牢獄の暗殺者   作:琥珀兎

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第十七話:背後に秘するは隠花の種

 一般民衆が住む事の叶わぬ上層の地は、ここノーヴァス・アイテルに王として君臨するノーヴァス王家の下、地位の高い人間……つまりは貴族の他に彼らの安全を護り警護している衛兵や、聖女とその側近や側仕えなどの地位高き神官のみが住む事を許されている高きに尊い区域だ。故に民衆が上層を見上げ憧れるのは当たり前であり、同時に住む事など叶わぬ非望の地でもある。

 ましてや牢獄民など見上げる事すら叶わぬ上層に建つ歴史ある貴族の家にて、当主であるルキウスは生活に染み込んだかのような優雅さと気品を醸し出しながら政務を行う机に着いてた。目線を下に落として書類に羽ペンを走らせる様は、いかにも手馴れており羽が左右に舞うたびに光の粒子を引き連れていてもおかしくはない程だ。

 彼に心の休まる時間は少ない。だからこそその為に副官として仕えるシスティナは、上司である彼への進言を休めるような事はしなかった。

 

「もう一度考え直されてはいかがですかルキウス様」

「こればかりは、何度言われようと変わらないよ。たとえ君の言葉だとしてもね」

「ですが、あのアウルムという男の態度や言動は――」

 

 認められない。そう続けようとした言葉は、ルキウスの置いたペンの音に遮られた。

 

「それを差し引いての実力者である。だからこそジーク殿はあの場に連れてきたのだろう。頼もしいじゃないか、腕利きの護衛が二人もいるのだから」

「ですが……」

 

 システィナはこうもルキウスに受け流されたら、これ以上強く出る事が出来なかった。具申は副官である彼女だからこそ許された権利だが、一度決定を下した上官になおも噛みつくような行為をしては具申とは呼べない。

 だから彼女はあの軽薄なアウルムがこれから先もルキウスと会うのかと思うと、どうしてもっと早くにアウルムの存在を察知し報告出来なかったのかと臍を噛むしかなかった。

 内省しているシスティナに気がついたのか、ルキウスはせめて少しばかり溜飲を下げてもらおうと妥協案を提示した。

 

「そんなにアウルム殿を敵視するのならシスティナ、君が目を光らせてくれれば良いじゃないか。私としても君が護ってくれるのなら安心できる」

「……勿体ないお言葉です」

 

 朗々と語るルキウスとしても、言葉通りの警戒をしているわけではないのだろう。微塵も焦りや恐怖などの負の面を見せない涼風のような顔貌が、それを物語っている。あるいは、警戒にも値しないと評価しているのか。どちらにしろシスティナには同じ事だった。

 何であれ彼女は護るだけだ。彼の望みを叶えるために、その障害となるものから守り通すだけ。

 この身に立てた誓いを胸に瞳に炎を灯すと、書き物を終えたのかルキウスが羽ペンをペン立てへと静かに置いた。

 

「さて、それでは王城へと向かおう。今夜はジーク殿との会談もある、忙しくなるぞ」

「登城の準備は既に終えていますので、いつでも出発出来ます」

「ありがとう」

 

 微笑んでルキウスが立ち上がったその時、屋敷内の何処からか鈴の音が響いてきた。同時にルキウスの表情が硬直し、伏し目がちになった。

 

「……間を考えないお方だ」

「ルキウス様……」

 

 小さく嘆息するとルキウスが出口とは別の方向へと向かって歩き出す。

 鈴の音が鳴る方へと向かう彼の足取りは平時よりも重たげで、まるで鉄球でも引きずっているかのように見えて、システィナは己の無力さ、不甲斐なさに嘆き奥歯を食いしばる事しか出来なかった。

 部屋から出たルキウスを見送る形となり、手持無沙汰となったシスティナは、今夜も訪れる不蝕金鎖の頭であるジークとの会談の事を考える事にした。現状、ルキウスの助けとなるにはこの問題をいち早く解決する事が、一番の近道になると考えて。

 いまルキウスとジークは牢獄の麻薬問題を解決するために協力し合っている。その為にも麻薬を捌く風錆は在ってはならないと考える不蝕金鎖と、その背景に居る有力貴族の裏取りをする為にシスティナとルキウスは動いている。既にシスティナとルキウスはこの貴族が誰であるのか、予想はついているのだが、ついているからこそ公に風錆を粛清する事が出来ないでいた。故に不蝕金鎖の協力は必要不可欠なのだが、代表のジークに着いてきた護衛の男、アウルムの存在がシスティナの本能に警告の信号を送った。

 あの男は危険だと思った。思ってしまった。

 一見すれば害の少なそうな、牢獄に限らず何処にでも居そうな軽薄で浅慮な男なのに、どうしてだかシスティナには見知った人物と同じ気配を感じたのだ。あの血の気が失せたような肌に、血溜まりに浮かぶ獰猛な瞳を嵌めて、他者の命を啜る狂犬染みた口の女に似ていると。

 あまりに突拍子もない直観故にルキウスには言えなかった。自分自身、そこまで穿ってアウルムを見たつもりはないのだが、それを抜きにしてもどういうわけだか彼とは相いれないと感じている。だからこそ、システィナはより一層警戒を強めて彼を護ろうと固く決意した。罷り間違って、アウルムが剣を向けてきた時にいつでも即応出来るように。

 しばらくしてルキウスが戻ってきた時、彼は“いつも”のように疲労と憔悴の色が覗えて、胸が痛んだが登城を見送るわけにはいかず、そのまま馬車へと乗り込んだ。ルキウスが乗ったのを確認した後にシスティナも乗り込もうとして、そこでルキウスの血の気が薄くなった口が開いた。

 

「すまないが、君は先に詰所へと言ってフィオネ副隊長に伝言を頼まれてくれないか。

 不蝕金鎖のカイムが本日そっちへと訪れるのと、加えて彼に協力するようにも」

「承知しました」

 

 装具に繋がれた馬が嘶き、馬車が発車した。ルキウスを乗せて進む先は権謀術数が犇めく舌禍の城。そう遠くない未来の障害へと視線を投げて、システィナは物憂げな表情を浮かべた。

 通り雨のように去来した感傷をやり過ごして、システィナは受けた命令を遂行すべく下層と牢獄を高く隔てる関所に向かっていった。どうしてだか黒羽事件に関してやけに尽力する部下の少女を思い浮かべなら。

 

 

 ※

 

 

「大変ですお頭ッ! 市場がッ!」

 

 不蝕金鎖の構成員がシマでの被害が出たと報告してきたのは、アウルムがリリウムにあるジークの部屋のソファーで目覚めた朝だった。

 結局、一人であの広い家に居ても落ち着かず、どうせリリウムに来ることになるのだからと面倒を省いたアウルムは、デカい面をしてボスの部屋で眠りこけていた。この事にジークは反対しなかった。なんせ最高の護衛が夜もついてくれるというのだから。

 夜半の間に不穏な気配も物音もしなかった為に熟睡出来たは良いが、部下の血相を掻いた報告で叩き起こされた結果になったアウルムは、まだ冷めぬ眠気からか、それとも起き抜け故か開ききっていない半眼で飛んで這入ってきた部下を見据えた。

 

「風錆か?」

「あ、アウルムさん、はい奴らの手です。やられましたお頭」

 

 まさかアウルムが居るとは思わなかったらしく、唐突に向けられた問い詰めに部下の男は一度喉を詰まらせたようにしてから答え、奥にある定位置の机に着いて脚を机上へと投げ出しているジークへと汗の滲んだ顔を向けた。

 

「場所は?」

「へい、黒黴通りの商店を数件。死人や怪我人は居ませんが、売りモンや場を荒らされて……いまオズさんが後始末に尽力してます」

「やられたな」

 

 唸るような声で語るアウルムに、ジークは苦い顔で葉巻の入った箱を開いた。

 

「ご苦労だった、お前はそのままオズの応援に戻ってくれ」

「分かりましたっ、失礼します」

 

 吐息交じりの返答の後に踵を返して駆けていった部下を視線で見送り、ジークはナイフで吸い口を作った葉巻を咥えて燐寸を擦った。

 懸念した通り、風錆の嫌がらせという催促が始まったのだ。

 

「アウル、お前はどう見る?」

「そうだな……気分を変えたい、一本貰ってもいいか? 切らしちまった」

「ほら、好きなだけ吸っていいぞ」

 

 脚を降ろして突き出された葉巻の箱を見て、アウルムは遠慮ない手つきで一本だけ掴み取り目を瞠らせた。

 

「上層の上物じゃないかこれ。相変わらず、贅沢な舌をお持ちですなお頭」

「贅沢に育てられたからな」

 

 冗談を言い合うぐらいには余裕があるらしい。アウルムは葉巻を咥え火を灯し、口腔に広がる紫煙の味を咀嚼するようにして吐き出す。香りが鼻腔を通り抜けるのを堪能しながら、この工程を経てアウルムの思考や人格が凍てついていく。

 より鋭く冴え、氷のように冷静で合理的な判断を下せるように。

 

「地図を見せてくれ」

 

 一日振りに仕事の顔になったアウルムは、言われてジークが机の上に広げた地図を注視する。縦横無尽に眼球が忙しなく動き、常に立てかけられているペンを手に取り、数か所に印を付けていった。

 どこまで被害が拡大する恐れがあるのか、ジークは増えていく印を気が萎えたような眼差しで見つめた。

 

「黒黴通りだけじゃなく、風錆の縄張りと接している区域は軒並み危うい……か」

「どうせ踏み荒らしても奴らには得以上に損が無い、やらなくてもいいがやらない手はない、そういう手段だこれは。よって最悪の場合、商店は軒並み標的になってもおかしくはない」

「勤労精神の低い事を祈るしかねえか」

「クスリのあがりで荒稼ぎするような連中だ。時間と血の気が余ってると思った方がいいだろ」

 

 報告はまだ一件に留まっているものの、これは始まりに過ぎないとアウルムは断じていた。

 被害に遭った縄張りの民衆は思うだろう。不蝕金鎖も風錆には敵わない、そろそろ潮時なのではと。有事の際に護る事を契約に彼らは不蝕金鎖に一定額を決まった日に毎回納めている。みかじめ料を納めているにも拘らず、このような被害に遭ってしまうのは契約違反だ。信用を一度でも下げれば取り戻すのは難しい。風錆のやり口は確実な一手としてこっちの勢力を削ぎ落しに来たのだ。

 現状、ジークの策とやら意外に方法がない以上、不蝕金鎖はこの“嫌がらせ”を耐えしのぐしかないのか。にわかに騒がしくなり始めた牢獄の景色を窓から眺め、アウルムは咥えていた葉巻を手に持ち直した。

 

「このままだんまり決め込んでると、“外”だけじゃなく“中”まで煩くなるぞ」

「わかってる、準備が終わるまでの辛抱だ。あいつらには悪いが、確実にベルナドを叩けるって確信の下でなきゃ動かせない」

 

 敵の首魁は狡猾で用心深い。昔は不蝕金鎖の副頭を何年もやってきた男だ、その経験と持ち前の嗅覚は侮れない。ジークもこれを理解しているからこそ、慎重になっているのだろう。

 二人は穴が開くほど地図を眺めていると、扉が再び来訪者を連れて開いた。

 

「……遅かったか?」

「いや、こっちが早すぎたんだ」

 

 訪れるなり室内に漂う空気を敏感に察知したカイムの言葉に、ジークが返した。遅くはない、そう思ったよりも早すぎたのだ。

 

「顔色が良くないな、睡眠はとったのか?」

「いやあまり、エリスの事で少しな。ティアを取り戻すまでの、一先ずの間だけ一緒に住む事にしたんだが、どうにも意見が食い違ってな」

「そうか」

 

 触らぬエリスに祟り無し、とでも思っているのかアウルムはそれ以上カイムから聞き出そうとは思わなかった。余計な口を挿まない方が合理的だと、葉巻を燻らすアウルムは判断したのだ。

 

「まっ、気分転換には丁度いいタイミングだ。あんまり煮詰まっても答えは変わらんしな。座ってくれ、手短に話す」

 

 近い内訪れるだろう悪い報告を待つよりも、良い報告を作るための準備をしている方がよっぽど精神衛生上に良いと判じてジークはカイムをソファーに促した。

 アウルムは戸棚に寄りかかって黙っている。余計な口出しは不要と、凍てついた脳がそう判断したのだ。これからの話は一世一代の大博打の、その一欠片。されど決してないがしろに出来ない重要な案件なのだから。

 

「羽狩りの所に行ったら、数日後の羽つきの捜索に疫病街を指定してくれ。俺があらかじめそこに羽つきがいるという噂を流す。それも凶悪な組織に監禁されてるってな。

 正確な日時が決まるまで、カイムは違和感が無いように羽狩りと行動を共にしてくれ」

「疫病街……ベルナドの居る本拠地か。やる気だなジーク」

 

 スラムの一角を挟んだ先にある疫病街は、厳かに呟いたカイムの言う通り風錆の首魁ベルナドが居座っている本拠地だ。羽化病という謎の伝染病が発症した時、牢獄で一番羽つきを生み出したのがそこだった事からその名がついた。今でもそこに住んでいると羽化病に罹患してしまう可能性があると恐れる者は少なくない為に、人口は多くない。だからこそ、ベルナドは其処を利用しているのだろう。不特定多数の住民が少ない場所では、人に紛れる事も出来ないから。

 

「だがティアの救出を羽狩りに任せたらそのまま持ってかれるだろ。そこはどうするつもりだ?」

「そこらへんは、夜の逢引き相手に話を付けてある。一人見逃す代わりに、他の羽つきを見かけたりしたら羽狩りに知らせる事になったがな。とはいえ、これは前となんら変わりないな。“見つからなければ”知らせる事もない」

「そうか……すまない面倒をかけて」

「なぁに安いもんさ、これからもお前さんが頑張ってくれればいいだけの話だ」

 

 代償を重く受け止めたカイムに対して朗らかに笑うジークが一転して引き締まった顔を見せる。

 

「決行までにはまだ時間がある。毎日、朝と晩の二回ウチに来て報告を受けてくれ」

「わかった。なら俺はもう行ってくる」

「ああ、頼んだぞ。今回の策の出だしはお前にかかってる」

 

 踵を返したカイムが部屋を出たのを見届け、その足音が聞こえなくなるまで待った後に、ようやくアウルムの口が開いた。

 

「昔から、身内への甘さが抜けきらないな」

「なんのことだ?」

 

 おどけた口ぶりのジークは椅子の背もたれに上体を傾け天井を仰ぎ見る。明らかに惚けているのが分かって、アウルムは刃物の如き鋭い笑みを口元に刻み込んだ。

 

「ベルナドがいつまでも羽つきのティアを匿う確証もないだろ。最悪、バレたら羽狩りの介入を面倒に思って排除される。そこに考えが行かないお頭じゃないだろ」

 

 厳格に告げられたアウルムの言葉にジークは葉巻を咥えて沈黙を貫いた。

 お上と事を構える事をベルナドも良しとはしない筈。それは彼の背後にある貴族の影から推測が出来る。だからティアが羽つきだと発覚すれば、彼は殺すか逃がすのどちらかの手段を取るだろうと考えた。しかし逃がせば、ティアの身柄はこっちに確保されるのは明らか、これはベルナドが最も取りたくない手段の筈。一度逃がせばティアにその居場所と内情を吐かれる恐れがあるからだ。

 それなら殺すしかない――合理的に考えれば手元にあると思わせて殺した方が有益だろう。ただ、これはアウルムが考えうる可能性。決してベルナドがこれと同じ手段を取るとは限らない。

 ジークを殺したいベルナド。ベルナドを殺したいジーク。

 ベルナドの手にはティアとアイリス、それとガウが居る。これに対してこっちはアウルムとカイムが動けない。だからこそティアの存在を仄めかし羽狩りを利用して戦力の底上げをする。しかし、これに対策をしないベルナドじゃない。

 思った以上に大勢の思惑が錯綜している事をアウルムは面倒に思い始めた。

 全て諸共に背中にある大太刀で一閃出来れば苦労はない――アウルムが剣呑な考えを思い浮かべながら、葉巻の煙を燻らしていると、ジークは天井から視線を外して再び机と向き合った。

 

「お前が言う可能性は確かにある。だが、俺にはそうならない確信があるんだよ」

「そうかお頭がそう言うなら俺はそれに従おう」

「なんだ、理由を訊かないのか?」

 

 てっきりそうされるのだと思っていたのかジークは拍子抜けしたように問うた。

 

「そういうのは俺の仕事じゃない。オズの仕事だ。必要以上の仕事を抱え込むのは面倒だ」

「ははは、こうなってもアウルムは変わらず怠け癖が抜けないな」

「やれる事、やるべき事を明確に分けて考えているだけだ」

「なら、そのやれる事をやってもらってもいいか?」

 

 引き締まったボスの声にアウルムが胡乱な視線を送る。

 やれる事をやる。そういつだって彼はそれだけをやり続けて今日(こんにち)まで生き残ってきた。ならば一考するまでもなく、返事は決まっている。

 

「その為に俺がいる。やってやれない事はない」

「頼もしいね、惚れちまいそうだ」

「ケツは貸さんぞ」

 

 ふと、アウルムは昔まだジークがカイムと出会って間もない頃に、カイムの事を“カマ野郎”と呼んでいたのを思い出した。男娼になる寸前だった彼の事をそう揶揄していた時代を、なんとなくアウルムは懐かしく思った。

 あの頃はまだベルナドが裏切るとは微塵も思っていなかっただけに。

 

「要らんよ。それで、仕事の内容なんだが……」

「…………」

 

 固唾を呑んでアウルムはジークの言葉を待つ。間を溜められ、ジークの口から吐き出される紫煙が二人の間でゆらゆらと雲を作る。やがて雲が狼煙のように上へと昇って行き、薄れていくのを見て、それは告げられた。

 

「今日の日中は一歩も外を出歩くな。ずっとこの部屋に居ろ」

「……さっきのが冗談に聞こえなくなるな」

 

 まさか風錆が卸している麻薬でも誤って吸ってしまったのだろうか。アウルムは真剣に告げたジークに冷めた眼差しを向けるも、肝心の相手は気にしたそぶりも見せない至極真面目な面持ちだ。

 

「そうじゃない、風錆の目があってもおかしくない今、カイムとアウルの二人が同時に出歩くのは拙い。だからこそ、寧ろアウルはここに釘付けになってると、間者に思わせる。……今日の所はな」

「なるほど、あえて目に見せて欺くわけだ」

「本当の仕事は明日だ――ベルナドの本拠地を洗え。身辺から何から何まで全てを洗い出してくれ」

 

 雲間に隠れた月を見つける為に邪魔な雲を取り払えと、そうアウルムには聞こえた。元々有している情報でも疫病街の事に関しては、これまで余計な抗争の火種になりかねないのでジークはアウルムに命令しなかった。しかし、事はもう引き下がることが出来ない域にまで進んでしまった以上、無為無策のまま挑むわけにもいかない。ジークはこれを理解しているからこそ、今になってようやく伝家の宝刀を抜く事にしたのだろう。

 

「仕入れてきた情報の度合いによって、どの手を使うかが決まる。カイムが開戦の初手に重要な要因なら、アウルの仕事は根幹を支えるのに重要なものになる。この意味が、分かるな」

「愚問だ。何であろうと、俺はお頭の障害を斬り伏せるだけだ」

「なら事が全て片付いたらヴィノレタで酒宴でもやるとしよう」

「勿論、お頭が全部持ってくれるんだよな?」

「当然だろ。じゃなきゃ器が知れる」

 

 紫煙を吹かしながら二人は不敵な笑みを浮かべる。

 恐れる者などいないのだと、一笑に伏す牢獄の王と呼ばれた者の息子は、いま全ての過去を清算しようと立ち上がった。

 恐れる必要などないのだと、一刀に切り伏せる牢獄の暗殺者は、がらんどうな瞳を眼窩に嵌めたまま背中にある大太刀の重みを噛み締めた。

 

 

 ※

 

 

 アイリスとティアが風錆に攫われてから陽の光を浴びることはなかった。今がいつなのか、朝なのか夜なのかも分からない。というのもアイリスが監禁される場所に選ばれたのは、窓一つない四方を冷たい壁に囲まれた一室だからだ。

 時間から、現実から隔離されたかのような部屋の中で一人、アイリスは足首を鎖に繋がれていた。傍にティアの姿はなく、たった一人。ティアと顔を合わせたのは目覚めて間もなくベルナドと対面したのを最後に、一度も顔も会わせてなければ会話も交わしていない。二人は別々の場所に移されて監禁されていたのだ。

 ベルナドは思った以上に紳士的な対応を心がけているのか、アイリスは未だに慰み者にはなっていなかった。強いて挙げるとすれば、時折気が向いた時のみに訪れる狂犬のような女による戯れの暴力ぐらいだった。それ以外には食事も最低限ではあるが出るし、今すぐ命の危険があると言うわけでもない。だけど、アイリスには安心出来る時間など一瞬もなかった。

 だってここはアウルムと住んでいる家じゃない。それどころか、アウルムと敵対している風錆のアジトの一つなのだ。落ち着けるわけがない。

 極度の緊張状態からか、それとも室内の気温の低さゆえかアイリスの身体が震え、下腹部から耐え難い尿意が催し始める。

 

「……っ」

 

 慣れた感覚ではあるが、これがこみ上げるたびにアイリスは唯一の出入り口である扉を、視線一つで殺さんばかりの目つきを向ける。小さな格子窓が付いている扉の向こうには、ベルナドの部下である風錆の構成員の後頭部が見える。門番のつもりなのだろうが、今この時の彼女にとっては最悪の豚に成り下がる。

 これ以上の我慢が出来ないという寸前まで尿意を耐えていたアイリスは、足音を殺して部屋の隅へと静かに移動し始めた。扉から最も遠い位置に置いてあるソレは、せめてものアイリスの抵抗の証だった。

 “見られる”のなんて冗談じゃない――そう思いながら三倍以上の時間をかけて慎重に移動していたアイリスの背後から、望まぬ金属音が発生した。

 

「ちっ――!?」

 

 彼女は忘れていたわけではなかった。ただ、慎重さが足りなかったわけでもない。単純に“足に鎖を繋がれた”状態で音を出さずに歩く事が出来ないだけだ。

 

「おっ、アイリスゥ、出したいなら出したいと、口で言ってくれなきゃ困るぜ。俺抜きでおっぱじめるなんて水臭いじゃねえか。いや、臭ェのはこれから出る代物かッ! ははははっ!」

「…………糞野郎」

「お前の糞も拝んだ俺に言う言葉がそれか? ああッ!?」

 

 扉を叩く大きな音が室内に反響し、反射的に、必要以上に身体に力が入ってしまったアイリスは肩をビクつかせた後……

 

「あ、ぁあ……」

 

 力が抜けて目的地の桶に辿り着く間もなくその場に座り込んでしまう。彼女の身体を中心に微かな水音と共に、波紋のように液体が漏れ出て行く。――間に合わなかった。これ以上ない屈辱に、アイリスの双眸に涙が滲み出る。が、持ち前の性格がそれを断固として拒絶し、押し留めた。

 当然、これを見逃す男ではなかった。扉の向こうから歓声が上がった。

 

「良いぞォアイリス! 最高だっ、ああ本当に最高の女だお前は! 後で俺がその床を掃除してやるからな……勿論、舌を使ってなぁ!」

「……」

「おいおいだんまりか? 少しはこっちに顔を向けて『汚してしまい申し訳ありませんでした』ぐらいのこと言えないのかよ」

 

 男の好む反応を見せないアイリスが面白くないのか、再び叩かれた扉の音は先程よりも大きかった。それでも、アイリスが弱みを見せる事はない。

 

「自分でその粗末にぶら下がってるのを噛み切ってくたばれ、変態」

 

 この程度の屈辱、思い返してみればなんてこともない。リリウムで娼婦をやっていた自分が、今更何を恥じる必要があると言うのだろうか。扉の向こう側で野次を飛ばすあの男も、単なる豚だと思えば悔しくもなんともない。アウルムへの想いと立ち場を自覚こそすれば、アイリスは何も怖くないと再確認した。

 

「クソ餓鬼が……その減らず口、いつまで叩けるか試してやる!」

 

 錠の開く音がした。振り返ってみれば顔を真っ赤にした男が開いた扉の前に立ちはだかっていた。

 男の手が自身の下半身へと伸び、ズボンを脱ぎ捨てようとしている。

 

「調子に乗りやがって、ベルナドさんに手ェ出すなって言われたが、もう我慢ならねぇ。犯ってやる、犯ってやるよアイリスゥ」

「…………」

 

 まろび出た物に目もくれず、アイリスは冷ややかな、不退転の眼差しを男の顔に向けたまま揺らがない。決して媚びる事も希う事もしない、反逆の目つきだ。

 向けられた視線に触発されて男が吠える――その瞬間、遠吠えを残して男の頭部が首から転げ落ちた。転がり落ちた頭がアイリスの許まで行き、開かれたままの口に水溜りが触れた。最後に願いが叶った男の代償は、命で支払われた。

 

「いけないねぇ、手を出すなと言われて貧相なモン出す馬鹿は生かしちゃおけないよ。なあ、あんたもそう思うだろ?」

「……ガウ」

 

 男の身体から吹き出た血溜まりと、漏れ出てしまった尿が交じり合った上を歩き、血に濡れたナイフを携えたガウが歩み寄る。剣呑な雰囲気を孕んだ彼女は残虐な微笑みを絶やさない。

 最早アイリスは死んだ男の事など意識の外へと行っていた。目の前の殺人鬼から発せられる威圧感に、他意を持たせる余裕を与えないのだ。

 ガウはナイフを軽く振り、付着した穢れた血液を払うと座り込んだまま見上げるアイリスを見下ろした。

 

「いい恰好してるじゃないか、そうやってアウルムの事も誘惑してたのかい? 妬けるねぇ、あたしもあやかりたいもんだ、よっ!」

「あぐっ……!」

 

 足元の邪魔な小石を退かすかの如く腹部を蹴られてアイリスの身体が横向きに転がる。手加減されているのか、骨に異常を感じる痛みではないが我慢出来るほどでもなく、思わず呻き声が口から漏れ出てしまった。

 弱者の悲鳴に気を良くしたのか、ガウは愉快そうに笑いながら蹲るアイリスの背中を踏みつけた。

 

「かはぁ、っ!」

「ホント解せないよ、あいつがあんたみたいな弱々しい女を囲うなんてね。あんな最高の殺しを見せてくれた男の趣味とは思えないよ」

「ば、ババアは……趣味じゃ、ない」

 

 アイリスの抗弁にますます興が乗った様子のガウが脚にかける体重を増やした。

 

「良く回る口じゃないか。いいよ、あたしも退屈しなくて済むからね。アウルムが来るまでは遊んであげるよ」

「アウ、ル……は、来、ない」

「来るさ、絶対に。あたしが居るとあいつは分かってるからね、来ないわけがないのさ。

 楽しみだよ、あんたを餌に来たあいつと殺りあうのは、きっと最高の逢瀬になるよ。あははは、想像するだけで躰が熱くなってくるよ!」

 

 高笑いをあげるガウの狂態にアウルムに彼女がここまで執着する理由が解せない。アイリスは這いつくばった姿勢のままベルナドに言われた言葉を思い出す。

 

『アウルム・アーラという男はお前が知ってるような怠け者でお祭り好きな間抜けじゃない。それは表向きの姿、隠れ蓑だ。本性は冷酷にして残忍な、腐肉を食い漁る薄汚い暗殺者だよ』

『……嘘』

『嘘なもんか、俺はお前が母親の腹ん中にも居ない頃からあそこに居たんだ。勿論奴の事もお前以上によく知っている』

『……』

『あいつはな、先代が不蝕金鎖を盤石な地位にまで押し上げた影の功労者でもある。邪魔する組織や薄汚い手口で荒稼ぎする奴、不蝕金鎖に邪魔な奴らを先代の命で根こそぎ殺してきた。女子供も問わず、どんな人間だって殺してきた、見境のないイカれた男だよ。

 “生まれた意味”ってのを知りたいが為だけに殺しを続けてるような奴だ。他人を殺して、時に生かして安堵した所を殺して絶望へと落とし、その刹那の感情の発露を啜る奴だ。どうだ、麻薬でぶっ飛んだ廃人より頭がおかしいとしか思えないだろ』

『アウルムはおかしくない』

『おかしいさ。アウルムに限らず、俺もお前も……牢獄に生きる人間は誰しもどこかしらイカれてんだよ。

 お前はそんな男に身請けされたんだ。いつ戯れに殺されるか分からない男にな』

『黙れ成金』

『ふんっ、信じられないか。それもいい、だが一緒に生活してたなら思い当たる節もあるだろ。時折見せるあいつの、普段とはかけ離れた別人のように壊れた狂人の一面を』

『……』

『ふふ、ははははっ! どんな気まぐれで女を買ったかと思えば、なんてことはない、ただの性欲処理の為か。くくくっ、傑作だ』

 

 信じられるわけがない。そう頭で否定しつつも、アイリスにはベルナドの言った心当たりが確かにあった。思い当たってしまった。

 最後に顔を合わせたあの夜。ガウに攫われる直前の、矢文を見たときのアウルムは、確かにこれまで見た事がない顔と態度だった。まるで初めから違う人間だったかのように。

 でも、それでも――アイリスは例えアウルムが暗殺者だったところで態度を変えるつもりはない。未だに信じられない事の方が大きいのは確かだ。アイリスの知るアウルムとは怠け者でお調子者で、こんな小さな女一人に一喜一憂するような、馬鹿で優しい男なんだ。仮にまやかしだからといって否定できるわけもない。なんであれ、自分はもうアウルムのモノなのだから。

 だから――ここに来てはいけない。

 

「アウルは、来ない」

「まだ言うのかい。もういいよ、飽きた」

 

 ふっ、と背中に掛かっていた重圧からアイリスは解放された。

 未だに疼痛が治まらぬ腹部を気にしながら上体を上げてガウを見やる。彼女はつまらなそうな面持ちでアイリスを睥睨している。

 

「ここで殺しても良いんだけど、それじゃあ面白くない。あんたはアウルムが迎えに来た時に、一番最高潮の時に殺してやるよ」

「無駄……アウルは来ない」

 

 返事は無かった。ガウはアイリスに背を向けると崩折れた男の死体を蹴り飛ばしながら部屋を出て行った。当然、後に残った血溜まりや排泄物はそのままだ。

 アイリスには耐えられないほど不衛生というわけでもなく、寧ろ牢獄では当たり前にあるモノが例外なく自分にも降りかかっただけだ、と悲観する事もなく汚れていない布団に横たわった。血臭が漂い、鼻に付き始めた頃、アイリスは独り寝をどこか心細く感じながら瞼を閉じた。

 暗くなった視界に映るのは、陽だまりに佇むアイリスとアウルムの他に、クローディアやリサ、それとティアが一緒に食事をしている光景だった。

 

 

 ※

 

 

 縄張りを荒らされたという報告はひっきりなしに訪れ、気がついた頃にはもう夕方もとっくに過ぎて空は夜へと変わっていた。

 相変わらず飛んでくる報告は被害の状況を知らせるばかりか、部下たちの不満の声も時折付属品の如く付いてきた。曰く、なぜ今すぐにでも風錆へと責めないのか、等に似た系統の苦言が出たりした。中でも、サイという男はそれを最も強く主張していた。

 

「どうしてですかジークさんっ。今すぐにでもベルナドの野郎をぶっ殺しに行きましょう! 頭が声をかければ、不蝕金鎖全員が動きます。そうすれば、ベルナドみてぇな糞野郎なんてあっという間に――」

「サイ……お前、いつからお頭に意見できるほど偉くなったんだ?」

「あ、アウルムさん……」

「答えろ。サイ」

 

 有無を言わさぬ威圧感のあるアウルムの追求に、一気呵成に伝えきろうとした言葉を遮られる。

 さっきまでソファーで寝転んで怠けていた男が、なにを言うのか。しかしサイの額には汗が滲み出ていた。

 

「あ、アウルムさんだって、ベルナドを殺してやりたい筈でしょう? あんたは身請けした女を取られて」

「サイ――質問の答えになってないぞ」

「いいんだアウル、よせ」

 

 密度を濃くしたアウルムの声をジークが遮った。

 

「ジークさん、俺ァ悔しいっす。このままベルナドに良いようにされてちゃ、手下たちもあなたが臆病風に吹かれたなんて言い出す始末だ。そんなわけないだろ馬鹿やろうって言いかえしたいのに、このままじゃそれも出来ねえよ」

「サイ……」

 

 サイは血気盛んで情に篤い男だ。だから麻薬を放流するベルナドを許せないのだろう。彼は自分の手下にも突き上げをくらいながらも、ジークを庇う事を優先するほどだ。そんな彼にここまで言わせて黙っているようなジークではない。

 

「必ず、お前たちが納得する場を俺が用意してやる。だから、それまで絶対に早まるんじゃない」

 

 部下を慮るが故のジークの言葉は、果たしてサイの胸を打ち、やぶれかぶれに行動する衝動に杭を打ちつけるのに成功した。なによりも憧れた男が、正面切って言ってくれたのだ。これに対してどうして反駁など出来ようか。しよう者が居たなら、そいつはすぐさまにサイの仕置きが待っているだろう。

 それほどまでに、ジークはサイに信頼されていた。

 目を輝かせ、内に炎を滾らせたサイが部屋を出て行き、ジークは深く溜息をついてアウルムを見やった。

 

「あまり部下を苛めるなよ?」

「そんなつもりじゃないさ、頭に噛みつく部下を前に何もしないでいたら示しがつかないだろ。オズが居たら同じ事を言ったさ」

「まあそうだろうが、っとアウル逢引きの時間だ」

 

 下層までの小旅行の時間だ。ジークが席を立ったのを合図に、アウルムもソファーから腰を上げて立ち上がる。

 

「上等な女が待ってる家までか?」

「ああ、今夜はもうここに来る人間は居ない。お前が機嫌悪そうに寝てる、とでも言えば誰も近寄らないだろ」

「人を危険人物みたいに言ってくれる」

「違うのか?」

「違いない」

 

 笑い合い、二人は部屋を出た。館内は人払いが済んでいるのか客の姿どころか不蝕金鎖の構成員すら見当たらない。

 階段を降りていると、リサとクローディアが地階に佇んで二人を見上げていた。不安そうな面持ちを隠せないリサと、心を隠す術に長けたクローディアですら冴えない表情をしている。

 

「二人してどうした、部屋に虫でも湧いたか?」

「わけないだろ、湧いたらもっと騒がしくなる」

 

 軽口を吐きながら笑うアウルムを一蹴してジークが心意を問おうと目を向けた。

 

「で、なんで部屋に戻ってないんだ? 今日はもう店じまいの筈だぞ」

「えーっとねボス、その……さ」

「こんな事、娼婦の(わたくし)たちが言うのも烏滸がましいとは思いますが。……どうかアイリスとティアさまを救って頂けませんか?」

 

 言葉が見つからないのか、それともクローディアの言うように烏滸がましく思っていたのか、歯切れの悪いリサに変わってクローディアが懇願した。

 アイリスを救ってほしい。元リリウムの娼婦だった彼女の身を案ずるのは――牢獄の娼婦らしくないとも思えるかもしれないが――当然の事なのだろう。ましてや、彼女たちはアイリスの事を妹と慕っていたのだから。

 

「私に出来る事でしたら何でもします。これまで以上のお客を取れとおっしゃるなら取ります、ですから……どうか、あの子たちを……」

「あたしからもお願いっ! あたしバカだけど、人気もそんなにだけど、でも頑張るからっ。だから二人を助けて!」

 

 慇懃に礼を尽くすクローディアだが、焦りが隠し切れずに滲み出ていた。彼女が頭を下げた時、曲線が美しい方が震えているのを、アウルムもジークも見逃さなかった。

 必死なクローディアに触発されたリサもまた、何を言いたいのか自分でも分からなくなりながら、段々と涙交じりの声で必死に頭を下げた。

 必死だった。まさに二人の娼婦は自らの“家族”を守りたい一心で己が身を差し出そうと言うのだ。なんと美しき献身か。なんと貴き家族愛か。快楽と尊厳を切り売りする娼館で、いま二人の決意の結晶が形となって現れた瞬間だった。

 目を丸くしているアウルムの横で、ジークが二人の頭頂部を見下ろしながら失笑し、雰囲気を弛緩させた。

 

「どうだアウル、ウチには――上等な女が多いだろ」

「まったくだ。思わず惚れそうになった」

 

 最近は何かと物騒で余裕のない時間が多かったせいか、笑いの場というのを殊更貴重に思うようになっていた二人は柔和な笑みを浮かべ、静かに笑った。何事かと思いリサが頭を上げる。眼前には、リサが想像していた光景とは全く違ったものが映っていた。思わず、目端に浮かぶ涙が渇ききってしまう程に。

 決然とした風情で厳しい眼差しをアウルムへと向けるジークが口を開く。

 

「不蝕金鎖の頭として命令する。――二人の女の為に、二人の女を助けろ」

 

 厳命の声にクローディアも顔を上げると、娼婦たちの中で彼女だけが知っている冷酷な相貌で重々しく頷くアウルムが居た。目を疑った途端に、いつもの根明な軽い態度に戻ったのを見て気のせいだろうと思ったのだろう、クローディアは思わず涙が溢れそうになった。なぜなら、

 

「承知した。俺の全てを使い切ってでも二人は助ける」

 

 不敵に笑うこの男はどうしてだか失敗するようには思えないのだ。

 

「うーっ、ボズぅ~アウルぅ~! ありがとーッ!」

 

 アイリスとティアを助けると、そう断言したアウルムとジークに感激したのか涙声のままのリサが飛びついた。クローディアは鬱陶しそうにするアウルムと、愉快そうに笑うジークを微笑ましそうに眺めながら、微かに頬を流れた涙の跡を拭った。

 

 

 下層での密談は滞りなく進んでいる証拠か、ジークとルキウスが居る家は静寂に包まれている。

 密会の場となっている家の警備として二人の護衛が外に出て立っているが、両者はこの待っている時間をどう使うかで、まったく両極端な態度に出ていた。

 

「ってわけだから、俺としてはこの一件が解決したら、もっと上等な酒が多く牢獄にも入ってくれると嬉しいんだよね」

「……」

「そりゃ火酒も悪くない。葡萄酒も美味いんだが、あるんだろ上層にはもっと凄い酒が」

「…………」

「隠しても得は無いと思うんだがな、とっておきの酒を隠してるならぜひその味を俺も味わいたいもんだ。どう? なにか持ってない?」

「………………」

 

 駄弁を弄するアウルムと徹底して無関心を貫き続けるシスティナ。この対立は二人が部屋を出た時から今の今までずっと続いていた。

 時折顔色を窺うようにシスティナの横顔を見るアウルムだが、彼女はまるで初めから自分しかいないかのように視線を前へと向けたまま微動だにしない。単なる軟派行為であれば、ここまでされて落ち込まない男はいないものだが、生憎とアウルムの目的は彼女を口説き落とす事じゃない。よっていくら居ない者として扱われようと、彼は気にした様子も見せずに語り続ける。

 

「牢獄にある酒ってさ、慣れない奴が飲んだら顔を真っ赤にしかねないぐらい乱暴な物が多くてね、そういう環境の場所だからなのかね。小細工の無い味ってもの好きなんだけど、最近は複雑に味が入り組んだ上層の酒の味が恋しくてね」

「……」

 

 反応はない。相変わらずシスティナは石像のように泰然としている。

 

「いつだったっけな、一回だけ飲んだ事があったんだよ。えーっと、ほら知らないか? 前に牢獄で起きた事件なんだけど、知らないかなぁ、羽狩りの人間なら知ってるよな。

 黒羽って羽つきが殺しまわってた時に、一度味わったんだよね……上層の酒を」

「…………」

「おっ、お嬢さんも興味ある感じだな。もしかしてこう見えて結構いける口か。なら話しは早い。

 何か持ってない? 上層にしかない酒」

「…………」

 

 頤が落ちるアウルムの頭が空っぽな目つきが、システィナの喉が唾を呑み込んだのを見逃さなかった。眼球が渇くのか、瞬きの時間も初めより明らかに長くなっている。呼吸の間隔がさっきよりも長く、深くなっている。

 睨んだ通りの反応に、アウルムの中で何かが形作られていく。と……石像だった彼女の時間がようやく進み始めたように、アウルムへと冷眼を向けた。

 

「いい加減、無視するのも疲れます。私たちは警護の為にここに居るんです、無駄なお喋りは控えて頂きたいものです。今すぐその軽薄な口を閉じなさい」

「ごめんごめん、ついお嬢さんの反応が面白くてつい」

「馴れ馴れしくしないで下さい、私は貴方と会話を楽しむつもりはありませんので」

 

 言い切ってまたもシスティナは石像へと戻った。

 あっさりとフラれたアウルムは素っ気ない態度の彼女に苦笑いを浮かべて、空を仰ぎ見た。下層から見上げる夜空の星は、牢獄から見るよりいくらか近く感じられる。頬を撫でる夜気も、牢獄特有の饐えた臭いもしない。唯一同じものがあるとしたら水ぐらいだろう。

 井戸から汲み上げる水は、どんな原理ゆえかその量に限界は存在せず、いくら汲み上げても枯れる事がない。これは聖イレーヌ教会の人間曰く、神の御使いたる天使様の御力なのだと言うが、真偽のほどはアウルムにはどうでもよかった。

 水が出るならそれでいい。そこに理由を求めるつもりは、ありのままを受け入れるアウルムにはないからだ。たとえ井戸が枯れたとしても、彼はそれも受け入れてしまうだろう。

 これ以上話しかけても反応らしい反応を見せる事はないだろうと、断固とした態度を貫くシスティナを盗み見て判じた頃、会議が終わったことを告げるように扉が軋み声をあげて開かれた。

 

「待たせたな。ちゃんと仲良くしてたか?」

「共通の趣味として酒の話題を出したんだが、素気無くフラれちまったよ。ちょっとショックだ」

「ほう、副官殿はいける口で?」

 

 真に受けたのか皮肉を理解してか判然としない笑みを浮かべて問うジークに、冗談の通じないシスティナは毅然とした態度を崩さない。

 

「この方の出まかせです。私はお酒は嗜みませんので」

「それは惜しい、何事も経験はしておくもんだぜお嬢さんや」

「……」

 

 横槍を入れたアウルムにシスティナは再び黙然とした。しかも今度は瞼までも閉じて完全に接触を断つようにしている。

 完璧に嫌われている様を見て、ジークは忍び笑いをした。

 

「諦めろアウル。副官殿はお前の事が心底嫌いらしいぞ」

「ほう、そうなのかシスティナ?」

「る、ルキウス様っ!?」

 

 扉の向こうから姿を見せたルキウスに、まさか聞いているとは思ってもみなかったのかシスティナは仮面が剥がれ落ちたように声を上ずらせた。というより、寧ろこの程度の動揺で済んでいる分、彼女の精神面の強さが覗える。

 雲間に見せた僅かな満月を見たような綻んだ笑みを浮かべるルキウスは、依然としてシスティナを見つめている。

 

「だとしたら残念だ。不蝕金鎖とは今後とも密な関係を築いていきたいと思っていたのだが」

「それは喜ばしい。しかし、副官殿がウチの人間を嫌ってるとなると悲しい事になりそうですな」

「残念だなぁ、システィナは俺の事が嫌いなのか。そりゃそうか、フラれたもんな俺」

「う、くっ……」

 

 いい歳の男三人に弄ばれたシスティナは、ルキウスの手前悔しそうな顔を作る事も出来ないのだろう。言葉を詰まらせることしか今の彼女には出来なかった。

 なるほど、ルキウスを使えばシスティナは鉄面皮じゃいられなるのか――自分が撒いた種に出た芽を観察して、アウルムはアプローチの仕方を考え直した。無論、彼は本気で彼女を口説き落とそうとは考えていない。

 何を言うべきか整理し終わったのか、意外に早く息を吹き返したシスティナの口からおためごかしが語られる。

 

「そんなことはありません。ただ、アウルム殿には私では勿体無いかと判断しただけです」

「ま、そうだよな。実際、あんたは俺の趣味じゃないし」

「……」

「そこらへんで終いにしてもらってもよろしいかな。見ての通り彼女は繊細なんだ」

 

 見るからに怒気を膨らませたシスティナを宥めて、ルキウスは事を傍観していたジークへと向き直った。

 

「それでは、また次回の夜に」

「ええ、それまでにはこちらも準備を終わらせておきます」

 

 家の中で交わされた会話の延長のような意味深な言葉を交わし、ルキウスはシスティナを連れて去って行った。

 

「俺たちも帰ろう。そろそろカイムがリリウムで待ちくたびれてるかもしれないからな」

「そうだな、暇つぶしも終わったし仕事に戻るか」

 

 下層を抜けて裏道へと出ると歩を進めるたびに星空が遠のくようにアウルムは感じた。この空の下のどこかで、アイリスもまた見上げているのだろうか。などと感傷的な考えを懐いている自分を自嘲していると、聞き耳を立てる者など居ないと判断したのだろう、ジークが秘密の話を切り出した。

 

「ルキウス卿の事だが、どうにも風錆の後ろに居る貴族に思い当たる節があるように思える」

「誰なのか検討が着いてるのに、あえて隠しているってことか」

「解せないのはそこだ。彼をして公に敵対出来ない理由でもあるのかもしれないな。

 最近、関所の衛兵が全員入れ替わったのは知ってるな。これまで通りそいつらにも鼻薬を効かせようとしてるんだが……どうにも反応が悪い」

 

 牢獄が生まれた当初は、秩序が無かったために無法地帯と化して治安もいま以上に悪かった。だからこそ取り締まるための衛兵も多く駐在していたのだが、不蝕金鎖が台頭した頃、秩序が生まれ始めて治安もある程度治まった事によりその数も減っていった。今では少数しか駐在していない衛兵だが、それでも不蝕金鎖は少なくない賄賂で手駒にしていた。しかし……

 

「効き目の悪い人間って事は、病気持ちじゃないか、もしくは別の病状を既に抱えてるって事になるな」

「ああ、もしかしたら始めから風錆側として送られてきた可能性もある。てことは、だ。(やっこ)さん、衛兵の人事を好きに動かせるだけ大きな権力を持ってるって事になる。

 ここで更に疑問なのが、ルキウス卿だ。どうしてそんな相手を敵に回すのか、勘定が合わないように俺には思えちまう」

 

 本当にルキウスが言ったように牢獄の現状に胸を痛めており、せめてもの贖罪に現体制を改革したいというのが果たして本当の動機なのか。仮に本当だとしよう。ルキウス卿は外見の年齢からしても大崩落が起きた際にはまだ子供の筈。ならば彼には、国の無為無策ゆえに生まれた牢獄に責任を感じる必要などないだろう。その上で重責を甘んじて背負うだけにとどまらず、牢獄に麻薬を流す有力貴族に敵対しようと言うのだ。なるほど、聖人君子とやらが存在したとすれば、間違いなく彼はそう呼ばれ憧憬の眼差しを一身に受けるだろう。

 しかし、アウルムが住んでいるのは牢獄だ。たんなる人並みの罪悪感と義侠心だけで背負っていいようなリスクじゃないのが当然だと理解している。これがジークには勘定が合わないと言うのだろう。得るものと賭けるものの天秤に釣り合いが取れていないのだ。

 

「確かにそうだな、どうにも裏がある気がしてならないな。

 キナ臭い感じがしたから、システィナに揺さぶりをかけてみたんだが……証拠も確証もないが、どうにも黒羽の件と今回の件が繋がってるような感じだった」

 

 ジークの眉間にいま以上の皺が寄って行った。深く思案している時の顔だ。アウルムは返答をまっていると、暫くして難しく紡がれた口が開かれた。

 

「黒羽の件と今回の貴族、それかオマケの麻薬が関係してるって事か。だからお前、あんな馬鹿みたいな口説き方してたのか。酒を隠語にするなんて、先代の影響でも受けたか」

「話題の選択はどうでもいいが、影響は少なからず受けたな。あれだけ長い時間傍に居たわけだし。

 じゃなくて、本題は別だ。そもそも防疫局が不蝕金鎖に首突っ込み始めたのは黒羽の頃だ。だからカマかけに黒羽を出してみたが、これにそれらしい“反応”を見せた。どうにも今回の件、どいつもこいつも企み事を後ろに抱えてやがる」

「どれが本物かなんて確証もない……在りもしない事実を見せて煙に巻こうって腹積もりか? まるで隠花の種を売りつけられた気分だ。ま、俺としちゃ牢獄を改善しようと尽力してくれればそれでいいさ。貴族様たちが崖の上で喧嘩しあおうと、こっちには関係ない」

 

 下層よりも上の区域である上層で何があろうと、牢獄の体勢が激変する事はないだろう。なんであれ、自分らは自分らに出来る事をやるしかない。そしていま出来る事と言えば、風錆を潰して、ベルナドを殺す事に他ならない。

 裏道を抜けたアウルムは、尾行の少ない道を選んで進みながら風錆の縄張りに背を向け、リリウムへと帰っていった。

 アイリスとティアを助けろと命令された以上、アウルムが逆らうことはない。

 脳裏にガウの面影が過ぎるが、仕事を優先させるなら、彼女とはなるべく顔を合わせない方が良いだろう。

 背負ったニホントウが小さく音を立てたような気がした。




作中の《隠花の種》という言葉は造語です。

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