牢獄の暗殺者   作:琥珀兎

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第十九話:呪縛

「あいつが……エリスがアウルを殺すなら、俺は、それを止める」

 

 まるで不味い飯を飲み下すのに懸命な様子のカイムは断言した。確かに言った。止める……と。だが彼はその手段まで口にすることはなかった。どうやって止めるつもりなのか、まさか聖書を片手に神の教えを説く神官じゃあるまいし話し合いで解決する話でもない。

 甘くなった、いや……惜しむようになった――懐に隠し持つ短刀(ダーク)の冷たい感触を確かめるアウルムは、かつて彼の師事によって“狂犬”と呼ばれていた(カイム)をそう評し、興味をなくしたように煙草の先端で灯る火種へと視線を合わせた。

 

「この際エリスについてはどうでもいい、決めるのはお頭だし……選ぶのはお前だ。そのお前が選んだことを俺は否定しない。ありのまま、やりたいようにやれ」

「はなっからそのつもりだ。エリスもティアも、俺が決着つけなくちゃならない問題だ」

 

 エリスがどうなろうと暗殺者としてのアウルムには興味も価値もない。

 “死すべき者”とジークが定め、命じた相手をただ殺し、火花よりも短い刹那に垣間見る絶望の瞬間にこそあるだろう“生まれた意味”を得る為なら、他の何を差し置いてもこれを彼は優先する。

 空っぽであるのが我慢ならない。知らないままではいられない。こんなにも他人を殺し続けて、こんなにも人はあっさり死ぬのに、どうして人は生まれるのだ――。

 

『人の命なんてあっさりと亡くなってく。こんなちっぽけな存在に、いったいどんな意味があるのかあたしも知りたいんだよ。殺して、殺して殺し続けてれば、いつか誰かが教えてくれるんじゃないかって』

 

 ガウが見せる地割れのように歪む口元が語った言葉が脳裏をよぎる。譫妄を疑う彼女の眼差しはあの時なにを見据えていたのか、下界の混沌の方がまだ理性的とさえ思わせる狂態は今もまだ続いているのだろう。

 アウルムを同類と歓迎したガウは殺しを是としている。殺しに情欲を見出し、戯れに精神的快楽を引きずり出す彼女と自分が同類だとはやはり思えない。アウルムは殺しに快楽の類を得たことはない。なら何故殺すのか。意味を求める行為に殺しという手管を選んだのか。答えは単純にして明快だ。

 それが一番効果的で手っ取り早いと思ったからだ。

 人はいつか死ぬ。これは揺るがぬ真実である。故に多くの死を知る事が多くの生を知る事に繋がると、アウルムは考えている。だから殺す。殺す事こそが目的と重なり、いつか誰かの死に様が見せる、死の向こう側にあるだろう原初の生を見つける為に、彼は動いている。

 心置きなくこれからも仕事を続ける為にも、ベルナドの存在は厄介な足枷になる。半日以上費やして得た情報を報告する為に戻ってきたアウルムは、カイムが持ち込んだエリスの件で有耶無耶になったコレをジークに知らせる事にした。

 

「ベルナドの件だが、一つカイムにとってもいい知らせがある」

「俺に……?」

「続けてくれ」

 

 机の上で両手を組んだジークが淡々と続きを促した。ベルナドの件と自分に符合する事柄を思い浮かべ、心当たりが思い当たったのかカイムもまたアウルムの語る知らせを促すように視線を向けてくる。

 

「ティアの居場所が分かった」

「っ!? どこだ?」

 

 問うたのはカイムだった。待ち望んでいた情報だったのか、ソファーに腰掛けていた彼の上体が前のめりになる。ソファーの足がこれに伴って軋む音を鳴らした。

 結果としてアウルムの報告を遮る形になったカイムに口を挿んだのはジークだった。

 

「まぁ待てカイム、嬢ちゃんを助けたいって気持ちは分かる。だがもうちょい落ち着こうじゃないか、性急で独りよがりな男は女にモテないぞ」

「ジーク……そうだなすまないアウル、続きを聞かせてくれ」

 

 遠回しに諌められたカイムは思い直し、佇まいを直して短く息を吐いた。

 

「ティアはベルナドが使ってる隠れ家の一つ、疫病街の中心から南下した場所に捕まってる。家には一組の老夫婦を装った奴らしか住んでいない。詳しい監禁場所は、屋内の西日が差す寝室の戸棚に隠し扉があり、その扉の向こうに彼女は居る。単体での救出だけなら、容易いだろ」

「罠の可能性は? ベルナドがそう易々と道を開けてくれるとは思えない」

「調べた限りじゃあ無い」

「……なるほど」

 

 顎に手を当て考え込むジーク。ベルナドの意図を探るような瞳はこれまでの経験を回顧しているのか、両端の引き合った眉根が溝を作っている。

 

「他には?」

「ベルナドの隠れ家はティアが監禁されている場所を含めて八つ、奴は二日置きに転々と寝床を変えているらしい。それと、影武者の存在だ」

 

 これに関してアウルムは綿密に情報を集めていた。もしジークが手詰まりだと判断して暗殺を依頼した場合を想定し、一番時間をかけて近辺の数少ない住人や、部下の誰かに変装して訊きまわった。しかし……

 

「ある程度の決まった動きが無く、家から家へと移る傾向は奴の気まぐれな可能性が高い。それに、影武者の存在が更に曖昧にさせている」

「そもそも隠れ家に居るのがベルナドという保障がない……という事か」

 

 元暗殺者のカイムもアウルムと同じ考えに至り、難しそうな面持ちで両手を組んだ。

 

「暗殺するにも、真偽を見分ける必要がある。そのうえ、側近にはガウが居る。驕りでも侮りでもなく、あいつの相手は間違いなく俺以外には無理だ。たとえカイム相手でも勝ち目はない」

「あんたがそこまで言う相手だ、俺だって命は惜しいからな。せいぜい運が良い事を祈るさ」

 

 口調とは裏腹に意識の(たわ)まぬ声と表情でカイムは呟いた。

 報告を続けていたアウルムの煙草が短くなり、二つのソファーに挟まれた、テーブルの上にある灰皿へと揉み消すと、再び同じ銘柄の煙草を取り出し燐寸を擦った。立て続けに吸う者だから喉が渇きを覚え、紫煙を吐き出すと懐から革袋を取り出した。中に詰まっているのは金銀銅の硬貨ではなく葡萄酒だ。飲み口の蓋を外し、一口分飲んで喉を潤したアウルムは話を再開した。

 

「最後に、最近のベルナドはやけに機嫌が良いらしい。金払いもいつも以上によく部下たちの士気も上がってる。

 以上が、俺が仕入れた情報の全てだ。流石に半日じゃこれが限界だった」

「いや、よくやってくれたアウル、これである程度の……いや、完全に目算が立った」

 

 他の、例えば不蝕金鎖の一構成員がアウルムの報告を聞いたら、ティアの監禁場所を除いてまったく進展が感じられないように聞こえていたかもしれない。事実ベルナドの隠れ家を探し当てたとはいえ、影武者という存在が前述した進歩を後退させているのだから。見える範囲が広がっただけで、その足は未だ一歩も前に進めていないのだ。

 しかし、それなのにジークは寧ろ“それでいい”とばかりに不敵な笑みで葉巻を取り出した。

 

「想像通り、ベルナドの用心深さは生半可じゃないのが分かった。それだけでも十分だ。しかもティアの嬢ちゃんが居る場所まで分かったんだ」

「だがジーク、結局ベルナドが何処にいるのかは分からないんだぞ」

「いいんだよ分からなくて、俺たちが必死こいて探す必要はないんだ。なあカイム、お前の家に虫は湧くか?」

 

 先程までエリスの裏切りを耳に緊張感のある顔をしていたとは思えないほど、快活な微笑みを浮かべるジークの問いに、何故こうも彼が楽観するのか分からないカイムは自分の家の風景を思い浮かべて顎を上げた。

 

「そりゃ、牢獄で虫の湧かない場所なんか存在しないだろ。どこに行っても餌はそこらじゅうにあるんだ。腐肉を餌にする奴らにとっては最高の場所だ」

「そうだ虫はどうあっても湧いてきちまう、でもな、そんな煩わしくて、逃げ足も速く、警戒心も高いもんだからなかなか姿を見せないで隠れてる虫相手に、お前ならどうする?」

「知るか、虫相手に一々そんな対処してたらそれだけで一日が終わっちまう。そういうのは暇しかない乞食のがマシな答え持ってるだろ」

「そらそうだ、例えが悪かったな。いいさ、本番になれば分かる」

 

 煙に巻くような、安い娼館の前で客を引く男の口上のような、核心を見せぬ口ぶりについぞカイムは理解が及ばず、その疑問が晴れることはなかった。

 

「そういや、嬢ちゃんとは別にアイリスは見つからなかったのか?」

「見つからなかった。ああも上手く隠すってのはそう出来ることじゃあない。――見つけるのが得意な奴以外にはな」

「……つくづく女には厄介な好かれ方するんだなお前って奴は」

 

 嘆息してジークは室内の灯りを見やり目を眇めた。

 

「とにかく、ティアの嬢ちゃんの場所が知れたとはいえ今すぐに助ける、ってわけにもいかない。アイリスの居場所が掴めない以上、片方だけを救出してら残りがどうなるかは考えるまでもない。肥溜めに足突っ込むより後味が悪い。

 だから、早まるような事はするなよ? カイム」

「なんの事だ?」

「わかってないならいいさ」

 

 もしカイムが焦りに先んじてティアを救出しようとすれば、それは即ちアイリスを殺す事と同義になってしまう。リサとクローディアに二人の救出を懇願された以上、組織の頭として受けた以上ジークは失敗するわけにはいかない。だから惚けた態度を見せたカイムには“分かっている”ものだと判断したのだろう、彼は満足そうに頷いて立ち上がった。

 

「少し下に降りてオズと話してくる。暫くしたら戻って、明日以降の話をしよう。それまで待っててくれ」

 

 部屋に残される二人の返事も聞かずにジークが出て行った。残るカイムとアウルムはお互いが暫く無言のままでいた。ソファーに座るカイムと、その背中を見る形で背後の壁に背を預けるアウルム。両者の間には言い知れぬ気まずさでもあるかのようで、性別が違えば倦怠期の夫婦のように見えなくもない。と、思っているようなアウルムではない。

 平時の彼であればそうかもしれないが、いまのアウルムにそのような要素は不要で、だからこそ無駄話に時間を費やす必要も見出さずに黙っているのだ。長い付き合いのカイムも、彼の性格を理解しているからこそ要らぬ雑談を切り出す事もなく黙っているのだろう。

 外から吹き付ける夜風が窓を叩く音が響く室内は依然として静寂が濃く漂っており、時折アウルムが加える煙草の火種が燃える音さえ鮮明に聞こえてくる。が、紳士の茶会のようなひと時は短くなった煙草を消そうと、カイムの座るソファーまでアウルムが近づいた時に終わりを告げた。

 

「一つ、訊いてもいいか?」

「なんだ?」

 

 感情を排した声で答え、アウルムはカイムの正面に座り、灰皿に煙草を揉み消した。

 かつて他者の命を対価に自身の命を繋いできたカイムの双眸が、今もそんな生活を続けるアウルムを映した。

 

「大したモンじゃない。昔も訊いたが、結局うやむやになっちまった些細な質問だ。

 あんた、なんで暗殺者になろうと思ったんだ? その腕なら別の仕事でも生きていけただろ」

「随分つまらないこと訊くじゃないか、エリスが居なくなって感傷的にでもなったのか」

「さあなこんなのは気まぐれだ、ジークが来るまで黙ったままってのも飽きただけだ。で、どうなんだ実際のところ」

 

 黙っているのにも飽きたから。そう言ってカイムは楽な姿勢になり、ソファーに身を沈める。

 アウルムは再び懐から葡萄酒が詰まった革袋を取り出して呷る。何を話すにしても喉が渇いては落ち着かない、そう判じたが故の行為だった。

 余談だが、牢獄に普及している葡萄酒は下層からの物資援助、もしくは下層から降りてくる商人や市場から買い付けるぐらいしか入手方法がない。というのもこの葡萄酒を作るのにおいて何より重要な要素となる葡萄そのものを栽培する力が、ここ牢獄には無いのだ。誰もが誰かを出し抜き何かを得るのが主流となってしまった牢獄完成当初、僅かに残った開発されていない土地を使って葡萄を栽培しようと考えた者も居たが、結局は見知らぬ他人の手によって旨みだけ、上澄みだけを奪われるのが繰り返され、今やただの荒地となっている。よって、牢獄産の葡萄酒というのは存在しないのだ。

 そのような火酒よりも値の張る酒を喉を鳴らして飲み続けると、アウルムは満足して酒精混じりの吐息を吐き出した。

 

「人は誰だって死ぬんだ、ならそんな死にやすいのを殺すのは楽な仕事だろ、だからだ」

「単純に出来てるな、ほんと単純(シンプル)だよあんた」

「違う。俺はそれしか“見てない”だけだ。そりゃあ娯楽は好きだ、女も抱くし酒も飲む。けどな、それとは違うものがあるんだ。

 カイムにもあるだろ、己の中に、性質の悪い汚れみたいにこびり付いたモンが」

「俺にも……」

 

 ある種の確信をもって告げたアウルムの言葉に、カイムは意識を己の内側へと向けたらしく視線を落とした。彼が心の内で何を思い、何を探しているのかアウルムは知らない。いくら凄腕の暗殺者とはいえ他者の考えていることの全てを読み取ることは出来ない。せいぜいが顔色や全身を見て、その時の相手が懐く感情と単純な思考程度だ。そもそも、カイムが何を考えているのかなど、アウルムは探るつもりもない。

 階段を上がる音がした。足音から二人分だと察知したアウルムが視線を向け、送れてカイムも見やると扉が開き、ジークとオズが姿を見せた。

 部屋に入るなりジークは定位置の席へと戻り、オズは扉を閉めてその前に畏まって留まった。

 

「さて、待たせたな。それじゃあそろそろ始めよう」

 

 ジークは室内に居る三人の男を視野に収めて、いつものヴィノレタで飲んでいる時のような気楽さが覗える語調で言った。自信と責任を持った彼の相貌は泣く子も黙る不蝕金鎖の頭としての顔を見せているが、どこか悠然とさえしている。椅子に凭れて両手を組む彼の姿が、どうしてだかアウルムに先代の面影を想起させた。

 体格も顔も違う。性格だって、嗜好こそ似れど根本が違うのは明らかだ。けれど確かに、まだアウルムが正気を失っていないのだとしたら、ジークの姿がボルツと重なって見えたのだ。

 

「――決行は明後日だ」

 

 牢獄の王が植えた種が芽吹く時が来た。

 

 

 ※

 

 

 自分以外の他人を何故信頼出来ようか。形のない信頼関係という聞こえの良い言葉がベルナドは途轍もなく嫌いだった。同じ考えを持たず、同じように行動してくれる他者は、彼にとって言葉の通じない獣も同然だった。徹底して穿ったこの価値観が芽吹いたのは、あの夜――先代不蝕金鎖の頭目であるボルツが跡目にジークを指名した運命の夜だった。

 組織の為を思ってそれこそ死力を尽くして組織に貢献し続けたのに、長い時を重ねて得た信頼は隣で信じられないような顔をしていた未だ未熟さが見えるジークへの貢物となってしまった。納得が出来なかった。何故? どうして? そんなボルツへの疑問が喉元までせり上がって――しかしベルナドは口にしなかった。それこそ何故? という話だが、愕然としていた彼は見てしまったのだ。聞いてしまったのだ。

 年下の、それも遥かに己より未熟で劣る――上なのはボルツの正妻の息子という立場だけの――ジークがボルツの決定に反駁するのを。

 納得いかないと、順当に考えてベルナドに決まってると、“これからも組織の為に頑張ってくれ”などと飼い殺しの宣告を受けた彼を立てる言葉をまくし立てたのだ。客観的に考えてジークの行動は自身の実力を理解していたからこそだったのだろう。若く未熟な自分よりも、副頭としての地位と実力、そしてなによりも組織の為に捧げてきたベルナドこそ、とジークにしてみれば至極当然で真っ当な事を言ったつもりだったのだろう。

 しかし、世の中は善意と道理だけで物事が滞りなく通るほど単純じゃない。

 この言葉、ジークのベルナドを立てる言葉こそが彼に火を点けた。

 単刀直入に言って、彼は憎んだ。当然、自分を指名しなかった上にこれまでの全てを掠め取ったジークを、簒奪者を支えろとのたまったボルツを。――そして、そんな苦労なく自分の得る筈だった栄光を到達点の光を奪ったジークも。

 年下の、それも内心で下に見ていた“勝者”に憐れまれた事が、ベルナドはどうしても許せなかったのだ。面子を重んじる組織に置いて副頭の地位に座っていた彼は、ジークの言葉によって最後の砦であった自尊心までも崩されかけたのだ。

 

「…………忌々しい」

 

 憎々しく吐き捨て、ちょうど近くにあった調度品を乱暴に蹴倒し、ベルナドは豪奢な椅子に座り直す。無残な有様になった調度品は、牢獄民ならまず得られないだろう価値を持っており、下層民でも手に入らない代物だった。金貨何枚に相当するのか見当がつかない品は、しかし八つ当たりの対象にすら満たなかった。沸々と湧き上がった怒りは晴れず、寧ろ飛散した調度品が目障りにさえ思えて悪化さえしかねない。

 壊れてもいい。そんな乱暴な感情が剥き出しな動作で葡萄酒の瓶を掴み取りグラスへと注いでいく。粟立ちながら満たされていく深紅の葡萄酒。ここで瓶から直飲みしないのは、紳士を自称する彼が己の中で定めた品性を穢さない為だ。

 ベルナドは芳醇な香りが空気に触れて開き始めた葡萄酒のグラスを持ち、円形に緩やかな速度で回し始める。同時に、中の酒も一緒になって回る。特にこれと言った理由があるのか知らないが、ベルナドはこうすると気持ち酒の味が自分好みになると思っていた。

 そろそろ飲み頃かもしれない。そう判じたとき、彼の居る部屋に唯一つの扉が開いた。

 咄嗟に視線を向けるも開いた扉に人の姿はない。風の悪戯と判断したベルナドが視線を外した瞬間、

 

「――じゃましてるよ」

 

 いつの間にか彼の背後から声が聞こえてきた。

 他者に捩じ切られたように首を稼働させ、見開いた目が捉えたのはガウの歪な微笑みだった。

 

「お前か、紛らわしい入り方をするな」

「あたしをどっかの暗殺者と勘違いしたのかい? だとしたら、良い感してるよあんた」

「ぬかせ、とにかく今後はもうするな」

 

 悪戯気に言うガウに固く命じ、ベルナドは深く息を吐いた。心臓の鼓動は、耳鳴りのようにしつこく内側で大きな音を立てている。

 頭皮が痒くなるのを煩わしく感じながらベルナドは、口にしようとしていた葡萄酒のグラスを置いた。

 

「いったい何の用だ? お前にはカイムとアウルムの監視を命じてたはずだ」

「正確には、カイムって男の方だけなんだけどねえ。あたしがアウルムに近づいたら、きっと直ぐに気づかれるからね」

「気づかれる? お前の能力はアウルムにばれる程度なのか?」

 

 憮然と問うたベルナドに、ガウは顔を顰めることもなく涼しげな顔で返した。

 

「能力の良し悪しや上下の問題じゃないのさ。あたしとあいつは惹かれ合ってる……だからお互いに隠しきることは可能でも隠れきることは出来ないのさ。まぁ、言った所で理解出来るとは思ってないさ。

 とにかく、あたしじゃアウルムを尾行するのは無理だよ。あいつにも無理だけどね」

「……で、“言い訳”に勝る情報はあるんだろうな?」

「勿論、あたしはこれでも仕事はちゃんとこなす方なんだ」

「なら聞かせろ、あいつらの近況を」

 

 ヴィノレタでの宣戦布告後からベルナドはガウに命じて不蝕金鎖の監視と調査を命じていた。他の手下を送る手もないわけじゃないが、それではアウルムに見破られる可能性があり、逆手に取られる恐れがある故に選べない。そこで白羽の矢が立ったのはアウルムと同等の実力があると見るガウだった。

 情報を仕入れてきたのだろうガウは血の気が失せたように白い肌に、本性を知らなければ喰いつかぬ男はいないほど美しくされど剣呑な相貌を緩ませ、薄い唇が開いた。

 

「せっかちだねぇ、わかったよ。仕入れた範囲の情報は吐くさ。それがいまの仕事だからね」

 

 ガウが語った内容はベルナドの失笑を誘うには充分なほど浅はかで滑稽なものだった。そう、思わず笑い声が漏れてしまうほどに。

 

「くっ……くくく、ははははっ!」

「ご機嫌じゃないか、これはそんなに良い報告だったのかい?」

「ああ、笑いが止まらないほどになっ」

 

 抑えきらぬ笑いを堪えることなく吐き出しながらベルナドは椅子から立ち上がり机へと向かう。机の上には牢獄の地図が広げられ、詳細の情報量の多さは不蝕金鎖にも引けを取らない。というのも、この地図はベルナドが不蝕金鎖から離反する際に持ち出した地図なのだ。それから風錆独自の情報を書き加えた地図は、最早、過去の顔を大きく変え目的の為の利便性も、不蝕金鎖のそれとは大きく異なっていた。

 地図の前に立ち両手を着いて俯瞰するベルナドの背中に、ガウが声をかけた。

 

「相手さんは何を考えてるのか分かったような雰囲気だね」

「“ような”じゃない。分かってるんだよ」

 

 自信を持ってベルナドは言い切った。そう、分かっているのだ彼には。

 ジークがどんな手段を講じているのか、そしてどんな手でこちらに牙を剥いて来るのかベルナドには鮮明に思い浮かべる事が出来た。所詮想像でしかないそれを、何故こうも自信を持って断言できるのか。

 

「ジークの考える事なんざ、俺にとっちゃ金を勘定するより簡単な事だ。あいつが生まれる前から俺はこの世界にどっぷりつかってたんだからな」

「へぇ……貰うよ」

 

 ベルナドが飲もうとしてそのまま放置された葡萄酒の瓶を取り、そのまま口に付け、ガウは呷る。質の高い味が喉を通り、感嘆の声を短く漏らし彼女は言葉を継いだ。

 

「それで奴らはどう動くつもりなんだい? あたしにも教えてくれよ」

「あと二、三日も経たずに奴らはここを攻めてくる。こっちの思惑通りに、羽狩りのオマケ付きでな」

 

 ティアが羽つきだと分かったのは、彼女を誘拐してすぐの事だった。始めこそベルナドは羽つきという不安要素を排除しようと思ったが、その考えは利用しようという思いつきによって却下した。

 

「戦力で劣る不蝕金鎖は真正面で戦えばまず負ける。だがここに羽つきが居ると分かってるなら羽狩りを利用する事は可能だ。それはジークの野郎が度々下層に言ってることから簡単に推測出来る。しかも最近になってカイムの野郎が羽狩りに呼び出しをくらってんだ、これは間違いないな?」

「女みたいに可愛い顔した坊やで間違いないならね」

「なら間違いじゃない、そいつはカイムだ。

 そして、ジークは考えるだろう。羽狩りの戦力があれば俺たちに匹敵する、とな。羽つきの捜索って名目があれば羽狩りも動きやすい、これに乗じて奴らも同時に動く筈。これが始まりの合図になる。

 だが俺をどうしても殺したい奴にとってこの手は得策じゃない。ジークだってそこまでは考える。だから奴自身は動かない。娼館に閉じこもって俺が姿を見せるのを待つ筈だ。炙り出す様に、じっと息を潜めてな」

 

 ガウからの報告では既に牢獄内で疫病街に羽つきが匿われているという噂が流れているらしい。それも娼館の娼婦から耳にすることが多い、と皆口々に言っているのだ。ベルナドからして考えてみれば、これは間違いなくジークの撒き餌だ。彼は多くの娼館を統べる男なのだから。

 だとすれば羽狩りが動き出すのもそう遅くはない。開戦の火蓋が切られるのはもう間もなくだ。だからこそ、ベルナドは笑いが止まらない。

 地図から目を離し、葡萄酒を呷るガウの傍にある未だ手のつけられていないグラスに手を伸ばす。

 

「そこで、満を持して俺が姿を現せば残りの部隊が一斉に俺目掛けて押し寄せる。そうなれば、奴の戦力は皆無に等しくなる。先代の物真似ばかりのあいつは、まずリリウムに一人残るのは間違いない。そこが――ジークを確実に()れる最大の隙だ。

 最悪の殺人鬼も、アイリスを餌にお前を宛てがえば時間稼ぎになる」

 

 しかしこの読みには一つ致命的に足りない手がある。それを見逃す筈もない頭の回るガウは、飲み込むことなく問いかけた。

 

「だがあんたは一人だよ、どうやって最後の邪魔者をおびき寄せんのさ。影武者でも使うってのかい?」

「その通りだ。影武者を使う」

「まさか騙せると思ってんじゃないだろうね」

 

 影武者と言えど完璧な偽装はそう簡単じゃない。ガウもベルナドの影武者は見た事があり、その変装能力は高く評しているが、相手が相手だ。幼い頃から付き合いのあった相手をそう簡単に騙せるとは思っていないのだろう。が、ベルナドは一片たりとも疑っていない。己の読みの精度を。

 

「当たり前だろ。ジークは間違いなく影武者の存在を知っている。だからこそ、俺を炙り出す為に自分を餌にする筈だ、そこにのこのこ現れる間抜けな俺を疑うわけない。

 より真実味を増す為に、事前の演出だって加えるんだからな」

 

 いくら羽狩りを使おうとも、いくら部下の戦力を削ぎ落そうと、大将を落とせばそれで戦いは終わる。なにも馬鹿正直に戦うほど、牢獄のやり方は明るくない。地の底なら地の底らしく、汚く薄汚れたスマートな勝ち方をベルナドは選ぶ。

 それに部下などいくら殺そうと、不蝕金鎖を潰せばどうせ増えていく。人は罪から逃れられない。それは何も牢獄に限った話ではない。下層だろうと、上層だろうと変わらない。そしてそう言った罪人は大抵が牢獄へと逃げ落ちる。転がり落ち、しかし昇る事が出来ない牢獄は犯罪者の坩堝だ。よって人材には事欠かないのだ。

 

「へぇ、まぁなんだっていいさ。あたしはアウルムと最高に痺れる殺し合いが出来れば、それで充分なんだから」

「安心しろ、野郎とは好きなだけ遊べ」

 

 情欲を誘う嗜虐の笑みを浮かべるガウを一瞥し、ベルナドは葡萄酒を飲み干した。

 最大の懸念はアウルムがアイリスを見捨てる、という判断をする事だが、それもガウの存在とジークがさせないだろうとベルナドは判ずる。甘さの抜けないジークは必ずアイリスを助ける命じる筈。それはベルナド自身が今日までアウルムを差し向けられなかった事が何よりの証だ。組織の裏切り者である彼を、ジークはついぞあの狂った暗殺者に暗殺を命じなかったのだから。

 ニホントウを背負うアウルムに狙われて生きている人間は存在しない。それは過去に彼の仕事の後始末をやったことのあるベルナドもよく分かっている。獲物を前にした彼の洞のような双眸に、魂なんて曖昧な存在ごと斬り殺すような恐ろしい刃。死にゆく者を弄ぶアウルムの姿は、今でもベルナドの記憶に深く刻まれている。

 ――だが、それももう終わる。あの男とて完璧ではない。故に足枷をはめたままガウに勝てる保証もない。なによりジークを殺せば、奴は“動かなくなる”のだから。

 ――アウルム・アーラはどうしようもない欠陥品なのだ。

 

「そういえば、あの“人形”はどうするつもりなんだい? ふらふらとここに流れ着いてきたけど」

「エリスか……少しはマシな情報でも持ってくるかと思ったが、思い違いだったようだ。居ても邪魔でしかないからな、元の“家”に帰してやったさ。今頃、そこらの中毒者よりイカれてるだろうよ」

「要らないんなら、あたしが壊してもいいかい? ああいうのを斬ったら、案外面白いものが出てくるかもしれないからね」

 

 夜の内に幽鬼の如く現れたエリスを始めはベルナドももう一枚手札が増えたと思い、使い捨てようかと迎えたが、予想は大きく裏切られた。対面した彼女は正気を喪っていた。時間の概念が無くなり、今を現在と理解出来ず、意識は度々過去への遡行を繰り返しまともに会話も出来なかったのだ。唯一、対話が出来たのがアウルムの事についてだけで、他には何も聞き出せなかった。

 並々ならぬ苛烈な殺意をアウルムに懐くエリスは「アウルムを殺したい、殺して、私で満たされたカイムに殺されて、私も満たされたい。満ちて、溢れて、埋め尽くしてほしい」などと脈絡もなければ支離滅裂な言葉を譫言のように言っては、放心し、意識を取り戻しては始めからやり直すという面倒さだった。

 だからベルナドは使えないと判じ、彼女を“家”に帰した。過去を眺望する彼女を然るべき場所へ宛がおうと思って。不蝕金鎖の件が終われば、そのままエリスには再び娼婦として部下たちの慰み者になってもらうために。だから、そんな有効活用法が見つかっているものを見す見す壊す事はベルナドには承服しかねた。

 

「頭は一等イカれてるが、身体は極上だ。まだ使い道があるから、アレが金を生む内は殺すな」

「そうかい、そりゃ残念だ。死んでないだけで生きてもいない人形ってのは貴重だから、殺すときが来たらあたしに始末させるんだよ。でなきゃ、つい“ナイフが軽くなっちまう”かもしれないからね」

「好きにしろ」

 

 億劫そうに答えてベルナドは空になったグラスを置き、部屋を出て行く。

 

「俺はもう行く。後の事は任せる、不蝕金鎖の奴らが来たら丁重におもてなししてやれ」

「了解」

 

 部屋を出て人気のない廊下を進む。事が上手く運んだ暁にはここも引き払い本拠地を移す事にしようなどと展望を思い描くと、自然と頬が吊り上っていった。あの屈辱の夜から五年以上が経ち、ようやく全てを奪う事が出来る。そう思うとベルナドは楽しみを待ちきれぬ童子のように心が躍ってしょうがなかった。

 

「待ってろジーク……もうすぐだ。貰いものでしかないお前の全てを、俺が奪ってやる」

 

 人質などくれてやる。事が終われば価値のないものなど、端から執着するまでもない。全てはだた一瞬の隙間を空ける為だけに費やされるものなのだから。

 

 

 ※

 

 

 今夜の牢獄は一際気温が低いのか、カイムは自分の肌に立つ鳥肌を発見して自宅に常備してある火酒を取り出し、少しでも体温を上げようと飲み始めていた。

 飲み慣れた火酒の強い酒精は攻撃的で、だからこそ気を紛らわしたかったカイムには丁度良い。いつもより早いペースで進む火酒は見るからに残量が減っていくが、もうこの家には彼の行動に口を挿む人も、咎めようとする人も居ない。久し振りの完全に一人の空間は住み慣れた家の筈なのに、少しだけ広く、寂寞たるものがあった。

 火酒で熱くなった吐息を吐き出して、カイムはつい先程ジークがリリウムで言っていた言葉を思い出した。

 

『――明後日の日が落ちた時間に風錆のアジトへと乗り込む。これは予め羽狩りが羽つきの捜査という名目で大規模な人員を動かすのに乗じて行う事になる。カイムは羽狩りと共にティアの救出をし、アウルはアイリスの救出を優先してくれ』

『邪魔が入ったらどうする?』

『全員殺せ……と言いたい所だが、風錆には元不蝕金鎖の人間も多い、そいつらはなるべく殺すな。裏切り者とはいえ、元は家族だった奴らだ。それ以外の奴らは……殺せ』

『了解した』

『部下の総指揮はオズ、お前に任せる。なるべく膠着状態を保ちつつ時間稼ぎをしてくれ。どうせベルナドは居ないんだ、無駄な血を流さずにいきたい』

『わかりました』

『俺はここでベルナドをおびき寄せる餌になる。俺を殺したがってるベルナドなら、間違いなく混乱に乗じてここに乗り込んでくる筈だ。その為に二つほど部隊を俺の所に残したい。これにはサイとその部下たちを入れておく。約束通り、にな。

 場所の準備は終わってるな?』

『はい、少々手狭でしょうが、それは我慢してもらいましょう』

『よし。最後にこの呼子笛で、アイリスが見つかったり危険な時なんかに使ってくれ。

 明日、カイムは羽狩りの所に行って、この旨を伝えてくれ。以上だ』

 

 カイムからしてジークの立てた策は悪くないと思っていた。アウルムが仕入れた情報ではベルナドには影武者がいるらしく、本拠地に居るのがベルナド本人とも限らないらしい。であるなら、ジーク自身が餌となる案は確実性が高い。虫の話を彼がしていたのを思い出し、この事を指していたのだと改めて気づかされた。

 逃げるなら、隠れるなら、出て行きなくなるような餌を用意して待てば良いのだ。

 決行は明後日と決まっているのだが、カイムの心はなんのしがらみさえなければすぐにでもティアとエリスを助けに行きたかった。二人とも自分の不徳が原因でいなくなってしまったのだ。このままには出来ない。

 ティアを見捨てれば間違いなく後悔する。

 エリスを見捨てたら間違いなく後悔する。

 罰なのだろうかこれは――殺す事で生きてきた己に対する罰なのだろうかと、人殺しに出来てしまった護る者に苦しめられながらカイムは火酒を呷った。いつぞやのアウルムが言った言葉が聞こえてきたのは、酒のせいだろうか。

 人殺しが護るのは不可能だと、人を殺傷する為のナイフを持って人を護るなどとのたまうのは、何よりも性質の悪い偽善だ。カイムとてあの頃と同じ幼いだけの子供じゃない。牢獄の厳しさを目の当たりにし、十数年も生きてきてなお青臭いことを主張するつもりもない。ただそれでも、カイムにもあるのだ“殺してでも護りたい”という思いが。

 

『――俺の分まで生きて、立派な人間になるんだ、約束してくれ』

 

 忘却の彼方へ置き去りにした過去の情景が閃光のようにカイムの脳裏に閃いた。

 大崩落が起きたときの、妬み……憎んでさえいた実兄の――アイム・アストレアが最後に残した言葉。いつだってカイムより優れていたアイムが、母の愛を占領していた兄が、死んでしまえと呪詛を吐き願ってしまった彼を殺した大崩落の日を、カイムは思い出した。

 意識を奪わんばかりの轟音と共に崩れ落ちる大地に攫われようとした兄を、どうしてだか咄嗟に助けていたカイムは、何故自分がこんな行動をとっているのか理解出来なかった。兄が居なくなれば自分がもう嫉妬に苦悩する日はなくなるのに、それなのにどうして? 今にも混沌へ落ちそうな兄の命を繋いでいたのは、幼きカイムが伸ばした細い腕だけ。必死に兄の右手を掴む少年。このままでは力尽きて共に落ちてしまう。そう分かっていたのに、死にたくないのに、カイムは手を離せなかった。

 終わりは、兄が一方的に繋がりを断つ事で訪れた。悟ったように死を受け入れた高潔な兄の儚い微笑みと共に、残響のようにいつまでも響く疑念の中、残されたあの言葉は――まるで呪いの様だった。

 

『――どんな人にも生まれてきた意味があるなら、私は、人じゃないってことなんだ』

 

 嗚呼そうだ、この言葉が、エリスが娼婦になる前夜に吐いた虚ろなこの言葉がカイムに掛けられた呪いの発動条件を満たしたのだ。

 立派な人間になる。己の死と引き換えに残した誓約は、生きるのに精一杯で忘却していたカイムを突き動かした。それまで欠片の興味もなかったのに、“自分が彼女の両親を殺したせいで娼婦になってしまった”なんて建前でしかない罪悪感に騙され、自動的な考えでカイムはエリスを身請けした。カイムの仕事の犠牲になって娼婦になった女など、他にもいた筈なのに。

 エリスは分かっていたんだ。カイムが罪悪感など持っていないのを、何かに囚われるように自由を、自立を命じていたのを。今更になって気づいた事実に、カイムは己に憐情を懐かずにはいられなかった。

 憐れなのは、分かってないのは自分の方だった。

 

『――人には、必ず生まれてきた意味があるの。

 ――人生で一番大切なことは、自分の人生を精一杯生きて、生まれてきた意味を見つける事よ』

 

 母が毎日のように言い聞かせていた言葉こそアイムが残した“立派な人間”に繋がると、思い至ってしまった。

 

「…………生まれてきた意味」

 

 人知れず呟き、カイムは火酒を遠ざけて思考を巡らす。

 聞きなれた言葉。されど遠く縁のない言葉だと思っていた。アイム亡きいま、兄とさえ思っているアウルムが並々ならぬ執着を見せるこの言葉。母の言葉。兄の遺言。果たしてどれがカイムの心に絡みつき縛り上げているのか、蔦を辿ろうにも複雑すぎて根を追う事は出来ない。

 分かっているのは、少なからずアウルムの影響もあるのだろうという事だ。牢獄での生き方、殺し方を彼から学んだカイムは昔から人が生まれた意味を探し続けているのを知っていた。知っていて、だからこそ――エリスを身請けしたのではないのか、と思い浮かんだ仮説に慄然とする。

 あるいは(アイム)ではなく、(アウルム)の助けになればと考えての事だったのかもしれない。だとしたら……カイムは彼の為に“生贄”を用意していたに他ならない。

 例えこれを否定した所でアイムの言葉に縛られての行動だったとしたら、人殺しに堕ち立派とは程遠くなってしまった自分の“代用品”としてエリスを育て満足したかったのかもしれない。

 いずれにせよベルナドが嗤った“鬼畜”をより上回る悪行だ。

 

「は、ははは……くだらない、どうしようもない奴じゃないか俺は」

 

 力無く掠れた声が自嘲の声を上げる。

 結局の所、エリスを身請けしたのは自分の意思じゃなかったのだ。罪悪感もなく、負い目もなく、ただ他人の思想に己を投影していただけの人真似でしかない。命令と束縛を望むエリスより、自分のほうがよっぽど人形じゃないか。

 嗤わせる。なにが立派な人間だ。なにが自由だ。――知りもしない概念を押し付けていた自分が憐れでならない。

 

「はは、は……クソッたれ!」

 

 こみ上げる癇癪を抑えることなくカイムは目の前の机を大きく叩いた。火酒が入った陶杯が揺れ、横倒しになる。残っていた中身が零れて広がっていくが、気にならなかった。

 物のような扱いを求めるエリスを拒否しながら、実際には自分の都合の良い物としか見ていなかった。自意識を植え付けておきながら否定し、望む形になる様に作り変えようとする。どんなに面倒な女だと思い続けてもついぞ見捨てなかったのはこれが原因なのだろう。

 客観的に思い至り、カイムは改めて考え直す。

 仮にエリスを救いだしたとしてそれからどうする? 再び付かず離れずの距離感を保った歪な関係を続けていくのか? いや、出来るわけがない。自分はもう気づいてしまったんだから。どういう形にしても何らかの決着をつけない限り、エリスは止まらないだろう。だとしたらどう決着をつける? 受け入れて物扱いをするなんて出来ない、もう出来るわけがない。今まで物として見ていたと分かった以上、ようやく芽生えた本物の罪悪感を増幅させるような事は出来ない。なら……どうする、ジークはエリスの件について自分に預けた。アウルムだって好きにしろと言っていた。そうだ、アウルムならどうする……

“――殺すのか? エリスが望む通りに……冗談じゃない!”

 邪念を振り払うように(かぶり)を振る。

 もうこんな呪縛から解き放たれなくてはならないのだ。エリスも、自分も。真に己の意思で選ばなければならない。どうしたいのか、どうしなければならないのかを。

 その為にも取り戻さなくてはならない。奪われたままでは駄目だ、今度こそ本当にティアを……エリスを古井戸から引き上げなくてはならない。

 ふと、エリスが譫言のように言っていた言葉が思い起こされた。

 

『カイムは、自由が大好きだもんね。誰の影響かしら、自由を好むようになったのは』

 

 違う。自由が好きなんじゃなかったんだ。憧れただけだった。自由ではなく、そう思わせる全てにおいて完璧なまでに割り切って生きる彼の強さに。

 罪悪感はおろか罪の概念さえ朧気に思わせる彼の気儘な在りようが、牢獄に堕ちて間もないカイムを縛る兄への罪悪感を斬り捨てると思い、彼のように振る舞えば同じような心持ちになれるのだと願っていただけだ。事実、一時的に兄の事を忘れられたが、それがエリスという存在を生み出してしまった。だからもし、罪を問われるのだとしたらそれは他ならぬ自分自身なのだ。

 

「――やるしかないな」

 

 自分の想うまま、ありのままにやりたい事をやる。アウルムがカイムに向けて送った言葉を思い出しながら、カイムは眦を決して立ち上がる。

 夜半を過ぎた空の下、カイムは寝床へと身を丸めて座り込み、浅い眠りについた。

 全てが始まり、終わるのは明後日。

 エリスをどうするのか、解決策は未だ具体的に思いつかないが、何をするにもまずは風錆との決着が先だ。英気を養うためにも明日はちゃんとした食事をしよう、と考えながらカイムの意識は睡魔の泉へと沈んでいった。


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