牢獄の暗殺者   作:琥珀兎

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第二話:親愛なる世界で

 娼婦としての人生に諦念を懐いたのはいつの頃であっただろうか、アイリスは記憶の奥底に仕舞った己の起源(ルーツ)を思い起こした。

 上層で貴族としておよそいまの立場からは考えられないような生活を送っていたある日、そう、ある日……日にちを確認するほど重要でもない、なんでもない日に突然、理不尽は降りかかった。思い出すだけで忌まわしい、唾棄すべき執政公の粛清によってアイリスの一家は崩壊した。

 気が付けば彼女は上層ではなく、その遥か下にある牢獄へと身を落としていた。牢獄に送られた当時は、酷く狼狽し、涙を流さなかった日は無かった。それほどにここは劣悪で、目を覆い耳を塞ぎたくなるような出来事ばかりだった。自ら命を絶たなかったのが不思議なくらいだ。実際、アイリスは娼館に来てから何度もそういった現状に絶望し、生を手放した娼婦を見てきた。

 お風呂一つも、これまでは屋敷の大浴場で、しかも召使いに世話をしてもらうのが当たり前だった。なのに、娼館の風呂は最低限のそのまた最低限を下回らない程度の環境しか維持されない。もしかするとこの瞬間が、一番アイリスを打ちのめしたギャップだったかもしれない。

 コインの表と裏のようにまるっきり生活が一変し、望まぬ行為を強要され、次第に心身共に疲弊していったアイリス。朝に始まり夜に終わる。一日を無限に繰り返しているような感覚に陥り、やがてアイリスは娼婦であることに諦めるようになった。

 仕方ない。どうしようもない。なにも変わらないし、救われない。ならこれはこういう仕組みなのだと諦めよう。いずれ蛆の餌になる自分に希望など必要なく、であるなら漫然と生活を“こなす”しかない。

 自分はこの天井に漂う紫煙のようなもの。漂い続け、火が消えれば霧散するさして気にも留められない存在なのだと、そう自分に言い聞かせた。

 その頃になり、自然と意識するでもなく口調が変化した。いや、それまで内心で思っていた事に戸を立てられなくなったのだ。思ったままの毒舌が奔り、ああ……とうとう自分は此処まで到達してしまったのだと、他人事のように嘆いた。

 どれもアイリスには懐かしくとも思いたくない、性格を捻じ曲げるようなトラウマである。

 娼館《リリウム》の待合室に座り、天井に漂う誰かの吐き出した紫煙を、ただ何の感慨もなくアイリスは視線を向ける。時に左に、はたまた右へと。紫煙と同じように視線を漂わせる彼女は、予定外の空き時間に暇を持て余していた。

“こんな時に限ってリサはともかく、クロも仕事……退屈。豚の相手をするよりましだけど”

 娼館内でも仲の良い二人の同僚を思い浮かべ、しかしこの場には居ないことに嘆息する。現在、この待合室にはアイリス一人しかおらず、備え置きのチェスをやろうにも、一人ではエイトクィーンぐらいしか思いつかない。

 本来なら彼女もまたこの時間は、客の相手をしなくてはいけないのだが、予約をしていた最後の客が店に来なかったのだ。それにより予定がぽっかりと空いてしまったアイリスは、手持無沙汰になり誰か居るだろうかと踏んで待合室に居座っていた。が、結果は――娼婦としては暇がないほど忙しいのは喜ばしい――無惨なものだった。誰一人としていない待合室は閑散としており、時折聞こえる娼婦の色の付いた嬌声と、ぎしぎしとリズミカルに軋む音が虚しく響くだけ。

 外に出て客を取る、という手段もあるにはあるが、アイリスはその性格上、歯に衣着せない辛辣な言葉やプレイスタイルに心酔している客が多く、一番人気のクローディアには負けるが、なかなかの人数が居たりする。よって行動を起こさずとも場合によっては客を取れるのだが、今夜は不思議と一声も掛からなかった。

 娼婦である自分は、いつか年季が明けるまでここから解放されない。しかも、解放を迎えるまでに生き残れる可能性は百人に一人居るか居ないかなのだ。自分の小さな矮躯では、まず生き残るなんて不可能だろうと、すでにアイリスは悟っている。

 他に、あと一つだけ娼婦を解放する方法がある。といっても、こちらは完全なる“自由”ではない。

 《身請け》という、娼館主に直接、求められるだけの金銭を支払い娼婦を買い取る制度だ。そうすれば、娼婦は金銭を払った者の所有物となり、あとはどう扱おうと自由なのだ。まさに男にとって夢のような制度ではあるが、この身請けは娼婦としても夢のような話なのである。まず第一に、そしてこれがもっとも難関なのだが――金額が非常に高額なのだ。

 日々の暮らしにすら事欠く者も居る牢獄において、娼婦の身請け金はまさに命を削っても届かない金額で、それは勿論下層民であっても難しい買い物なのだ。

 また、娼婦によって値段は変動する。ここ《リリウム》で例えるなら、一番人気のクローディアなんかは、娼館の売り上げに欠かせない存在である。故に、その値段も非常に高額となるだろう。まず牢獄民は勿論、下層民にも届かない。届くとしたら、それは上層に住む貴族ぐらいであろう。

 そういった理由から、身請けとは男女の両者共に夢のような話であり、限られた人間にしか出来ない御業のようなものである。

 アイリスは自分が豚と称する者達からの人気はあるが、それでも彼女を身請けする者は居ないだろうと思っている。たまに訪れる娼館だから興奮するものの、毎日続けば嫌気も差すだろう。なにより、アイリスは……諦念を懐きながらも、誰とも知れぬ豚の所有物になるのは感情が拒絶した。

 それならこのまま娼館で蛆の餌になるほうが良い、と投げやりな感傷に浸っていると、来客を告げるベルが高らかに耳朶を震わせた。

 

「いらっしゃ……あっ、お疲れ様です!」

 

 受付の男が対応していると、忽ち慌てて声音を引き締めて来客を迎えた。

 慇懃な対応からしてアイリスは、来たのは客ではなくもしかすると娼館主であり、組織《不蝕金鎖》の二代目頭のジークかもしれないと思った。彼が帰ったのなら、受付の慌てたような声にも頷ける。それならよっぽど忙しそうでなければ、呼び止めてチェスの相手でもしてもらおうと画策した。

 淀みなく鳴る足音を聞きながら、アイリスは手間を省こうと思いチェス盤を出し始めた。――しかし、待合室に顔を見せたのはジークではなかった。

 

「よおアイリス! なんだ、お頭はお前が忙しいって言ってたが、どう見ても暇そうじゃねえか。ちょうど良い、俺もお頭を待って暇してるんだ、相手してくれよ」

「変態野郎」

 

 相手をしてくれ、という藪から棒に切り出したのは娼館を取り仕切る主――ジークを旗頭に据えた《不蝕金鎖》の一員、アウルムであった。

 自分を相手に遊んでくれという意味だと取ったアイリスは、アウルムに冷めた目線を送り、いつものように豚相手に浴びせる挨拶を贈った。しかし彼は気にも留めず、アイリスの真正面へと座りテーブルに置かれた――さっき彼女自身が用意した――チェス盤に駒を並べ始めた。

 

「なんだ、相手ってそっち」

「別に他の“遊び”でも良いんだがな、生憎、今は節制中でな。何を差し置いてでも欲しい物があるから、その為に金はあまり使わないようにしてるんだ」

「不能なんだ、使えない」

「ぐっ、言っとくが、俺は超絶技巧の絶倫大砲男だぞ。その道じゃあ、娼婦が泣いて許しを請う程責め続けた事も……」

「殴る豚は死ね」

「違わい! 暴力なんか振うわけないだろ、ちゃんと天にも昇って奈落まで堕ちるような快楽で鳴かせたぞ!」

 

 必死に弁解するアウルムだが、アイリスはこの会話で彼への印象が覆るような事は決してなかった。幾度となく、しつこく自分の下へ現れる彼は、背負った刀の物騒さとは裏腹にどこまでも善良であった。少なくともアイリスの前では。

 彼もまた《不蝕金鎖》であるなら、公に出来ない後ろめたさをもっているだろうが、そんな事、牢獄では小石の数ほど転がっており、アイリスにとっても瑣末事であった。

 いつの間にかチェス盤には駒が整列していた。

 

「先手は?」

 

 アウルムの相手をするのはやぶさかでもないアイリスは、漂わせていた視線を下ろしチェス盤へと向けた。アウルムが黒で、アイリスが白。

 

「そっちが先で良いぞ」

「ハンデのつもり?」

「いつも負けてる側の俺が、なんで自分にハンデを課さなくちゃならん。勝算があるから先手を譲ったんだ。今日こそ、勝たせてもらうぞ」

「ふふ、なんどやっても無駄」

 

 眠たげな眼差しに皮肉の笑みを浮かべ、アイリスは不敵に呟く。

 これまで幾度となくアウルムはアイリスに挑んできた。結果は常にアイリスの常勝。大太刀を背負ったこの男は、チェスに関してはアイリスの足元にも及ばないのだ。

 こと戦闘能力において《不蝕金鎖》のでは随一と畏敬されるアウルムが、チェスでは滅法弱いというギャップは、アイリスにとって面白いと思えるものだった。

 彼が自分に執着しているのは、知っている。この幼い身体だが、中身は同世代の誰よりも経験を積み重ねてきた身だ。アウルムに向けられる感情の仔細までは分からずとも、自分を欲しているというのは感じられる。だが、彼は一度もアイリスを買ったことが無い。金銭に困っているわけもないのに、アウルムはいつもこうして他愛ない“遊び”を提案してくるだけ。それがアイリスにとっては不思議でならない。

 自分は娼婦。金銭を対価に求められれば、拒否は出来ない。そう思いつつも、心のどこかでアウルムが本当に自分を買ったら、それはそれで何処か悲しい……と柄にもなくアイリスは思った。こうしてチェス盤を挟んで、大人げない表情で唸っている彼を見て居る方が良いと、出所のわからない感情が告げていた。

 

「ぐっ……」

「これでアウルの駒は、クイーンとキングの二つだけ」

 

 盤上では絶え間なく続く、アウルムの無謀で好戦的な手をのらりくらりとアイリスが躱し続ける。手を進めるついでに、相手の駒を奪うのも忘れない。抜け目なく順次上手く事を進めたアイリスは、いまや盤上の支配者となっていた。

 残り二駒のアウルムに対して、アイリスは手加減をしてもまだ七駒残っている。ポーンが三つにルークが二つ、そしてクイーンとキングが一つ。どう考えても、アウルムに勝ち目はないと見た。

 

「どうする、降参? いまなら軽い罰だけで勘弁してあげる」

「罰ッ!? 負けたら罰を受けるのか!?」

「当然。その方が面白い」

 

 思ってもみなかった新事実に慄然と固まるアウルムに、悪戯げに口元が弧を描く。

 楽しい――ポーンを握る手に力が入り、誰にも悟られないほんの僅かな笑みをアイリスは漏らした。が、それがアイリスの常勝に亀裂を生んだ。

 

「あっ……」

 

 キングを討ち取る為の定石を、アイリスは楽しさ故に見誤った。本来置くべき場所より、一つ隣にポーンを置いてしまった。普段ならこの程度のミスはありえないのだが、今日は欲に目が眩んでしまった。

 よりにもよってアイリスが置いた一手は、彼女の勝利を唯一覆す手段を、アウルムに与えてしまう事になった。揺るがない必勝が、足元から罅が入り崩れ落ちる。

 当然、この隙をアウルムは見逃さなかった。彼の眼が彼女のミスに気付き、あらかじめ練り上げた唯一抵抗しうる手段を講じる。

 

「チェック――だ!」

「…………」

 

 苦々しい顔でアイリスは盤上を見やる。自信満々にチェックを告げたアウルムの手は、まさしくアイリスが懸念していた唯一の一手であった。

 チェックメイトでない以上、まだ手はある……が、それでもチェックから抜け出せるわけじゃない。次の一手でキングを逃がしても、アウルムのクイーンは再びキングにチェックを掛けるだろう。そうなれば、アイリスのキングは再び一手前の位置に舞い戻る羽目になる。

 

「パペチュアルチェック……」

「俺じゃ、これが限界だ。勝てないなら、せめて相手の勝ち目を潰す」

 

 パペチュアルチェック――同じ手が何度も永遠に繰り返されるパペチュアルを、チェックによって強制的に引き起こす手の事を指す。

 ルール上、このパペチュアルチェックになった場合引き分けになる。つまり、アイリスとアウルムの共に勝ち、ないし負けという事になる。負けたら罰を受けるという事も、当然無くなる。

 まさかこのルールをアウルムが知っているとは思ってもみなかった。いつのまにこのような搦め手を覚えたのか、気になったアイリスは得意気に腕を組むアウルムに問う。

 

「どこで覚えたの? 前まで知らなかった筈。ボス、それともカイム?」

「どっちも教えてくれねえよ。俺がアイリスに勝てないって泣きついても、大笑いで酒の肴にするような奴らだぞ」

「じゃあ誰? アウル一人でこんな手を思いつくわけがない。馬鹿の一つ覚えみたいに、攻める事しか知らないアウルのやり方じゃない」

 

 チェスの戦法はそのままその人の人格を表す、とアイリスは自己流で分析する限りでは、どう考えてもアウルムがこのような手を使える筈がないのだ。それはつまり、彼の他に手を貸した人物の証左である。

 ジークでもカイムでもないなら、いったい誰がアウルムに入れ知恵をしたのか、せっかくの罰を与えるチャンスをふいにしてしまったアイリスとしては、知恵を貸した人物を知らぬままには出来ない。

 追求するアイリスに、アウルムはあっさりと協力者の名前を挙げた。

 

「ん? そりゃクローディアに教わった」

「クロに……いつ?」

「あ~、いや……そうさなぁ、この間といやこの間だし、昨日だったかも……いやいや、雨の日だったかな~」

 

 まさかクローディアが手助けをしていたとは思わなかった為、それなりに驚いたアイリスだったが、言われてみれば納得のいくものだった。彼女なら、一つぐらい自分に対抗しうる策を与えるぐらいは出来ただろう。問題は――それをいつ、どこでアウルムが教わったのか。

 チェスを教わるのなら、自分に教わった方が幾分マシだというのに、この男はあろうことかクローディアに助言を求めた。それがアイリスには面白くなかった。それはもう、眉根が寄るぐらい面白くなかった。

 詳細を問われると途端にバツが悪そうに狼狽え始めたアウルムを見て、それだけで何があったのか、どういう経緯で教わったのかをアイリスはなんとなく理解した。

“ここは娼館なんだ、やる事は一つしかない。こうしてチェスをやってる方がおかしい”

 でも煮えたぎる感情が、理解出来ない独占欲がアイリスを不機嫌にさせた。

 

「変態野郎、死ね」

「ぐぅ――ッ!」

 

 愕然となったアウルムを見て、粗方緩和したのは内緒だった。

 

 

 ※

 

 

 《リリウム》の中にある一般客が上がれない階段を上り、アウルムはその先にある扉を開いた。中に這入ると、それなりの広さを持った一室がアウルムを迎えた。

 牢獄内では豪奢な装飾が施された一室は、ここら一帯を纏める《不蝕金鎖》の頭ジークフリートの私室である。部屋の中央に三人掛けのソファーが一対に置いてあり、間にテーブルが一つ。その奥には、ジークの指定席たる机と椅子が置いてある。

 

「アイリスとの“遊び”はもういいのか? なんなら、俺の煙草代を払っても良かったんだぞ」

 

 笑いながら冗談を飛ばすジークは、指定席に座って葉巻を吸っていた。

 アイリスの軽蔑するような視線を受けたダメージから回復したアウルムは、憮然としてジークの冗談を意に介さず黙ってソファーに腰がけた。

 

「お頭は俺がアイリスを買わない理由を知ってるだろうが、それじゃあこれまでの苦労が全部ふいになっちまう」

「わかってる、冗談に決まってるだろ。ま、俺としてはアウルムが目的を達成したら、少々痛手になるがな。肝心の“目標金額”まで、あとどれぐらいになったんだ?」

「あと金貨が百枚って所だな」

「結構溜まったんだな。デカい仕事をあと二回程すりゃ、溜まる額じゃないか。怠け者が随分と頑張ったもんだ」

 

 アウルムには目的がある。その為の目標がある。残り金貨百枚で達せられる望みは、あと少しで到達する。

 あと二回。あと二回……人を殺せば、彼の目的は達せられる。その為には、まず昨晩の仕事の成果を報告しなくてはならない。アウルムは懐から煙草を取り出し火を点け、呼吸いっぱいに肺へと吸い込み、虚空に向かって吐き出した。

 

「昨晩の仕事について報告する」

「聴こう」

 

 紫煙を吸い込んだ瞬間、アウルムの中の精神を入れ替える。無論、比喩表現であるが、彼は煙草や葉巻を吸う事によってその性格を意識してスイッチさせている。普段のおどけた根明の怠け者ではなく、冷酷に、機械のように仕事をこなす暗殺者として。

 声色が変わったのを聞き取ったのか、ジークの顔も《ヴィノレタ》で見るような昔馴染みの顔ではなく、《不蝕金鎖》の頭としての、部下も震え上がる鋭い眼差しに変わった。

 

「マルク・スタイン。出身は下層。ここにはつい最近になって初めて来たらしい。牢獄のルールも知らず、身の程をわきまえないで豪遊し、挙句手が後ろに回った。哀れで愚かしい男だ。羽つきを娼婦にしている娼館を好んでたんで、足取りは簡単に掴めた」

「羽つきか。性癖ってのはまったく、留まるところを知らないな」

「金が無くなったマルクは、そのまま《ヴィノレタ》へ夜半に盗みに入った。ここで盗まれたのが上納金だったら、なかなかメルトも危なかったな」

「メルトなら、それでもどうにかしたさ。……続けてくれ」

 

 おどけて、ジークはアウルムに続きを促した。

 

「盗んだその足で娼館に行き、金を使い込んだマルクは、その後《不蝕金鎖》の掟として制裁を加えた」

 

 《不蝕金鎖》の荷を中抜きするべからず、同様に、膝元への盗みや暴行等もまた御法度である。これを破る命知らずは、図らずともその代償の重さを味わう事になる。

 盗んでも使いこまなければ腕一本程度で済んだかもしれないが、マルクは欲に駆られて金を使い込んでしまった。それじゃあ《不蝕金鎖》としては生かしておくわけにもいかない。何事にもケジメと見せしめは必要なのだ。牢獄は力ある組織が統治しているから機能しているのであって、それが無ければ裏通りやスラムのように死が充満する無法地帯に逆戻りしてしまう。力の誇張は、必要な措置なのだ。

 

「馬鹿だねそいつも。アウルム相手に逃げおおせるわけがないってのに」

「一応、簡単には殺してない。四肢を切り落として、失血死に追いやった。死体は……今頃、下界の混沌に飲まれてるだろ」

「相変わらず、お前とオズのやり口には背筋が凍るよ。ご苦労、それじゃこれは報酬だ」

 

 じゃら、と机の前に硬貨が入った紙包みを差し出される。アウルムは中身を確認するまでもなく、それを受け取り懐にしまう。

 ジークが仕事の報酬で多寡に限らず相手を失望させるわけがない、と長年一緒にやってきたアウルムは理解している。だからこその信頼の証として彼は金額を確認しない。

 短くなった煙草に口をつける。じりじりと熾火のように燃える切っ先を見つめながら、紫煙を吐き出し、やおら視線をジークへと戻すアウルム。

 

「で、他に何か仕事があるんだろ?」

「鋭いね、手っ取り早い話は俺も大好きだ」

 

 言葉を切ってジークは、二本目の葉巻をナイフで吸い口を作って火を灯した。口腔内で煙を転がし、味わうようにして吐き出した。

 

「荷物の中抜きをした奴がいる」

「そりゃ……先代の頃からの御法度じゃないか。それを俺に……?」

「ああ、お前と……あとオズの二人に任せる。始末の方法は好きにしてくれ」

 

 オズの名前が上がり、ジークが如何に本気なのかがアウルムには感じて取れた。

 嗜虐趣味のあるオズのやり方は、人間が考えうる方法のどれよりも残忍で、凶悪である。故に組織の中では、オズの制裁を目の当たりにして三日三晩飯が喉を通らなかった者が出たりした。

 普段のスイッチが入る前のアウルムならともかく、いまの暗殺者としてのアウルムとオズは《不蝕金鎖》の中で考えられる組み合わせの中では、一番だろう。だからアウルムが断る理由は欠片も無かった。

 

「わかった。それじゃあ、今からオズと一緒に行ってこよう。標的はオズが把握しているんだろ?」

「既に全準備はオズが整えた。あとは、お前が行くだけだ」

「了解した」

 

 表情を崩さずアウルムは席を立った。これからまた人を殺しに行く。また一つ命を奪わなければならないのに、アウルムの心は依然として凪のように静かだ。

 扉に手を掛け外に出ようとしたとき、背後からジークに呼び止められる。

 

「ちょっと待ってくれ。あと一つ、言い忘れてた事がある」

「なんだ? 手加減なら無理だぞ。御法度に触れたんだ、情状酌量の余地なく悔いて死なす」

「それは構わない、好きにしてくれ。そっちじゃなく、もし仕事が終わったら、そのあとこの紙に書いてある経路を通って帰ってくれ。オズとは別行動で」

 

 ジークが差し出した紙切れを受け取り見やると、メモかと思いきや、牢獄の一部を記した地図だった。

 

「これは?」

「今夜、上層から荷物が届く。その馬車の経路を記した地図だ。最近、邪魔が多いんでな……この後カイムに様子を見てもらうように頼むつもりだが、アウルムは保険だ。適当に見回ってくれ」

「……《風錆》か。暇だな、あいつらも」

「まったくだ、俺達が好きすぎて堪らないらしい。涙が出るほどうれしいね」

 

 《風錆》――自嘲気味に苦笑いを浮かべるジークの統べる《不蝕金鎖》の、元副頭だったベルナド・ストラウフが離反した後に、彼を頭に据えて生まれた組織である。

 閉じた地区である牢獄は、住民が手を取り合っていかなければ生きていけない程に猖獗を極める環境で、だからこそ《不蝕金鎖》の先代頭は自滅を防ぐために牢獄での麻薬の使用を禁じた。しかしただ禁じても、言葉自体に強制力はなく、また先代が亡くなったいまでは麻薬の流通を完全に封鎖する事が出来なかった。

 誰もが絶望し、摂取すれば忽ち桃源郷の如く快楽を得られる薬は、瞬く間に蔓延し、歯止めが利かなくなっている。この麻薬を売買している大元が《風錆》なのだ。

 ジークは先代からの掟を守り、麻薬の根絶に奮闘しているが、今の所結果は芳しくない。

 《不蝕金鎖》を抜けたベルナドは彼等を敵視しており、度々彼等の妨害工作をしては邪魔ばかりしているのだ。麻薬を根絶させたいのなら、まず大元である《風錆》を潰さなくてはならない。ジークもそんな当たり前の事は理解している筈なのだが……

 

「いつになったらベルナドの野郎を叩くんだ? いい加減、そろそろ部下達の忍耐も切れかかってるのは知ってるだろ。いまは歯止めが効いてるからまだいい、けど、一度制御が利かなくなったらあとは自壊していくばかりだぞ」

 

 命令一つあればいつでもアウルムはベルナドを殺すつもりだった。実際の所麻薬に関してはどうでもいい。牢獄に限らず、アウルムはこの世がこのまま――あるがままである事を享受している。自ら死を選ぶ者を救おうと善意を押し付けるほど、アウルムは人間が出来てはいない。しかし、ベルナドの存在はいずれアウルムにとっても邪魔な存在として立ちはだかると予感している。

 手を打つなら早いに越したことはない。たとえ今や《不蝕金鎖》を上回る勢力をもつ《風錆》であろうと、人一人を殺すのは難しくない。それだけの自信と、それを裏付ける実力をアウルムは持って疑わない。が、肝心のボスであるジークは頑なに命令を下さない。

 

「いずれ決着はつけるさ。だけど、それはいまじゃない。お前は気にせず今の事にだけ専念してくれ」

「了解したお頭」

 

 煙草を灰皿に押し付け、背中に鉄板でも入っているのか、真っ直ぐに伸びた背筋でアウルムは部屋から退出した。

 階下に降りればオズが自分を待っているだろう。二夜続いて制裁という名目の殺人を行う為に。

 階段を下り待合室を覗くと、生憎アイリスは不在だった。きっと仕事が入ったのだろう。《ヴィノレタ》でジークは彼女が今夜は忙しいと言っていた。娼婦であるなら当然の事なのに、アウルムの心情は荒波のように逆立っていた。

 彼女を誰にも触れさせたくないという、男の醜い独占欲が形を成した。出来る事なら今すぐにでもアイリスの部屋に押し入り、背中に掛かった大太刀で男を両断してしまいたい。臍の辺りでじりじりと殺意が滾る一方で、別の、冷静なアウルムはこれがどうしようもない現実なのだと受け入れていた。

 あらゆることは、ありのまま存在している。アウルムが持論として提唱する言葉通り、アイリスは娼婦として当たり前の、言い換えるなら生きる為に必要な行為をしているだけなのだ。人殺しのアウルムが言うのもなんだが、生きようともがく人の邪魔を好んでしたくはなかった。

 熱くなるな――無意識の内に鯉口に触れていた左手を離す。今夜アウルムが斬るべき者はここには居ない。

 燻る情念を振り払うように待合室から視線を外し、奥の方で時折聞こえる嬌声が、アイリスのものでないよう願いつつその場を後にした。

 

 

 今夜摘み取る予定の命は三つだった。

 荷物の中抜きを行うのに協力をした二人と、主犯である一人の計三名。仕事の報酬は殺しの人数ではなく、請け負う難度によるので報酬の割に面倒そうであると踏んだアウルムのやる気は、みるみる下降していった。

 

「主犯のザッツは、今夜はスラム周辺のパトロールに回してある。他二人は警戒させないよう、ザッツとは別の場所を担当させてる」

「ああ……」

「本当なら共犯の二人を始末してから、主犯をとっ捕まえて洗いざらい吐かせたいんだが……ザッツは頭が切れる。それに予感に敏感な奴だ。先に抑えないと、やっかいになるかもしれない」

「そうだな……」

 

 娼館街の一角にある《不蝕金鎖》が持つ小屋の中で、蝋燭を灯してオズは地図を広げる。牢獄の地形を事細やかに記載した地図で、これほど精緻を極めた地図は、それだけで財産であり武器になる。

 羽ペンで今夜標的の居る場所、予め指定させた歩く経路、それにより発生するかもしれない懸念事項を、つらつらと挙げられるが、肝心の実行人であるアウルムは気の無い返事をするばかり。

 

「……おい、いい加減にしねぇか。いつまで腑抜けてるつもりだ」

 

 堪忍袋に切れ目でも入ったのか、概要を説明している時とは打って変わって荒々しい語気になったオズがアウルムを睨みつけた。これから重要な仕事を行うというのに対し、この有様のアウルムでは気分を悪くして当然だろう。

 今にも掴みかからんばかりのオズに、態度を改めようとせずにアウルムは煙草を咥え、火を灯して地図に視線を落とした。

 

「この配置なら、共犯の二人をスラムに追い詰めればいい。それで示し合わせたようにザッツと合流させる。するとザッツはこう考える筈だ『中抜きがばれた。俺達は捕まって殺される。なら、このまま荷物と情報を手土産に《風錆》に寝返ろう』ってな」

 

 主犯のザッツが聡い人間であるのはアウルムも重々承知している。肺に吸い込んだ紫煙を吐き出しながら、頭を切り替え説明を続ける。

 

「《風錆》がどんな対応をするのかは、この際関係ない。奴ら三人が裏切りを重ねるならスラムから《風錆》への連絡口は――ここしかない。叩くなら、この狭窄する街路だ」

 

 スラム街の入り組んだ道々を……隘路に入った先に、彼らの作られた目的地がある。一本道になっている場所を地図で指差し、アウルムは自信を持ってオズの顔色を窺う。これ以上の反論が、果たしてお前に出来るのか? と。

 年下の、それも普段から怠け続ける組織の一員に此処まで言われて業腹ではあるオズだが、一方でこれほど綿密に、それも咄嗟に標的の為人を要素の一つにして罠に嵌める回転の速さに息を呑んだ。

 癪ではあるが、アウルムは組織の中でもこと“人殺し”の手腕に掛けては右に出る者がいない。以前まではカイムが補佐として並び立っていたが、それも過去の話。便利屋兼用心棒を請け負ってくれている上、ジークとは旧知の仲であるカイムには敬意もオズは持っている。だが、アウルムには畏敬という感情を懐くものこそ相応しい。

 アウルム・アーラは――どこまでも人殺しに特化している。

 嗜虐を悦とするオズでは到底たどり着けない極地に――死を振り撒く存在として――立っている。普段の怠けたアウルムの方は頼りないが、洞のような瞳で煙草をくゆらすアウルムには命を預けるだけの価値がある。

 

「わかった、お前の立てた作戦通りに動こう」

 

 アウルムの立案した策に不満点が無い様子のオズは、言われるままに頷いた。

 名案と言えば名案なのだが、実の所この作戦には致命的な欠点が存在している。立案者はこの事実に気づいて、それでも提案したが、おそらくオズはそれに気が付いていない。

 この作戦はザッツがアウルムの思惑通りの行動を起こして、初めて成立する綱渡りのような策なのだ。堂々としているアウルムに呑まれて、冷静に判断出来なかったオズはそれを見逃してしまった。が、それでもアウルムは成功すると信じて疑わない。

 

「それじゃあ行動を開始しよう。タイミングが肝になるこの作戦は、一度しかチャンスが無い。失敗したら、あとはアドリブだ」

「力技という事だろ。その時は……その時だ」

 

 方針が定まった所でオズがゆらゆらと隙間風に揺らめく蝋燭の火を吹き消す。それを合図に二人は、脳内に叩き込んだ地図の通りに街路を駆け抜け闇に溶け込んでいった。

 

 

 ※

 

 

 死臭と糞尿、それに吸い込めば身体に何らかの不備を起こしそうになる臭いが籠るスラム街で、ザッツ・フェイバッツは組織の指示により割り当てられた巡回をしながら、嫌な予感に苛んでいた。

 ザッツは同じ組織の同僚から見て評価するなら、皆が口々に声をそろえて“生真面目な男”と評するだろう。牢獄に落ちてからの彼は、捻じ曲がった倫理観を散布する悪徳の地区に居てなお、真っ直ぐな価値観を持って、いつでも真摯たれと言い聞かせてこれまで生きてきた。

 彼が《不蝕金鎖》に入ったのも、牢獄を守りたかったからである。生真面目な性分が一因で、他の者達より抜きん出た成果を上げられないが、それでも良かった。だから――誑惑に乗せられても決して自分を責めようとはしなかった。

 街路の角を曲がる度、背中に視線を浴びているような感覚を覚える。気のせいではないのか、と不安を拭いたいが為に己に言い聞かせようとして、思いとどまった。――何かがおかしい。

 スラム街は治安が悪く、ザッツのような健常な人間が闊歩しているだけで視線を集めるのは理解できる。だが、果たして本当にそれだけの理由なのだろうか、と疑う気持ちが鎌首をもたげた。これまでも予感を気のせいだと断じずに思考を重ねたから、万が一を回避してこれた。力の弱い自分は、せめて頭を動かさなければ牢獄では生きていけないと焦った結果に得たものが、彼の異常なまでの用心深さである。

“見られてる、いや、見張られてる……どうして? そうか、バレたんだな”

 瞬時にザッツは理解した。監視されているようなこの感覚は、間違いなく“事”が露見したが故の事象であると。

 荷物の中抜きをして着服してしまった自分に対する制裁が、今夜ここで下されるのだ。諦めの気持ちが総身に行き渡り、ザッツは歩みを止めた。交差路の中央で立ち止まり、どこまでも深い闇の夜空を仰ぎ見た。

“死ぬには……良い空だ”

 遠く儚むような眼差しで空を見上げるザッツは、もはや逃げるつもりなど一切なかった。ジークにばれてしまった以上、鉄槌を下すのは間違いなく組織でただ一人の暗殺者たるアウルム・アーラだろう。

 こんな時でも冷静に状況を把握し、正確に確率の高い可能性を導き出せる頭の回転率にウンザリする。

 どこかで石が大地を叩く音が聞こえた。反射的に音がした方へと顔をやると……目の前に死神が立ちふさがっていた。

 これが最後か――悟ったザッツが目を閉じる。瞼の裏に映るのは、帰りを迎える妻の笑顔と、そのお腹に宿った新たな命の眩しさであった。

 

 

 裁きはまだ下されなかった。

 いくら待ち続けても気が遠くなるような痛覚は芽生えず、人体に異常らしき異常も感じられない。

 ではもしかしてこれが死なのか。確認しようとザッツは恐る恐る瞼を開いた。死神の姿が忽然と目の前から消失していた。

 

「え……?」

 

 ありえない展開に当惑し、ザッツは死神の姿が幻覚だったのかと希望的観測をしつつも、どこか信じられずに左右を見回した。

 視界に広がるのは平時と変わらぬ夜のスラム。見慣れた景色には欠片も異物の存在を見受けられない。――が、胸を撫で下ろすのはまだ早い。

 何処までも用心深いザッツは完全にアウルム・アーラが居ない事を確信するまで、決して安堵することが出来ない。用心深く、しかし時間を掛けずに、大胆に二百メートル周辺を駆けずり回り姿が無いのを確認して――そこでようやく安堵の溜息を洩らした。

 

「――まだ甘いな」

 

 ――否、ザッツ程度の索敵能力では暗殺者たるアウルムを捉えることなど不可能なのだ。

 

「ぁ……あぁ……」

「詰めが甘い。いま一歩、いや……三歩は踏み込まなくては背中に“どうぞ殺してください”と張り紙をしているのと変わらない」

 

 暗然と言葉にならない声を、壊れたように半開きの口腔からはみ出すザッツに、幽鬼の如きアウルムが立ちはだかった。

 

 

 視覚の死角を意図的に突いた尾行術。精神状態を極端に寄せる事によって相手の行動そのものをコントロールし、結果として生じる隙間に入り込む歩法。これこそがアウルムが持つ殺人への道のりの第一歩。つまりは始めからザッツはアウルムに補足された時点で、どう足掻いても逃れようがなかったのだ。

 群青の雲間から月明かりが差し込むと同時に、アウルムが自ら背負う大太刀の鯉口を切る。現代の技術では決して鍛造するのは不可能な、神代の宝刀とも畏怖される大太刀が、一条の月光をその身に浴び歓喜を謳うように発光した。少なくともザッツの瞳にはそう見えていたのだろう。

 恐怖で腰を抜かし立っていられなくなり、下穿きを排泄物で汚しながら地べたにへたり込んだザッツに、もはや逃げ道は存在しない。

 

「ニホントウ……」

 

 心底恐ろしいと言わんばかりに声を震わせて、アウルムの持つ大太刀の銘を呟いた。

 いつの時代に生まれた物かは知らず、鍛冶屋に鑑定を願えば目を剥いて譲渡を懇願されるという刀。一説には、この地がまだ空を漂う前に生まれた神話の刀剣ではないかと語られている。出所がどうであれ、アウルムの所持する大太刀――ニホントウ――は切れ味を知っている者からして見れば懐く感情が二極化してしまう。

 恐怖か、感動か、どちらか一つに偏ってしまう。

 摩擦ごと切り裂くように刀身が鞘の中で走り、ニホントウが全身を月夜にさらした。悠然とした仕草でアウルムは、伝家の宝刀を天高く頭上へと掲げた。

 

「知っているなら話は早い。銘を知っているなら、その切れ味も付随して理解しているだろう」

 

 感情を廃絶したかのような玲瓏な瞳に、顔面を蒼白にして見上げる無力な人間が映る。

 アウルムの質問は問いかけるような語調ではなく、どちらかといえば答え合わせに近かった。既に出ている答えを、己の持つ正答と問い合わせるような。そんなわかりきった教師のような目線で語られる。しかし、それならば教師に問われたほうが、余程精神的に良い。

 問われたザッツは総身を――内臓までもを悪寒に震えさせてまともに発音が出来ないのか、「ひっ」としゃくりを上げるだけで言葉が続かない。

 

「ァっ……ひゅ……ヵぁァ…………」

「言葉を亡くしたか。まあ良い、時間が経過すればもとに戻るだろう」

 

 冷静に断じたアウルムは、心得顔で頷きニホントウを腰より下の何もない地面に向かって振り下ろした。石造りの地面に触れた瞬間に、かっ、と接触を拒絶するような衝突音がしたが、ニホントウはそんなのは瑣事だと斬り捨て、なんの抵抗もなしに先端部分を斬りいれた。

 曰く、アウルム・アーラの持つ大太刀は鉄をも斬ると噂される。

 漣のような波紋が渡る刀身は、魔的なまでの切れ味を誇り、あらゆるモノを両断するとまことしやかに語られている。その証左に、現に彼の振ったなんでもない仕草一つで石が斬られた。

 もしこれがザッツに向けられていたとしたら、果たしてなんの痛痒もなく死に至るのだろうか。鏡合わせのように両断される映像を幻視したのか、ザッツの呼吸が更に不規則に乱れ始めた。

 現状、アウルムにはザッツを殺すつもりは毛頭存在しない。そもそも殺すつもりなら、いまの一刀で確実に仕留めている。暗殺者たる彼が事前にオズとの打ち合わせで立案した策は、彼の下へ共犯者の二人を誘導するというのがスタート地点で、一番初めに彼を殺す事ではない。

 無論殺せるのならいま殺した方が面倒も少ないので、普段のアウルムならそうしたであろう。何キロも離れた位置で、他の二人をこちらの方へと追い詰めているオズには悪いが、手早く済むならそれに越したことはない。

 ――しかし、アウルムは実行しない。

 ザッツの経歴と為人、周辺人物との交友関係、扶養家族の有無、それらすべてをつまびらかに脳内へと叩き込んでいたアウルムにある欲が浮上したのだ。

 

「死にたくないか?」

「…………え?」

 

 いつの間にザッツは言葉を取り戻したのか、いや、それよりもこれから殺すべき相手に対して是非もない問答をするアウルムの貌が――異様に人間味に満ちていた。

 平時を連想させられる緩んだ怠け者の顔をして問いかける。安穏としたこの表情が、もしかするとザッツに平静を取り戻す要因となったのか、ともあれ冷静さをとりもどしたザッツは――それでも止まらない震えを隠しながら――どんな思惑があるのかを疑いながら返答した。

 

「と、とうぜんです。……私は、まだ死にたくない。死ねない」

 

 懇願は、やがて仮初めの理由を得て断言に至った。

 妻が待っている。産まれる子供が待っている。家族を持つザッツには当然の、強い感情が死の恐怖を振り払った。

 

「再来月になったら子供が生まれるんだ。女の子だ。牢獄じゃ女が生き残るのは大変だけど、娘が成長する頃には治安も回復させてみせる。

 そしたら余生を妻と共に、静かに暮らすんだ。こんな場所だけど、どこであろうと、やっていけると思うんだ。……だから」

 

 丁寧に語ったのは死の質問の始めのみで、まるで開き直ったかのような印象を懐くザッツの弁舌は一見して聞こえが良い。家族が待っている、彼女らの為に牢獄を平和にしたい。なるほど、確かに崇高にして高潔な目標だ。誰もが彼のような思想を胸の内に懐けば牢獄も変わるだろう。

 ザッツの命乞いを、まるで高尚な音楽でも鑑賞するかのようにがらんどうの双眸を閉じて聴き入っていたアウルムは、彼の言葉が結論は吐き出す間を遮ってニホントウを鞘に納めた。

 

「よしっ、それじゃあ逃げろ」

「……え?」

 

 再度、ザッツは困惑してアウルムを見上げた。依然として常時穏やかな顔をしているアウルムが、いったい何を言っているのか一瞬理解が追いつかなかった。が、それでも先程よりは早く呑み込めた。

 暗殺者であるアウルムは、あろうことか標的を前にして逃亡を勧めたのだ。彼の熱が入った舌耕が決意を鈍らせたのか、だとしてもおよそアウルムらしからぬ言動であった。昨夜の冷酷無比な姿が嘘のように、いまのアウルムは善意に満ちた表情で、善行を振りかざしている。

 

「愛する女が居るんだろ? 俺だってそんなもんが居る奴を、しかも子供まで生まれるって奴を殺すのは忍びない。だから逃げろ。

 なに、お頭にはニセモンの死体で我慢してもらうさ」

「あ、アウルム……さん。本当に、本当に良いんですか? それじゃああなたが……」

「いいんだよ、好きで殺しをしてる訳じゃない。誰かが引かなきゃいけない貧乏くじを進んで引いただけだ」

 

 照れくさそうにはにかむアウルムに、とうとうザッツは敬語を取り戻し感謝の意を持って、涙ながらに立ち上がり頭を下げた。

 

「ありがとうございます! このご恩は、決して――決して忘れません」

「忘れて良いよ。それより嫁と子供によろしくな。ほらそろそろオズが来ちまう……この先の道なら《風錆》の縄張りに繋がってるから、俺達もなかなか手が出せなくなる。逃げるなら今しかない」

 

 腕を水平に上げ、退路を示す。指先に向かっている道の先は、言った通り間違いなく《風錆》縄張りが近い道である。事前の打ち合わせで最終的に袋小路にしようとした場所なのだ。いまのアウルムの言葉に嘘は無かった。

 遠くの闇から足音が二つ聞こえる。オズが追い込んだ共犯者の二人だろう。ザッツも足音に気が付いた様子でアウルムを見やり、暗殺者は黙ったまま頷くと姿を暗ました。合流して逃げろ、という事なのだろう。

 

「…………」

 

 アウルムが消えた方へと向いて、ザッツは黙礼をした。せめてもの敬意を払ったつもりなのだろう。頭を上げた後の貌には、一切の恐怖の色はなく、決意と覚悟に満ち溢れていた。

 せっかく拾った命を、どう使えばアウルムに報いるのか。姿なきいまになっては問いかける事も出来ない。ならば、せめて一秒でも足掻いて長生きをしようとザッツは身を引き締めて仲間と合流し――一本道の退路へと駆けた。

 

 

 

 

 ――ふいに、永訣の別れが訪れた。

 

 闇夜の街路に場違いな煌々とした一閃が迸り、人間の頭部が跳ねた。

 

「え……メイヤー?」

 

 状況をまったく呑み込めない呆然とした問いかけは、しかし答える者は居ない。信じられないモノを見たような眼差しで頭を亡くした共犯者のメイヤーを見れば、生存の証である肉声ではなく、間欠泉のような噴出音だけがただ聞こえるばかりだった。

 ほどなくして固まったままだったザッツの頭上から豪雨が降り注いだ。――否、これほど温かい雨を彼は寡聞にして知らない。

 雨と錯覚している液体がなんであるか、付着した頬を撫でて嗅いだ瞬間に理解した。長く鉄を握った後に嗅いだ臭いと似通って、それでいて温かい液体となれば答えは一つ。

 

「っ!? おいバルト! どこにいる!? 追手だ! 逃げるぞ!」

 

 咄嗟に危険性を受け入れたザッツが弾けるようにもう一人の追随者に呼びかけた。

 しかし、答えはまたしても空虚に呑まれ帰ってこない。と、ザッツの胸元に“何か”が飛来してきた。

 反射的に受け取ったそれは、両手で抱えなければならない程の大きさをしていた。体感で六キロ程の重さがあるそれを、いったいなんであるか確認するように顔と同じ高さまで持ち上げ……

 

 ――暗い双眸と目が合った。

 

「ひぃぃいいい――ッ!」

 

 恐怖よりなによりも、嫌悪からバルトであった■■を手放し、声が嗄れるのも厭わず悲鳴を上げた。

 無音のまま、無言のままに二人が死んだ。瞬く間に死臭で充満した通路で一人、残されたザッツは発狂しながらも、どこか他人事のように思索していた。

 こんな事をやってのける人物に一人心当たりがある。彼ならばこのような死の饗宴を催すのも不可能ではないだろう。しかし、疑いながらも脳裏には彼の別れ際に見せた笑みが思い浮かぶ。

 どこまでも明るく笑い飛ばす彼がこれをやったとは信じたくなかった。なにより、一度見逃してくれた相手が、再度行動を起こす理由がザッツには思いつかない。であるなら、果たして誰が……

 

「希望に胃袋は膨らんだか――?」

 

 答えはあっけなく現れた。

 何処からともなく足音も無く姿を現したこの光景の製作者である人物を見て、まるでさっきの出来事の焼回しのようではないか――と恐怖を通り越してむしろ笑いたくなった。

 

「なん、で……こんな、ケヒッ、こんな、事を……?」

 

 笑いをこらえて嘔吐きながらも、ザッツは聞かずにはいられなかった。

 対する相手は、悠然と刀――ニホントウを振るって刀身に付着した血を飛ばしていた。人間の血を、まるでただの汚れのように扱いながら。

 

「人間には生まれた意味があるらしい」

 

 問いかけは、しかし彼の思う答えとはまるで見当違いな方向の言葉が帰って来た。

 一切の機微が感じられない固い声は続く。

 

「意味があるなら、何故それを俺は知らないんだろうな。空っぽのままでいるのがどうしようもなく我慢ならないんだ。

 だから、俺は生まれた意味を知る為に、手段の一つとして“他人の意味”を得る事から始めた」

 

 そう語る語気は、行為の卑俗さに対してどこまでも切実に感じられた。

 

「人間が真に正直になるのは死の瞬間だけだ。だから俺はお前を一度追い込み、望みを吐露させ、希望を与えた。そして、それを無惨に奪われる瞬間に、人は起源に還る……そんな気がするんだ」

「く、狂ってる……あんた、狂ってるよ!」

「そうか? こんなもん、牢獄には呆れるぐらい溢れて腐ってる。理不尽は世の常だろ、抗うならまだしも、人を異常者に見立てて迫害するだけじゃなにも変わらないぞ。

 いずれにしろ、お前はここで終わりだザッツ・フェイバック」

 

 最早、道理は相手側――アウルムにあるように見えた。

 どこまでいってもここが牢獄である限り、牢獄の価値観でものは語られ図られる。そこにどんな意思を介入させようと、悪徳の坩堝たる牢獄ではどんな不平不満もそよ風と変わらない。

 力で迫られれば、更に強大な力で抗うしか他にないのだ。どこまでも純粋かつ原始的な場所は、牢獄の他に存在しない。

 罵声も、不当だと反駁するザッツの言葉も意味を成さない。剣には剣を持って競り合わなければならない。選択そのものを誤ったザッツは、始めから死の運命から逃れられなかったのだ。

 

「言ったじゃないか! 好きで殺してるわけじゃないって! 妻と子供の為にも私は――俺は帰らなきゃダメなんだ!」

「それはお前の都合だろ。それに……お前は《不蝕金鎖》の荷を横抜きした。これはお前の価値観に照らし合わせて、良い事なのか?」

「ぐっ……それは。それは……家族を食べさせる為で、苦労していた矢先に……」

 

 弁明を続けるザッツに、さらなる敵が背後より姿を現した。

 

「それで《風錆》のベルナドに唆された、と。そう言いたいのか? なぁザッツ」

「お、オズさん……」

 

 どうして、とそう紡ごうとして留まった。そういえば初めから二人組であったと、アウルムの口ぶりで知っていたから。

 詰問するような口ぶりでオズは歩み寄る。地を踏みしめる一歩一歩が、まるで彼の懐く怒気を表しているように厳然とよどみがない。

 

「裏は取ってある。お前が食い扶持に困っているところを、ベルナドお得意の甘言で丸め込まれたんだろ。

 ジークさんに泣きつきゃどうにでもなったってのに、肝心な所で判断を誤ったな。それとも生真面目な性質が遠慮でも持たせたのか?」

「…………」

 

 返す言葉もなくザッツは俯いて黙殺した。オズの見解に間違いはなく、彼がらしからぬ盗みを行ったのは《風錆》の頭に誑惑されたが故であった。

 しかし、それだけならザッツは一蹴したかもしれない。食い扶持に困ったのなら、ジークに相談を持ちかければ、あるいは好転したかもしれない。が、どこかでザッツはジークを信用出来なかった。

 オズが姿を見せた以降、徹底して口を噤んでいるアウルムに原因はある。彼の存在が、ザッツに頭への疑念を生んでしまったのだ。暗殺者という絶対的な刀を持つが故に、果たしてジークは長として正しい認識を持っているのだろうか、という疑念。アウルムという絶対の強者を飼い馴らすジークは、傍目に逆らってはいけないという無意識化の隷属を強制させる。とザッツは判じてしまった。

 不運は他ならぬアウルムの存在だった。それがいま、自分の命を握っているという事実に、疲れ果てたザッツの胸には何ももたらさなかった。

 

「もう、いいです――終わらせて下さい」

「そうか……やれ」

 

 裏切り者にくれてやる感情など何もないと言わんばかりに、オズは冷徹にアウルムに向かって宣告した。

 後ろに下がったオズに変わり、無言のままアウルムがニホントウを手に大上段に構えを取った。あらゆる命を悉く断ち切る証の構えであった。さながら処刑台に立つ断罪者のようにも見える。

 最後に、アウルムは自身の目的の為に問いかける。

 

「お前の生に――意味はあったか?」

 

 この一問の為に、ザッツは二度に亘って弄ばれた。であるなら、家族への愛を無碍にしたこの男には、何かしら一死報わねば気が済まない。

 握りこんだ拳を振るうのではなく、罵倒するのでもなく、屈辱に晒すこともなく、ザッツはアウルムに何を残すべきか。そう考えて、

 

「あんたの命題を長引かせるぐらいには、意味があったさクソッタレ」

 

 願わくば、憎きこの男が永遠に惑い続ける事を願って……

 

「またか。それじゃあ――悔いて死ね」

 

 頭頂部から股下をニホントウが通過し、ザッツ・フェイバックの人生はここに幕を下ろした。

 切断面に一ミリのズレもなく、原型をとどめたままザッツだったモノは崩れ落ちた。

 

「さて、これで今夜の仕事も終わりだな。ヴィノレタで一杯やるか」

 

 後処理をオズに任せ、アウルムはスラム街を後にする。

 一部始終を見ていたのは、当事者たる彼と、協力者であるオズを覗いては、群青の雲間から顔を覗かせる真円の月だけだった。


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