牢獄の暗殺者   作:琥珀兎

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追記:致命的な設定差異を記してしまったので修正。


第三話:拾い物

 ザッツ・フェイバックを“処断”した足でアウルムは牢獄の最奥へと向かって歩いていた。本当ならヴィノレタで一杯やるつもりだったのだが、ジークのいいつけで仕事が終わった後でも良いので、女の“運搬”に支障が無いかの見回りをしてくれと頼まれていたのだ。頭の言葉となれば逆らう理由がアウルムにはない。

 手元にある地図み目を落として入り組んだ細道を縫うようにして進む。最奥の区画は娼館街や市場、関所のある場所とは違って牢獄特有の臭いがより濃密だ。仮に上層に住む貴族が遊興に訪れれば、あっというまに一も二もなく憤慨し不満を垂らして立ち去るだろう。そして、帰り道で浮浪者たちに襲われ身ぐるみを剥がれるであろう。

 貴族と違ってアウルムには住み慣れた場所なため、慣れた様子で奥へと進んでいくと、遠く微かに甲高い金属の音が耳に入ってきた。

 

「おいおい、さっそく面倒事になってるのか? いい加減眠たいからもう帰りたいんだけど。……そうも言っちゃいられねえか仕方ない」

 

 後頭部を掻きながらそうぼやくアウルムの声音や表情は、ザッツを両断した時とは打って変わって呑気なものであった。一仕事終えた彼は、スイッチを入れ替えて平時の“怠け者”に立ち戻っていたのである。こうなっては余程危険な状況か、再び煙草や葉巻でも吸わない限りやる気が起きない。

 出来る事ならこのまま踵を返して立ち去りたいが、耳に残っている金属音が逃げるなと責め立てる。このまま《リリウム》に戻ってジークに虚偽の報告をすれば、間違いなくアウルムは叱責を喰らう事になるだろう。叱られるのがわかってて、それでもやるのは分別のつかない子供か、愚かな道化だけだ。アウルムは諦めて深く嘆息した後、両脚にあらん限りの膂力を籠めて――文字通り飛び上がった。

 高さ五メートルはあるだろう朽ちた家屋の屋上へと、二度壁を蹴り上げ、懐に隠し持っていた小刀を突き刺して飛び上がり、屋根板を踏み抜きながら疾走する。人間の平均跳躍力を大幅に凌駕する彼の身体能力は、しかし脚にのみ集中していた。腕力に限っては、ごく一般人よりも遥かにあるというぐらいで、それでも鍛えれば不可能ではないレベルである。

 牢獄での暮らしは、はじめ、逃げる事のみに一貫していた。《大崩落》が起きた時まだ子供だった彼は、悪意の渦巻く出来立ての牢獄で、ただひたすらに逃げ続けた。胸にニホントウを抱きながら。

 極限状態での生活が常に続き、昼夜を問わず逃げ続けたアウルムはやがて己の脚力の可能性に気付く。ちょうどその頃だった、彼が《不蝕金鎖》に入ったのは。

 屋根伝いに走破することで、地図に記してある蟻の巣のように入り組んだ道を真っ直ぐに突きぬける。この手段は時間短縮は勿論のこと、上に位置取るという事に関しても理に適っている。アウルムは金属音を耳にした瞬間に、それが剣が衝突する音だと感じ取っていた。長年聞き続けた、聞きなれた音。たとえ盲目になろうとも、この音がする限りアウルムは場所を見失わない自信がある。

 そうして辿り着いた果てに目にしたのは、アウルムにとって信じられない光景だった。

 

「はぁ!? 羽つきって……空も飛べんのか!?」

 

 音の発生したであろう場で見下ろすのではなく、屋上に立つアウルムよりもさらに上空でそれは見つけた。人間と思わしき、しかしそれにしてはやせ細った痩身に、存在を高らかに知らしめる背中に生えた羽。一見すれば羽化病罹患者の羽つきに他ならないのだが、彼らが飛行能力を持っているなんてのは聞いたことが無かった。しかも――

 

「黒い、羽……」

 

 羽ばたきによって抜け落ちた、一枚の羽根がゆらゆらと揺蕩うようにアウルムの手の中に落ちてきた。羽つきならば何もおかしくはないのだが、一点、腑に落ちないものがあった。

 アウルムの手に落ちた羽根のサイズは見た事がなかった。通常、羽つきの生やす羽は、その病魔の脅威を表すが如く黒ずんでいる為、これに違和感はない。しかし、掌を優に超す大きさの羽根は、これまで牢獄で生活をしていたアウルムでも寡聞にして見た事がなかった。であるなら、もしやあれなるは羽つき如き病床の徒ではなく、全く別物の怪異なのでは。

 馬鹿らしい――らしくもない思索を一蹴し、アウルムは追跡する気も起こさずに屋根から地面へと飛び降りた。

 ジークには見回りを命じられたのであって、追跡や戦闘行為を厳命されているわけじゃない。スイッチの変わっていない怠け者状態である以上、他の面倒事を抱え込みたくない思いから、彼は下から絶えず漂う死臭の調査に降り立ったのだ。

 飛び降りた場所には数々の死体が、まるで獣に食い散らかされたかのように、そこかしこに散乱していた。およそ人間に行える殺人の定義から外れた惨状に、しかし二人の生存者がいた。

 

「よぉカイム。お前も災難だな、まったく面倒な場面に出くわして」

「アウル……なんで、あんたがここに?」

「お頭のいいつけでな。仕事のついでに見回ってくれと言われてたんだが、まさか現場に出くわす羽目になるなんてな。

 こりゃあ慣れない奴が見たら、三日三晩は飯も喉を通らねぇことになるかもしれないな。……ここに肥満に悩む奴を此処に放り込んだら痩せるかな」

 

 道化さながらな言い回しで笑いを誘うが、当の相手であるカイムの表情は優れない。このそこらじゅうにこびりついた死体のせいだろうか。

 最も死臭の濃い惨状より、少し離れた場所でカイムは蹲っていた。負傷して立てないわけではない。左頬を少し切っているが致命傷と言う程じゃない。血の量に反して傷は深くもないので、適切に治療すれば数日で塞がるであろう傷だ。問題は、その彼が両腕に抱いている人物にある。

 

「その女はどうするつもりだ? 羽つきだろ、羽狩りにでも突っ返すのか?」

「……連れて帰る。この現場唯一の生き残りだ。ここで何があったのか、覚えてる限り洗いざらい吐いてもらう。

 それに――気になる事も出来た」

 

 朴訥に語るカイムの眼差しは真剣そのものだ。一切の冗談もなく、真剣味に中てられたアウルムは胃が縮まるのを感じた。

 言い分としては真っ当で、アウルムとしても否定するつもりは一切ない。今更、羽つきに触れたら伝染するかもしれないなんて懸念は微塵も存在せず、あるがまま受け入れている。現場の惨状を見た限りで、犯人を予想出来るのは、この場に降りる前に垣間見た黒い羽のバケモノぐらいであろう。あれならばもしかしたら……と想像して、これが妄念であると独りでにアウルムはかぶりを振った。

 

「ま、俺もその子を連れて帰るのには賛成だ。お頭への報告は俺がしておこう。それと、この死体の処理は……オズに頼むか」

「オズを便利扱いするのも程々にしておけよ? いつかあいつの鞭が飛んでくるかもしれないぞ」

「そりゃ怖い。あいつの鞭だけは、俺も喰らいたくはない」

「同感だな。それじゃあ、早い内に済ませよう。ったく、とんだ拾い物だ」

 

 事が決まってからの二人の行動は手早かった。言葉を交わさずとも息が合い、組織にまつわる遺留品の回収をしていると、かつてカイムが《不蝕金鎖》の一員であった頃をアウルムは思い出した。

 まだ《不蝕金鎖》がこの牢獄での立場を盤石なものにする前、二人は数多くの敵を屠ってきた。殺しに殺して、その手に染みついた血の臭いが拭えぬほど重ねた日々。決して楽とは言えぬ日常ではあったが、それでもアウルムにとっては懐かしき思い出の一つであった。

 組織を抜けたカイムが、その頃をどう思っているのかはわからない。もしかしたら暗殺者であったあの頃の自分は、唾棄すべき存在であると思っているかもしれない。血に手を染めるのに表面上ではなんら抵抗を見せないカイムであったが、時折彼が足を止めては沈鬱な面持ちで眉根を寄せる様を見た事があった。もしかして彼はなんらかに負い目を感じているのでは、そう思わざるを得ない表情だった。

 だとすれば、いまカイムが立つ位置にも頷ける。殺しの仕事から足を洗い、用心棒の便利屋となって食い扶持を稼ぐ。アウルムからして見れば、いまのカイムの方が快適に暮らしているように見えて――同時に手狭ながらに快適な空間に居座って、満足しているようにも見える。

 遺留品の回収と、組織の一員である者の死体を麻袋に入れ両手で抱き上げると、傍らで少女を背負うカイムとの差にアウルムは僅かに不満を懐いた。

 

 

「そうか、まさか《風錆》じゃなくバケモノに足元を掬われるなんてな……」

 

 口調こそ軽いものの、内心で燻っている怒気を隠せていないのか固さの残る声で呟き、ジークは紙巻き煙草から吸い込んだ紫煙を吐き出した。エリスというカイムが身請けした少女が特別に調合した薬草で出来た紙巻き煙草の香りは、アウルムの苦手とする香りで、これには顔を顰めた。

 僅かに時間を遡り、“大きな荷物”を背負った二人は、娼館街近くで一端二手に分かれた。カイムは少女を自宅のベッドへと、一方のアウルムは《リリウム》で報告を待っているであろうジークへと会いに。

 魂を喪った死体は生きている時の二倍程の重量はあるのではと思う程の重さだった。一度生から見放された死体は、もはや人の形を留めておらず。腹が大きく裂かれ、今にも二つに千切れそうである。両手で持っていなければ、忽ち死体は二つの“肉片”へと変容するだろう。顔の原型が留まっているのは、不幸中の幸いだろう。

 出来る事ならアウルムは、この物言わぬ死体となってしまった者にも問いたかった。

 ――お前が生まれた意味はなんだ? と。

 自分の生まれた意味を見失っているアウルムは、他人にそれを求める事で、参考にし、あるいは己の生きる根源としようとしていた。生まれてこの方、常にあるがままを受け入れ続けたアウルムは、人目に“適応力のある人”と評される。だがそれは、逆に捉えれば“自分を持たない”という事とも言える。

 全てをあるがまま許容するアウルムの器は、底抜けの空虚であるが故の許容であり、決して大器が持つ寛大さではない。

 本人自身、それにどこか気づいているために意味を求める。がしかし、その方法論が“他人”に求めているのでは、なにも改善されない。よって、致命的なこの履き違えに気が付かない限り、アウルムの求めるものを手にするのはおよそ不可能だろう。

 死臭を漂わせ始めた麻袋を持って、アウルムは《リリウム》の扉を開いた。扉と言っても、正面ではなく裏手に回った所にある裏口を利用した。正面からでは娼婦を買いに訪れる客の邪魔をしかねない。ここが娼館である以上、不用意に客を遠退かせる要因はアウルムとて作りたくはない。損をするのは元締めの《不蝕金鎖》なのだから。

 屋内に入るといつもの如く甘い香りが漂い――幸いにも死体の放つ臭いも粗方ましになった。

 建物内には娼婦が十数人もの人数が居る。基本的にアウルムが暗殺者である事は組織外では秘匿されている為、出来ればこの姿も見られたくはない。単に組織の死体を回収した、というだけでも話しは通じるだろうがどんな所から煙が立つかはわからない。

 特に――アイリスには死体を平然と担ぐ自分を見られたくなかった。

 アウルムの懸念は取り越し苦労に終わり、一目につく事無く一般人が通る事を許されない階段から階上へと上がって行った。そもそも尾行術やその他にも姿を隠す事に長けた暗殺者である彼が本気を出せば、娼婦程度が見つけることなど出来ないであろう。

 

「ただいま帰ったぞ~お頭」

 

 二回ノックをしてから部屋の中へと入ると、やはり室内には葉巻の煙が充満していた。濛々と天井付近で漂い停滞している煙は、行き場を得たかのようにアウルムが開いた扉から部屋の外へと流れ出た。

 部屋の主であるジークは、始めはアウルムの到来に表情を綻ばせたが、彼が持ってきた麻袋を見るなり渋くなった。

 

「お疲れさん。で、どっちだ……?」

 

 荷物の中抜きの果てに散った掟破りの死体か、それとも娼婦候補たる女たちを荷として運んでいた者の死体か。拾い物を持って問われたアウルムは目を瞑り首を振る事で答えた。

 

「そうか……」

 

 悲しみと湧き上がる怒りを噛み締めるように、ジークは眉を顰めて目を閉じた。葉巻を持つ手が強張り、くしゃりと拉げる。部下を喪った悼みで震えているのだろうと思い、アウルムは暫しそのままの態勢でジークが切り出すのを待った。

 気持ちの整理は束の間の間に済んだらしく、一度深呼吸して嘆息した後にジークは面を上げた。

 

「こいつには女と子供がいた筈だ、遺体は棺桶を作って葬式をしなくちゃな。後でここの家族に身の振り方を考えられるだけの金を渡しておいてくれ」

「わかった、乗りかかった船だ請け負おう」

「野暮用を増やして悪いな。報酬には色を付けておく」

「いいさ、その分をこいつの家族に付けてくれ。これから苦労するのは、そっちなんだ」

 

 稼ぎ頭を喪うというのはそれだけで生活の危機である。国からなんら保障の無い牢獄では、当然失業手当も無ければ、その他福利厚生も存在しない。一家の大黒柱を失うのは、まさしく倒壊の危機なのだ。であるなら少しでも当座をしのげる金はあった方が良い。アウルムの記憶が正しければ、麻袋の中で眠る男には娘が二人いた筈。男の守りが無いと、牢獄では生き辛い。

 

「あと、“始末”の方はなんのアクシデントもなく終わった。そろそろ死体処理を終えてオズが戻ってくる筈だ」

「オズには悪いが、今夜はもう一軒処理をして貰わなくちゃならないな」

 

 この場に居ないオズの双肩にのしかかる仕事量に、アウルムは同情を禁じ得なかった。きっと自分がオズの立場であったなら、不満を隠すことなく顔に出しただろう。で、小さな抵抗をジークは歯牙にもかけないだろう。想像するだけでウンザリしてしまい、改めてオズの重要性をありがたく思った。

 始末の件については、詳細の報告をするまでもなかった。部下を喪い、女を喪ったいま、荷物の着服程度に執着してもしょうがない。組織から被害者が出た以上、《不蝕金鎖》はそれを見逃すような慈悲など持ち合わせていない。

 

「犯人についての手がかりはあるのか?」

「一つ……いや、二つあるな」

「聞かせてくれ」

 

 鋭く言い放ったジークにおどけた態度をとるのは失礼だとアウルムは決め、煙草を吸い始めた。途端にスイッチが入り意識がクリアになり、人格が変わったような、まるで別人の顔つきで説明を始めた。

 

「第一に、現場の死体の状況から察するに……冗談抜きで人間じゃない『バケモノ』か『人間大の獣』の仕業としか思えない」

「『バケモノ』? いつから牢獄は動物園に――」

 

 そう言いさしてジークは、アウルムの眼差しが決して嘘を騙っているのではないと感じた。冗談抜きで、と予め補足したアウルムの配慮を聞き逃したジークの落ち度だ。

 

「なるほど……冗談抜きってのは本当らしいな」

「そうだ、アレは人間に出来る死体じゃない、あそこにあるのはもうただの肉片だ。およそ人の死に方じゃない」

 

 断言して紫煙を吐くと、推考するようにジークが気難しそうに顔を顰めた。なにやら心当たりがありそうな期待を懐く表情だが、ジークが話題に挙げたのは、アウルムへの続きを催促する言葉だった。

 

「それで第二は?」

「これが近くで落ちていた」

 

 懐より取り出したのは一枚の黒い羽根だった。それはアウルムが遭遇した飛翔する黒い羽つきのものだ。これ以上にない手がかりである。

 現にジークはアウルムが差し出した黒色の羽根を見て、どこか合点の言ったような表情で新しい葉巻に口を付けた。

 

「最近ここ一月くらいの間で、酷い有様の死体がいくつか見つかっているのを知ってるか?」

「俺に必要のない情報を、知ってると思うか?」

 

 質問に質問で返す。それも組織のボスに向かって尊大な態度を崩さないアウルムに、他の部下が見たら激昂しそうなものだが、しかしジークは気にした様子もない。

 

「その死体の傍で、これと似たような羽根が見つかっている。ってことは、これら一連の人死には全部……」

「――この羽を持つバケモノだ……という事か」

「ああ、バケモノを信じてるわけでも、ましてや否定するつもりもない。けど、現場にはこの羽根が転がってて、そこには人間には作れない死体がある。これだけは明確な事実だろ」

 

 事実は事実としてありのまま存在している。もしこの殺人が本当にバケモノの仕業であるとしたら、それはアウルムの中でまた一つ新たな価値観が生まれるという事になる。

 現場の惨状を思い出し、ふいにアウルムは己の中で何かが昂揚しているのを覚えた。悲惨な饗宴を繰り広げた怪異に興味でも湧いたのか、それとも、あのような暴風の鎌鼬が通り過ぎ去ったような現場を作る“力”に対抗心でも湧いたのか。どちらにせよ、アウルムはもう一度、黒羽の所有者に出会いたいと思った。

 ならば彼はジークに伝えなくてはならないことがもう一つある。羽つきの事だ。あの目撃情報こそ、バケモノの素性を明瞭にする重要な要素となるやもしれん。

 これから語るのはあまりに荒唐無稽な事実。ゆえにジークの信用を勝ち取るのが何よりも優先される。信じてもらわなければアウルムは錯覚を見たとされ、取り合ってくれなくなるかもしれない。そう思うと、自然に声が固くなっていくのを感じた。

 

「あと、一つ言洩らしてた事があるんだが、聞いてくれないか? そのバケモノらしき姿について、だ」

「見たのか……っ!?」

「俄かに信じられないと思うが、その黒い羽根の持ち主は……デッカイ黒い翼を生やした羽つきだ。しかも、そいつは空を飛んでいた」

「…………」

 

 視たままの光景を説明したアウルムに瞠目したジークは、暫く言葉を失った。しかし、《不蝕金鎖》の頭は伊達ではない。寸刻の後に冷静さを取戻し、事態の深刻さを憂うように深々と嘆息した。

 

「アウルムの見たのが正しければ、バケモノの正体は十中八九そいつで間違いなさそうだな。わかった、この件は一旦俺の所で預かる。相手が羽つきとなれば、羽狩りが出張ってくるかもしれん」

「確かに、いま羽狩りと事を構えるのは最善じゃないな。精々被害を広めない為に見回りを増やすぐらいか」

「その羽つきの特徴は何か覚えてないか?」

「いや、やけにやせ細った体を見た程度だけだ。なにせ月明かりが逆光になってたからな、そこまで瞳孔が追いつかなかった」

 

 もしくは、あのままカイムの下へと行かず、羽つきを追いかけていればあわよくば正体に迫ったかもしれない。いまとなっては悔いもなく詮無い事である。

 ふいに、カイムの背負っていた少女の事を思い出した。

 

「そう言えば、カイムが生き残りの女を拾ったな。もしかしたら現場の詳しい状況を……いや、あまり期待は出来ないか」

「だとしても何も聞かないでいるよかマシだ。カイムは自宅か? ならすぐに行こう」

 

 期待感の薄い可能性を求めて、コートを羽織ったジークの後を煙草の火を消してアウルムが追随した。

 

 

 ※

 

 

 そして時は戻り、蓋然とまだ見ぬバケモノへ吐き捨てたジークは再び紙巻き煙草に口を付けた。

 カイムの自宅に二人して向かうと、屋内には家主であるカイムと、拾い物である少女の他にもう一人少女が居た。毅然とカイムの傍らに立つ少女は、深い古井戸のような瞳でアウルムを睥睨する。

“なんだ、まだアウルの事を嫌ってるのか? ったくエリスめ、いつまで警戒してるんだか”

 あからさまな敵意を向けられウンザリした様子で大袈裟に溜息を吐くアウルムを見かねて、カイムは視線の元であるエリスを見据えた。まるでカイムの側女のように寄り添う彼女は、名をエリスと言い、牢獄でも唯一の女医である。が、それはいまの話で過去の経歴は一応娼婦となっている。かといって仕事の経験はなく、その前にカイムが身請けした。詳しい事情はあまり語りたくはない。何故身請けしたのかを問われれば、カイムの表情には決まって影が差すのだ。

 

「あとはこの女から話を聞き出せれば、犯人像も詳しく形になるかもな」

「そこらへんの事は、目覚めたら詳しく訊くつもりだ」

 

 ベッドを占領している少女は、未だ目覚めず夢の中を彷徨っているのだろうか。横目に見れば、さも気持ちよさそうに寝息を立てている。

 彼女を自宅に運んで、エリスからの叱責を喰らいながらの治療の後に、アウルムとジークはやってきた。少女の様子を窺いに来たのだろうと理解したカイムは、経過報告を簡単に済ませた。その後、アウルムの貴重な目撃情報によって犯人が羽つきの、それも規格外の力を持った相手だと推測された。

 始めは訝んだカイムだったが、あるがままを否定しては牢獄では生きられないのを良く知っている為、最終的には彼も話半分に鵜呑みする事で妥協した。なによりこの筋では先輩のアウルムが言うのだ、カイムは彼の技量や理解判断力共に高評化をしているので信じないという選択肢はなかった。

 結論は一端、少女が目覚め事件のあらましを聞き出す役目をカイムが請け負う形となり収束した。隣で不満げに憮然としたエリスの眼差しが中てられるが、これをカイムは黙殺した。

 眠り続ける少女が放った光――《終わりの夕焼け(トラジェディア)》を目の当たりにしたカイムは、彼女が《大崩落》となんらかの関係があるのやも、もしくはそれに繋がる何かを秘めているかもしれないと思い、彼女を側に置く事を決めた。

 

 

 《不蝕金鎖》の二人が退散し、家に残った二人と眠ったままの一人は暫くの間無言であった。中でもエリスの機嫌指数は下降線を辿っていた。

 得体のしれない少女を背負って帰って来たかと思えば、あまつさえこの家に暫く置くとカイムは言ったのだ。彼の所有物を主張するエリスにとって、それは極めつけの中てつけのようで愚弄とも取れる決断だった。自分を身請けしておきながら突き放す主を、まるで構って貰えない親に不満を懐くかのように眉を顰めるエリスに対し、当の主は素知らぬ顔で陶杯に葡萄酒を注ぎ始めた。

 どうしてこの男は理解してくれないのだろう。こんなにも自分は尽くしているのに。こんなにも全てを擲って奉じる覚悟があるのに。何故、カイムはこんなにも自分に“自由”を押し付けるのだろう。

 いかんともし難い感慨がエリスの中で駆け巡る。彼女を己の物にしておきながらも遠ざけ、その一方で新たな少女を傍に置く。これほど酷い仕打ちを受ける程、なにかエリスは機嫌を損ねるような失態をしただろうか。否、自信をもって否と断ずる。一〇年に亘ってカイムを――カイムだけを見続けた彼女だから、彼女だけが断言できる。

 ――なら残る因は、先程この家から去った忌々しいあの暗殺者だけ。

 《不蝕金鎖》の暗殺者、アウルム・アーラはエリスにとっては不倶戴天の敵とも言える存在である。別に、アウルムが過去に直接彼女を辱めただの、そういった行為を強要したわけではない。逆に、彼はエリスに対してほぼ一切の交流を持たなかった。なのにエリスはアウルムを敵視しているのは何故か。

 不明瞭な感情の起源は、彼に対する嫉妬に端を発している。カイムから絶大な信頼を寄せられるアウルムは、エリスがこれまで喉から出が出るほど欲したものを簡単に手にしている。信頼という意味ではジークもまたその一人ではあるのだが、不思議とエリスは彼に対しては敵意を懐かなかった。

 

「やっぱり、これを家に置くんだ」

 

 一度請け負った事、決めた事はそう簡単に覆さないカイム。なら自分が今更どう批判しようが事態は好転しないだろう。半ば諦めの面持ちでエリスはそう呟いた。

 

「情報を聞き出すまでの話だ。気に入らないのか?」

「かなり。でも今更私が言ったって変わらないでしょう? アウルムにでも言われない限り」

「どういう意味だ?」

 

 あてつけがましく言われたのが気に障ったのか、静かに問いただすカイムに、エリスはそっけなく鼻を鳴らした。

 

「カイムは昔からアウルムの言う事には、真剣に耳を傾けていたもんね。牢獄での生き方の殆どは、彼に教わったようなものでしょ。

 そんなにあの人の事が好き? それならいっそ彼と一緒になれば。私は反対だけどね絶対に認めない」

「お前……自分の言ってることが支離滅裂だって気づいてるか?」

「知ってる。ちょっと熱くなっただけよ。でも違わないでしょう?」

 

 図星を突いたとばかりに判然とエリスは嘯いた。突かれたカイムは言葉に詰まり、何かを言いあぐねて、結局渇いた喉を潤すためなのか陶杯を傾け、葡萄酒を嚥下するだけに終わった。この隙を当然エリスが見逃すわけもなく、追い打ちをかける。

 

「一緒に命を預けた仲だからかしら……それとも、年が近いから“兄”のように思ってたりするわけ?」

「…………」

 

 カイムを言い負かしている事に昂揚感でも覚えていたのだ。だから、エリスはそれが地雷であったと気が付けなかった。普段の彼女であれば、即座に言い放った相手を諌める立場にある彼女が、不幸にも自らカイムの地雷を踏み抜いてしまった。

 気が付いた時には既に手遅れで、自分の失敗を恥じたエリスであるが、カイムの表情はもう会話を続けようという思惑が感じられない。

 カイムの家族や血縁を知っているわけではないし、そもそも彼以外には興味もないので知る必要などなかったが、決まってカイムは“兄”という言葉に敏感になる。これまで過去にカイムがアウルムに懐いている姿を見て、組織の人間が善意から『まるで兄妹みたいだ』とちゃかされた時にも、同じようにカイムは思い出したように思い詰めた。これまで常にカイムを観察してきたエリスは、それが触れてはならないものだと知っていた。なのに、それなのに同じ愚を犯してしまった。

 

「ごめんなさい、今夜はもう帰るわ」

「ああ……」

 

 気落ちしたエリスはもう少女をこの家に留める事に、今夜は反駁できない。これ以上カイムを批難すれば、それはまるきり自分に跳ね返り、本当に彼に愛想を尽かされると思ったから。

 

「明日から、ご飯作りにくるから」

 

 言い残して扉に手を掛ける。この失態は、もう二度と繰り返さないよう、深く心に刻み恥じよう。

 去り際に、でもこれだけはエリスも伝えておきたかった。

 

「――ねえカイム。私みたいな女、これ以上増やさないでね」

「わかってる」

 

 それはどんな意味で発した忠告なのか、きっとカイムは正確には理解していないだろうとエリスは思った。

 屋外で吹き荒ぶ夜風は、沸騰した故に失態を犯したエリスにはちょうどよい塩梅で、頭を冷やすにはうってつけの冷たさだった。

 

 

 ※

 

 

 牢獄の娼館街は朝に眠る。

 夜を華々しく飾る花たちは一夜の相手に愛を提供し、それぞれが疲労や心労に体力を消耗し、寝台へと体を横たえる。昨晩もまた大人数の客を相手していたクローディアは、最後の客を店先まで見送り全ての職務を消化した。

 若干身体が気だるげながらも、彼女の目算ではあと一人ぐらいなら相手するのもやぶさかではなかった。そんな折に、ちょうど娼館街を歩くカイムが目に留まった。朝の挨拶を交わし、あわよくばと冗談交じりのリップサービスをしたが、素気無く断られてしまった。相手の男性を立てるのを忘れないクローディアは、それならばと自身が身に着けていた良い香りの花を彼に進呈した。身に着けた彼を見て、誰かしらがちゃかし困り顔を浮かべるだろうカイムの顔を思い浮かべ内側で嗜虐の笑みを携えながら。

 《リリウム》に戻り、昼過ぎまで眠りに着こうかと屋内に足を踏み入れた矢先、さっきまでは姿の無かった待合室にアウルムが深々とソファーに体重を預けているのを見つけた。

 

「あら、アウルム様ではありませんか。このような朝早くにどうなさいました?」

 

 慇懃に礼を尽くすクローディアに、眠気の取れない様子のアウルムは視線を彼女に向けるのみが限界らしくそのままの姿勢で口を開いた。

 

「二晩連続して徹夜で仕事でな、いい加減眠たくてかなわなかったんで、一番近かったここで一眠りしようと思ってな。なぁに、営業時間前には立ち去るさ」

「それは、お疲れ様でございます。でしたら、もしよろしければ私の部屋でおやすみになられますか? ここで眠るよりは、幾分マシな睡眠がとれるかと存じますが」

「お前の部屋に行ったら、今度こそ俺の体力は空っけつにされそうだ」

「まあ、御戯れを。私がアウルム様の寝込みを襲うとでも思っておいでなのですか?」

 

 娼婦は商売を抜きにしての交わりは禁じられている。また、娼館を通さず個人的商売もまた固く禁じられている。そうなってしまえば、娼婦は自らで金銭を稼ぎ、娼館の存在意義をたちどころに奪い去ってしまうからだ。

 しかし、アウルムの警戒はそれに準じた言には捉えられない。というのも、誘いをかけているクローディア自身にそのつもりがないと分かりきっているからである。妖艶な笑みで相手を言葉巧みに誘う彼女の色香は、大多数の男にとって猛毒であり、同時に避け難い魅了を孕んだ花なのだ。

 艶容な服装を身に纏うクローディアは、誘いを無下にされた事に腹を立てず、むしろ“ある者”に対する一途さを思い知り、感嘆の意を表した。

 

「ご安心なさってください。あの子には決して言いふらしたりなんてしませんよ」

「それもそうだけど、お頭になんと説明すりゃいいのかわかったもんじゃない。あの人の事だから“おいた”をしなければ怒りはしないが、まず間違いなくどこかしらで話題にするだろ。

 進んで笑われるなら良いけど、予期せぬ嘲笑は赤面ものだ。出来る事ならいらん弱みは作りたくないしな」

「そこまで仰るのでしたら、わかりました。では、毛布をお持ちしますので、せめてそれを掛けてお休みください。室内といえど、怠れば体調を崩されてしまいます」

 

 言い切るや否やクローディアは、そそくさと奥にある娼婦が集う相部屋の寝室へと向かった。後方より呼び止める声が聞こえてきたが、聞こえないふりをしてやり過ごす。どうせ遠慮を申しているのだ、一度妥協した提案すら遠慮されては彼女の立つ瀬がない。相変わらずの鈍感さに憤慨するのではなく、むしろ微笑ましく思いクローディアは口元を緩めながら寝室へと入った。

 

「あっ、クロじゃんどうしたのどうしたの? なんか楽しそうな顔してるけど」

 

 能天気な声で迎えたのは紫の髪をショートにしている娼婦――リサだった。他にも娼婦の私室たる相部屋の寝室にはアイリスや、シェラなどの娼婦が寄り合っていた。

 

「あら、わかる? いまアウルム様がいらしてるのよ」

「えっ、アウルが来てるの? どこどこ、ボスの部屋? だったら会いづらいなぁ~」

「どうせ待合室で寝てるに決まってる」

「アイリスの言うとおり、今は待合室で休んでおられるわ。昨晩は殊更、忙しかった様子で疲労がお顔に出てましたわ」

「さっすがアイリス! アウルの事ならなんでもわかってんじゃん」

 

 事も無げに言い当てたアイリスを褒め称えるリサに悪意は感じられない。もとよりそう言った感情を殆ど刮ぎ落としてしまった彼女は、自発的に相手を詰るなどと言った行為を行わない。

 《リリウム》でのアウルムの評判は上々であった。メルトをして“好みの容姿”と評される彼はやはりそれなりに美麗で、しかも彼と“遊んだ”ことのある女性なら、閨での巧みな技巧と惚れ惚れする程立派な刀を拵えているのを知ってる。一度味わえばそんじょそこらの男では満足できない身体にされてしまうので、彼の来訪に嫌な顔をする娼婦は少ない。

 アウルムとの睦言を思い起こし呆ける娼婦たちの中、しかしアイリスは憮然と佇んでいた。何故彼女がこんな態度をとるのか、手に取るように理解できるクローディアは、まるで子供をあやすかのようにアイリスの頭に触れた。

 

「気にする事はないのよアイリス。貴女は特別、アウルム様からの寵愛を注がれているのよ」

「別に節操無しの事を考えてたわけじゃない。最近、お風呂がボロくなってきたのを思い出しただけ」

「だよね~あたしも最近そう思ってたの。新しくならないかなぁお風呂。もし新しくなったら、生まれ変わったあたしが沢山お客を取れるかもしれないのに」

 

 冗談とも本気とも取れる語調は、自然と雑談へと流れが変わりそうになる雰囲気を孕んでおり、危うくクローディアは当初の目的を忘れそうになってしまった。らしからぬ失敗に、内心で己を叱りつけ彼女は気を取り直した。

 

「それでは、ちょっとアウルム様にこれを届けてきますね」

 

 優雅にそう説明してクローディアは毛布を手に取った。今頃、アウルムは睡魔に負けて待合室のソファーに沈んでいるだろう。いつも明るく呵呵大笑するアウルムの寝顔を思い浮かべ、思わず笑みがこぼれる。

 起こさないように毛布を掛けて立ち去ろうと思っていたクローディアに、しかし二人の同伴者が生まれた。

 

「ちょ~っと待って、あたしも行くよ! アウルの油断してる顔とか見てみたいしね」

「変態は凶暴。どうせそんな度胸もないだろうけど、一応の監視」

「はいはい、わかりました。それじゃあみんなで行きましょう」

 

 リサとアイリスを連れ添って待合室に戻る。すると予想通り、そこにはだらしなく顎を天井に向けて仰け反り、ソファーで眠るアウルムが居た。気道の位置が悪いのか、一定の間隔で彼から鼾が聞こえる。疲れ切った様子のアウルムの寝姿がツボに入ったのか、リサが哄笑しそうになるのを必死に堪えておかしな顔になっていたのを指摘して直させる。娼婦は男の居る空間では、市井の少女たちとは違った雰囲気を持っていなくてはならない。

 

「ぷぷっ、アウルったら子供みたいな顔して寝てる」

「中身が子供だから、寝ると化けの皮が剥がれる」

「いけません二人とも。アウルム様はお仕事がお疲れで休まれてるのよ、そんな寝姿を笑っては失礼です」

 

 優しく、しかし毅然と言い聞かせるようにして語り、二人は改めるようにして咳払いをした。

 

「ごめんなさいクロ」

「うっ、ごめん。でも仕事で疲れてるっていうのも、いまいち信じられない話しじゃない? だってアウルだよ、皆が口をそろえて“怠け者”って呼ぶアウルだよ?」

 

 大人しくクローディアの糺す言葉に反省したが、リサだけはどこか軽くアウルムの渾名を口にした。

 巷で“怠け者”と揶揄されるアウルムではあるが、それは《不蝕金鎖》外の人間が口にする蔑称。心の底から彼を怠け者と評する人間は、こと《不蝕金鎖》に置いては存在しない。その理由を、クローディアは知っている。だからここで悪気の無いリサの認識を糺す事も出来るが、アウルムが語らぬ理由もしっている為に口にできない。

 ふと、黒髪の少女がアウルムに近づく。その手にはクローディアが持ってきた毛布があり、彼女はそっと慈しむように優しく掛けた。

 

「なんだって良い。アウルが“怠け者”でも何でも、ここに居るのがアウルには変わらない」

「あたし、難しい話しはわからないよぉ、それってどういう意味?」

「リサはわからなくても良い意味」

「あ~、ひっどぉ~! ま、いいかっ!」

 

 どこかネジの外れた頭をしているリサは、アイリスの語る哲学めいた言葉に深く考えるのを止めたらしい。アウルムの寝顔に満足したようすで欠伸を噛み殺しながら寝室へと戻って行った。

 時刻は既に朝。娼婦は眠る時間であり、夜に備えて英気を養わなければならない。一度体調を崩せば、稼ぎの少ない娼婦では女医のエリスに頼るしかなくなる。唯一の女医であり、また金額を多く取らない彼女は《リリウム》では欠かせない医者であり、とても重宝している。よって、度々手を煩わせるのもクローディアとしては悪い気がする。

 目的を終え、アウルムも熟睡しているのと判じ自分もそろそろ眠りに着こうを考え――そこで彼の隣に腰掛けたアイリスが目に留まった。

 

「アイリス、眠らなくていいの? 今夜は上層のお客様の予約があるから、沢山眠っておくってさっき言ってたけど」

 

 上層の貴族の客が、今夜の仕事だった。クローディアとアイリス、それにリサの三人で赴きもてなす。牢獄では味わえない料理を夢見て、リサは今日一日の食事を抜くと意気揚々に宣言していた。貴族という太い客ともなればしっかりと奉仕し、稼がなくてはならない。その為には体力はおのずと必要になってくる。

 ――しかしアイリスの言葉は、そんなクローディアを瞠目させるものだった。

 

「いい。ここで寝ても十分休める」

「まあっ――」

 

 努めて平静に言い切ったアイリスに、クローディアの乙女回路が轟雷を伴って稼働し始めた。

 本人はさもいつも通りの冷めた表情で言ったつもりなのだろう。が、クローディアの目は誤魔化せない。僅かに吊り上ったアイリスの下唇は、意地を示す証左。時折アウルムの寝顔を一瞥する視線の動きは、興味の証。そしてなにより、一定の誰にも寄りつかない彼女が、こうして自ら進んでアウルムの隣で眠るというのが――なによりの証。

 アイリス自身気が付いていないのかもしれない。らしくない行動をとるほどに、アウルムの存在が深く根付いていることに。

 《リリウム》の娼婦は皆、家族のように思っているクローディアは、彼女の初めて芽生えた感情に感激し、斟酌することにした。

 

「それじゃあ、毛布をもう一枚持ってくるわね」

「……よろしく」

 

 ぶっきらぼうに放言してアイリスは黙りこくった。不器用な感情表現に、クローディアは微笑ましく思い、再び寝室と待合室を往復した。

 もしアウルムがアイリスよりも早く目覚めたら――そんなことは無いと思うが――隣で寝入る少女に、果たしてどんな思いを懐くだろうか。現場を目の当たりにして慌てふためく姿もそれはそれでクローディアの食指を動かすが、それよりも、アイリスが先に目覚めて何事も無かったかのように遅れて目覚めたアウルムに、実は――と真実を伝え早起きしなかった己を悔やむ姿の方が、彼女の好みであった。

 拾い物のような出来事に、クローディアはいつもより目覚めが楽しみに思いながら床へと就いた。


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