牢獄の暗殺者   作:琥珀兎

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第七話:身請け

「羽狩りから調査協力の依頼が来てな、奴らどうにも黒い化け物をマジに信じているらしい。そこで、牢獄の地理に明るく、事情にも精通している《不蝕金鎖》にお鉢が回ってきたわけだ」

 

 言い切り一息吐いて葉巻を咥えるジーク。借金を頼んできたアウルムに提案したのは、代わりとなる仕事の依頼だった。

 牢獄を見捨てた国が牢獄に秩序を布いた《不蝕金鎖》を頼ってくるとは、なんと蒙昧な考えだろうか。常識に照らし合わせるなら、この話を聞く価値すら見いだせない。少なくとも、一般の牢獄民ならそう檄を飛ばすだろう。それほどに都合の良すぎる話だ。

 浪々と語るジークには、しかし一般の民衆とは違う価値観で思考し行動している。怒りもあろう、不満もあろう。虐げられた者たちの声を束ねる者として、ジークには責任があった。

 牢獄の環境改善とそれに伴っての治安回復。その為には、やはりどうしても政府が変わらない事には変えられない。だから……

 

「新しく勢いのある勢力には恩を売っておきたい。牢獄をこれまで担ってきた矜持もある、だから、正確には“殺す”んじゃなくて“捕獲”が前提になる。

 あわよくば、これを機にある程度制御下に置きたい」

「良いのか……?」

「なにか不満点でもあるのか?」

 

 平時の声色で確認するように問うたアウルムの様子は真剣そのもので、不満点が何も無い筈がないと他ならぬジークも認めているだけに、どのような致命的な欠点を論うのかを想定して優秀な暗殺者の言葉を待った。

 

「俺は《不蝕金鎖》でも秘中の秘なんだろ? なら、羽狩りの前に出していい人間じゃないだろ。しかも俺は一回、相手方の女隊長と会っている。覚えられているなんて思ってないが、それでも不安要素は在りすぎるだろ。俺じゃあ荷が勝ちすぎる」

「言いたい事はわかる、だからその不満点は……カイムに担ってもらう」

「カイムが? あ、そうかなるほど。お頭もなかなか面倒な事を押し付けるな、一番カイムが大変じゃないか」

 

 組織の人間では情報を少しでも与えてしまう懸念がある。だからジークは組織から足抜けしたフリーのカイムを、一時的に《不蝕金鎖》の代表に仕立て上げる算段を企てた。最小限の被害で、相手には最大限の恩を売りつける。まさに牢獄のやり方だ。

 このジークの考えを斟酌した様子で、アウルムは悪童じみた微笑を浮かべた。

 

「表立ってはカイムに任せて、俺は裏でこそこそ犯人を追いつめて、羽狩りより先にとっちめれば良いんだろ?」

「話が早くて助かる。女隊長には、たしか下っ端って(てい)で話しを通したんだったな。ならその設定を引き継いで話は通しておく、くれぐれも目立つような事はするなよ」

「わかってる。ノー借金の為にもいっちょ頑張らせてもらうよ」

 

 そう剽げるアウルムが、何故に意気込むのかをジークは知っている。彼の目的と言うのが、ジークもまた重要な役割として関係しているのだ。アウルムはとある目的の為に、ジークが提示した金貨二〇〇〇枚という高額を貯め続けている。殺しの仕事を続け、必要以上に無駄遣いをしないよういつまでも古い家に住み込み貯め続けてきた。

 年単位の苦労あってか、つい最近になってようやくアウルムが達成の見込める額までたどり着いた。実を言うと、ジークはこの金額をまさかアウルムが貯められるとは思ってなかった。祭を好み、騒がしいのを見物するのが好きなアウルムが、ヴィノレタで客全員に奢るのを控えた時には、思わず瞠若してしまった。心の何処かで無理だと思い込んでいた、信じきれなかった罪悪感からジークはある提案を追加することを決めた。

 

「アウルムの仕事の成功率は信頼してる。だから、証文にサインさえしてくれれば今夜からでもいい。どうする?」

「……いつもなら真っ先に頷いてるが、ちょっと時間をくれ。アイリスと話しもしたいしな。

 とりあえず、仕事の内容は理解した。明日からにでも始めた方が良いのか?」

「明日の朝、カイムをここに呼ぶ。羽狩りの代表との面会をさせる為にな。アウルムが居ちゃ話しがこじれる可能性がある、明日からもう動き始めてくれて構わない」

「はいよ、そんじゃあまぁ、御姫様の機嫌でも窺いに行きますかね」

 

 アイリスが非常に珍しく癇癪を起こして立ち去ってから、もう一〇分以上が経過している。普通の女ならば足取りを追うのは困難を極めるが、彼女は娼婦。この館から出る事が出来ても、逃げ場所などない。加えてアイリスは、無為に自らを危険に晒すような真似はしない。ジークが考えうる可能性で、最も高いのは、仲の良い娼婦仲間であるクローディアとリサが居るだろう相部屋。

 思索を巡らすジークとは逆に、ソファーから立ち上がり伸びをするアウルムは、女関係の機微にはメルトをして鈍感と言わしめる。

 このまま何も忠告をしなければ、きっとアウルムは《リリウム》を出て娼館街中を探し回るかもしれない。折角それらしい答えを導き出したジークの労を生かさぬまま殺すのは、気が引けた。

 

「アイリスなら多分、部屋に居るだろ。クローディアやリサと一緒に」

「部屋……外じゃなくてか?」

「女心を知る時も、せめて思考を切り替えた方が良いと思うぞ」

「考えておく」

 

 漠然と答え、アウルムは部屋を出た。ジークが何を言いたいのか理解してないのだろう。彼の反応を見るに、それは明らかだった。

 こと戦闘に置いては右に出る者が居ないアウルムにも、敵わない者が居るとすれば、それは女心だろう。静かに閉まる扉を見送りながら、ジークは葉巻の香りを堪能し二人の行く末に思いを馳せる。

 願わくば、この何処までも昏いこの世界で幸福でいられるように。

 

 

 ※

 

 

 複数人が寝泊まりする相部屋は、部屋の間取りの殆どを三段のベッドが占領しており少々手狭にも感じられる。三人部屋である部屋には、ジークの予想通りアイリスが憮然とベッドの片隅で膝を抱えていた。

 突然戻って来たかと思えば、いまにも罵声ではなく怒声を上げそうな剣幕で座り込み殻にこもったのには、流石のクローディアにもどう話を切り出せば良いのかわからなかった。下手に手を出して彼女の逆鱗を逆撫でしてしまったら、いったいどんな形相になるのか――それはそれで気になった。

 新しくなった風呂から出た時は、それはもう皮肉の笑みしか浮かべない彼女が屈託のない笑みを窺わせるぐらいであったのに、今ではその影もない。

“まさか……アウルム様が、また何か無神経な事でも仰ったのでしょうか”

 脳裏に思い浮かぶのは何処までも飄々と怠ける《不蝕金鎖》の構成員。ボスであるジークの信頼を一身に注がれてなお、それでも我を貫く怠け者。女性関係のアンテナが滅法弱い彼なら、アイリスが普通の少女のように顔を綻ばせるのも頷けるし、落胆に悄然とするのも理解できる。

 幼い娼婦は目尻に溜まった涙を拭い、濡れた己の手を訝しげに凝視していた。何故涙が流れるのかわからない、そんな所作だった。

 アイリスの中にある、無垢なる果実から漏れ出た雫が、クローディアに理由を芽生えさせた。なんであれ、女性が涙を流せばそれはどのような経緯あれ男性に非がある。クローディアの数少ない矜持の一つだ。

 

「アイリス……何がそんなにも、悲しいのかしら?」

「……違う」

 

 答えを先んじ、涙を見られたと悟ったアイリスは、それを隠そうを抱えた膝の上で組んだ両腕の中へと、その顔を埋め隠した。

 己の殻に籠り、他者を拒絶するその様は、クローディアから見れば年相応の少女が拗ねているようにしか見えない。それがどうしようもなく愛しく思い、彼女は慈母のような笑みで丸くなる少女を覆い尽くす様に抱擁した。

 

「よかったら、話してみない?」

「何もない……何もなかった」

 

 傍目に、アイリスの答えは強がっているようにも聞こえる。強張った声で、毅然と告げる彼女は内心を見せまいと、眠らせた感情を起こさないよう慎重になっているのだと、勘違いをしてしまう。家族を自負するクローディアは、このアイリスの言葉を聞き違えるこのなんてなかった。

 何もないなんて強がりじゃない。何もなかったなんて強情を張ってるんじゃない。これは彼女の嘆きだ。何もなかった、何も、何も彼女にもたらさなかった哀しみの慟哭だ。期待に夢を見てしまった。現実の虚無感に打ちひしがれた。何処にでもいる乙女の敗北を味わったが故の、悲しみなのだ。

 腕の中で震える少女は、恋を知らぬまま男を知らされてしまった。世界の仕組みがこうなのだと、悟り諦念を持ってしまった。順序の狂った歯車は、後から嵌め込まれた恋慕の歯車によって致命的な故障を引き起こす。動作不良を起こしたアイリスは、己の価値観と相違した恋をしてしまったのだ。口でこそ言わぬアイリスだが、少なくともクローディアにはそう思えたし確信を持って言える。ただ、彼女がまだそれに気が付いていないだけ。

 

「アイリス……想うというのはね、自分の全てを委ねるのと同じなの」

「委ねる……娼婦ならみんなやってる、常識。意思なんて意味ない、わたしたちはそういうモノ」

「違うの、いまのあなたに必要なのは、女が誰しも持ってる恋の話。どうして泣くほど悲しいのか、身体がいう事を利かなくさせる、絶対の力」

 

 理解して欲しい。気が付いて欲しい。願わくば、己の考えた末に見つけて欲しい。子守唄のような音色で滔々と語るクローディアに、いつしかアイリスは伏せていた顔を上げ、赤くなった瞳で傷を癒す様にゆっくりと耳を傾けた。

 

「その人に自分を見て欲しい、気にかけて欲しい、構って欲しい。沢山のそういった想いが募って、丁寧に紡がれたのが恋という赤い糸なのよ。アイリスにも、もう糸は紡がれているのね、ただ相手を繋ぐことが出来ないだけで」

「クロの話しは難しい、抽象的すぎ」

「ふふっ、心という抽象的なものを語るには、それで十分なんです。だってこれはアイリスだけのモノ。あなたの見初めた男の人に繋ぐ、大事な架け橋なんだから」

「アウルムは、わたしを必要としない」

 

 沈鬱な面持ちで呟くのは、脳裏に浮かんだまま消える事ないアウルムの顔。おどけた顔が、睡魔で瞼の重くなった顔が、底抜けの明るさで笑う顔が、彼がアイリスを見下ろす顔が閃光のように奔り抜ける。それら全てが、彼女でなくとも変わらぬと思ったら、鬱蒼とした感情が湧き上がってしまう。

 自らを諦めの湖へ沈めたこの身が、浮上してしまう。アイリスにはそれを認める事は出来ない。クローディアの言い含める“恋”とやらは、なるほどたしかに素晴らしいだろう。だがそれは普通の少女が持つ当たり前のモノであって、決して娼婦に許されるものでない。

 娼婦だって恋をする。アイリスだって言葉程度には耳にしていた。しかし、彼女ら娼婦の恋は、決して実らずあまつさえ命すら落としてしまう可能性があるではないか。恋と言うものが身を滅ぼすなら、アイリスは内側でざわめく感情の湖を、今すぐ凍てつかせたかった。

 死の恐怖は無い。いずれ蛆の餌になる自分を受け入れている。それでも、今すぐに死にたいなんて願望はアイリスには持ち合わせていない。

 

「恋なんて、娼婦には必要ない。辛い目に遭って、いつか死ぬ」

「それでも想う事に罪はありません。焦がれるのが無意味だと否定したら、本当に辛いだけの人生になってしまうわ」

「じゃあ、どうする? どうすればこの痛みは消える?」

 

 嫣然と微笑むクローディアを見上げ、少女は問う。どうすれば、この痛みに耐える事が出来るのか。それが無理ならいっそ……

 見知らぬ感情に翻弄されるアイリスに、クローディアは決然と答えた。

 

「言葉を、たくさんの言葉を交わすと良いわ」

「もうたくさん話した」

「それは雑談でしょう? そうじゃなくて、アイリスの事を、相手の事を話すの。求めるままに、想うままに言葉を紡いで繋ぐといいわ」

 

 クローディアはそう言って傍らにある白猫のぬいぐるみをアイリスに差し出した。いつかアウルムが彼女に送ったと聞いた、彼から彼女への想いの形を。

 

「このぬいぐるみ、アウルム様が送ってくれたのでしょう。大丈夫よ、これがアイリスを気に掛ける何よりの証になってくれる」

 

 彼がアイリスを拒絶することなどありえないと、クローディアは断ずることが出来る。何より、アウルムが勤勉に仕事をするのが何のためかを知っているからだ。怠け者のクセに、面倒だと文句をぼやきながら、彼はただそれだけの目的の為にひた走り続けている。だから、アイリスが恐れるような事など何もないのだ。

“少しだけ……羨ましいですね”

 温もりを確かめるようにぬいぐるみを抱き締めるアイリスに、優しく微笑む彼女は、ふと控えめに扉を叩く音を耳にした。

 

『あ~、アイリス、居るか?』

 

 途切れ途切れに聞こえる後ろめたい声は、件の中心人物であり、アイリスを涙させた張本人のアウルムだった。おそらくは腕の中にいる少女に弁解でもしに来たのだろう。

 彼を部屋に通しても良いか、クローディアは視線を下げアイリスに目配せをした。アウルムの来訪に驚いたようすのアイリスは、バネのように顔を上げ、クローディアと目が合うと、再びぬいぐるみへと視線を下ろした。そして、一際強くぬいぐるみを抱くと、意を決して彼女はベッドから立ちあがった。

“恐れながら、お膳立てはさせてもらいました。あとは、貴方様次第ですよ、アウルム様”

 

「どうぞ、入ってください」

 

 後のことは二人だけで決する事だ。クローディアが間に居るのは好ましくないだろうと、彼女自身理解しているので、アウルムと入れ替わりに廊下へと出ようと扉に手を掛けた。

 

 

 

 扉が開くと、クローディアが顔を覗かせアウルムが中に入るより先に廊下へと出てきた。僅かに開けた扉の隙間をすり抜け、後ろ手に扉を閉める彼女の仕草は、それ一つをとっても妖艶であった。

 入出許可を貰ったのに、アイリスへと通ずる扉を閉めた事にあっけにとられたアウルムは、こうなってはクローディアの横を無視して中に入る事も出来ない。

 

「アイリスは、中に居るか?」

「はい、いらっしゃいますよ。ですが申し訳ありません、もう暫くお時間をいただいてもよろしいですか?」

 

 隠然とした微笑を浮かべる彼女はそう言うや、徐にアウルムの手を取り歩きだした。繋がれた手は、抵抗を許さぬ断固とした強さを持っていて、無暗に抵抗する気もなくなっていた。なんであれ、彼女はきっとアイリスの事について話したいのだと判じた。

 彼女に引かれるままに歩くと待合室まで来ていた。既に彼ら以外に人の姿は無く、誂えたような場に優雅に彼女は腰を下ろした。

 

「何を仰りたいのか、もうアウルム様にもわかっていますでしょう?」

「アイリスの事、だろ」

「ええ、あの子の事について、どうしても言っておきたい事がございます。お時間を頂き失礼とは存じておりますが、どうかお聞きください」

 

 慇懃な口調こそ彼女の美点の一つではあるが、いまの語調には明らかにアウルムを叱責する意味合いを持ち合わせていた。

 怒っているのだろうか。クローディアはここの娼婦を家族のように愛している。なればアウルムに向けられた感情が、アイリスを想っての事でない筈もない。ついさっきまで彼女はアイリスと共に居たのだから。

 

「酷く落ち込んでいましたわ、あの子は」

「……アイリスが?」

 

 厳かに語られた真実に信じられないと感じ、アウルムは瞠目した。他人を寄せ付けない鏡のような態度を一貫させていたアイリスが、まさかそれほどの動揺を見せるとは思えなかった。しかし、他ならぬクローディアがそう言う以上、これは真実なのだろう。

 切り出した彼女の近くに腰掛けようとした体が、中腰のまま静止し、アウルムはそのまま姿勢を直して立ち尽くした。

 

「落ち込むったって、あの程度の会話ならいつもしてきたんだが。何かあいつにした覚えだって……」

「ええ、アウルム様は何もしてはいませんわ」

「なら――」

 

 いったいどうしてアイリスは突然あんな風に臍を曲げたのか、継ごうとした言葉は、座っているのに屹然とさえしているクローディアに遮られた。

 

「何もしていないから……アイリスには、それがショックだったのでしょう」

「…………」

 

 歯に物が詰まったような彼女の言葉がアウルムの耳朶を震わせた。いまになってようやく、ジークが言っていた言葉の意味を理解した。彼の言葉は即ち、アイリスについても少しは思考を巡らせろと、そう言外に言っていたのだ。

 今更ながらに後悔の念がアウルムの中から波濤の如く押し寄せた。なんて手酷い仕打ちをしていたのだろうか、なぜアイリスの感情を慮る事をしなかったのだろうか。不器用な彼女の、あれが精一杯の感情表現なのだと、アウルムこそが誰よりも理解している筈だと自惚れていた。

 

「アウルム様は、一度でもあの子に気持ちを言葉にして送ったことがありましたか?」

「……いや」

 

 思いを口にするなど、考えても居なかった。ただ目的の為に奮闘して、いつかその時の為にと、彼はそれまで何もいう事なく胸に秘め続けていた。クローディアの語る言葉は、全てアウルムを責め苛む過日の罪。

 

「金さえ貯まれば、その時に全部話せば良いって、そう思ってたわ俺」

「そうですね、貴方様のその弛まぬ努力を責めるつもりなど、一遍も御座いませんわ。ですがこれからの為に、あの子の不安を取り除く御方であり続けて貰いたいと、私は思っております」

 

 深々と頭を下げる彼女は、すべてアイリスの為に、彼女を想うが故に行動したのだろう。自分の立場を顧みず、組織の人間である彼に向かって、こうも言明するのもまた彼女の面倒見の良さなのだろう。

 平時の自分は、やはりメルトがいつか言ったように鈍感なのだろう。今後はこれを言われても、傲然と言い返すことも出来ない。

 自嘲の笑みが口元を刻み、アウルムは未だ頭を下げるクローディアを見据える。

 

「頭を上げてくれクローディア。お前に頭を下げさせたなんて知られたら、牢獄中の男共が寄ってたかって俺を敵視しちまう」

「あら、ふふ……嫉妬の対象になるのは、男の誉れではありませんか」

「勘弁してくれ、命がいくつあっても足りゃあしない。それにソファーに座った状態で頭を下げるってのも、なんだか変だろ」

「これは、大変失礼しました。償いに、今度“遊び”にいらっしゃったらウンとサービスいたします」

 

 佇まいを直して立ち上がり、彼女は再び静かに礼をした。失態の代償は、男が目尻を下げる程の魅力がある。だが、アウルムはもう決めてしまった。気が付いたが故に。

 晴れやかな心地で深呼吸し、アウルムは稚気の残る笑顔で告げる。

 

「遠慮しとくよ。俺はもう、決めてるからな。また臍を曲げられても困る」

「……合格です。ではもう私が言う事は御座いません。お時間を取らせて申し訳ありませんでした」

「なに、お前のおかげで俺も気が付いた。ありがとう」

 

 胸に去来する暖かな気持ちに笑みが浮かびそう告げると、クローディアはいつものような慈母を思わせる慈しみの微笑を携え、再び恭しく頭を下げた。

 恩人ともいうべき彼女に背を向け、アウルムは足早にアイリスが居る部屋へと再び赴いた。今すぐにでも胸の内を離さない事には、今夜はどんなに強い酒を幾ら飲み干そうと眠れる気がしなかった。扉を開ける前に声を掛けるのも忘れて、アウルムはようやく彼女の居る部屋へと足を踏み入れた。

 

「アイリス……」

 

 灯の消えた室内は薄暗く、隅に行くにつれてその闇は濃く深くなっていた。果たして、アイリスは隅の一角、ベッドの端に陣取って座っていた。凛然と背筋を伸ばし、茫洋とした表情はそこにはなく、漂ってばかりの視線がアウルムをしっかりと見据えていた。

 

「どの面さげて此処に来た」

「謝りに……いや、話しがあるんだ。沢山の、とても時間のかかる話しが」

 

 棘のある罵言には、しかし張りつめた弓のような今にも途切れそうな細かい震えが声に乗っていた。暗がりの中に居るのも、相手をハッキリと見たくないからだろうか。いずれにせよ、この暗がりはアウルムにしても好都合だった。

 ゆっくりと彼女の下に歩み寄り、ベッドに、隣に腰掛けた。なんてことない距離感なのに、アウルムが近くに座っただけで、アイリスの方が跳ねたのを彼は見逃さなかった。

 

「別にとって食うつもりは無い」

「……趣味じゃないから? 選り好み出来る立場だと思ってる?」

「失言だった。……“今は”まだその時じゃないってだけだ」

「どういう意味」

 

 なんて説明すべきか悩んだ。これを離せば、もう留まることなく全貌を語るしかなくなる。それほどに、今の質問は的確だった。墓穴を掘った穴の深さに、自分の迂闊さをまざまざと見せつけられたようで、失念にアウルムはかぶりを振った。

 残り金貨は五〇枚。ジークは仕事の完遂を前に契約をしても良いとまで言ってくれた。それはひとえに、彼のアウルムに対する仕事の信頼からの言葉だ。なればこそ、その信頼に応えてこそ、報いることになるのでは。

 

「もういい、やっぱりアウルは何も変わらない。話しなんて無駄」

 

 長く煩悶していたせいか、アイリスの声が厳然とアウルムを突き放した。

 

「もう此処には来なくていい、殉死すればいい」

 

 クローディアとの会話が無意味になってしまう。何のためにアウルムはここまで来た。決まっている、彼女に伝えなくてはならないことがあるから。アイリスの勘違いを糺す為に、アウルムは此処まで来たのだ。

 体は思いに駆られ、疾風の如く早さでアイリスの小さな体を抱きしめていた。細く、柔らかな体は冷たく震え、少しでも温めようとさらに強く抱きしめた。

 

「あ、……アウル?」

 

 染み入るようなか細い声が耳元で震えた。肩口に当たる彼女の頤が生唾を呑み込む。

 それまで詰めた方アイリスの体躯は、抱きしめるとアウルムの胸を強く温め、まるで太陽を抱いていると錯覚してしまう程だった。こんな簡単な事すら、彼はアイリスにしてやらず、あまつさえ他の娼婦にだけはしてきた。その償いと言うわけじゃないが、せめて、と忘れないように強く心に感触を刻み込む。

 

「どうして抱くの、これまで一度もしなかった不能の……クセに」

「したくなくてしなかったわけじゃない。全てが終わるまで、するべきじゃないって、そう思ってたからしなかったんだ」

「終わるって、なに?」

「そうだな、話すにはその前に言っておかなくちゃならないことがある」

 

 何事にも順序は必要だ。それが例え順序を違えた娼婦の彼女であろうとも。

 一度抱擁の力を緩め、お互いの顔が視認出来る距離まで明けたところで、アウルムは玻璃のようなアイリスの瞳を見据える。

 胸に過ぎるは秘蔵してた決意。口腔から奔るは欲望の声。歳を跨いで積み重ねた金貨は――全て、今の為にあった。

 

「お前が欲しい。だから、俺のモノになってくれ」

「…………え?」

 

 あっけにとられた様子のアイリスは身体を縮ませた。無理も無い。アウルムの唐突な告白は相手を度外視した放言にも等しい傲岸な物言いで、憤りを通り越して呆れてしまう。事実アイリスも彼の不器用な言葉に対し、嘆息を隠さなかった。それに、この告白をアイリスが受けるわけには……いかない。

 

「ごめん、それは……出来ない。私は娼婦、勝手に誰かのモノにはなれない」

「…………」

 

 そう、いくら思いを通わそうとも感情の赴くままに行動する事は出来ない。アイリスが娼婦である限り、彼の告白を受け入れる事は出来ない。それでも納得がいかないアウルムは、沈痛な面持ちで目を伏せるアイリスを説き伏せる。

 

「じゃあ、娼婦だという事を仮に差し引いて、そしたらアイリスは俺に応えてくれるか? せめてそれだけでも教えてくれ、そしたら“決める”から」

「アウルの事は嫌いじゃない、面白い、それに……だから、クロの言うとおりなら、きっとこれは……恋、ということになる」

 

 脳内でこねくり上げた結論をたどたどしく紡いだ言葉は、はじめ冷然と述べていたが、次第にそれは狼狽えたように変異した。彼女のこんな姿はアウルムにも初めての光景だった。叶わぬとは思っていても、想いを知るだけで十分。ともあれ、アウルムの言葉は決したも同然だった。

 いまこそ、これまで溜めてきた言葉を告げるのだ。叶わぬと、許されぬと、幻想に過ぎないと悲観するアイリスが安心できる言葉を。

 

「でも――」

 

 

「アイリス。お前が嫌じゃないなら俺は――お前を身請けする」

 

 

「――――?」

 

 思いもよらぬ宣言に、暫しアイリスはアウルムの言葉を意味を上手く解釈出来ず沈黙の帳が降りた。

 

 

 ※

 

 

「アイリスの身請けに掛かる金は金貨にして約二〇〇〇だ。破格の金額だが、こいつの人気を考えて長い目で見れば、安いもんだ」

 

 身請けを宣言した後、呆然としていたアイリスを連れ再びアウルムはジークの私室に舞い戻っていた。言葉にして伝えた以上明日を待つのさえ惜しんだ彼は、依然沈黙したままのアイリスの気が変わらない内に契約を済ませたかった。

 アイリスを連れて部屋を訪ねると、向かえたジークは全てを察して微笑しオズに証文を持って来させた。枚数は三枚。アイリスを身請けするにあたっての金額を記された正式な契約書。それと他の娼館への売買を禁ずる旨を記した誓約書。最後に、アウルムが仕事を完遂出来なかった場合の事を想定しての、保険としての借用書。これら三枚の紙にアウルムの氏名を直筆で書き、最後に拇印を押すことで契約は成立した。

 書ききった書類にジークが目を通し、不備が無いのを確認すると、それらを束ねオズを呼んだ。

 金貨二〇〇〇枚という額を、当然アウルムが持ち歩いている筈もなく、貯めた金は全てアウルムの自宅に隠してある。よってそれを全て運び出す命令を受けたオズが、恭しく拝命し去った。

 アイリスが口を開いたのは、契約が全て完了してからの事だった。

 

「ボス、最初からこの事知ってた?」

「身請けか? ああ、そりゃ一年以上前から知ってたさ。なんせいきなりだったからな、ノックも無しに入って来たかと思えば、開口一番に『アイリスを身請けするからいくらか教えろ』だもんな。

 いやぁー、あの時ほど顎が外れそうになったのはないな」

「そんな前から、アウル、やっぱりロリコン」

「すんごく否定したいけど、今の俺にはそんな資格は……ないよなぁやっぱり」

 

 胸の位置程もない身長のアイリスを身請けしたいま、アウルムに彼女の言葉を否定しうる材料は残っていない。むしろ、さらに炎上する燃料を抱えてしまったも同然だ。それでもアウルムの中に後悔の念は一切ない。この日の為に、仕事の金を貯めてきたのだ。もう誰に憚る必要もない。

 

「じゃあここ最近、ずっと他の女と遊ばなかったのは……」

「大方、操を立てるとか聞こえの良い事言って、節約してただけだろ。お陰で他の娼婦たちの欲求不満が募った時は大変だったんだぞ」

「それは俺のせいじゃない、管理しているお頭の責任だ」

「変態は健在、やっぱりアウルは節操無し」

 

 冷ややかな眼差しでアウルムを一瞥し吐き捨てると、アイリスは何かに気付いたように目を丸くした。

 

「クロやリサはこのこと、知ってる?」

「リサが知ってるわけないだろ、あいつに秘密の二文字は無い。あっという間にバレちまう。クローディアにはバレてた、というか……今だから白状すると、お頭より先に知ってた」

「壊死すると良い」

「どこをっ!?」

 

 苦笑いで白状したアウルムは、白眼視するアイリスから気を逸らそうと渇いた笑い声を上げた。これから先、もし娼婦を買ったらと、行く先に広がる暗雲に冷や汗が隠せない。一生虐げられそうで、いまから恐ろしく思う程に。

 

「なんだかんだいってお前、結構クローディアの事気にっているんだな。言っとくが、あいつを買うなんて言うのはよしてくれよ。

 そりゃそう言う決まりだから断わりはしないが、二〇〇〇なんか目じゃない額だからなやめとけ」

「無理だ、これ以上の節約なんて俺が出来るわけないだろ。アイリスだからここまで踏ん張ったんだ、二〇〇〇以上なんてストレスで禿げるわ」

「よかったなぁーアイリス、お前本当に大事に思われてるぞ」

 

 話を逸らしたジークが葉巻の紫煙と共にアイリスへと矛先を向けた。実際の所、クローディアが居なくなったら、アイリスに続いての看板が……それも一等豪華な看板を失う事になる。そうなっては、リリウムの格も目に見えて下がってしまう恐れがある。故に、もしクローディアを身請けようものなら、その額は当時のメルトに匹敵する額にしようとジークは企てていた。

 会話の主権を渡されたアイリスは、未だアウルムに身請けされたことに実感が湧かないのか、時折呆然と焦点の合わない目をしていた。

 

「……、アウルは変態野郎。だから、私を求めるのは(しゅじん)として当然」

「なぁ~んかいま不穏当な発言のようにも、聞こえなくはなかったような、あるような……」

「ただ、クロやリサに悪いと思う」

 

 中の良い娼婦仲間であった二人との間接的な別れは、やはり彼女としても惜しく後ろめたい気持ちがあるのだろう。企図せず身請けされたアイリスは、その事実をまだ直接二人に伝えていない。

 言いにくい事に懊悩するのはアウルムとしても理解出来た。三人の中の良さはリリウムの中でも目立っていた。その内の一人を自らが奪い去るような形で身請けしてしまったが、後悔はない。もとよりそのつもりでアウルムは一年以上の月日を重ね、身請け金を貯めてきたのだ。浪費癖を抑えるのには、特に苦労した。

 それに、クローディアはむしろ率先して応援をしていた側の人間だ。残されたリサにしても、頭のネジが緩んでいるので問題ない。

 

「大丈夫だ。クローディアは知ってるし、リサは馬鹿だから」

「それは否定しない」

「女の友情ってのは、男とはずいぶんと違うもんだなぁ。今頃カイムの奴はどうしている事やら」

「何現実逃避してんだお頭、そろそろ俺たち帰るぞ。クローディアとリサが寝る前に、アイリスが挨拶しておきたいらしいしな」

 

 時刻はもう既に深夜を回っている。店の営業時間こそまだ続くが、アイリスの記憶が確かなら、もう少しでちょうど二人とも空き時間が出来る。改めて、先程クローディアが少ない空き時間を要して二人を激励してくれたのには、感謝してもしきれなかった。

 自宅に帰ると聞いて、ジークは「そういえば」と引き出しを開け始め、中から一つの真鍮で出来た鍵を机に置いた。

 

「なんだその鍵は、お頭の秘密金庫か何かの鍵か?」

「そんな良いものを、俺がなんの対策も無しにこんな場所に置いておくと思うか? これは、お前たち二人への祝いの品だ。

 近い内こんな事があるだろと思っててな、豪華じゃないにしろ、アウルムのボロ屋よりは百倍マシだ。ありがたく受け取ってくれ、場所はこの地図に記載してある」

「ありがとボス、私豚小屋は不安でしょうがなかった」

「だんだん遠慮が無くなってきたなアイリス。いい調子だが、俺は被虐趣味が無いからあしからず。

 とにかくありがとうお頭、ボロってのは余計だが、まっありがたく使わせてもらうわ。どうせ家を買う金も無いし、一月先まで飯食ってけるかわからないぐらいだしな」

 

 空元気で呑気に笑うアウルムだったが、その事実の程はアイリスにとって予想以上の逼迫した状況の告白だった。浪費癖を知ってはいたが、まさかそれほどの考えなしだったとは、常に恬然としているアイリスとてこの衝撃には驚きを隠せなかった。

 主にこれまで娼館で会ってチェスをするか、外で会うかぐらいで、アウルムのプライベートを知らなかったアイリスの落ち目だった。

 

「無計画過ぎ、早く働いて稼いで。飢えて死ぬ」

「わ、わかった、わかりましたはい。疲れない程度に頑張ります」

「これからはもう一人分の食い扶持も考えないとだめだぞ? ま頑張れアウルム、これが守る者としての義務みたいなもんだ。通過儀礼だと思って諦めろ」

 

 もう気楽な一人暮らしには戻れない。アイリスを身請けした以上、無計画な散在は控えなくてはいけない。粗野な生活でもアウルムは平気だが、いまはもう養うべき人がいるのだから。

 

「わかってる、そんじゃあそろそろ行くわ。あの二人に会う時間が無くなっちまう」

「一応、いままでお世話になりましたボス。さよなら」

 

 己が境遇を鑑みて、雑然とした感慨が胸中に渦巻くアイリスは、それでも言葉の上では感謝の意を示し、間接的にジークフリード・グラードとの関係を断った。

 娼婦でなくなった彼女は、部屋を去る前に首輪をアウルムの手によって外してもらい、男性客の目を惹きつける扇情的な衣装も与えられた個室で脱ぎ、ジークからの身請け前に決まって与えている決別の服に袖を通した。娼婦の服と違って質素なデザインではあったが、布は上等な物を使用しているらしく、実際にアウルムが触れた時の手触りがとても良かった。

 質素なのにも理由がある。娼婦の服とは真逆のデザインに袖を通す事によって、その決別の意味を表している。

 すべての身支度を終えたアイリスは、両手に黒と白の猫のぬいぐるみを持ち、長らく来ていなかった普通の服でクローディアとリサ……そして、アイリスが寝泊まりしていた三人部屋へとアウルムと二人寄りそって入った。

 

 

 

「あーっ! アイリスじゃん、聞いたよ聞いたよなによなによ臭いじゃん、よかったねおめでとうっ」

「一文字抜くなアホ。でも、ありがと」

「なんでお頭の部屋を出てすぐに向かったのに知ってんだよ、早すぎるだろ娼館街の噂の流出速度」

 

 部屋に入るやいなや、やにわに声を高らかに挙げたリサが“水”の一文字を入れ忘れながらも、持ち前の明るさでアイリスの身請けに祝福の言葉を送った。彼女に悪気が無いのはアイリスとしても既に既知のものなので、特に根にももたずいつものように、抑揚のない声で答えた。

 彼女の変わらぬ快晴のような平穏な声は、アイリスを脅かした不安を吹き飛ばし安堵をもたらした。いつも明るい彼女には、今更ながら感謝しきれない。

 そしてもう一人、全てを包み込み癒す暖炉のような温かみを持った、慈母のような微笑みを携える彼女にも……

 

「おめでとうアイリス。あなたが身請けされたこと、まるで自分の事のように嬉しいわ」

「クロ……色々ありがと」

「家族ですもの、目に掛けるのは当然よ。アウルム様、どうかアイリスをこれからもずっと、よろしくお願いします」

「頼まれるまでもないが、クローディアのいう事だ、深く胸の内に刻もう」

 

 娘を送り出す母のように、アウルムに頼み込むクローディアは本当に嬉しそうで、それがどれだけ彼女がアイリスを想っていたか理解して――ふと胸が熱くなった。

 思えば彼女には何度も世話になった。初めて娼婦にされた夜も心寂しくて一人震えていると、決まって彼女は気遣い声をかけ、アイリスの小さな身体を抱きしめてくれた。娼婦であることに矜持に近い物を持つ彼女は、いつだって娼婦たちの良き先輩であり、良き姉であり、母のようでもあった。

 返せぬ大恩を受けておきながら、アイリスはクローディアよりも先に身請けされ娼館を巣立つ。もうあの頃のように、姉妹のように笑いあう日々は来ないのだ。

 

「アイリス、何も心配することはないのよ。あなたはもう十分に――幸せになっていいの。それが、私には何よりうれしく思う」

「でも、クロわたし……」

 

 クローディアが身請けを狙っているのをアイリスは知っている。日々沢山の客を相手にしながら、精一杯に奉仕して、いつか身請けしてくれる日を密かに待ち望んでいるのを、知りながら……

 

「クロより、わたしが先に……なんて」

 

 優しさが、慈しみが、思いやりが、彼女の持つ温かみが、転じて彼女より先んじた事に罪悪感をもたげ、アイリスは眦が震えるのを感じた。

 一瞬、身請けを撤回する言葉が喉を出かかった。が、すぐにアウルムの事を思い出し、強く自分の脆さを恥じ入った。結局の所、彼女は何事にも拘泥しない事で、安全地帯を作り上げ籠城していただけの、偽りの強さをさも本物のように思っていただけに過ぎない。一歩でも外に出ようものなら、忽ち現実の放火に晒されその身はボロボロになってしまう。

 なのに、震えるアイリスになおもクローディアは優しく頬に手を当てて微笑む。

 

「……いつでも、遊びにいらっしゃい。私たちは、いつだってアイリスが来るのを待っているから」

「そうだよっ、ついでにアウルとの夜の話しとかも聞かせてっ! アイリスの小っちゃい体に、アウルのデッカイのが入るのか今から心配だよあたし!」

「余計な心配はすんなアホッ!」

 

 頬を撫でる姉の柔らかい手が愛おしげにアイリスの肌を離さない。

 ああ、こんなにも。こんなにもここには優しさが溢れている。冷たく厳しいこの世界にも、こうして安寧に身を委ねられる場所があったのだ。クローディアの手とは別に、アイリスの肌を熱いなにかが流れるのを感じた。

 

「あれ、どうして」

 

 どうしてこの身体は、悲しくも、苦しくも、痛みすらないのに涙を流すのだろうか。

 凍てついた感情の湖が溶け、そこから汲み上げるようになおも涙は滂沱と止まらない。

 二人の寿ぐ言葉が、なによりも彼女の心を絞めつけた。そうだいつ来ても、ここはもう昔のような寒いだけの場所じゃない。

 執政公の粛清によって全てを失い、居場所さえもう何処にもないと、そう思っていたのに――もう、なにもない自分じゃない。

 胸を衝く衝動が、涙を止めようと眦を震わせるアイリスに逆らって、さらに流れ出る。

 ふと、優しく体を包む暖かいものに、心が落ち着いた。それは、記憶に新しい香りをしていて……

 

「いってらっしゃい、私の可愛い末妹」

「お姉ちゃんたちはここで、ちょっと口の悪い妹をいつだって思ってるからね」

「ぁ……ッ!」

 

 このとき、彼女は初めて知った。涙とは、なにもつらく苦しい時にだけ流れるものじゃないのだと。

 嘗て、両親に抱かれ眠った過去の日々が脳裏に蘇り、一つの名を奪われたアイリスは惜し気もなく頬を濡らす。

 それは熱く喜びに胸震わす、一人の少女が居場所を得た涙であった。


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