牢獄の暗殺者   作:琥珀兎

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第九話:成果なき焦燥

 不蝕金鎖と防疫局――通称羽狩りとの共同捜査から二日、双方が歯痒い事に目覚しい進展は見られなかった。

 両組織間での緊急連絡用として呼び笛が支給され、きたる災厄にも等しい犯人を待ち構え牢獄内を巡回していたが、結果は空振り。足取りを追うどころか、みすみす新たな死体を生み出してしまう始末。見えない敵の姿に焦燥と義憤が混在しながら、羽狩りの隊長たるフィオネ・シルヴァリアは固く拳を握りしめ己を罰しながら、無惨に四肢と頭部を切り離された羽つきの骸を見下ろしていた。

 防疫局という牢獄では誹りの対象になる組織で隊長として責務を持って席を置く彼女は、この何かと恨みをかう仕事にウンザリしたりせず、寧ろ人々を救う為と理想を掲げ誇りを持っていた。羽化病という王立医師が伝染する流行病だと発表したこの病を、少しでも救いたいという一心で彼女はこれまで毅然としあらゆる侮蔑を甘んじて受け入れて来た。

 少しでも胸を痛める事がないのかと、そう問われたら彼女は確実に――否と断ずる。

 不正を是としないフィオネの性分は、羽狩りの仕事によって振るわれる暴力がどうにか根絶できまいかと日々頭を悩ませている。伝染病の伝播を防ぐためにそろえられた隊員の殆どが、死の危険性を帯びているが故、自ずと集まる人種というのもある程度偏ってしまう。彼女の求める理想と現状は遠く隔たりがあり、その胸を焦りと悔恨が締め付ける毎日なのだ。

 なにも一人一人の人格を強制させようという腹積もりなわけではない。彼女とて彼ら隊員の捜査や保護の際に時折おこる暴力沙汰には思う所もあるが、何も羽狩り側が進んでやっている者だけではないのだ。彼らに奪われまいと抵抗する牢獄民の過度な防衛行動が、その引き金を引くときもある。

 毎日が生きるか死ぬかの生活をしている牢獄民にとって、その程度――腕の一本や二本奪うことさえなんとも思わない者だっている。運悪く被害を被った者は、当然頭に血が上る。そうしてこの不揃いな軋轢は生まれてしまうのだ。

 羽つきと言えど大切な人を奪われたくない牢獄民と、たとえ縁深き者であろうと保護する行為が、延いては牢獄のみに留まらずノーヴァス・アイテル全土を救う仕事だと信ずる羽狩り。両者の間に介在する主張は擦り合うことなく、いつまでたっても平行線だ。

 どうにかしてこの連鎖を断ち切れないかと思索し、フィオネは隊員たちに過度な暴力を一般牢獄民に行使するのを諌める側に回った。打破したいのなら、まずこちら側から変わらなくてはならないと考えたから。

 そうすればいつの日か、この仕事に理解を示してくれる日がくるかもしれない。なんて希望的観測をしてみたりする傍ら、目の前の眼下の骸が仕事を全うできなかった失敗の証となってフィオネを苛む。

 

「すぐさま周囲の捜索と聞き込みに当たれ、指揮はラング副隊長に任せる」

「はっ、すぐに」

 

 香水の香りを振り撒きながら胸に手を当て、すぐ足元の屍に一瞥もくれず冷然と礼するラングは、部隊を整えてすぐに街路の闇にまぎれ消えて行った。現場に残ったのは死体の検査をする数名の隊員と、不蝕金鎖の代表として協力しているカイムのみ。

 

「おいフィオネ、こいつを見ろ」

「これは……黒い羽根」

 

 カイムの手が持っていたのは、ノーヴァス・アイテルに棲息するどの鳥類の羽根の大きさにも一致しない程大きな黒い羽根であった。それは即ち、この羽根が死体現場にあるということは……黒羽と呼ばれる『バケモノ』の仕業だという証左。

 今一歩この羽根の持ち主について調べがついていればあるいは――フィオネは横一文字に噤まれた口の中で奥歯を強く噛み締め、神妙な面持ちでカイムの拾った黒い羽根を受け取る。

 

「これは詰所で保管しておく。もしかしたら、何か役に立つときが来るかもしれない」

「そうしてくれ、今夜はこれで切り上げよう。もうすぐ《不蝕金鎖》が騒ぎを聞きつけて来るはずだ。死体の処理はそっちに任せろ」

「ああ、すまない。それじゃあ今夜はここで」

 

 未だこの男とは信頼ではなく、利害によっての関係でしかない。けれど今夜の事についてフィオネは堪えていた為に、この場の現場を自分達で受け持つとは反論出来なかった。なにより、彼女の脳裏に浮かび上がるアウルムという不蝕金鎖の下っ端と言っていた男の顔が彼女にそうさせた。

 暴力やそれに準ずる悪そのものを厭う硬派な彼女が嫌う男。暴力の糧によって日々を食事をし、酒を呷る生活をしている男に問いかけた質問になんの逡巡もなく、ましてや呵責などなく平然と、他者と何も変わらないと言ってのけた男。あまつさえ彼はそれをフィオネら羽狩りと同じだとのたまった。その怒りは熾烈を極め、同時に、これが彼ら牢獄民なのだと痛感した。

 だからこそ、フィオネはアウルムが来るのではと思い、調査もそぞろに切り上げる事にした。犯人への手がかりはこの手にある数本の黒い羽根のみ。

 であれば今はこの黒い羽根を調べたい。なにかヒントの一つでもあれば、黒羽に近づく手立てがあれば……

 

「……フィオネ」

 

 覇気の無い言葉で別れを告げ背を向けて歩き出すと、その背中からカイムによって呼び止められ振り返る。

 

「明日は、違う服で会えるといいな」

「そうだな、期待して待ってるといい」

 

 僅かに疲労の色に染まり微笑しそう返すと、フィオネはカイムがどんな表情をしてどんな反応を示すのかを確認もせず、詰所のある関所の方へと向かった。

 なぜ柄にもなく彼の言葉に従うような対応をしたのか、彼女自身理解出来なかった。元々、大人しく彼の言を鵜呑みするような性質ではないフィオネが、どうしていま斟酌しようとしているのか。

 カイムの顔を想像すると、どの顔も人を小馬鹿にしたようなそれでいて凍傷しそうなほど冷めた眼差しを向ける彼の顔が思い浮かぶ。

 牢獄について詳しいカイムは、フィオネの融通の利かなさに一々苦々しい顔を浮かべていた。気に入らないと、面倒な女だと、眉間に出来た皺がそう物語っていた。牢獄のルールを教えてくれる彼の提案に対して、こちらは個人的感情で拒否してきたのだ、そう思われるのも仕方ない。

 翻ってフィオネはどうだろうか。果たして彼女はカイムの事をどう思っているのか。問うまでもなく、仕事の協力者という意味合いでの利害の一致する仲間という感慨しかなかった。

 牢獄という下層より低い位置に住むカイムは、その立場を引き合いに出して彼女を下に見る。ここではお前など役立たずの小娘だと。低い位置から見下し説教するという、あべこべな態度に不満を持たない方がおかしい。事実、フィオネはカイムに対してそれほど良い印象を懐いてはいない。

 体を売って日々を生きていくなんて卑俗な娼婦を囲う娼館の用心棒で、長い事牢獄を統治してきた不蝕金鎖という組織の代表に推される男。暴力と権力の種に金という水を注いで花咲かせたような男を、どうして良く思おうか。

 ただ、彼の提言には業腹ながら頷く事が多いのも事実。それを騙る口と態度がまともなら……或いはフィオネも真っ直ぐに受け止めたやもしれない。

 

「なにを馬鹿な事を考えているんだ、私は」

「はっ? どうかしましたか隊長」

「いやなんでもない、気にしないでくれ」

 

 知らず言葉に出していた事を恥じながら、カイムから受け取った羽根の重みに意識を傾ける。

 黒い羽根の持ち主と思われる黒い羽つきの狙う標的に、一定の規則性は見られず、羽つきだろうが一般人、女だろうが男だろうが関係なく殺し回っている。唯一共通するのは、その殺人現場の酸鼻な事と、現場には黒い羽根が落ちているという事。これらの現場材料と、聞き込みからの目撃情報を照らし合わせると、やはり犯人は羽つきと考えられる。

 羽つきが犯人とわかれば、その姿は一般人よりも探すのには苦労しない筈。しかし羽つきと断ずる一方で、別の疑問が鎌首をもたげる。

 犯行が羽つきだとわかれば、今までの犯行全てがヒトの手によって形成された事になる。これまでもそれなりに死体の数を見てきたフィオネから見ても、それはヒトが作れる死体ではないと常識と理性が判断した。であるなら、この矛盾は一体何なのか。

 今夜見た死体の惨状を思い出す。フィオネら羽狩りが目星をつけて明日にでも保護に向かう筈だった羽つきの死体は、確かに凄惨であった。生きているという事を決して許さないと叱責するように荒れた現場は、まるで犯人の意思を投影したようだ。この今夜の現場が彼女に疑問をもたらす。

 ヒトでは作れない惨状を作り出す黒羽が、どうして今夜は人の手で作れそうな殺しを行ったのか。

 感情とは縁遠い血だまりをいくつも生んでおきながら、感情に駆られた印象を懐いた今夜の殺しは、フィオネの見解では怒りと殺意に任せたにも拘らず幾らか見劣る。目の当たりにしても嘔吐く事が無いのだ。この黒羽の気まぐれは一体なにを意味しているのだろうか。

“すべては詰所に戻ってからだ”

 結論は先送りにし、夜の牢獄を進むフィオネの顔には今夜の被害者を守れなかった罪悪感こそあれ、それでも凛然とした双眸でただ真っ直ぐに前だけを見つめていた。

 

 

 ※

 

 

 血臭漂う現場付近の建物の屋上に、月明かりを背負い佇む男が居た。彼はダークブラウンの長髪を束ね、革製の黒いジャケットを羽織る男は四尺余りある大太刀を背負い、眼下に広がる酸鼻な現場を冷静に見つめている。

 つい先ほどまで羽狩りが居た現場は、騒ぎを聞きつけた不蝕金鎖が駆けつけた事によって羽狩りの気配は完全に亡くなっていた。どうやら女隊長はこの場を引いたのだろうとうのが、目に見えて理解出来た。職務に忠実なる彼女が、この現場をあっけなく不蝕金鎖に受け渡すとも思えなかったが、いまは協力体制に在る為に男は然程疑問にも思わなかった。

 それより気になる疑問が、男――アウルム・アーラの眼窩にいままさに収まっているのだから。

“犯人がわからない上に理由の無い死体……いや、理由は怨恨か……”

 機械的に煙草を吸いながら思索を巡らすアウルムは、オズが率いる構成員によって処理されている死体の現場をつぶさに観察してる。現場は確かに惨酷な殺し方ではあるが、彼にはこの死体が単なる猟奇殺人と判断する事が出来なかった。

 五体を泣き別れにされた死体は夜目の効く目で見ると、明らかに刀剣類による切り口らしき断面が見られるのだ。それに死体の来ている衣服が、鋭利な刃物によって斬り裂かれた後もある。これまでの黒羽の犯行現場のような、獣の爪痕の如き乱雑さがこの現場には無い。

 殺しの専門家でもある彼からして見れば、この死体は明らかに恨み辛みを持って精製された肉片に過ぎない。よって、これは彼の仕事に含まれないと判ずる。

 アウルムがジークに依頼されたのはあくまで黒羽の、羽狩りよりも先んじての捕獲、もしくは殺害。これによって不蝕金鎖が羽狩りに対して大きな恩を押し付ける、という算段である。犯人が誰であろうと、理由が怨恨に端を発すると理解した以上、ここに彼の行うべき仕事は無い。

 血なまぐさい現場に顔をしかめるオズを尻目に身を翻し、アウルムは夜の空を駆けだした。

 

 

 黒羽の犯行がスラムに偏っていると予測を立てて二日。アウルムなりに調査を進めると、自ずと黒羽の棲家とも思える場所が、スラムの最奥、牢獄でも一等治安も衛生状況も人種も悪い吹き溜まりにある事が分かった。

 例え治安が悪かろうと、それでもスラムもまた不蝕金鎖の縄張りの一つである以上、構成員であるアウルムに従わない者は居ない。単なる下っ端であれば、或いは答えを渋ったり逆に敵意を見せてきたかもしれない。しかし誰もが、彼の背負う大太刀の存在を見て、素性が知れずとも恐ろしく危険な人物ではないかと本能的に感じ取り従う他なかった。

 糞尿や腐敗した死体から漂う空気が澱のように沈殿しているスラムに降り立ち、アウルムは目的の棲家と思わしき荒廃した民家へと足を踏み入れた。

 月の光すらまともに届かないこの場所は、屋根や壁などまるでその本来の意味を全うせず、形骸だけを残した抜け殻ともいえる有様で、所々が崩れ、ありとあらゆる汚臭に染まり穢されている。故に半壊した玄関にすら意味は無く、アウルムは扉を通らずに横に一歩ずれて崩れた壁を跨いで敷居内に侵入した。

 無人の家屋内の中の有様は人の営みがない分、外よりも汚穢に染まっている様子もないが、その分どこまでも空虚な空間に支配されている。風化したテーブルに、その足元に横たわる煤を被った蝋燭。ベッドや食器類などという贅沢な生活用品など一つも残っておらず、しかし、一点だけ明らかにヒトが住んでいた形跡が残っていた。

 いつここの家主が戻ってくるかわからない今、アウルムは呼吸を殺し気配を断ちながら黙然と、北側の崩壊を免れた頑丈そうな壁へと歩み寄る。区画を分け隔てる為に、当時まだ牢獄が下層の一部だった頃に建てられた屹然とした壁に寄り添うようにして建てられたのだろう。北側の壁がまだ残っているのも、そこを壁の一部としてコの字型に家を建てた名残ゆえ。そっと壁に触れると、ぼろぼろと細かく粉末になった壁材が落ち、足元で白い靄の埃を作り出す。頑丈な壁には、幾重にも幾多もの数繰り返しつけられた爪痕が刻まれていた。

 

「この幅の太さ……まるで獰猛な獣だ。間違いなく、ここが奴の根城」

 

 確信じみた結論を持って独りごちるアウルムではあったが、裏腹に表情には翳りが覗える。眉間に刻まれた皺が、どこまでも彼に判然としない態度と声色を孕ませるのだ。

 間違いなくここは件の犯人である黒羽の棲家であろう。しかし、ここだけに留まらないかもしれない、というのもまた同じくらいに確かな確信としてアウルムの脳裏に焼き付いている。あれほど不蝕金鎖を悩ませた敵が、こんなにもあっさり拠点を晒すとも思えない。仮にもバケモノと称されるなら、こんなにも簡単に暴かれて終わる筈がない。

 予感とも理詰めで導いた結論ではなく、これはアウルム自身の望んだ歯応えのある相手だ。ヒトの身でありながら空を飛翔し、人外の膂力を持つ姿なき羽つき。この敵であれば、よもや彼の命題にも成果が見られるかもしれない。今までとは違った相手に、図らずとも昂然としているのを感じていた。

 こんどこそ、この迷宮のような螺旋を彷徨う自分に出口が現れるのではと。足元に落ちている羽根を拾いながら、感慨深くなっていると、手に取った羽根に違和感を感じた。

“触れると崩れる。随分と劣化してるし、まるで栄養も水分も摂取出来ていない。まるで死にかけの鳥も同然だ”

 手に持った羽根は軽く握るだけであっという間に崩れた。劣化の進んだ羽根にツヤはなく、皮脂すら分泌された形跡がない。つまりこの羽根の持ち主の栄養状態から、健康状態共に危険状態であり、このまま放置すれば死の恐れもあるかもしれないという事。アウルムが直々に手を下す必要もなく、時間が経過すればいずれ死ぬ運命にあるのだ。

 理解した途端、血管に冷水を打ちこまれたように冷めていく感覚に、アウルムは自嘲の笑みを溢し不遜に鼻を鳴らせた。

 

「放っておいてもいつかその内死ぬ。それじゃあ――取り急ぎ俺の糧になってもらわなくちゃ困るな」

 

 自らが勤しんで殺す必要がないと判じかけ、冷静になった脳内でそれを叱責する声が響いた。

“どうせ死ぬ命。バケモノに身を落として、それでも生まれた意味があるのかわからぬ相手に、与えよう。その意味を”

 これまでは無理やり意味を搾り取ろうと、渇いた雑巾を絞るが如き行為に拘泥していた。でもそれでは何も成果を得られなかった。では、今回に限り手段を変えてはどうだろうかと、定期的に沸いてくる考えにアウルムは任せてみる事にした。

 普通じゃない相手を、いつも通り普通の手段で殺してはそれこそ“意味がない”。そもそも言葉が通じるのかすら予測がつかない相手なのだ、言葉で得られるものなど瑣末に過ぎない。なら実験的に、こんどはこちら側が意味を“与える”側に立とうというのが、アウルムの立てた当座の目的だった。

 理性の無い獣であれば、ただ殺すだけの獣でしかないのなら、死の下に意味を施そう。意味なき生に、意味ある死を。彼の者の死によって多く救われる命があると、犬死ではないのだと、唾棄すべき偽善を持って殺そう。さすれば断末魔の刹那、意味を内包した死を直面し相手がどのようば面持ちで待ち受けるのか、意味ある生を手放す瞬間の形相とは……ある種の実験的可能性に賭け、アウルムは棲家を隈なく調べまわった。

 捜索の結果、この住居には壁に残った痕跡と羽根以外にめぼしい証拠は残っていなかった。

 東の空が白み始め、時間を忘れて周辺を捜査していたのに気が付きアウルムは苦労の割に合わない成果に嘆息し、報告は後日に廻すと決め幼い少女が眠る自宅へと帰宅することにした。

 

 

「いま帰った……って、寝てるかどうせ」

 

 まだ日が昇り始めて間もない時刻。アウルムの自宅にはもう一つの住人であるアイリスが居るが、彼女もこの時間ではもう眠っているだろうと判じ極力物音をたてないように入った。安らかに眠る彼女の寝顔を一度でも見てしまったら、態々それを起こしてしまうのも忍びないという、彼の数少ない思いやり故に。

 足音を殺して玄関先から廊下を歩き居間を通り抜け寝室へと赴くと、果たしてそこには眠っている筈のアイリスが寝具の上で毛布に包まり廊下と寝室を繋ぐ扉を見つめていた。

 

「……遅い。もう夜が明けてる」

「起こしちまったか、スマンなるべく音は立てないようにしてたんだがな」

 

 眠たげな半眼のアイリスに肩を竦め、アウルムは着こんだジャケットを脱ぎクロークに掛け身軽な軽装に着替えた。着替える様子を一部始終見つめていた彼女の座る寝具は、一人で眠るには十分な広さだ。当然、家主のアウルムが自前で用意した寝具なのだが、それは彼女と共に眠る為に用意した物。よって、アウルムは軽装になったままベッドへと赴き、深夜から早朝にかけて晒し続けた冷えた体を温める為にベッドへと潜り込んだ。

 長時間アイリスがこの場に居たおかげで毛布の中は人肌に温まっており、寝心地がいい。満足のいく暖かさに表情を綻ばせるが、功労者たる彼女の顔はそんな事は些事だと言わんばかりの冷めた目でアウルムを凝視していた。

 

「ど、どうした? 寝起きだから機嫌でも悪いのか?」

「違う。寝起きが悪くないのはアウルだって知ってる筈、惚けないで」

 

 強張った声色で諌めてくる理由に思い当たる節が、ただ一つだけある。しかし、それが彼女を此処まで刺々しくさせるとも到底思えない。

 アイリスと一緒に住むようになって、以前よりも女性との会話も増え、一緒に居る時間も増えた。事ある毎にアウルには女心が理解出来てないとぼやくメルトも見返せるぐらい、彼としては形無き心を学んだつもりであった。日常的に人間観察をし続けているアウルムからすれば、それぐらい造作もないと思っていた。

 ただ一つ誤算なのが、それをすぐに理解出来ると軽視していた事に在る。

 

「夜の事か? それなら今夜にでも……」

「違わないけど、かなり違う」

「なんだそりゃ、流行りのナゾナゾってやつか?」

 

 今夜は――時間的にもう昨晩になってしまうが――アイリスと朝まで頑張ると約束していた日だった。だからてっきりそれを反故にした事に腹を立てているのだと思った。でなければ、彼女がこの時間まで態々、いつ帰ってくるかも知れないアウルムを待って起き続けていようか。

 重い瞼を閉じないよう懸命に開け続け震えるのを見て、彼女が本当は眠ってないのは知っていた。しかし他でもない彼女の口から眠ってたと取れる言葉が出た事に、アウルムは反駁する気はなかった。

 無感動な表情と辛辣な口調でこそあれ、その実アイリスは思いやりに長けた出来る娘だ。それはこの三日余りの同棲で理解出来た。だからこの嘘がアウルムを想っての事だとも自惚れる事が出来た。だからてっきり、愛の営みを行わなかった事に不満を持ち一言物申すのだと思っていた。

 だが、アイリスの開いた口は、そんな事はどうでもよくなる程、何処にでもある言葉だった。

 

「そんな事が無くても、夜ぐらいアウルとは一緒に居たい。それだけ」

「…………」

 

 ぶっきらぼうな言いようは身請け先に対する敬意など欠片も感じられないが、それを上回って余りある愛情の念を感じられた。よもやアイリス自身の口からこのような言葉が聞けるとは思ってもみず、あまりの感動にアウルムは暫し言葉を失った。

 その感動は頭を貫き、天井を貫いて天を衝く程で、だからこそこの不器用な彼女の為にも報わねばならない。

 

「よし分かったアイリス、今からでも遅くはない……ヤろう!」

 

 いそいそと嬉々として衣服を脱ぎ散らかすアウルムに、しかしアイリスの視線は冷たいままで、口元は意地が悪く吊り上っていた。

 

「駄目、約束破ったから今夜はお預け」

「なっ!? ちょ、ちょっと待てアイリス。そ、そんな豚を相手するときみたいな事を……俺に強いるのか?」

「普通に抱かれる方が好きなのはわかったけど、アウルの顔が歪むのも好きなことに最近気づいた」

「んなアホな……」

 

 忘我のままに脱ぎ捨てた衣服が散乱した中心で項垂れるアウルムを見て、アイリスは溜飲を下げたのか満足げに声もなく笑い、布団の中へと体を埋めた。

 金と権力に肥え太った豚たちはもう彼女に奇異な行為を強いる事はない。あの行為は、彼女としても嫌悪する相手を雑に扱ったが故であったが、半ば本意とも言えなかった。だから、思いつく限りの罵倒で相手を責め立てたり、足を使った奉仕などはあまり進んでやりたいとも思ってなかった。もとより過去にそういった感慨を懐いたとしても、娼婦に選択肢などあるはずもない。

 だからアイリスはそういう奇異な行為はアウルムに命令されるか頼まれない限りするつもりは無かった。しかし最近は、彼の消沈する顔を見ていると気分が落ち着いた。だから彼女がショックを受けたり、今日のように約束を反故にされた時のみこうしてアウルムを罰していた。

 毛布に包まれたアイリスを見届け、ワザとらしく大きく溜息を吐いたアウルムに再び微笑ましい気分になる。

 彼がどんな仕事で朝まで駆り出されているのかはアイリスは知らない。しかしそれでも、いつか彼女が知るような事が無いよう、アウルムは願いつつこみ上げる愉快な感情に肩を震わせるアイリスと共に床に着いた。

 数時間もしない内に朝は訪れ、しかしアウルムとアイリスの二人は揃って寝不足な為に、昼前に差し入れを届けに来たティアが来るまで起きる事は無かった。

 

 

 毎晩変わらぬ夢を見て目が覚めると、隣にアイリスの姿は無く、代わりに居間の方から芳醇な香しい食べ物の香りが漂ってきた。鼻腔を刺激し反射的に口腔内で唾液を生成し始めるアウルムの身体は、明らかに食べ物を欲していた。

 欲求に従って居間へと足を運ぶと、そこにはアイリスの他にティアの姿があった。料理の準備をしながら二人は何処か完全に馴染めていない風情がありながらも、互いに理解と友誼を示そうと歩み寄る意思を感じられる。天の位置が高い昼の陽光が差す窓際のキッチンで調理をする二人の少女の姿は、芸術などに興味のないアウルムの目にも美しい一枚の絵画のように見えた。

 

「おはよう、今日もまたいつもの如くありがとなティア。アイリスに料理を教えてくれて」

「あっ、おはようございますアウルムさん。そんな感謝されるような事でもありませんよ、私が好きでやってるだけですし、アイリスちゃんと仲良くなりたいって言うのもありますし」

「ハハハッ、好きなだけ遊びに来ていいぞ、アイリスだって嫌な顔してないし。あ、でも夜遅くは勘弁な、十中八九取り込み中だから」

「は、はぁ……」

 

 アウルムの言っている言葉の意味がいまいち理解出来ないのか、ティアは苦笑しながら小首を傾げるだけに終わった。高い金を払って買った女に手も付けていないのかと、カイムの男の甲斐性について胸の内で詰ったが、自身もまた人の事を言えたものではないのですぐに改めた。

 ティアが料理に戻ると、アウルムが起きてきたのに気が付いていたアイリスの目が何かを訴えるように彼を見据えている。何を言いたいのか、これは間違いなく彼にも見誤ることはない。もう三度に亘って繰り返された行為だ、日課になりつつある行為を今日もまた行う為に、彼女の下へと近づく。

 距離が近づくにつれてアイリスとアウルムの視線に傾斜がかかる。幼子のようなアイリスの体躯と、大男とも思われるアウルムの長身では、至近距離でまともに視線を合わせるのは互いに困難だ。特に、常に見上げていなくてはならないアイリスの首は、長時間見上げていると疲労が蓄積する。だからアウルムはあまり時間を掛けないよう、傍らで朗らかに料理の説明をしながらフライパンを振るうティアを余所に、アイリスを持ち上げた。

 

「おはよう、アイリス」

「ん、おはよう」

「それでですね、このソテーの肝は、あまり火を強くし過ぎ……ない、こと、にって……え、えぇえええッ!?」

 

 お互いの顔の位置が平行になると、二人はどちらともなく顔を接近させお互いの唇に唇を這わせた。血色のいい桜色の小さな唇がアウルムを求めて吸い付く。それだけの行為で、アウルムは名状し難い昂ぶりに肌が粟立つような気分であった。

 

「あ、あの~私が居るのを、お忘れではないですよねぇ……」

 

 人目を憚らずに行われた行為に赤面したティアは、控えめに手を顔の位置まで挙げて存在の主張をした。

 爽やかな陽気も吹き飛ぶ情熱さに、経験など一度しかない彼女は耐えられなかった。彼女は過去に一度だけ、羽狩りの目を潜る為にカイムに奪われたことがあった。あの時はまだカイムを信用していなかった為、ほぼ無理やりの形で、已むを得ない状況とはいえその悲しみは深かった。

 しかしティアの状況とは違って、相手のアイリスに拒絶の意は見られない。アウルムの行為を受け入れるように閉じられた瞼が、頬に添えた紅葉のような手が、彼女の意思を示唆している。

 やがて二人の顔が遠ざかり、目線の高さもまたいつも通り高低差のある位置まで戻された。

 

「悪いなティア、朝の日課みたいなもんだ、気にしないでくれると助かる。

 特に、メルトには言わないでくれ。バレたら一生茶化される」

「わわ、わかりました! 絶対に言いませんっ」

「大丈夫、ティアはリサほど頭は悪くない」

「それもそうか、なら安心だな」

 

 知らず悪し様に言われるリサを不憫に思いながら、ティアは呵々と笑うアウルムを一瞥し、諦めてアイリスと昼食の準備に戻った。

 それを傍目に見守りつつ、アウルムはテーブルへと腰を下ろした。ティアが手伝いに来たのは引っ越してすぐの事だった。アウルムが掃除を途中で投げ出して仕事に向かった後、二人はメルトの仲介もあってかそれほど時間も掛からず打ち解けたのだろう。アイリスがそれほど料理が得意じゃないと知って、こうして教えに来ているのだ。

 アウルムとしてはアイリスの料理が上手くなることに不満などあるはずもなく、ティアの提案は大歓迎だった。それからというもの、彼女は二人が起きた後の時間を見計らって訪ねて来たが、今日はタイミングが悪く、起き抜けの日課を目の当たりにしてしまった。見るからに初心な彼女の事だ、きっと数日は頭から離れないだろう。

 もしこの事実がメルトに知られたら、ティアの事を憂慮してカイムにまで飛び火しかねない。そうなればもう、ジークにも知られ、リリウムの連中にまで行き届くに違いない。

 決してありえなくない未来に、いまはアウルムの方が憂慮していた。

 

「はい、出来ましたよアウルムさん」

「食べて、アウル」

 

 待ち望んだ料理は一度目よりもマシな外見と、それに勝る芳醇な香りが漂っていた。目で見ても、鼻で嗅いでも、間違いなく味に期待できる出来栄えに、アウルムは子供の用に目を輝かせてフォークを手に取った。

 

「今日のは一段と美味そうだ。アイリスも成長したな、こりゃあティアを追い抜くのも時間の問題か?」

「アイリスちゃんは私なんかより筋が良いですから、すぐにでも追い抜きますよ」

 

 ふと、微笑むティアに違和感を感じた。

 

「なあティア、そういやいつからアイリスをちゃん付けして呼んでるんだ?」

「ああ、それならアイリスちゃんが――」

 

 そう言いさして彼女を遮るように決然とした声が横から入ってきた。

 

「ティアとはもう友達、だから好きに呼んでいいって、わたしが言った。そうでしょティア?」

「えっ? あ、はいそうです。それでアイリスちゃんって呼ばせてもらう事になりました」

「ほ~、まっ仲良きことは何とやらってな、これからもアイリスを頼むな」

「はいっ、当然です」

 

 裏があるとは思えない明け透けな笑顔と共にティアが微笑み、食事が始まった。いつもなら料理が出来次第ティアが帰るのだが、今日もカイムは仕事に出ずっぱりで家を留守にしているらしく、それなら、とアイリスが留まるのを提案した。

 腕のいい教師のお蔭か、アイリスの作った料理は昨日よりも美味しく、成果の感じられる味だった。

 素直にその事を伝えると、彼女は「当然」と一言呟いて黙々と料理を口に運び始めた。そんな素っ気ない様子を隣で見ていたティアが口元を綻ばせる、なんとも平和なひと時であった。

 この眩い光景を、出来れば夜の血だまりを知らぬままに続いて欲しいと、珍しくアウルムはありのままの牢獄であればそんな事がありえない願いを胸に抱いた。

 

 

 ※

 

 

 ノーヴァス・アイテルに置いて最上位に急峻な崖の上に聳え立つ王城には、この国を統治する王――ゲオルグ・ド・ノーヴァス・ハドリアヌスⅢ世が玉座に就き日々の暮らしを支えている。が、実際には長い間病床の徒であり、芳しくない容体の彼に変わって第一王女たる少女――リシア・ド・ノーヴァス・ユーリィが政を執っている。

 そんなノーヴァス王家が住まう王城では、単に王家の威厳を表す為に広大なわけではなく、様々な上層の貴族達が集まり日々の生活を円滑なるものにするべく定例会議を執り行う場ともなっている。無論、王家の住まいたる王城は絢爛豪華な装飾に、高価な調度品に壺や絵画。柱の一本に至るまで、牢獄では決して手に入らない代物ばかりである。

 そんな王家の城たる王城の一角、第一王女の住まう私室から窓の外にある十二分な広さのバルコニーで、部屋の主たる王女と、一人の端正な顔立ちをしたいかにも生活の良さが滲み出る身形の良い男が傍らに控えていた。

 

「防疫局の方はどうだ、ルキウス? 相変わらず嫌われ者を甘んじて受けているのか」

「現状、恙なく成果は上がっております。しかしながら、やはり牢獄民との軋轢は拭えず、日々その風当りは強くなるばかりであるのも事実です」

 

 切り出された王女の問いに、ルキウスという男はこれ以上ないほど慇懃に頭を垂れ、しかし韜晦することなく胸の内を全て打ち明けた。成果とは裏腹に、由々しき事態がある事以外は……

 王女はルキウスの“牢獄”という言葉に反応を示し、それまでは落ち着いた風格を漂わせていた彼女は、背中に預けた椅子から上体を離し、組んだ足を入れ替え眼下に広がる民草の営みある街並みを見下ろした。目を凝らし凝視すれは上層だけでなく下層の様子も漠然ながら見取る事が出来るが、それより下位にある牢獄を見取る事までは出来なかったのか、王女は眼差しを遠く隔たりのある牢獄へと向けながら嘆息した。

 

「そうか、ま、お前が承知しているなら私はなにも言わん。しかし……今日とて変わらず、ここからでは牢獄の様子を見る事は叶わぬか。靄のかかったあの場所、以前お前は上層や下層とはまた別の場所と言っていたが、どんな場所なのだ?」

「特別被災地区である牢獄は、この王城からでは想像もつかないほど厳酷な地区であります」

「ふむ。だが執政公はいつも十分な量の配給をしていると言っていたぞ」

「それは……」

 

 反論したい事はあった。間違いなくあるのだが、それが“誰に”矛を向ける事になるのか。それを重々理解していたルキウスは王女の言説に返す言葉もなく、口を噤む他に術が無かった。

 無言のルキウスを王女は肯定と見做したのか、牢獄に向けていた視線をバルコニーに戻し頭上に高く屹立する城を仰ぎ見た。

 

「いつかはお前が言ったように行幸してはみたいものだが……、果たして私にそれが行える日が来るのだろうか」

 

 悲観するように呟いた言葉には諦観も同居しているように思えた。それほどにこの王女には自由らしきものがあまりない。

 ルキウスの知る限りでは、彼女がこの王城より外に出た事はない。常日頃から彼女が口にする『国王は全ての国民の父たるべし』という言葉も、子の事を何一つ知らないのでは話にならない。彼女の立つ王位とは、薄紙の上に立っているような危うさと隣り合わせの上に成り立っていた。

 馳せるように見上げる王城から視線を外し、王女は漫然と口を開いた。その顔には、諦めの色しかルキウスには見受けられなかった。

 

「まあよい、もう下がって良いぞ。時間を取らせたな」

「とんでもありません、リシア様の命とあらば、この身はいつでも馳せ参じます」

 

 貴族の礼を尽くしたルキウスに、王女はそれっきりバルコニーにある椅子に背中を預けまたも視線を中空に向け彼には一瞥もくれなかった。既に意識は眼下に広がる街並みへと意識が向いているのか、宙に漂う埃を見るように焦点が合っていない。

 王女の私室を後にし、鏡のように輪郭を投影する廊下の床を歩きながら、ルキウスは芳しくない成果に歯痒い気持ちでいっぱいだった。顔には欠片も出さずとも、その胸の内には種火となって滾っている。

 牢獄の現状を王女にどうにかして知ってもらいたいが、そのためには執政公という存在が彼を遮る壁として立ちはだかる。

 貴族であるルキウスは当然、この王城に貴族としての仕事に従事するために登城している。そして仕事を指揮するのが、王であるゲオルグではなく、娘のリシアでもなく執政公という事実上のナンバー2であるのがルキウスにとって不都合な事であった。

 執政公はこの王城で今や誰よりも発言力を持った男で、当然それは王女であるリシアも例を漏れず、彼の言葉にはなんの疑問も懐かず鵜呑みにしているきらいがある。現状の牢獄と、執政公の語る牢獄の状況には大きな差異がある。

 復興は大変だが、物資の補給が滞りなく行われている為に、住民の生活は安定しており民衆皆が王女に敬意を持っている。――なんて夢物語だろうか。このままでは牢獄の憂いを取り除くことなど夢のまた夢。

 防疫局局長という地位に君するルキウスは誤解なく牢獄を理解している。それがどんな所であるのか、日常に蔓延している悪徳の数々から、娼婦などの売春行為。すべてが下層から上の地域では法によって禁止されている事項ばかりだ。これらを変える為には国を統治する王国の政治体制自体を変えなければならない。

 だからこそこうして王女たるリシアに牢獄の事を押しているのだが、結果はいつも執政公の存在によって有耶無耶にされてしまう。あげくに心配性の烙印まで押されてしまう始末。

 

「ルキウス様」

 

 廊下も中ほどまで歩いた頃に、彼を呼び止める女性の声が投げかけられた。声のした方を向くと、そこには石像の傍らに立つ女性が居た。

 灰がかった亜麻色のショートに、その間の眉間から覗くシンプルなデザインのラリエットが彼女の怜悧な顔立ちを際立たせている。額で控えめに輝く紫水晶(アメジスト)は、まるで女性そのものを体現するような高貴さを持っていた。

 彼女に向かい、ルキウスは微笑を携え歩み寄った。

 

「待っていてくれたのかシスティナ。態々すまない」

「私はルキウス様の僕ですから、貴方様の命とあらばこの身はいつでも馳せ参じます」

 

 冷静な抑揚のない声で返すシスティナという女性の言葉に、つい先ほど彼も似たような言葉を口走った事を思い出し、思わず吹き出しそうになった。しかしそこで簡単に見せないのがルキウスという男。王城という建物内ではどんな輩が目を光らせ、耳をそばだてているかわからない。敵を作るまいという意思によって、彼は己を誰よりも律している。

 故に、ルキウスは誰にも信を置かない。

 

「行こうか、これから防疫局に戻り現状の報告を受け取らなくては」

「それなら私に任せてくだされば、すぐにでも向かいます」

「それでは意味がない。私が向かい、私が聞く事に意味があるのだ。執政公より仰せつかった大命、誰も局長という職が形だけのモノではないと思わせなくてはならない」

「失言でした、もうしわけありません。それではすぐに馬車の準備をしてまいります」

 

 防疫局局長という地位は確かに誹りの多い嫌われ者の仕事ではある。その評判が良くないのもまた当然の評価。彼らは国から許可を得て、公式に人攫いをしているのも同然なのだ。ルキウスにとってこれは批判の多い仕事であるのも事実だが、それとは別に大きな利益もある。

 それは防疫局員が彼の手駒である事。これは彼にとって有益なリターンであった。貴族として実力こそあれまだ若輩である彼が、なんの後ろ盾もないと言うのは危険である。だからこそ、防疫局の運営を任されている以上、必要以上に貴族からの妨害工作も少ない。

 その防疫局はいま頭痛の種を植えこまれている。ルキウスとしてもこの事件は何としても早急に対処したい。その為に牢獄を実質統治している組織《不蝕金鎖》との協力も結んだ。この関係はいずれ、牢獄の治安改善の為にも必要となると考え、彼は防疫局に友好的な関係を築くように命じてある。愚直なまでの信念を根本に持つ女隊長であれば、万が一の心配もあまり必要がない。

 廊下を抜け大広間から王城を後に何段もの階段を下り、精確に切り出した石が敷き詰められたアーチ橋の端に、馬車を控えさせたシスティナが待っていた。

 

「待たせたね、それでは行こうか」

「はい」

 

 先を促しルキウスを奥に座らせた後、システィナも馬車に乗り込み、馬の嘶きと共に車輪が緩やかに回り始めた。

 

「防疫局への用向きは、例の黒羽の事についてですか?」

 

 城内では控えていたシスティナの質問に、間者の目がないと判断したルキウスが冷静に返答する。

 

「ああ、この一件、防疫局の所で解決しないと少々厄介な事になる。もし逃しでもしたら、執政公の信任を飛ばなす事になるかもしれない」

「あの方はルキウス様を殊更取り立てています。余程の事がない限り大丈夫だとは思いますが」

「それでも、悲観的に考え行動するのは間違いじゃない」

 

 黒羽の事件は、ルキウスとしてもどうにか解決したい事柄だ。それは防疫局局長という立場からだけでなく、執政公の命でもあるからだ。

 これまでの苦労が此処で潰えては、何のために綱渡りのような人生を歩んできたのかわからない。なんとしても……

 決意を新たに、ルキウスは経過報告を受け取るべく下層へと降りていく馬車の揺れに身を任せた。

 石材の通路を叩く蹄鉄の音と、軋む車輪の調べを耳にしながら、彼は珍しく崩落が起きた時の惨劇を思い出していた。自然と、右手が熱くなるのを感じながら。


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