牢獄の暗殺者   作:琥珀兎

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第六話:邂逅の夜

 《終わりの夕焼け(トラジェディア)》とはその名の通りノーヴァス・アイテルに終わりを告げた終焉の余光を指す。

 世界全てを恐怖に呑み込み、下層の一部を混沌へと引き込み、数多の民衆を絶望の底に(いざな)った最も恐怖する光であり、一生涯拝むことないよう希われる光でもある。特に、《大崩落》を免れた牢獄民は一際この恐怖と密接にあったが為に、崩落の恐れがある地震一つ起きようものなら過剰に取り乱し、発狂しては混沌犇めく下界へと身を投げる者さえ少なくない。

 あらゆる悲嘆があった。限りない慟哭があった。声の数だけ流れる澎湃(ほうはい)の涙があった。それでも流れぬ生血(せいけつ)になおも涙した。

 諸共に下界へと呑み込まれた全ては、事実を残し、人々の根底に決して忘れ得ぬ傷痕を残した。――カイム・アストレアもまた、その一人である。

 《大崩落》によって全てを失った少年は牢獄に流れ、もって生まれた容姿ゆえに男娼となるべくして救われた。否、善意で差し出されたと思い込んだ手は、誑惑に染まっていた。

 飢えて死ぬよりはマシだった。少年はまだ幸運な方で、生死の選択すら出来ぬままに死んでいった多くの人がいて、それに比べたら、やはり死ぬよりはマシだった。数日に亘って続いた放浪と物乞いの日々は意思を刮ぎ削るには十分な時間で、だからこそ食糧を餌に騙された時にはもう思考する力すらあるはずもなく、男娼としての未来に抗う反骨心もない。

 命運は此処に尽きると、そう諦めていた。

 しかし少年は抗った。確たる意思もなく、ただ本能が、かつて優秀だった兄の《大崩落》が起きたときの最期が脳裏に蘇り、抵抗の力を分け与えた。気が付けば少年は反抗の代償として手酷く痛めつけられたまま、床に寝かされていた。そこにはかつて身近にあった親の温もりも、暖炉の暖かさも、身を包む羽毛布団の重みすら感じられない。

 一度自覚すると頬を冷たい雫が流れた。思えばそれは少年が牢獄に堕ちてから初めて流した、哀咽の涙であった。幼い身体に残された水分すら躊躇わずに流れる涙は、夜半を跨いで嗚咽と共に流れ続けた。

 運命が変わったのは、泣き疲れ眠った翌日だった。

 泣き腫らした少年の瞳に映ったのは、巌のような巨躯の大男であった。少年とは違って意思の強さを示すような太い眉に、視線で人を本当に射抜くのではと畏怖させる獰猛な瞳。顎に携えた髭は威厳の表れで、それを撫でる節くれた手は少年の知るどんな大人よりも大きく見えた。

 

「小僧、お前男娼は嫌か?」

 

 横たわる少年の前に屈んで厳かに告げられた大男の言葉は、少年からすれば当然決まっていた。だがそれを口にする為の口が開かない。喉が震えない。呼吸が浅く、空腹と全身を駆け巡る鈍痛が少年の行動を阻害する。

 辛うじて動くのはもう、眼球しかなかった。だから助かる為に、男娼以外の道を求め生きる為にありったけの力を総動員して大男を睨みつけた。

“冗談じゃない、男娼なんて真っ平だ!”

 切実に訴えかける少年を見つめる大男は、不屈の色を放つ眼光を向けられても暴力を振わず、寧ろ呵々と大口を開けて大笑した。

 

「ガハハハハッ! 良い眼をしてやがる、こいつはただの慰み者にしておくには惜しい! まったく惜しい!」

「…………ッ!」

 

 少年の訴えがどのようにしてこの豪放に笑い続ける大男に伝わったのかはわからない。しかし彼がみすみす少年を男娼に堕とすのを惜しむような言葉は、少なくとも少年にとって希望の持てる言質である。

 ひとしきり笑った大男は呼吸を整え、眦に浮かぶ涙を節くれた指で拭うと屈んだ体勢のまま「よしッ!」と声を張り上げ、己の両膝を叩いた。立ち上がった大男の背丈は、やはり大きく塔のように高い。まるで彼の言動や態度の大きさを、そのまま体格に反映させたかのようにも思える。

 この大男が房室に来てからそれまで淀んでいた空気が一遍に変性し、涼風さえ感じられる程に安堵していた少年の溜息は、次なる言葉によって断じられた。

 

「なら小僧、慰み者が嫌なら――人殺しの道しか残されてないぞ」

 

 強制こそしないが選択肢すら限定された少年の未来は、ここに決する。

 右手を喪うか、左手を喪うか、そのどちらかの選択を迫られたにも等しい大男の提案は、利き腕を喪うのを惜しんだが故に定まった。これによりカイム・アストレアの人生は未来に繋がる。先の暗殺者として生計を立てた経験が生んだ、虚無的で打算的かつ冷徹な男へと作り上げた。

 後悔はない。慙悔など忘れた。自責に潰れるような脆さは捨てた。数多の可能性を犠牲にした果てに得たカイムという個人は、しかし、未だ脳裏に時折『人間には誰にでも生まれた意味がある』という母の言葉が去来する。

 牢獄では人は金貨を数枚積み重ねた程度の重みしかないのに、どうして生まれた意味などあろうものか。

 

 ――人間に生まれた意味なんてない――

 

 嘗て暖炉の前で母の温もりを感じていた頃の思い出は、とうに牢獄に吹き荒ぶ蛮風によって風化している。思い出を美しいと回顧するのが無駄だと断ずるぐらいに、カイムは逞しくなり、だから諦めるようになった。

 簡単に亡くなる命に意味と価値を与える方が愚かなのだと。

 

 

 ※

 

 

 久しく夢など見ていなかったカイムにとって、今まさにハッキリと回想出来る新鮮な夢を見た感想は“懐かしい”という感傷だった。未だに思い出すと冷や汗の流れる《大崩落》後の惨めな生活から、《不蝕金鎖》の先代お頭であるボルツ・グラードに見出された時の夢は、忘れ得ぬ大恩と忘れ難き屈辱の思い出。

 あの時カイムを騙した男はもう死んだが、それでも胸につっかえ割り切れぬ鬱憤がある。少年時代に懐いた純粋なまでの昏い怒りは、解消出来ぬままに対象を喪ったが故に成長したカイムの心に引っかかり続けている。もし過去の自分が雪辱を晴らす事が出来ていれば、こうはならなかったかもしれない。結局の所、カイムの性格を作り上げる要素の一つとして、あの詐欺師の男は組み込まれているのだ。

 これはもう厭うのではなく忌避することなく清濁併せ呑むしか他にない。中身の零れた陶杯に、そっくり同じモノを注ぐ事は出来ないのだから。

 心情を整理し終えたカイムは寝具から起き上がり、朝の陽射しが差し込む窓を忌まわく見据え、かぶりを振って目を覚ました。

 

「あっ、おはようございますカイムさん」

 

 朝の陽気に相応しい明朗な挨拶をしてきたのは、このまえ金貨六〇〇でジークから身請けした真白い羽つきの少女ティアだ。およそ悩みなど持っていないと思わせる晴れやかな笑顔でカイムを迎え、朝食の準備をしていた彼女は、彼が完全に起きたのを視認すると再び調理に戻った。

 ティアがカイムの所有物となってから数日、特に印象深い出来事があったわけもなく日々平穏な日常だけが続いていた。彼女の発する光の正体を知りたいカイムにしてみれば、この日常に焦れる思いもある。だがそれだけではなく、当面はこのままでもいいのじゃないかと、柄にもなく安穏な心持ちになっているのにカイムは気が付いた。

 

「おはよう」

「もうすぐで出来ますので、あとちょっとだけ待って下さいねカイムさん」

「なぁ、俺は気にしないんだが……良いのか?」

「はい? えっと、なにがです?」

 

 もったいぶったカイムの口ぶりにいまいちな反応で小首を傾げたティアは、背中越しにカイムを見つめながらも手元で踊るフライパンに意識を割くのを忘れない。

 寝癖のついた髪を掻きながら、言いにくそうにカイムは口を開く。

 

「あー、お前昨日同じことして、エリスに怒られてただろ」

「あ……、あああァァ――ッ!」

 

 昨朝に咎めるような物言いでエリスに言いつけられていた事を、完全に失念していたティアは取り返しのつかない後悔に悲鳴に近い声を上げた。

 扉が開いたのは、そのときだった。

 

「わかってるじゃないカイム。そういう事だから、小動物が作ったのは自分で食べなさい」

「え、ぇエリスさんっ!?」

「お前、いつからそこに居た」

 

 見計らったように現れたのは、剣呑な雰囲気を纏ったエリスだった。これ以上ないタイミングで姿を見せた、もう一人の所有物である彼女にカイムは呆れたように眉根を寄せた。

 対するエリスは明らかに歓待とは程遠い彼の対応に不満を示すのでもなく、寧ろ嫣然として手に提げたバスケットをテーブルに置いた。

 

「ついさっき。入ろうと思ったら気に入らない音が聞こえたから、ちょっと驚かそうと思って。はい、カイムは私が持ってきたコッチを食べて」

「さもお前が作ったように言うな。どうせメルトの料理だろ」

「そうだけど私が注文して作らせたんだから、“私の”と言っても過言じゃないわ」

 

 ティアがカイムに食事を作るのが気に入らないエリスは、しかし自分の料理の腕を良く知っていた。現状の技術ではキッチンで狼狽えるティアにも劣る。だから彼女は、せめてカイムにまともな料理を口にして欲しい一心で、業腹ながらも好きになれないメルトに頼んでまで持ってきたのだ。

 エリスを身請けたカイムに奉ずるのは彼女にとっては当たり前で、だが、カイム本人は彼女にそんな奉仕精神など望んでいない。とは言え、メルトの料理に罪はない。言いたい事は沢山あったが、いまここで舌戦をすれば折角の料理が冷めてしまう。考えあぐねた結果、カイムはエリスの事は一旦棚上げして朝食を摂る事にした。

 

「ティア、悪いがその料理はお前が食べてくれ」

「は、はいっ。わかりました、私がエリスさんの言いつけを破ったんですから、責任を持って全部食べます」

「そうね、責任もってあなたには隅で食べるのが似合ってる」

「エリス、余計な事は言わなくていい。好きな場所で食べろ、いちいちこいつの言葉に耳を傾ける必要もない」

 

 まるで下知を受けたように謙るティアは、元が召使いだった経歴を持つためにその卑屈なまでの対応は堂に入っていた。一度己の立場を確立させてしまうと、変えろと他者が説いてもなかなか変わるものじゃない。エリスの言葉はティアにとって、なるべく逆らうまいという性質を逆手にとって利用しているも同然。エリスが本妻を気取り続けるというのは、そのままティアに示威する行為と違いない。

 主人としては早朝から騒動は勘弁してもらいたい。ただでさえ“自由に生きろ”と言いつけたエリスが、ようやく医者という職に就き、自立の兆しを見せたというのに。これではカイムの努力が他でもないカイム自身で無碍にしたことになってしまう。

 

「お前ら、朝飯ぐらい黙って食え」

 

 喉に蟠る溜飲をため息交じりに下げずに吐き出しながらそう言うと、二人は――エリスは一、二言文句を呟いた後に大人しくなった。

 気を取り直して臨んだ食事はカイムの好物ばかりで固められた朝食で、口に運ぶたびに口腔を歓喜に震わせる味はカイムにとっての栄養だけでなく精神安定にも大きく貢献した。心労に近づくほど労して得た厳粛な食事は、それほど時間もかからずに終わりを迎えた。

 メルトの作った食事はカイムの胃袋と満足感を増大させた。満たされた胃を撫でながら、常備してあるブドウ酒を食後酒として楽しむカイムは、一向に家から出る様子のないエリスに目を眇めた。

 

「今日の仕事は、ここで何もしないでだらける事なのか?」

「そうよ。この前ここにあの人が来たって聞いたから見張りに来たの。彼が来たらカイムはきっと喜ぶ、顔には出さないけど絶対長く居ようとする。だから私が阻止するために居るの」

 

 皮肉にも眉一つ動かさない凛然さを持ったエリスは、滔々とそう言って女神像のように同じ姿勢のままでいる。彼女の警戒の種であるアウルムは、このあいだの夜に訪れて以降一切姿を見せない。無論、娼館街や《リリウム》に赴けば会える。ただカイムの自宅には引っ越し祝いに来たきりだった。故に、エリスの心配はそれ程重視する事柄でもない。待たずとも、アウルムはきっと来ない。

 

「アウルなら来ない。そう何度も遊びに来れるほどあいつも暇じゃないんだ」

「怠け者を謳ってる癖に忙しいなんて、なんて矛盾。馬鹿みたい」

「ジークが隠したいからだろアウルを」

 

 憮然と鼻を鳴らすエリスの言い分も間違ってはいないと、カイムもまた内心で同意する。アウルムが怠け者であるのは平時を見る限り明らかだ。それは自他共に認める程の面倒くさがりで、真相を知らない人々には昼行燈のように映っていることだろう。

 真意は、アウルムがそれだけに限らないという所にある。

 一度紫煙を吸排すれば、彼は生粋の暗殺者として名を馳せる大人物だ。背に負うニホントウという規格外の切れ味を誇る刀剣を持っているだけに非ず、目を瞠る程の脚力と観察力。それにニホントウを隠れ蓑にし、彼は数多くの武器をその身に秘め隠している。暗器というには無骨でしかし暗器よりも殺傷力を持つそれらは、アウルムの多様性を体現している。

 

「あいつの怖さは、凄烈なまでの突破力だけじゃなく、危機的状況をも打破しかねない対処方にも長けている点にある。もしそんな奴が裏に潜んでるなんて思えば、アウルムの、《不蝕金鎖》の毎日が殺し合いになっちまう。

 ジークはそれを懸念してるんだ。絶対の刀を振るうには、この牢獄は狭すぎるんだ」

「それってただアウルムが優遇されてるだけじゃない。寄ってたかっていい大人の男が、年上の男を贔屓して入れ込んでるだけに見えるわ」

 

 カイムとジークが双方からアウルムに寄りそう絵でも想像したのか、嫌悪に顔を歪めたエリスはそう言ってすまし顔を作った。

 

「やっぱりアウルムは私の敵よ、どうしようもなく気に入らないわ」

「お前が一方的に嫌うのを止めろ、とまでは言わないが、アウルを立てるのはそれだけの理由があるからだ」

「だから、強くて使えるからでしょ?」

 

 聞くまでもないと断じ、聞きたくないとエリスはそっぽを向いた。少しでもアウルムへの嫌悪を緩和してもらいたいカイムは、それでも止まらず語りかける。

 

「グラン・フォルテ以降、《不蝕金鎖》に入った俺と、先代の息子であるジークにとってアウルムは恩人なんだ。いつだって助けてくれたからな――」

「聞きたくない」

 

 氷のように冷たく固い声で遮られ、カイムの言葉は宙に霧散した。煩悶とした顔でエリスは立ち上がり、表情を一切カイムに見せぬまま扉を開け放った。朝の冷気が隙間風のように入り込み、カイムの身が硬直し引き締まった。まるで彼女自身から吹き荒ぶ荒涼の風のよう。

 

「カイムの口からアウルムを褒める言葉も、感謝の色にそまった声も聞きたくない」

「エリスっ、どうしてお前は」

 

 そう意地を張ってばかりいるんだ――次ぐ言葉はしかし、乱暴に閉まる扉の音に掻き消された。

 エリスがこうもアウルムを敵対するのが嫉妬であるのは、本人の口から聞いたので間違いない。だがそれでも、カイムは彼女の言葉を鵜呑みには出来なかった。嫉妬するという事は即ち、カイムに執心している証左である。突き放した筈の彼女が、未だに自分に縛られている証をまざまざと見せつけられているようで、カイムには受け入れる事が出来ない。

 数年かけて己の身に注がれた罪の汚穢を濯ぐ機会をようやく得られた。エリスの自立は、カイムの居ない所での幸福は、贖いの糧となる。なのに、それも上手く行かない。ならばこれこそが罪なのか。

 逃れ得ぬ罪に懊悩しながらカイムは自棄になってブドウ酒を飲み干した。部屋の隅から聞こえるティアの気遣う言葉が耳に痛い。いまはただ、アルコールが刺激する酩酊感に溺れたかった。

 

 

 ※

 

 

「お前の生に――意味はあったのか?」

 

 告げる言葉は厳格に。

 

「それじゃあ――悔いて死ね」

 

 行使するは厳粛に。

 

 月夜の明かりは須く暗殺者に味方すべきであり、今宵もまた月の加護の下に行使された一方的な求道と断罪が、答えを得られぬまま終わった。

 血糊の一滴すら付着しないニホントウを風切る勢いで振るい、鞘に納めると、屍となった肉片を処理し始める。さっきまで顔面をぐしゃぐしゃにしながら涙を流していた顔は、苦悶の表情のまま首から下が無くなっていた。

 凍りついた湖面の如き心情で頭部を持ち上げるアウルムには、一切の迷いも惑いもない。あるのはただ何処までもがらんどうな洞のような瞳のみ。最果ての無い洞の深淵は、どこまでも深く。吹き込む風の嘶きすら聞こえてきそうであった。迷いも惑いもない代わりに、またも答えを得られなかった落胆の一念が彼を苛んでいた。

 煙草を取り出し咥え、火を灯す。一方的に人を手に掛けて落胆するとはどこまでも盗人猛々しいが、彼にとって死にゆく命とは散る瞬間の“意味”を発する勘尺玉のようなもので、叩けば砕け火花散らすその輝きを得たいが為にしか価値を見出さない。無論、生きた命とて平等に許容する。進んで殺しはしないが、だからといって守る理由も無い。

 まとめた死体を下界へと投げ捨て、混沌に呑まれゆく様を見下ろす。黒くうねくる混沌の雲は正邪諸共を呑み込む平等な不条理を孕んで、この地に立つ者全てを監視しているように見える。或いはこの身を投げ出せば、死の淵に己の意味を見出すことも可能であろうか。

 脳裏を過ぎる益体のない考えに思わず自嘲の笑みが浮かぶ。自分の死が意味を発露するとも思えないし、なによりこれまで他人に求めていた理不尽さがまさか内側にあったとあっては、アウルムの立つ瀬がない。

 しばらくの間下界を見下ろしていると、ふいに背後で濃密で粘性の泥のような殺気が、アウルムの背中を撫でつけた。

 

「――ッ!?」

 

 電光の速さで理解より早く、判断するより先んじて体が背後へと反転した。瞬刻の内に、眼前にはこちらに向かって飛来する短刀の鈍い光が奔っていた。

 長年の条件反射で短刀の柄を掴み、腕を円環に廻して勢いもそのままに投擲されたであろう場所目掛けて投げ返した。

 誰何を問う意味など既にない。沈黙のままに殺意を投げつけてきたのなら、己もまた沈黙を持って殺意に応えるまで。さっきまで感傷に自嘲していた顔はどこへやら。アウルムの顔貌には一切の慈悲もない冷酷な暗殺者としての顔を覗かせていた。

 ひゅんと風を切り裂く音を発しながら疾駆する短刀は、朽ちたスラム街の廃墟へと意味を失った孔となった窓へと侵入していった。

“手応えが無い……仕損じた?”

 月明かりの届かない闇に消えた短刀は、持ち主にあたった感触もなく、壁や障害物といった無機物に突き刺さった音も聞こえない。完全なる闇から聞こえるのは、微かに漏れる人の吐息のみ。そこに誰かが潜んでいるのは明らかだった。

 

「…………」

 

 相手はこちら側を完全に視認している、にも拘らずアウルムからは気配は感じられてもその姿を輪郭すら捕らえられない。月明かりの下に立っているというのが、今になってアウルムに仇を成している。

 位置関係は絶望的。主導権も完全にあちら側に先取されている。このままでは的になってしまう。自身の傍らに死がすり寄ってくるのが分かる。

 寒気が奔り粟立つ肌にますます眉根を寄せたアウルムが、次に取るべき行動は二つに一つ。

 第一に、このまま全力で逃亡のみを考える。――己の命を大事にするなら、この選択はあながち愚挙とも言い難い。しかし、その場合追い縋ってくるだろう敵を如何に躱すかにかかっている。幸い、アウルムの脚力は超人のそれだ。一目散に屋上へと飛び上がった後に思考想定した敵を翻弄しながら走れば、或いは逃げ延びる事も可能であろう。

 第二に、敵の完全撃破。――愚行だと断ずる声が脳裏に響く。技術に溺れ、慢心をしないアウルムにとって、正体不明の敵を相手取るというのは無謀だと判ずる。暗殺者として大成したこの身は、一方的な殺しに特化し、防戦一方からの闘争にはその優位性を見失ってしまう。ただでさえ初手を奪われ、立地の悪い位置に居る彼にとって、正面切っての戦闘には意味を見いだせない。加えて相手は、姿こそ見えないが相当の手練れである事が肌に刺す殺気から感じられる。殺し損ねれば、アウルムの素性が露見する恐れもある。ジークに出来るだけ秘匿を命じられている身で目立つ行動は避けたい。

 逡巡の後、アウルムは眦を決した。

 瞬時に懐から一本の無反射加工をした短刀を抜き出し、片方の手で取り出した毒薬を塗布。秒速で動くアウルムの腕は、一遍のミス無く行程を終え、毒の塗られた短刀を投擲した。――そして結果を受け取る間もなく付近の廃屋の屋根へと飛び上がる。

 一目散に関所方面へと走り、スラム街に背を向ける。その間にも残るナイフにも毒を塗布するのを忘れない。忙しなく走る足音に混じって、アウルムとは別の足音が追随するのを聞き及んだ。

“やはり追ってくる、か。……だけど、そう簡単には……!”

 逃亡を選択したと思ったのか、敵はアウルムの走る後方下方で追い縋る音を発している。想定外の速度に歯噛みしている様が、アウルムの脳裏に思い浮かんだ。主導権は、いまここに両立した。

 飛ぶように走っているアウルムは、一定の間隔で地を踏みしめ走っている。それは敵に対して速度の差を知らしめるものであり――油断を誘う思考を一方へと指定させる歩法でもあった。

 走行中に懐からアウルムが取り出したのは、三つの小さなブーツの底敷きである。重りのついたそれを、アウルムは自身の前へと、一定の間隔で投げ出した。放物線を描く底敷きが、あと数秒で地に叩きつけられる瞬間を見計らって、前へと駆けていた足を体幹の先に突出し、バネのように膝を曲げ、後方へと遠く跳躍した。

 追い縋る敵の足音に変化はない。ブーツの底敷きが地を叩く音は、差異なくアウルムの足音に偽装し役目を果たした。

 ――敵は、後方から直下へと位置が狭まっていた。

 無音のままに宙を降下するアウルムは、閃光の如き速さでニホントウを抜き放ち、大上段に構え直上から敵の位置を阻んでいる、突き出たレンガ造りの建物を自分が通れるだけの隙間を作るように両断した。音もなく煉瓦を切り裂くニホントウが、その切っ先が敵の姿を視認した。

 腰まで伸びた漆黒の髪を追い風になびかせ、鳩羽鼠色の長外套をはためかせ、走る敵の顔は――見紛う事無く女のものだった。だからといって、アウルムの剣筋は鈍らない。獲物を追い立てる愉悦に破顔している女を睥睨し、音もなくニホントウが両断せんと煌めいた。

 ――失敗は、アウルムが月の存在を失念していた点にあった。

 必殺を確信していた一刀は、しかし空振りに終わった。敵の女は、足元に突然出来た歪な影に気が付き、咄嗟の内に回避行動をとっていたのだ。断頭台のように振り下ろすニホントウは敵の生き血を啜ることなく、渇いた大地を切りつけるに終わった。

 

「危ないねぇ、久しぶりに肝を冷やしたよ」

「……運が良いな。喜べ、これで俺はお前を殺す以外の選択肢を無くした」

 

 恐怖など微塵も感じられない女の声はおどけたようで、遊び相手に構ってもらえた喜びに震える稚気すらあるようにも聞こえた。

 アウルムの取った手段は、一でも二でもない両方を取る第三の手段だった。敵の逃亡の意思を植え込み、追走に拘泥させ、視野を狭窄にした上でも強襲。三つの底敷きは、さもアウルムが逃亡を続けるように粉飾した物で、効果は覿面だった。惜しむらくは月が彼を味方しなかったこと。

 死の淵を月の加護によって這い上った女は、獲物を見定める目つきでアウルムを舐め回し、口元は惨酷に、獰猛に歪めている。

 

「まさかこんな場所で、あんたみたいなイイ男に出会えるなんてね。柄にもなく散歩もしてみるもんだ」

「まさかこんな場所で、お前みたいな面倒な女に出会うなんてな。柄にもなく“後処理”まで自分でやるもんじゃない」

 

 女が快楽に喘ぐように言い放ち、男が望まぬ出会いに苦笑し言い放つ。

 双方の位置は互いに持つ獲物の間合いにあってなお、切っ先が動くことはない。互いに牽制したままの膠着状態は続く。

 

「つれない事を言うんじゃないよ、あたしが見るだけで濡れるような男の言っていい台詞じゃないよ」

「俺には嗜虐趣味も被虐趣味も無い。悪いが、そこらへんの犬でも相手に腰振ってろ醜女が」

 

 実際の所、アウルムの罵倒の通りの容貌ではなかった。女は悦楽に浸るような節操のない顔をしてはいるが、元の顔貌は少なくとも牢獄内では美人を評せるだろう。ただ彼女のそれは、余りにも鋭利な刃物のような美しさで、近づく者を選ばず斬り捨てるような剣呑さを孕んでもいる。

 

「残念……あんたなら、あたしをイかせられると思ったんだけ、どッ!」

 

 惜しむような落胆を見せた途端、言葉尻に乗って女の両手に持っていたナイフが奔った。上段からの振り下ろす一刀と、下段から切り上げる一刀がほぼ同時にアウルムの身へと斬り迫る。

“両手に持ったニホントウでは対応が追いつかない――なら”

 二刀を同時に相手取るのに一刀だけでは難しい。迷いなく即断したアウルムは、ニホントウを杖のように地に突き立て、両脚の爪先を蹴り、踵より仕込み刀を突出し、旋風の如く体軸を回転させ彼女の振う二刀のナイフを弾いた。人気の無いスラムの街路に、耳を劈く金属音が鳴り響く。

 

「ははははっ! この手を、そんな隠し技で返されたのは初めてだ! やっぱりあたしの目に狂いはなかった、最高だよお前! イキそうだ!」

「お望み通り、逝かせてやる、よッ――!」

 

 狂乱する女の両手が弾かれた衝撃で外側へと開く。この隙を逃すアウルムではない。返す刀で地面よりニホントウを引き抜く――のではなく、突き刺さったまま切っ先が地を駆け下段より袈裟懸けに、逆巻く颶風(ぐふう)を従えて切り上げる。

 出し惜しみは死を招く。直観的にアウルムはこの女の危険性を感じ取っていた。だからこそ、一刀の下に両断しない内は安心できない。

 さしもの女にとっても刀が地面を切り裂く光景は驚愕を隠し切れず瞠目したまま、しかし右側より迫る刃に臆する事なく左足を蹴り上げた。爪先を伸ばして蹴り上げる先にはアウルムと似たような機構で飛び出す短刀があった。ただ一点違うのは、アウルムのは突出し“留める”ものであって、女のは突出し“飛び出る”構造である点だ。

 

「ぐっ……!」

 

 地を這い駆け上る短刀は、回避しない限りアウルムの頤を突き刺すだろう。よって、生きるためには上体を逸らすしかなかった。それは彼が生き残ると同時に、彼女もまた命を繋ぎ止める結果を示す。上体を仰け反らせた結果、ニホントウの剣筋は鈍り、その速度は女にして取るに足らない速度にまで落とされた。後方へと飛びのいた女は、変わらず嗜虐に口元を歪め、恍惚に眦が下がっていた。

 

「今のには驚いたよ。まさか石を切るなんて、いったいどんな絡繰りなんだい?」

「斬りたいと思ったから斬ったまでだ、そこに種も仕掛けもありゃしない。そう猛るな、瞬刻の内にお前は死ぬ。――さあ、俺の為にその生の意味を教えてくれ」

 

 宣言しニホントウを構えると、相対する女の表情がこれまでの悪童じみた狂喜ではなく、信ずる者に向けるような慈しみに形作られる。舌なめずりをする口元が、諧謔に歪む。

 

「意味、ねぇ……ははははッ!! こんな所に同類がもう一人居るとは思ってもみなかったよ! そうかい、あんたも殺すことで答えを求める哀れな一人だったんだね!」

「…………」

「くくくっ、運命ってのをちょっとは信じても良いかもしれないよ」

 

 哄笑する女の眼差しは慕情に濡れそぼっている。自分もまたアウルムと違いないと、そう嘯く彼女に、アウルムは黙然として感情を排した瞳で睥睨している。女は呼吸を荒くしながら、浪々と語る。

 

「人の命なんてあっさりと亡くなってく。こんなちっぽけな存在に、いったいどんな意味があるのかあたしも知りたいんだよ。殺して、殺して殺し続けてれば、いつか誰かが教えてくれるんじゃないかって。

 同じ事をやってる男が居たなんて、あぁ……あんたはあたしを何処まで虜にするつもりなんだい」

「お前の渇望に手を貸すつもりは無い。これは、俺が欲した、俺の命題だ。それを横から掻っ攫うつもりなら、お前もまた俺の為に積み重なった屍の山の一角となれ」

「つれない事言うなよ、あんただって……牢獄で殺ししか能の無い暗殺者なんだろ? 風貌と手段を見ればわかるよ。あたしとまるっきり同じだ」

 

 自らもまた暗殺者と称した女は悠然と歩み寄り、アウルムの間合いの一歩手前で立ち止まった。

 

「――ガウ・ルゲイラ。それがあたしの名前だ覚えとくんだね」

「――アウルム・アーラ。刻め、それがお前を手ずから殺す男の名だ」

 

 決して友好的な関係にない二人が、これが互いが互いを正確に認識した瞬間であった。

 過去に振り返る価値もなく。未来を馳せる実感もない二人の、履き違えた価値観を求道する暗殺者との出会いであった。

 

 

 ※

 

 

 報告もおざなりに済ませた後、いつもなら一杯寄っていくヴィノレタに目もくれずにアウルムは自宅へと戻った。脳裏にこびりつくガウの表情と声が、どこまでもアウルムの心臓を圧迫していた。

 本当なら彼女との出会いもジークに報告しなければならないのに、どういうわけだか知らせるつもりにならなかった。自身すら与り知らぬ感情に流されるまま、ガウの報告を怠ったアウルムは、機会を逸したが故に生涯に亘っての秘匿を自らに課してしまった。

 彼女をどうしたいのか……殺す? いや、それよりもまず知りたかった。彼女という人間を、どういった経緯でアウルムと同じような命題を掲げるようになったのか。もう一度出会って――出会ってきっと、また殺し合うだろう。

 何処まで思考を巡らせても彼女との邂逅は、即ち殺戮の予兆に過ぎないと断ずる。人を喰ったような口ぶりに、獰猛な鳶色の瞳をした彼女には殺意と快楽が同居している。ガウにとっての友好とは、そのままあの二刀のナイフを振るうのと同義なのだろう。

 対するアウルムもまた、彼女に出会って刀を振るわずにいられる自信が無かった。これまでの誰よりも強いと感じるガウの実力は、間違いなくアウルムに匹敵し、魅せられるほどの命の輝きを迸らせていた。皮肉にも彼女が求める意味は、そのままアウルムの求める意味でもあり、それに近い輝きを彼女自身が放っていたのだ。もしかしたら、ガウもまた、アウルムに同じ心境を懐いたからこそ、初対面にも拘らずあれほどの執着を見せたのかもしれない。

 全身が、彼女の姿を思い浮かべると震える。この感情は一体何なのか。アイリスを想う感情とは程遠いそれは、しかし、どこまでもアウルムを激情に駆り立てる。

“今一度、あの女と剣を交えたい”

 願望の発露に、アウルムの口元が獰猛に歪む。

 射抜くような眼光を、筋の通った鼻先を、血に濡れる唇を、艶めかしい曲線の肢体を、艶やかな漆黒の髪を。貫き、刮ぎ剥ぎ取り刻んで斬り裂きたいと、切に願った。

 求める一方で、しかしアウルムには何故こんなにも彼女を意識するのか理解が出来なかった。殺しに快楽を見出す彼女は、冷酷に斬り捨てるアウルムとは違う。何処までも卑俗なガウに、どうして劣情にも似た衝動が擡げるのか。きっと彼女を殺せば、長年の意味を求める旅路に終点を迎えるだろう。だからといって、それだけがアウルムの全てではない。

 ありのままを良しと許容する抱擁は、ガウも例に洩れない筈。であるなら、アウルムの執着は此処まで育たない。にも拘らずどうして……

 

「殺したいのか? それとも、答えを求めるから?」

 

 命令なくては人を殺さない殺人機械が、自立の一途をたどり始めているのを感じ、変化する自信の構造に猜疑心が煮え滾る。

“こんな日は、アイリスとチェスでもしよう”

 意を決して気付けに一杯のブドウ酒を飲み干し、アウルムは自宅を出た。あの幼い少女の、他者を慮る事の無い罵倒を求めて。

 

 

 闇が濃くなり、夜も深まった娼館街を歩く足取りは重い。ガウとの邂逅は、それほどにアウルムの中に根強く鮮烈に刻み込まれていた。

 ああも苛烈に剣を交えたにも拘らず、彼女は自己紹介をしたかと思えばあっという間に闇に潜り姿を暗ました。別れ際に言い放った彼女の言葉が、今でも脳内に残っている。

 

『あんたに決めた。あたしと(しとね)を共に出来るのはアウルム、あんたしかいないよ。

 いずれまた、そう遠くない内に会いに行く。その時までに、精々あたしの為に“答え”を用意しておいてくれ』

 

 嫣然とそう言い残しガウは去った。再開を約束した彼女は、きっと必ず現れるだろう。両手にナイフを携えて。彼女の口ぶりは、まるで剽窃を予告するかのようで、これにはアウルムも自らが気色ばむのを感じた。

 《リリウム》が視認できるほどの距離まで近づくと、店先は時間帯もあってか人が集まり繁盛していた。誰も彼もが目尻を下げて順番が訪れるのを今か今かと待ち望んでいるように。

 人ごみを素通りし、アウルムは裏手に回って《リリウム》へと入った。関係者である彼ならではのショートカットで中に入り、待合室付近の机で帳面を眺めているオズと目が合った。相変わらずの自分を甘やかす事を知らない。ジークに心酔している顔を隠そうともしていない。

 

「なんだアウルム、今日は客で来たのか? それともジークさんか? それならヴィノレタだ」

「どれも違う。アイリスは何処だ? 仕事中か?」

 

 オズにもジークにも用は無い。いまアウルムが会いたいのは男ではなく女だ。幼い矮躯に黄昏る眼差しの少女が、アイリスがどこにいるのかを求めて問いながら、その視線はオズではなく室内を隈なく見渡していた。

 待合室には男しか居ない。当然だろう、いまは営業時間。殆どの娼婦が男を取って個室へと籠っているのだ。暇を持て余す娼婦は居なかった。仕事熱心、大いに結構である。

 

「アイリスが暇な訳がないだろ、いまもほら……ちょうど客とそこで」

 

 皺の目立つオズの指が差す先は待合室の奥。そこは娼婦たちの個室がある廊下であった。弱い明かりの灯った廊下には、二人の人影があった。だらしなく膨れ上がった腹をした生活に困ってなさそうな金持ちの男と、それを部屋の外まで見送った少女――アイリスがいた。

 男は満悦の表情で頬を緩め、行為の残滓を噛み締めるようにアイリスを抱きすくめようとした。しかしアイリスはそれを素気無く躱し、お返しと言わんばかりに白磁のようなおみ足で蹴倒した。あえなく尻もちをついた男は、歓喜に声を漏らしていた。

 ちょうどついさっきまで、きっと彼女はあの男に良いようにされていたのだろう。両者に共通する汗で張り付いた髪の毛が、それを言い訳のしようもなく表している。

“結構、いいタイミングで来たみたいだな”

 内心で独りごちてアウルムは微笑した。口惜しげに別れを告げ去る男を横目に見送り、アイリスの方を見やる。アウルムの存在に気が付いた様子で、彼女はいつもと変わらぬ茫洋とした表情で歩み寄ってきた。

 

「ようアイリスっ、しっかり仕事してるか、あんま客を足蹴にするなよ」

(きゃく)なんてあの程度の扱いで十分。で、何しに来たの?」

「オズ、アイリスのこの後の予定は?」

 

 問われて帳面に目を通したオズは、そのままの姿勢で答えた。

 

「見計らったようにもう無い、ま今夜はもう良いだろう。アイリス、好きなように休んでいい」

「なんで私に聞かない?」

「いやだって、なんかアイリス嘘教えようって雰囲気だったし」

 

 バツが悪そうに眉を顰めるアイリスは、確かにアウルムの言うとおり嘘を告げようとしていた。望まぬ行為に蹂躙された少女の身体を、汗の染みついた身体をアウルムには見られたくなかった。だから廊下を出た時、彼の存在を視界の端に捉えた時、アイリスは途方も無く頭が冷えていくのを感じた。

 何がそんなに彼女の心を乱すのか、彼女自身よくわからない。だけど、明らかな行為の後を見咎められたと感じたアイリスが、その身を暴風の中に落とされたように荒れ狂ったのは間違いない。

 

「アウルに会いたくなかったから」

「うーわっ、それ目の前で言うかお前」

「目の前で言わないと意味が無い、用があるから終わるまでそこで待って」

 

 抑揚のない声で指差すのは待合室のロビーだった。しかし、そこにはまだほかの客の姿が見受けられる。アウルムとしては、他に邪魔の入らない所でのんべんだらりと過ごしたかった。脳裏に思い浮かぶのは、とある者の一室。あそこのソファーなら此処のより数倍座り心地も良い。

 

「いや、お頭の部屋に居るから、用が済んだら来てくれ」

「ちょっと待てアウルム。ジークさんの留守中に他の人を通すわけにはいかない。お前だって、それぐらいわかるだろ」

 

 《不蝕金鎖》の党首の私室に、本人の許可も無く立ち入るのは掟になってはないものの、当然の決まりみたいなものだ。アウルムと言えど、この暗黙の了解は知っている。ジークがヴィノレタにいるいま、オズがそれを易々許す筈もない。

 咎めるオズの手が、アウルムの肩を掴んだ。力こそ掌には籠っていないが、試しに肩を揺らしてみようとすると、びくともしなかった。それほどに、オズの意思は強い。

 

「まあ細かい事言うなオズ。俺が居ればいいんだろ」

 

 横槍は思わぬ相手から入った。牢獄では上位に位置する身形のジークが、まさにそのとき現れたのだ。

 

「ジークさん。あなたがそう言うなら……」

「と言うわけだ、アウルム、使っていいぞ。悪いが、俺もついて行くがな」

「文句はないさ、別に後ろ暗い事をするつもりじゃないんだ」

 

 部屋の主が現れたなら話しは早く、大人しく引き下がったオズはそれきりで職務に戻った。

 ヴィノレタで酒を飲んでいたのか、気分の良さそうな面持ちのジークは剽げたように言いきって、一人先んじて階段を上がっていった。

 

「さて、それじゃアイリス。用とやらが済んだら、お頭の部屋に来てくれ。今日こそチェスで勝ちたいからな」

「何度やっても変わらない、アウルが私に勝つなんて、牢獄の絶壁を上るのより難しい」

 

 言い残し、アイリスは相部屋のある方へと歩いて行った。もしかしたら汗ばんだ体が気持ち悪いから風呂にでも入りに行ったのだろう。アウルムと話している時、しきりに体を気にして身を捩っていたのを、アウルムは見逃さなかった。

 残されたアウルムはジークの私室へと足を運び、二人で他愛ない組織とは無縁の言葉を交わしながらアイリスの到来を待った。果たして想像通り彼女は、すっきりとした風情で頭に湯気をたてながら部屋に来た。思った通りだったアウルムは、その旨をアイリスにそのまま伝えると、眉が吊り上り罵倒を浴びせられた。呆れた様子でそれを見ていたジークが嘆息するのが、なんとも平穏な様子を表していた。

 

「……今日のアウル、なにか変」

 

 彼女がそう漏らしたのは二度の敗北を注がれ、泣きの三度目を挑んで一手打った後だった。的を射た言葉ではあったが、口にしたアイリス本人はその心意を汲み取ったような決然さが無い。

 内臓を鷲掴みにされた感覚に、アウルムは渋面を作る。

 

「なにかって……何が?」

「そうやって馬鹿正直に応えるのが、どこかおかしい。どうしようもなくふざけた男の癖に、いつになく真面目」

「……あ~」

 

 返す言葉が無かった。先刻までのガウとの出会いからまだ一日も経過していない今、アウルムはどうにも人格のスイッチが上手く切り替わらなくて苦心していたのだ。いつもの根明な人格が霞み、暗殺者としての人格と重なり透けているような、そんな感覚。

 アウルムの呻吟を知らぬアイリスは、判然としない態度の彼にますます追い打ちをかける。

 

「チェスを差す手にも出てる。いつもならこの誘いにも警戒して乗らないのに、今日はそれにも気が付いてない。まるで心此処に在らず。豚なみの知能」

「……ぶひぃ~」

「死ね強■野郎」

「まだそれ言うのか!? なぁ、いい加減教えてくれよ。俺強姦なんてしてないぞ」

 

 間断ない精神攻撃に項垂れたアウルムはアイリスの答えを大人しく待った。部屋の主たるジークも、興味を示して彼専用の椅子に背中を預けながら耳を傾けている。

 当のアイリスはアウルムが犯した犯行現場の場面でも思い出したかのように、あの時と同じ、唾棄すべき者を見た時のような眼差しをアウルムに向けた。

 

「数日前に、アウルが縋りつくシェラの唇を犯してた」

「あっ、あれはッ! ってか見てたのかよ!? なんで声かけなかったんだ!?」

「話すと病気がうつる」

「なんだぁアウルム、お前いつから嗜虐趣味なんて持つようになったんだ?」

 

 ようやくあの時の光景を見られていた事をしったアウルムは、むべなるかな言い訳のしようもなくただ少女の暴言に粛々と聞く他に方法が無い。端からジークがからかう言葉も飛び交い、気分は針のむしろである。しかしそれ故に、日常を垣間見たアウルムは平時の人格がどんなふうであったかを思い出した。

 

「あれはシェラが口喧しかったから、仕方なく塞いだまでで――」

「おお言い訳か? 男なら一度取った行動に二言を添えるようなのは野暮だぜアウルム。先代だってそう言ってたろ」

「凄く言いそうだけど、俺は聞いたことが無いぞ! 先代を盾にして俺を詰るのはやめてくれっ!」

 

 聞き覚えの無い先代の言葉は数多に存在している。ジークの“先代だって”と付く話は、大半が彼の嘘っぱちである為、アウルムも歯牙にもかけない。

 ふと、彼の袖をアイリスが掴んだ。虫の死骸を寝床で見つけた時のような嫌悪に眇めた双眸が、無理に笑顔を張り付ける彼を睥睨する。

 

「私が口喧しいと、シェラみたいに犯すの?」

「犯すわけないだろが!」

 

 アウルムにすればそれは、シェラとは別枠に“特別”なアイリスを思っての言葉だった。目的の為にも、いまは耐える時なのだ。

 しかし彼の即答は、アイリスに別の思惑をもたらした。

 自分は彼に唇すら求められることのない存在なのかと。この身体であればそれは致し方ない事でもあるが、趣味じゃないならこう何度も遊びに誘ったりなどしない筈。なのにシェラには出来て、己には頑として拒絶するのは何故なのか。

 言いようのない頭痛が、暫くアイリスを苛んだ。

 

「もういい……勝手に何処かでくたばれカス」

「なっ、おいアイリス?」

 

 表情を曇らせた彼女はそのまま立ち上がり、手に持ったチェスの駒をアウルムに投げつけ逃げるように部屋から立ち去った。突然の事にあっけにとられ、アウルムは後を追う事すら思いつかなかった。

 唖然となってアイリスが去った扉を見つめていると、アウルムの後頭部に軽い衝撃が走った。

 

「った、なんだよお頭まで」

「お前な、あれは流石にどうかと思うぞ。真っ直ぐなのは良いけどな、それも愚直なら話は別だ。

 アイリスを思っての行動が、全部ひっくるめて彼女を傷つける刃物にもなるって、どうしてわからない?」

「あ~、あれってそうなん?」

「十中八九そうだろうよ。あれほど感情を表に出さないアイリスが、あんな顔してたんだぞ、見てなかったのか」

 

 説くように咎めるジークの言う通り、アウルムは見逃していた。アイリスの曇る表情の、その奥に秘め隠していた嘆きを、苦悩を。彼女の為にこれまで良かれと秘匿していた全てが、いまになって翻り、彼女を貫く矛となったのだ。その穂先は喉を貫き、矮躯を薄紙のように突き破り、彼女に衝撃を与えたのだろう。

 もし本当にジークが言うようにアイリスが落ち込むのなら、アウルムは早急に事を進める必要がある。残りの残金を計算し、必要な金貨枚数を算出する。瞼を閉じて思考を巡らし、果たして残りの目的までの道のりは――開けた。

 

「お頭、すまんが……残りの金貨五〇枚、借金でも許してくれるか?」

「……借金じゃなくても、とある仕事が一つある。それを請けるなら、今の金額で“売っても”良い」

「済まない助かる……で、仕事ってのは?」

 

 佇まいを直しアウルムは厳かな声音で問うた。一際長く吸い込んだジークの葉巻が、じりじりと音を立て火種を赤く染め上げる。吐きだされる紫煙と同時に、ジークは重々しく告げた。

 それは、ここ数日を悩ませる、そして先延ばしにしてきた話の再訪であった。

 

「――羽狩りに先んじて、一連の惨殺事件の犯人を殺せ」


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