牢獄の暗殺者   作:琥珀兎

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第十五話:宣戦布告

 目覚める事に楽しみを懐くようになったのはつい最近になってから。

 娼館に居た頃はいつだって、目覚めれば感情が沈んでいくのを感じていた。眼前に広がる薄暗いベッドの木目が、まるで他人の視線のように見えて何度も目を逸らしていた。きっと一生このままなのだろうと、そう諦めていた。

 現実的に考えて自分のような女を身請けする物好きは居ない、そう思っていた。口は悪いし身体は真っ平らで貧相極まりない。それが好きという物好きも居るには居るが、それも牢獄という稀有な環境下で娼館内であるからこその興奮材料なのだろう。

 香辛料はそれ単体では味覚に大した恩恵をもたらさない。しかし料理に混ぜ合わせると違った効果を発揮させ、相乗効果をもたらすときもある。実際、牢獄の料理の殆どは食材の質の悪さを誤魔化すように香辛料がふんだんに使われている。つまり自分はそう言った存在なのだ。

 一人では興奮材料を持たないが、リサやクローディアが並んで比較され始めて意味を持ち始めるのだと。そう思っていた。

 諦観はしかし、一人の男によって打ち壊された。

 今では目覚めた瞬間に見る木目も気にならない。隣に眠る彼の寝顔を見るのに忙しいのだから。

 

「……んぅ」

 

 いつもとは違った寝起き。固い床にでも横になっていたかのように、体の節々が微かに痛む。何より熟睡出来たという実感がない。

 朝は弱い方ではない、だからこれほどの気だるさを味わうのは久方ぶりである。

 寝起きで漠然とした意識の中視線を横に動かすと、そこで眠るのはアウルムではなく羽つきの少女、ティアだった。何故彼女が此処に居るのだろう? そう疑問を懐いて、徐々に意識が鮮明になり始めたとき理解した。昨晩は彼女の住む家に泊まったのだと。だから彼女が隣で眠っていても何ら問題は無い筈なのに、雲が晴れたように光りが差した意識がそれを否定する。

 何かをわすれている――と。

 急かされるように自分が何処に寝ているのかを確認して、何故こんなにも心がざわついているのか、その理由に考えが至り――アイリスは弾けるように起き上がった。

 眠気など初めから無かったかのように。

 

「お目覚めのようだな」

 

 鼓膜に張り付くような粘着質な声色で名前を呼んだ男は、牢獄内では滅多に見られない豪奢な椅子に背中を預け、アイリスを見下すようにして座っていた。

 両手に付けられた金銀宝石の輝きを放つ指輪や他の身体にも飾られた装飾品は、それらの価値をあまり良く知らないアイリスをもってしても高価である事が理解出来た。そしてもみあげに生え揃った髭とアッシュブロンドの髪を後ろに流す髪型。なによりアイリスを睥睨する双眸がどこまでも打算的に見えてしまうこの男を、アイリスは直接ではなくとも知っている。

 

「……ベルナド……」

「ほう、俺の事を知ってるのか。それは説明の手間が省けて結構」

 

 クツクツと小馬鹿にしたように笑い声を漏らして、自らが座る椅子の傍にあるアンティーク調のサイドテーブルから葡萄酒が入ったグラスを手に取った。硝子という壊れやすくかつ高価な物は牢獄では特に値が張る。下層からの物資が不足しているこの地でそれを入手するのは困難にも拘らず、この男はそれをさも当たり前のように扱っている。それほどに男の財力は潤沢だという、余裕の表れなのだろう。

 如才ない注意力で周囲に視線を巡らせるアイリスの顔は、ここがどこであるかを少しでも多く知ろうという意図で埋め尽くされていた。それほどに状況は切迫しており、かつ危険なものであった。

 

「いい部屋だろ。こんな内装、ジークの所には無いんじゃないのか」

「……成金趣味」

「金がある、というのは力があると同義だ。金のない人間に部下はついてこない。それは俺の《風錆》と奴の《不蝕金鎖》を比べて考えればわかる事だ。

 そしてお前が思ってる通り、ここはその風錆のアジトだ」

 

 最悪だ。

 そう吐き捨てたい気持ちをなんとか呑み込んだ。

 ここは既に敵地。どういう理由なのかはわからないが、自分とティアはいつ嬲られ殺されてもおかしくはない状況下にある。闘う力など皆無に等しい二人にとって、ここは蜘蛛の巣にも似た場所に違いない。身動きをとることも出来ずただ死を待つだけの餌は、いずれ迫り来る蜘蛛に抵抗する力も手段も与えられることはない。

 

「招待状を受け取った覚えはない」

「勘違いするなよ、招待状を送るのはこれからだ。お前たちの安全を預かった俺の城にまで、興味があれば踊りにでもいらっしゃって下さい、ってな」

 

 言い切った後、ベルナドは何が面白いのか薄い唇をさらに引き伸ばして今度こそ笑い声をあげた。

 

「まあそういうわけで、お前たちはアウルムとカイムの足に杭を打ち付ける為の貴重な存在だ。一応、それなりの待遇で扱ってやるから安心しろ。

 勿論、その待遇もあいつら次第じゃ手厚くも手荒くもなるが。そこは二人の人間性にでも期待するんだな」

「なんのために……」

 

 なんの為に自分らが、あの二人にとって重要とは。

 湧き上がる疑問が口を衝くが、まとまりのない感情は言葉を紡がず二の句を継ぐことが出来ない。

 言葉尻が浮いたまま着地点を失い、そのまま顔を伏せるしかなかったアイリスを、どこか意外そうに、そしてそれ以上に愉快なものを見たと言わんばかりにベルナドは破顔した。

 

「なんだお前、もしかして知らないのか? それは傑作だ! アウルムめ、あの時から少しは人間らしい感情でも芽生えたって言うのか!? ははははっ、これは益々効果が期待できそうだ!」

「何が言いたい」

「あいつがどんな人間なのか知らないのか、なら教えてやろう。土産を持って奴らに届けるまでの時間だが、それでも時間は充分だ。

 あいつ……アウルムがどんな男で、どんな仕事を生業にして今日まで生きて来たかを、な」

 

 聖女が天使様の教えを説くように――アイリスは教会に行ったことはないが――謳い、眦を細めてベルナドは切れ込みの入った口を開いた。

 

 

 ※

 

 

 辛気臭い雰囲気に耐えかねたのは誰なのか、リリウムの一角、ジークの私室に詰めていた三人は空腹を覚えとりあえずは腹ごしらえをしようとヴィノレタに来ていた。

 日が昇って間もないという事もあって店内に三人以外に人の姿は無く、給仕の女性たちも見えないが、そこに不満は無かった。当然だろう、この時間は本来であればヴィノレタの営業時間外。つまりアウルム達三人は馴染みかつ組織の縄張りという特権を用いて中に入ったのだから。たとえそれが無くとも、メルトの性格を考えれば困ったように一考した後、やはり招いてくれるかもしれないが。

 扉を開けた際に聞こえるドアベルがやけに遠くに聞こえながら店内に入り、いつものようにカウンターに座ると、やはりいつものように何も言わずとも牢獄にしかない火酒が満ちた陶杯が三つ並べられた。

 こんな状況下で酒など飲んで居られるか、とも思えなくもないが、少なくともアウルムはその意見には否定派で出された陶杯に迷いなく手を伸ばした。こんな状況だからこそ、一杯飲まなくてはやってられない。

 

「とりあえず飲むか」

「だな、辛気臭い顔ぶら下げてたら腐り落ちちまう。こういう時は一回仕切り直した方が良い、ほれカイムも」

「はぁ……わかったよ、それじゃあ貰おう」

 

 率先して掲げられたアウルムの陶杯に続くようにジークが、そして二人に嘆息した後にカイムが遅れて掲げると鈍い音と共に陶杯がぶつかり合った。

 火酒を煽るとアルコール度数の高い上に雑多な味が喉を焼いた。一杯の値段が銅貨数枚という値段で手頃なコレは、もはや牢獄民とは切っても切れない代物だ。風錆への敵意や苛立ちを洗い流すようにして一気に飲み干し、アウルムはメルトに視線をやった。

 

「腹が減った。鳥の煮込みはあるか?」

「そりゃあるけど……ねえカイム、もしかして今のアウルって」

「察しの通り、“あの”状態だ」

 

 口調や声音、それに顔つきが普段のアウルムとは符合しないのに違和感を感じたメルトは、それが暗殺者としてのアウルムであると察した。いつもの彼であれば火酒を飲み干した後は、何かしら下らない冗句や軽口を叩くか、少なくとも笑顔ではあったのだから。

 それが今は常に氷像のように表情が凍りついている。メルトが娼館に居る頃からアウルムとは知り合いなだけあって、そこらへんの事情というか意図してやっているのは知っていた。が、それがこんな朝から、それもヴィノレタで見る事になるとは思ってもみなかったのだろう。以外そうに目を丸くしたメルトは、すぐさま何かあったのかと思い引き締まった表情をした。

 

「なにがあったの? よく見ればお頭もちょっとピリピリしてるし、不蝕金鎖のみんなも朝からバタバタ動いてるみたいだし」

「ジークに聞いてくれ、俺から話せるような内容じゃない」

 

 陶杯を傾けながらおざなりに返答するカイムから視線を外し、メルトはその隣に座る、普段とは違う不蝕金鎖の頭としての顔を見せる男を見やった。

 

「ジーク?」

 

 返答はない。話しずらいのか、それとも話すべき話題ではないのか決めあぐねている、そんな葛藤を懐いているようにも見える。

 しばらくしてジークが短く嘆息すると、陶杯を飲み干しカウンターへと静かに置き、重々しく口を開いた。

 

「……隠しても仕方ないな。ティアとアイリスが風錆に攫われた」

 

 話してもしょうがない。いまのアウルムとしてはそう判じたものの、頭であるジークの決定に反駁するほど身の程知らずではない。

 事情を理解したメルトは、始めはその事実に瞠若したもののすぐに平時と変わらぬ穏やかさを取り戻して肩を落とした。

 

「そうだったの、だから……」

「随分あっさり受け入れるんだな。俺はてっきり平手の一つでも貰うかと思ったよ」

「あら、欲しかったのならいつでもあげるわよ」

「はっ冗談、それは全てがおしゃかになった時にとっとくさ」

 

 おどけたように言い合う二人を尻目に、アウルムは火酒を煽る。錆びついた身体に潤滑油を流し込むように。いつ血腥い状況になっても間断なく即応出来るように。

 メルトも物分かりの良い女を装ってはいるものの、その心中は穏やかなものではないのだろう。証拠に彼女の両腕が震えていた。流石に掌はこちらから見えないようにカウンターを隔てて隠しているが、握りしめられているであろう両拳に集まった力の余波が腕にまで伝わっていた。それほどに悔しいのか、それほどに怒りが湧くのか。それとも――。

 深く思考を加速させ考えに耽っていると、ふと視線を向けられた感覚が過敏にアウルムを動かした。

 

「で、そこの余裕のないロクデナシはいつまで呑むつもりかしら?」

「必要量を満たすまでだ」

「そんなこと言って店のお酒を全部呑むような真似は絶対にやめてよね」

「…………」

 

 勤めていつも通りであろうとするメルトの張りぼてな建前の忠告を無視して再び陶杯を傾ける。そんな自分が身請けした元娼婦が敵対組織に拉致されたにも拘らず、微塵も取り乱した様子を見せないアウルムを、どういうわけだか放っておけばいいのにメルトは視線を外すことなく口を開いた。

 

「……信じて、いいのよね?」

 

 祈りであった、希望であった、懇願にも似ている。

 陳腐でありきたり、苔生した石壁よりも古臭い、されど王道とも言うべき篤い言葉であった。

 そんな様々な感情が綯交ぜになった視線を一身に向けられ、アウルムは暫しの間呆けたようにメルトを見ていた。いつもの“怠け者”であればここで冗談の一つでも飛ばしていたのだろう。がいまの彼はそんな瑣末な事すら思い浮かばない程に、心が凍りついている。

 なのに――火酒と共に嚥下した感情が熱い。

 ありえない幻覚だ。瞼を閉じ、内心で自嘲し振り払う。妄念だ、虚構だと判じ価値の無い物だと切り捨てる。いまのアウルムにはそんな物は不必要だ。――故にその答えも決まっている。

 

「愚問だ」

 

 元よりアウルムは如何にしてベルナドを殺すかしか考えていない。助けられないかもしれないなんて不安を持つこと自体、不必要だ。

 

「なら、私から言うことは何もないわね。はいお待たせ」

 

 溜飲が下がったのか晴れやかな面持ちでいつものように微笑んだメルトは、そのまま注文されていた鳥の煮込み料理をカウンターに突き出し、自分の役目は終わったと言わんばかりに店の奥へと引っ込んでいった。おそらくこれから料理の仕込みでも始めるのだろう。彼女の姿が見えなくなってから数分後にはまな板を叩くリズミカルな音が耳に届いていた。

 メルトが会話の輪から外れたのを見計らって三人は状況確認も兼ねて、これまでの経緯を話し始めた。

 

「アイリスは俺が家を出る時にカイムの家に行くように伝えた。けどカイムもリリウムで出たクスリの売人を捕まえる為に外に出ていた。ベルナドがそういう風になるよう仕組んだとしたら、大した演出家だ」

「出ていたって、そういやアウルも何か仕事があったのか?」

「俺が依頼した仕事は無かった筈だが、女の尻でも追っかけてたのか?」

 

 アウルムは息が詰まった。何故アイリスの元から離れたのか、その明確な理由を話せば、過去に一度ガウの件でジークに対し隠匿していた事実も話さなくてはならない。決して裏切りを企てての事ではないのだが、そう思われても仕方ないだけの大事なだけに、アウルムは慎重になる。

 言うべきか、それとも誤魔化すべきか。仮に今この場を誤魔化せたとしても、きっとまたガウの姿がちらつき始めるに決まっている。それはベルナドの風錆にいるのだから確実だ、そうなればいづれ露見する。それも、今以上の疑惑を乗せて返ってくる。故に、これ以上黙っておくわけにはいかない。ジークの為にも、不蝕金鎖の為にも、なにより自分自身の為にも。

 重苦しい決断とは裏腹に、懺悔にも似た発言は思った以上に易々と吐き出された。

 

「一つ、お頭には黙っていたことがある。今回、それが原因でアイリス達を攫われたと言っても過言じゃないかもしれない。

 実際、俺は奴の術中に嵌って無様を晒したわけだ」

「……奴? ベルナドか?」

 

 それならばどれだけよかったか。

 沈黙のままに(かぶり)を振ると、ジークの目が眇められた。それでも、アウルムは続ける。

 

「違うな、ベルナドなら真っ先にお頭に報告している。あいつではなく、その下に居る――ガウという長外套を着こんだ女だ」

「ガウ? 初耳だな、腕は立つのか?」

「正直、ニホントウ抜きなら五分って所かもしれないな。条件などが揃えば簡単に殺す事も出来るかもしれないが、あの女も生粋の暗殺者で殺人鬼だ、易々と機会を与えてもくれないだろう」

 

 あの邂逅の夜、初めて彼女と対峙した日を思い返すと今でも衝動に駆られる。

 あいつを殺せと――。

 殺して意味を見出せと――。

 ニホントウを抜きにして五分というのも、決して己の実力を過信しての数字ではない。むしろニホントウを帯刀しながらもニホントウに依存しないアウルムだからこそ算出した数値なのだ。万物を断つと言っても過言ではない大太刀は確かに万能であり一騎当千の器なのかもしれない。しかし、それのみに固執しては彼本来の戦い方である多様性のある暗殺のキレを落としてしまう。

 どんなに切れ味が良かろうとも、所詮はそれのみに特化した刃物。暗殺に使うには刀身は長すぎるし、切れ味という特徴を無くさないために無反射加工も出来ない為に、ガウ程の相手で会った場合じゃ絶対の無音殺人は不可能に等しい。よって仮に彼女と戦った場合、ニホントウは障害物や牽制、そして相手の武器破壊に使われることが多くなる可能性がある。もしくは、正面切っての大立ち回りになるかのどちらかになるだろう。

 

「お前と五分の相手、か。ったく、黒羽の時といい次から次へと厄介な」

「始めにあいつと会ったのは黒羽の事件が蔓延していた頃だ。仕事終わりの所を突然襲ってきてな、当然撃退したが、思えばあれから付きまとわれてるんだろう。今回、俺の家に射かけられた矢文も、俺の後なりなんなり調査して見つけたんだろ」

「俺たちは麻薬の売人に目を向かせて、アウルはそのガウって女に誘導させ、その間の隙を狙っての誘拐劇……か。痛手だな。ティアの嬢ちゃんを攫われたのが、更に輪をかけて痛手だ……」

「ティアを攫われたのが痛手って、ジークそりゃどういう――」

 

 煩わしそうに頭を掻くジークの言葉が気になりカイムが問いただそうとして、本題に入る間もなく木質の大きな音に遮られ有耶無耶となってしまった。

 文字通り扉を乱暴に開けた音が店内に響き、三者が同時に視線を一点に向けた。

 扉の前に立っていたのは男だった。それも、とびきりに見覚えがある。

 

「悪いな、お寛ぎのところ。ちょっと見せたい贈り物があって来た」

「…………ベルナド」

 

 鉛を吐くような重苦しいカイムの声は、そのまま彼が視線を向ける相手に対して懐く印象そのものだった。

 《不蝕金鎖》と袂を分かった後に生まれた組織《風錆》の長であるベルナド・ストラウフ。

 麻薬を禁じ、牢獄民との繋がりを重視しそれによって大きく成長した組織とは違い、利益の為なら麻薬はむしろ歓迎すべき商材として有効活用している組織。どうあっても相容れる可能性の無い両組織の旗頭が一堂に会した瞬間であった。

 ベルナドを先頭に続々と部下と思わしき男達が入ってくるなり付近のテーブルや椅子を乱暴に隅へと追いやっていく。当然家具を移動する際に発せられる音は大きくなり、それを聞きつけたのかメルトが奥から姿を見せた。

 厄介な酔っ払いでも訪れたのかと思っていた彼女の表情は、しかし主犯の人物を見るなり険を露わに睨みつけた。

 

「やめてよ! なに考えてるのっ!? ベルナド、あんたふざけるんじゃないわよ!」

「…………」

 

 誰しも己のテリトリーを犯される事を歓迎するような寛容さまでは持ち合わせていない。メルトもまた例に洩れず、ベルナドの部下達の行動を目にして――温厚な彼女にしては珍しく――怒りを隠す事も無く声を上げた。

 非難と制止の声は届かず、男達は無遠慮にフロアの家具を退け終える。

 一帯がある程度の広さになった所でようやくベルナドの足が前へと進む。中央付近を陣取った彼のその様は、言うなれば支配者の挙措。悠然と歩み敵対者であるジークを間にメルトと向き合い、この場を呑み込んだ男が不敵に口を歪ませる。

 

「あぁ、思い出した。俺は、お前の怒った顔が一番気に入ってたんだ」

 

 愉悦に彩られた声が店内を滲むように染み渡る。

 窓から差し込む朝日がベルナドの宝飾品を照らし乱反射する。金と暴力……さらには麻薬をも従える牢獄の体現者が、そこには立っていた。

 

「何しに来たのよ、先代の言いつけだけじゃなく、ウチの二人を――ッ!」

「メルト、黙ってろ」

 

 余程ベルナドという男が気に入らないのか、我慢ならない様子のメルトが勢いのままにまくし立てようとして冷水の如く冷え切った声が塞き止めた。

 

「止めないでカイム」

「ジークが黙ってるんだ、わかるだろ」

「……ごめんなさい、少し熱くなり過ぎたみたい」

 

 さっきよりも低くなったカイムの声色は有無を言わせない迫力があった。それほどまでに、この状況でメルトが出しゃばる事が組織にとって良く無い事だと自身も察するぐらいには頭が冷えたらしく、一転して消沈した声を漏らした。

 頭が静観しているにも拘らず下の人間がみっともなく喚き散らす。それは組織の教育が行き渡っていない事の証明であり、そのまま品格を下げる事に繋がる。カイムとしてはいまこの場にいみじくも乗り込んできた風錆に少しでも弱みは見せたくなかった。ただでさえティアとアイリスを護れずに間抜けにも出しぬかれた手前、これ以上つけ入る隙を与えたくはない。

 メルトとカイムのやり取りを見世物を見るような目で見ていたベルナドが片腕を上げた。

 

「こいつを見ろ」

 

 後ろに控えていた部下の男達が薄汚れた麻袋をベルナドとジークの間に投げ捨てた。見るからにまともな物が入っているとは思えない袋は、よく見ると所々赤黒い汚れが内側から滲み出ている。

“なるほど、つまらない手を使ってくる”

 どんな企図があっての茶番劇かと思い静観していたアウルムだったが、なんてことはない児童劇にも等しい拙い三文芝居を見せられる羽目になるとは。乗り込んでくるまでの立ち振る舞いが堂に入っていただけに、その落胆は大きかった。

 上げていた片腕をベルナドが降ろすと、麻袋の口を開いて中身が見えるようにズリ下ろした。

 ――晒されたのは無惨な姿になったグレン・ハワードの死体だった。

 

「見覚えのある顔だろ?」

「昨日、リリウムで話を聞いた男だな」

 

 神妙な面持ちで答えるジークは、それ以上の言葉を発さなかった。

 娼婦との逃亡劇の後、瞬く間にカイムによってお縄になった売人の男。ジークから話だけは聞いていたが実際に会ったことが無かったアウルムは顔を知らない。が、それでもこの状況下で出てくる男はそいつしか居ないだろうと踏んでいた。

 

「そうだ。そしてその後、お前たちに殺された」

「何かの間違いだろう?」

 

 ありえない。不蝕金鎖がたかが麻薬の売人一人を相手の処罰に殺人などと非効率な手段をとったりはしない。

 麻薬は確かに先代の頃からの御法度ではあるものの、下っ端一人捕まえたところでその根絶には繋がらない。故に殺さず手痛い仕打ちを与え、己の庭に帰す。他の仲間にあの縄張りで麻薬を売ればどんな目に遭うのか、という見せしめの抑止力を働かせるために。だからジークの命令で殺すような下策を執る筈がない。

 だから、アウルムは次に聞こえたベルナドの言い分でそれが誰によるシナリオなのかがすぐに理解出来た。

 

「死に際に、こいつは言ったよ――不蝕金鎖のアウルムって薄汚い暗殺者に殺されたってな」

「それは面白い」

 

 思わず口を挟んでしまった。どうしてもこみ上げる笑いを抑える事が出来ずに、無理やり歯を合わせた口からくぐもった笑い声が漏れ出る。もはや陶杯を持つ手までもが小刻みに震えている。

 カタカタと陶杯の底がカウンターの板を叩く音が、やけに大きく聞こえるのは気のせいではないだろう。いまヴィノレタで音を出しているのはアウルム以外に誰も居ない。

 嘲弄する声が響く店内で一人、聞き逃すことの出来ない男が一人眉間に皺を寄せて睨みを効かせた。

 

「面白い、だあ?」

 

 言うまでもなく嘲笑の対象になっていたベルナドである。

 

「ベルナド……嘘はもっと周到に、必要最低限でするもんだ。余計な口は災いの元だ」

 

 カウンターに預けていた両膝を上げ身体を反転させて向き合うと、静かな怒りを瞳に灯したベルナドと目が合った。

 己という邪魔者の存在が我慢ならないという表情を見て、昔まだカイムが組織にいた頃、似たような表情を彼がしていたのを思い出した。思えばあの頃からベルナドは自分の事を目の敵にしていたのかもしれないが、それはアウルムが手心を加える理由にはなりえない。

 

「少しばかり事が上手く運んだから欲が出て饒舌にでもなったか? 安い自尊心が透けて見えるぞ」

「ぐっ……」

 

 アウルムが不蝕金鎖に属する暗殺者というのは秘匿されている。それは此処にいるジークやカイムのみならずメルトも知っている暗黙の理だ。それを眼下で物言わぬ死体となったクスリの売人如きが入手出来る程、安い情報ではない。要するに、ベルナドは誰が誘導するまでもなく語るに落ちてしまったのだ。

 とはいえこのまま恥を晒して臍を噛む男でもなく、顔を歪めたのも一時、すぐさま感情を入れ替え溢しかけた優位な立場を掴みとるように顔を上げ、不蝕金鎖の面々を見下すようにして口を開く。

 

「何にせよこれは俺たちに、喧嘩を吹っかけてきたと考えて良いんだよな。組織の人間をやられたんだ、こっちとしても黙ってはいられない。先代なら、きっとこういう筈だ“必ずケジメをつけろ”とな。

 そうだろお前らッ!」

 

 発破をかけるベルナドに呼応して周囲の部下が一斉に同意の声をあげた。

 敵地で好きなように振る舞うのを良しとしないのか、当然のようにジークが横槍を入れる。

 

「よく出来た芝居だ、組織の頭よりも舞台役者のがお似合いだぜ。なんなら、良い劇場を紹介してもいい、演目に脱衣があるがな」

「……っ!」

 

 小馬鹿にした言動が神経を逆撫でしたのか、ベルナドの目が大きく見開かれた。

“まだ劣等感と同居してるのか。これは、お頭の勝ちだな”

 この場で勝敗を決するのであれば、現状では間違いなくジークに天秤は傾くだろう。ボスとしての器は、未だ未完成なれどジークの方が上らしい。

 ハリボテの笑みを浮かべながらも眉間の皺を隠そうともしないベルナドは、泰然としているジークを射抜くような視線で睨めつける。

 

「次に会うのが楽しみだ」

 

 陰険な笑みを浮かべながら剣呑な語感で吐き捨て、ベルナドは踵を返し背を向けた。

 振り返ったお頭がどんな顔をしていたのかを見てしまった部下達は、慌てたように床に捨てた死体を担ぎ上げた。

 

「おいベルナド、人のモン勝手に持ち去って謝罪も無しか? 間違えてましたごめんなさいって言って返すのが礼儀だろ」

「人聞きが悪いな。あの二人なら自分からウチに来たんだ、お前らの所にはうんざりだってな。今は丁重にもてなしてる……が、そうだな、お前らの態度次第じゃ部下の慰安でもしてもらうのもいい。

 あまり余計な真似をしない方がお前らの為だ。精々弁えろ、俺もそこまで気の長い人間じゃないんでね」

 

 人間を切った時に生まれる裂け目のように目を眇めるベルナドの視線が、カイムとアウルムの間を行き来する。抑止……のつもりなのだろう。

 カイムとアウルムがこちらに害を成す事は許さない。暗にそう言っているのだと理解した二人は、同時に、しかし正反対の反応をした。

 ティアを攫われたカイムの目がスッと細くなるが、アウルムは微塵も敵意を見せるどころか、悠々と火酒の入った陶杯を口に運んでいる。いまここでベルナドを殺してしまっても良いのだが――それだけの腕と自身はある――それを見過ごすベルナドでもないのだろう。間違いなくいまさっきの口ぶりからして彼が無事にアジトに帰らなければ二人は穴という穴、尊厳から何もかもを犯された上で無惨に殺される。彼女らが何処に監禁されているかもわからない為、自体が逼迫しているわけでもない現状、軽はずみな行動でアイリスを失いたくはない。なにより――。

 視線を背後のカウンターへと向ける。

 緊張を解かぬまま直立するメルトの前で、アイリスを見捨てるような真似をしたら、二度とここで酒を呑むことは叶わぬだろう。いや、それに限らず店にすら入れてくれないかもしれない。

 他に方法がないのであれば斬り捨てるが出来る事が残っている以上まだベルナドは殺せない。ジークを横目に盗み見れば、同じような結論に至ったのだろう、目が合うなり意味深に小さく頷いた。“手を出すな大人しくしてろ”と言いたいのだろう。同意の意思を籠めてアウルムは瞬きを長めにした。

 

「まてベルナド」

 

 去り際、高価なマントを羽織る背にジークが声を掛けた。

 呼び止められたベルナドは足を止めるとゆっくりともったいつけるように振り返る。

 

「仲間の遺体には、棺桶の一つぐらい作ってやるもんだぜ。麻袋一枚じゃ寒かろう」

「俺なら、その金を部下にばら撒く。どっちの方が多くを幸せに出来るかは、明白だろ?」

 

 死者に金を使うなら生者に金を使った方が有意義だ。死者を慮っても腹は膨れない。

 どこまでも現実的かつ合理的なベルナドの原動は、どこかアウルムと似通っていた。

 

「薄情な男だ死者への敬意も無しとは」

「安心しろ。お前が死んだら一等豪華な棺桶を誂えてやるよ」

 

 今から楽しみだ、と酷薄な笑みと共に付け加え踵を返す。

 これで今後《不蝕金鎖》と《風錆》は正式に敵対関係になった。もはや一触即発前の冷戦状態は脱し、死者が出てもおかしくない程にまで発展している。そうなれはアウルムも動かなくてはならない……が、アイリスをあちらが保有している限りそれも自由には出来ない。その上、風錆にはガウの存在もある。彼女と剣を交えて生き残れるのは、お世辞にもアウルムとカイム以外には無理だろう。

 そう、ガウの存在は非常に厄介だ。自分の足を縫いつけられた以上、彼女にもなんかしらの制限を与えなければ純粋な物量で蹂躙される恐れもある。

 

「ああ、そうだ忘れていた」

 

 わざとらしく振り返り懐から袋を取り出す。と、それをメルトに向けて放り投げた。

 放物線を描く袋はそのままメルトに向かうが、アウルムはそれを止めるつもりは無かった。ベルナドが懐から取り出したソレは、投げた瞬間に鳴った金属の擦れ合う音によってその中身を看破していたからだ。

 金の詰まった袋が重い音を立てて落ちた。

 

「メルト、それで新しい家具でも揃えろ」

「持って返って。クスリで儲けた金なんて見たくもないわ」

 

 嫌悪感をむき出しにするメルトだが、気にしたそぶりも見せずにベルナドの視線が壁にかかったメニューへと移った。

 

「あともう一つ、メニューの“あれ”もう少し面白い遊びも加えておいてくれよ」

 

 淫猥で粘着質な声がメルトの耳を犯し、ますます彼女の表情が強張った。

 “あれ”というのはつまり、ウインクに金貨一〇〇〇枚と書かれた項目を指しているのだろう。もっと金を出すから昔のように体を売れとベルナドは言っているのだ。メニューの値段が跳ねあがる原因を作った男が、また新たなメニューを作るように提案をする。それを跳ね除けるのは簡単だが、だからといってウインクの項目をメニューから消せば彼女がベルナドに屈した事に受け取られるかもしれない。

 

「…………」

 

 奥歯がより強く噛み締められる。どっちとも言い返せない葛藤が燃料となり、彼女の憤怒をさらに燃え盛らせているのだろう。普段温厚な分、彼女をここまで怒らせるのも難しい。その点だけを見れば、ベルナド程メルトを怒らせるのに適した男は居ない。

“これ以上の静観は逆効果だろう”

 冷静に大局を見ていたアウルムは矛先をメルトから外すべく、児戯に興じるベルナドの横顔に声をかける。

 

「ベルナド、お家に帰ったらガウに伝えとけ、二人に手をつけたら……お前とは何が何でも殺り合わないとな」

「…………行くぞ」

 

 殺意に満ちた視線でアウルムを射抜くとベルナドは返答もせず部下を促し店の外へと出ようとする。

 ――ふと、見知った気配と足音を耳にした。軽いながらも強かに石畳を叩く足音は、主の性格を表しているように凜としており、音が近づくにつれアウルムの中で嫌な予感が首筋を撫でた。

 とはいえ離れた相手に意思疎通を図る方法など持ち合わせていないこの身では未然に防ぐ事など不可能で、だからこそエリスがヴィノレタに入ってきてしまうのも仕様がなかった。

 

「何? どういう状況?」

 

 現れた望まれぬ客を見てカイムが渋面を作った。

 偶然現れたのだろうエリスは事態を読めていないのか危機感の感じられない面持ちでベルナドの前……店の入口に立っている。

 

「エリスっ」

「えっ?」

 

 カイムが彼女の身の危険を恐れこちらへ来るように呼びかけるも既に後の祭り。素っ頓狂な反応をするエリスの前にはもうベルナドが立ちふさがっている。

 

「お前……」

「……っ!?」

 

 思いの外穏やかな声を漏らしたベルナドに気が付き、牢獄を飛び越え下層や上層でも通用するだろう整った顔立ちが嫌悪に歪んだ。彼女の見せた表情はアウルムに向ける時よりも苛烈で、カイムとしてもそれは初めての事だったらしく未知を見るような腑に落ちない顔をしている。

 

「そういえば、カイムに買われてたんだったな。可愛い顔して、やることは鬼畜だな。

 俺なんか、まだまだだな」

「……」

 

 厭味な笑みを向けられカイムの顔が剣呑な鋭さを見せた。

 そんな表情が琴線に触れたのか、

 

「くくっ、ははははははっ!」

 

 と破顔し大笑いをあげながらベルナドは店を後にした。残されたのは彼の言い放った言葉の真意を理解出来なかった三名と、当事者であるカイムを除き唯一事情を知っているアウルムの火酒を飲み干す喉の鳴る音だけだった。

 

 

 彼らの去った後の店内は賊が荒らした後のように散らばり汚れていた。それまで整頓されていた椅子やテーブルは雑然として、テーブルの上に置いてあった燭台は倒されて踏まれ、所々折れ曲がった物まである始末。極めつけにフロアの中央にさっきまであった死体の血痕と思わしき染み。

 風錆が来る前とは打って変わって荒れた店内をそのままにはしていられないと、ジークは部下を数人呼びつけ散らかった店内を整頓し始めた。中には乱暴に扱われ破損した家具もあり、それらは一旦店の裏に運びだし、後日新たな部材を仕入れて修復することと相成った。

 ちなみに、ベルナドが置き土産に置いて行った金はメルトたっての願いで下界へと放り投げられた。

 その間もペースが衰えることなく火酒を呷るアウルムは、先程のベルナドの発言について詰め寄るエリスとそれを素っ気なく知らぬ振りをするカイムを横目に見ながら、これから先どうやってベルナドとガウを出し抜くかを考えていた。

 時間はあまり残されていない。長期戦になれば痺れを切らして、はたまた飽きただの言いだして攫われた二人を蹂躙するかもしれない。また、風錆の部下達を見る限りでは頭に絶対の忠誠を誓っているとも思えず、それ故に多少ならと独断で彼女らに手を出す可能性だってある。

 今の暗殺者としてのアウルムは必要とあらばアイリスを切り捨てるつもりではあるが、同時にそう判断しない限りは決して誰の手にも触れさせたくないとも思っている。娼婦時代なら仕方がない、犬にかまれたと思えばいいと呑み込んだかもしれない。しかし、今のアイリスは金貨二〇〇〇枚という高い金を支払って得た言わば所有物だ。あくせく働いて得たものを悪意で穢されるのは我慢ならない。

“どうにも安定しない。やはり早まったか?”

 殺し殺す為に殺して、生まれた意味という答えを求めるアウルムがアイリスという少女一人の為に判断を鈍らせる。

 いっその事彼女を殺してしまえばこんなくだらない煩悶もすぐに無くなるのだが、既に彼女の環境がそれを易々と許してくれない。アイリスを殺せばクローディアとリサが間違いなく敵に回る。それだけでなく、ここの店主メルトもアウルムを敵視するだろう。他にもエリスやティア、それに連鎖してカイムまでもがいらぬ考えをしてしまう可能性だってある。

 誰彼を殺すかで憂慮しているアウルムだが、どんな判断をしようとも彼の独断でアイリスを殺す事はそもそも不可能だ。彼の頭であるジークがそれを命令しない限り、アウルムは殺せない。元リリウムの娼婦を殺すというのは、そのまま不蝕金鎖に刃を向けると言うのと同義なのだから。

 無駄な考えに無駄な時間を使い果たしていると、彼の司令塔であるジークがカウンターに肘を置き、こちらへと体を傾けてきた。

 

「一応、確認しておくが……」

「お頭の思ってる通り、俺は殺してない」

「だよな」

 

 さっきの面影も見せないほどジークは気楽に笑う。

 

「で、どうするつもりだ?」

「そうだなぁ、考えなきゃならん事やらなきゃならん事が山積みだが……とにかく今は呑み直すか」

 

 いつもの稚気を覗わせる軽い笑顔で陶杯を向けてくるジークに、アウルムも無表情のまま同じように陶杯を向ける。いますぐに出来る事などたかが知れている。なら、焦って仕損じるよりは酒を呑んだ方が良い。アウルムとしてもそれには同感だった。

 二つの陶器がぶつかり鈍い音と共に、ジークの陶杯から火酒が少々縁から零れ落ちる。ほぼ手つかずだった火酒の量はアウルムよりも当然あって、それが耐えきれずに零れ落ちたのだ。

 カウンターに小さな染みが出来たその時、同時に扉のベルが来客を告げた。入口に立っているのは、リリウムの娼婦であるシェラだった。

 

「いらっしゃい」

「こんにちは、メルト姐さん」

 

 薬物中毒になっていた彼女をメルトは快く迎えた。その顔はいつものように穏やかで、とてもさっきまでの彼女とは符合しなかった。

 

「聞いたわ……大変だったわね」

「はい、今回は少し堪えました……。まさか殺されるなんて」

 

 “今回は”とそう語るシェラの言葉には、娼婦の生涯と本質が詰まっているようにアウルムには思えた。

 彼女達は元を正せばただの女だ。牢獄が出来る前、もしくは落ちる前は下層のありふれてた家庭に生まれ、育ったごく一般的な少女。そしてそれは牢獄が生まれた今も変わらず、彼女らは娼婦に身を窶しても本質を失ったわけじゃない。一時的に忘れたり、絶望と共に見失ったり、諦めて目を逸らしたりするが決してそれは失われない。

 恋は娼婦であろうと当たり前にするのだ。たとえそれが一夜限りの夢物語だとしても。シェラもそういった娼婦の一人だっただけ。

 

「ゆっくりしていって」

 

 だから、そんな彼女の気持ちが解るメルトはそう言って小さく微笑んだ。

 麻薬によってやつれたシェラは弱々しい笑みを作ると、カウンターにそって奥へと歩いて行く。彼女が誰であるか声を顰めて話すエリスとカイムの横を素通りし、ジークへ会釈をして――アウルムの前で足を止めた。

 

「ごめんなさいアウルムさん、来なくていいって言われたのに来ちゃいました」

 

 いつぞやのリリウムでの出来事を言っているのだろう。アイリス曰く強■野郎と烙印を押す切っ掛けとなった、あの時のやり取りの事を。

 

「好きにしろ、前に言った通り来たのなら飲むなり食うなり好きなようにやれ。今回に限り支払いは気にするな」

「はい、それじゃあ遠慮なく」

 

 一息で消える残燭のような儚い笑顔で彼女は隣の席に座った。

 彼女が座った事によって視線が下がり、アウルムの目には自然と彼女のうなじや鎖骨が良く見えた。以前はそれなりに肉付きのあった身体はクスリの副作用のせいで骨が浮かび、まるで死した野良犬のように筋張っている。

 アウルムの目が細くなる。

 

「飯はしっかり食べた方が良い、そんな身体じゃ今後客を取るのに苦労する」

 

 見逃すわけにはいかなかった。

 シェラは身を案ずるような言葉に無言で頷き、そのまま俯いたまま沈黙する。

 見捨てる事は出来ても、見逃すことは出来ない。

 

「ありがとうございます、でも大丈夫です……」

 

 顔を上げて儚げに微笑む。

 死人のような瞳を見て、やはり見逃すわけにはいかないと、アウルムは再認識した。

“馬鹿が……”

 

「――仇は私が取りますから」

 

 白刃が閃いた。

 避けるまでもなかった。

 

「っ!?」

 

 懐から奔った刃先は、アウルムに届かず横っ腹の手前で止まっていた。中空で行き場を失った刃は彼女の殺意が詰め込まれた腕力で、微かに震えている。

 寸前で腕を取ったアウルムはそのまま彼女の手首を返し、フォークでも取るかのような当たり前の簡単な動作であっさりとナイフを取り上げた。

 

「惜しかったな」

 

 手を離し取り上げたナイフを玩具のように回して弄ぶ。視線はそのままシェラから外さずに。

 この店に来た瞬間にはわからなかった。が、彼女が自分を視界に入れた瞬間、抑えきれなかった殺意が瞳に映ったのをアウルムは見逃さなかった。

 復讐者の目をしていると、長年の経験がそう言っていた。だから好きなようにやらせることにして、彼女がどんな行動に出るのかを座して待つことにした。こちらに近づく際の不自然な重心の歩き方は、腹部に得物を隠していたからだろう。いよいよ隣に座れば、その隠し方が露骨になっていたのを見たときは呆れてしまった。

 大方、ベルナドの持ってきた“荷物”の仇討ちをしたかったのだろう。大まかな報告を受けていた為、あの男の相手をしていたのが彼女だったという事も知っている。

 

「なん、で……」

「隠したつもりならお粗末にも程がある。女なら、女にしかない所に隠した方がまだ確実だ。

 更に言えば、それでもお前が俺を殺すのは不可能だ、諦めろ」

「う……ううぅ……っ」

 

 復讐を果たせなかったシェラは悔しさか、それとも身に余る怒りのせいか、肩を震わせながら涙を流し始めた。

 やつれこけた頬を伝う涙は床に落ち染みを作っていくも、乾燥した石畳に落ちる端から渇いて行く。まるで初めから無かったかの如く、彼女の悲しみなどその程度なのだと嘲笑うように。

 

「どうして、ねえアウルムさん……なんで? ……どうして彼を殺したの!?」

 

 身を切るような悲痛な叫びはアウルムのみならず店内全員の耳に届いた。

 

「待て、アウルムは殺してない」

「嘘よッ!」

「嘘じゃない。ベルナドが仕組んだことだ、俺の言葉が信じられないのか?」

 

 刃傷沙汰となればジークも黙ってはいられなかった。それもベルナドの奸計によって齎されたのなら尚更に。

 しかし組織の頭たる男の言葉を持ってしても、シェラは止まらない。

 

「信じられるわけないでしょ! ベルナドもあんたも変わらない、どっちも一緒のようなものじゃない!」

 

 昂ぶる感情のままに喚く彼女からして見れば、ベルナドだろうとジークだろうと頭がどちらになろうと立場は、環境は、この地獄は変わらない。どうあっても、首に繋がれた輪を外すことは出来ない。

 

「頭になんて口を聞くのッ!?」

「いい、メルト。今日は言わせておけ」

「なによ! 優しい振りなんかして、そんなに私は憐れに映るわけ? ええそうでしょうよ、覚悟を決めていざ行動してみればこの様、あっさりと失敗した私はこうして“かわいそうな女”にされてる。

 滑稽に見えてしょうがないんでしょ!?」

「落ち着きなさい、シェラ」

「これが落ち着いていられるわけないでしょ!」

 

 ジークを相手に一歩も引かない彼女に、メルトも諌めるが聞く耳を持っていなかった。こうなっては止まらない。彼女はどこまでも、力尽きるその時まで呪詛を振り撒く。瞳に大粒の涙を溢れさせながら。

 

「好きな人を殺されたのよ!? あの人、私を迎えに来るって……必ず行くって言ってたのに。やっと私にも幸運が巡ってきたって思った矢先に……」

「気持ちはわかるけど……」

 

 同情的なメルトの言葉に、彼女は目を見開き、カウンターを強く叩いた。

 衝撃で陶杯が倒れ酒が零れるが、誰も気にしないまま床に水溜りが生まれる。

 

「気持ちはわかる? それをあんたが言うわけ!? 何がわかるっていうのよ!

 あんたは売れて売れて仕方が無かった女でしょ? おまけに先代に身請けされて、こんな大きな店まで与えられて。その上ここにいる奴らみんなに慕われて、守られてるあんたが牢獄で一番恵まれてる娼婦のクセして!

 なのに気持ちはわかるなんて、安全圏から言う言葉に頷けっての? ふざけんじゃないわよ!」

 

 髪を振り乱し反乱狂になりながら泣き叫ぶシェラの双眸は射殺さんばかりにメルトを捉えて離さない。

 痛い所を突かれたのか、メルトも何も言えずにただ耐えるように唇を噛んで押し黙っている。

 

「あたしらみたいなのは、どうせ年季も明けないうちに死ぬんだ。……たとえ嘘だとわかっても、男の言葉には縋っちまうんだ。そうじゃなきゃ……何もないじゃない!」

 

 以前、アイリスが口癖の如く言っていた言葉がアウルムの脳裏に蘇った。

“どうせわたしたちは年季が明ける前に蛆の餌になる”

 娼婦である自分に諦めていた彼女のそれは、的を射た言葉で、あらゆる娼婦の末路を物語っていた。身請けされるなんて奇跡は誰にでも起きるわけではない。娼婦の大多数が解放という果てない夢を懐きながらその生涯を閉じるのだ。なにも特別な事なんてありはしない。

 

「あたしは、知らない男に抱かれるために生まれてきたの? 夢の一つも見ちゃいけないの?」

 

 一人称までも“私”から“あたし”に変わってしまったシェラは声を張り続けて疲れたのか、段々と声が弱々しく掠れていく。それはまるで彼女の生命が衰えるように、緩やかな死を辿っていく。

 生まれた意味。そんなものが本当にあるのなら、果たして彼女のそれは自身が言うようなものなのだろうか。アウルムとしてはそっちの方が気になった。彼女の哀訴よりも、よっぽど有意義だと思えて。

 

「それが……お前の生まれた意味なのか?」

「……意味? なに、言ってんの?」

 

 突如投げかけられた的外れな質問に、シェラは出題者の意図が掴めず――そもそもそんな体力が残っているのかも怪しい――茫洋たる目で見返すだけだった。

 

「答えろ、お前の思うお前の生まれた意味を言え。知らない男に抱かれるのがお前の生まれた意味なのか?」

 

 出題者は逃さず、シェラに詰め寄った。その瞳は洞のようで、全てを呑み込む深淵よりも深く、仄暗い色をしている。

 有無を言わさぬ再度の問いかけに、いよいよシェラはわけが解らなくなった。

 

「あ……あんた……誰?」

 

 知らない。こんな目をした男なんか見たことが無い。アウルムと同じ顔貌で、まったく異なる表情をするこの男は一体誰なんだ。

 恐怖に身が竦み視線が落ち着きを無くしたように右往左往する。身体の感覚が遠くて、自分が本当にこの世界に存在しているのか疑わしい。希薄になり更に希釈される自我が、形を失って溶けていく。心臓の鼓動は、もう動いているのかもわからない。

 

「アウルムッ!」

 

 大気を叩きつけるようなジークの大喝に、求道者の動きが止まった。触れられてすらいないのに、彼の身体は縛られたように動かない。

 

「いい加減にしろ、それ以上やったら彼女が壊れる」

 

 反駁を許さぬガンとした声色で言われ視線をシェラに向けて見れば、意識を失い床に倒れている彼女の姿があった。

 瞼が開いたまま白目を剥き、下腹部から鼻腔を衝く異臭が立ち込めている彼女の気絶した姿は、リリウムの客が見たらその手の趣味趣向がある者で偏る程に悲惨な姿であった。

 ジークの声によって引き戻されたアウルムは自分が欲に奔った事に気が付き、恥じ入るように嘆息して佇まいを直した。

 

「すまない、少し躍起になっていた」

「まったくだ“相手”を考えろ」

 

 殺すつもりは無かったが、恐らくジークが止めなかったらそのまま彼女になんとしても答えを吐かせようとしていただろう。そういう意味では気絶した彼女は運がいい。これ以上の恐怖と向き合う必要がないのだから。

 アウルムを殺そうとしたとは言え、シェラは未だリリウムの娼婦だ。不蝕金鎖の財産である彼女を命令も無しに使い物にならなくする所だった事実に、アウルムは自分が思った以上に焦燥感が募っているのだと思い、陶杯に残った火酒を一気に飲み干して席を立った。

 

「少し頭を冷やしてくる。夕刻には戻るから、それまで放っておいてくれ。どの道、俺は大っぴらに動けないからな」

「何ならリリウムでクロと遊んで来たらどうだ? アイリスには黙っててやるぞ」

「……遠慮しておく」

 

 磊落な笑みを浮かべるジークの提案を控えめに辞して入口に向かって歩き出す。メルトの彼を見送る視線が、やけに悲愴感漂うものだったのは気のせいだろう。

 店を出る間際、背中を刺すエリスの視線が特に印象的であった。

 

 

 ※

 

 

 アウルムの居なくなったヴィノレタは風錆が乗り込んできた時以上に沈鬱な空気が漂い、誰も会話を切り出そうとはしないまま時間が無為に流れる。誰もがアウルムの事を考えているのだろうか、その真意の程は掴めない。

 気絶したシェラはカイムが担いでリリウムに送り届けた。元々ヴィノレタとリリウムは大した距離でもないので、然程時間も掛かることなく彼は戻ってきた。カイムが戻った時には、既に店内には常連の客などが入り始めいつもの活気ある酒場の様相を呈していた。とても先刻まで二組織の対立や、暗殺者の暴走があった後とは思えない賑わいだ。

 さして疲れたわけでもないのにシェラを担いだ肩を揉みながらカウンター席に着いたカイムは、変わらずそこに座っていたジークを見やる。

 張りつめたボスとしての雰囲気は既に霧散しており、いつもの陽気さが覗える面持ちで彼はヴィノレタの料理に舌鼓を打っていた。とてもアウルムを大喝し止めた時と同一人物だとは思えないが、逆に言えばそれがジークの良い点なのかもしれないと、既に足抜けしたカイムは友人として評価した。

 

「おう戻って来たかお疲れさん。悪いな、面倒事を押しつけちまって」

「このぐらいの事で労うなんて随分らしくないじゃないか、さては酔ってるのか?」

「なに偶には良いだろ、偶には。これからお前にはとんでもなく面倒な仕事が待ってんだ、先払いみたいなもんさ。勿論、ここの払いを気にする必要もない」

「納得した。そう言うことか、ったく」

 

 遠くない未来に訪れる面倒事に眉間を揉むカイムはこれ見よがしに大きく嘆息した。

 経験上、この席に座ると大体が面倒な事になるというのを忘れていた。ベルナドが来た時も、そういえばこの席だった。これじゃあ文句を言っても仕様がない。自業自得だと思って諦めるか。

 わかってはいたが、忘れていたカイムは諦めてジークの話しを待った。

 

「今夜、リリウムに来てくれ。話しはその時にする」

「わかった。で、アウルは来るのか? その場に」

「不都合か?」

「まさか、あいつは今回の抗争で要になるだろ。むしろ来てくれなきゃ俺が困る」

 

 もし今この場に、仮にも隣にエリスが居たらアウルという言葉に反応して肩を震わせただろうが、仮の話だ。カイムは心底エリスがリリウムでシェラを診ていてくれて助かったと思った。

 

「カイム先生のお墨付きだ、アウルの実力を安く見てなんかいないさ。あいつとの付き合いは今まで飲んだ酒の量より積み重なってる、そんな俺が見誤ったりしたらそれこそ部下を束ねる資格がない。

 ま、偶にああやって答えを性急に求める時もあるけどな」

 

 昔を懐かしむような口ぶりで柔らかくなった表情のままジークは煙草に火を点けた。すかさずメルトが慣れた動きで灰皿を差し出す。

 

「今日久し振りに見たけど、まだアウルは探してるのね」

「言ってやるな、アレはあいつにとっての根幹、生きる意味みたいなもんだ。アレを見失ったら、きっと今度こそ何もしなくなる。何もしないままに……朽ちて死んじまうかもしれん」

「メルトの言いたい事もわかるが、ジークの言う通りだ。アウルは物の優先順位が普通の奴らとは違ってる、だから無理に止めたらどうなるかわからない」

「でも……」

 

 二人の考えに斟酌しつつも、メルトの顔が晴れる事はなかった。鍋をかき混ぜる手が自然と止まる。

 確かにカイムとジークが言うとおり、アウルムの邪魔をしてはいけないのはわかる。彼が“あの状態”である時は、どこまでも目的の為に最適化された人格に作り変えているのだから、一度敵と認識されればどうなるかわからない。なまじ良識がある分、味方であるメルトの言葉を無視できず行動に異常を起こし思考に支障を来すかもしれない。

 “怠け者”と揶揄される平時の彼は、張りつめた糸が切れないようにする自己保存の本能が起こす遊びだ。牢獄というまともじゃない環境に馴染むどころか、その体現とも言うべき彼を護る保険なのだろうとメルトは考える。

 既にどちらが本当のアウルムであるのか、メルトの中で境界は曖昧になりつつある。しかし――。

 

「アイリスが居れば、アウルもきっと変わるわ」

 

 アイリスはアウルムが初めて欲した他人だ。彼女の存在はメルトからして見れば奇跡のようなものだった。

 

「確かにあのアウルが他人を所有したがるってのはこれまで無かった事だな」

「でしょ? だからきっと――」

「――きっと変わって……どうなって欲しいんだ? メルトは」

 

 肯定的な意見が返って来たかと思えば、ジークは手のひらを返したようにメルトに問いかけた。

 てっきり自分の意見に同意してくれるのかと思っていただけに、不意を突かれた形になったメルトは「えっ?」と声を返す事しか出来なかった。

 アウルにどうなって欲しい? 彼が変わって、自分はどうしたい? ……わからない。けど、しいて挙げるとするなら。

 

「そうね、アイリスが幸せに歳をとれるような人に変わってくれると、私は嬉しいんだけど」

「それはあれか? 元娼婦としてはって事か」

 

 コツン、と陶杯を置いてカイムが口を挟んできた。

 

「ええ、だからカイムもティアちゃんだけじゃなくて、エリスの事ちゃんと見てあげなきゃ駄目よ」

「またそれか。俺はあいつに自由に生きて欲しいだけだ。なにも難しい事じゃないだろ」

「だがカイム、いい加減エリスにも飴をやらなきゃ拗ねるぜきっと」

 

 判然としないカイムの態度は間違いなくエリスを追い詰めている。それがわかってしまうメルトが黙っているわけもなく、こうして口五月蠅く言ってしまうのだが、肝心のカイムが聞く耳を持っていなくてはそれも意味がない。

 彼女はカイムを求めている。所有される事を、束縛を、命令を求めている。

 真っ当な価値観に照らし合わせればその歪みは大きいのだろうが、そんな倫理感など牢獄では銅貨一枚の価値にも劣る。

 

「さっきだってベルナドからエリスを守ろうとしてたじゃない。普段からああいう風に主張すれば、あの子だって苦労しないのに」

「もう良いだろ、あいつの事は長い目で見てくれ」

 

 エリスの話題になるといつもこうだ、と辟易した様子でカイムは火酒を飲み干して席を立った。

 支払はジークが持つと言っていたので、金は出さずに店の出口へと歩きはじめる。

 

「どこ行くんだ?」

「先にリリウムで待ってる。あまり飲み過ぎるなよ」

「わかってるさ、それじゃまっててくれ」

 

 ドアベルが鳴り扉が閉まる。カイムが居なくなった店内は、騒然としているものの不快に感じるほどでもない。

 ジークは目の前の陶杯を傾け喉を鳴らす。微かに苦みのあるアルコールが体内を駆け巡り体温を上昇され、水分が分解されていくのを感じる。そのまま一気に飲み干すと、最後に煙草を咥え燐寸で火を点けた。じりじりと燃える煙草を吸うと、赤く先端が燃え肺が紫煙で満たされる。溜まった紫煙を吐き出し口腔から煙を立ち昇らせていると、空になった陶杯を下げられ、別の液体が満たされた陶杯を差し出された。

 

「これは? なにか珍しい酒でも手に入ったのか?」

「もう今日はお酒はお終いよ。お水でも飲んでちゃんと仕事をした方が良いわよ」

 

 この先、風錆との決着がつくまで酒を飲める機会などそう訪れないのだから、次の一杯を最後したかったのだが、どうやらメルトはそれを許してはくれないらしく。水を出すなり煮込みの入った鍋をかき混ぜている。

 

「メルトがそう言うなら仕方ない、大人しく事が終わるまで酒はやめておく」

「そうよ。早くティアちゃんとアイリスを連れて帰ってきてくれなきゃ、私も寂しいんだから頑張ってよね“お頭”」

「心配しなくとも、さっさと取り返すさ」

 

 穏やかな口調で断言し、水を飲み干す。火酒とは全く違った冷たい口当たりに、さっきまであった熱が一気に冷めていくようだった。

 懐から会計よりも多めの金をカウンターに置いてジークは席を立った。

 

「残りは客の支払いに充ててくれ」

「わかったわ、それじゃあ気をつけて。……アウルムをお願いね」

 

 最後の案ずるような彼女の言葉を耳にして、思わずジークは失笑してしまう。

 

「く、くくくっ」

「なによ、私なにか変な事言ったかしら?」

「いや別に何もおかしくなんかないさ。ただ、相変わらず情深いんだな、と思ってな。この様子じゃ、当分アイリスの警戒心が解かれることはないな」

「っっ!? もうっ、いいから早く行っちゃいなさい」

 

 調子外れなメルトに急かされ笑い声を漏らしながらジークが店を立ち去る。最後まで飄々とした彼の背中が見えなくなるまで見送って、ようやくメルトは落ち着きを取り戻した。

 昔は子供だった癖に、いつの間にやら大きく成長していたらしい。

 見透かされていたジークの言葉を思い出して、彼女は失敗したと頭を抱えたくなった。

 まさかバレているとは思ってもみなかっただけにその動揺は隠しきれない。言うつもりは無い。この胸の内にあるモノは、このまま秘め隠し墓まで連れ添うつもりだ。あの時シェラが言ったように、自分は恵まれている。だから、これ以上の幸せがあってはいけない。それも小さな少女の想いを押しのけて手にしていいような……。

 だからメルトは此処に立つ。追うのではなく、待つ為に。誰かの帰る場所となる為に――彼女は今日も笑顔で店に立つのだ。

 願わくば、あの二人の少女が心身共に安全なまま帰ってきますように。


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