牢獄の暗殺者   作:琥珀兎

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穢翼の世界って、真面目に書こうとするとどこまでもシリアスになってしまいそうだ……。


第四話:羽つきと羽狩り

「で、結局あの女は目覚めたものの、問い詰めても錯乱するばかりで話しにならない、と?」

 

 夕刻になってようやく目覚めたアウルムは誰が掛けたかわからない毛布に感謝しつつ、階段を上がってジークの私室に居座っていた。連日に亘る仕事はさしものアウルムも疲労が蓄積しており、思った以上に深く寝入ってしまったらしい。《リリウム》の中という事もあって、身の危険に配慮することなくいられたのも原因の一つだろう。とにかく寝過ごした寝坊助は、一目散にジークに会いに行った。

 眠っている間にカイムが二度訪ねて来たらしく、少女が目覚めたという報告をアウルムもジークの口から聞いた。

 

「端っから覚えてないんじゃないのか? あの暗闇だ、夜目が利かない素人じゃまず事態をつぶさに観察するのは不可能だし。それが可能だとしても、バケモノ染みた殺人鬼を相手に冷静に状況を把握できるような顔つきじゃない。

 カイムに一任した以上、俺が言う事じゃないが……お頭、実はそれほど期待しちゃいないだろ?」

 

 果たしてアウルムの指摘は図星だったのか、ジークは紫煙と共に深く嘆息した。

 

「言いたい事はわかる。お前の言う通り、目撃者のお嬢ちゃんにはそれほどの期待も寄せてはいない。《不蝕金鎖》が高々女一人の情報に固執するほど人手不足なわけじゃない」

「じゃあどうして……あ、いやちょっとまって。いまの無し。よくよく考えたら、別に俺が口出す事じゃねえや。すまんお頭、聞かなかった事にして」

 

 これを聞いてしまえば縁が出来てしまう。組織の、ジークの正式な命令ならアウルムが仕事を請け負うのはやぶさかではないが、自発的に何かをしてやろうという気概は芽生えない。事情を知ってしまえば素知らぬふりを出来なくなってしまう。いずれジークからそれに関する新たな仕事を依頼してくるかもしれない。不必要な仕事を増やすのは本意ではない。

 

「お前が言いだした事だろうが。ったく、ま必要になったら出番もちゃんと来るさ。俺としては、そんな事になるような状況は歓迎出来ないがな」

「上層から仕入れた女はただ一人を残して屠殺され、残った可愛い子ちゃんは立派な羽つきになりました。めでたくない話しだな」

「まったくだ、仕入れにつぎ込んだ金も全部水の泡だ。しかも返品しようにも、牢獄に来てから発症したんじゃ返す事も出来ない。

 羽狩りの事もある。羽つきを匿えば奴らとの軋轢を生むやもしれん。だから組織の人間じゃないカイムに託す事にしたんだ」

 

 防疫局強制執行部特別被災地区隊というのが、この牢獄には闊歩している。羽つき――つまりは《羽化病》の罹患者を対象に保護活動を主立った仕事とする、国から要請された集団である。彼らの目的はただ一つ。羽つきを保護という名目で捕らえ、感染拡大を防ぐために治癒院という特別な施設へと隔離する事。その為の手段は問わず、物騒な地である牢獄での自衛の為に帯刀もしている。よって、羽つきを匿いあまつさえ暴力を持って刃向う者なら、容赦なく切り捨てられる。

 見つかったら最後。我が物顔で練り歩く彼らを、牢獄民は皆侮蔑の意を持って《羽狩り》と皮肉るのだ。

 この羽狩りがなぜ《不蝕金鎖》が関係の破綻を憂うのか、それは《不蝕金鎖》が表向き役人を立てて治安管理を委託されている、という名目を持っているからだ。政府の要請した走狗である羽狩りと事を構えるという事は、つまりこれまで掲げていた旗色に矛盾の汚穢をぶちまけることに繋がる。協力も助力もしないが、出来る事なら敵対行動をとりたくはない。

 これら人を束ねる組織間の仕事はアウルムの役割ではない。これは束ねる者――ジークにしか出来ない、許されない仕事である。単なる人殺しに過ぎないアウルムが、そもそも口出しできることではないのだ。故にアウルムは身を弁え、一つ年下のジークを立てる。

 

「んじゃあまぁ、現状俺に仕事は無いって事だよな?」

「ああ殺人鬼が羽つきだという仮説が立っちまった以上、大々的に捜索すれば羽狩りの目に留まる。割ける人員も、危険を伴うからなるべく被害を抑えたい」

「なら俺は一杯飲んでまただらけるとするか。何かあったらヴィノレタに来てくれ、どうせそこに居る」

「わかった、ご苦労だったな」

 

 これ以上留まる理由もなく、ちょうど空腹が腹腔を苛んでいたのでアウルムはジークの部屋を後にする。と、扉に手を掛けたところで、何かが背後から飛んでくるのを察知したアウルムは振り向きざまにキャッチした。右手で受け取り、用心として反射的に左手がニホントウの鯉口を切っていた。

 飛んできたのは、硬貨の詰まった重みのある革袋だった。

 

「報酬だ、とっとけ」

「遠慮なく、今夜の友にさせてもらうよ。じゃあな」

 

 期待できる革袋の重量にアウルムは満足して部屋を去った。

“これで残りあと少しで、目標額に届きうる”

 腹心でそう独りごち、階下へと降りると娼婦の一人であるシェラと鉢合わせになった。時間帯からして、もうそろそろしたら《リリウム》は本来の姿をもって開店する筈だ。にも拘らず、呼び込みをする様子もなく漫然と立ち尽くす彼女は、明らかになにか思い詰めているように思えた。

 

「どうしたシェラ、疲れてるのか?」

 

 普段なら通り過ぎるところだが、このときアウルムは報酬が入った事、目的までの先が見えてきた事があって気分が良かった。そんな折に申し合わせたように現れたシェラに善意を与えてやろうと思ったのもそれ故である。

 声を掛けられたシェラははっとなり、アウルムへと振り向いた。彼女の瞳は、娼婦の大多数が持つ諦念を色濃く濁らせていた。

 

「アウルムさん……」

「そろそろ開店だろ、こんな所でボサッとしてていいのか?」

「そうですね……お客を取らなきゃダメですもんね」

 

 含みのある言葉に呼応するように、首に架せられた娼婦の証たる首輪が軋み音を鳴らした。

 会話はつつがないのだが、どうにも心此処に在らずという印象をアウルムは懐き、訝しげに小首をかしげる。

 

「何かあったのか? 言いにくいことなら、お頭には黙っててやっても良い。聞くぐらいだったら聞いてやる。ただし、長くなるようなら後でヴィノレタに来てくれ、一晩分ぐらいなら奢ろう」

 

 この娼館はジークの城だ。ならばジークの持つ組織の一員たるアウルムには守る義務がある。非常に面倒ではあるが、彼女一人が思い詰めて自殺、もしくは逐電でもすればその損害は多寡に限らず《不蝕金鎖》にとっては望まぬマイナスだ。

 これも何らかの巡り会わせ。居合わせたのなら、それなりの手助けはしようと思った。

 奥底に何を飼っているのかわからない態度を見せるシェラは、億劫そうに俯いた。

 

「何かあった、ですか。どっちかと言えば、何もない……って感じですね。なんかもう、あたしがこの世に居る意味って在るのかなぁって思って。

 そしたら自分が必要とされてないんじゃないかな、とか暗くなっちゃって」

「それで?」

 

 決壊したダムのように内に秘めた感情を吐露し始めたシェラに、なるたけ優しい声色で続きを促す。

 

「怖いんですっ、必要とされないあたしに意味なんかないんじゃないかって!」

 

 寒さに震えるように自身をかき抱く。疑心暗鬼に恐怖しているのだろう。シェラの瞳は動揺に揺らめき、声が震えていた。

 さてどうしたものか――思った以上に深刻な症状を見せるシェラは、ハッキリ言ってアウルムの手に余った。医者でもなければカウンセラーでもないただの殺人者たるアウルムに出来る事などごく限られている。しかも彼女は意味を失い、恐怖に恐れ、慄いているのだ。意味を求めるアウルムには、彼女の満足する答えを与えることが出来ない。

 どう励ませばよいのか考えあぐねていると、ふとアウルムの胸にシェラが寄りかかってきた。クローディアに劣るもののそれなりに豊満な胸を押し付けてくる彼女に、当然男であるアウルムは下半身が反応してしまうのを抑えきれない。

 

「お、おい……」

「お願いしますアウルムさん。今夜、あたしと遊んでくれませんか? 絶対損はさせません、だから……お願いだからあたしを――乱暴に痛めつけてください」

「……は?」

 

 とんでもない告白をしてきたシェラに驚き、アウルムは目を瞠った。聞き違いじゃなければ彼女は“痛めつけて”と言っていた。つまり、アウルムの直観が間違いなければ……

“こいつ、単に男に求められる感覚に飢えてるだけじゃないのか?”

 乱暴されることで快感を得、愛欲も満たせる。シェラのような趣味趣向をしている娼婦はそう少なくはない。求めるあまりに感情が飽和し、あげく屈折した性癖へと昇華してしまったのだろう。この分では自殺の心配はなさそうだと安堵し、アウルムは己の肢体を艶めかしく蠢かし擦りつけるシェラの肩を抱き、それほど力を籠めないで引き剥がした。

 

「シェラ、俺は女をいたぶる趣味は持ってない。だからお願いするなら別の客にしてくれ。あまり医者の出番を増やすような怪我は作るなよ? 多分エリスが経緯を聞いたら不機嫌になるぞ」

 

 付き合ってられなく思ったアウルムは彼女に背を向け、呆れ顔を隠して渇いた声をかけ立ち去る。

 しかしこのまま素っ気なくされたままの娼婦ではない。シェラは立ち去るアウルムに追い縋り、背中から腰にしがみ付いた。顔に当たるアウルムの得物が冷たいが、そんな細かい事をいちいち気にする彼女でもなかった。

 

「待って下さいアウルムさんっ、あたしじゃダメなんですか? クロみたいじゃないとダメなんですか? それとも、アイリスみたいに幼くなきゃダメなんですか!?」

「別にそういうわけじゃない。単に俺の趣味が、お前の求めるものとはかけ離れているという、厳然とした結果の果てだ。

 お前を抱く事に抵抗があるわけじゃない」

「じゃあ抱いて下さいよっ、あたしを買うぐらいのお金なら持ってるんでしょう!?」

「あ~、もう面倒くせェッ!」

 

 女の癇癪は常識の壁の向こう側にあり、自分にとって不都合なものは全て悪であると処断される最強の弁舌である。だからこそ、話の通じなくなるこの状態をアウルムは非常に厭う。ただでさえ面倒な相手が手が付けられなくなり、そのうえ半ば喧然と喚く姿は見るに堪えない。娼婦が見せて良い顔ではない。

 説明を放棄し、アウルムは言い包めるのを諦め、仕方ないので実力行使に打って出た。自嘲気味に捻くれた笑みで吊り上るシェラの唇を、体を抱き寄せて強引に重ね合わせた。

 

「んぅ――ッ!?」

 

 猛禽類に捕らえられたように力強く、それでいて強引なアウルムの口づけは――果たしてシェラの暴走を鎮静させる効果をもたらした。

 全身の力が抜けたように弛緩した彼女の身体を抱きすくめ、アウルムは待合室にあるソファーへと座らせ、合わさったままの唇を離した。両者を繋いでいた唇が名残惜しそうに離れ、その間に艶やかな唾液の架け橋が出来ていた。職業柄、シェラは娼婦としての条件反射かそれとも他の思惑があってか、アウルムと口づけをした瞬間に舌を彼の口腔へと滑りこませていた。

 予期せぬ蜜のように甘いひと時に陶然としてシェラは視線を漂わせる。いまの彼女の中でいったいどんな感慨が渦巻いているのか、アウルムには欠片も興味がない。口づけをしたのも、彼女を黙らせるのに一番手っ取り早いというだけで、別に誰かに対する貞操観念を気にもしていない。そもそもここは牢獄で、しかも娼館の中。このような場所で、貞操云々を問うつもりも気にするのもおかしな話である。

 ほぼ全ての娼婦が、望んでその職業についたわけではない。已むお得ず、仕方なく、泣く泣くなっているのが多い。だから彼女たちは、年齢とは裏腹にまともな恋愛経験をしていない。大体が閨で交わされる客との睦言に感化されてのものである。

 それを批判するつもりはアウルムにはない。逆に、逆手に取らせてもらったのだ。商売抜きでこういった行為をされることを――それも情熱的に――慣れていなかったのだろうシェラは、このようにあっさり呆けてしまった。

 

「それじゃあ俺は行くな。なんか用があっても、ヴィノレタには来なくていいぞ。来ても奢りはするが、お前の願いは受け入れんからな」

「は、い……」

 

 せっかく得た脱出のチャンスをみすみす見逃す筈もなく、アウルムは《リリウム》を後にした。――一連のやり取りの一部始終を見ていたアイリスに気が付かぬまま。

 

「――強■野郎」

 

 汚物を見るような眼差しと唾でも吐き掛けそうな語調は、しかし立ち去った後のアウルムには届かなかった。

 

 

 ※

 

 

 黄昏時の娼館街を歩き、ヴィノレタを目指していると、何やら物騒がしい音が大気中に紛れているのをアウルムは耳にした。

 牢獄内ではそう珍しくもない諍いの声であったが、《不蝕金鎖》の縄張りであるこの娼館街で起こる事にしてはいささか物騒な雰囲気を孕んでいる。構成員としてはこれを見過ごすわけにもいかない。が、気乗りしないのもまた事実。

 立ち止まって悩みぬいた末、結局周囲に同じ構成員が居ないのを確認すると、消沈したアウルムは仕方なく様子を窺いに行く事にした。無視すれば無駄な労力を消費せずに済むが、ここは娼館街だ。罷り間違ってこの諍いがアイリスに降りかからない保証もない。理不尽はいつだって傍らに忍び立ち、今か今かと舌なめずりをしているのだ。

 現場は《リリウム》から一キロほど離れた路地裏で起きていた。当事者たちの前になんの準備もなく躍り出れば、不用意に火を投じることになる可能性を挙げたアウルムは、建物の屋上へと器用に飛び上がり見物することにした。――そう判じた瞬間、ある程度の均衡を保っていた喧騒が壮烈に弾けた。

 

「表通りに逃げたぞォ!」

 

 このとき、アウルムの状態が日和見している平時ではなく、夜の顔であれば瞬時に行動を起こせただろう。

 怒声が響き渡ってすぐに、それまで建物をどういう手順で飛び乗ろうか呑気に考えていたアウルムの横っ腹に、どん、と軽い衝撃が奔った。殺気を伴っていればあるいは平時でも感知出来たかもしれない。しかし、まったくの偶然に衝突した彼は「おっ?」と素っ頓狂な声を漏らすだけに終わった。

 

「た、助けて……」

 

 脇腹に衝突してきたのは、まだ幼い少女だった。年の瀬はアイリスと変わらないぐらいであろうか、手入れを怠ったブラウンの長髪は藁の束のようにばさばさである。縋るようにアウルムに助けを求めた少女は――背に一対の翼を生やしていた。

 羽つきか――やはり無視して大人しくヴィノレタで呑んでいてば良かったと、今更ながらにアウルムは後悔した。羽つきが涙ながらに助けを求めるという事は、つまり……

 

「このガキィ! もう逃がさねえぞッ!」

 

 罹患者を保護する羽狩りが追随しているという証である。

 無力な少女は恐怖に震え上顎と下顎が噛み合わずに、かたかた、と歯を打ち鳴らしている。羽狩りの男が凄むと、アウルムにしがみ付く両手が彼の服を握りしめる。まるで己の命を手中に収め、零れ落とさぬように。

 強面の羽狩りがアウルムの存在を見取ると、それまで優位に立っているように傲然としていたのが打って変わり、警戒心を露わにして腰に差した剣に手を掛けた。

 

「おい、そこのあんた、その子の関係者か何かか?」

「まさか、通りすがりに決まってんでしょ。こんなガキ、俺は初めて見るね」

 

 少女の顔色が絶望に彩られ、頭上の空のように青褪める。助けを求め縋る相手を間違えた、そんな意図さえ感じられない少女の純朴な玻璃のような瞳は、アウルムの慮外な言葉によって打ち砕かれた。皺になるほど強く握られた手が、弱弱しく弛緩していく。

 奈落の底に突き落とすに等しい所業にしかし、アウルムは心を動かさない。この程度の事に一々心を傾けていては、牢獄では生き抜けない。ましてやアウルムは《不蝕金鎖》の構成員である。ジークが彼ら羽狩りとの間に軋轢を極力作りたくないとぼやいていたのを起き抜けに聞いていた彼が、見ず知らずの羽つきの少女の為に牙を剥くわけもない。

 両者の反応を窺っていた羽狩りの男はアウルムが語る言葉に、少なくとも少女の反応を見る限りでは信用に足ると判じある程度の警戒レベルを下げた。が、油断が命とりであるのは彼とてこの牢獄で経験している。

 

「おいっ! 見つけたぞ、こっちだ!」

 

 見るからに怪しい風貌であるアウルムは男の警戒を完全には解かせなかった。背中に背負う大太刀の存在が、どうしても彼に疑念を持たせるのだろう。大太刀の全容は大半が胴体に隠れて判断が付かないが、柄から切っ先までの鞘の距離を見る限り、それは充分に警戒に値する長さだった。

 仲間を呼ぶ男の声に、暫くして四人の仲間が集った。この連中は隊伍を組んでこの牢獄を見回っているのだ。

 集まった仲間達の中でも特にアウルムの視線を集めたのは、この場にはおよそ相応しく感じられない女性だった。ブロンドの髪を背中まで流し、凜とした瞳に毅然とした振る舞い。何もかもがこの牢獄には似つかわしくない彼女を見て、だが、彼女こそがこの隊伍の隊長なのだろうと断じた。

 

「罹患者の少女は?」

「隊長、あそこに……何やら得体のしれない男の下に」

 

 アウルムが想像した通り、隊長であった女性は羽つきの少女の所在を問うなり、キザったらしい鼻につく声で語る長髪の男の指差す方を振り向いた。羽つきの少女の所在……つまり、傍らに立つアウルムを。

 いよいよ逃亡が難しくなった状況になり、アウルムは嘆息した。奴らが目的の少女はこちらの手中にあり、受け渡せば事は簡単に済む話だが、如何せんアウルムの背負っている獲物に警戒心を懐いている。五メートル程の距離を空けて対峙する彼らは、隊長を除いて全員が、特に長髪の男が眉根を寄せて半眼で睨んでいる。

“このままでは埒が明かない”

 均衡は長引けば長引くほどに深刻に悪化する。後腐れなく終えるには、アウルムから動く必要がある、と口を開こうとした瞬間……

 

「すまないがそこの方、その少女を我らに引き渡してはくれないか?」

 

 唯一敵意を現さなかった女隊長がアウルムに近寄り声をかけた。

 大太刀を背負った得体のしれない相手を前に、なんの対策もなく無防備に歩み寄る彼女を、当然他の隊員たちは黙っていない。

 

「危険です隊長、相手は長大な刃物を所持してるんです。いつ抜き放つかわかりません」

「しかし、彼は我らに敵意を見せていない。君らが警戒するから、必要以上の用心を懐かせてしまってるのだ。それに、私たちに敵対する者が、この人数相手にあのように無防備さを晒すわけが無かろう」

 

 女隊長の言葉は最もであったが、それは前半のみで、後半についてはアウルムは頷けなかった。

 別にこの数が相手であろうと、斬殺には然程苦労はしない。確かに五人を相手に、名うての羽狩りが相手となればそれなりに苦戦はするだろう。しかも、羽狩りの隊長まで居るのだ。苦戦は必至であろう。アウルムの手元に、羽つきの少女がいなければ。

“この子供を囮に使って、女隊長諸共ぶった斬れば、或いはあっという間に勝てるかもしれない。けど……”

 それは絶対にしてはならない最悪のケース。よってアウルムは友好の意思を示す女隊長に対して、人懐っこい軽々しい笑みを返す。

 

「やっとわかってくれる人が来たか。ほれ、大人しくあっちの姉さんたちの方へ行きな」

 

 アウルムが少女の助けを拒否してから、羽狩りから逃れようと逃亡を図っていた少女を捉えていた腕を前にやり、女隊長の方へと突っ返す。押された勢いにけつまずきながらも、勢いに逆らえずに少女は羽狩りの側へと身柄を移された。

 無血のまま事が済んだことに安心しながら、アウルムはこの場を後にする。

 

「それじゃあ、俺はこれで」

「まってくれ」

 

 しようとして、しかしそれを許さない制止の声が投げられた。

 羽狩りは目的を達した。これ以上に自分には用が無い筈。何故ここにきて、まだなにかあるというのだろうか。色々な思索が縦横無尽に脳裏を駆け巡るアウルムは逃げるのもおかしいと思い、固い表情をして振り向いた。

 羽つきの少女を確保した事によって均衡は崩れ、隊伍が一斉にアウルムとの距離を縮めていた。その内の一人、長髪の男が羽つきの少女から何やら受け取り、手に持ったままこちらへと歩み寄ってきた。敵意を示すささくれ立った眼光は、変わらずアウルムを見据えている。

 

「これは、君の物で間違いないよな?」

「…………」

 

 動揺は全て胸の内に秘め隠した。

 長髪の男がアウルムの前に差し出した代物は、彼が属する《不蝕金鎖》の構成員が肌身離さず持ち歩く、組織の紋章が彫られた小さなプレートだった。

“いつの間に……そうか、あのガキが”

 素人臭い失態に震えるほど蟠る怒りは、全て自分に費やした。怯える羽つきの少女が強くしがみ付いていたのは、アウルムから何かしらをスる為だったのだ。こうして油断の意味合いを持ってしまった組織のプレートを見せられるまで、ついぞ気づかなかった自分に耐え難い激情がこみ上げるが、同時に少女の牢獄流の強かさを称賛もしたかった。

 三度鼻で深呼吸を繰り返し、ありのままを受け入れたアウルムは静かな心持ちで長髪の男と見合った。

 

「確かに、これは俺の持ち物だな」

「ほう、では君はかの《不蝕金鎖》の構成員という事で相違ないのだな?」

「ま、そうなるな。と言っても入ったばかりのペーペーでな、こうして近辺を見回るのが仕事みたいなもんだ。まったく、いつになったらまともな仕事を割り振ってくれるのかね」

「そちらの事情はこっちの知るところじゃない。問題は、君が私たち防疫局に非協力的な《不蝕金鎖》の一員であるという事実だ」

 

 下卑た笑みを隠し切れない長髪の男の顔を、アウルムはつぶさに観察していた。相手の表情、視線と瞬きの回数、息遣いから呼吸の間隔に至り、手足全ての所作を全て、余すことなく観察していた。

 この男がどんな考えで自分に絡むのか、どういった感情を懐いているのか。敵意はあるか? 殺意を持っているか? 奴の語る言葉に嘘偽りはないか?

 動かぬ証拠を掴まれた以上、もはや抵抗するつもりの無いアウルムは男の足元を掬う事に集中した。それ以外にこの場を脱する術が無いと判断した。

 

「俺が《不蝕金鎖》だと、あんたらは何か困るのかい? 言っちゃなんだか、俺はあんたらに何かをした覚えが、悪いんだが思い当たらない」

「ふんっ、お前に無くとも我々にはあるのだよ。この街を羽化病の危険から保護するために、罹患者を救っている我々にはね」

 

 滔々と語る男の瞳に、表情筋に、剣の柄を握る左手がアウルムの判断するところの“嘘”に該当した。

 この男はいま嘘を吐いた。しかもごく限定的に……

 追いやられる立場であったアウルムは、一転して精神的立場に置いては逆転したも同然だった。そして、実際の立場もまた、これから立ち替わる。暗殺者として長い年月を人間と向き合って来たアウルムだからこそ見取れる事実が、そこにはあった。

 

「救っている、ねぇ。そりゃあまた、傑作だな!」

 

 一息吸って、一段階声を高らかにしてアウルムは破顔した。防疫局の人間を前に、その理念と信念を否定するかの如き口ぶりに、発言者である長髪の男は勿論、他の隊員たちもまた気色ばむ。

 一言物申すつもりだったのだろうか、他の隊員たちがずかずかとアウルムに詰め寄ろうとして、しかし歩みは女隊長と、凄烈な気迫を窺わせる長髪の男に遮られた。

 

「何のつもりだお前ッ、何が言いたい?」

「だってなぁお前の言ってる“救ってる”って言った時の顔、もんのすごく悪い顔してたぜ。ありゃあ牢獄民でもなかなかお目に掛かれない屈折した顔だ。あんた、羽つきになんら恨みでも持ってんの?」

「…………訳の分からない事をごちゃごちゃとッ、そんなに話しが好きなら詰所まで一緒に来てもらおうか」

 

 明らかな挑発行為を前にして苦々しい顔色を浮かべ、侮蔑の目を剥ける男は、それでもまだ声色には悠然さを断固として損なわないでいた。意地もここまでくれば一目置くべき強い意思だ。

 だが、決壊しつつある彼の自尊心を瓦解するべく、アウルムはさらに哄笑を重ねる。

 

「詰所ねぇ~、行ってもいいけど俺はあんたの嫌いな《不蝕金鎖》の人間よ? そんな奴に、あんたらの根城を晒していいの?

 なぁ……聖教会のお方」

「ッ!? お前ッ!」

 

 最後の一言は、周囲の人間に聞こえないよう配慮して耳元で呟いたが、それが彼の張りつめた感情を決壊させた。言い逃れ出来ないよう、何故アウルムが言い当てたのか、わざとらしく彼の首元で匂いを嗅ぐ仕草をして呟いた言葉は、男に絶大の効果をもたらした。彼の纏っている香りは、間違いなく聖教会の人間のみが使う香水であった。

 明らかなる殺意を迸らせ、腰に下げた剣を抜き放った長髪の男は激烈な感情に顔をしかめ、語気を荒げて切っ先を向けた。――果たしてアウルムの奸計は周到の事を運びて男を陥落させた。

“嵌ったな……馬鹿め、自尊心を大事にしてるからこういう目に遭うんだ”

 深い事情こそ理解していないアウルムだが、こうもわかりやすい反応を示されると図らずとも感じ取れるものも多い。鼻先に向けられた剣の切っ先はどのような感慨からか、微かに小刻みながら震えている。きっと犯しがたいものを侵略したアウルムに対する、絶大なる怒りの証左だろう。

 

「止めるんだラング副隊長! 相手は無手の、しかも無抵抗の牢獄民だぞッ!」

「しかし隊長! 彼は《不蝕金鎖》の人間です! しかも私に向かって決して許されない屈辱を与えた者! ここで手ずから誅罰を加えるのが――」

 

 部下の暴走を止めたのは、清廉なる雰囲気を身に纏う――が、それ故に彼女の着こなす隊服との違和感を拭いきれない印象を懐く女隊長だった。

 

「私らの仕事は牢獄民を誅するのではなく、羽化病罹患者を保護する事に在るのだ! 決して履き違えるなッ」

「――くっ! ……今回だけは見逃すとしよう」

「そりゃ助かる。実は恐怖のあまり、小便を漏らしそうだったんだ」

「……その減らず口、そう遠くない日に叩けなくなるのを願うばかりだ」

 

 憎々しげに吐き捨てて剣を納め、ラング副隊長は出で立ちからは想像もつかない程に肩を怒らせ、足早にアウルムの前から姿を消した。これ以上、一分一秒たりともアウルムと同じ空間に居る事に嫌悪でも感じたのだろう。副隊長の行動には、最後の暴走があったそれまで同調していた他の隊員たちも、贔屓目に見ても引いていた。

 ひとまず厄介な相手を退けた事で、とりあえずの安堵にアウルムは大きく息を吐いた。が、続けざまに躍り出たのは羽狩りの隊長様であった。彼女は部下の失態に心を痛めているのか、アウルムの前に出るまで沈鬱な面持ちだったが、彼が息を吐くのを見るなりその端正な容姿を凜とさせ、規律正しい眉を撓らせた。

 

「この度は、部下が大変失礼した。此度の失態は、彼の性格を推し量れなかった私の責任だ。だから、追求するのであるなら私に言ってくれ」

「そんなつもりは毛頭ありゃしないよ、俺は元々平和に事を済ませたかっただけ」

「そうか、それは助かる。それでは、遠慮なく私は貴方に訊ねることが出来る――」

 

 言いさして彼女は一度表情を緩ませ、一目で虜にしてしまうような可憐な笑みを浮かべる。が、次の瞬間、仮面のように笑みが剥がれ落ち奥から、決して悪徳を是としない正しさの権化のような刃物が如き目線をアウルムに向けた。

 

「暴力で得た金で生活する気分は――果たしてどんなものなのだ?」

「さあな、多分あんたらが飯食ってクソして寝るのとなんら変わり無い、ありのままの気分さ。そこに負い目も無けりゃ、正当だと主張するつもりも無い。

 いまこうして呼吸をしているのと同じで、なんの感慨も湧かないよ。御満足かな? お嬢さん」

 

 諸手を挙げて諧謔の笑みを持って答えを待つアウルムに、女隊長は瞠目した。彼女が求めた答えが何であれ、それは相手に何らかの呵責を去来させるのを目的としていた。皮肉を隠さない直截的な言葉は、しかしアウルムにはどこ吹く風で、堂々と言ってのけた彼に、逆に彼女が辟易してしまった。

 

「なるほど、それが貴方の見解か。決然と断言する様は清々しさすら覚えるが、だとしても私は見下げ果てる思いで胸が一杯だ」

「どれ、それじゃあどれほど詰まってるのか、触って確かめてもいいかい?」

「~~~ッ! どうやらこれ以上の会話は無用のようだ、これで失礼する! 皆退却するぞ!」

 

 傍目に美人と評せる端正な顔立ちが屈辱に赤らみ、女隊長は乱暴に会話を切り上げ立ち去って行った。奇しくもそれは、先程先行したラング副隊長と酷似した背中であった。

 何もアウルムの答えが《不蝕金鎖》のなべては暴力で食いつなぐ牢獄民の総意というわけではない。彼はあくまで己の感想を述べただけである。よって、それが気に召さなかった彼女の怒りは、アウルムにのみ向けらるのが相応しい。今一度相見(あいまみ)える機会があれば、その辺の思い込みを糺そうと、アウルムは立ち去った者達の居なくなった道を眺めながら思った。

 

 

 とんだ災難を被った為に、当初の目的地であるヴィノレタへの到来が遅れたアウルムは、到着早々にメルトに向かって火酒を注文した。ついでに腹の具合も空いていたので、いくつかの彼女が進める料理も調子よく全て注文する。

 早々に差し出された陶杯を傾け、食道を滝の如く流れ、渇いた喉を潤すのではなく焼き付ける火酒の味は、ここに来るまでにあったいざこざを忘れられる程度には良い味をしていた。

 

「今日はまた随分と飲み食いするのね、何か嫌な事でもあったの?」

 

 暴飲暴食とまではいかないまでも乱暴なアウルムの飲食風景はメルトに悟られ、世話好きな彼女の餌食となってしまった。

 指摘を受けながらなおも飲み食いを繰り返し、一通り落ち着いた所でようやくアウルムは飲み食い以外で口を開いた。

 

「嫌もなにもありゃ最悪だな、ここに来る途中で羽狩りに絡まれた」

「あらら、どうしてそんな事になったの? 羽つきでも庇ったの?」

「なわけないだろ。俺の立場でそれをやったら、ジークの首が締まる事になっちまう」

 

 そこまで言いきって陶杯に残った火酒を一気に呷った。喉を焼く強いアルコールにアウルムの身体が熱くなり、脳が活性化し始める。酒でも飲まなければ冷静に語っていられない程の失態を、アウルムは晒してしまった。口にしてしまった以上黙っているわけにもいかず、事のあらましを大雑把にだがメルトに説明した。

 掻い摘んで説明を終えると、それまで話の合間に頷きながら相槌を打っていたメルトの表情が厳めしくなり、アウルムは何を責められるのか想像しながら身構えた。

 

「な~んでそんな意地悪な事言うかなぁ。その隊長さん、絶対に思い詰めるわよ。家に帰っても、お風呂に入っても、ご飯を食べながらあなたの嫌~な顔が思い浮かんで、眠れない夜になるかもしれないわよ。

 そしたらどう責任取るつもりなの?」

「ハハハッ、そうさなぁ……一夜限り限定で、記憶も吹っ飛ぶような快楽の旅にでもお連れするか。幸い、かなりの美人だったしな」

「お馬鹿ッ! もう、どうしてアウルはそうやって人の神経を逆なでするようなことばかり言うのかしら」

 

 まるで自分の子供の出来が悪い事を嘆くように、メルトは額に手を当てた。いつだって人の気持ちを度外視しているアウルムの奔放な放言は、いつだって後になって話しを聞くメルトの頭痛の種であった。

 悲嘆にくれるメルトは磊落なアウルムに向き直り、追加の火酒を注いだ。

 

「まぁあなたの言動を一々咎めてたら夜が明けちゃうし、今更直るとも思えないから、こればっかりはその隊長さんに同情を禁じ得ないわ」

「何を言うメルト。元々は俺が構成員だからって理由だけで、因縁をつけてきたあいつらが悪いんだ。進んで崖先を歩く奴が転げ落ちるのは、落ちると分かってない間抜けだからだ

 よって、間抜けはあいつら羽狩りだ」

「でも、アウルムだって羽つきの女の子にプレートを掏られちゃったんでしょ?」

「ぐむっ――!」

 

 ぐうの音も出ない反論に言葉もなく、アウルムは口にしていた料理を詰まらせた。ただ一点、最大の汚点は少女に掏摸の被害に遭ってしまったこと。これは長年積み重ねてきたアウルムの実力と実績が、土台から崩れ落ちる恐れのある事実だ。

 出来る事なら秘匿しておきたい。がしかし、そうは思ってもきっとジークの耳にはもう入っていることだろう。どうか彼があの有様を知らぬままに人生を負えますように……と祈った甲斐あってか、ヴィノレタの扉を開いて中に這入ってきたのは他でもないジークその人であった。

 

「よおアウルムゥ、聞いたぞぉ~」

「ああ、悪夢だ……」

「ま、これも油断してたアウルが悪いけど、かわいそうだから一品サービスするわね」

 

 顔を見せたジークは案の定懸念した通りで、どうやら報告を受けた後らしくにたにたと心底面白い物を見たという表情をしていた。これまで失敗など数えるほどもなかった組織内最恐と謳われたアウルムが、まさか羽つきの、それも素人の少女に掏られるとは。オズからこの話を聞いたジークは、当初信じられない顔をして泡を食った。

 こうなっては本人に訊かなければ、と矢も楯も堪らずヴィノレタに訪れたのだ。反応から見るに、ジークの期待していた答えをアウルムの表情が語っており、態々質問することもなくなった。

 ジークは慈しみすら窺わせる笑みで隣に座り、失態の重大さに懊悩するアウルムの肩に手を置いた。

 

「いつから恵まれない子供に施しを与えるような善意を持つようになったんだ? まさか、見た目そっくりの別人、ってわけないよな?」

「背中の得物で服を細切れにされたいなら、そう言え。今夜限りは出血大サービスで、頭髪も斬ってやる」

「荒れてんなぁ~、そんなにショックだったのか? いや、まぁそうだろな。“まさか”お前がヘマをするとは俺も思ってもみなかったよ」

 

 肩を竦めそう漏らすと、ジークは何も言わずともメルトがカウンターに出した陶杯を持ち、苦虫を潰したような顔をするアウルムに突き出した。

 

「こんな夜は呑むに限る! そうだろうアウルム? なぁに浴びるほど呑んで、酔った足で《リリウム》の暖簾を潜れば気持ちのいい朝を迎えられるさ」

「いいじゃないアウル、ジークが此処まで言ってるんだしちょっとは元気出したらどうかしら。本当のところ、深刻になるほどのショックを受けた訳でもないでしょうに」

「……メルトの目は、誤魔化せないな」

 

 心中察したような口ぶりのメルトに頬を緩ませたアウルムは、彼女の斟酌する通り腐るほどのショックは受けていなかった。何も思う所がないのか、と問われれば否定するが、それでも思い詰めるほどじゃない。あの時は胃袋が捩じ切れそうなほどだったが、それも時間の経過と共に緩和していった。

 掏摸の一つや二つで頭を悩ませる程生真面目じゃないお気楽極楽な性格のアウルムは、だが、この店に娯楽を提供するという名目であからさまに水増しして気落ちしていたのだ。

 バレてしまってはしょうがない。開き直ったアウルムは俯くのをやめ、火酒が並々注がれた陶杯を掲げて立ち上がった。

 乾杯を交わされたジークが何をするのかと目を瞠っていたので視線を向け、にたり、と心底楽しそうに口角を吊り上げた。瞳には欲に淀んだ、しかし少年のような純粋で単純な輝きを放っていた。

 何を言わんとしているのかを、即座に理解したジークが次いでアウルムに並び立つ。

 《不蝕金鎖》のボスと、その懐刀的地位に位置する男二人が起立したことに、ヴィノレタに居た客たちのざわめきが水を打ったように静まり返る。

 これからいったい何が起こるのか――固唾を呑んで一同が見つめる中、二人は清々しいまでの笑顔で向き合い、手に持った陶杯を天高く掲げ叫んだ。

 

「よぉしお前らァ! 今夜の飲み代は、ぜぇーんぶ《不蝕金鎖》が持つぞォ! 呑め! 食え! 存分に楽しめ!」

「憂鬱な今日に別れを! 今宵という盛大なる宴に喝采を! この地の底で何処よりも楽しめる酒場に感謝を! 何もかもを投げ出して、裸一貫飲み明かそう!」

 

 ジークの空気を震撼させるほど張り上げた音頭に呼応するようにアウルムが繋ぐ。

 怒声にも似た乱暴な物言いに場は一旦静まり、静謐な調べが顔を覗かせた。――が、即座に割れんばかりの歓声に店内は包み込まれた。

 豪胆な懐を見せつけた二人に感謝の声が上がる。所々で陶杯のぶつかる音が響き合う。カウンターで様子を見ていたメルトが、年端の行かない子供をあやすかのような微笑みで嘆息する。しきりに飛び交う注文の声に雇われの給仕たちが忙しなく店内を行き交う。

 アウルムはまるで祭でも見ているかのように視界に広がる光景を見て、満足げに火酒を一気に飲み干した。

 人とは己に正直であるべきだと彼は夢想する。己の欲望に忠実で、喜びに躍動し怒りに震え哀しみに涙し、あるがまま生を享受するべきだと。

 懐く夢想は此処に在る。

 

「やっぱり、牢獄はこうじゃなくっちゃ。なぁメルト、お前もそう思うだろ?」

 

 初めて硝子細工を目の当たりにした子供のように目を輝かせてアウルムがメルトに問いかけると、彼女は慈愛に満ちた笑みで返し、ダークブラウンの頭に手を置いた。

 

「ふふ、あなたはいつまでも変わらないわね。ありがと」

「おいおい、どうせ撫でるなら他の場所を撫でてくれても良いんだぜ?」

「何言ってるの、本気じゃないくせに。女を口説きたいなら、片手間じゃ逆に失礼よ。どうしても落としたいなら、全身全霊を賭してくれなきゃときめかないわよ」

「耳が痛い話だ」

 

 白々しい素振りで耳を塞ぎ、苦い顔をしてアウルムは忠告するメルトから目をそらした。見れば、隣ではジークが機嫌良さそうにして煙草に火を点けていた。

 

「アウルムが騒がしいの好きの軽薄男なのは、なにも今に始まった話じゃないしな。みんなここ最近の奇妙な殺人に憂いていたし、タイミングとしてはちょうどいいだろ」

 

 最近頻発していた惨殺事件は住人たちに不安の影を落としていた。ただでさえ良くない治安の牢獄で、目を覆いたくなる死体が多発するようになったのだ、もはや安全などどこにもないだろう。絶望の海に耽溺すれば精神を大きく乱す可能性もある。この牢獄の秩序を保っているという自負のある《不蝕金鎖》としては、看過できない事態だ。

 話しを聞いていたメルトもまた思う所があるか、ジークとアウルムの間に身を乗り出して大袈裟に溜息を吐いた。

 

「うちに来るお客さんの中にも、そういう不安を抱えてた人がいたわ。ねぇジーク、どうにかならないのかしら?」

「……今の所、完全に芽を摘み取るのは難しいだろうな。犯人の全容が見えてこない上に、このアウルムに言わせて『デタラメ』らしいからな。下手を打ったら手下の中に死人を出しちまう」

「アウルが……そんなに危ない奴なの?」

 

 アウルムが暗殺者として生計を立てているのを知っているメルトは、彼の『デタラメ』な強さを良く知っている。背中で存在を誇示しているニホントウを振るい、陰に徹して先代を守り続けた男が言うのだ。驚愕に息を呑んでしまうのも頷ける。

 

「なんだか危なっかしいわね」

「深夜に出歩くのはなるべく控えた方が良いぞ、いつどこに出てくるのか予想が付かない現状だ。無防備晒して道を歩けばあっという間にミンチになるかもしれん」

 

 物騒な物言いで傲然と嘯くアウルムの表情は硬い。それとは逆に脅かされたメルトは肩透かしするように受け流し、難しい顔をしているアウルムの肩から上を、身を乗り出してかき抱いた。

 

「おわっなんだぁ――!?」

「だーいじょうぶよっ、うちは二階で寝泊まりしてるし、いざとなったらアウルが守ってくれるでしょっ? あの時のように」

 

 不安も恐怖も窺わせぬメルトは、狼狽えるアウルムの顔をさらに強く抱きしめる。隣で火酒を吹き出して咽るジークが眼に入った。器官にでも入ったのか、苦しそうに咳き込んでいるのを尻目に彼女の拘束は続く。

 

「強力な番犬が居る限りこの店は安泰ねッ!」

「俺は犬かッ!?」

「あら、昔自分でそう言ってたじゃない。『俺はお頭の憂いを断つ狗だ』って、偉そうに」

「うーわっアウルム、ゲホッ、お前そんな、んんッ! 恥ずかしい事を親父に言ってたのか?」

 

 これは良い事を聞いた、と咳き込みながらもジークが割り込んできた。

 

「というかメルト、いつまでしがみ付いてるつもりだ? あんまり人前でサービスすると、他の客が勘違いするぞ?」

「ジークの言うとおりだ、いらぬ誤解を招く真似はやめてくれ。面倒が増えたらどうする」

 

 両腕を首に回していた拘束を強引に剥がし、新鮮な牢獄の淀んだ空気を大きく吸いこんだアウルムは、眉根を寄せて加害者を見据えた。当のメルトは肩を竦めて悪戯気に舌を出すだけで反省の色が見られない。妖艶な小悪魔、という印象を懐く仕草は、大多数の男を虜にした伝説の女としての本領を未だ失っていない証拠となった。

 

「ごめんね、つい盛り上がっちゃって」

 

 解放された首元を撫で摩り、気を取り直してアウルムはジークに向き直る。煙草の煙を燻らす彼を見る瞳は、さっきまでの旧知の仲を見るのではなく《不蝕金鎖》のボスとして見る私情を排した眼をしていた。

 

「さっきの『デタラメ』な『バケモノ』についてだが、お頭には明確な目算があるのか?」

「また急な質問だな。ま、一応それらしい考えはちゃんとある。問題は、それを実行する機会がまだ来ないってのがネックでな。ちょいと時間が掛かりそうだ」

「例のカイムが拾った女か?」

「いや、どっちかって言うと違うな。完全に無関係ってわけじゃないが、その女事態は必要ない」

 

 煙に巻くような言葉にアウルムは訝るが、それもそうだろう。このような公衆の場で、ジークがおいそれと思惑を吐露するはずがないのだ。話題を切らしてその場繋ぎに口火を切ったアウルムは、軽率だった己の行いを思い直して陶杯を飲み干した。

 

「悪かった、いま話すような話題じゃなかったな」

「気にするな、お前に言われてちょうどこれからその女の様子を見に行こうかと思ってた所だ」

「それって“例の”女の子の事? なら私も行こうかしら、ちょうどその子の事が心配だったし。カイムじゃきっと拾っても粗野に扱ってるかもしれないでしょ」

 

 確かに、とアウルムはメルトのカイム評に首肯した。基本的に冷徹で打算的なカイムは、きっとあの少女を前にしても取り繕わずにそのまま接するだろう。しかし、それでは駄目だとアウルムは断ずる。

 ジークから聞き及んでいる情報では、少女は上層で下女の位に居たらしい。であるなら牢獄の冷酷なまでの現実性は立所に少女を恐れさせるだろう。求める情報を口走らせるなら、まずは安心と信頼を獲得しなくてはならない。表面上の気遣いすら欠落させているカイムでは、その考えに至らないだろう。

 

「女を見に行くなら、ちょいとカイムに伝言を頼みたいんだけど良いか?」

「なんだ? あいつに借金でもしてるのか?」

「なんで最初に上がる疑問がそれなんだ……俺の台所事情はよく知ってるだろ雇い主。じゃなくて、『羊の前では、羊の皮を被る事を忘れるな』って伝えて欲しいんだ。

 どうせ忘れてるに決まってるから」

「なにそれ、どういう意味なの? なにかの暗号?」

 

 横槍を入れてきたメルトに嫌な顔一つせず、アウルムはいまの言葉がどういう意味なのか言い含める。

 

「拾った女は上層に居たんだろ。なら牢獄のやり方に慄くかもしれない、警戒するかもしれない。それじゃあ訊けるもんも訊けやしない。だから――」

「外面だけでも、善人を装え……だろ」

「と言う事だ」

 

 結論を急いだジークの言に間違いはなく、アウルムは言いたい事を良い終え、煮込み料理を口に含んだ。口腔内に侵入した鶏肉を噛むと、水を吸ったスポンジを握りつぶすようにして肉汁と出汁が溢れ出て、アウルムの味覚を彩った。

 説明に納得がいった様子でしきりに深く頷くメルトに、ふと徐にジークが革袋から金貨を六枚出し、店主である彼女に支払った。

 

「さて、今夜の払いはこれで足りるかメルト?」

「これじゃあちょっと多いわよ。いいの?」

「面白いもんを見せてもらった、いわば見物両だとっとけ」

「おっ、流石はお頭。太っ腹だねぇ!」

 

 調子よくおだてるアウルムは財布の紐を緩めるような事はしなかった。この場はジークが払うと態度で示した以上、彼の体裁を守る為にもアウルムが折半を申し出るような行為は最も愚かしい。

 メルトもその辺の機微には聡いので、一度出された金貨の足が出た分を返すような野暮な事はしない。ジークが良いと言っている以上、決定が覆ることはない。

 かくして損失を出さぬまま声名を集める事に成功したアウルムだが、さながらそれは砂上の楼閣に等しく長くはもたない。彼が暗殺者と知られた瞬間には、あっという間に嘘の城と化すだろう。本人には隠すつもりも、憚る事もないのだが、ジークが秘匿を命ずる以上はそれに従うだけのこと。

 やがて宴の時が終わる。

 夜明けを待たずして次々に潰れた客が帰っていき、あれほど賑わっていたヴィノレタは後ろ髪引かれる寂寥感を残して店じまいと相成った。

 

「本当に行かないのか? カイムだってお前が来る分には拒否しないと思うぞ、絶対」

「どうせエリスが怖い顔して睨んでくるだろ。いつメスが飛んでくるかわからないような家に、俺は行きたくないね」

「可愛いわよねエリス。あんなに必死に嫉妬してくるんだもの、つい愛でたくなっちゃうわ」

 

 まだ見ぬエリスに思いを馳せているのか、自然と頬が緩むメルトにアウルムは悄然と肩を落とした。

 

「冗談じゃない、毒入りのお茶を出されそうでたまらんから俺は《リリウム》に戻る。それじゃあな」

「またアイリスとチェスでもするのか? 懲りないねぇお前も」

「ふふ、アウルはアイリスが大好きだもんねぇ~」

 

 そう言い残し、二人は夜道に消えた。このまま踵を返せば《リリウム》へと続く道に出るが、アウルムは遠くなった二人の背中を見失わないように凝視しながら屋根の上へと跳躍した。

 先刻、店内で注意勧告した以上、護衛も無しに二人を見送るのは気が引けた。このまま道中で、運悪くあの黒い羽つきにでも遭遇したら――きっと恐怖も湧く前に肉片に変わるだろう。

 夜空を見上げ、まるで人間の性根のように濁っていると感慨深くなりながらも、アウルムは安全に二人がカイムの家に到着するまでの道中を見守った。


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