ふと、そんな彼女の声が聞こえた様な気がした。

 

「皆聞いてくれ。今回、泊地全員の働きでE領域発生を未然に防ぐことができたのは、帝国にとっても人類全体にとっても非常に大きな戦果だ。だが俺と秘書艦の赤城との間で意志の疎通が取れていなかったことからこのような事態を招いてしまったのは、謝罪のしようがない」

 

 本当にすまん、と頭を下げる。

 

「その上で皆に頼みがある。泊地唯一の空母である赤城が欠けた今、航空戦力の補充は急務だろう……だが俺は、もうこれ以上艦娘建造を行わない!!」

 

 俯いたままそう宣言すると、南雲の周りでどよめきが起こった。

 

 当然だ。空母も航巡もいない状態では、索敵が重巡と軽巡に搭載した水上偵察機にしか頼れない。

 

 それはつまり航空爆撃による先制ができないばかりか、場合によっては偵察もままならず、不利な状況での戦いを強いられることになる。

 

「これは俺と赤城の独善であり傲慢だ。今後泊地を去りたいものは自由に申し出てくれて構わない。転属でも除隊でも、望む通りの対応をしよう。しかし……」

 

 勇気を出してその先の言葉を続ける。

 

「もし、それでも俺たちに力を貸してくれるのなら……頼む!! 知っての通り、俺は飯を作ることくらいしかできない無能な男だ。なのに今この瞬間も、懲りもせずとんでもなく阿呆なことを抜かしている……」

 

 緊張のせいでそう思えるのか、艦娘たちの声は聞こえない。

 

「だがそれでも!! 俺はあいつの、赤城の気持ちを汲んでやりたい!! 会ったことも無い誰かのために全部一人で背負い込もうとした、馬鹿で優しいあいつの気持ちを!!」

 

 最後の方は知らず絶叫になっていた。

 

 そのまま頭を下げた姿勢で動きを止める。艦娘たちからの裁決を待つかのように。

 

 ……短い時間だが南雲には、それが永遠にも思えた。

 

「司令官さん、顔を上げて下さい」

 

 やがて鳥海が彼に促す。

 

 南雲は恐る恐る頭をもたげて艦娘たちの方を見た。

 

 彼女たちはその場から全く動いていない。去ったものは誰もいない。

 

 ―――いや、それだけではなかった。

 

「お前たち……」

 

 鳥海を始めとして摩耶、長良、村雨、そして涙を拭った跡も赤いままの黒潮や他の艦娘たちも皆、直立不動で南雲に対して敬礼をしていた。

 

 感謝の気持ちが胸一杯に満ち溢れた彼は礼を言おうとしたが、思い直して無言の敬礼を少女たちに返す。

 

 そのまま時間がゆるやかに過ぎていく。

 

 ―――彼らの間に、もはや言葉は要らなかった。

 

 

 

 

 

 その後のブルネイ泊地の働きは、戦力充実を敢えて放棄したことにより海域攻略の中心となることは少なかったものの、泊地が一体になったかのような堅実で危なげの無い戦い方は、軍令部からも高く評価されている。

 

 中でも特務提督の南雲は艦娘たちの話に耳を傾け、その持てる能力を十二分に、そして安全に発揮できるよう適材適所に配し能く運用した。

 

 また彼は自分の持つ料理スキルを最大限に生かし、泊地での食事をただの栄養補給でなく士気の維持とコミュニケーションツールとして有効利用する。自身もそうだが、時には『料理を教えて欲しい』という艦娘と共に厨房に立つこともあったという。

 

 そして傷ついた赤城型航空母艦1番艦・赤城は手術を乗り越え一命を取り留めた。

 

 全治3か月。

 

 一時は艦娘復帰は絶望的と言われていたものの、彼女は諦めずに厳しいリハビリを敢行。本人の頑張りと泊地の仲間たちの支えにより、退院2か月後には泊地周辺海域の警備任務に就ける程度には回復することができた。

 

 以降、正規空母赤城は秘書艦として南雲提督に寄り添い、艦娘として3年の兵役期間が満了するまでこれを勤め上げる。

 

 ほぼ同時期に南雲提督も、実家の日本料亭を継ぐべく海軍を除隊。皆に惜しまれながらもブルネイ泊地を離れ、郷里の山形に帰っていった。

 

 艦娘としての役目を終えた者の行方は、誰も知らない。軍務の間の記憶を失い、代りの名前と新しい生活を与えられるとか、死ぬまで軍の監視が付くといった話もあるが、それも噂の域を出ない与太話。

 

 だが何にしても南雲と赤城の道はこうして別たれ、その後二度と交わることは無い―――はずだった。

 

 

 

 

 

 

『大将、もう勘弁して下せぇ!! また女将さんが座敷に出すお膳、つまみ食いしてやした!!』

 

『くぉんルァァァ赤城ィィィィ!! 手前ぇ大型艦の宿痾だの何だの言っときながら、結局元から食い意地張ってるだけじゃねぇかッ!!』

 

『―――赤城? いえ、知らない名前ですね……』

 

 赤い舌先がぺろり、と自分の頬っぺたに付いた栗きんとんの欠片を舐め取る。

 

『でも、この味は覚えています。これは私の大切な人が、私を想って作ってくれた味ですから』

 

『おま、こんな時に―――ていうか昨日もあんだけ喰い散らかしといて、まだ喰い足りねぇってか!!』

 

 かつて赤城と呼ばれていた長い黒髪が印象的な女性は、あの日と同じ満面の笑顔で答えた。

 

『量なんて関係ありません。私は、私の好きな人の料理を、ずっと食べていたいだけなんです、ずぅっと……』

 

そんな変わらない騒がしい日々まで―――4年7ヶ月と23日。


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