牢獄の暗殺者   作:琥珀兎

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第二十一話:開戦

 その部屋は死臭に満ちていた。

 うすぼんやりとした燭台の灯りが照らす寝台に仰臥するのは一人……否、一つの遺体だ。既に人としての役割を終えたソレは人とは呼べない形をしていた。

 両手が組み合わさった状態で潰され、十指は複雑に絡み合い、二度と解く事が出来ない程だ。両脚は前を向いていなかった。まともな向きから真逆に捻じ曲げられた足の甲には、刃物で刻まれた矢印が皮肉にも前方を記していた。耳が落とされていた。唇が切り落とされていた。鼻が削がれていた。瞼がなくなり、渇いた瞳は苦痛に歪んだまま暗闇しか映していない。

 あらん限りの苦痛を持って弄ばれた死体には、痛ましい傷を埋めようと蛆が湧いていた。

 

「サイ……」

 

 オズに案内された室内で、ジークは昨日まで彼を心酔し従ってくれていた男の有様を見て、その名を呟く。

 葬送の言葉を探しながら寝台に近づくと、もう一人居ることに気がついた。

 寝台の縁に顔を伏せ、途切れ途切れに嗚咽を漏らすのは、サイの部下ヘイデンだ。

 

「お頭……ぁ、兄貴が、兄貴が……」

「何があったヘイデン、全部話せ」

「お、おれの、俺のせいなんです。俺が、兄貴にあんな情報を報告しなければ……っぅ!」

「情報……?」

 

 情報とは一体何か、今すぐにも訊きたい気持ちはある。しかし事の優先順位は生きてる者よりも死者に傾いた。

 ジークは泣き崩れるヘイデンの肩をそっと叩き、この部屋から出るよう指示する。

 彼もその意図を理解したのだろう。一言「下に居ます」と力なく言い残して部屋を後にした。残ったのはさっきまで襲撃を受けていた三人と、渋面を面に滲ませているオズと、もう酒を飲むことも女を抱くことも出来なくなったサイだけだ。

 

「馬鹿野郎……俺より先に逝きやがって、どうして明日を待ってられなかったんだ」

 

 部下の死、それも――先代の亡くなった後から――長く不蝕金鎖に貢献し忠誠を示してきた男の死という重みからか、ジークの瞼が重くなりサイの死にざまを直視できなくさせようとしていた。

 彼に触れる己の手が、細くなった双眸に映る。

 傷など少ない、少なくとも悪意に蹂躙されたサイの手に比べたら聖女様の手と言っても通用するぐらいだ。それがなおさらジークの胸を形容できぬ激情が掻き毟る。

 今日まで我慢を、辛抱をさせたのは自分だ。確実に、最小限の被害で勝つために目先の消耗に“仕方ない”と自身に言い訳をしてきた。これはそのツケなのだろうか。組織の為を思って進言していたサイを、計画の全貌も明かさぬままの不透明な決定に従わせた――頭の言葉というだけで。

 わかっていたことだ。別に今回が特別というわけでもない。これまでも部下の死は見てきた、それこそ最近の黒羽事件の時だって、遺体の判別がつかない者だって居た。それもこれも、全て自分の言葉一つで命を落とした。

 室内を照らす蝋燭の灯りがやけに眩しい。遮ろうと片手を上げた時、

 

「…………」

 

 背後から金属音がした。

 冷たく、自動的な刃の音だ。

 何物をも両断すると語られる音に、ジークの“らしくない”感傷が斬り捨てられたような気がした。身近にあった胸を掻き乱す激情は、いつの間にか遠く、彼岸の彼方へと別れを告げていた。そうしてジークは己がなんであるのかを取り戻した。

 

「サイ、明日だ……明日にはお前の所までベルナドを送り届けてやる。だから、それまで待っててくれ。

 これが最後の“辛抱”だ、約束する」

「ジーク……」

「そう言うわけだカイム、今夜はゆっくり休め。緊張して飲み過ぎるなよ?」

 

 慮るようなカイムの言葉に、いつもの調子で返す。振り返り、頭としての顔貌を見せて。

 

「言ってろ、俺は帰るぞ。明日は早いんだ、寝坊なんかしたら目も当てられん」

「ああ、頼んだぞ。お前が一番重要な一番槍だ」

 

 振り返り背を向けたカイムが部屋を出ようとする。その際、彼は一度だけサイに視線を肩越しに向けた。死体を映す無味乾燥な瞳が、やはりアウルムの弟子だとジークに思わせた。

 なんだかんだと甘い部分のある男だが、人死にに対してのこの“慣れ”は暗殺者のソレだ。

 そうして視線を外したカイムは、前を向く途中でアウルムを視線に納める。が、何も言葉を発することはなく、部屋の扉が静かに音を立てた。

 いつまでもこの部屋に居てもしょうがない、ジークはカイムが去ったのを切っ掛けにそう判じ、腰を上げた。

 

「オズ、後の始末を頼む。くれぐれも丁重に、な」

「へい分かりました」

 

 俺なら棺桶にかける金を部下にばら撒く――脳内であの男が得意気に語っているのが浮かび上がったが、鼻で笑い聞き流した。

 人知れず呟く。

 

「だからお前は華が無いんだ」

 

 麻袋に花を誰が添えるか、棺桶にこそ花は相応しい。それをケチるお前には、死花を咲かせることなど不可能だろう。

 ベルナドが死ぬ時は麻袋すら必要ない終わらせ方をしてやろう。

 ジークにはもう、逃げる事も後悔する事さえ出来ない不退転の領域へと押し上げられている。ならばせめて泥臭く、生き汚く、それでも堂々とやり遂げよう。華々しさなど望むべくもない、始めからこの牢獄にそんなモノを望むことがそもそも間違っている。

 背中を見つめるアウルムの視線、それが逃避を許さぬように感じられる気がした。

 故に――ジークフリード・グラードは頭で在り続ける。

 

 

 ※

 

 

 アウルムがジークと共に階下のロビーへと降りた時、そこには先程までサイの亡骸の前で泣き伏せていたヘイデンが一人佇んでいた。力無く立ちつくし、焦点の定まらないままに呆け立つ姿は率直に言って“使えない”の一言に尽きる。

 

「あ、お頭……」

 

 覇気の無い声がジークを呼ぶ。気持ちの整理はついたのだろうか、すがるような声に呼ばれたジークはアウルムをその場に残し、二人で上階の自室へと向かって行った。

 サイの死が胸に堪えた様子のまま階段を昇る様を見送りながら、アウルムはソファーへと腰を下ろして煙草を咥えた。隠れ家にあった燐寸は、そのまま元の場所へと戻してしまった為、ロビー内に常備されている燐寸を使って火を点ける。一気に吸いこみ、溜息と共に吐き出す。

 立ち昇る紫煙を仰ぎながら考えるのは、さっきカイムが見せたあからさまな視線。どうやら彼は気がついていたようだ、事の顛末に。

 

「さて、だとしてお頭はどう動く、もう後戻りするには道が残ってないぞ」

 

 誰も居ない空間での呟きは、途端に静寂によって塗りつぶされた。

 それからどれほどの時間ここでそうして居ただろうか。気がつけばオズが埋葬を終えたのか、それとも一段落ついたのかロビーへと降りてきた。

 

「ジークさんがお呼びだ、すぐに来い」

「分かった、すぐ行く」

 

 立ち上がり、いつもの部屋へと向かう。

 オズの横を通り過ぎた時、ふと煙草を吸った事によって鋭敏になった感覚がアウルムに知らせた。

“やけにピリピリしてるなオズの奴”

 それは微か過ぎる感慨、三歩歩くまでもなく忘却するだろう程に希薄なもの。それでもアウルムには彼の表面に立つ棘がなんであるのか、なんとなくではあるが気がついた。それ程までにお粗末だったという事だろう。

 ここには居ない誰かさんに同情などするわけもなく、アウルムはジークが待つ部屋への階段を昇った。ちょうど階段でヘイデンとすれ違ったが、彼はサイの死に涙し、悄然としていたのも忘れたように力のある瞳をしていた。

 挨拶はしなかった。

 

 

 ノックへの返事もなく入室したアウルムを迎えたのは、千切れそうになるまで張りつめた表情のジークだ。口元に咥えた紙巻き煙草――今は居ないエリスが調合した――独特の香りが煙と共に立ち昇っている。

 精神を落ち着かせる鎮静作用があると言っていたソレを吸っているという事は、それに頼っても落ち着かせたい何かがあったということだろう。

 

「来たぞ」

「楽にしてくれ」

 

 促されるままにいつものソファーに座る。

 死体が一つあるせいだろうか、今晩のリリウムはいつも以上に重い空気が漂っている気がした。

 胸やけがしそうな空気の中、ジークが煙草を揉み消した。

 

「サイが死んだのはベルナドの差し金だと思うか?」

 

 経緯を省いた質問は、アウルムが既に自分と共通の認識を持った上でのものだった。

 

「まさか、俺たちが明日にでも喧嘩をしかけることは向こうにも当然知れ渡ってる筈だ。そんな土壇場で人一人態々殺しておく利点がない。俺やカイム、それかオズかお頭でもない限りな」

 

 言うまでもなく、アウルムはサイの死因がベルナドと直接関係しているとは思えなかった。それはジークも同じだったらしく、嘆息し背を後ろへと凭れ、天井を仰ぎ見た。

 

「やっぱり同じ、か。ベルナドがわざわざサイを狙う理由がない、となると今回の主犯は……」

「疑われて当然なのは、ヘイデンだろうな」

「……しかないか」

 

 喉元に出来物でも出来たかのような溜息と共に吐き出されたのは、彼なりの感情表現か。だとしてそれは悲嘆か、それとも憤怒か、アウルムには理解出来ない。するつもりも無かった。

 感情に種類はあれど波の強弱は変わらない。そんな波立った感情を鎮静させようと、ジークは抽斗から新しい紙巻き煙草を取り出した。

 

「ヘイデンの奴こう言ってたよ『俺に兄貴の仇を討たせて下さい! その為なら命も惜しくありやせん!』なんてな、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった面でまくし立てるんだ」

「で、どう答えたんだ?」

「サイが請け負う筈だった役割をくれてやったよ、そうでもなきゃ帰るつもりも無かったんだろ」

 

 サイの後釜に据えられるということは、ジークと共にベルナドを討つ実行部隊に所属するということだ。とはいえ、彼は元々サイの部下。その地位が一つ繰り上がっただけで、役割そのものは変わりない。

 が、ジークは煙草を咥えた口の端を吊り上げる。

 

「お陰で、内部に残った最後の裏切り者が分かった」

「背中の警戒をする手間が省けたな」

「まったくだ、挿すのは好みだが刺されるのは趣味じゃない」

「処理はどうする? なんなら明日を待たずに消してもいいんだが」

 

 暫定裏切り者が分かったわけであるが、だからと言って安全が保障されたわけではない。常に狙われているのは変わらず、いつ相手にとって有用な情報が流れてしまうのかもわからない。獅子身中の虫だと承知の上で甲斐甲斐しく飼い続けるのは、愚か者か廃人だけだ。

 欲張って物をかき集めてはかえって身動きが取りづらくなる。ジークとてそれがわからない男では無い筈だ。

 

「いや、あいつには最後まで仕事を全うしてもらう。最後まで……な」

「考えがあると、こっちは思って良いんだな」

「ベルナドは侮って勝てる相手じゃない、それはこの五年で十分に味わったし、理解もした。だからこそ、今になってようやくつかんだ勝機だ。ただの意地でフイにするわけないだろ。

 なぁにちょっとは信用しろよ、お前のお頭を」

 

 会話を続けるうちに興が乗ったのか、ジークはいつもの緩んだ表情で不敵な笑みを浮かべた。

 言うまでもなく、アウルムは彼を信用している。

 “不蝕金鎖の頭”としてのジークを疑うなんてこと、アウルムは決してしない。それはある種の自動化した感情がそうさせているのか、はたまた長い付き合いの副産物として獲得した好感という感傷か。どちらにしても、アウルムはジークを信頼している。

 未だスイッチが入った状態のいまでは小粋な応答も叶わないが、いま出来るだけのやり方でアウルムは答える。

 

「お頭がそう言うなら俺は何も言わないさ。ただ斬るだけだ、斬って殺す、それだけを続ける」

 

 思い浮かべるのはガウの面影。

 病んだように青白い肌、亀裂から混沌でも吹き出しそうな口元、闇色の髪を振りながら同時に迫る二刀のナイフ。鳩羽鼠色の長外套をはためかせ、快楽を貪る獣の如き俊敏さと、命を食い破る牙を彷彿とさせる鋭さ。すべてが時の経過による劣化を許さずに蘇る。

 出会うだろう。自分は必ず彼女と再び白刃の下に出会うことになるだろう。

 未来予知にも等しい予感がアウルムに訪れ、自然と背負ったニホントウの存在が色濃く感じられた。

 態度に出ていたわけではない、アウルムは自信を持ってそう言えた。が、ジークには感じ取れたらしく、ガウとの死合いを意識しているアウルムを見ていた。

 

「お前がそんなに意識させる女が、世界に二人も居たなんてな」

「二人……?」

「決まってるだろ、向こう側に居るその女暗殺者と……アイリスだ」

「…………」

 

 アイリスの名を耳にしてアウルムは角度を狭めた神経が広がっていく感じがした。

 

「実際の所詳しくは訊いてなかったが、結局どうしてアイリスを選んだんだお前?」

 

 別にいまにする話題でもなかった。

 こんなのは茶飲みならぬ酒飲み話だ。それを質問者本人も理解しているのだろう。ジークの質問には答えを必ず用意しろという強制力がなく、なんでもない様子で空模様を訊ねているようであった。

 質問に答えるのは簡単だ。己の心のままに、素直に、飾らぬままに吐き出せばそれで済む。しかし、

 

「なに、別に大した理由じゃない」

「そうか、悪かったないま訊く話じゃなかった」

 

 正直に教える気にはならなかった。

 アイリスが攫われここに居ない状態で話すものでもないと思った。どうせなら、全てが片付いて酒宴を開いた時などの後日談として語るものだろう。だからアウルムは閉ざした、語らずその真意を理解して欲しいくて。

 彼女はいまどうしているだろうか、生きているだろうか、それとも……。たとえ生きていたとして、彼女は彼女のままでいられているのか――アウルムは彼女が囚われているだろう疫病街の方へと窓越しに顔を向けた。

 空が段々と白む。夜明けが近いらしい。

 雨は勢いを失い段々と弱まり、いまでは霧雨程度まで落ち込んでいた。

 あと数時間、三度も鐘の音を聞けば、牢獄が出来てから至上かつてない規模の二大組織の抗争が始まる。一度でも火が点けばもう止まらない、そんな殺し合いが。

 

「あと少しで本番だ、少しだけでも休んどけ」

 

 同じように空模様を確認していたジークがアウルムを労う。

 重要な戦力が寝不足で十全じゃなくなった、なんて情けない理由で死にたくはない。などと軽口を交えてアウルムの帰宅を促した。

 アウルムとしては始まるまでこの部屋で待機しようと思っていただけに、ジークの提案をすぐに呑み込めなかった。

 

「ちょっと待てお頭、別に態々帰らなくてもここで寝れば十分だろう」

「なんだぁ? もしかしてお前、長い事アイリスから離れて禁欲している内に、とうとう男でも良くなったのか?」

「……それは甚だしく不名誉だ。悪いが、例え男色の気があっても、お頭だけは御免だ」

「ふっ、まさか俺がフラれる時が来るとはな」

「さも勝算があったかのような口ぶりだな……いや、いい何も言わないでくれ。大人しく帰る」

 

 このままイタチゴッコをしていては部屋で待機は出来ても休むことが出来ない為、大人しく帰る事にした。

 流石にアウルムと言えど、昨夜になりつつあるあの雨中の戦闘後に、十分な休息もなしに再び大立ち回りをしてくれと要求されても不可能だ。人間である限り、睡眠を無視する事は不可能なのだから。

 

「わかれば良いんだ少しは自宅で休め、帰ってないんだろあれから」

「意味がないからな」

「意味……か、お前らしいと言えばらしい言葉だが、用途としてはとんでもなくらしくないな」

 

 暗殺者としてのアウルムは常に考えている。意味を、理由を、思考を止めることなくひたすらに考える。故に、その思考の最中に選択を迫られる時も多くある。これには意味があるのか、それともないのかと、考えて意味がないと判じた事柄はあっさりと未練なく切り捨てる。だからアウルムは意味の無いことはしない。少なくとも自分で考え判じた事柄に関しては。

 だからこそ家に帰る意味がないと断じたアウルムに、ジークは笑みを浮かべずにはいられなかった。

 だってそうだろう。自分の家にこれまでも彼は帰っていた。なのにアイリスと新居に移ってから、彼女が居なくなった家にアウルムは一度も帰っていない。そこに“帰る意味がない”などと言われてはジークも表面化する笑みを押さえる事なんて出来やしない。

 つまり――アイリスの居ない家になど、帰る意味なんかないとアウルムは言っているのだ。

 戯れに、欲のままに女を抱く事は多々あった彼であるが、こうまで一人の女に拘泥した姿を見るのはジークにとって初めてだった。案外、メルトが言っていたことは的を射ている射ていたのかもしれない。

 

「……? 抽象的過ぎて意味が理解出来ないんだが」

「いいさ、どっかの誰かよりよっぽど素直で逆に驚いちまったんだ。気にせず帰れ、埃が積もった家のままアイリスを迎えるつもりか?」

 

 そう言われてしまうと、アウルムとしても帰らないわけにもいかない。

 アイリスが帰って来た時を想像して、玄関を潜れば出迎えるのは白く積もった埃達。何よりも先に掃除をするべきだと、彼女なら間違いなくそう言うだろうし、自分にも手伝うように命ずるだろう。初めて新居に移った時の掃除姿を見ていれば、誰しもがそう思うに決まっている。

 

「わかった、大人しく帰って寝ることにする。最近は寝不足だったからな」

「それがいいな……なに、事が無事に終われば当分はゆっくり休めるさ」

「だといいがな」

「夕刻の鐘が鳴ったらリリウムにまた来てくれ、それまでにはこっちも準備を終わらせる」

 

 暫しの別れを惜しむこともなくアウルムはリリウムを出た。

 帰りの道すがらヴィノレタの前を通ったが、メルトは相変わらず店の営業に精を出していた。顔だけでも見ようかと寄っただけなので、中に入るつもりはなかった。

 それに、自分は未だにアイリスを助けられてない。そんな状態で彼女に会うのはなんだか不誠実なようで気が引けた。メルトは気にしないかもしれない、しかし、アウルムにも矜持がある。次に彼女と顔を合わせるのは、アイリスも交えての酒宴だと決めている。

 メルトの無事を確認すると、ばれないように道を変えて家へと帰る。

 

 

 久しぶりに帰った家はなんだか――そう長い時間でもないのに――懐かしく感じられた。

 何もかもがあの時のままだった。玄関の扉に残った鏃の刺さった痕、中に入ると物が倒れていたり何個かの陶器が割れてもいた。きっとガウが侵入したときに壊したのだろう。

 今更ながらに初めて現場を見たアウルムには、その時の光景がある程度であるが想像が出来た。とはいえそれは、彼女がどんな行動をとったのか程度で、どのような思考をしていたのかまでは解らない。

 割れた陶器の破片へと近寄り、花に触れるように優しく指を降ろす。周囲には酸化しきって渇いた葡萄酒の香りが微かに嗅ぎ取れた。壁を見ればぶつけた跡が残っており、その部分から下に流れるように赤黒く変色していた。

“どうせならカイムの家ではなくリリウムへと向かわせた方が良かったのかもしれない”

 過去を振り返り行動の正誤を糺した所で後の祭り。

 それでもアウルムは止まらず、あらゆる場所に残る痕跡を確認した。まるで、アイリスが居た頃の面影を追うかのように。

 最後に行きついた場所は偶然だろうか、それとも意図してか自分自身にも判断がつかない。

 寝室にはなんの形跡も残っていなかった。ここまで探す事は無く、不在を悟ったのだろう。拍子抜けするぐらいにあの時のままに残っている寝室は、荒らされていない事が逆に空虚さを際立たせていた。

 空っぽだ。

 空っぽだが、ここには温もりが残っている。それは体温ではない、温度を持たぬ温もりだった。

 一人でベッドへと寝転び天井を仰ぎ見る。新築など牢獄ではありえなく、天井には気になる染みや古くなったところがあった。どれも見慣れた、親しみのあるものだ。

 違うのは、隣にいつもいた彼女が居ないという点のみ。

 そしてふと気づく――この家に帰ってから思い、考えるのはアイリスただ一人の事だけだと。

 

「……まるで馬鹿だ」

 

 思わず洩れる自嘲にアウルムは身を任せた。

 アイリスの救出はクローディアとリサが、ジークを通して懇願した依頼だった。アウルムとてみすみす二〇〇〇もの金貨を支払った彼女を、ベルナドにくれてやるつもりなどなかった。が、不蝕金鎖の為とならぬならそれも仕方なしと見捨てる選択肢を持っていたのも事実。

 アイリスは常に天秤の秤に乗せられた状態だった。

 彼女の秤が少しでも不蝕金鎖よりも軽くなれば、アウルムは迷わず斬り捨てた。

 当然だ、娼婦一人の為に己の命題を果たす場所を失うのでは、それこそ金貨二〇〇〇では到底足りない――なのに、何故だろうか。あの時、あっさりと彼女を見切らなくて良かったと思っているのは。

 わからない、彼女は確かに大切だ。間違いなく自分が“選んで”欲した女で、抱いた女で、似合わぬ同棲を続けている女で……。

 巡りつづける思考が答えを出すことはなくアウルムは眠りに沈んだ。

 じきに朝の鐘が鳴る。が、彼が起きることはないだろう。

 それほどに連日の仕事で彼は消耗していたのだから。

 

 

 ※

 

 

 何処からともなく鐘の音がノーヴァス・アイテルに鳴り響いた。

 夕刻を告げる音色は茜色の空へ溶けるように消えていく。

 本来、一日がもうじき終わろうとしているのを知らせるものであるが、ここ牢獄においては今日に限り違う意味を持っていた。

 それを知っているのか、市場に店を開いている商人たちは足早に店じまいをしていた。所々既に終えている所もある。一分一秒の遅れがそのまま自分の命の価値を落とす事になると知っている為、商人たちの手早さには商魂の逞しささえ感じさせられる。本当に恐ろしいのであれば、始めから店を出しなどしなければいいのに、それでも営業をしていたあたり本職(プロ)であった。

 下層から店を出す商人も居る市場でさえそれほど行動が早いのだ、当然、牢獄民の行動はもっと早かった。元々目立つほどに人の往来があるわけでもないが、それにしても今日の牢獄は人が少なかった。一部では地域丸々もぬけの殻になっている場所もある。

 無理もない、本日(ほんじつ)これより始まる出来事を知っていて無視出来る者など、麻薬に脳を溶かされた廃人か、文字通りの命知らずぐらいのものだろう。

 閑散とした牢獄は廃墟の様相を呈している。

 人が居なくなるだけでまるで正常に戻ったかのような景観が、また現実の不条理さを表しているようでもあり、皮肉染みていた。

 多くの者が逃げ隠れする元凶の一端である場所――リリウムでは多くの男たちが集まっていた。

 皆一様に屈強であり、人相も世辞でも善良とは言い難い顔つきである。少しでも不用意に振れれば炸裂する爆発物の如くピリピリとした雰囲気を漂わせているが、不思議とそれらが暴発するようなことはなかった。

 視線は一点、リリウムの正面玄関に集まっている。

 普段は下半身に熱を溜めた男たちの往来で賑やかなそこは、今日に限ってはただ一人の男だけに在るかのようであった。

 穴でも開くのではと言うほどの強い視線の中、その男が姿を現した。

 同時に波のように広がる緊張感。ざわめきなど無礼だと、多くの男たちが口を噤み、生唾を静かにゆっくりと飲み干した。

 リリウムから出てきた男を知らぬ者はこの場に居ない。

 だってそうだろう、彼こそが彼らを束ね、統べる者――不蝕金鎖の二代目頭であるジークフリード・グラードなのだから。

 ジークは普段と変わらぬ出で立ちで部下の前に立ち、一人たりとも見逃すことなく見回した。所作の一つ一つにさえ、得体の知れぬ威圧感とでも言おうか、何かを覚え男達は自然と背筋がいま以上に伸びた。

 太陽が翳りを見せ、一足先に牢獄に夜が訪れようとしていた。その時だった、ジークが口を開いたのは。

 

「――この夕焼けは始まりだ」

 

 始まりに告げられたのは不退転の意思。

 牢獄民のみならず、この世界に生まれ、生きている者なら知らぬ者はいない《終わりの夕焼け(トラジェディア)》にかけた言葉だった。

 決して後ろ向きではない、己の死では終わらぬという意思を言葉に象った音の旋律。

 誰かが心内に同意した。

 ――そうだ、決して終わらないのだと。

 

「苦渋を噛み締め、耐え忍んだ暗闇を掻き消す夕焼けだ。

 お前たち……決して腐り落ちぬ金鎖で繋がれたお前たち、疑うことなく俺に付いて来てくれた事を俺は、誇りに思う」

 

 澄んだ面貌で語る言葉は、感謝に満ちていた。

 慈しむようであり、愛するような声色が男たちの胸にすとん、と違和感なく落ちる。それは決して解けることなく、風化することのない金鎖で繋ぐ寿ぎだ。

 誰かの胸中に熱がこみ上げた。

 ――この人こそが誇りだと。

 

「多くの犠牲があった。道半ばに倒れた仲間がいる、中には家庭を持っている者だって居た」

 

 隣を見れば今日まで居るはずだった仲間の姿が無い。そんな事は牢獄では悲しさすら侮辱なのではという程に当たり前で、それでも何も思わずにはいられなかった。

 こんな劣悪な環境でも人波に生きようと喘ぐ者が居た。歪んでいようともらしく生きようと奮闘していた者が居た。家族を護るためにその身を汚穢に擲った者も居た。

 皆等しく、同じ仲間であった。

 誰かの喉元に迫り上げる思いがあった。

 ――あいつの死を無意味にしないでくれと。

 

「牢獄は閉じたセカイだ、隣人の協力が無ければあっという間に死んじまう。が……誰も彼もを味方には出来ない。ここは夢を見るには現実味があり過ぎる。

 だが、誰も彼もを敵にしてたら結果は同じ。行きつく先に待ち構えるのは、破滅なんて冷たい二文字だけだ」

 

 朗々と絶えず語り聞かせるジークの姿が、ふとぼやけた気がした。

 一回り大きく、人目で威圧感を感じずにはいられない大きな体躯。見た目通りの胴間声がジークの声色に重なるようにして、いまこの瞬間にだけ顕現したようだった。

 大きな身体を揺らしながら葉巻を咥えて、彼の父親も同じようなことを言っていた。

 この人こそ、まさしく先代の息子。その後継だ。

 誰かの両腕にかつてない力が込められた。

 ――牢獄の王は蘇ったと。

 

「俺たちは家族だ、例えその繋がりに血筋が介在していなくとも、繋いだ金鎖がその証となる!」

 

 次第に熱を帯びる語らいは最早演説と言って遜色ないだろう。

 訳ありの者達の集い。けして正道とは言えぬ道を歩く同士。希薄な繋がりだと思っていた隣人は、しかし気がついた時には欠いてはならぬ存在となっていた。

 家族――下層や上層の者が聞けば噴飯しそうなほどに陳腐な言葉だ。牢獄民が何を言っている、と葡萄酒を片手に大口を開けるかもしれない。

 それでもかまわない。

 誰かの双眸に感情の雫が溢れた。

 ――家族を作ってくれて、ありがとうと。

 

「家族の死に、弔う花は必要だ。墓前で語る土産話が必要だ。何もかもが終わった時、腰ひもを緩められる安心が……必要だ。

 ……望まぬと言うなら逃げてくれて構わない、恐ろしければ隠れても責めはしない。たとえ背を向けようと俺は家族を見限らない。

 だが、それでもなお共に立つことを止めないのなら――俺がやれる報酬は最高の美酒だけだ! どうか死なないでくれ、そして共を杯をぶつけ合おうじゃないか!」

 

 膨れ上がった熱量は既に許容値を大きく上回っていた。それでも男たちが一心に口を閉ざしているのは、偏にジークの為だった。

 彼の言葉は終わってない。まだだ、まだ……この熱は消費してはならない。浪費してはならない。使いどころを間違えるな。

 誰もがそれを感じていた。この総身に奔るモノを。

 ――言葉にするのさえ躊躇われた。

 そうして、ジークは一歩前へと踏み出す。

 二代目という看板を背負う彼は、いつものように気軽に、されど価値ある様に不敵な笑みを浮かべて告げる。

 

「知っての通り“勝利”ってのは、最高の肴らしいぜ」

「――――ッ!」

 

 破裂するような歓声。

 天を劈く雄叫びと、上げられた拳。

 興奮のままに言葉にならぬ声が終始漏れ続けるが、知った事ではない。この瞬間を目にして大人しくしてなどいられるか、男たちの胸の想いはいま一つになった。

 最高潮の熱が覚めぬ間に、もう一人、ジークの一歩後ろに控えて現れたのに気がつけたのは、まったくの偶然だった。存在感の希薄さ、それが彼らに気付くという当たり前を許さなかったとばかりに当たり前に、黒衣の男は立っていた。

 誰何など無礼なことをする者は居なかった。正確な実力を知っている者は限られているが、この場、二度とないこの場所で、ジークの傍に立つ彼が半端者であるはずがない。

 ダークブラウンの髪を一纏めにした房が風に靡く。揺れるような前髪から覗く玲瓏な双眸が、男たちの熱の放出を留めた。

 水を打ったような静けさの中、アウルム・アーラは背負った大太刀を音立てるだけで何もしない。口出しするわけでもなく、その刀を抜くわけでもなく、ただ視線でもって熱の浪費を抑えた。

 予定になかったことなのか、ジークはアウルムを横目に見て仕方なさそうな面持ちで短く息を吐いた。吐いて、前へと向き直る。

 

「お前たち! お前たちが待ち望んだ約束の時だ!

 踏み鳴らせ! 踏み荒らせ! 麻薬で積み上げた金の城を踏み潰せ!」

 

 これを合図に不蝕金鎖は動き始めた。

 一遍の迷いも無く、勝手知ったる牢獄の街路を駆け抜ける。

 目的地は《風錆》の首魁ベルナドの本拠地。

 嘗て最も羽化病罹患者が多く発生したのにちなんで揶揄される地。

 疫病街へと。

 

 

 同時期、僅かに先んじるようにカイムもまた疫病街へと向かって駆けていた。

 

「やけに静かだ、不気味過ぎる」

 

 隣に並ぶようにして走るフィオネが神妙な顔つきで呟いた。

 確かに表に出ている牢獄民は少ない。それどころか商店の一つも開いていないが、それはジークが予め自分の傘下にある娼館の娼婦を使って一斉に噂を流したからだ。不蝕金鎖がこの日に風錆と大規模な喧嘩をする、と。だからこの不自然なまでの静寂は予め用意された部隊と変わりない。

 

「そりゃそうに決まってる、ジークが予め根回しをしてたからな。みんな怖がって逃げたり隠れたりしてるんだろ」

「……ジーク殿がか?」

「なんだ、以外か?」

 

 疑うような声色に、聞き流せばいいのにカイムの性分という棘に彼女の言葉が引っかかった。

 

「失礼ながら、少々な。以前一緒に協力した時、世辞にも善良とは言い難い者達が多かったので」

「なにも恐怖で牛耳ってる組織じゃないからな、ジークは牢獄を護るために不蝕金鎖のトップに立ってるんだ。そんな立場のあいつが、抗争で一般人にいらん被害を出すんじゃ本末転倒だろ」

 

 牢獄に蔓延する麻薬。これは当たれば即死といういわくつきのモノもあった。それは以前、まだエリスが居た頃に判明したことだが、詳細は分からず仕舞いだった。いまとなっては彼女なしではその謎も解けそうにはない。

 とはいえ、そんな危険物を金に換えている組織を放置しては牢獄全体で共倒れになる。これを潰す争いは将来の牢獄を護る手段だ。それなのにいまの牢獄民を巻き込んでは意味がない。

 

「なるほど、信用には値するようだな」

「そいつはどういう意味だ?」

 

 唐突に正体のわからぬ結論を下したフィオネを不審がりカイムは問うた。聞き流してもよかったが、先とは別の理由でどうにも無視できなかった。

 

「決まってるだろ」

 

 深い谷底を思わせる暗い声音。

 問いかけに反応してこちらへと振り向いた彼女には、色が褪せたような表情をしていた。黒羽事件以前の、フィオネらしさで溢れていた信念を胸に懐いた輝くような色。それが失われ、瞳も昏く、打算と偽証を見抜かんと汚れている。

 

「兄さんの仇を探すのに協力してくれる、という件だ」

「……そうだな、あいつは約束を守る男だ……」

 

 何を思ってかカイムは彼女から視線を外した。

 ジークは約束を違えない、それは絶対だ。軽々とした男ではあるが、それでも信頼され支持されるのにはわけがある。その一旦が、彼の言葉と行動にある。だから探すのには協力するだろう。

 ――ただし、必ず見つけるという保障はない。

 騙すような形になるが、フィオネを焚き付けるにはこれが一番だった。それならカイムは罪悪感はあれど躊躇わない。彼女とは過去に協力関係にあったとはいえ、友好を交わしたわけでもない。あるいはそんな可能性があれば未来は違っていたかもしれない。だが、そうはならなかった。

 だからカイムは騙す。己が優先順位に従って。

 今は何よりもティアの安全を獲得する方が大事なのだから。

 

 

 ※

 

 

 静寂が長続きしないのは予めわかっていたとはいえ、こうも下劣な雑音だらけでは興も削がれると言うものだ。

 建物の外から聞こえてくるのは怒号と悲鳴、刃の交わる金属音。それに連なる苦痛の呻き声。

 どれもこれも三流だ品が無い――葡萄酒が注がれたグラスを揺らしながらベルナドは品評する。自分はこの決死の争いにおいてまるで無縁と言わんばかりの余裕を持って。証拠に、深紅の水面は凪いだように静かなままだ。

 喧騒の様子を聞くに、やはり不蝕金鎖は正面からの衝突を選んだらしい。それも羽狩りという援軍を迎えての。

 窓から外の景色を覗くとわかる。

 疫病街は戦火と化している。素性も定かでない牢獄民たちが剣やナイフなどを用いて争う中、清廉を服にしたような衣装を身に纏った羽狩りの一団が動いているのも偶然眼に入った。

 南方へと迷わず向かっているのを見るに、奴らはあの羽つきの少女の居所を掴んだらしい。羽狩りとしては、職務を放棄して風錆の構成員との侵略戦を態々続けることもないのだろう。そのまま羽つきを保護して立ち去ってくれれば後々楽なのだが、それは高望みが過ぎる。

 きっと奴ら羽狩りはベルナドこそが羽つきを匿い監禁していた主犯として追い立てるだろう。自分がジークの立場に居たのなら、まず間違いなくその方法を執る。だからこそベルナドは羽狩りを警戒していた。

 不蝕金鎖とのやり合いはいくらやっても牢獄内でのことなので、上層へはその報告も届かない。しかし、国が設立した一団である羽狩りへのあからさまな抵抗は不味い。憲兵ならこちらの鼻薬が効いているから問題ない、が羽狩りをまとめているトップの貴族は癪なことに清廉に過ぎるきらいがある。こちらがどんなに薬をちらつかせ、贈り物を贈ろうと全て無駄になってしまう。

 金は強い力を持っているが、金を欲さぬ者にはなんの効力も発揮しない。

 

「……気に入らねぇ」

 

 綺麗事で着飾って何の得があると言うのか。

 欲望を持つことを許された人間が何故、どうして進んで欲を遠ざけるのか。ベルナドにはそれが理解出来ず、どうしようもなく気に入らなかった。

 だからこの予定調和染みた茶番が終わったその後にでも、今あるパイプを駆使して羽狩りの(おさ)ルキウスを追放してやろうと考えた。ベルナドが考える未来予想図には、彼の存在は邪魔にしかならないのだから。

 

「始まったね……」

 

 艶めかしく色めいた声色が背後からした。

 相手の為人、事情を一切知らぬ者が聞けば間違いなく欲情しているのでは、と判断してしまうだろうが、ガウに至ってそれは命に係わる勘違いになる。

 

「お前の仕事もそろそろだ、サボるなよ? お前が望んだ場だ」

「わかってるよ、とびっきりのご馳走があたしを待ってるんだ、こんな質の低いビュッフェに手を出したりしないさ」

 

 そう言って窓際へと身を寄せ、ガウは眼下に広がる殺し合いへと視線を落とした。

 休むことなく鳴り続ける剣戟の音、吹き出す血飛沫、何本か指を切り落とされて悶えている者も居た、そしてすかざす首元に剣が突き刺さり絶命した。様々な殺人方法が、ここにはあった。思わず下腹部が熱くなっていくのを感じ、その快感からか口元が悦びに歪んだ。

 他人の死に生まれた意味を求め、節操無く殺す彼女にとってここは博物館、いや展覧会とも言えるかもしれない。

 誂えたように人が死ぬ。

 あっけなく、価値なく、石が転がるように簡単に死に続ける。

 もっと大規模な争いがあれば、或いは彼女の願いは叶うのかもしれない。もっと多くの人間を巻き込み、牢獄に留まらず下層や上層も巻き込んで、沢山の人間が死ぬような大戦を引き起こせば。

 ああ、それはきっと、途轍もなく愉しいだろう。

 

「それにしても、いつみても良いもんだねぇ人間が死ぬ様ってのは」

「……」

「階段を転げ落ちるだけで死ぬ人間も居るってのに、片腕がなくなっても生きてる人間も居る。この違いはどこから来るんだか、あんたは気になったりしないのかい?」

「運が良いか悪いかの差だ、そんなのは」

 

 快楽主義の殺人鬼でなければ間違いなく美麗なガウの(かんばせ)がベルナドの方に向く。

 相も変わらずの狂いっぷりに、いかなベルナドとて欠片も動揺せずにいることは出来ない。本当なら彼女にはジークの首を落とす為の戦力として重宝したいが、それではあちらの最大戦力であるアウルムを押さえる事が出来ない。それ故に――

 

「どうやら時間らしいガウ……お前の得物が見つかったとよ」

 

 疫病街に立てられた半鐘が大きな音を立てて牢獄中に響き渡った。恐らくこの音はジークが居るだろうリリウムまで届いたに違いない。それ程までに大々的な宣伝だった。

 アウルムが現れた――死神の出現を知らせる命がけの警鐘が、ガウの身体に最高純度の燃料として投与される。全身を駆け巡る熱量に彼女の視界が僅かに、閃光を浴びたように眩む。が、即座に順応したのか、ガウは地割れを思わせるように割れた口元から赤い舌先を覗かせた。

 

「ようやくかい……さて、それじゃあ約束通りあたしは行ってくるよ。ここから先の事はお好きに、あたしも好きなようにさせてもらうからね」

「アウルムを抑えるなら後は好きなようにしろ、どうせならアイリスを捨て駒に使ってもいい。もう必要ないからな」

 

 半鐘の鳴った位置はアイリスを収容している建物にほど近い場所で鳴った。という事は、どうやらアウルムはアタリを引いたらしい。

 ガウは興奮冷めやらぬ様子で窓枠へと身を乗り出した。

 

「さて、どうなるかなんてあたしにも分からないさ」

 

 そう言って彼女は身を投げ出した。愛しい男の許へ駆けつけんが為に。

 屋根を駆け、街路に降り立ち、障害となる者全てを斬り捨てて駆ける。鮮血の道を作りながら。

 落ち着きを取り戻したベルナドの部屋は静かなものだった。一応、部屋の外には部下達が警戒をして見張りをしてはいるが、ここに不蝕金鎖が来るような事は在りえないだろう。いや、不可能と言ってもいい。

 たどり着けない場所とは、厳密に分けると二種類に別れる。

 険しく危険極まりなく物理的に到達不可能な場所。

 もしくは――誰もその場所を知らないという可能性に。

 

「どいつもこいつも、頭の使い方を知らない馬鹿ばかりでありがたい」

 

 こうして楽に事の趨勢を見物出来るのだから。

 眼下の殺し合いはベルナドにとっては舞台演劇に等しく、他人事のようでもある。無論、風錆の人員が目減りするのは痛いが、ジークを無惨に殺した後になればいくらでも補充は効く。

 不蝕金鎖さえ消滅してしまえば、牢獄の実権は実質自分一人の物となるのだから。

 愚か者たちの死合いは続く。

 全てを見渡し、俯瞰するようにベルナドは杯を傾ける。

 打てる手は全て使った。あとはタイミングだ。

 ティアとアイリスを攫う為に麻薬の売人をリリウムに通わせた。

 構成員を引き抜くために多くの嫌がらせにも似た工作を続けた。

 次第に疲弊し、我慢が切れてあちらから攻めたくなるように隙もちらつかせた。

 最後の最後まで裏切り者さえ不蝕金鎖の中に忍ばせた。

 また、そいつらの裏切りを警戒して必要以上の情報も与えていない。

 そうして……アウルムという最大の壁をいま、舞台の外へと追いやった。同時に、カイムまで引き離すことが出来たのは全くの僥倖だった。

 彼もまたあの殺人鬼に師事を受けていただけあって、生半可な腕では敵わない強さだ。こと殺しに至るまでの手順の踏み方が巧い。だからこそ、彼がジークから離れて羽つきの女なんかの救出に向かってくれて助かった。

 どう考えても、流れは自分にあった。

 油断という甘えは塗りつぶした、慢心など持たぬように心がけた、なんでもないような所作で敵を蹴落とす。そうした優雅さを持った貴族のように、ベルナドは最後の仕事が訪れるまでこの部屋から外で起きている事の顛末を見守った。

 葡萄酒の満ちたグラス越しに見る世界は、血のように紅く染まっていた。


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