牢獄の暗殺者   作:琥珀兎

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思った以上に風錆編は長くなりそうです。


第十八話:アスクアロ2

 ジークより命じられていた羽狩りとの仕事を終えたカイムはその足でリリウムへと戻っていた。最低限の人員しか居らず娼婦たちの眠る夜のリリウムはこれまでになかった珍しい光景で、帰って来て早々に覚えた違和感を拭えずにいられなかった。娼館は夜にその真価を発揮する店なのに、夜に眠る娼館は果たして娼館なのだろうか。

 まさか何か緊急事態でも発生したのでは――疑問に思ったカイムはすぐにジークの私室へと足を運び、主が居ない部屋を見てすぐにクローゼットを開いた。中には二着分の外套が無くなっていた。

 彼らは下層へと行ったのだ。数が減っている外套を見てカイムは安堵の息をついた。とんだ早とちりをもう少しでやらかす所だった。店が営業時間なのに閉まっているのも、なにか理由あっての事なのだろう。

 二人が下層へと向かいルキウスと会談を行っているなら、探しに行っても二度手間になる。だからカイムはクローゼットを再び閉じて、室内中央のソファーに腰を下ろした。待っていれば、その内返ってくるだろうと思って。

 帰宅を待った時間はそれ程かからずに終わりを迎えた。

 二人分の足音が階段を上がりカイムが待つ部屋へと近づいて行くのが聞こえてきた。扉が開き、外套を頭を出した状態で着ている二人が現れる。ジークはそれ程でもないが、アウルムの方は連日の仕事に睡眠を奪われているのか眠気を隠さず、お頭の背後で小さく欠伸を漏らしていた。

 

「やっぱりそっちのが早かったか、すまない待たせたな」

「それほど待っちゃいない」

 

 葉巻一本吸いきる程度の時間なら、カイムにとっては待ったうちに入らない。

 ぶっきらぼうなカイムの答えに気にした様子もなく、着ていた外套を脱いでクローゼットへと仕舞ったジークはいつもの定位置の椅子へと座った。

 

「で、羽狩りはどうだった? モノになりそうか?」

「ならなくてもなるようにするのが、俺の仕事なんだろ。心配するな、ちゃんと話はつけた」

「なら聞かせてもらうか、報告してくれ」

「ああ」

 

 頷き、記憶の足跡(そくせき)を引き返すように遡らせる。今日一日の出来事を、なるべく無駄を省いて必要なだけの情報を。記憶の取捨選択をしていると、アウルムが外套を脱いでカイムの向かいのソファーに寝転んだ。目はしっかりと開いている事から眠るつもりはないのだろう。聞き耳を立てているのだと確信を持って見受けられる。

 カイムは今日の出来事を語り始めた。

 

 

 朝に風錆の嫌がらせが発生した後、ジークから策の概要を聞いたカイムは進むにつれて人の密度が増していく街路を歩いていた。顎を上げて僅かに見上げれば急峻な高い崖が立ちはだかっているのが見える。人の手で昇ろうなんて世迷言すら思いつかないぐらい途方もない高さの崖に、一部だけ人の手が加えられた関所が峻厳な態度で屹立していた。

 風錆の被害が出た黒黴通りと違い、関所周辺の市場は変わらず活気が溢れている。食べ物を売る店、衣服を売る店、装飾品を売る店などの他にも、蚤取りや髪を切ったりなどの奉仕を売り物にする店もあった。

 娼館街の頂点に立つ娼館リリウムの用心棒であるカイムはある意味有名人であり、当然ながら道すがら声をかけてくる者も居たが、立ち話に付き合っている暇も無いので返事もそぞろに関所へと入っていった。関所の中は出入りの商人などが長い階段を上ったり下りたりしている。下層では大して売れもしない品物でも、牢獄では品質の高い物と評される事もあってか、博打に賭けるようにこうして牢獄へと降る商人は少なくない。とはいえ、それも不蝕金鎖の功労によって回復した治安があってから見るようになったのだが。

 毎度の事ながらよくもこの階段を毎日繰り返し上り下りする気になれるな――行列が昇り竜のようになっている階段を眺めながら、半ばほどまで上ったカイムは道を逸れて羽狩りが駐在する詰所へと足を踏み入れた。偶然か、それとも前もってルキウスが話を通していたのか、羽狩りたちは見た感じで多く集まっているような気がした。

 その中に、いつかの血腥い夜に復讐を誓った少女が居た。

 

「来たか、久しぶりだな」

「ああ調子はどうだ、最近頑張ってるらしいじゃないか」

 

 ご機嫌伺いのつもりではないが、顔を合わせて早々に本題に切り出してはこちら側が逼迫した状況にあると思われ、本来座るべき立場の椅子を掴み損ねる気がした。だからカイムはまず先に他愛ない会話を切り出したのだが、フィオネは遊びの無い張り詰めた表情をしていた。

 

「世間話をするつもりは無い、来てくれ」

 

 両者の間に不可視で分厚い壁が隔てられているような対応に面食らうカイムを余所に、返事も待たずしてフィオネは背を向けて奥の部屋へと向かっていた。

 明らかに以前の彼女とはどこか違う。あれではまるで人形だ。目的の為に最善と判断した事を忠実にこなすだけに自動化された人形と変わりない。

 もう人形はこりごりなんだが――自宅で徒然としているエリスが思い浮かんで振り払う。今は愚痴を漏らしている時間じゃない。フィオネがどう変わろうと、結局自分には関係は無い。前に協力し合って仕事をした中ではあるが、だからといって特別親密だったわけでもない。お互いが、互いに言えない隠し事を腹に抱えていたのだ。信頼関係など見た目だけで実際は空虚なものだ。フィオネは黒羽が兄である事を隠していたし、カイムはティアが羽つきである事を今も隠している。牢獄の用心棒と高潔な官吏に接点など、始めからありもしないのだ。だからむしろ、彼女のあの態度は仕事をする上では以前の意地っ張りで話を聞かない時より幾分もマシだ。

 以前のフィオネとの印象の誤差を埋めたカイムは後を追う。黒羽事件の功労者でもある事が広がっているからだろうか、羽狩りの隊員から向けられる視線には昔のような明確な敵意が感じられなかった。

 フィオネが消えた部屋へと這入ると、既に彼女は待ち構えていたかのように席に着いていた。

 

「座ってくれ、ここならわたし以外には滅多に人が近寄らない」

「気でも使ったつもりか」

「わたしにとって都合が良いだけで、他意はない」

 

 毅然とした態度を崩さずにフィオネは平手を差し出し席へとカイムを促した。特に拒否する理由も見当たらないので、カイムも促されるままに席へと着いた。

 木製の椅子は簡素な造りで何の装飾もなく、使い込まれているらしく座った拍子に組み合った部分が呻き声を上げた。

 

「早朝にシスティナ殿がお見えになり聞いた話では、麻薬を流している組織と敵対関係にある不蝕金鎖と協力し首魁を捕縛するように言われ、代表としてお前が来るとは聞いている」

「話が早くて助かる」

「それで、わたしたちに何をさせたいのだ? 公に風錆という組織と刃を交えるのは防疫局としては職務外の行動になる」

 

 羽狩りの、つまり防疫局の仕事は羽化病罹患者の保護と治癒院への移送であって、犯罪者の粛清は衛兵の仕事だ。確かにフィオネを含めて隊員たちは帯刀してはいるが、それは羽化病罹患者を保護する際に抵抗すれば実力行使を許されている場合に備えてである。だから一組織を壊滅させるために武力を行使するというのは、仕事をまともにしない衛兵のお株を奪う行為に等しい。

 

「麻薬は悪だ。ルキウス卿も麻薬による被害の拡大には胸を痛めているからこその辞令なのだろう。だが、やり方を間違えれば防疫局そのものの立場を揺るがしかねない」

「それぐらい俺にだって分かってる。要はお前らは理由が欲しいんだろ、羽狩りが動くのに相応しい“動機”が」

 

 それなら既に筋書は出来上がってる、と続けてカイムは語った。

 

「数日後に風錆の本拠地がある疫病街へと戦力を集めて向かってくれ、あらかじめそこに羽つきが居るという情報をこっちで流しておく。そうすればお前らは、羽つきの捜索と保護の名目で大々的に動く事が出来るだろ」

「……筋は通ってるが、肝心の罹患者は実在しているのか?」

「居る…………これは黙ってた事だが」

 

 言うべきか。本当に伝えて大丈夫だろうかという迷いがカイムの言葉を詰まらせる。ジークを疑っているわけではないが、いざ羽狩りを前にして伝えるとなると緊張を強いられる。

 一旦、大きく深呼吸してフィオネを見据える。

 

「ティアと言う少女がその羽つきだ。俺の下に居たんだが、あいつはいま風錆の頭であるベルナドに捕らえられている」

「なんだとっ!?」

「声が大きい、聞かれたらどうする」

「すまない、少し取り乱したみたいだ。まさかお前が罹患者を匿っているとは思わなかった」

 

 声を張ったフィオネの動揺も無理はないだろう。カイムはこれまでフィオネら羽狩りにはティアの存在をひた隠しにしていたのだから。

 冷静さを素早く取り戻したフィオネは咳払いをして、秘密を打ち明けたカイムを見据える。

 

「どうして今更になって白状するつもりになったのだ?」

「不蝕金鎖がルキウス卿と協力をする時に約束を取り付けたからな。ティアだけは見逃すって」

 

 直接この耳で聞いたわけではないが、疑いはなかった。ジークがそう言うなら、そうなのだろうと信じて告げた言葉に、フィオネは考えるような仕草をした。

 

「そうか、そっちには流れていなかったのか……」

 

 自身に確認するような微かな物音よりも小さなフィオネの呟きは、アウルムの師事によって鍛えられていたカイムの耳に誤解なく聞き取れた。

 なにかこっちが知らない何かがある。そうカイムは踏んで、目を伏せるフィオネへと目を眇めた。

 

「どうやらまだ伏せてる札があるらしいな。どういう意味だ?」

「何がだ?」

「惚けるな、羽狩りが何を隠してるのか知らねえが、少なくともこっちに関係がある事だけは分かる。この際、お互いに隠し合いは無しにしないか」

「…………」

 

 言い逃れは許さない。そう詰め寄るカイムの双眸に中てられたのか、フィオネは深く嘆息した。

 

「黒羽……兄さんの遺体をルキウス卿へと引き渡した後、お前もあの場に居たから知ってると思うが、労いの言葉と辞令を言い渡しただろう。その後に、わたしは一人呼び出されたんだ」

 

 諦めたようにぽつぽつと語り始めたフィオネの口調は、告解のようだった。事の重大さの重みに耐えられなくなったのだろうか、それとも、カイムが打ち明けたからこそ誠意として明かそうと思ったのか。

 両肘を置いて語る彼女の視線は、机の木目を見つめたままで心情は読み取れない。

 

「兄さんが遺言に残した治癒院の事は知っているな。それを報告したら呼ばれたのだ。他に知っている者は居るか聞かれたが、あの時の自分は色々といっぱいでカイムの事は失念していた。だから、本来ならこの話はカイムが知っていてもおかしくはない」

「だからあっさりと吐く気になったのか」

「ルキウス卿は治癒院の事実について知らなかった。あそこは防疫局とは直接係わりが無く、管轄も違うらしい。管轄しているのは名のある貴族、という事しかわたしも知らない」

 

 フィオネの言葉通りにルキウスが言ったのなら、名のある貴族というのは余程の権力を持っているのだろうとカイムは判じた。名を伏せられるというのは、それだけの意味があっての事だろう。

 

「治癒院に事実確認をしようにも、高度に政治的意味を持ってしまう事から迂闊には手を出せない。だがルキウス卿はこれを放置するわけにもいかないと判断し、調査が明るみになるまで防疫局は罹患者の保護を必要最低限に、老人と重症の者に限定したんだ。

 だからカイムの言うティアという少女を見つけても、わたしは言われずとも見逃しただろう。隊員にも事実は伏せてそのように通達してある」

「そういうことか」

「言うまでもないが、この事は他言無用だぞ。あくまでわたしは公正な判断の下で言ったのだ。もしこれが外部に漏れるなら、考えがある」

「安心しろ、口の堅さならそこらの奴よりよっぽど堅い」

 

 断言して上体を背もたれに傾けたカイムは今しがた伝えられた事実を脳内で咀嚼する。カイムは治癒院が羽つきの実験所になって居る事をジークに話していない。下手すれば牢獄を揺るがす事実だ。漏らせば確実に火種の一つになるのは目に見えていたからだ。幸い、アウルムも知っている筈なのに報告したのは黒羽の正体ぐらいの様子なのは、ジークを見れば明らかだろう。恐らく、彼にとっては治癒院が何をしていようと関係も無ければ、興味も湧かないのだろう。

 渦巻く思案を纏めていると、肝心な事を思い出した。そういえばティアを見逃す取引をジークはしていた筈、しかしルキウスはこの時点で既に治癒院について知っている筈なのだ。であるならフィオネの言うとおり、ティアを保護する必要はない。なのにこの事実を伏せて取引に持ち込んだ。

 貴族なだけあって、相手方も上手く口は回るらしい。カイムはルキウスの抜け目なさを関心しながらも、フィオネという穴を埋めきれなかった事実にほくそ笑んだ。

 

「……何がおかしい?」

「いやこっちの話だ、思い出し笑いをしてな。それより、話しを戻すが協力には期待していいんだな?」

「理由を作ってくれるなら問題ない。それに、聞く限り風錆という組織は女性を攫うような悪漢なんだろう? 住民の安全を守るのも防疫局の仕事だ、見逃せない」

「そりゃ心強いな」

 

 どうやら復讐に囚われてはいるが、彼女自身の信念が折れた様子ではないらしい。あるいは、復讐心を支えに今の彼女は立っているのかもしれないが、カイムにはどっちでも良かった。牢獄で他人の為に苦心するほど、彼もお人好しではないのだ。

 

 

 黒羽の事件についての事後処理という名目で詰所に来ているカイムは、当然フィオネにジークの策を伝えただけで帰るわけにもいかず、建前を真実にするために行動しなくてはならない。これを聞いたフィオネは相貌に少なからぬ憎しみを漏らして地図を開いた。

 広げられた地図は以前カイムが持ち込んだ不蝕金鎖が持っている物には劣るが、持ち主の努力の跡が見て取れる程に情報が付け足されていた。建物の持ち主や年齢男女比は穴だらけだが、少しづつ住んでいる人物の名前などが増えている。動機はどうあれ、ここにいたるまでに涙ぐましいまでの努力を要したはずだ。

 完成度の上がった地図を見下ろし、フィオネはある一角の場所を指さした。スラム街にほど近い、風錆の縄張りになっている場所だ。

 

「この研究施設は以前に火災を起こしてなくなっている為、持ち主が誰なのかは分からないが、兄さんが言っていた施設の火災というのが間違いなければ、何かしらの手がかりがあるはずだ」

「それを調査したい、というわけか」

「ああ。誰が兄さんをあんな姿にしたのか、恐らくは治癒院に関連する何かだろう。あんな姿になってまで……勇気をもって敢然と挑んだ兄さんはわたしに知らせようと……なのにっ」

「今は調査が先だろ。落ち着け」

 

 次第に怒気が強まり憎々しい面持ちになっていくフィオネを諌める。

 やはり彼女は未だに犯人を捜しているのだろう。地図にも目撃情報が無いか苦心した跡のように同じ印がいくつも書かれている。ここでフィオネの望む犯人の名前を告げるのは簡単だ。なぜならカイムは黒羽を殺した人物を知っているのだから。しかし言う必要も義理もない。そもそもフィオネとアウルムを天秤に掛けるなら、まず間違いなくカイムはアウルムを優先する。その意味でも彼はこの事を言うつもりはなかった。

 いくばくかして冷静になったフィオネと共に研究施設へと向かう事になった。場所が場所だけに風錆の目を警戒しなくてはならないカイムだったが、羽狩りとの協力という免罪符の効力がどこまであるのかに期待するしかなかった。

 それでもなるべく人目につかない道を使ったのは彼の職業的警戒心ゆえだろう。

 昼を過ぎて到着した施設は、火災があったという事もあって見事に焼け落ちた跡しか残っていなかった。屋根が落ち、梁は焼け焦げて黒くなり、残った壁にも指を這わせると煤が付着した。建物の死を迎えてからかなりの時間が経過していることが覗える。

 

「こりゃ、随分と徹底的に燃えたな。火事場泥棒も出たんだろ、見た感じじゃ何も残っちゃいない」

「結論を出すのは虱潰しに調査をしてからだ。日が暮れる前に終わらせよう、暗くなってはどうしようもない」

 

 フィオネにとっては数少ない手がかりなのだ、簡単には諦めたくないのだろう。カイムに周囲の探索を命じると、彼女もまた目を皿のようにして崩れ落ちた瓦礫を漁り始めた。

 研究施設というだけのことはあって、建物の規模は大きく広い。住民の注目を集めないようにと配慮したために人員を割いたことがここで仇になった。中天に昇る太陽が段々と西へと沈み始めた頃、カイムは腰を曲げて地面を見て回っていたせいで固まった腰を解そうと逸らせた。

 これだけ探して見つかったのは銅貨一枚の価値もないだろうガラクタばかり。割れた瓶や正体不明の乾燥した植物や種子。直接黒羽と関係しそうな代物は残念ながら影も形もない。

 

「こっちは駄目だ、ここらの人間が何もかも持ってっちまったんだろ。そっちはどうだ?」

「乳鉢のような物やそれに属した道具等が数点、それも全て破損してしまっているが。あとは……」

 

 瓦礫の山を崩しながら近づいてきたフィオネの手には割れていない瓶が収まっていた。何が入っているのか気になって覗き込んでみると、中には黒い粉が少量入っている。

 なにかの薬なのだろうか――しげしげと観察するカイムにはこの黒い粉が黒羽を想起させて、薬だとしても決して快癒に向かうような代物ではないだろうと思った。

 

「これはわたしの管轄では解析は出来ないだろう。済まないがカイムの方で依頼できる相手は居るか?」

「そうだな……」

 

 眉根を寄せて考え込む。居るには居る。カイムが知る限り、牢獄でも腕利きの医者だ。しかしいまの彼女が果たしてまともに……

 考え込んで、これをきっかけに医者としての本能でも目覚めて自分を取り戻してくれるなら、という望みに賭けてみることにした。

 

「一人医者に心当たりがある。あいつなら多分なにか分かるかもしれない」

「そうか、ならこれはカイムに預けよう。何か分かったらすぐに教えてくれ」

「あまりいい結果を期待しすぎるなよ?」

「わかっている」

 

 何か分かった所でこの粉一つで何が見えると言うのだろうか。フィオネから受け取った黒い粉の入った瓶を懐に仕舞うと、ふと彼女の足元に伸びた影が山なりになっていた。――それがカイムに直観めいた何かを感じさせた。

 

「ちょっと、足元いいか」

「どうかしたのか」

「……少し、引っかかるんだ」

 

 フィオネが立っていた位置を退いてもらい無造作に積み重なった瓦礫をかき分ける。昔からの経験が確かなら、なにかこの下にある。そんなキナ臭さをカイムは嗅ぎ取っていた。

 がらがらと音を立てて崩れていく瓦礫の下から、鉄製の扉が姿を見せた。生き埋めになっていた扉は地面にじかに付いており、見たところ地下へと続いているようだ。

 ようやく見つけた手がかりらしい手がかりに、フィオネの目が見開かれる。

 

「これはっ……」

「どう見ても地下室への扉、だな」

 

 鉄製だったのが幸いしたのだろう。火災の中でも燃え移らずに今まで形を保っていた扉は、薄汚れてはいたが、壊れてはいないようだ。

 カイムは神妙な面持ちで扉の取っ手に手を掛け持ちあげる。長い事誰の目にも付かなかったからだろうか、地下への扉は軋む不協和音を上げながら徐々に道を開いた。開いた扉の先には案の情、地下へと続く階段が続いていた。が、太陽も西に傾いて夕方近い時間という事もあって、光も差さず先はカイムの夜目の良さを持ってしても見通せない。

 

「明かりが居るな……フィオネ、近所から明かりを借りて来てくれ」

「わかった、待っててくれ」

 

 頷き、懐にある金の入った皮袋の中身を確認するとフィオネは駆け出した。

 牢獄では何をするにも穏便に思い通りにするなら金が一番効果的だ。それを以前の黒羽事件を経験してフィオネも学んだのだろう。昔の彼女であれば間違いなく真っ正直に防疫局の名前を出して誠意をもって頼み込んだだろう。

 馴染んできたな――カイムはフィオネの背中を見送って牢獄に染まりつつある彼女を見てそう思った。

 彼女が戻ってくるのに時間は掛からなかった。カイムは火の灯った蝋燭を立てたランタンを受け取り、まずは危険が無いかを確認するために一人で階段を降りて行った。

 日の光が無くなり手にある灯りだけが頼りになると、冷えた空気が外へと向かってカイムの頬を撫でつけた。階段を降りている間も警戒を絶やさずに罠がないかどうか調べたが、カイムが見た限りでは見当たらない。やがて階段が終わりなんの変哲もない扉が迎えた。他には何もない。開け放たれたままの扉の先に進む。

 

「……」

 

 黒羽のようなバケモノがまだ居るかもしれないと警戒をするカイムが入った部屋は、上の研究施設に比べてかなり狭い。人の営みを排したような静寂の漂う室内の奥へと向かう。

 

「これは……檻か、壊れてるな」

 

 どんな猛獣が壊せばこうなるのだろうか。鉄製の格子が並ぶ檻は子供が玩具を力任せに壊したように無惨な残骸となっていた。――と、足元に何かが落ちているのにカイムは気がついた。

 ランタンで足元を照らし拾い上げる。肌触りから乾燥しきっているのが分かるが、それ以上に、照らされて全貌が明らかになったこれはカイムにとっても、フィオネにとっても非常に馴染み深い……というよりも記憶に焼き付いている物だった。

 ――黒羽の落とす羽根。

 稲光の速さでカイムの頭に一つの仮説が落ちてきた。

 壊された檻。落ちていた黒い羽根。燃え落ちた研究施設。黒羽の遺言。すべての要素が今ようやく繋がった。

 ここは、黒羽が最初に居た場所なんだと。

 

 

 地上へと続く階段を上がるとフィオネが待ちかねた様子で迎えた。

 

「……どうだった、何か見つかったか?」

「小さな部屋が一つだけ、何の目的は分からないが……奥に滅茶苦茶に壊された檻と、これが落ちていた」

 

 握りしめたら崩れてしまう恐れのある黒い羽根を手渡す。受け取ったフィオネは何度も見た羽根を愕然とした面持ちで見つめている。震えた唇が、何かを伝えようと形作る。

 

「……クーガー兄さんは、最初はここに居たんだな」

「恐らくそうだろう。ここで実験を受けてたのかは知らないが、火災に乗じて逃げ出したのかもしれない」

「どうしてわたしは……もっと早くこの場所を見つけなかったのだろうか。もっと、時間をかけて調査をしていれば……もしかしたら……あんな結末には、ならなかったろうに!」

 

 羽根を乗せる彼女の手が筋張る。必要以上の力に強張る総身は、間違いなく憤怒に震えているのだろう。

 かつてこれまで、これほど怒りを露わにしたフィオネを見た事があっただろうか。

 思い当たるのは黒羽が死んだ――否、殺された夜の彼女だ。あの夜の彼女もまた、今と同じような怒りに身を震わせ呪詛を吐いていた。

 

「なあ、カイム」

「なんだ」

「兄さんは確かに殺されるだけの事をしかもしれない。大勢の罪なき住民を殺してしまった。だけどあんな……あんな酷い死に様じゃなくても良かった筈だ」

 

 自身の無力を呪うかのような怨嗟の声が、ひび割れた彼女の口元から漏れ出る。

 

「四肢を斬り落とされてなお、穏やかに微笑んだ兄さんの目には涙があった。まだ、泣けたんだ! なのに……」

「……」

 

 この彼女が救われるにはどうすればいいのだろうか……などと感傷的な感慨を懐くほど、カイムは暇じゃない。身内の死に悲哀の声を上げるなら墓前でやるべきだ。ここで余計な感情を育んで肝心な時に使い物にならなくては困る。

 フィオネは優しい手つきで羽根を包むと顔を上げた。昏い、復讐者の目をしていた。

 

「教えてくれ、カイムは兄さんを殺した奴に心当たりはないのか?」

「……ないな。俺たちだって他人を殺した犯人を捜すほど暇じゃない」

「そうか、やはり……そうか」

 

 求めていた答えと違う言葉を聞かされてフィオネが悄然と項垂れる。これがあの凛然としていた羽狩りの隊長の姿なのだろうか。目的を前に感情が制御を失って先を越しているような行動だ。

“思った以上に不安が大きいな……こりゃジークの言っていた餌でも与えるしかないか”

 目的を感情が追い越してしまうのなら、感情になお勝る目的を与えればいいのだと判じ、カイムは重く感じる肺から息を吐き出すように提案した。

 

「これはジークから預かってた話なんだが、もし今回の件に尽力してくれるなら、風錆が無くなった後にでも黒羽殺しの捜査に人員を何人か割いてもいい、と言っていた。どうだ受けるか?」

「…………」

 

 フィオネの怜悧な双眸が玉のように見開かれた。答えは、僅かな沈黙の後に出された。

 

「――受けよう。仇の為ならわたしはもう何でもいい」

 

 決然とした答えは、前の彼女なら交換条件のような打算的契約は結ばないだのなんだのとぼやいて受けなかっただろう。

 しかし、今のフィオネ・シルヴァリアには高潔さは必要なかった。

 泥に塗れてもいい。

 嘘に汚れてもいい。

 それでも、殺したい相手がいるのだから。

 爛々と輝く双眸は、過去の彼女を殺す。ここに居るのは、一人の復讐者だ。

 牢獄では誰しもどこか頭がイカれてる。昔、ジークが酒杯を弄びながら嘲笑うように口にしていたのをカイムは思い出した。

 ああ、確かにそうかもしれない。牢獄は其処に居る人間を狂わせずにはいられない性質らしい。じゃなければあのフィオネがここまで……牢獄“らしい”事を言う筈がないのだから。

 

 

「ってな具合に、協力自体は快く受けてくれたよ。で、これが例の焼け跡から見つかった粉だ」

 

 覚えている限りの一部始終を伝えたカイムはそう言うと、懐から黒い粉が入った瓶を取り出してジークの机の上に置いた。

 目の前に置かれた瓶を手に取ったジークは真剣な眼差しで中身を確認する。

 

「黒い粉、ねぇ……黒羽の件はもう終わった事だと捨てるのは簡単だが、どうもそうも言ってられないようだな。

 分かった、これはエリスの方に回して調べてくれ。何か分かれば直ぐにでも知らせて欲しい」

「そのつもりだが、少し時間が掛かるかもしれない」

 

 歯切れの悪いカイムの口ぶりに、怪訝な眼差しをアウルムが向けた。

 

「なにか都合が悪い事でもあるのか?」

「……エリスだ。あいつ、どういうわけだか昔みたいに戻ってるようなんだ。医者になる前の、不安定な状態に」

「どういう事だ?」

 

 戻っている。苦悩の末に絞り出されたカイムの言葉はジークの眉根に皺を寄せるだけの神通力があったらしい。気がつけば彼は葉巻に火を灯し始めていた。

 

「命令しなければ何一つしない、呆ける時間が増える、あげくに本人は自覚してないが……アウルムへの憎しみが増してるように見えた」

「とばっちりじゃねえか俺」

「……すまない」

「いや、いまさら一人増えたところで気にはしない。今後はなるべく会わないようにしよう。毒盛られて殺されたらかなわん」

 

 面倒事がまた一つ増えたと顔を顰めて腕を組むアウルムの剣呑な呟きは、まるで予言のようにカイムには聞こえてしまった。

 家に帰ればまたエリスはあの状態になっているのだろうか。今朝は比較的まともではあったが、それでも自身の行動をカイムに委託するぐらいには人形染みていた。

 医者になる前のエリスはまさに人形といって遜色なかった。言われなければ何もしない。何も知らない。自立に疑問を懐かない日はなかった。単一の命令をすれば言われたように、ただそれだけをし続ける。例えば、ただ“立っていろ”と命令すれば彼女は糞尿を垂れ流しながら、餓死するまで立ち続けるだろう。カイムには、それが恐ろしかった。

 ようやく医者という仕事を初めて、三年前に歪ではあるが――数日に一度家事をしにカイムの家へと行く事でエリスはようやく納得した――やっと一人暮らしまでしていたのに。積み上げた山を崩れていくようだ。

 

 

 ※

 

 

 世界は人間の都合など考えずに流転し続ける。たとえどんな事があろうとも。

 変わらず迎えた朝の陽射しをリリウムで迎えたアウルムは半眼のままソファーから起き上がった。室内には彼以外に人は居ない。本来ならあってはならない事なのだが、他でもない持ち主であるジークが許可したことなのだから、アウルムに罪はない。居ないのを見るに、ジークは自分の隠れ家にでも帰ったのだろう。複数持つ隠れ家をジークは点々としている為、何処にいるのかを知っているのはごく僅かだ。

 眠る際に抱いていた大太刀を背負い直し、曲がった背骨を伸ばす。固まった身体がほぐれる音を立てながら大きく伸びをして、外の景色に視線を投げる。窓から見える娼館街の朝は、変わらず人の通りが少ない。それもそうだろう、夜こそが娼館街の本性であるのだから朝に見かけるのは仕事が終わった人間か、あるいは住居を失い食べるのにも困った乞食ぐらいだ。

 ジークが不在の部屋に居ても食事にありつけるわけが無いので、腹が減った上に喉も乾いたアウルムは仕方なく部屋を出た。待合室にでも降りれば誰か居るだろう。部下の一人でも居ればそいつに頼んで食事と水でも運んでもらおう。自分で調達するつもりが欠片もない怠け者は待合室に降りて、ちょうどよく居合わせたオズの横顔を見つけてあからさまに顔を綻ばせた。

 

「おはようオズ、飯くれ」

「……見てわからないか? 俺はこれから水を浴びに行くんだ。飯ならそこら辺に居る奴をあたってくれ」

「そりゃ邪魔して悪かった。にしても、随分と汚れてるな。大掃除でもしてきたのか?」

 

 寝ぼけ眼を擦って改めて見るとオズは全身が埃や土、それと赤錆びのように変色した――おそらく渇いた血だろう――汚れにまみれていた。夜間を問わず今の時間まで作業していたのだろう、彼の巌のような相貌に嵌った目の下には隈が出来ている。だとするとこのままの状態で彼に自分のお使いを頼むのは流石に気が引けた。

 アウルムの指摘に、オズはようやく自分の状態を顧みたように手足の袖や裾を確認した。

 

「ちょっとした物の整理をな、思った以上に手間取っちまった。ああこれはもう着てらんねぇな、勿体無いが捨てるか」

「ふーん、ご苦労なこって」

「緊張感のない男だな、手前ェの女攫われたってのに随分落ち着いてるじゃねえか」

 

 憮然とした態度でそう言ったオズは痒みを覚えたのか後頭部を乱暴に掻いた。頭部から何かしらが雪のように落ちているのは、恐らく蚤の類だろうか。随分と衛生環境の悪い所に居たらしい。

 ここを掃除する娼婦の仕事が増えたな、と他人事のように思いながらアウルムは片頬を吊り上げて笑った。

 

「取り乱して欲しいのか? いちいち、そんなこと気にしてたら今頃俺は崖の向こう側だ」

「はっ、違いねェ。要らんこと聞いた、じゃあないい加減冷たい水が恋しい」

「サッパリしてこい、そのままじゃ女も抱けないぞ」

「言ってろ出不精」

 

 汚れを纏ったオズが出て行くのを見送って誰も居ない待合室でアウルムは誰かが起きてくる、もしくは帰ってくるのを待つことにした。腹は減ったが動きたくない。喉が渇いたけど水を汲みに行くのも面倒だ。なるほど、オズのいう出不精もあながち間違いじゃなかった。飯を作るぐらいなら死ぬ、とでも思いそうな程の彼のスタンスはその後、煙草に換算して五本は吸い終わるぐらいの時間まで続いた。

 いい加減メルトの顔を見ながら食事をした方が手っ取り早いのではと考え始めたアウルムの前に、数人の娼婦たちが一斉に降りてきた。物々しい面持ちで大きな何かを数人がかりで持っている様はまるで、葬式に参列する人々のようである。いや、まさしく葬式だった。娼婦たちが持っている大きな荷物は人“だった”。しかもアウルムには見覚えのある女だ。

 参列者の一人が待合室のソファーに浅く座るアウルムに気がついた。彼女はこの“行事”に慣れているのか悲しげに柳眉が下がっているが、宝石のように美しい瞳には涙を流す予定も形跡もない。

 

「これは、アウルム様。ごきげんよう、お早い朝ですね」

「おう、おはよう。シェラは自殺か?」

「……ええ、早朝に吊っていたのを見つけまして」

 

 人命が失われたとは思えない二人の欠落した声音の会話は、何も不思議ではなかった。首を括ったのだろうシェラの死に顔は運良く綺麗なままだった。まるで眠っているだけのようで、今にも起きそうだが、微塵も動かない胸が呼吸をしていない何よりの証拠だ。このように娼婦の自殺は多くなくとも少なくはない。元々、先に希望などない職業だから悲観する者も多いのだろう。娼館で死ぬまで身体を売って生きる苦痛に、耐えられずに死ぬ娼婦はよくいる。自殺を選ぶ彼女たちにとって、死は解放なのだ。死ぬよりほかの幸福がないから、死を選ぶのだろう。

 死んだ死体は正式に処理するのにも金が掛かる。この死体が不蝕金鎖の構成員ならジークは葬式費用を渋ったりしないだろう。しかし、消耗品の娼婦に死に金をかけるほど善良ではないのも事実だ。よってシェラは一番手間も金も掛からない空葬になる。

 崖からただ捨てる。ゴミのように。だからせめてものはなむけとして、娼婦たちはシェラの胸にちっぽけな花を添えていた。

 

「裏の井戸に行ってみな。オズが居るだろうから、手伝って貰うといい。まだお前らも眠いだろ」

「ありがとうございますアウルム様。行きましょうみんな」

「じゃね、またあとでねーアウル」

 

 娼婦たちのがアウルムに頭を下げてオズの居るだろう許へと向かった。

 忠告通りオズは井戸に居たらしく戻ってきた娼婦たちは空手だった。まだ朝も早い事もあって慣れない早起きに欠伸を漏らしながら各々の部屋へと戻っていくのを眺め、例外の二人がアウルムの傍へと寄っていくのを心弛びに見上げる。

 

「お前らは寝なくていいのか? まだ朝早いぞ」

「はい、急なお休みとなりましたので、いつも以上に早く睡眠を取ることが出来ましたゆえ大丈夫ですわ」

「おかげで折角の貴重な予約を逃しちゃったけどね」

 

 いくら風錆の目を掻い潜るためとはいえ、早めに店じまいをした影響は少なからずあった。膨れっ面をしているリサがそのいい証拠だった。

 

「そう膨れるな、またいつか予約が入るさ」

「まっ、別に良いんだけどね。アイリスが帰ってきてくれる方が大事だしっ」

「リサの言うとおり、わたくしたちの苦労など今のあの子に比べれば何でもありません。無事に帰ってきてくれるなら、それで」

 

 風錆に捕まっているアイリスに比べたら屁でもない、そう言い切る二人はアイリスの事を思い浮かべているのだろうか、遠い目をしている。

 ふと、アウルムはいつだったかジークに話していたある事を思い出した。

 

「ならアイリスが帰ったらウチで飲み食いのちっさい宴でも開くか。覚えてるか? 前にも言ったと思うが。リサの答えには期待してないからな、どうせ覚えてないだろうし」

「あー! ひっどーいんだアウルっ、確かに忘れてたけど、あたしそこまで物忘れ激しくないよ」

「リサ、言ってる端から忘れてるわよ」

「え……?」

 

 クローディアの言葉の意味が分からないらしく、リサは小首を傾げて疑問符を浮かべた顔をしている。

 

「諦めろクローディア。そいつはそれが可愛い所なんだ、賢いリサなんざ骨だけの鳥肉みたいなもんだ。骨のない生きた鳥みたいだからリサなんじゃねえの」

「言い得て妙ですわね、小気味良い洒落を聞いてるようですわ」

「なんかよく分かんないけど、アウルがあたしに可愛いって言ったのだけ分かったよ! もうっ、アウルったらアイリスだけじゃ物足りないって事? そ・れ・と・も、ついにあたしの魅力に気づいちゃった感じっ!?」

 

 満開の花畑のような笑顔でしなを作りながらリサがにじり寄ってくる。彼女なりの色香を振り撒いたポーズなのだろうが、残念ながら損なわせてるとしか言いようがなかった。

 肩を寄せるリサを無碍に押しのけてアウルムは嫣然と微笑むクローディアに再び問うた。

 

「で、どうする。来るか?」

「勿論です、折角のアウルム様からのお誘いですものお断りするわけありません」

「そりゃよかった、クローディア誘うのもかなり久し振りだしな。もう一年以上は前になるのか。

 喜べリサ、お前の“予約”が一つ出来たぞ。金払いで損はさせない事で有名な俺がお前の一日を買ってやる」

「えっ、ホントっ? いやった~アウル大好きぃ~! 楽しみにしてんね」

 

 押しのけたばかりのリサが再び、先程よりも勢いよく頭からアウルムの胸元に飛びついてきた。数日前から完全装備を保っているアウルムの着ている革のジャケットに突っ込んだリサは、懐のいたるところに隠してある代物にぶつかり、痛みで頭を抱え呻き声を上げた。

 不意にアウルムの腹の虫が食糧を欲して主張し始めた。

 

「っとそうだクローディア、悪いんだが飯と飲みモンどっかからか持ってきてくれないか。腹が減って動きたくないんだ」

「うわぁ、アウルってホント変わらないよね。ふてぶてしいまでの怠けっぷりは流石って感じ」

「こらリサ……かしこまりました。リリウムの食事でよろしければただいまお持ちしますね」

 

 思った事、思いついた事をそのまま垂れ流すリサを軽く諌めて、クローディアは恭しくアウルムの頼みを受けた。

 戻ってきたクローディアの手に持っているのは質素な食事だった。麦粥に煮込んだ肉をほぐして入った物と、黒パンが一つ。これがリリウムの朝の献立だ。職業上、娼婦が痩せこけては困るが、夜中を通しての肉体労働とこの食事のおかげで彼女たちは肥満とは縁遠かった。

 

「なつかしいなぁ、この薄い味付けの麦粥」

「わたくしたちには身近なお食事ですわ。さあ、どうぞ召し上がってください」

「おう、あんがとな……そうだこれ取っとけ。俺が食っちまった分、メルトの所ででも食ってこい」

 

 麦粥と黒パンを受け取ったアウルムはそれらを正面にある膝程の高さのテーブルに置いて、懐から取り出した革袋を中身も確認せずにそのままクローディアに渡した。革袋から漏れる重量感のある音から察するに相当な金額が詰まっているのは明白で、だから受け取った彼女は遠慮をすることなくあっさりと受け取った。

 

「ご厚意、ありがたくお受け取りします」

「いいのアウル? これ全部って結構いっぱい入ってるよ」

「ならいっぱい飯食えるだろ。どうせなら娼婦たち全員の飯でも見繕えばいい、メルトも売り上げが増えて喜ぶと思うぞ。あばらの浮いた身体じゃ客は取れねえだろ。

 ほら行った行った、これ食って休憩したら俺も部屋でふて寝するんだから」

 

 瞼を閉じ謹んで礼をするクローディアと、革袋の中にある金額に目を剥いてるリサを犬猫でも追っ払うような手つきで追い払い、アウルムは食事を持ってジークの部屋へと戻っていった。久し振りに口にした麦粥の味と黒パンの硬さは慣れたものだが、やはりアイリスの作る食事の方が美味しい。

 食事を終えたアウルムはジークが来るまでの間、再び眠る事にしようと思いソファーに身を投げた瞬間、まるで見ていたかのようなタイミングで扉が開きジークが帰って来た。嬉しい事でもあったのだろうか、彼は機嫌が良さそうだった。

 

「よおアウルゥ、ウチの娼婦全員に飯奢るなんて随分気前が良いじゃねえか。是非俺もあやかりたいもんだぜ」

「もうケツの毛一本も残っちゃいねえよ。見て通り素寒貧だ」

 

 諸手を上げて一文無しのアピールをすると、ジークは声を上げて笑った。

 

「ははははっ、金をばら撒くのは結構だが、アイリスがこれ知ったらお前折檻されちまうんじゃねえか?」

「……あぁ」

 

 忘れてたとばかりに顔を覆うアウルム。

 ジークの言うとおりアウルムは忘れていた。家計を握っているアイリスがこんな馬鹿げた無駄遣いをしたことを知ったら、彼女は絶対に怒る。音も無く静かな怒りを燃やしてアウルムに仕置きするだろう。娼婦に奢ったと知ったら、尚更彼女は怒るだろう。

 嘆いても仕方ない、やってしまったものはやってしまったんだ諦めよう。アウルムは緩慢な動きで横になったばかりのソファーから身を起こした。

 

「どこ行くんだ? んな落ち込んで」

「仕事だよ……気分じゃねぇけど。後で楽する為に行ってくる」

「おっと、出るなら窓から見つからないように頼む。お前はここに居るって事にしたいからな」

 

 扉を開けようと歩み寄るアウルムの背に声がかかり脚が止まった。彼がここに居ると周囲の人間に思わせるには、それだけじゃ足りないだろう。この部屋に部下が入れば、それもすぐにばれてしまう。それなのに何故ジークはこんな穴だらけの建前を用意するのか。――心意を探るのはアウルムの仕事ではない。従って彼は深く追求もせずにジークの命令通りに行動する。

 窓枠に足を掛けたところで、再びアウルムは背に声をかけられた。

 

「昨日も言ったが、必ず二人を助けろ。いいか――まだティアの嬢ちゃんは殺すな」

「……なんだ、バレてたのか。安心しろお頭、少なくともあんたが助けろと言った時から、そのつもりじゃなくなった。殺しちゃ命令違反になるからな」

「わかってるならいい。行ってこい」

「ああ」

 

 窓から身を投げ出しアウルムは音も無く姿を消した。

 ジークには分かっていたらしい、アウルムがティアを殺そうとしていたのを。

 今回の風錆との抗争のきっかけは様々な要因が寄り集まった結果だが、ティアの存在もその中に含まれているのは明らかだ。だから彼はこれを火種と判断した。火種になったのなら以前依頼された“予約”が効力を発揮する。自動化したアウルムに暗殺という行為が浮上していたのだ。

 これはアイリスを見捨てる云々とはわけが違う。

 しかしジークはリリウムの今後を鑑みて助けると判断した。アイリスを見捨てれば娼婦たちが、ティアを見捨てればカイムが間違いなく影響を受けるだろう。以上から損得勘定や少ない人道的価値観から救う事をジークは選んだのだろう。であればアウルムにティアを殺すことは出来ない。意味を得る事が出来ないなら殺す価値などないのだから。

 

 

 ベルナドの事をつまびらかに調べ上げる上で疫病街に潜伏するのは容易い。しかし日中という事もあり闇に紛れる事が出来ないアウルムは、手段の一つとして変装を選んだ。

 一旦、自宅へと戻り入念な作業で変装したアウルムはその足でベルナドが居るであろう疫病街へと足を踏み入れた。

 羽化病罹患者が一番多く発症した地域というのは眉唾ではなく、スラムに近い疫病街の人口はやはりそう多くはなかった。行き倒れや物乞いの半死半生な住人もこんな場所では仕事にならないと分かっている為、路地を歩いても一人とて見当たらない。まるでこの街一体がベルナドの城のようで、徹底しているという印象を懐かざるをえない。

 予め頭に入ってる情報と照らし合わせながらアウルムは入り組んだ疫病街の街路を記憶しながら進む。不蝕金鎖の持つ地図でも、ここの地理はそう詳しくは記されていないのだ。何処に何があるのかを調べつつ片っ端から記憶に押し込んでいく作業と並行して、ベルナドの本拠がどこなのかを捜索する。

 それらしい所には“らしい”雰囲気がある。ジークが複数の隠れ家を持っているように、ベルナドもまた暗殺を警戒して複数所持していると見ていいだろう。

 人の気配を前方から感じたアウルムは姿が見える前に横道へと逸れる。足音は二つ。歩くたびに金属音が複数鳴っていることから、武器類を携帯している。ここはベルナドが持つ風錆の縄張り、その本拠地と言っていい。つまり二人組は風錆の構成員。気配を断って近づく足音と息遣いに耳をそばだてる。

 

「なぁ次は娼館街の近くで暴れねえか? あそこなら商品って事で女でも盗めば遊び放題だぜ」

「良いかもなそれ。俺も最近溜まってるから、いい加減解消したいし」

「お前だけじゃねえよ、俺だって……ちっ、せっかく攫った女も手ェ出すなってベルナドさんに言われてるし。あのオドオドした女の味見してみたかったってのによォ」

「止めとけ、破ったらボイルみたいに首落とされんぞ」

「……馬鹿だったなあいつ」

「……ああ、馬鹿な上にイカれた変態だった。ガキの糞尿が好物とか、俺には理解できねぇ」

 

 迷いなく進む足は細い路地を一瞥するだけで通り過ぎ、比較的ひろい街路しか歩いていない。

 警備って所か――規則性のあるルートを歩く二人組は仕事が退屈なのか、それとも敵対組織や不審な奴など出てこないと高を括ってるのか、無駄話の声が大きい。好都合だと判断したアウルムは、二人の後を着けながら会話を盗み聞きし続ける。あわよくば、有益な情報が漏れることを待ちながら。

 

「やっぱ犯るなら小心者の方だな。ガキの方は生意気でいけねぇ、あれじゃあ咥えさせたら食いちぎられる」

「だけどあっちは羽つきだろ、感染(うつ)ったらどうすんだよ」

「んなもんどうだっていいだろ。あの女、身体はちと物足りねえけど顔は良いからな。ドロドロに犯した後の顔を拝んでみてえんだよ。あぁ、マジでベルナドさん許してくれねぇかな」

「諦めろ。羽つきはベルナドさんの指示で厳重になったばかりだろ」

「一遍に押し込めば楽なのに、なんで別々に監禁すんだろな。その方が俺らだってらくじゃねえか」

「俺が知るかよ」

 

 分かったことが一つ。どうやらティアとアイリスは別々の場所に監禁されているらしい。

 そこから先の会話は欲望が昂ったからか、段々と下の話に変わっていき情報らしい情報も出なくなったので、アウルムは諦めて隠れ家の捜索と、二人の監禁場所を探し出すことにした。あわよくば、ここで助けてしまうのも手だ。日が傾きつつある空の下をアウルムはひた走った。

 

 

 調査の結果分かったのは八ヶ所の隠れ家と、ベルナドの最近の行動や彼の影武者が居る事。それと――ティアの監禁場所だった。

 ティアの監禁場所については一番時間が掛かった。彼女は隠れ家の一つの、それも隠し扉の奥の奥に居たのだ。運よく食事を運ぶ時間だったのか、隠れ家に住んでいた老夫婦を装っている住人が戸棚の裏にある扉を開けたのをアウルムは見たのだ。また、開いた際にティアの驚く声が漏れ出て聞こえたのは僥倖と言ってもいい。でなければどっちなのかの判断が付かなかった。

 隠れ家についてはティアが監禁されてる場所を覗いてあと七か所あった。これらは二日おきにベルナドが移動しながら使ってるようだ。問題なのは、影武者の存在。構成員の殆どが本物と偽物の区別がつかないらしく、ぼやいているのをアウルムは耳にしていた。通りすがりの構成員の顔を覚え、その中から比較的すぐに真似られる顔を選び他の構成員から聞いた話では、最近のベルナドは機嫌が良いらしくいつも以上に金払いが良いらしい。

 半日以上を費やして得た情報の中に、しかしアイリスの手がかりになる情報はなかった。

 もう日も暮れている。このまま夜の闇に紛れて捜索を続けるのは、日中よりも容易いがそれは相手も同じ事。隠れやすくなるという事は、隠しやすくもなるという事になるのだ。

 アウルムは煙草を吸い、無駄が切り落とされていく思考の中で決断を下す。

 今夜は、アイリスを諦めようと。

 

 

 ※

 

 

 疫病街を出て娼館街へと入りリリウムへと戻ってきたアウルムを迎えたのは、厳格な面持ちで葉巻を押し潰したジークと気難しく眉根を寄せているカイムだった。

 窓から帰って来てすぐに室内の緊迫した雰囲気が伝わってくる。押し潰された葉巻の先から未練深い紫煙が濛々と立ち上っている中、両者は押し黙ったままアウルムへと顔を向けた。

 

「悪い知らせか?」

 

 部屋に入るなり煙草を吸い意識を作り変えたアウルムは、暗殺者としての容赦のない目つきで二人を見る。

 深く、重い溜息をつく声が聞こえた。ジークは心底呆れた様子で腕を組んだ。

 

「エリスが風錆に走ったらしい」

「あいつは金銭欲の欠片もない奴だ。見返りはなんだ?」

「……俺に殺される事と――お前の命だ」

「阿呆女め、学習しない奴だ」

 

 ジークが呆れる気持ちも分かる、とアウルムは紫煙を深く吸い込んで吐き出した。

 エリスがアウルムを狙うのは分からなくはない。彼女は恨んでいる、いや、妬んでいる。アウルムをアウルムの立場を。だから殺して空席にしようとしているのだ。そこに自分が座れるように。何があったのかは知らない。興味もないが、自分の命を狙うと言うのなら無視は出来ない。

 

「すまない、俺のせいだ。俺がもっとあいつを抑えてたら」

「どの道、いつかこうなった。遅いか早いかだけだ。でどうする、殺すのか? エリスを。

 攫われたティアと違ってエリスの行動は不蝕金鎖にとっての損得で勘定すれば、間違いなく損だ。組織の人間じゃない以上、お頭の面子もある……お咎めなしとはいかない」

「その時は……」

 

 葛藤するカイムは二の句を継げず言葉尻が宙に浮く。ジークが静観しているのをいい事に、アウルムは確認するように、ある事をあえて伏せ、語った。

 

「奴は裏切り者を信用しない。ベルナドの下に言った所で、利用されて死ぬのがオチだ。最悪、お前に対する人質になる可能性だってある。この上ティアまで奴の手札になってるオマケ付きだ。

 カイム……お前は、どうする?」

 

 がらんどうを覗いたような深淵の暗闇がカイムを覗き込む。

 透明感のある声は決してカイムを責めてはいない。何も無い。ただ事実を確認するだけで、殺害への躊躇いも喜悦もない。ただひたすらに純粋で、酒でも勧めるような口ぶりに改めてアウルムの異常性を思い知ったのだろう。カイムは瞠若したまま答えを出せずに声を詰まらせた。

 あるいは、カイムにはこうも聞かれてるように思えたのだろう。

 ――ティアとエリスどっちを生かす? と。


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