牢獄の暗殺者   作:琥珀兎

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第十三話:悪行の報せ

 時に悪行とはどのような行為を指すのだろうか。

 不正に金品を他者より奪う行為だろうか。

 言葉巧みに甘言を用いて他者を騙す行為だろうか。

 本人の同意なく強引に押し迫る行為だろうか。

 はたまた――人を殺す行為を悪行と指すのか。

 

 

「本当に二週間で治ったわね」

 

 呆れたような語調でそう言い放ったエリスは腕を組み、人間じゃない何かを見るような壁を感じさせる眼差しで患部を見据えた。包帯の交換もそれほど繰り返さずに解いてみれば、怪我を負った当初こそ痛々しい色彩が滲んでいた腕は、綺麗さっぱり完治していた。

 医師としての見立てでは二ヶ月は掛かると思っていた骨折。それをこの男は宣言通り二週間で完治してみせたのだ。いったいどんな手品を使えば治るのか、問い詰めたいという納得のいかない感情と、彼女の医者としてのプライドがせめぎ合う。

“冗談じゃない、これを認めたら世の中何でもアリになるわ”

 

「あなた本当は人間じゃなくて、違う生物なんじゃないの?」

「夢のある仮説だな。だとしたらなんだろうな、流行りの天使様か、それとももっと高位の生物かな」

「蛞蝓人間とかじゃないかしら、よくお似合いよ」

「言うに事欠いて蛞蝓かよ」

 

 あからさまに溜息を吐いて患者――アウルムは傷痕が残った左腕の反応を確認した。手を握ったり開いたりを繰り返し、その稼働に問題がないかの確認を終えると診察の為に脱いでいた衣服を着はじめた。

 

「わかってると思うけど、治ったからって無茶をしては駄目だから。あっという間に傷が開く可能性だってあるんだから」

「心配してくれんのか?」

「冗談、何度も来られちゃ迷惑だから言ってるの。ただでさえ最近は……」

 

 言葉を切ってエリスは思考を切り替える。いまこの脳裏に浮かんだ案件を口にすれば、きっと自分は目の前の彼を責めずにはいられなくなる。それが辛うじて理解出来たエリスは、自分を誤魔化すように手元の医療器具の整頓を始めた。

 

「ま、わかってるさ俺だって。人間相手ならもうこんな怪我を追う事も早々ないだろ多分」

 

 遠回しに“もう来るな”と突きつけたエリスに気にした様子もなく、寧ろ安堵の色さえ覗える表情でアウルムは家の扉に手を掛けた。扉を開き外へと出る最中、背中を突き刺す視線はお世辞にも患者を見送るような慈愛は欠片も無く、真逆の殺意にも似た剣呑なものであった。

 以前にも増して危険性と現実味を帯びてきた予感に、薄ら寒い悪寒を感じ、アウルムは背後の女医に気付かれぬよう注意を払いながら短く嘆息した。

“日に日におかしくなってきてるな、エリスの奴”

 先の憎まれ口を叩かれたときにも似たような感覚を懐いた。ふいに変質した彼女の瞳。古井戸のような、底に蟠る黒い情念の発露をアウルムは見た気がした。元々不安定な精神であった彼女が更にその不安定さに拍車を掛ける原因とは一体。

 

「考えるまでもないか」

 

 エリスの家から出て十分に距離を空けてから口にし、必然、脳裏に浮かぶ人物像には一言ぐらい恨み言を言っても許されるのではと免罪符を手にしたにしては浮かない気分のまま、進む足はリリウムへと向かっていた。

 

 

 黒羽の一見から二週間余りが経過し、牢獄中で噂されていた殺人事件の首謀者がアウルムである、という風聞は見事霧散していた。不蝕金鎖が非公開ではあるが犯人の処分をしたことをそれとなく噂として流し、その晩以降に怪死事件が発生しなくなったのが証拠となり噂は単なる噂として静かに身を潜めた。たったそれだけの事で済む問題だと、普通なら考えられないが、ここは牢獄。飯の種にもならない話が長続きするはずも無く、塵芥のように風と共に消え去っていった。

 このでっち上げの言いがかりの出所が、他でもないベルナドである事は既に周知の事実。策謀や工作、因縁のつけ方からその他諸々の人の弱みや緩みに付け込む嗅覚と敏捷性は目を瞠るが、それが今回に限っては頷けない。一言で言うなればお粗末。余りに陳腐な妄言は、果たして本当にベルナドの思索するところなのかアウルムは疑わしかった。

 彼が動くとすればあくまで私見ではあるが、黒羽を利用するにしてももっと姑息に直接狙うだろう。例えるならば黒羽捕獲作戦に戦力を投じていたのを良い事に、風錆の一員を使っての妨害工作と情報操作。それらを巧みに使いジークの周りに拝する守護を取り払い孤立させ、いざ勝負といわんばかりに悠然と姿を見せるだろう。先の先、そのまた先の失敗すら考慮して行動するのがベルナドという男だ。目的の為に最善を尽くし、最悪の手すら厭わぬ男が、今回は一度の不発で尻尾を巻いた。――これは一体どいういうことだ。

 街路の石畳を踏みつけながら思考を巡らすも、一向にそれらしい説得力を持った答えは出てこなかった。平時の状態でだというのもあるが、それを抜きにしても答えは出ない気がしていた。

 饐えた臭いに混じってほのかに香の香りが漂い始め、娼館街の中心地に入っていたことに気が付いた。どうやら思索に耽っている内に目的の場所までたどり着いていたらしい。アウルムはベルナドの事を一度脳内から追い出し敷地内へと足を踏み入れた。

 

「お頭は上か?」

 

 受付に座っていた下っ端に問いかけ二つ返事が返ってきたので、そのままジークの私室へと進み入る。片手だけになっていたときにも仕事のために二度ほど通っていたが、室内の雰囲気や調度は常時変わらず淫靡な雰囲気を漂わせている。

 男の夢ともいえる城に君臨する城主へと謁見せんがため、階段を上り廊下の奥にある扉を開くと、なによりも先に紫煙がアウルムを出迎えた。外来者を待ち望んでいたといわんばかりに空気中に充満していた紫煙は、我先にとこぞってアウルムの開いた隙間目掛けて迫ってきた。煙たい洗礼を受けながら煙が目に染み、生理現象として水分が余分に分泌されるのを鬱陶しく思いながら私室へと足を踏み入れる。

 地階の世界を彩る調度に比べ、この部屋の品々はどれもが一段上の価値を見せつけている。そんな支配者の住まう部屋に君臨する牢獄の王は、葉巻をくゆらせながら室内で唯一の窓際に立ち外へと意識を向けていた。

 

「ようお頭、いま戻った」

「アウルムか腕の調子はどうだった? ……なんて、聞くまでもなかったか。どうやら順調に完治したらしいな、相変わらず獣じみた回復力だ」

「あんたまで俺を人外呼ばわりか、そこまで俺を人間の枠に収めたくないか」

「なあに関心してるさ、優秀な部下を持てて俺は幸せもんだ」

 

“調子の良いことを”

 口を衝いて漏れ出そうだった言葉を呑み込みソファーへと身を沈める。今回アウルムが呼ばれもしないのにリリウムへと出向いたのは理由があってのことで、それ以外の事に時間を割きたくはなかった。

 

「さっそくであれなんだけど、ニホントウを返してくれないか?」

「それなら此処に、しっかりと保管してある」

 

 そう言うなりジークは椅子から立ち上がりクロークの戸を開いた。人一人ぐらい入れそうな大きさの中に、衣服を収納するには似合わぬ形状と雰囲気を醸し出す一振りの刀が立てかけてあった。

 黒羽の暗殺を終えた後にアウルムは再びジークにニホントウを預けていた。左手を負傷し片手での生活にニホントウは手に余り、仕事でもない限りは無用の長物でしかないと判断し、完治まで預かってもらっていた。本来なら他人にニホントウを預けるというのは、アウルムの強みを預けるにも等しい行為であるが、ことその相手がジークとなれば信を置くに値するというのが彼の判断だった。

 丁寧にクロークから取り出されたニホントウをジークから受け取り、その場で鞘から引き抜く。刀身が鞘から滑り瞬く間にその全身を晒したニホントウは、刃筋に傷一つなく、刀身に浮かぶ波紋にも一切の揺らぎは見られなかった。

 

「いつみてもそうだが、まったく恐ろしいぐらいに綺麗な剣だ」

「綺麗……かぁ」

「前々から気になってたが、そのニホントウ……だよな、は何処で手に入れたんだ? 人は勿論、石だろうと鉄だろうと斬っちまうなんて、まずまともじゃない。貴族からでもかっぱらったのか?」

「わからない」

 

 目を伏せ小さく首を振って、アウルムの答えに訝るジークを余所に話を続ける。

 

大崩落(グラン・フォルテ)が起きたあの日、気が付いたときにはもうコレを胸に抱いてたんだ。元々は俺の家にあったやつなんだが、誰がどこからどうやって手に入れたのかは、俺にも全くわからない。

 ただこのニホントウってのがこいつの銘“ではない”ってのだけは知ってる」

「……? それじゃあそいつはサーベルの一種だってのか? にしては片刃ってのはおかしいだろ」

「違うよ、ニホントウってのは刀の種類だ、サーベルやレイピアとかそういった剣と同様、種類を分類する言葉だ」

「この形のを総じてニホントウって呼ぶわけか……じゃあ銘は?」

 

 ただの量産型であれば銘など存在しないが、この世には真打の唯一ともいえる剣が存在し、まるで戸籍のように各々の刃に銘をつけるのは常識である。牢獄でそのような銘を持つ剣を拝むことはまず難しいが、上層の国王直属の近衛騎士の中にはその真打が存在していると噂されている。

 そして、アウルムの持つニホントウもまた真打であるというのはジークの目からしても察するものがあったのか、どこか確信をもった声音の問いはなにか面白みを期待するように感じられた。

 銘はある。間違いなく。――ただ、

 

「それもわからない」

「わからない事だらけだな。女の秘密は魅力を増す調味料だが、鉄相手に謎を押し付けられてもな……生憎そこまでの変態じゃないぞ」

「柄を外して(なかご)をみればわかるかもしれないけど、そこまでして知りたいのかお頭は?」

「……いや、よく考えたらそれ程。知ろうが知ってまいが、その剣そのものの切れ味が落ちるわけでもないだろ。話しの種にでもなるかと思って聞いただけだ、気にしないでくれ」

 

 ジークがあっさりと引き下がったのを内心で胸を撫で下ろしつつニホントウを鞘に納める。ここでなおも知りたいと食い下がられても困っていたので、アウルムとしては願っても無かった。

 

「ま、大抵のものなら斬れるってだけだ。他にはいらないだろ」

「なんでも斬れるってのは、剣の極地だな。その剣が奪われたらと思うと、冷や汗ものだ」

「それなら心配ないさ」

 

 これは自信を持って言えた。不敵な笑みを携えて答えるアウルムには確信があるのだ。

 彼を見るジークはそれを盗まれない事に関して自信があると受け取ったのか、

 

「一番安全な所にあるなら、端から盗難の心配なんて必要ないか」

 

 肩を透かして話題を締めくくろうとしたが、生憎、それ以外にもアウルムが確信を持てる理由が一つあった。

 アウルムは鞘に納めたニホントウを横に持ち、安物の剣を扱うかの如く乱暴にジーク目掛けて放り投げた。小さく放物線を描いてそれはジークの手中へと収まった。

 

「おいおい、なんのつもりだアウルム。ちょいと早い誕生日プレゼントのつもりか? だとしたらコレよりもっと派手な催しを開催してくれた方が俺は嬉しいんだが」

「そのニホントウで俺を斬ってみろ」

「正気か? さっきお前自身が言ってたろ、大抵のものなら斬れるって。だいたい何のつもりで……」

 

 詰問や説教に会話の色が変わりつつあったのをアウルムは懐から抜いた短刀と共に斬り捨てた。

 

「ソレを振るっても、絶対にこの短刀が遮るから……安心して思いっきりやって良いぞ。その結果が盗難の心配いらずの証拠になるから」

 

 まるでお前には無理だと遠回しに言われているようで、流石にこれにはジークも引き下がるわけにはいかなかったのか、一笑した後、一変して引き締まった表情と共に鞘から刀身を抜いた。四尺余りの大太刀はジークにはなれない長さなのか、鞘から抜く仕草はお世辞にも鮮やかとは言い難かった。

 

「後で怪我しても治療費の期待はしないでくれよ。お前が仕掛けたことなんだ」

「なーに言ってんのさ、いいからサッサとやってくれよお頭――ッ!?」

 

 ひゅん、と空気が悲鳴をあげながら白刃が弧を描いた。

 会話の途中、完全に油断しきっている所だと踏んでジークは仕掛けてきたのだ。――しかし。

 次にジークの耳に届いた音は、肉を裂き血飛沫をまき散らす醜い音ではなく、甲高い、鼓膜を揺るがすような金属同士の衝突音であった。よってそれは彼の一刀が不発に終わった事の証明。

 

「な、だから絶対っていったろ」

 

 悪戯に成功した悪童のようにアウルムが笑った。

 紛れもない殺気を刃に乗せて振るったジークと視線が合う。どうにも腑に落ちないという面持ちで、また新たな疑問が生まれたようにも受け取れる。

 ニホントウを受け止めた短刀は多少の刃こぼれはあれど、切断には至らず凶刃を見事に受け止めていた。刃同士の交差を解き、ニホントウを鞘に納めるとそれを元の持ち主であるアウルムに返却した。

 

「読まれてるってのは予想出来たが、その先はまったく読めなかった。まさか斬れないとは、いったいこいつはなんなんだ?

 俺はお前が石だろうと鎧だろうとなんだろうと、まるでバターを斬るのと変わらないって風にぶった切ってたのを覚えてるぞ」

「刀ってのは斬り易い部分と、そうでない部分があるんだよ。それと、それ相応の技術がないとそれは出来ないんだ。だから他の人間がコレを振っても、俺と同じように壁とか剣を斬る事はまず無理だろ。間違いなく刃が負ける。真っ二つになるのはコッチの刀身になるだろうな」

「……だから心配ないって、そう言いたかったのか」

「まあね」

 

 なんて回りくどいのだろうか。間違いなくいまジークはそう思っていた。

 たったそれだけの事を言い含めるなら、こんな態々相手を――不蝕金鎖の頭を――焚き付けるような真似をしなくても良いものを。

 

「そうならそうと口で説明すりゃいいものを、ったく無駄に自信が削がれたじゃないか。これでも結構本気だったんだがな」

「結構どころか全力だろ。完全に殺す気だったじぇねえか」

 

 あの瞬間に感じ取った殺気は間違いなく本物だった。完璧にアウルムを惨殺せんとする意思を感じられた。

 本来なら部下を殺そうとした事実に戦慄を懐くのだろうか、逆にアウルムとしては安心した。たとえ付き合いの長い相手であろうと彼は躊躇しないのだろうと、組織の頭としての器の規模を見れたから。ときたまカイムとの会話で手を下すときは俺自身が、と口にしていたのもあながち嘘ではないのだろうと信用しつつ、出来ればそんな日が来ない事を願いつつニホントウを背負った。

 

「そんじゃあ必要なモンも引き取ったし、俺は行こうかね」

「もう行くのか。これからエリスの所に行って“例の薬”について調べるんだが、お前も行くか?」

「冗談じゃない、さっき言ったばかりなのにまたエリスの所にいくなんてアホらしいだろ」

 

 それに、彼女の自分を敵視する度合いが深まったのも同行を拒否する一因を担っていた。いまは徒にエリスの前に姿を見せるべきじゃない。

 

「それもそうだな、じゃあ俺だけで行くとするか」

「どうせカイムも行くんだろ、なら、今夜ヴィノレタで呑もうって伝えておいてくれ」

「アイリスを放って良いのか? お預けを喰らったと思われたら、また何か毒を吐かれるかもしれないぞ」

「もう言ってあるから問題ないさ。アイリスも日が暮れたらヴィノレタに来る」

 

 家を出る前に前もってアイリスには、日暮れ頃になったらヴィノレタに行こうと誘ってある。数日前に彼女が一人でヴィノレタに訪れたと聞いたのを思い出し、最近あそこに顔を出してないと思い誘うに至った。

 誘った時のアイリスはいつもと変わらぬ簡素な反応だったが、その後の家事の動きがやけに弾んだ動きになっていたのは胸に秘めておく。

 

「生活は順調みたいだな、元雇用主としては嬉しい限りだ。その調子で俺の為に肴を提供してくれると助かる」

「人を話題提供の源泉みたいに例えるな」

 

 娯楽の提供元に例えられ眉根を寄せながら、二人は共に部屋を後にした。ジークはエリスの家へ。アウルムは――「あー、アウルじゃん!」地階に降りたとき聞きなれた声が彼を呼び止めた。

 気の抜けた声に反応して振り向けば、そこにはアイリスとは長い付き合いである二人の娼婦――リサとクローディアが立っていた。

 

「久し振り~! なになにどうしたの? っていうか腕なおったの!? うっそ速すぎじゃない? なんで!?」

「ええい喧しいわい! 質問攻めにするな、答える隙を寄越せ! おっぱいを押し付けるな俺は客じゃないぞ!」

「そうですよリサ、アウルム様の御迷惑になってはなりません。御久しゅう御座います、リリウムにいらっしゃるアウルム様を見るのは本当に久しぶりですわ」

 

 アイリスを身請けして以降、黒羽の事件や腕の負傷もあって事件が解決してからは殆ど仕事もせず再び怠け者に戻っていた為に、二人と顔を合わせる事も滅多に亡くなっていた。なによりアイリスが居る身でリリウムで遊ぼうものなら、瞬く間にその事実は彼女の耳に届くだろう。ここは娼館街。噂話はつむじ風よりも早く届くのだから。

 

「リサはともかく元気そうだなクローディア、そうだ今度お前らウチに遊びに来いよ。晩飯や酒はコッチがだすから、アイリスも喜ぶだろうし」

 

 主であるジークに目配せをしながら語り、沈黙の首肯でもって了承を得ると二人の表情に花が咲いた。

 

「いいの!? 約束だよ、絶対誘ってよね楽しみにしてるからさ!」

「女性を三人も侍らせようなんて、アウルム様の懐はその業と同じ深さを持っておりますのね。わたくしもそのときを楽しみにお待ちしております」

「どうせならそのときは盛大にやるか。祭みたいに」

 

 祭り好きの性分が騒ぎ、遠くない未来に思いを馳せる。アウルムの居間に集う三輪の花が咲き乱れる様は、いまから想像しても楽しみである。

 

「言っとくが、二人の出張料はしっかりと払ってもらうからな」

 

 鼻腔が膨らむような妄想をしていると、隣に立っていたジークから横槍が入った。

 二人の出張料。それはつまり二人の時間を買うという事。娼婦を誘うのだ、当然ロハというわけにいくわけもなく、ジークの言い分は真っ当ではある。が、そんな事をまったく考えに入れてなかったアウルムは、二人分の出張料を計算して額に汗が浮かんだ。

 

「……ちなみにいくらだ?」

「そうだな、大体これぐらいだな」

 

 彼女らに聞こえないように耳打ちすると、ジークも意図を察して二人に見えないよう身体の向きを変えてアウルムにだけ見えるように両掌を広げた。――つまり、十枚。

 

「――一応聞くけど、銀じゃないよな? いや、銀の方が俺としてはありがたいが」

「勿論違う、二人の一晩を独占するんだ、それなりの値段はするさ。これでも一応身内として割引してやってるんだぞ。一般の客ならもっと取るさ」

 

 中堅のリサはともかくとして、リリウムで一番の人気と売上を誇る娼婦であるクローディアの一晩を買うのだ。金貨十枚はむしろ安いもんだと、ジークはこれ見よがしに掌を眼前でひらひらと振るった。

 

「手持ちがないわけじゃないだろ? 黒羽の件で借金分はチャラにしたし、怪我の手当も払った。それに、少し仕事をこなしたんだから払えないほどなわけじゃないだろ?

 ちなみに、アイリスが家計を握ってるのは知ってるからな」

「ちっ、わぁったよ払うよ。日時が決まり次第その日は二人の予定を抑えてくれ、そのときに金は払う。生憎いまは持ち合わせが少ないんでな」

「まいどー」

 

 金貨十枚あればヴィノレタで一週間豪遊しても使いきれない程の金額だ。ほいほいと出せる金額ではないが、アウルムが自分で言いだしたことをそう簡単に引込めるわけにもいかなかった。最近金勘定に五月蠅くなってきたアイリスを思うと頭が痛いが、これも彼女の為と思えば痛くもなんともない。

 吝嗇家というわけもなく、寧ろ真逆の性分もあって金払いに抵抗はない。あとは、アイリスの許可を得られるかどうかだけだ。

 

「それじゃあ俺はもう行く、なんならこのままリリウムで遊んで行っても良いぞ。今夜の煙草が増えるからな」

「ぬかせ、意地でも遊ばねえぞ俺は」

 

 子供じみた笑みで見送り振り返る。リサとクローディアは先ほどと変わらぬ位置に立っていた。きっとアウルムとジークの声を顰めたやり取りを聞くまいと気を使ったのだろう。

 

「というわけだ、日時は決まったら追って知らせるよ」

「あいさー、楽しみにしてんね!」

「ご厚意に甘えさせていただきますわ。もしよろしければ、そのまま三人で……というのも面白そうでございますし」

「いいねそれ! あ、でもアイリスが嫉妬に狂ったりしないかな? こう虚ろな目をして包丁なんか持たれたら、あたし漏らす自信があるんだけど」

 

 冗談を良い交わしながら微笑ましくも儚い状景を、一歩離れてアウルムが観察していると、どこからか声が聞こえてきた。

 

「……? おい、この声はプレイの一貫……ってわけじゃないよな?」

 

 苦しみ呻くような声が微かにするのを耳にし、アウルムの眉根が寄る。指摘された声を二人は聞こえないのか、互いに是非を問うように顔を見合う。

 

「いえ、わたくしにはそのような声は……」

「全然聞こえないけど、多分誰かが叩かれてるんじゃないの。最近そういうお客も少なくないし」

「にしては肉を叩く音も、それに近いのも聞こえない」

 

 これはおかしい。そう判じたアウルムは声のする方へと耳を頼りに歩き始めた。

 勘違いでも聞き間違いでもなければ、恐らくこれは……。あまり可能性の一つにはしたくない結果を想像し、ますます眉間に皺が寄るのを憂いながら声の発生源である部屋へとたどり着いた。

 ここにきて二人もようやくアウルムの言っていた声を聞きとれたのか、表情に余裕の色が褪せていった。

 

「ここってシェラの部屋だよね、もしかして病気になったんじゃ……!」

 

 リサの心配を余所に冷静な面持ちでアウルムが扉を開くと、そこには苦しそうにうつ伏せでベッドに倒れているシェラの姿があった。

 

「シェラ!? ちょっと大丈夫なの!?」

 

 尋常じゃない様子のシェラを見て真っ先にリサが駆け寄った。絶えず呻き声を上げながら、まるで断崖絶壁にしがみ付くようにシーツを握りしめるシェラの顔貌はやつれ、目の隈は死人のようで、それを隠そうという意図のみられる虚飾の化粧が剥がれ、ますます痛ましさを強調させていた。

 背に手を当て優しく摩りながらリサが懸命に呼びかけるが、シェラは支離滅裂な言葉や罵声を返すだけ。その様子を見てクローディアの表情にも焦りが灯り始めた。

 

「いけないっ、リサ、エリス先生を呼んできて!」

「わかった! すぐにお医者さん呼んでくるから、それまで頑張ってよシェラ!?」

 

 的確な指示を受けてリサが部屋を飛び出した。残ったクローディアはシェラの容体を、知る限りの知識を動員して介抱し続ける。

 アウルムは部屋に入るなりその様を見て、それ以降ずっと入口に立って傍観していた。というのも、シェラの様子を鑑みるにある一つの可能性がアウルムの中で浮かんできたからだ。

 寒冷に晒されたように絶えず震える四肢。常識を超えた、女にしては強い腕力で握られているシーツ。洞のような隈と(かんばせ)。何かを欲するように口元から覗く舌先。そのどれもがアウルムの知る唯一つの“症状”と一致するのだ。彼は医者ではないが、それでも人体には人一倍長く、そして深く付き合ってきた。だからこそ見えるものもある。

 となれば、やれることは一つ。アウルムは患者に歩み寄り、一人では身に余るシェラを懸命に介抱するクローディアの肩に手を当てた。

 

「変わろう、クローディアはありったけの飲み水と吐瀉用にバケツを持ってきてくれないか。あと、ここは相部屋で他の娼婦の目もある。こいつの仕事部屋に場所を移すから、そこに持ってきてくれ」

「わかりました、すぐに持ってまいります」

「あと、若いのが居たら何人か呼んでほしいんだが……どうやら期待出来そうにもないな」

 

 部屋の外に意識を向けても期待できる音は聞こえない。傍らで喚くシェラのせいで正確に聞き取れないのもあるが、それを抜きにしても、提案した瞬間にバツの悪そうな風情になったクローディアを見て確信した。

 

「はい、皆さん集金に出てしまって今はアウルム様以外に男性の方はいらっしゃらないのです」

「そりゃ嬉しいね、いまだけ俺のハーレムじゃないか」

「ではわたくしはすぐに水とバケツをお持ちしてきますね」

 

 アウルムの冗句を華麗に流してクローディアは部屋を出た。少しぐらいは触れて欲しい、と情けない事を思いつつ暴れるシェラを強引に抱き上げる。

 

「離せッ! はなせって言ってんでしょ! ほっといてよッ!」

「俺だって出来ればそうしたわ、他に男が居ないんだ諦めろ。大人しく俺とベッドに行くんだ、なに変な事はしないでやる少し体が不自由になるぐらいだ」

「イヤァ! うるさいはなして、そんなに大きな声ださないでッ!」

 

 聞く耳など持たずにシェラを彼女の仕事部屋まで運ぶ。余談だが、アウルムは大きな声などは出していない。一応、気を使って声量を抑えていたが彼女にはそうは聞こえなかったらしい。その反応にますますアウルムの中で病状が定まりつつあるのが、彼をうんざりさせた。

 こんな事なら足早にリリウムを去って家に帰った方が良かったかもしれない。どう考えても面倒事でしかない役割に嘆息しながら、アウルムはシェラを仕事部屋のベッドに寝かせ押さえつけた。

 どこから体力を汲みだしているのかと思いたくなる程暴れ続けるシェラを羽交い絞めにしていると、ほどなくしてクローディアが飲み水の入った(たしらか)とバケツを持って現れた。

 

「お待たせしましたっ」

「その水をこいつに飲ませてやってくれ、たっぷりと、吐きたくなる程に」

「はいっ」

「やめて! 来ないでよぉ!」

 

 抵抗を続けるシェラをアウルムが強引に押さえつけ、クローディアが甕に小さな陶杯で水を汲み、それを多少強引ではあるがシェラに飲ませる。――が、頑なに唇を閉じている彼女の喉まで水は届かず、端から水が零れ落ちてしまう。

 それを見てアウルムが羽交い絞めにしながら手を伸ばしシェラの鼻をつまんだ。自然、呼吸をする為の二つの器官の入り口が塞がれ、それでもなお身を捩って拘束から抜け出そうとするシェラは酸素が足りなくなって口を開いてしまった。この隙を見逃さず、クローディアが再び水を注ぎこむ。これを都合五回は繰り返した。

 

「よし、全部飲んだな、あとは吐かせるだけだ」

「どうなさるおつもりですか」

「おいシェラ、吐けっ、吐かないと辛いぞ」

 

 自発的に吐いてくれるにこしたことはないと、抵抗の程が弱まりつつある彼女に呼びかけるが、

 

「嫌よッ! 誰がアンタなんかの、言うことなんて聞くもんか! いい加減離してよ、あたしは何ともないったら!」

「……チッ、面倒くせぇ!」

「おごぅっ……!」

 

 自分から吐かないんじゃ仕方ない、こうなっては強引にでも吐いてもらわなくては。アウルムはいい加減穏便に、相手側が歩み寄るなんて幻想を懐くのを止め、自分なりのやり方を貫く事に決めた。

 鼻をつまんでいた手を離し、罵声しか吐き出さない口腔に手を突っ込み舌の根辺りを触れる。

 

「バケツ!」

 

 シェラの背中が反るのを身体で感じ取った瞬間、クローディアが彼女の眼前にバケツを差し出した。すると、なにかがこみ上げるのを耐えるようにして上を向いたシェラが、濃い口紅をがこすれて消えかけている唇から胃の中にある物を吐き出した。

 そうやってようやく一度目の全行程が終わった頃になって、ようやくエリスは姿を現した。医療器具を入れた箱を携えて現れた彼女は既に医者としての顔をしており、その背後にはどういうわけかカイムまでいた。

 

「なんでかってに吐かせてるの!?」

「薬だよ。こいつがいまこうして暴れてるのは、多分それが切れたんだろ。心がささくれ立って、なのに不安と恐怖の色が顔に出てる。完全に依存症だ」

「麻薬……!」

「あとは頼んだ、おいカイム変わってくれ」

 

 男手が現れたなら使わない手はない。折角来たのに何もしないままにしておくのは可愛そうだろうと、自分に都合の良いように解釈してカイムを呼び寄せる。

 

「なんで俺が、アウルが抑えてるんだ、そのまま継続してればいいだろ」

「俺は疲れたんだ、もうへとへとで死にそうだ」

「調子の良い事を」

 

 どうせ嘘に決まってると疑惑の目を向け呆れ顔をしつつ、それでもカイムは仕方ないと肩を竦めてアウルムと役割を交代した。面倒から解放されたアウルムは、カイムとエリスそしてクローディアの三人が懸命に胃の洗浄を続けるのを尻目に、さっきから気になっていた場所へと目を向け歩み寄った。

 この部屋に来た時からシェラはしきりにある一定の場所へと目線を向けていた。羽交い絞めにされ、逃れようと暴れる時も決まって同じ場所へ行かんと身体の向きが偏っていた。

“なら、アレはここらへんにあるはず”

 部屋の片隅にある鏡台に近づき周囲を隈なく探す。鏡の裏や抽斗の裏側、そして抽斗を引き中を探すとソレは胃薬とでも言わんばかりに当たり前に仕舞われていた。

 ――麻薬。

 粉末状の麻薬は薬包紙に包まれて数個あった。一度摂取すれば忽ち全身を駆け巡り脳細胞を活性化させ、使用者に多幸感とそれに勝る快楽を提供する魔の薬。シェラはそれをいつからかは知らないが使っていたのだ。

“外で手に入れたか? それとも、客の誰かが持ち込んだか”

 いずれにせよこれを見逃すことは出来ない。麻薬は不蝕金鎖では絶対のタブーなのだ。先代が昔それを決め、いまでもそれは変わらず連綿と守られ続けている掟。これを破った罪は、アウルム個人の胸元に納めておくには大きすぎる案件だ。よってアウルムはこの麻薬を懐に納め然るべき者――つまりはこの娼館の主であるジークの下へと持って行くことにした。

 

「あとのことは頼んだ。原因の薬は俺が見つけて預かったから、すまんがカイムは出所を聞き出しておいてくれ、きっとヴィノレタで待ってる」

「わかった、それじゃあさっさと済ませるとするか」

 

 三角折に包まれた代物を見せながらそうアウルムが語っているのを目にしたシェラは、この世の終わりのように顔色が青褪め、それまでへこたれずに抵抗を重ねていたにも拘らずあっさりと四肢の力を抜いた。これ以上、どうやろうと逃れる事は出来ないと判じたのだろう。彼女の表情からは諦観と絶望が同居していた。

 人形のように肉体を打ち捨てたシェラを横目にしてアウルムは部屋を後にした。

 

 

 ※

 

 

 ジークを探す手間はかからなかった。もしかしたら、あいつならという希望的観測の下にヴィノレタを覗いてみると案の定ジークはいつもの席に座っていた。その傍らには事前に呼んでいたアイリスと、きっと一緒に居たところを彼女に誘われたのだろうティアの姿も。

 リサがエリスを呼びに行ったとき、そのほんの少し前にジークがエリスの所に行くと言っていたのを覚えていたアウルムは、彼がリリウムでの出来事を少なからず耳にしている筈で、それならアウルムがヴィノレタに顔を見せる事を知っていると予想して真っ先に捜索をヴィノレタに絞ったが、どうやら正解だったらしい。

 ドアベルを鳴らしながら扉を潜ると、四人の視線がいっぺんに集まった。

 

「よぉ、揃いも揃って歓談中済まないが、水を差しに来ましたよと」

「病気の女はもう済んだのか?」

「こんばんわアウルムさん」

「遅い」

「すまんな、ちょいと立て込んでな」

 

 アウルムの来訪を歓迎するティアと、それとは逆の態度のアイリスには返事もそぞろに、ジークの隣へと腰掛ける。

 

「それならカイムとエリスに任せてきた。あいつらが居るなら俺はいらないだろ、なにより面倒だ」

「おいおい、お前は一応俺の部下なんだ、他の奴が見てないからってあまり怠けないでくれよ」

 

 流石に目の前の面倒事を放り投げるのは感心しない、そういった感情が込められた痛言を聞き流しアウルムは懐から取り出した三角折にされた薬包紙をジークに差し出した。

 

「ん? なんだこれは」

「見ればわかる」

 

 受け取った物を見るなり訝るジークは、目を眇めて薬包紙を解き中身を見た。白い粉末はその見た目とは裏腹に沢山の危険性を含んでおり、なのにこの牢獄には蔓延している代物。

 ジークはそれがなんであるかの目星をつけたのか、眉根が寄り僅かに怒気が混じっている。しかしそれを吐き出す彼でもなく、メルトに爪楊枝を要求し受け取ると舌で先端を軽く濡らした。そして、そのまま粉末へと掠めるように触れごく少量を掬うと、躊躇なくジークは爪楊枝の先端を口に含み、葡萄酒の銘柄を当てるかのように咥内でそれを吟味した。

 

「……舌に差すような刺激が微かにするな、間違いない、最近流行のベルナドの所で捌いてる麻薬だ」

 

 口に含んだものが麻薬だと断じると、ジークはいつの間にかメルトに渡された紙切れにそれを吐き出した。

 

「やっぱりそうか……」

「麻薬って、落ちるとこまで落ちたわねベルナドも。麻薬だけは触るなってのが先代の口癖だったっていうのに」

「寝物語に聞かせてもらってたのか?」

「ちゃかさないのアウルっ」

 

 ともあれ、麻薬の出所はわかった。あとは誰がそれを持ち込んだのか、カイムの報告を待つばかりだ。

 労うようにメルトから差し出された火酒で満たされた陶杯を傾け喉を潤すと、控えめにティアが質問を投げかけてきた。

 

「あの、よくわからないんですけど、そのお薬は悪い薬なんですか?」

「幸せな気分になれる物さ。その代り、支払う代償はそれ以上に高く付くがな」

 

 婉曲に麻薬の効果をジークが伝えるが、ティアにはどうにも噛み砕いて理解することが出来なかったらしく腑に落ちない風情で小首を傾げた。

 

「つまり、それはいいものではないと?」

「そうね、辛く悲しい事を忘れられるけど……クスリが抜けたらまた現実に戻っちゃうだけよ。

 考えてごらんなさい、もし想像出来る限りの幸せが目の前に降ってきて、それを満喫しているとして、突然途轍もなく悲しい出来事と一緒に奪われたら……ティアちゃんはどう感じるかしら」

「それは……そのときになってみないとちゃんとはわかりませんけど、多分凄く辛くて、悲しい気持ちがいっぱいになってしまうかもしれません」

「それが麻薬ってやつだ。天にも昇るほどの多幸感に持ち上げられ、それが抜けると真っ逆さまに現実という地上に落とされる。上がれば上がるほど、ふり幅は大きくしっぺ返しを食らうんだ」

 

 いかに危険かをティアに言い含めながらジークは煙草に火を灯す。と、来客を告げるドアベルが鳴りカイムとエリスの両名が現れた。アウルムは席に着いてから席を彼の隣に移したアイリスと食事をしながら二人を迎え、ジークとティアが軽く挨拶を交わして迎えた。

 シェラを取り押さえるのに思いの外体力を消耗したのかカイムは疲れたように肩を下げており、エリスはいつも通りの大人びた冷静な面持ちであった。

 

「おつかれさんカイム、代わってもらってありがとう」

「アウル……見返りがなけりゃ恨み言を言いたいくらいだ」

「怠け者だから仕方ない」

「……なんか、アイリスまで毒されてないかお前に。いやそれとも、慣れか?」

 

 珍しく他人に対して理解のある風な言いようのアイリスにカイムは瞠目した。

 無理も無い、彼女は誰に対しても歯に衣着せず辛辣な物言いであるのが常の、棘を纏ったような少女だったのだから。とはいえアイリスがアウルムに毒されたわけでもなく、心外だと言う風に彼女の眉根が眉間に集まった。

 

「アウルを擁護するつもりなんかない。諦めただけ、これはもう言うだけ無駄。きっと死ぬまで治らない」

「理解を示してくれて非常に、泣きたいほど嬉しいが……なんだろうな、素直に喜べないよアイリス」

「褒めてないからでしょ」

「もっともだ」

 

 二人が向き合って下らないやり取りをしてる間に、カイムの意識は彼らからジークへと移っており、アウルムが去ったあとの状況とその概要を伝えていた。

 カイムによると麻薬は最近常連の客に貰ったらしく、幸か不幸かその男は今夜にも来る予定らしい。不蝕金鎖の頭として麻薬を見逃すわけもなく、ジークは今夜にでもその男が現れたら取り押さえるつもりでいた。リリウムで麻薬をばら撒く事の意味を、あらゆる意味で肉体に教え込むつもりなのだろう。

 最近の常連客、という言葉にアウルムは引っかかる物を感じた。そう、最近になってリリウムで見慣れない、新顔を見たような……そこまで思考を巡らせて、しかし平時ではそれも面倒だという怠け癖の方が勝ってしまい、結局答えは出ず仕舞いに終わってしまった。

 

「で、お頭はどうするつもりなんだベルナドの奴の件」

 

 今朝からずっと気になっていた動向の読めないベルナドの事を尋ねると、ジークは煙草を口に咥え紫煙を吐き出した。

 

「そのうち落とし前はつける。ヤツとは積もる話もあるしな」

 

 いつになく強い口調で語るジークには、表立っての理由以外のなにか因縁めいたものを感じさせる、そんな予感をアウルムは感じ取っていた。もとより事情をある程度しっているアウルムは、それ以上を訪ねも語るつもりもなくなっていた。これはジークとベルナドの二人だけが持てる因縁なのかもしれない。

 

「そうか、それなら良いんだ別にな」

「そのときになったら、お前にも一仕事してもらうかもしれん。そんときはよろしく頼む」

「任せろ。お頭は大将らしく偉そうにふんぞり返ってな」

 

 そう言って、笑い合う。ベルナドに目に物見せてやろうと、そういう気概の感じられる両者を微笑ましく見ているメルトとは逆に、疑念を感じさせる視線を向けるアイリスは二人の会話を遮るように口を開いた。

 

「ねぇボス、アウルムの仕事ってなに?」

 

 咄嗟に目配せをする。アイリスにはまだ黙っていて欲しいという意思を、視線と表情に乗せてジークに伝える。果たしてそのテレパシーが通じたのか、ジークはあっけらかんとした面持ちで答える。

 

「そりゃ俺の手助けだよ。俺が困った事、出来ない事を代わりにやってくれるのがアウルムだ。要するに、オズと似たようなモンだ。わかるかアイリス」

「わかった。つまり小間使い」

「それ、オズには言わない方が良いぞ」

 

 呆れながらカイムがさりげなく会話を打ち切る方向へと持って行く。彼もまた過去にアウルムと同じ仕事をしていたのもあってか、なんとなくアイリスには内密にしておきたいというのを察したらしい。

 暗殺に負い目など微塵も感じてはいないが、それでもアウルムはまだアイリスに伝えるのを何処か忌避していた。いずれそう遠くない未来に知られるとしても、その時は自らの口から明かそうと覚悟を決めているものの、如何せん機会を逃し続けていた。

 アイリスの興味が薄れたのを確認して胸を撫で下ろしたアウルムは陶杯を傾ける。

 

「質問ばかりで恐縮なんですが、皆さんの言うベルナドさんって方は?」

「そりゃもう嫌なヤツよ、かなーりね」

「プライドの塊みたいな奴だな、一言で言うと」

 

 メルトの答えにアウルムが繋げる。

 

「あいつはな……と、俺が説明しても良いのかお頭」

「構わん、好きにしろ。お前ならヤツを良く知ってるしな。人物像の把握に見誤るようでもない」

「んじゃま続けると、あいつは元々、俺たち不蝕金鎖の副頭を務めててな、その頃はまあよく働いたんだが、いまのお頭が先代の後を継ぐってわかったら拗ねて反抗期に入ってな、五年前に沢山の仲間を引き抜いて《風錆》って組織を立ち上げたんだ」

「風錆……ですか?」

 

 どういう意味なのか理解しかねたティアに、カイムが続く。

 

「風錆ってのは、磨いても磨いても気が付けばついてしまう錆びの事を指すらしい。まあ、“不蝕”金鎖へのアンチテーゼというか当てつけというか」

「やりかたもウチとは違って麻薬を捌いたりして、荒っぽく稼いでるのよ」

「ちなみに、あのメニューもベルナドが原因で跳ね上がった」

 

 悪戯気に笑顔を浮かべながらアウルムは、壁に掛けられたメニューを指さした。以前からずっと変わらぬ値段で提供している《ウインク金貨一〇〇〇枚》という文字が輝かしく記されている。

 

「前はなんとか払えそうなぐらいの、それでもまず頼まない値段だったんだけどな。ベルナドが払うって言いだしたからなぁ」

「好きだったんですか? メルトさんの事を」

「さあな、そこらへんを俺はよく知らん。その頃はなんでかベルナドにも避けられてたし、興味もなかったし」

「失礼しちゃうわよね、こんないい女前にして、興味がないなんて言うんだから。アイリスは愛されてて羨ましいわー」

「あげないから」

「やーん、可愛い」

 

 所有権を主張したアイリスは、アウルムの左腕を取って胸に引き寄せた。見た目幼い……しかもぶっきらぼうな少女が不器用ながらに正直に張り合う姿は、メルトの琴線に触れたらしく一際高い声色をあげながら体をくねらせている。

 控えめながらもその存在をアピールする二つの双丘が当たり、アウルムは心暖かな気分で彼女の行動を歓迎した。嫉妬というスパイスは劇薬に等しく、用法と容量を誤らなければ最高の刺激となるが、行き過ぎると毒にしかならない扱いの難しいスパイスである。

 傍目に彼女らのやり取りを見ていたエリスが「ねぇカイム、私も抱き寄せてカイムに所有されてるって主張してもいい?」と、楽しそうに要求しているが、当のカイムの答えは素気無い。

 

「あの、それでベルナドさんの話は……?」

「あらごめんなさいね、そうねぇ、自分でいうのもなんだけどベルナドも始めは好きだったんじゃないかしら。でも先代がジークを跡継ぎにしてから変わっちゃって……」

 

 当時を思い出したのか、メルトの言葉尻が宙に浮く。見かねたジークがそれを拾い、先を繋げる。

 

「ベルナドは先代が自分を跡継ぎに選ばなかった事を、ことさらに恨んだ。そして、メルトを身請けしたのが先代ってのは知ってるな? あいつは、メルトを金で自由にするのが気持ち良かったんだろうな」

「は、はあ……なんというか、少しかわいそうな人だったんですね、ベルナドさんって方は」

「小さい男ね」

「変態」

 

 せっかくティアがオブラートに包んだ言葉を、罵倒なら右に出る物は居ない女性二名によって乱暴に破かれた。

 

「アイリス、思ってても言っていい言葉ってのがあってだな」

「……いけない?」

「いや、いまのは間違ってない。ただそれぐらいの性癖、許してやるのが器ってもんだ」

「超変態」

「…………もう良いです」

 

 ベルナドよりも暫定で上回る変態にカテゴライズされ項垂れるアウルム。

 ふいに、エリスとカイムの座る位置辺りの空気が、通常よりも少し下がったような気がした。見れば両者の面持ちは冷ややかで、なにやら言い合いをしているように見える。

 

「おかしいよ、私カイムに身請けされた筈でしょ? なのに傍に置かないのは変だと思う」

「身請けされてるなら、俺の言うことは聞くもんだろ」

「なんでティアばかり……。私はカイムの傍にいちゃいけないの?」

 

 自然と周囲は二人の行く末を見守るように沈黙を守り続けている。それとももしくは、皆我関せずを通して自らに飛び火しないよう用心しているのかもしれない。

 懇願するような縋るような眼差しのエリスに、しかしカイムは冷静に、どこまでも平静で冷たい言葉を突き付ける。

 

「もう一度言う――お前は自由に生きろ、俺のいない場所で自由に」

 

 エリスが睨む。憎むようにではなく、どこか理解出来ない物を見るようなそれでいて不満を隠さない稚児のように。

 

「……帰る」

 

 言ったきり彼女は踵を返してドアベルを鳴らした。扉が開いた際に入り込んできた冷ややかな隙間風が、まるでエリスの心情をあらわしているかのようでカイムは鳥肌が立つのを感じた。

 カイムの中に後悔は無かった。これは彼女を身請けしたときから決め定めていた事。アウルムとアイリスのような、互いが互いを求めた結果に身請けという道があったのとは遠くかけ離れた、決して真っ当な理由から身請けしたわけではない。

 云わば、これはカイムの罰。

 甘んじてその道を選んだ彼に、迷いなどあるはずも無かった。

 

「あーあ、いっちゃった。かわいそうに」

「ヘタレ野郎」

「カイムさん……」

 

 しかし当人が納得していようと、必ずしもそれが周囲にも伝播し理解や同意を得られるはずも無く。こういった良かれと思った行動と言うのは、えてして周囲には批判されがちなのが世の常であった。

 惜しむようなメルトの言葉は、遠回しにカイムを攻撃していた。

 打って変わってアイリスの言葉は、直截的であった。

 されど、ティアの言葉は双方を慮った配慮のある言葉であった。

 

「ぐずぐず言われる筋合いじゃないだろ、これは俺とあいつの問題だ」

「なーにが俺とあいつよ。エリスを問題の檀上にも昇らせないで、何様のつもりよ」

「身請けした娼婦を大事にしない奴は、疾く死ぬべき」

 

 こうなっては止まらない。そうアウルムは思った。

 メルトだけならば釘をさすだけで済んだかもしれない。しかし、ここにはアイリスが居る。彼女もまたエリスと同じ元娼婦。とはいえエリスは客を取る前の段階でカイムが身請けしたわけだが、ここは割愛する。とにもかくにも、アイリスという起爆剤はメルトにまで余波が及ぶ。

 同じ娼婦の不幸を微笑で流せるほどアイリスの性格は穏やかではない。なのでアウルムは仕方なしに助け舟を出すことにした。

 

「うーわ、カイムが女性陣にボコボコに言われてら。なぁおい、表面上だけでも謝っといた方が今後の為なんじゃないかって、お兄さんは思うんだが」

「間違った事を言ったつもりは無い。あいつを遠ざけようと、それこそ俺の自由だ」

 

 言葉が出なかった。カイムもまた意固地になっていたのだ。

 これでは拙い、と思ったがアイリスの関心は美味い事アウルムの方へと誘導出来たのか、冷たい視線が浴びせられる。

 

「アウルはカイムの味方するんだ」

「ああ……これが藪蛇か」

 

 結局、アウルムがアイリスに説教を受ける事になり、カイムとエリスの件は有耶無耶になった。

 

 

 ※

 

 

 外に出ると夜風がアウルムとカイムを迎えた。

 ヴィノレタに居づらくなった二人は、逃げるように表へと出て夜の娼館街をあてどなくさ迷い歩いていた。カイムはこの後にリリウムに訪れるだろう哀れな売人を見物する、という用事もあるのでそれまでの暇つぶしも兼ねているが。

 

「なぁ、結局の所エリスの事はどうするつもりなんだ? このままつかず離れずで、距離を保ち続けるつもりか?」

「俺はあいつに一人の人間として自立して欲しいだけだ。だから離れて欲しいんだが、上手く行かないもんだ」

 

 群青の空を見上げながらカイムが呟く。

 離れて自立して欲しい。彼の意見に否定的な気持ちはアウルムにはなかった。しかし、肯定的でもない。この二人がどうなろうと、どう拗れようと知った事ではないが、それにしても一つ納得のいかない部分があった。

 

「カイム。お前、離れて自立して欲しいと言いつつ、甘くないか?」

「甘い? 俺がか?」

「だって、俺からしたら二人の関係って普通に微笑ましいものにしか見えないぞ」

 

 カイムの傍でカイムの物でありたいと主張するエリスを遠ざけながら、最終的には彼女と関わり続けているカイム。それはアウルムの目から見ると、どこか安定感のある距離にも見えた。

 つかず離れずある一定の距離を保ち、時にエリスが近づきカイムが遠ざける、しかしその次にはカイムが引き寄せてしまう。それはまるで空に上げた凧と糸で繋げ操作している者に似ている。一定の長さまで伸びた糸で凧を引き上げ、時に風に乗せて遠ざけ、離れすぎたら慌てて引き寄せる。二人の関係はまるでそれと重なって見えた。

 

「昔、こうやって同じような空を見上げた事があったな」

 

 唐突に、言い逃れるように紡いだカイムの言葉は、懐かしむようなそれでいて自嘲するような口調だった。

 

「そんな事あったっけか、しょっちゅう夜に出向いてたからどの夜だったかなんて、いちいち覚えてないぞ」

「俺がまだ暗殺の仕事を初めて間もない頃、まだ牢獄に染まりきってなかったガキの頃だ」

「……あぁ、そんなこともあったっけかなぁ」

「ったく、偉そうに講釈たれてたくせに忘れたのか? 俺が……あー、そのまだホント何もかもがガキで、あれだよメルトを……」

 

 言葉にするのが気恥ずかしく、言い淀んだカイムはそれきりどう言えば良いのかを考えて閉口してしまった。

 一方のアウルムは、ガキとメルトという単語を聞いて、一つ記憶の奥底に眠る中で該当するものが引っかかった。すかさずその記憶を逃さないように意識して水底より吊り上げた。

 

「あれか? “メルトを護るために殺しを教えてくれ”とか青臭いことを言ってたときの事か?」

「…………認めたくないが、それだ」

 

 非常に不本意ながらカイムは肯定の意を表した。悄然と俯くその姿は、アウルムの語った過去が出来ればこれを知っている全人類に忘却を願う祈りを捧げているようだった。

 

「懐かしいな、まだ自分の振ったナイフで怪我してた頃だったなあれは」

「あの時のお前の自分勝手な台詞、いまでもまだ覚えてるぞ俺は」

「あ~、俺もメルトの件は忘れるから……出来ればお前も忘れてくれないかな」

「考えてやってもいい」

 

 互いに忘れたい過去の思い出、それは牢獄が生まれ、アウルムが不蝕金鎖に入り暗殺者として完成しつつあるとき、カイムが先代に拾われ暗殺者の道を選んだばかりの頃の思い出。

 

 

 

 

 始まりの切っ掛けは、カイムの真摯な熱意の言葉だった。

 リリウムで一番の売れっ子であるメルトに、ほのかな恋情を懐いていたカイムが、アウルムとの訓練の最中に交わした何気ない質問の答えが始まりだった。決して長くない、いまにしておもえばあっという間のほんの十数分の会話のやり取り。

 アウルムが休憩時間をとったときに何気なく、なぜカイムは暗殺者の道を志したのかと、至極当然の疑問を口にしたときだった。

 

「……メルトを護りたいんだ。そのためには強くなくちゃだめだ。だから頼む、もっと殺しの技術を俺に教えてくれ」

 

 本当の理由を押しのけて慕情が勝った青臭い理由は、まだ火酒も飲めない子供だった頃のカイムの、純粋で真剣な心情の吐露は、アウルムの虫の居所に非常に悪かった。

 

「護る? 寝言言ってんじゃねえよ。護るなんてのは非殺戮者の権限であって、俺たちのような殺す側が、傷つけ害する人間のやって良い事じゃない。護るってのは“一切の暴力を行使しない奴”だけがなっていい、云わば特権なんだ」

 

 他者を傷つける者に他者を護る資格無し。厳然と言い放ったアウルムの言い分に果たして間違いはあるのか。少なくともこれを言った本人は、なにも間違いなどないと思っていた。

 害する行為とは、それと同時に害される権利を相手に贈与する行為。故に一つの暴虐が一つの復讐を生み落す。復讐者は怨敵を討つ為に立ち、見事その恨みを晴らしたとする。――ここでまた新たな暴虐が復讐を生み落す。

 極論、人を殴るという行為一つにもそれはついて回る。まるで通行税のように。

 だから害する者は護れない。非暴力を守れない。

 真に護るというのならあらゆる残虐非道な暴力にも屈さずに、それこそ堅牢な関所の壁のように受け続けるしかない。やがて相手が疲弊し飽きるまで。はたまた守護者が朽ちて瓦解するまで。

 

「だがそれも、護るなんて行為は俺からすれば愚かしさの極地だ。そうだろう? お前ならどう思う、殴れど蹴れど、たとえ刃で切りつけようと“決してやり返さない石のような人間”を相手にしたら……どう思う?」

「…………」

 

 答えは返ってこない。もとよりカイムの内に答えがあるのかすら疑わしい、そんな不安定な面持ちだ。

 だから厳然たる事実を、この世の真理を解き明かす。――結局はこんなものだと吐き捨てるように。

 

「“こいつは絶対にやり返さない”そう思うだろ。やり返されないのなら“死ぬ心配”も無い。外敵は自然とつけ上がり行為はエスカレートする。そうやっていつまでもいつまでも繰り返し凌辱され続ける。な、まさに特権だ。護るなんてのは痛いのが好きなマゾのやるこった。

 己の善性に酔いしれながら、それを否定する悪性が常に付きまとう。一つの輪が此処に完成する。それは醜く歪でありながら貴い、モザイクのステンドグラスのように」

「……おかしくないか」

「何が?」

 

 静かな沈黙を破ったカイムの一言は腑に落ちないという一点に特化していた。

 

「それは一対一で成立する話だ。護るなら庇護の下に居る奴が居る筈だ。そいつが復讐を懐かない保証はないだろ。

 守護者が手を出さなくても庇護の下に居る奴が手を出すかもしれない、そしたら新しい横道が出来ちまう。アウルの言ってることには穴がある」

「……確かに、そうだな」

 

 悪鬼がいて、狙われた者がいる。そしてそれを護る守護者。三者三様の三つ巴は必ずしも一つの円環にはなりえない。カイムの言い分はそういう事である。護る者が手を出さずとも、必ず新たな闘争は生まれてしまう。

 

「けどそれを指摘しても論点は変わらない。――カイム……お前に誰かを護る事は不可能だ」

 

 カイムの反論を棚に上げお茶を濁して結論を急いだアウルムは、悄然と項垂れるカイムに追い打ちの如く話を続ける。

 

「いいかカイムよく覚えておけ、敵対者との殺し合いの果てに勝利し誰かを護ったと思うな。それはただ危機から免れただけに過ぎない、決して守護とは言い難い彼岸の果てにある殺害という純然たる真実の二文字だけだ。

 殺す事と護る事は決して同義に成り得ないんだ。

 血液で満たされた瓶に葡萄酒とラベルを張る欺瞞と同じ、あるいはそれに勝る悪行だ」

「悪行……」

「この世の善悪の判別なんていかれた尺度は持ってないけど、殺しの正当化に都合の良い欺瞞を重ねるのは愚行で……悪行だ。

 殺しは殺し。そこに良いも悪いもない。ただ粛々と受け入れろ、一人殺せばお前は殺人者だってことを」

 

 それは誰にあてた言葉なのか。彼の瞳はカイムを見ていながらにして、カイムを捉えていなかった。

 遠い空の下で交わした会話の思い出は、こうして記憶の奥底に封じたいという双方の想いによって、今日まで守られ続けていた。

 

 

 

 

 思い起こして羞恥心からアウルムは項垂れた。頭を抱えて、唸りながら。

 

「あぁ~忘れたい忘れたい、無かったことに無かったことに」

「よっぽどだなアウルも」

「いいかカイム! 絶対に! 誰にも! 言うなよ!? でないと俺もばらすからな!? おまけつきで」

 

 聞き捨てならない単語にカイムは目を見開いた。

 言いふらす代償が同じ話題であれば痛み分けとなるが、そうはならないのが人間の性。自分よりも倍する痛みなくては、己の傷は癒えないのだ。

 

「ちょっと待て、おまけってなんだ……なにを知ってる?」

「ジークとそろってメルトに構ってもらおうとして、互いにどっちが多く怪我するかで競って、あげく二人して大怪我してメルトに怒られお互いで怪我を治療し合った微笑ましい思い出」

「止めろ……それを言いふらしたらジークも巻き添えになる。……というか、どうしてその事を知ってるんだ? あれは俺とジークの二人しか――」

「――メルトに聞いた」

 

 二の句は無かった。メルトに聞いたのがいつの頃なのか、彼女がヴィノレタを経営するようになってからなのか、はたまた娼婦時代なのか。答えによってはカイムは最大の弱みをずっと握られていたと言っても過言ではなかった。

 その他にも多数の弱みは存在しているが男同士の嫉妬が原因で起こる醜い争いほど忸怩たるものはない。

 

「わかった、忘れる。だから絶対それ誰にも言うんじゃないぞ、俺と一緒にジークも沈んじまう」

「よし、交換条件成立だな」

「俺はもう行く。リリウムに来る売人の様子を見にな」

 

 疲れた様子でカイムは背を向けて歩き出す。

 それを見送ってアウルムもまた、先に帰っただろうアイリスの待つ自宅へと踵を返した。

 

 

 ※

 

 

 自宅に帰ると食べそびれた夕食を用意していたアイリスが迎えた。

 結局、せっかくヴィノレタに寄ったにもかかわらず火酒しか飲まずに、しかも色々と面倒事の話ばかりで満足に食事も出来なかった。だからアイリスの用意した料理は、アウルムにとって至上の喜びをもたらした。麻薬など無くとも、彼女の料理があればそれに勝ると言い切れる自信がいまはあった。

 

「日に日に上手くなってくるな、料理」

「練習してるから当然」

「いやー、俺は幸せもんだな」

「……わたしが居るから、当然」

 

 今すぐにでも食事の矛先と意味合いを変えてしまいたい衝動を抑えつつ、粛々と食事を進める。と、アイリスがその様を凝視してくる。

 いままでアウルムが食べる風景を期待と不安混じりに眺める事は多々あったが、それは恐らく料理の出来具合を知りたいという欲求が突き動かした結果。だが、いまのアイリスからはそれらとは無縁の、ヴィノレタでも向けられた疑念が覗える。ハの字に広がり小さな皺のよった眉間が、なによりの証拠だった。

 

「どうかしたのか?」

 

 彼女の視線を無視したまま食事を続ける事も出来たが、なんとなく居心地が悪かったので、先に消化してしまおうと思い問いかけると、

 

「アウルムの本当の仕事って、何?」

 

 再度、ヴィノレタでも聞かれた疑問が浮上した。

 仕事を訊ねるのに“本当の”と付ける辺り、アイリスはジークの言葉信じていなかったのだ。その場では言いづらい、もしくは隠したいが故に見逃したのだ。

 

「……なんで、そんなに知りたいんだ?」

「別に、そこまで興味はない。本当は知りたいと思っても、聞くべきじゃないとも思った。でも、ボスまで隠すのはおかしいと思ったから」

 

 彼女はあの時、試したのだ。

 どうせ質問した所でアウルムが誤魔化し煙に巻くと、そう予想したうえでジークのいる場で問いかけたのだ。きっとアウルムがアイリスに信じてもらうように最も信憑性の高い、不蝕金鎖の頭に代弁してもらうと踏んで。

 

「あの時アウルムが答えたら、いま聞くつもりは無かった。でも、ボスが答えるってことは、それだけ危ないって事だと思った」

「アイリス……」

「教えてアウル。アウルの仕事は、そんなに自分が危ないの?」

 

 見上げて問いかけるアイリスの瞳には哀訴にも似て、濡れていた。彼女の思索は、どこまでもアウルムの身の安全を思っての事だった。それを初めて理解したアウルムは……真実を応えるべきか思い悩んだ。

 

「あのな、アイリス……それは――――ッ!?」

「なに、どうしたの」

 

 突然の異音にアウルムの全神経が警鐘を打ち鳴らした。耳を澄ませる限りでは危険は感じられない、闇夜に紛れるような影も窓からは見当たらない。それなのに、本能的にアウルムはこれが危険だと判断し警告をしていた。

 

「アイリス……窓から離れて、見えないところに隠れろ」

「なぜ?」

「いいから早くっ、絶対に動くんじゃないぞ」

「……わかった」

 

 神妙な面持ちで頷いたアイリスは居間のキッチン。その棚の下に潜り込み、息を潜めた。すぐ傍に窓があるが、仮に外から侵入者が入ろうと、視界から彼女が映る事はない。これでとりあえずの安全は確保した。

 物音は玄関先から聞こえた。アウルムはまず息を潜めて音を殺し廊下から顔を僅かに出して玄関の状況を確認した。――異常は見られない。

 侵入者は無く、近くにそれらしき音も気配も殺気も感じられない。状況の呆気なさとは逆になり続ける頭の警鐘の正体がなんであるのか、己自身を疑いたくなるのを抑えながら、玄関側とは逆の窓から外にでて大きく玄関へと回り込んだ。

 簡単に玄関を開ければ即座に刃や弓矢などが飛んでくるかもしれない。とも想定していたが、結果からしてあっけないほどに原因はつかめた。

 

「…………矢文? どこのどいつがこんなもん」

 

 玄関扉に突き刺さっていた矢文。それが異音の正体だった。

 幽霊の正体見たり枯れ尾花とは言ったもので、必要以上に警戒したのはなんだったのかと、嘆息しながら括られていた文を開いて、

 

 ――血の気が冷めていくのがとても緩やかに感じられた。

 

『拝啓 愛しのアウルム・アーラへ

 面倒な前書きなんて書けるほど教養が無いんでね、単刀直入に本題に入るよ。

 手紙を見たって事は、わかるだろ?

 いますぐあたしらが出会った廃墟にきな。

 当然だけど、拒否なんか選択すらさせないから、そのつもりで来ておくれよ。

 

 あんたの愛するガウ・ルゲイラより』

 

 

 文が拉げるのを他人事のように感じられた。

 自然と、懐に手が伸び煙草を咥え燐寸で火を点ける。

 紫煙を肺に取り込むたびに、自分という存在がどこまでも冷静に冷酷に冷淡に組み代わっていく。

 平和ボケしたひと時は終わったのだ。

 あの女が、闇の沼底から諸手を伸ばして誘ってきている。――ならば、殺すしかないじゃないか。

 同じ命題を掲げし、他人の命から意味を奪う強奪者にして暗殺者。

 ガウ・ルゲイラからの――血なまぐさい招待状だった。

 

 時に悪行とはどのような行為を指すのだろうか。

 不正に金品を他者より奪う行為だろうか。

 言葉巧みに甘言を用いて他者を騙す行為だろうか。

 本人の同意なく強引に押し迫る行為だろうか。

 はたまた――人を殺す行為を悪行と指すのか。

 

 果たして悪行とは――そもそも他者があって初めて成立する行為なのではないだろうか。

 

 

 群青の夜空に漂う紫煙が、風に掻き消されると同時に、アウルムの姿もまた闇に掻き消えていた。


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