牢獄の暗殺者   作:琥珀兎

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 やってしまった感はある。何やってんだお前と批難される謂れもある。
 気分転換に書いていたものが形になってきて、調子に乗ってしまったとしか言えません。
 駄目な奴ですはい……

追記:一部文章修正


第一話:牢獄の怠け者

 およそ想像しうる限りの嫌悪感を煮詰めたような臭いが立ち込める路地で、男は懸命に、努めて息を潜めていた。

 口での呼吸ではどうしても大きくなってしまう為、鼻で呼吸を続けているが、この《地区》に漂い染みついた悪臭は鼻が曲がるほどだった。肺に酸素を吸入する度に、男は咽喉の奥からこみ上げる吐き気を懸命に抑えている。今ここで吐き出してしまえば、身を潜める意味がなくなってしまう。男の居場所が露見してしまえば、忽ち命なんて消し飛ぶだろう。生物としての本能が、男にそう告げている。

 早鐘のように鳴る心臓の動悸を胸の上から強引に手掴みで止めようと必死になっていると――足音が聞こえてきた。

 一歩、また一歩と石の路地を踏みしめる音を耳にするそのたび、男は呼吸困難に陥っていく気がした。むろん錯覚であるのだが、じわじわと真綿を絞めるように迫る死の恐怖に、自制が追いつかないのだ。

“このままでは殺される――一刀に両断されて殺される”

 気が気ではなかった。正気を保てば、現実のどうしようもない理不尽さに発狂してしまう。でなければ魂が抜け落ちて、ただの人形のように抜け殻になってしまう。正気を失おうが、保とうが、男に待ち構えているのはどちらも等しく“破滅”の二文字だけ。いっその事この場に留まるのをやめて、己を探す足音の主に反逆の拳を振り上げようとも思った。

 勝てるわけがない。勝てないからこそ、せめて生き残る為に自分はこんな、噎せ返るような臭いが籠る《牢獄》で身を潜めているのだ。

 もともと男は下層の人間だった。上層で華やかな生活を送る貴族に憧憬を懐きながらも、それが叶わぬと分かりながら、どこか捨てきれない想いとして抱き続けてきた男だった。これだけならなんの変哲もない、分不相応に羨む青年でしかない。

 だが男は罷り間違って牢獄へ降り立ち――肩幅に気を使って遊ぶだけならいざ知らず――あまつさえ、身の丈以上の“おいた”をしてしまった。

 下層に住まう男にとって上層は見上げるべき場所。たとえ上層行きが叶わないのなら、いっそ下層よりもさらに下にある牢獄に趣き、自身よりも下の人間を見下し嘲り、優位に立つことで貴族の味わう気分を己に重ねようと思いついたのだ。

 憧憬は歪み、倫理が崩れた男は、仮初めの優越感に名状し難い興奮を覚えた。下層では行えなかった非人道的な事が、この牢獄には溢れている。

 顔だけは良い身分の低い女を、金さえ払えば好きに抱く事が出来る。人気のない場所で横たわる人間を蹴飛ばしても、衛兵が駆けつけてこない。牢獄に五度も通った頃、男の中である“勘違い”が芽生え始めていた。

 ――牢獄とは、文字通りここに居る奴らを閉じ込める堅牢な獄なのだと。故に奴らは罪人。傷つけてもなにも悪くはない。むしろ、己の立場を明確にするために必要な処置なのだと。

 一度芽生えた“勘違い”は男の倫理観に根付き、それまではある程度控えめだった遊びに拍車が掛かった。

 現在、この国《浮遊都市ノーヴァス・アイテル》では、住民を非常に困らせている伝染病があった。それがいつ発祥し始めたのかは男にはわからないが、ただ、一度罹れば国が運営する治癒院に行かなければ治らない。そういう病気だという事。

 そして、何より特徴的なのが、この伝染病の罹患者はみな背中に羽を生やすのだ。背中に羽が生える病状から、病名を《羽化病》と名付けられた。放っておけば、いづれ死に至る病だというらしい。

 倫理観が歪み、増長した男が次に目を付けたのが、この羽化病に罹った患者だった。

 牢獄では羽化病の罹患者を探すのには、それほど苦労しなかった。下層には無く、牢獄にはある娼婦を囲う館《娼館》で、それは見つかった。

 表向き羽化病の罹患者は、防疫局という国が立ち上げた組織に引き渡さなくてはならない。感染する疑いがある病気という事もあり、国は罹患者を隔離するために、半ば強制的に治癒院へと送還する。であるなら娼館に罹患者――通称《羽つき》が居るのはおかしいと思うだろう。

 羽つきを匿うという事は、即ち国への反抗を示す。肉親や家族、または恋人などであるなら、または情に絆されて感情が許さないのだろうと理解出来るかもしれない。だが牢獄では、稀に羽つきを匿う代わりの要求を呑まされる。それが娼館に羽つきが居る理由だった。

 背中に羽を生やした奇異な女を犯すのは、男にとって至上の快楽をもたらした。行為の最中に頬を殴れば怯える。首を絞めれば、その分締め付けが良くなる。すっかり嗜虐趣味に目覚めた男が、なによりも気に入っていた行為が――羽を手折ることだった。

 血の通った羽を、先から順に細かく手折り次第に赤く滲んでいく様と、そのたび苦悶の表情を露わにする羽つきを見るだけで達してしまいそうだった。

 男にとって牢獄は、まさに最高の遊び場だった。――が、それも長続きはしなかった。

 遊びを継続する金が尽きてしまったのだ。羽つきをいたぶるのは、それなりに高額で、どっぷり嵌っていた男の所持金はあっという間に貯金まで使い果たしてしまったのだ。金が無いのでは遊べない。それは当然だ。しかし、一度味わったあの興奮に勝るものが、果たして他にあるというのだろうか。

 どうにかして金が欲しい。それもすぐに。そうして思い悩んだ末に辿り着いた答えは、およそ思いつく限りでは犯罪と言う他にない行為だった。

 簡単に説明して、男は金を盗んだ。そして盗んだ金で再び淫蕩にふけた。

 結果、男は死を招き入れてしまった。

“くそっ、そもそも牢獄民が営む程度の酒場が、俺より金を持っているのが悪いんだろうが……”

 思いつく限りの悪態を脳内で吐き散し、男は襲撃者が去るのをひたすらに待ち続けた。

 改めて立ち返ってみれば、金を盗み、その足で行きつけの娼館へ赴き、情事を終えて外を歩いている最中の襲撃だった。すっかり暗くなった路地を、鼻歌交じりに歩いていると、唐突に目の前に人影が現れた。

 180cm近い背丈は、暗がりでも男の目についた。何より男の目を惹いたのは、人型のシルエットから突き出た棒状の“何か”だった。左肩から右腰を貫くような棒状の何か。明らかな異様さに、男の熱はあっという間に引いて行った。

 ――気が付けば息を切らして逃げ回っていた。

 

「ありえない、ありえないありえない! なんだってこんな目に俺がっ……はあっ、くっ……きしょう!」

 

“あれは人ではない。見紛うことなき化け物に決まっている。でなければ、あんな……”

 膝を抱いて座り込んでいると、男は襲われた時の光景を思い出して震えた。

 自分に死を運びに化け物がやってきたのだ。でなければ、あんな真似を出来るはずがない。と、いつしか息を潜めるのも忘れ、小さくそう呟き始めていた。――だから、見つかるのは必然である。

 男が背に預けていた石製の壁が、突如支えを失ったように背面方向へと倒れた。寄りかかって座っていた男は、当然そのまま壁と一緒になって倒れ、仰向けになった。

 

「なっ、なんだ突然? どうして壁が…………っ!?」

 

 驚愕に声を漏らした男は、弾かれるようにうつ伏せへと転がり顔を上げた。――この時点で、予感めいた悪寒を男は感じ取っていた。

 視線の先、月明かりが照らす路地に立つのは、地に伏せる男をここまで追い込んだ張本人。彼が化け物と形容した人影だった。

 悠然と立ち尽くす人影は、月明かりによってその姿形が明らかになっていた。暗闇に目立たないダークブラウンの腰まで伸びた髪に、前髪の合間から覗くがらんどうのような仄暗い瞳。漆黒の革で出来たジャケットを羽織り、何より目を見張るのは背中に担がれた見た事もない長さの剣であった。

 予感の的中した男は、唖然となり言葉を失った。恐怖から体の動かし方を忘れたのか、それとも動いた瞬間に相手の背負う剣によって斬られると恐れたのか。本人にも与り知らぬ思惑によって、根を張ったように動けなかった。

 

「マルク・スタインだな」

 

 意外な事に、化け物は言葉を発した。

 ――否、光に照らされた今ならば、襲撃者が人間である事はとうに理解していた。が、立て続けに起こる出来事に対応できなかった男の思考は、彼の言葉に反射的に首肯する事で答えた。

 

「そうか、間違いないなら……末路もまた間違いなく理解してるだろ?」

 

 体の芯から凍てつくような言葉は、まるで死刑宣告のようだ。

 男――マルクは襲撃者の言葉の心意を理解した。名前を知られているという事は、そういう事なのだと。牢獄でマルクが名乗ったのは娼館に居る娼婦にのみだった。であるならば、出所は間違いなく娼館だろう。

 つい最近までおけらだったのを娼館の主は知っている。なのに今日は豪遊の限り。不審に思うのは当然。ついこの間までの己の実情を語ってしまった自分に、最大級の罵倒を浴びせても足りないくらいマルクは悔やんでいた。

 襲撃者の男は、両手を突き膝を立て四つん這いになっているマルクの前で目線を合わせるように屈んだ。

 

「お前が手を出した金だが、あれは俺達《不蝕金鎖》が懇意にしている酒場の金なんだ。運が悪かったな」

「不蝕……金鎖……?」

 

 聞き覚えのある言葉に、マルクは愕然とした。

 不蝕金鎖とはこの牢獄で力を持つ大きな組織であると、娼館の主より聞いた覚えがあった。曰く敵に回せば生きて牢獄を出る事は叶わない等、話は絶えず、しかし組織の庇護下にある一部の牢獄民はみな、彼等の下に居る事に不満を持っているようには見えなかった。

 そんな組織が自分を標的にする日が来るとは思ってもみなかった。

 

「ま、待ってくれ。そうとはし、知らなかったんだっ! 金なら返す、ちゃんと返すから! 出来心だったんだよ、ほんの出来心で……つい」

「――つい《ヴィノレタ》の金を拝借してしまったと、そうか……」

 

 ため息交じりに吐き出された男の言葉は、語尾にいくにつれ柔らかくなっていった。心なしか表情も人間らしい、温かみを持ち始めたようにマルクの目には見えた。

 助かるかもしれない。絶望の淵に降りた一筋の糸に、全力で食らいつくしかない。そう思うや、

 

「言質を取った」

「あが――ぁッ!?」

 

 焼けるような痛覚がマルクの右手から伝わり、掠れるような声が漏れ、苦痛に表情が大きく歪んだ。

 右手には、男が持っていた剣――いや、刀が杖を突くかのように突き立っていた。

 衛兵や、稀にしか拝むことのできない近衛騎士が持つような両刃の直刀ではなく、男の持つそれは片刃で、しかも峰方向に反った刀剣だった。刃には揺らめく波紋が広がり、月明かりに照らされ怪しい光を反射して……その切っ先は、まるで柔らかい砂に突き立てるようにあっさりとマルクの手を貫いていた。

 

「ぎぃぃぃいいいッ! 痛いっ、痛い痛い! 頼む見逃してくれ! 金は返すから!」

「盗んだ金で女を買ったお前が、返せるわけないだろ」

「どれだけかかっても返すから! そ、そうだっ、なぁあんた、下層に行きたくはないか? 牢獄民の殆どが下層に行く為の手続きが出来ないんだろ? 俺が何とかするから、だから命は――」

 

 祈るように懇願しつづけたその時、マルクの右手に突き刺さっていた大太刀が引き抜かれた。

 助かった。血の流れる右手を愛おしそうに無傷の左手で撫でようと、体を起こそうとした瞬間――目にも留まらぬ光の筋が奔った。

 

「……あれっ?」

 

 意思とは真逆に、マルクの身体は再び地に伏していた。

 突っ張った両腕に力が入らない。それに、膝を立てた筈の両足まで……

 

「あぁ……あ、あああああァぁぁアアアあッ!!」

 

 自分が何故地面に横たわっているのか、事実を目の当たりにしたマルクは、その恐ろしさに恐怖の悲鳴を上げた。恐怖は焼けつく酸のように、じわじわと着実にマルクの内面を蝕んでいった。

 彼がこうも年甲斐もなく鳴き喚くのは、なにもただ目の前の男が恐ろしいからではない。なぜ自分が成す術もなく地面に倒れているのか。原因を見てしまったいまとなっては、何をもってしても彼の正気を取り戻す事は不可能だろう。

 ――腕と足が無いのだから。

 

「う、腕がっうでがぁあああッ!」

「足も落としたぞ」

 

 さも財布を落とした者に呼びかけるような軽さで男は告げ、継いで(つい)の言葉を告げた。

 

「じゃあな……悔いて死ね」

 

 

 ※

 

 

 ノーヴァス・アイテルは浮遊都市である。

 かつて人間が神に見捨てられ、世界が混沌と化した濁流の藻屑となった頃、聖女イレーヌが神に許しを請い、それを受け入れた神によって浮かせられたと言い伝えられている。以後数百年に亘って代替わりを続ける聖女によって、この都市の安寧は守られている。――と、思われていた。

 誰もがそうして変わらぬ日々を信じて疑わなかった十数年前に、悲劇は落ちてきた。貴族達が住む上層と、民衆が住む下層の二つの区域に分かれていたノーヴァス・アイテルに、突如として大地震が襲って来たのである。

 底冷えするような大地の嘶きに聳え立つ建物が揺れ、大地が裂け、ついには下層の一角が遥か奈落の下界へと崩落したのだ。民衆の住む家屋や生活もそのままに、全てがありのまま死の底へと落とされた。かろうじて崩落を免れた地区も、下層との間に大きな高低差を作り、強制的な閉鎖空間を形成していた。後にこの出来事を大崩落(グラン・フォルテ)と呼ばれ、民衆の恐怖の根幹を成した。

 崩落を免れ大地の高さが下層より遥か下位にまで下がった地区を、《特別被災地区》通称《牢獄》と呼ばれるようになり、牢獄で生活を送る民衆を牢獄民と呼ばれるようになった。

 それから十数年。国から見捨てられ、援助も無い牢獄では昼夜を問わず暴虐の坩堝となり、あらゆる理不尽に苛むことになってしまう。が、それも最近では大崩落当初よりは多少マシになっている。

 打ち捨てられ荒れ果てた牢獄を、朝焼けの空を仰ぎながら、眠たげに欠伸を噛み殺して路地を歩く男がいた。180cmはあるだろう背丈に、四尺余りの大太刀を背負う男――アウルム・アーラは牢獄の一角、娼婦を囲う館が集う娼館街へと向かっていた。

 アウルムの目的は、娼館街でも指折りの名店と名高い娼館《リリウム》である。だからといって娼婦と遊ぶ為に行くわけではない。目的は、娼婦というよりも、その場所。つまり《リリウム》自体に用があるということ。

 日が落ちれば助平心をむき出しにした男共で賑わう娼館も、早朝という事もあって、夜の賑わいが嘘のように閑静だ。アウルムは寂寞たる娼館街を練り歩き、《リリウム》の扉を開けた。

 

「邪魔するぞー」

 

 建物に入るや、途端に空気の質が変容した。饐えた臭いも、カビの籠ったような臭いも、糞尿の悪臭すら覆い隠す甘い香りが漂い、同時に隠し切れない紫煙の臭いがした。

 アウルムにとってこの独特の思考が停滞するかのような香りは馴染み深く、安らげる自宅に帰って来たにも等しい安全をもたらす香りである。

 営業時間外の《リリウム》に無遠慮な足取りで立ち入ったアウルムは、その足でずかずかと奥へと這入っていく。と、真正面の突き当りにある机で帳面を見ている歳の行った強面な男と目が合った。

 

「なんだアウルム、お前か」

「なんだは無いだろうになんだは。オズじゃなくてお頭に用があって来たんだけど……いないのか?」

「ジークさんならいま此処にはいない、夕方にでもなれば戻ってくる。報告に来たんだろ。どうする、ここで仕事しながら待つか?」

 

 意地が悪そうな嗜虐の笑みを浮かべてアウルムに提案する男の名はオズ。アウルムが所属する牢獄の中でも力を持つ組織の一つ《不蝕金鎖》の二代目頭ジークフリート・グラードの腹心にして実力者でもある。

 地位としてはアウルムも負けてはいないのだが、年齢と年季の長さ、そして《不蝕金鎖》の中でも特殊な位置に坐するアウルムは、対外的にはオズの下と部下達からは見られている。

 昨晩の仕事が終わったことを報告しようと思い《リリウム》に赴いたアウルムであったが、肝心の頭であるジークが不在ではここに居る意味はない。待合室で待つというのも選択肢にはあるが、目の前に座るオズがそれを許すわけもない。組織の一員である以上、大っぴらに自由な振る舞いは許容できない。

 となればアウルムが取る行動は決まっている。

 

「労働は嫌いだ。《ヴィノレタ》で一杯やりながら待つことにするさ」

「お前が俺の直属なら、そんな事を言った瞬間に鞭打ちでもして教えてやるんだがな。まあいい、お前はジークさんの直参だからな。夕方になったら戻ってこい」

 

 ジークの許しも無しにアウルムを自由に扱う事は、オズにも許されず、扱いに困ったように肩を竦めアウルムが喜び勇んで建物から出るのを見送った。

 必要最低限の労働しかしないアウルムは、言葉通りまさしく労働嫌いである。基本的に怠け者な性分である上、《不蝕金鎖》の中でも中々の地位である為、食べるには困らない。生活の保障がある程度ジークによってされている事により、アウルムの労働意欲はますますすり減っていた。

 自由時間が出来た事を喜び、《リリウム》を出た足で《ヴィノレタ》へと向かうアウルム。

 牢獄独特の臭いが鼻腔を突くが、ここで十数年暮らしている彼にとってこの程度、さして気にするような事でもない。日の当たらない路地を見れば、隅に浮浪者が転がっているのは当たり前。子供を見かけても油断をしてはいけない。ひと時も警戒を解いてはいけない牢獄が、逆にアウルムには居心地が良かった。

 数えるのも馬鹿らしくなる程通い詰めた道を歩き到着したのは、アウルムは勿論、他の仲間も常連の酒場《ヴィノレタ》だった。

 

「メルトー、やってるかー?」

 

 扉を開け、ドアベルを鳴らしながら店内に入り、カウンターを見やる。

 店内に入って左側の、端に陶杯が並ぶカウンターの向こう側に、はたして目当ての人物はいた。ブロンドの髪を後頭部で三つ編み団子にし、慈愛を感じる瞳に穏やかそうな表情でアウルムを迎えたのは、この酒場《ヴィノレタ》の店主メルトだった。

 カウンターに座るなり、彼女は愛嬌のある笑顔を浮かべながらアウルムに寄って行った。朝早い事もあって雇いの女達はまだ出勤していなかった。

 

「あらアウルじゃない。どうしたのこんな朝から、いつもならまだ寝てる時間でしょうに」

「寝てないからこんな朝まで起きてるんだよ。さっきまで仕事でさ、終わったからお頭に報告しようと《リリウム》に行けば、生憎の留守だ。いま家に帰ったら寝ちまうから酒飲みに来た」

 

 一度自宅に戻ってしまえば、いまも絶えず襲い続ける睡魔に打ち勝つ自身がなかった。だからアウルムは馴染みであるこの店を選んだ。ここならば仮に眠ってしまっても、メルトが起こすか、もしくは同じ常連であるジークが顔を見せると踏んだからだ。仕事を終え自由ないま、アウルムに睡眠をとらないという選択は決して出来ないのだ。

 欠伸を交えながら説明したアウルムに、斟酌したメルトはいつものように微笑んで彼の座るカウンターの前に火酒の入った陶杯を差し出した。

 

「お疲れ様。はい、眠気覚ましにと思って、生姜も入れておいたわよ。好きでしょ?」

「ここで出る物はなんでも好きさ」

「まっ、嬉しい事言ってくれるじゃない。それじゃ、これもサービスしちゃうわ」

 

 正直に好みを伝えられたのに気を良くしたのか、弾むような声でメルトは続いて鳥の煮込み料理を出した。アウルムが最も好む料理であった。これにはアウルムも喜びを隠し切れず、感嘆の声を上げた。

 しばらく食事に専念し、粗方時間が経過し火酒の残りが少なくなってきた頃、あっとアウルムは短く声を漏らし、徐に懐を弄り始めた。

 

「忘れてた。あぶねぇ、これ渡さないままだったら流石に、お頭に冗談交じりに嫌味を言われるところだった」

「そのアウルの“お頭”って呼び方、いつ聞いても慣れないわね。昔はカイムも混じって、名前で呼び合ってたのに」

「組織に居る以上、ある程度の上下関係はしっかりしとかないとな。でないと組織としての強制力を削ぐ事になる。頭が部下に嘗められちゃ、組織としては終わりだろ。

 ほらこれ、盗まれた金だ。間違いないだろ?」

 

 懐から取り出した硬貨の入った革袋をメルトに手渡す。昨晩、牢獄の掟を知らない下層の人間から取り戻した金だ。

 

「ありがと。ごめんね面倒な仕事頼んじゃって」

「別に良いさ。それに、金は“そっくりそのまま”ってわけにはいかなかったからな」

 

 盗まれた金は多少、すぐさま犯人の通っていた娼館に流れてしまった。取り戻そうと思えば取り戻すのは可能であるが、その場合どうしても《不蝕金鎖》の名前が挙がってしまう。名前が知られれば《不蝕金鎖》は自分の縄張りの店も守れなかったと知られることになり、名を穢す事になってしまう。アウルムとしては望まぬ事である。

 徒に失敗談が流れれば縄張りの店からの信頼を喪ってしまう。とはいっても、メルトの店もまた《不蝕金鎖》の縄張りである為、どうしてもその汚点は拭えない。

 全額減る事もなく返還出来ればよかったが、そうはならなかった以上アウルムはメルトに責められれば甘んじて受けるつもりだった。――あくまで彼女が叱責するのであれば。

 

「仕方ないわ。盗まれる私がいけないんだもの、まあ上納金の方に手が付けられてなければいいわよ。あれが駄目だったらまた娼館に逆戻りかしら」

 

 含みのあるメルトの言い分に、なにやら引っかかるものを感じた。店の金である以上、使い込まれたなら悔やむべきだが、彼女はアウルムから見てよく出来た人格者である。前文は彼女らしい言葉だった。

 しかし、後半の言葉はアウルムが取りかえしてきた金よりも、さらにキナ臭い上に危険な香りがした。上納金という事は、つまりここら一帯を牛耳っている《不蝕金鎖》へ納める金である。メルトの言い方では、まるでいつ上納金が失われてもおかしくない状況であると推測される。

 となれば流石に自他ともに認める怠け者のアウルムであっても組織の一員である以上、聞き流すわけにはいかない。

 

「まるで上納金を納められるか危うい、みたいな言いぐさだな。何かあったのか?」

「うーん、アウルなら言ってもいっか。実はね……」

 

 メルトの説明はこうだった。

 アウルムが店にくる前、外を歩いていた彼女はちょうど今月分の上納金を持っていた。そして、運が悪い事に掏摸(すり)に遭ってしまった。簡単な経緯はこうであった。

 

「掏摸に遭うなんて、らしくないな。小悪党程度から守れなかった俺が言うのも筋じゃないが、その盗まれた上納金は大丈夫なのか?」

「一応、ウチに来たエリスに、カイムに依頼してもらうよう頼んだわ」

「なら大丈夫だな。カイムに任せときゃ金も戻ってくるだろうよ」

「信頼してるのね。流石、元師匠」

「その呼び名はやめてくれ。歳がほんの少し上なだけで、教えた事なんてのは片手で数えられる程度のもんだ。誇れる人間じゃねえよ、次呼んだらおっぱい揉むぞ」

 

 わきわきと指を蠢かしながら冗談交じりに笑いながら脅すアウルム。彼の為人を良く知っているメルトも、冗談だとわかっているため嫌な顔一つせずに爛漫な笑顔で返す。

 

「アウルだったら別にいいわよ? でも、その代わりちゃんとジークに報告はするからね」

「うっ……そりゃ勘弁してくれ。お前からお頭に“襲われた”とか言われちゃ、あいつだけじゃなくカイムまで俺を追っかけてくる。命が三つは必要になる」

「なに頼りない事言ってるの。アウルなら例え二人に狙われても平気でしょ?」

 

 心からそう思っていると信じて疑わないようなメルトの言葉に、アウルムは誤魔化すために苦笑いを浮かべ、量の少なくなった火酒を呷った。

 彼女――メルトとはそれなりに長い付き合いだ。アウルムは彼女の過去から人格、内に秘めた内面までよく知っている。それはメルト側も似たようなもので、アウルムの性格から好み、純粋な戦闘力としての実力もある程度知っている。

 ふと昔を懐かしく思い、感傷的になったアウルムは陶杯をカウンターの前に差し出し、追加の火酒を注文した。慣れた手つきでメルトが火酒を注ぐのを見ながら、過去を回帰する口火を切った。

 

「そういや、あの頃はお前も売れっ子娼婦として大人気だったな。それが先代に身請けされて、今や店を任される店主だ。人生わかったもんじゃないな」

「売れっ子って言ったって、アウルは一回も私の部屋には来なかったじゃない。あの頃は、その事で結構思い詰めた日もあったわ。私に魅力がないんじゃ……って」

 

 これ見よがしに溜息を吐くメルトだが、憮然とした中で口角が僅かにだが諧謔に吊り上っているのをアウルムは見逃さなかった。メルトが男を誘うような言動をするのは、決まって冗談であり、また追加注文をさせようとしたときぐらいであるとアウルムは知っている。

 

「んなこと言っても俺は引っかからんぞ。誘惑したいなら、まず年下になってから出直してくれ」

「もう、女性に年齢で駄目だしするのはご法度だって言ってるじゃない。あんまり遠慮なしに口を開いてたらモテないわよ? せっかく顔は私好みで良いんだから」

「お頭やカイムが嫉妬しそうな事を、易々と口走るのはやめろよな。いらぬ誤解を招くだろうに」

「じゃあ、ジークとカイムが居る時にまた言ってみるわね」

 

 悪戯気に手で口元を隠しながら笑うメルト。上記の二人の前では年上然とした彼女であるが、アウルムの前では気の合う友人という印象を懐いていた。というのも、彼女が娼婦時代の頃、ジークとカイムの二人は彼女に夢中で、色香に惑い情けない姿を何度も晒していたのが一因しているだろう。

 双方に自分との行為を秘匿させ、手玉に取っていた彼女は、晴れて先代に身請けされ今や立派な店主だ。それでも二人はメルトには頭が上がらない。ふと、あの時の真実をアウルムは知っていない事を思い出した。

 

「そういや結局お頭とカイム、どっちが“兄貴”なんだ?」

「気になるの?」

「そりゃあな」

「それはどっちの意味で気になるのかしら? 答えによっては、教えてあげても良いわよ」

 

 試すように言い切られ、アウルムの中で疑問が浮かび上がった。

 メルトの言う“どっち”とは何を差す言葉なのか、問題すら理解できないアウルムは今一度彼女に問いただそうかと思い視線を向ける。が、当のメルトは変わらず嫣然としたままであるが、アウルムを見つめる瞳が真剣味であると判ずるや、質問を取りやめる事にした。

 いま問うても、きっと彼女は答えてくれない。直観的にそう感じ、アウルムは結局思ったままを正直に答える事にした。

 

「何を言いたいのかわかんねえけど、これを知ったら二人ともある程度は俺に融通してくれるだろ。喉から手が出るほど欲しがってる真実だ。俺としても、若干興味があるしな」

 

 答えて、それまで張りつめたような印象だったメルトの態度が弛緩したような気がした。いつも通りの、穏やかで暖かな店主としてのメルトである。

 

「もう、弱みにつかうなんて理由で教えられるわけないでしょ。こういうのは、教えないからこそいいのよ」

「あはははっ、確かにちげぇねえ。いつみてもお頭とカイムの反応は面白いからな!」

 

 見慣れた状景を思い出し思わず笑い声をあげてしまう。

 冗句を忘れないジークと、口では気にしていない素振りのカイムの二人が一同に会するのは、いつみてもアウルムにとって面白い場であった。

 昔話に花が咲きメルトとカウンターを介して会話を続けていると、いつしか雇いの女達が出勤し始め、気が付けば店内には客が入り始めていた。時間の流れに気が付かなかったアウルムが窓から外を見れば、あれだけ眩しく感じた朝焼けはなりを顰め、既に昼を過ぎて夕方近くになっていた。

 カウンター席とは反対側のテーブルが立ち並ぶ場所は、雇いの女が給仕を担当していた。カウンターは半ば常連の指定席のようであり、客側もそれが暗黙の了解であるのを承知している。若干贔屓目で見られるこの体制が許されているのも、メルトの人柄と会話術の成せる事であろう。感心しながら陶杯を口元に持って行き傾けていると、火酒を嚥下するのと同時にドアベルが、からんころんと来客を告げた。

 

「いらっしゃい」

 

 メルトが迎えると来客人はそのままカウンター席――アウルムの隣へと陣取った。

 足音で相手が誰なのか、既に店内に入った瞬間からわかったアウルムは体と視線は前に向けたまま、自席に置いてある料理を隣に差し出した。さながら仕事を終えた彼への、せめてもの労いとして。

 

「よぉお疲れさん――カイム」

「それじゃあ遠慮なくいただくよアウル。今日は早い……いや、随分早くから居たんだな」

 

 差し出された料理に遠慮なく手を付けた男――カイムは、アウルムの座るカウンターに置かれた料理皿の数と、彼の頬の赤らみ具合から時間を計算し意外そうな顔をした。

 人が早起きなのがそんなにも珍しいのか、と普段の行いを知り尽くされているアウルムは、もはや説明する気も起きず、カイムの口がメルトの差し出す火酒で塞がるのを黙って待ち続けた。傍から見れば無視したように受け取れる行為だが、アウルムが無視するのは決まって面倒な時か、もしくはバツの悪い時だと相場が決まっているのでカイムも気を悪くした様子は無かった。

 そうこうしている内にメルトが駆け寄り、カイムに火酒を差し出した。

 

「お疲れ様、ごめんね変な仕事頼んじゃって。これ、せめてものお礼ね」

「なに、思ったより楽に終わった。それにしても、アウルが居るんだったらこいつに頼めば良かったんじゃないのか? 悔しいが、そのほうが俺よりも早かっただろ」

「アウルに頼んだらジークに知られちゃうでしょ。それに、カイムはお仕事しないと干上がっちゃうじゃない」

「どうせ、もうジークの耳に入ってる」

 

 隠すだけ無駄だと言わんばかりに言い切り陶杯を傾けるカイム。彼の意見はアウルムとしてももっともだと、しかし口には出さず心の中で同意した。

 娼館街での噂はつむじ風よりも早いと言われている。この言葉の出所であるメルトの言が正しければ、既に事はジークの耳にも入っているだろう。ましてや彼は《不蝕金鎖》を束ねる頭なのだ。この程度の情報、聞き耳を立てずとも自然に耳にするだろう。

“どうせ、お頭が来たら同じ話題がまた浮上するだろ”

 メルトが自分ではなくカイムに依頼したのか、その真意を経験則で理解したアウルムは軽く鼻で笑いカイムに説明すべく口を開いた。

 

「どうして俺に頼まないかなんて、そんなのメルトの見栄に決まってるだろ」

「ばれちゃった?」

「カイム……あまりメルトの言動を深く取るな。大体の理由はとんでもなく瑣末なもんだ」

「だそうだ、アウルに此処まで言われてるぞどうするんだ?」

 

 矛先はメルトではなく、吐いた己自身に向けられた。悪し様に言われたメルトは不満げに頬を膨らませて、形の良い、彼女の感情を表現する眉が顰められた。

 思わぬ裏切りにアウルムは苦々しい声を漏らすが、彼女がそれだけで見逃すわけもない。

 

「人をまるで何も考えていない、頭空っぽの人間みたいに言って、まったく失礼なんだから。怠け者のアウルには言われたくないわ」

「まったくだな、組織を抜けた俺より働かないってのは、稀に見ない程の怠けっぷりだ」

 

 報復に二方向から口撃を浴びせられたアウルムは、痛い所を突かれてカウンターに突っ伏した。

 怠け者と揶揄されるのには理由があった。というのもアウルムは組織の中でも随一の働かない人間で、しかもジークも彼の実力を良く知り買っている為、下っ端たちは高々に文句を言えない。よって彼の怠け癖はさらに増長した。また、アウルムの担当する仕事は特殊で、なかなかお鉢が回ってこないというのもある。

 どちらにせよ、進んで労働するのを拒否し続ける彼を怠け者と呼ぶのは当然の道理であり、言い返しようのない明瞭なる事実でもある。

 

「い、いいんだよ俺は……もともと俺の仕事は少ないほうが良いんだ。カイムが抜けてからは全部俺が担当してるから、最近は昔よりも働き者だ。昨晩だって一仕事した所だ」

「間接的に仕事を増やしたようで悪いな。昨日は何の仕事だったんだ? 言えないなら聞き流してくれ」

 

 アウルムの仕事は公に吹聴出来るようなものではない。カイムも元は同じ仕事をしていたので、それを良く知っている。だから彼は気を使ったのだろう、暗に濁して語れるなら良し、それ以上に深く淀んだものであるなら無しと言外に語ったのだ。

 勿論、アウルムはいまの仕事に負い目など欠片も持ってはいない。必要だから“やる”それだけ。態々自分から精神を良心の呵責に削らせるようなら、いまのアウルムは無く既に牢獄の隅で朽ちているだろう。だから今回の案件も、殊更滑るように口に出た。

 

「メルトの盗まれた金の回収だ。取り返したが、既に使い込んだ後でな……後は想像通りの末路さ。さぞ悔やんだだろ」

「なあメルト、お前ちょっと盗まれすぎじゃないか?」

「ちょっと油断してたのよ。こんな恥ずかしいこと、二回も三回もあってられないわ」

「次は無いだろ。俺達の“目”も、この件でより一層堅固になるだろうしな」

 

 そう、この連続した《ヴィノレタ》での盗犯は彼女の被害だけに収まらず、ひいては《不蝕金鎖》の警備体制にまで響くだろう。ジークの耳に届いていれば、それは避けられない事案だ。

 これによって自分が背負う労働量が増えない事を祈りつつ、無意味にメルトの肢体を観察していると――再度ドアベルが鳴り響き、同時に店内の喧騒が水を打ったように静まり返った。アウルムと同じ組織の人間は勿論、一般人もまた同様の反応を示した。

 カイムも同じ事だが、アウルムにとって最もわかりやすい“二人”の内の、もう片割れがどうやら来たらしい。自然と背筋が通るのを感じながら、次なる言葉をアウルムは待った。

 

「続けてくれ」

 

 自分の事は意に介さず、これまで通りの振る舞いを許容した器を示した声に、店内の客達は静止した時を取り戻したように再び歓談に戻った。

 声の主は普段通りの光景を見渡し、満足げに二度小さく頷いていつものカウンター席に腰を下ろした。隣には常に達観したような眼差しのカイムが座って彼を迎えた。

 

「よおジーク、あんたも来たか」

「なに、オズから俺を待ってるのが“二人”も居るって聞いてな。今日はつまらない仕事を頼んで悪かったな」

「問題ない。メルト、これで間違いないんだろ?」

 

 思い出したようにカイムはメルトの前に革袋を置いた。ジャラと袋内で硬貨同士がこすれ合う音を立てながら、重みのあるそれは彼女の手に戻ってきた。

 届けられた革袋を感謝と共に受け取ると、その場で中身の金額が変動していないかを確認した。カウンターを挟んだ先にこの金を納めるべき組織の頭が居るのだ。後になって金額が合わないというのは、彼女としても好ましい振る舞いではないと思ったのだろう。革袋に詰まった硬貨は見紛うことなく盗まれる前と同様の量が入っていた。

 

「うん、確かに全額だわ。よかった、これで足りなかったらどうしようかと思ったわ」

「例え足りなくても、この店が無くなるような事にはそうそうなりはしないさ。なぁお頭? なくなって一番困るのは、他でもない俺達なんだ。そうだろ?」

「まあなアウルの言う事も最もだ。だが、けじめは必要だからな、万事が事も無しならそれが一番だ。盗んだガキに躾が出来なかったのは残念だがな」

「なんだ、相手はガキか。大人しく盗まれるなんて、そのガキの境遇に同情でもしたのか?」

「それは――」

 

 牢獄では子供でも油断できるものじゃない。そんな今更当たり前な事、メルトが承知していない筈がない。アウルムは盗まれたのは他に理由があると見た。例えるなら、

 

「俺が当ててやろう。そうだな、すれ違った良い男に見惚れてその隙にやられたんだ」

 

 ジークの言ったような事があったのかもしれない。

 解決編は非常にシンプルだった。昔のお得意さんにしつこく言い寄られていた隙に……らしい。なんとも呆れる小話であった。

 アウルムは陶杯を傾けながら、隣でメルトを挟んでジークとカイムの二人が、どちらが兄であるのか真実の追求に忙しそうにしているのを横目に見る。

 一見すれば平和な光景。だが、この笑顔の裏に、どれだけの悲しみと不条理に塗りたくられた屈辱の顔が隠れているだろうか。それはなにしも二人に限らず、メルトや、それこそ店内に居る者皆……いや、牢獄全域に住まう者が皆等しく、この世の理不尽を味わっているだろう。

 陶杯の底でカウンターの木板を叩く。こうして酒を味わう為に、どれだけの苦労を重ねたか。同様にどれだけの屍の山を築き挙げただろうか。数えるだけで再び睡魔がアウルムを襲ってきそうだった。

“こっちの報告は《リリウム》でする事にしよう。この場には合わない話題だ”

 立ち返ってみれば、今夜は珍しく朝から夕まで長居している。そろそろ切り上げるべきだろうと判じ、アウルムはすっかり固まった腰を重たげに持ち上げた。

 

「ごちそうさんメルト。それじゃあお頭、俺は《リリウム》で待ってるから、あまり酔っぱらうなよ?」

「手間を掛けさせて悪いなアウルム。後で顔を出す」

「あら、今夜はあっちで遊んでいくつもりなのかしら」

「冗談、大人しく待合室で待ってるさ。ま、アイリスが暇なら……」

 

 考えても良い、と告げようとして……しかしその望みはあっけなく砕かれた。

 

「アイリスなら今夜はひっきりなしに忙しいぞ。いまの時間なら、まだ予約が二件は残ってるだろ」

「だとよ、残念だったなアウル」

 

 ニヤニヤした顔で瞭然と言い切ったジークに、涼しげな顔でカイムはトドメの言葉を言い放った。

 予想していた事とはいえ、アウルムは落胆を隠せないでいた。暇なら……と言った彼であるが、その実、結構期待していたりもした。お頭であるジークを待っている間に娼婦と遊ぶなんて、他の組織の人間には出来ない芸当だが、アウルムならそれを咎められる事もないのは、既に周知であった。しかし、肝心の目当ての相手が予定で埋まっているなら、それも叶わない。

 

「べ、別に。それほど残念じゃないし、カイムの勘違いだな。もう少し人間の感情の機微には敏感になった方が良いって、昔教えたろ」

「ま~、どの口が感情の機微とか言うのかしら」

「まったくだ。俺達が昔、どれだけアウルムの立ち位置を羨んだことか。なあカイム」

「昔の話だ。それにそんな事は教わった覚えがないぞ」

 

 非難がましい視線を送るメルトに、茶化すようにからからと笑うジーク。挙句の果てにカイムからの糺す言葉に打ちのめされ、理由もわからぬままアウルムはカウンターに硬貨を置き、《ヴィノレタ》から逃げるようにして立ち去った。

 外に出てみれば、すっかり空は暗闇に濁り、再び鼻腔を突く牢獄の臭いに現実へと戻ってきた感じがアウルムにはした。

 牢獄が生まれて十年以上が経った今でも、空は変わらず、しかし人の営みの形態はしきりにめまぐるしく変化しつづける。この理不尽が際限なく降りかかる世の中で、果たして自分が生まれた意味があるのだろうか、と日課のように思案してアウルムは再び《リリウム》へと戻るべく歩を進めた。

 恐らくは今朝よりも一層華やかで、一層妖しげに、今宵もまた夢を見るように女に溺れ、欲を滴らせながら蜜を啜るように、ふらふらと花の香りに誘惑されて男共が集っているだろう場所へと。


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