前回書ききれなかった甘い話です。直接的な表現を使わずに、甘さを出そうと思えば曖昧でわかりにくく、直接的に書けばなんか稚拙に思えてしまう今日この頃。脳内補完よろしくお願いします。
感想、誤字脱字報告ありがとうございます。これから、前回のお返事返していきます。
料亭は小さいながら旅館も兼ねており、達也たちはそのまま宿泊してから東京に戻ることになった。
翌朝から仕事のある悠やその両親は京都に戻ることとなり、真夜も若い人たちだけの方が楽しいだろうと葉山を連れて四葉家へと戻っていった。
これから先、旅行らしい旅行もしにくくなるだろうからという真夜からのプレゼントらしいのだが、間違いが起きないとは分かっていながらも達也としては素直に喜べないものだった。後日、真夜から根掘り葉掘り聞かれることは覚悟しておいた方が良いのだろう。
達也は用意された部屋に誰もいないことを確かめてから戸を開ける。玄関からその先の襖を開けるとその場で敷居をまたぐことなく、思わず足を止めた。
室内の内装は高級感がありながらもどこか落ち着く、昔ながらの和室ではあるのだが、そこには布団が一組だけ敷かれていた。ただし枕は二つある。
布団も明らかに一人で寝るには大きすぎるサイズであり、部屋も薄暗く、行灯の光だけが室内を照らしている。
完璧に用意されている状況に達也は思わず頭を抱えそうになる。
「達也?」
背後から雅の声がして振り向いた。
廊下から続く戸を開けたところで、達也がいることに驚きと困惑を浮かべている。
この料亭には小さいながらも温泉があり、雅と深雪はそれを堪能していた。風呂上りで肌は上気しており、長い黒髪もまるで絹のように艶やかに整えられ、ゆるく簪でまとめられている。
旅館備え付けの浴衣にも関わらず、雅が身につけているとまるで彼女のために用意されたかのようだった。結い上げられた首元から少し緩めに合わせられた胸元の白い肌が、薄暗い室内ではやけに目についた。
「私、部屋間違えた?」
雅がいる位置からも布団の敷かれている室内が見えたのか、目を瞬かせていた。
「―――おそらく、叔母上の采配だろう」
雅もこの部屋だと伝えられたという事は、意図的に同じ部屋になるように部屋割りされたのだろう。
深雪は既に部屋に向かっており、どうやら達也たちの部屋とは随分と離れた位置に案内されているらしい。深雪ならば離れていてもおおよその位置は精霊の眼を使わなくとも達也には把握できるため、雅にも悟られることは無かった。
「一応弁明させてもらうが、俺が入った時には既にこうなっていた」
「達也が冗談でこんなことはしないと分かっているけど………」
新婚旅行みたい、という雅の小さな呟きは達也の耳にも届いた。
「そうだな。もう少し先の話だったな」
達也がそう返答することは意外だったのか、自分から言い出したことなのに雅は頬を染め上げた。単に風呂上がりだから、というわけではないことは達也にも分かっていた。
「ひとまず、立ったままもおかしいだろう」
雅は昨日の夜遅くに京都に戻り、今日も朝早くから準備に追われていたはずだ。あまり休めてはいないだろうから、早めに休ませた方が良いだろうと達也は雅を室内に促した。
結局、雅と達也は同じ布団の中にいた。
今日も早朝から起きていたにもかかわらず、雅は中々寝付けずにいた。
室内の行灯の電源は切られ、室内は障子から差し込む月明かりで薄暗い。
都会の往来の賑わしさもなく、とても静かな夜だった。
落ち着いて寝るには良い環境であるはずなのに、それができないのは隣にいる達也の存在がどうしても気になっていたからだ。
達也と雅がもっと幼いころは、同じ布団で寝せられていたこともあった。
しかし、小学校にも上がるような年齢になると布団も部屋も分けられるようになり、雅が司波家で滞在していたときも同じ布団で寝起きしていたことはない。
僅かに聞こえる自分以外の呼吸音と、布団の温かさ。隣に誰かがいるという状況に体は疲れているはずなのに、やけに目は冴えてしまっていた。
雅が何度目かになる寝返りをしたところで、横にいた達也がゆっくりと目を開けた。
「ごめんなさい。起こした?」
「いや、柄にもなく俺も緊張しているようだ」
申し訳なさげに謝る雅に達也は笑みを零した。
実はこの状況、全くどうにもならなかったわけではない。
仲居を呼び、もう一組布団を用意してもらうという方法も取れただろう。だが、期待と不安と緊張を織り交ぜた雅の瞳に達也はこのままでいいのではないか、とつい魔が差してしまった。
雅も冷静になればそのくらいは考え付いただろうが、表面上は落ち着いて見せても、内心混乱でそんな余裕は全くなかったのだろう。
室内の物は念のため一通り確認したが、薄いゴム製品の入った小箱だけは全力で見なかったことにして、雅の目に入らないように隅の方へと押しやってある。
雅に対して達也がそういうことをできないことは真夜も知っているにも関わらず、こういった物が置いてあるのはこれも配慮という名前の達也に対する嫌がらせのように思えてきた。
そういうこともあり、達也もなんとなく落ち着かず、完全に眠りに入るという状態にはならなかった。
「嘘」
そんな達也の心情を知らない雅は冗談だと思ったようで、呆れ顔で笑う。
信頼されていると喜ぶべきなのだろうが、あまりに無防備なのは達也としては面白くない。
「そんなことない」
達也は布団の中で雅の手を取ると、手首に温かく柔らかい唇を落とす。
「自制しているだけだ」
暗闇の中で確かに視線が交わり、雅は射すくめられた。
握られている手が熱く、ふと気付くとかなり近い距離に達也がおり、雅は思わず布団の中で後ずさりをするが、達也は逃げる雅の腰にそっと手を回す。
鼓動まで聞こえてきそうなほど距離を縮めると、雅が緊張と驚きに小さく体を震わす。薄い浴衣越しに伝わる体温に、雅の頭は沸騰しそうになっていた。
「達也、あのっ」
「大丈夫、何もしない」
この状況でそのセリフ自体はなんとも安心できないフラグが立ちそうなものだが、あまりにも穏やかな声で達也がそう言うものだから、雅は僅かな戸惑いを見せたのち、体の力を抜いて達也に
達也はするりと雅の背に流れる黒髪に指を通す。
「―――喜ぶべきなのだろうな」
ぽつりと達也はそう呟いた。
「深雪があの家から解放され、少なからず思っていた相手との結婚が叶う。兄としては祝福して送り出すべきなのだろうが、同時に雅には重いものを背負わせることになる」
達也としては、自分が次期当主の跡目争いに巻き込まれることは全く予想していなかった。
四葉家では使用人を中心に、深雪が次期当主として筆頭と目されており、口にはしなくても他の候補者も本心で深雪に勝てると思いあがるような愚かな者はいなかった。
深雪を支える立場として今後も達也はしばらく四葉家に使われることは分かっていたが、いずれはその支配から逃れる算段を付けていた矢先に次期当主候補としての指名を受けた。
しかも対外的に自分が四葉家当主候補であると示すという事は、四葉家次期当主が真夜の口から明言されていなくても、真夜が達也を当主に据えたがっているということは目に見えている。雅との婚約も合わさってその真実味は増すだろう。
「次期当主候補の方は悠さんと叔母上に丸め込まれたようだ。内心はどうあれ、少なからず自分が当主の座から外れることに文句はないが、分家の現当主はそもそも俺を認めてはいない」
戦略級魔法を抜きにしても、どれだけ見積もっても魔法師として優秀と言い難い達也自身が候補に挙がる事すら分家はまだ認めていない。
例え一方的な罪悪感から達也を四葉家で管理しつつその中枢からは遠ざけようとしても、当主である真夜が達也の存在を公にするとなれば、分家が達也以外に手を出してくる可能性は無視できなかった。
「雅にも害が及ぶかもしれない」
「私が弱くはないって知っているでしょう」
雅は絡められた手を強く握る。
達也の隣に立つことを望んだその時に覚悟は決めていた。
例え深雪がいたとしても、孤独で困難な道を彼一人で歩ませることは雅にはできなかった。
哀れみではない。
同情でもない。
彼の手を取り、同じ方向を見据えて、この先を生きていくと決めたのは雅自身だ。
そのために必要なことは雅自身、身に着けてきたつもりだ。
達也を操るための傀儡に成り下がるつもりは毛頭ない。
迷いのない雅の言葉に、達也は腕に力を籠める。
「―――例えそうであったとしても、手放すことができない俺を許してくれ」
今の達也と共にあることが、決して雅にとって安寧と幸福を得られると断言できるわけではない。むしろ困難に直面する機会の方が多いかもしれない。
だが、例えそうだとしても、自分以外の他人が雅の手を取り、微笑み、それ以上の何かを許される関係になることにひどく嫌悪感を覚える。
雅の幸せを主軸にしない、なんともエゴイスティックな考えに達也自身呆れもするが、それでも考えは変わらない。
そして傷一つ付けさせるつもりもなければ、鳥籠に押し込み枷をつけさせることを許すつもりもない。
「俺には深雪だけいればよかったはずだったんだがな」
弱弱しくも嬉しさが滲む達也の言葉に、雅は一瞬息を忘れる。
「ねえ、それって……」
じわりと雅の目元が熱くなる。
人の心は良くも悪くも変わるものだ。
達也には深雪だけいればいいと思うように魔法がかけられている。
深雪以外は大切に思えないよう、強い情動を司る部分を縛られている。
雅のことは大切だと思いたいと思ってくれるだけで、それだけで雅は報われていた。
しかし、その魔法も解けかけてきている可能性があると達也から聞いてはいた。
雅が確かめるように達也の顔を見つめると、緩く微笑む瞳と交じり合う。雅の目からあふれる涙を達也は拭うと、夢ではないと示すように吐息を重ねた。
1月14日 月曜日
達也と深雪の存在が四葉家から公表され、さらに九重家との婚約も正式発表される今日。
学校のある時間を考慮して、魔法協会には15時に知らせが届くように設定されており、少なくとも今日一日の学校生活は平和に送れていた。
この安穏とした生活が畏怖と奇異の目に晒されるようになるかと思うと深雪の気分は憂鬱だった。
「心配?」
「ええ、少し」
知らず知らず幾度目かになる深雪のため息に、帰宅中のキャビネットの中で心配そうに雅が問いかけた。
「深雪が恥じるようなことは何もないでしょう」
「いえ、ですが私はお姉様まであの家のせいで中傷を受けることにならないか心配なのです」
深雪自身、いずれ公表される日が来ることは理解していた。
それはまだ仕方のないことだと割り切れる。世間からなんと思われようと、間違いなく深雪は四葉家の人間であり、どうあったとしてもその事実は変えようがない。
しかし、心配なのは深雪たちのせいで雅までもが避けられてしまうことだ。
「リーナが言っていたでしょう。『才能も、容姿の美しさも、家柄も、それらはすべて贈り物であり、それらを誇ることは決して美しいことではない。卑しくそれらに媚びる者たちを貴方は友としてはいけない。どんな絶望の底に落ちたとしても、背筋を伸ばして前を見て歩めば自然と貴方は真の友を得ることができるでしょう』って。
これで離れるようなら友達から、友達だった人に変わるだけよ。それに私の、雫やエリカたちと友人でいたいという気持ちに変わりがなければ、あとは向こうが結果を示してくれるわ」
雅はそう答えながら、優しく深雪の背を撫でる。
魔法協会を通じての公表は、二十八家と百家の名門どころに絞られているとはいえ、一高全体に広まることも時間の問題だ。
近しい友人にも語ってはいない深雪と達也の出自に、昨日と何も変わることなく今まで通り接してくれるという甘い考えを抱いていない。
達也としては、雅の言うとおり離れてしまうならそれまでの関係と割り切ることはできるし、無駄な感傷もおそらく抱かないだろう。
むしろ友人たちに避けられることで、深雪や雅が心を痛めることの方が懸念すべきことだった。
「でも信じてはいるけれど、私も少しだけ不安よ」
深雪の手前、大丈夫だと言って見せても雅も不安が全くないわけではない。二人に近い雅も根掘り葉掘り聞かれるか、遠巻きに見られることは覚悟している。
部活連会頭という立場上、生徒間で話し合うことも多いのでそれに支障がなければいいと頭では言い聞かせても、深雪や達也がそのような奇異の目で見られ、雅を見る目もまた一変するかもしれない状況を心に細波を立てず受け入れることは到底できそうもない。
「距離を置かれたら寂しいし、辛くなると思う。だからもし教室や生徒会室の居心地が悪いなら、お昼は別のところで一緒に食べましょう。先輩から穴場は聞いているから」
いつものように食堂に集まって皆で昼食を食べるという事も出来なくなるだろう。それがしばらくのことになるのか、これからずっとのことなのか、友人たちの振舞い方次第だ。
だから雅も深雪も待つしかないのだ。
自宅に一度戻り、私服に着替えると司波家所有のロボットカーで九重寺へと向かう。今日の訪問は事前に伝えていたので、高弟に案内されると、八雲は既に茶の用意をして待っていた。
「改めて婚約おめでとう」
「ありがとうございます、師匠」
八雲は点てた抹茶を三人の前に順に置いた。
正式な茶会ではないため、三人とも平服であり、また簡単な菓子と茶だが、この形式をとっている以上もてなしているという八雲の姿勢が伺える。
「達也くんと雅くんについては、前々から知っていたとはいえ、深雪くんと悠くんとの婚約は流石の僕も驚いたよ」
「伯父上の御耳に入らなかったとなれば、兄もしてやったりといったところでしょうか」
情報通の八雲の耳にも悠と深雪の縁談については入っていなかったようで、婚約に関する情報についてはかなり制限されていたことが伺える。
雅は家族の中では比較的遅くに知らされたが、本人から口に出されるまで相手が深雪であるとは予想もしていなかった。
「まあ、それはまた本人にも問い詰めるところさ。深雪くんに馴れ初めを聞いても面白そうなところではあるけれどね」
「師匠」
舌なめずりに鋭い眼光、口にはいやらしい笑みを浮かべた八雲に思わず深雪の笑みが引きつるのを見て、達也はそれが冗談と分かりつつも釘を刺した。
「おっと、失礼」
飄々と頭を叩いて見せるが、悪びれてはいない。
2杯目を点てながら、八雲は話を進めた。
「僕の知る限り、かなりの速度で君たちのことは広まっているよ」
「そうなのですか」
深雪が小さく驚きとともに問い返した。
「そりゃあの謎多き四葉の情報、それも次期当主候補とその妹、さらにその婚約者がそれぞれ名門九重神宮の直系となれば騒ぎにならない方が不思議じゃないかい。このタイミングでの発表に注目は集まって然るべきだろう」
今日、魔法協会を通じて、二十八家と主だった百家には次期当主候補である達也の存在とその妹の深雪、さらに九重家との連名で二組の婚約も発表された。
八雲は雅の母であり八雲の妹である桐子から今朝、この事実を聞かされたばかりではあるが、事情が事情なだけにそれからすぐ各所の出方を注視していたのだ。
方法やルートについては秘密だと言われたが、確かな情報であることは間違いないのだろう。
「雅くんはこの後あいさつ回りかい?」
「太刀川と佐鳥の家にも挨拶をしに行く予定です」
太刀川も佐鳥も四楓院家に関わる家の名前で九重家から今日のところで正式に雅と悠、それぞれの婚約について知らせは行っているが、雅は九重神楽の稽古でも普段世話になっているため、今日のところで報告に行くことにしている。
「達也くんも同席するのかい?」
「いえ。深雪を一度自宅に送った後、風間少佐に報告を」
魔法協会を経由している以上、軍の方もなんらかの形で九重家と四葉家の発表は入手しているだろうが、それはそれとして達也は報告に行くべきだと考えていた。
達也は四葉家次期当主候補として、表立って軍には協力はできないが、四葉家と独立魔装大隊との利害が一致する限り、協力関係は続けることになっている。
逆に言えば、隊の編成などが行なわれ、首脳陣が入れ替わり、信用が置けない場合は軍から手を引くことも考えてはいるが、横浜事変をはじめ独立魔装大隊の功績が認められたとして、1月に風間をはじめ多くの士官が昇任しているため、しばらくは部隊構造に大きな変化はないと風間から聞いている。
それと共に、国際情勢の不安定化に伴い、東アジア地域のどこかで中規模の軍事衝突が起こる可能性が高いという分析がなされていることも聞いていたため、連絡は密にしておく方がよいと達也は考えていた。
「そうかい。なら雅くんの方は僕が付いていこう。あちらには久しく出向いていないからね」
「師匠が?」
「この婚約に反対の声もいくつか既に上がっているからね。目に見える形で警戒していることは分からせるべきだということだよ。他人がどうこう言う権利はないけれど、それでも四葉や京都の九重へのパイプが欲しい連中は多いんじゃないかな」
要するに達也や深雪、もしくは雅や悠に誰か別の婚約者を当てようと目論む者がいるということだ。
雅には九島光宣や芦屋充が長年思いを寄せていたことは達也の知る所でもあり、四葉という名前に深雪や達也にも他の十師族からも婚約の申し出があるとも限らない。
「いきなり無体を働くような所はないと言いたいけれど、魔法師自体に今は不満が燻ぶっている状況だ。師族会議もあるから気を引き締めておきなさい」
「分かりました」
「それから達也くん。明日から少し厳しく鍛えてあげるから、そのつもりで」
達也は目を見張った。八雲は今回の一件は気にせず、達也が四葉家との関係が公になったとしてもこれまで通りの関係を続けるという事だ。
姪である雅が四葉に縁付くとなれば八雲も無関係とはいかないが、それでも今までと変わらない対応をするという八雲に、達也は僅かばかりの安堵を覚え、深雪は瞳を涙で潤ませていた。
1月14日 月曜日 午後22時
「ほのか、遅くにごめんね」
「平気、平気。それよりどうしたの?」
ほのかは北山家の雫の部屋にいた。
幼馴染である雫の家には幼いころからよく泊まりに来てはいるが、夕食も終わった時間に泊まりに来るようにと言われたことは初めてだった。
論文コンペ前のように何か危険でも迫っているのかと心配したが、そうではないが、重大な話があるという事で北山家の迎えの車に乗ることになった。
雫も夕食を終えていたので、二人で広いお風呂に入ると、あとはもう寝るだけの態勢になっていた。
重要な話があると聞いていたのに、あまりに緊張感のないいつも通りのお泊りに、ほのかは当初の目的を忘れそうになっていた。
「今日、四葉家から魔法協会を通じて主要な
「四葉家から?」
雫の口から出た名前を思わず聞き返した。
ほのかの父は有力な数字付きの部下であり、そもそもあまり会話はないのだが、幼いころに興味本位に十師族、それも四葉家のことを聞いた時の父の顔は、今もほのかの脳裏に焼き付いている。あれほどまで何かに恐れている父を見たことがなかった。絶望の底を覗き込み、狂気に触れたかのように『その話は止めろ!』と叫んだ父の声は、今まで聞いたことのないものだった。
だからほのかはその名前が雫の口から出てきたことに驚きを隠せなかった。
「そう。達也さんと深雪、四葉家当主の甥と姪なんだって」
「深雪と達也さんが!!??」
ほのかは大きなショックを受けていた。
ベットサイドに座り込み、目の焦点も定まっていない。
「そっか………。びっくりした。でも二人の才能も実力も四葉家なら納得かな」
だが、ほのかが放心していたのはそれほど長い時間ではなかった。
目の焦点も定まっており、どこかすっきりとした顔で雫との会話も問題ないように見える。
だが、ほのかに対し、もう一つ告げなければならないことがあった。
雫にはとても気の重い話ではあったが、ここで聞かなくてもどこかでほのかの耳には入るはずだ。だからこそ、余計に雫が話さなければならないことでもあると思っていた。
ほのかを泣かせるかもしれない。否、きっと泣くことが分かっているから気分が重く、尚且つ雫は自分が口下手であることを自覚しているので、どのように話すべきか言葉選びに時間がかかっていた。
「通知はもう一つあって、これは四葉家と九重家の連名なの」
「九重って雅の家?」
ほのかの口元は強張っていた。不安げに揺れる瞳が、雫からの言葉を待ちながらも、雫から発せられる言葉を恐れていた。
「達也さんは四葉家次期当主候補の一人で、雅と婚約。深雪は雅のお兄さんで、九重家次期当主と婚約が正式に決まったって」
「そんなっ」
ほのかは絶句した。
「現状、達也さんは当主候補だから次期当主に確定したわけじゃない。けど、雅が嫁ぐならほぼ当主として四葉家の意向は固められていると思う」
「四葉家当主に達也さんが?雅はそのために婚約?」
「どうして婚約が決まったかそこまでは分からない。けど、二人とも生まれる前からの婚約だって言っていたから、少なくとも雅は達也さんと深雪が四葉だって知っていたと思う」
雅と達也の婚約、それと深雪と雅の兄の婚約は法律上なにも問題はない。
珍しい事ではあるが、兄妹間や親族間のように忌避されるような血族の近さもなく、姻族間の結婚であるため、倫理上の不都合はない。
未成年であるため、まだ結婚までの時期はあるとしても、魔法師自体結婚時期は一般的な同世代と比べて早く、次世代を早く求められる傾向にある。
国力に直結する魔法師に関しては権力闘争の関係上、親同士が決めた結婚、高校生で婚約というのもまた決して珍しいことではない。
表の世界にも名が知られている神道系古式魔法の大家である九重家と十師族の中で情報があまりない中でも、頭一つ他の家を抜いていると言われる四葉家。この二つの家が結婚によって繋がりが強化されるとなり、さらに力をつけることは目に見えていた。
通知を受けた四葉家を除く二十七の家と百家のいくつかから、発信された情報は瞬く間に魔法師の間に広がっていた。
だが、そんなことよりも雫にとっては親友が抱える問題の方が大きなことだった。
「ほのかは、達也さんのことが好き?」
「好きだよ」
ほのかは即答した。
「婚約者が、……達也さんには雅がいるっていうのはずっと分かっている。何度も諦めようと思ったの。いけない恋だって。でも、私、達也さんを忘れることなんて……」
ほのかは堰を切ったように涙をこぼし、嗚咽を漏らした。
何度も諦めようとは思いながらも、それでも達也を目にするたびに高鳴る心臓に嘘は付けなかった。
雅の存在に何度も心を痛めても、何度優しい視線が雅だけを見つめていても、いつかその視線が自分だけに向けられることをほのかは夢見てきた。
1年生の夏までは、本人の口から婚約を聞くまで、二人が恋人であることは微塵も気が付かなかった。
だが、今は違う。
ベタベタと接触が多いわけではなく、歯の浮くようなセリフが飛び交うわけでもないが、二人は相思相愛であることは間違えようのないことだった。深雪にも見せていない、ふとした瞬間、達也が雅の前だけで見せる笑みを、ほのかは胸が締め付けられる思いで見てきた。
「ほのかがどれだけ達也さんを好きか、私は見てきたよ」
「雫……?」
諦めきれないと泣くほのかを諭すのではなく、非難するわけでもなく、雫は淡々とこの先を提示した。
「ほのかが諦められないって言うのなら、折り合いが付けられるまでアタックするのも一つの方法。でも、達也さんを諦める。これが一番ほのかが傷つかない方法」
三番目の方法として、ほのかが達也の愛人になるという方法もある。
だが、雫はこの考えをほのかに告げなかった。
できるだけ達也の特異的な魔法を引き継がせる子どもが欲しいと四葉も考えるはずだ。
そうなると雅以外の女性にも子どもを設けさせる方が手段としては早い。
だが、仮にほのかが選ばれたとしてもほのか自身は単に子を産むだけの存在で、雅という正妻がいるのであれば、ほのかと達也の間に子どもができたとしても雅と達也の子として育てられるだろう。
仮に四葉の欲するような子が産まれず、ほのかが母として名乗ることができたとしても、その子は達也の子として認知はされないだろう。
達也が認知しないというよりは、次期当主の子ではないという四葉の決定がなされるということだ。
どう転んだとしても、そこにほのかの幸せがあるとは考えられなかった。
「ほのかはどうしたい?」
「私は…………」
「まだ、達也さんのことを今はまだ諦められない」
自分の婚約者に他の女子が思いを寄せているなんて雅も気分がいい話ではない。今までだってどれだけ平気な顔をして、知らないうちに傷つけてきたことも多くあるのだと思う。
それでも雅とも友人でありたいとほのかは我儘に願った。ライバルとして、その前に立つ権利が欲しかった。
「きっと雅を傷つける。けど、達也さんに一番に愛されないのは嫌。可能性がゼロになるまで、何度でもアタックするよ。……たぶん、すぐには無理だけど」
「じゃあちょっとお休みしよう」
「恋愛に?」
「恋心に」
珍しく気障な雫の言葉にほのかは小さく噴き出した。
雫はほのかから離れて恥ずかし気にベットの隅に座り直した。
オマケというか、定番朝チュン
達也は明け方、はだけた雅ちゃんの浴衣の胸元に目が向いてしまい、その後目を閉じて必死に素数を数えていればいいと思うの。