牢獄の暗殺者   作:琥珀兎

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第十話:胎動の黒

 時間の経過につれて《風錆》の活動が活発になっているという話を聞いたのは、アウルムがアイリスとティアを含めた三人で昼食を取った後に、リリウムにあるジークの私室を訪れた時だった。

 

「今回の攻勢はこれまでとはなにか違ってる。明らかにアウルム一人を狙い撃ちしているように思えてならないんだが、お前、ベルナドになにかしたか?」

「昔ならいざ知らず、奴が離反した後の五年間に何かをした覚えはないな」

 

 思慮深いベルナドの策だとは到底思えない大胆な喧伝に、さすがのジークも頭が痛い思いらしく、難しい顔で眉間を揉んでいた。

 聞くところによると、ベルナドのアウルム犯人説の吹聴は日々規模を大きくしているらしい。金払いの良いベルナドの事なので、きっとその金で人を動かし数の圧力に物を言わせているのだろう。彼の事は五年前以来、詳しい情報は知らないが、それでも性格が変わっていなければアウルム自身の思うとおりだろうと踏んだ。

 理知的なベルナドは、人の命よりもそれによって左右される局面自体を広い視野で観察出来る眼を持っていた男だ。もし仮に彼が未だに不蝕金鎖から離反せずに留まっていたら、間違いなくジークを支える影の立役者となっていただろう。

 未だボスとしては未熟な面が多々見られるジークであるが、彼なりに先代の背中を思い浮かべ貪欲に学び続けている。外面だけ見れば、その姿はもう立派に頭としての風格をモノにしているだろう。

 

「まあ、お前が余計なちょっかいをかけないってのは信頼してる。だが、今回のコレはベルナドの一存とも思えない。後手を返しての先手を取るならまだしも、相手の状況も出方も見ずに先手を取るってのは……誰かの巧言にでも耳を傾けたか」

 

 譫言のように呟くジークに、第三者の可能性を考えた言葉にアウルムはある人物の顔貌が思い浮かんだ。肉食獣のような獰猛さに、蛇のように狡猾なガウの姿を。

 これが考え過ぎだという事は理解している。しかし、ありえないと断ずるには彼女の存在は不透明過ぎた。

 

「元々奴は俺たちを敵視してんだ、それがいつ牙を剥くかなんてわかるはずもない。わかるのは、ベルナドがこれまでの小競り合いじゃ済ますつもりが無さそう、という点だな」

 

 一度彼女の存在を秘匿してしまった以上、もう今更言葉にすることは出来ない。ガウの事を棚上げにして言を弄するアウルムは、とりあえずの対抗策を練るべくジークを促した。

 対するジークは当然ガウの存在など露知らず、真面目に対抗策を練るべく眉間に皺を寄せていた。

 

「《風錆》はいまや勢力も勢いもこっちに勝ってる。単純な物量で押されたら勝ち目は薄い」

「殺してこいって言うなら、今すぐにでも乗り込んで殺してきてやるぞ。その分、報酬は高く付くが」

「奴との決着は俺自身が付けなくちゃならない。これは俺が不蝕金鎖の頭として今日までいたケジメだ……そう簡単に他の奴に委託したりしねえよ」

 

 煮え切らない態度で決定を下さないのは、それが過去にベルナドが副頭として組織に貢献してきたからであろうか。それとも、風錆に走った元部下達の事を慮っての事だろうか。

 どちらにせよ言葉にしない彼の心情など、アウルムは知りもせず、また興味もなかった。

 一言殺せと言われたなら、殺すだけ。そこに一切の意思は介在せず、躊躇いなどありもしない。先送りにしてきたベルナドの命運が、清算されるだけで、感慨など湧く余地もない。もし今から彼の屋敷に乗りこめば、或いは本当にガウが現れるかもしれない。そうなった時、果たしてアウルムは立ちはだかる生の意味を秘めた可能性の輝きに、目を奪われない自身があるのか。

 いくら思索を巡らせた所で詮無い事。新鮮な果実を前に、触れず割らずに果肉に潜む種の有無などわかりはしない。断ち切って初めて、それは理解できる。

 

「ならどうする。現状通り、このままだんまり決め込んで黒羽を追うか? 或いは、明日にでも見つかるかもしれない」

「時間の問題だな……今の所、根も葉もない噂話程度で済んでるが、いつ住人が不安の矛先をこっちに向けるかわからない。多く見積もっても、三日か四日……それが限界だ。

 期日を過ぎる……もしくは、それより早く限界だと感じたら、黒羽の件はカイムに一任してお前はベルナドに対応してくれ。この際、ある程度の批判には甘んじよう。後で全て取り返せばいい」

「それがお頭の決定なら、俺は従うまでだ」

「済まないな、いつも面倒な仕事ばかりで」

 

 穏やかに微笑むジークの瞳は、間違いなく信頼を寄せる輝きを秘めていた。アウルムに対してこれほど全幅の信頼を置いているのは、ひとえに彼が先代がまだ健在だった頃からの功績もあるのだろう。

 ふと、珍しく参った様子を臆面もなく見せているジークに対し、昔、アウルムが先代の頭に対して言った言葉を思い出した。以前メルトが酒の席で漏らした、思い出すだけで羞恥が総身を駆け巡るあの言葉を。戯れにもう一度、また頭に大笑してもらうのもまた一興と、アウルムは不敵な笑みを掲げて諧謔に吊り上る口を開いた。

 

「気にすんな。俺はお頭の憂いを断つ狗だ……憂いを断つには切れ味のいい刀と相場が決まってるんだ。だからお頭は豪快に腰を据えてりゃいいのさ」

「おっ、先代に言った言葉を俺にもくれるのか。そりゃありがたい、俺はいい刀を持ったもんだ。

 お前にそこまで言わせたんだ、ここで俺が引っ込んじゃ頭として情けない事この上ないな。先代が墓場から化けて出てきちまう」

「それもまた面白そうだ。歩く死体になった先代と、酒を酌み交わすのも楽しそうだ」

 

 悲観した所で何も解決しないのは二人とも承知の上。だから彼らは笑い飛ばす、この掃き溜めのような牢獄の檻の中で。

 風錆の出方が覗えない以上こちらから態々火を投げ込むような真似は出来ない。組織間の争いにはジークという旗頭は必要不可欠なのはアウルムも理解している。よって彼が下した決定なら、それに反論する理由などある筈がない。

 ひとしきり朗笑した後、アウルムはいち早く黒羽を捉えるべく部屋を後にした。去り際に、風錆の喧伝の『大太刀を背負った男アウルムが犯人である』という言葉から自分を隠す為に、背中のニホントウをジークに預かってもらう事にした。その場しのぎの応急処置でしかないが、やらないよりはマシだと断じた。

 

 

 意外と長い時間ジークの部屋に居たのか、リリウムはもう営業時間になっていた。階下に降りると娼婦を目当てに訪れた男達で待合室はいっぱいになっており、一晩中嗅いでいたら朦朧となりそうな焼香の香りと、天井を漂う紫煙で充満している。

 客はどれもアウルムが見た事ある娼館では馴染みの常連ばかりで、つくづく牢獄が閉じた世界であるという事を実感できる。そんな中に一人だけ、見慣れない男が居るのに気が付いた。

 牢獄民であるのは間違いなさそうなのだが、ソファーに座って順番を待つその仕草が、どうにも挙動不審にアウルムには思えた。大方、初めての娼館なのだろうか、慣れない場所に待たされる人間と同じように視線が右往左往している様は、初々しくて知らず失笑してしまいそうになる程だ。

 ふと、この男の相手をするのが誰なのか気になったアウルムは、しばらくの間ここで時間を潰そうと思い男達と同様に煙草を咥え火を点けた。すぅ、と意識が切り替わり視覚や聴覚、そして嗅覚も発達し始める。普段眠らせている不必要な機能を目覚めさせ、人ごみの中に居ながらその気配は完全に館内に溶け込んでいった。

 最近は何かと休みの少ない今日この頃を憂う感情すら凍てつかせ、その時、男の順番が回ってきた。案内人に部屋まで通された男の入った部屋は、以前アウルムに迫ってきた娼婦、シェラの部屋だった。

 彼女は扉の前で男の来訪を喜び、我慢も効かずにその場で首元に抱き着き、情熱的に口づけを交わしていた。いまにも自殺しそうだった彼女が、これほどイキイキしているのは久し振りに見たアウルムも、これで当分は彼女の精神状態も大丈夫だろうと判じ煙草を揉み消しリリウムを後にした。

 

「あーっ、アウルアウルアウル!」

 

 外に出るなり甲高いネジの飛んだ声が聞こえ、久し振りだと思いつつも面倒な奴に捕まったと、大袈裟に溜息を吐いて振り返る。首に掛けられた娼婦の首輪が、彼女が走る度に上下し金属音を鳴らしている。

 

「久しぶりだね~、最近ずっと見てなかったけど何してたの?」

「仕事だよ仕事。そりゃもう面倒くさくて一週間ぐらい寝続けたいぐらいだけど、アイリスに怒られるから仕方なく、な」

 

 まさか巷を騒がせている黒羽を追っているなんて事、暗殺者としての自分を秘匿しているアウルムが言えるはずもなく。とりあえず嘘ではない部分だけを抜粋して、咄嗟にやり過ごした。

 そんな思惑があったなど露知らず、相も変らぬ能天気な顔でリサはアウルムの言葉を疑いもせずに一笑した。

 

「あはははっ! さっすがアイリスだよね、怠け者のアウルもあの子には頭が上がんないわけだ」

「人が尻に敷かれてるみたいな言いぐさだな。言っとくが、これでも夜は俺がリードしてるんだからな。そりゃあもう、アイリスは俺にメロメロよ」

「へぇ~、まっアウルが凄いってのは娼婦みんなが知ってる事だし、まあ信じるよ。でも、尻に敷かれてるっていうのは、否定しないんだ」

 

 普段から一拍遅れて会話を理解するリサが、今日は珍しく察しが良い。否定も肯定もせずに流した言葉を拾われ、アウルムの口端が引き攣った。

 

「なあリサ、そんな事より……俺と話してないで客取らなくていいのか?」

 

 直観的に、このまま彼女と会話を続けてしまうとボロが出そうな予感がしたので、他の話題を上げる事で混ぜ返すことにした。

 当然、仕事として表に出ているリサは忘れかけていた事実を突き付けられ、瞠目し口を大きく楕円形に開けた。

 

「あっ! そうだった、あたしお客を捕まえなきゃダメだったんだ。ごめんねアウル、あたしそろそろ仕事に戻るよっ――ねぇねぇそこのおにいさ~ん! あたしと一緒に輝かな~い?」

 

 慌ただしく立ち去りながら道行く男を、まるで成長の見られない口説き文句で声かけるリサを一瞥し、たまにはアイリスを連れて彼女とクローディアも交えてヴィノレタで一杯やるのもいいと思いつつリリウムに背を向けた。道中、メルトの店にも最近は顔を見せていないのを思い出し、ちょうど通り道なので寄る事にした。

 どうせまだこの時間帯からじゃ黒羽の統計的な活動時間ではないと判じ、最近足が遠のいていた扉のドアベルを聞きながら中へと入った。

 来た時間が早かったのか、店内には未だ客の姿は見受けられなかった。もう何度訪れたかわからないヴィノレタは、メルトの作る料理の香りと長い年月を支え続けた木材の燻されたような香りが漂っている。

 

「うーっす」

「あら久しぶりね、いらっしゃい」

 

 おざなりに挨拶を交わしいつもの席へと腰を下ろす。牢獄全土を包み込むような包容力ある微笑みでアウルムを迎えたメルトは、注文の訊かずに陶杯を出し火酒を注いだ。彼の顔を見れば、もう何を欲しているのかは大体理解出来るのだろう。

 

「はい、どうぞ」

「あんがと」

「最近、あんまり来てくれてなかったけど、やっぱり例の事件のせいなのかしら?」

 

 娼館街の噂はつむじ風よりも早い。メルトの予想は的を射ており、事情を殆ど知っている彼女なら、と陶杯を呷りアウルムは口を開いた。

 

「面倒な事に、それだけじゃないんだよな」

「なによ、勿体ぶっちゃって。教えてくれないの?」

「いや、どうせここで俺が黙ってたって、いつか誰かの耳から入るだろ。黒羽のバケモノ退治に集中してるのを見計らったように、風錆が動き始めてな。ちょいと良いようにされちまってる」

「あぁ……ベルナド。まーたジークに喧嘩売ってるんだ」

 

 彼女にしては珍しくにべもない態度はそれほどベルナドを良く思っていない表れで、昔を思い出したのかカウンターに肘をついて深く嘆息した。

 ベルナドを好ましく思っていない理由に心当たりがあるアウルムは、ふいに視線を店のメニュー表へと移した。酒の種類や、様々な料理がリーズナブルな値段で書き記された紙の最後尾に、一際異彩を放つメニューが載っていた。

 ――ウインク 金貨一〇〇〇枚――

 それはメルトが娼婦時代に贔屓していた客たちの横言を抑止する為に記されたもの。金づくでの色を振りまくような事はもうしたくないという、彼女の想いが記されたメニュー。始めは金貨一〇枚だったウインクだったが、これを見たベルナドが本当に支払おうとしたので、金額が決して払うことが無いだろう一〇〇〇枚まで吊り上げられた。

 いわばベルナドを拒絶する意味合いも持っているこれが、いまもなお彼女を憂鬱にさせる。

 

「今度あいつが来たら、次は金貨一万枚にでもして見ないか? そしたら流石に、皮肉すら出てこないかもしれないぞ」

「そうかしら。でもそれはそれで、ベルナドを意識しすぎてるって思われそうで嫌なのよね。昔っからそうなのよ。先代に身請けされた私を金で自由にするのが楽しみの一つみたいで、胸が空くらしいわよ」

「牢獄の人間は誰しも人に理解されない性癖を持ってるんだ、それぐらい可愛いもんじゃないか」

 

 正気ではいられないこの地でまともな道を歩むものなど多くない。舗装もされず荒れ果てた牢獄の道は、どこへ向かおうともいずれ自壊か、それとも死が待ち受けている。特殊性癖の一つや二つ、アウルムにしてみれば当たり前の牢獄の日常。見かけるたびに口を挟んでも仕様がないのだ。

 それに、ベルナドが自分の感情に正直に生きる様は、敵ながらに嫌いでもない。偽ることなく鮮烈に余生を駆けるベルナドは、いわばある種牢獄では完成された人間なのかもしれない。

 金に貪欲で、欲に忠実、されど冷静さを欠かない鋼の精神。つくづく惜しいと思う。それだけに、殺す夜が訪れたら彼の口から否が応でも答えを聞き出したくなる。

 

「へぇー、それじゃあアウルはどんな理解されないような性癖を持ってるのかしらね」

「さーな、俺にも何が理解されないのかわからんから、言いようがない」

「またそんなこと言って、アウルが言わないならアイリスに聞いちゃうわよ」

 

 アイリスには頭が上がらないのを既に感じ取っているのか、メルトの瞳は何処か確信めいた色を帯びている。

 

「最初は渋るかもしれないけど、ちょっとお料理のレシピとか提供したらあっさり教えてくれそうよね。最近のアイリス、料理の勉強してるんでしょ?」

「……それ、だれから聞いた?」

「ティアちゃんよ。なんだかとても楽しそうに話してて、聞いてるこっちが微笑ましく思えちゃったわ」

「ぐっ…………」

 

 陶杯を持ったままカウンターに突っ伏したアウルムは、苦悶の声を漏らしながら束の間そうやってメルトのからかいから身を護り続けた。ティアにこの事を口止めするつもりが無かったアウルムが油断していたのが原因なため、彼もあの小動物のような羽つきの少女を責めるつもりはなかった。

 一段上の位置に立っているカウンター内のメルトから見ると、アウルムの背中が良く見える。それ故に、彼の違和感にもすぐに気が付いた。

 

「あら、そう言えば今日はあの物騒な刀を差してないのね。どうしたの? いつも肌身離さず持ってたのに」

「ベルナドの吹聴で俺が標的になってるからな。ニホントウを差してなければ、俺の顔をしらない奴なら早々簡単に見つかる事もない」

 

 アウルムの背負うニホントウは大抵の人の目に留まる。長大な得物はそれだけで人の印象に根付く為、彼のような暗殺を生業にする人種には通常歓迎されない武器であるのだが、性能が桁違いなだけに重宝しているのもあり、また盗難の恐れもあるので簡単に手放す事が出来ない。

 気持ちの整理がつき渇いた喉を潤す為に陶杯を干し、妙に軽くなった背中を撫でながら寂寥を覚え憂鬱そうに唇を突きだした。

 

「あと三日の内に黒羽をとっつ構えるかぶった切るかをしなきゃならんのだがなぁ、如何せんアレが無いんじゃ切れる相手かもわからん。

 バケモノに毒が聞くのかもわからないし、心臓を突き刺しても死ななかったら、もう首でも飛ばすしかないよ」

「なんだか穏やかじゃないわね、大丈夫なの? アウルが帰らなかったら悲しむのはアイリスなんだから、元娼婦として身請けした子を泣かせるような真似は、許さないわよ」

 

 元娼婦としての矜持なのか、目を眇める彼女からは冗談ではないという気迫が伝わってくる。

 実際に黒羽と対峙したことは一度もないため相手の力量は図れないが、これまでの死体の惨状を鑑みるに余程の膂力を持っているのはわかる。そして何より厄介なのは空を飛べるという事。

 人間は空を飛ぶことが出来ないので、その戦い方もまた自ずと絞られる。弓矢や弩を使わない限り視界の上からの攻撃は無い為、奇襲もしくは伏兵でもいない限り頭上を警戒する必要はない。長身のアウルムには少なくともその程度の警戒で十分だ。しかし、空を滑空でもされたら平面的な戦いから立体的な戦いに変貌してしまう。

 地に足つけて戦うヒトに縛られた条理の外なら、その危険性はますます高まってしまう。――が、それはあくまで真っ当に戦うならの話だ。暗殺者が姿を晒すのは必殺の瞬間、決してその命を逃さぬと確信した時のみ。姿なき暗殺者というのは、そうして生まれているのだ。

 

「わかってるって、そう簡単に死ぬタマじゃないのはメルトも知ってるだろ」

「そうだけど……そうだわ、ねぇ……あなたの仕事の事、アイリスにはもう言ったの?」

 

 心配そうな声色でそう言われ、アウルムの脳裏で今頃自宅で料理の勉強でもしているのだろうアイリスの顔が思い浮かんだ。

 

「……いや、必要ないだろ。態々喧伝するような仕事じゃないし、俺に負い目は無くともアイリスがどう思うかわからないからな」

 

 自然と固くなった声と表情に、他でもないアウルム本人が一番驚愕した。

 もし彼女がアウルムの素性を知れたとき、果たして笑顔で受け入れてくれるのだろうか。それとも、揺らぎのない落ち着いた面持ちで素っ気なく受け入れるのか。どちらも希望的観測でしかない。

 どんなに彼が殺す事に心揺らがなくとも、それがそのままアイリスにも伝播するわけではない。ヒトは往々にして危険因子を本能的に遠ざける生き物だ。いずれ死ぬと達観していようとも、今すぐ殺されたい人間なんてのは居ない。例え居たとしても、それはもう生を放棄した生ける屍と同義だ。

 表情を凍らせるアウルムの態度が腑に落ちないのか、眉根を寄せてメルトが追撃する。

 

「でもいつかあの子にも危険が及ぶかもしれないわよ、それこそベルナドにでも――」

「そうならないように行動するのが、俺の仕事だ」

 

 まるで悪しき予言を断ち切る断罪者のように遮り、陶杯を木板の上に音を立てて置いた。――そのときだった。

 

「きゃっ……!」

「ッ……!? これ、は――!」

 

 大地を揺るがす例外なき災厄。上下左右に揺さぶられたメルトは咄嗟にカウンターにしがみ付き、椅子に腰かけていたアウルムは振り子のように体が揺れながらも、バランスを崩さずに座り続けている。

 混沌の底より唸りを上げるような地響きに、合唱するように店内のグラスがぶつかり合い甲高い音を立てる。まるで悪魔の楽章を奏でられているような地震の演奏は、程なくして何事も無かったかのように静寂に呑みこまれた。

 地震がおさまった安堵から息を吐いてメルトが胸に手を当てた。緊張で昂ぶった鼓動を抑えようとしているのだろう。

 

「最近、多いわね地震」

「聖女様の崇高なお祈りが足りないのかな、いまの聖女は」

「頑張ってもらわないと、また落ちたりした日には……」

 

 そう言いさして窓から店外を見る視線には沈鬱な色が濃く出ていた。店の外ではたまたま近くを歩いていた者が、ここら一帯を縄張りにしている浮浪者が、娼婦が、男が、子供が、老人が、皆一様に恐懼に駆られ混乱に惑い、一瞬にして阿鼻叫喚の地へと変転した。

 十数年前の大崩落が、彼らに決して癒す事が出来ない深い傷痕を残したのだ。鮮血の流れ続ける刀傷を火で炙られ続けるような責め苦にも等しいこの傷痕は、牢獄民に嘆傷を与え哀咽に咽び泣く事しか許さない。

 聖女の祈りとは、それら傷痕をこれ以上広げない為の処置であり、唯一の特効薬でもある。信仰によってこの都市は浮かんでいるという言い伝えを守り、常日頃から民草を代表してその一身を神に捧げる聖女は、だからこそ牢獄でも思い慕われている。聖女の祈りなくして都市の安寧は約束されない、とそう言われている故に。

 しかし、アウルムの胸に去来したのはあの日に起きた大崩落の光景だった。聖女が祈りを怠ったが故に下層の一部が崩落し、あまつさえ牢獄という天然の地獄が生まれてしまった。それらすべての怒りや憎しみ、数えきれない哀しみを向けられた先代の聖女は、都市の処刑場から身を投げ外界の混沌へと呑まれていった。

 

「これでどっかが落ちてたら、間違いなく牢獄民は暴動の坩堝になるな。そうなったら、これまで保たれてた牢獄の維持が完全に崩れ去るかもしれないな」

 

 想像するに易い光景が目に浮かび、アウルムは陶杯をメルトに突き出し火酒を催促しながら神妙な面持ちで続ける。

 

「下層へ上がる手段は一つしかない。関所を通る事でしか、俺たちは下層へ上がる事すらままならない。もし暴動が起きて関所に人が詰め寄ったら、奴ら間違いなく関所を落とす選択をするだろ。

 侵入経路であり退路でもある関所を落とせば今度こそ――完全に牢獄は孤立する」

「みんな不安でしょうがないのよ、こればっかりは仕方ないわ」

 

 博愛の精神を見せるメルトはあっさりと現状を受け入れる。彼女の博愛はアウルムの許容に近しい所があるが、それでも彼女は愛をもってそれを受け入れる。慈愛をもって許容する。執着しないが故のアウルムの許容とは訳が違った。

 正直、アウルムにとってはどんな理由で都市が浮いているのかなど、興味がなかった。落ちる時になれば、誰だって落ちる。それは過去の大崩落によって大地と共に大事な何かを落としてしまった彼の、いまだ取り戻せぬ人間性ともいえる。

 突き出された陶杯を受け取り、火酒を注ぐことなく洗い場に置いたメルトが毅然とアウルムを見据える。姉のように見守り、母のように愛する者の眼差しで。

 

「ほら、そろそろ仕事に戻らないと、アイリスにお尻蹴られちゃうわよ」

「てめっ、やっぱり知ってんじゃないのか!?」

「さあどうだったかしら、御預け喰らったア・ウ・ル」

「くそぅ、いつか絶対そのおっぱい揉みしだいてやる」

 

 やはり彼女はアイリスとの進展具合から近況に至るまで知っていた。底意地の悪そうな笑みで見やり、愉悦に口元を綻ばせる彼女に、アウルムは料金をカウンターに置いて席を立った。

 去り際の言葉は捨て台詞としては下の下であるが、不意を突かれた彼にはそれぐらいしか言い返せる余裕が無かった。

 アウルムが去った店内は静寂の帳が降りてきたように静まり返り、外で響く嘆きの声との差に余計に寂寞とした空間にメルトには思えた。

 若き暗殺者が置いて行った硬貨を手に取り、メルトは最後に残した彼の言葉を脳内で反芻させる。

 冗談のみで構成された言葉であるのは、彼女とて重々承知している。しかし、それでも無感動でいられるほど、彼女は冷酷ではない。いまより昔は、そんな彼の心無い言葉に一喜一憂して振り回された。そんな記憶が蘇り、当時の自分を振り返り苦笑した。

 どんなに懐かしく思おうと、それがどんなに報われない夢だとしても、彼女には後悔など一遍もない。こうして店に立つ自分もまた、嫌いにはなれないから。

 だから口を衝いた言葉は、忘我のままで、自覚すらなく溢れ出ていた。

 

「いつかそんな日が……本当に来たら良いのにね」

 

 

 ※

 

 

 全てが曖昧な夕方が終わり、待ち構えたように夜の帳が降りて店が軒を連ねる窓からは胡乱な光が漏れ出始めている。地震の余韻こそ残ってはいるが、だからこそ人々は忘却したい一心で今宵もまた酒か女……はたまた麻薬に溺れ逃避する。

 牢獄でも一番の賑わいを見せる娼館街の外れ、スラムにほど近い路地裏で男が息を殺して佇んでいた。

 背中から突き出た羽を邪魔に思いながら、ひっそりと得物を狙う猛禽類のような剣呑な眼差しでとある家屋を凝視している。そこは予てより羽狩りが目星をつけていた羽つきが匿われている可能性のある家で、明日中にでも保護に行く予定の場所であった。

 これから起こす行動に昂然となる男は、家屋周辺の気配を察知すべく全身の間隔を際立たせ集中力を研ぎ澄ませている。羽の感触が男の集中をいちいち乱すが、これを取る事など出来る筈もなく、仕方なく耐え続ける時間が非常に永く感じる。

 思えばこうして殺しを初めてどれくらいになるだろうか。彼が殺し始めた頃、それはもう肉を切り裂き、羽を散らせる快感に陶酔しない夜は無かった。

 然るにこれは彼の喜悦を貪る行為であり、同時に、世に定められた理なのだと正当化する。

 羽つきの命を手折るのはそれ程に男に悦楽を与え、感受するがために再び繰り返す。その血肉を撒き散し、血煙を立ち上らせ本能のままに殺すという行為は、延いてはこの世を安寧へと導く行為なのだと信ずる。

 肥大した漆黒の羽は重心を傾ける程に重みがあるが、それもなるべくしてなった結果だ。甘んじて男は受け入れる。

 

「それじゃあ、買い出しにいってくるね」

「気をつけなさいよ、羽狩りに怪しまれないよう直ぐに帰ってくるんだよ」

 

 待ち望んだ家屋の扉が開き、奥から顔を出したのは年端もいかない少女と、その身を案ずる老婆であった。少女は雨も降っていないというのに、外套を深くかぶり体の輪郭を正確に見破られないようにしている。

 その姿を見受けた瞬間、男の脳髄に興奮剤を投与した時のような熱く、電流の流れるような感覚を覚えた。長い事この人目につかない路地に潜んでいた事もあり、瞳は夜に適応して少女の姿を鮮明に映している。

 例え外套をかぶろうと雨も降っていない今時分、それが後ろ暗いものを示唆しているという考えにも至らない無能さ。少女自らが、進んで羽つきであると知らしめているようにも思えてしまう。

 建物の陰に潜む男が口元を嗜虐に歪めていることなど露知らず、少女は爛漫に路地を東の娼館街に背を向け駆けだした。

 

「バケモノなんかいやしない、バケモノなんか気のせいさ」

 

 巷を賑わせる正体不明の殺人鬼の事を歌にしながら小さな歩幅で歩く少女の後ろを、一定の距離を取って追随する男。彼女が歌っている相手は、その羽を揺らしながら着実に後を着けている。

 西に向かって歩を進める少女が向かう先には心当たりがあった。娼館街より離れた場所にある雑貨屋。そこでは関所前広場にて拡がる市で捌かれた品物が並び、市よりも若干上乗せされた金額で食材から日用品まで売られている。少女がこの夜遅くに買い物に出たのも、人通りの多い市を避けての事だろう。

 男は少女が雑貨屋に向かっているのを理解すると、人目につくのを警戒し一時遠巻きに少女を観察する事にした。バケモノは正体不明でなければ、バケモノとしての意義を見失う。よって、細心の注意を払って事に及ばなければならない。

 水垢の目立つガラスから覗かせる店内の光は、油が切れかけているのか朦朧と明滅し続けている。そんな店内を気にした様子もなく目的を持って移動する少女は、いくつかの食材を手に持って店から出てきた。幼いながらに一人で生きる術を学んでいる少女に、これから降りかかる災難を想うと男は今にも声を上げそうになる。

 

「バケモノなんかこわくない、バケモノなんかやっつけろ」

 

 行きと同じように音吐朗々と謳う少女は、老婆の言いつけ通り真っ直ぐに自宅目指して歩いている。雑貨屋から遠ざかり、人の営みが薄れていく夜の街路を奥へ奥へと進み、やがて、月明かりすら差し込まぬ路地へと入っていった。

 行動するなら――もう今しかない。

 男は胸の内から煮え滾り湧き上がる感情を、下腹部から脳天まで駆け廻らせ弾かれたように物陰から躍り出た。風を切りながら、背後ではためく羽が風を打つ音を聞きながら、さながら獲物を狙う鷹のように素早く疾駆する。

 街路を駆ける男の脳内では、まるで自分の疾走が風よりも早くかけていると確信しながら、素知らぬ顔で依然として気が付かぬ少女の背中目掛けて追い縋る。

 貫けばあっさり絶命しそうなその背中に、渾身の力と駆ける速度を上乗せして一際強く地を踏みしめる軸足を起点に、半円を描きながらもう一方の脚をボロキレを蹴飛ばす様に蹴りぬいた。

 

「ぁかッ――!」

 

 地べたに転がる小石を蹴ったように跳ねながら、不意打ちを食らった少女は声にならない絶叫を引きながら石畳を転がる。二回半撥ねた後に建物に向かって背中を打ち少女は止まった。しかし、あまりの痛みからその場に蹲り、外敵に触れられた時の虫のように丸くなりながら小刻みに体を震わせた。

 

「ぃ……た、ぁぃ……ぉばぁ……ちゃ、ん。ゃだ――ょぉ……」

 

 何故自分がこんな目に遭っているのか理解出来ないのか、少女は赤子のように四肢を折り畳み嗚咽を漏らしながら啜り泣く。背中は蹴られたときか、それとも建物に打ったときか、骨に異常でも発生したように動かない。

 背を丸めたまま固まる姿を凝視し、その背中が一般人よりも膨らみを孕んでいるのを見て、男が狂喜に口を吊り上げた。

 力無き存在を追い詰めんと、悠然とした足取りで歩み寄る男の姿は、少女の目にまさしく噂に違わぬ大きな翼を生やしているように見えた。恐怖と痛み、それと混乱のせいか正しく物事を認識できず、シルエット越しにしか視認出来ないソレは、間違いなくバケモノと認識していた。

 

「ひぃっ……! ば、ぁば……けも、のっ」

「…………」

 

 慄く少女の途切れ途切れな言葉に返答はなく、ただ言葉ではなく態度によってあらわした。

 恐怖に身が竦む少女の身体を、男は再度容赦なく蹴りつけた。

 

「――ぁが、ぅぇげぇ……ッ!」

 

 一度も鍛えたことなどない皮膜のように柔らかい腹部を蹴られ、少女の口から胃液と僅かな吐瀉物が漏れ出る。呼吸の仕方を忘れたように荒々しく肩を上下させ、涙を鼻水を垂れ流す姿は、男にとって至上の狂喜を呼び起こした。

 そう、これこそが与えられた使命。殺し、殺し殺して殺す事こそ、この自分に与えられた崇高なる定めなのだと。顔貌を絶望に歪ませ、澎湃と流れる涙の河に沈める事のみが、この身に喜びを与える。

 すかさず男は少女の外套を乱暴に剥ぎ取った。掠れた声で必死に哀願してくるが、聞く耳など持たず一心不乱に衣服を切り裂く。

 

「ぁ……ぁ、ぉばぁちゃ、んの。ふく……なの、にぃ」

 

 祖母より送られたお古の衣服は、背中を大きく縦に割かれて無惨にも散ってしまった。もうこれでは、頼んでも直せない。

 恐怖よりなにより、少女は祖母の呆れた口ぶりとは裏腹な優しい微笑みを裏切ってしまったと、砂のように消えてしまった祖母の顔に思いを馳せて、言葉にならない超音波のような高音で泣き伏せた。

 痛みはもう全身が痺れたように感覚がない。立ち上がろうにも、腰から下に力が入らない。まるで自分の身体ではないように、下半身に力を籠めても頼りなく太腿が震えるだけ。もう、このバケモノから逃げ逃れるすべは……ない。

 

「…………クヒッ」

 

 しゃくりを上げるように零れ出た笑い声は、確かに男が漏らしたものだった。しかしその悍ましく、おどろおどろしい声に出した本人も驚いた。

 自分はこんな声を持っていたのか。であれば、このからだはもう、使命を遂行するだけのケモノなのだろう。

 絶望に瀕し悲嘆にくれる少女を爛々と輝く双眸で睥睨し、その貌に酷薄な笑みが薄く彩られ、極彩の感慨を持って、男は得物を掲げた。

 先端が鋭利に鋭くなったソレは、間違いなく少女を一撃の元に亡き者に出来るだろう。だが、男が求める死は慙悔の海に沈みながら、最後の断末魔を聞き届け殺す事。単に殺すだけならば、始めの背後からの一撃で、間違いなく頭部を狙った。

 まともな食事をしてなく栄養もすくないのだろう、少女の身体は衣服をはぎ取ると骨が目立ち痩せ細っていた。牢獄に生きる子供の大半が、みな彼女のように筋張っていた。まだ親に金の道具にされていないだけ、少女は運が良いだろう。羽を生やしてしまったがばかりに、こんな目に遭っているいまとなっては、それももう遅いが。

 小枝のような腕を掴み、吊り上げる。目鼻口から溢れた液体によって、最早爛漫であった少女の面影はない。

 

「ころ……さ、な……いで、おねがぃ…………し、ま……ッぁす」

 

 無き疲れ声にも覇気がない。蚊の鳴くような声で懇願する少女は、その昏く淀んだ瞳に相手の三日月に歪む口元を見た。

 

「……せぃ、じょ……さま」

 

 嗅ぎなれた香りが少女に信仰を呼び覚ました次の瞬間、吊り上げられた少女が再び地面に落とされた。――否、それはまるで落としてしまったと言わんばかりで……男の腕の位置は変わらず少女を持ち上げた時と同じ位置にある。そして……その手に、少女の腕を持っているのも同じ。

 

「――――ッ!」

 

 声はもう、一つだって出なかった。内臓を吐き出さんばかりに口を開き、息だけを吐き続ける少女に、もう現実を正しく理解する思考力は存在しない。正気など千々に乱れ元の形など忘却してしまった。

 腕を奪った感触に脳内麻薬が炸裂し、陶然となるが、男は油断せずにもう一本の腕も奪い取る。それも、さっきのような一瞬の理解出来ない内ではなく、じわじわと沁みるように緩やかに出来ることなら朝日が出るまでの時間全てを使いたいぐらいだった。

 徐々に裂けていくもう一方の腕。その名状しがたい痛覚に、既に気が狂った少女の理性がこの瞬間だけ回帰した。だがそれは決して喜ばしい事ではなかった。正気を失い忘我のままに死に果てれば、或いは少女にとって唯一最後の救いだったかもしれない。現実は惨酷な事に、少女に更なる苦痛を与えた。

 

「ァ――――ッ!!」

 

 半分以上裂かれた上腕部をそのままに、男は徐に打ち捨て、腕部ではなく指先から順に切り裂いていった。輪切りではなく、縦に、幾度となく一本一本が細く、脆く少し引くだけで千切れるぐらいに細く。

 そうして千切りにされた腕部を、ある程度の大きさに切り分け、男は先ほどから何かと喧しい少女の悲鳴が煩わしく感じていたので、細く切った肉片を口に詰めた。

 想像だにしなかった所業に、少女の目が一際瞠若し白目に向いてしまう。完全に気絶を果たし眠る彼女に、今度は憤然と脚部を切り取り始めた。想像できる中で一等無惨に、酸鼻極まる所業を繰り返す。

 割れ目を大きく切り、開いた穴に取った足を詰める。目玉をくり貫く。背中の羽をむしり取り、眼球を喪った眼窩に羽根を幾つもの数植える。途中から、少女の口から祖母を求める声もなくなり、ついに抵抗する力を失った少女の身体に、男はトドメの一撃を振り下ろした。

 使命は、ここに成就セリ。

 背に生やした羽が熱い。喉よりこみ上げる熱い何かに、大きく声を上げたい。

 群青の雲を見上げ、奥に隠れ潜む月を睨めつける。足元に広がる血だまりを踏みしめ、自覚する。

 バケモノ……そう、己はバケモノであると。そうあるが故に、都合が良い。

 しかし、バケモノの時間ももうそろそろ終わる。そうしたら自分はまた戻らなくてはならない。――なんのために? そう、使命の為に。これは世の理を示す最も単純にして明快な行為なのだから。

 誰かに姿を見られないよう細心注意を払って、男は夜の街路をひた走った。

 

 

 娼館街の外れスラムにほど近い家屋内にて、一人の老婆が古ぼけた暖炉の前に佇み少女の帰りを待っていた。

 夕食の支度に勤しんでいたときに、ふと少女が「わたしも作りたい!」と珍しく手伝いを買って出たのを嬉しく思い、足りない材料を買いに行かせた事を遅蒔きながら彼女は後悔した。

 こんな時間に行かせるべきではなかった。羽化病を発症し、失意の底に塞ぎ込んでいたたった一人の孫が、ようやく心を開いてくれたのを嬉しく思うあまり、ここがどんな場所で、いまどんな事件が起きているのかを失念していた。太陽が翳り宵闇が深くなる時刻に、世にも恐ろしきバケモノが闊歩しているという、荒唐無稽な噂話。

 少女はそんなものは嘘っぱちだと一笑に伏して出て行ったが、雑貨屋から帰ってくるにしては時間が掛かりすぎている。

 心配になった老婆は、痛む腰に鞭打ち杖を取り出し外へと飛び出した。もしかしたら、孫はどこかで道に迷っているのかもしれない。この闇の深さだ、そうあってもおかしくはないと、己に言い聞かせながら老婆は覚束ない足取りで雑貨屋への道を躓きながら駆ける。

 無事でいて欲しい。この際、浮浪者に乱暴されるぐらいであれば老婆はまだ安堵出来る。命さえ残っていれば、この先の人生はまだ残っている。羽狩りの監視され潜り抜ければ、いつまで続くかわからぬ穏やかな生活を再び始められる。

 女というだけでこの牢獄は生きにくい。無力とは即ち罪であると、生物の原点に還るこの牢獄は、体を売ることでしか力の庇護下にない女は生き残れない。たとえそうであっても、少女一人の人生ぐらい、己の残り少ない命を懸けてでも守りたい。残された宝を守る為なら、老婆はなんだって出来た。

 慣れない運動に喉が嗄れ、呼吸が荒くなり、一息大きく呼吸をすると――錆びた鉄の……血の臭いが漂ってきた。

 

「ミーシャ! どこだい? どこにいるんだい!?」

 

 少女の名を呼びかけるも、返ってくるのは夜風の嘶きのみ。あざ笑うかのような風の音は、老婆に悪寒めいた寒気を奔らせる。

 必死の様相で杖を突きながら血臭の漂う方角へと足を進める。と、足元がぬかるみ、老婆はその場に転倒した。頬を濡らす冷たい液体が、酷い臭いを発しており思わず顔を顰めてしまう。

 

「一体誰がこんな所に――」

 

 こんな所に――死体を放置したのか。

 原型をとどめていない屍は、野良犬に食い荒らされたのか、大きく開いた腹部から内臓が出たまま所々が破けている。それが誰の死体であるのか、老婆には顔がなくなっても即座に理解できた。

 死体の傍らに捨てられたボロボロの衣服。それは老婆が少女を元気づけようと丹精込めて作った、この世でたった一つの衣服なのだ。それがゴミ布にされて、近くに羽つきの死体があるという事は……

 

「あぁああ、ああああああァァアァ――!」

 

 血と肉の鼻腔を衝く悪臭など構わず死体に覆いかぶさり、あらん限りの声量で老婆は哭いた。

 どれだけ哭こうと、どれだけ己を責めようと、もう少女は帰ってこない。玻璃のような瞳は純然とした輝きをもっていたのに、それももう誰かの手によってか、数本の羽根が突き刺さり生け花のようにされ、片方は無くなり洞のようになってしまった。

 もっと厳しく、言い含めるべきだった。

 バケモノは居るのだ。間違いなく、孫はバケモノの手によって無惨に殺された。

 痛かっただろう、辛かっただろう。想像を絶する恐怖と絶望は、必ず聖女イレーヌ様のお導きの下に仇は討ち果たされる。だから――安らかにお眠り。

 少女の血河をその身に浴びながら、老婆はヒトが駆けつけるまで泣き続けた。

 周辺には――一本の黒い羽根が落ちていた。


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