岩手県花巻市内にある、二階建ての一軒家の前に止まった、麻子のミニクーパー。
二階に見える大きな出窓が、印象的な、赤い瓦葺きの大きな家である。
時間は――、間もなく、夜の八時になろうとしていた。
バッグを持って、止めた車から出てきた冷泉麻子は、その家の玄関に掲げられた表札の名前一欄を見ている。そこには、確かに『杉本』と大きく書いてあり、家族の所に『茜』の名前もあった。
反射的に髪の乱れを整えた彼女は、大きく深呼吸して呼び鈴を鳴らすと「はい」と玄関ドアの向こう側から、返事があった。
冷泉麻子は返事した相手に、自分の来訪を告げた。
「杉本茜様は、御在宅でしょうか? 冷泉と申します」
「はい。少しお待ちください」
家の中から返事があり、玄関のドアが開いた。出てきたラフな姿の茜に対して、スーツ姿の麻子は、その場でペコリと一礼する。
「冷泉さん……、でしたね。ここでは、何ですから、どうぞ、お入りください」
そう言って杉本茜は、彼女を家に招き入れた。
「失礼します」と挨拶をして、麻子は玄関のドアをくぐった。
玄関を入った直ぐ右手にある、杉本家の応接室に通された彼女は、持っていたバッグを応接セットの長ソファー横に置き、それに腰掛けると、対面に座った杉本茜を見て、一礼して、自己紹介を始めた。
「――あらためて、突然押しかけてしまいまして、申し訳ありません。最初に、自己紹介をさせていただきます。私、冷泉麻子と言います。茨城県の大洗町で、弁護士をやっている者です。そして、高校時代からの西住みほさんの友達でもあります」
「はい。よく知っていますよ」
「えっ……? さっきも私の事を知っているような口ぶりでしたが、ご存じなのですか?」
「はい。みほちゃんが、いつも自分の事のように自慢していましたからね。他の三人の方々のことも、よく話してくれました」
「はい。隊長……。失礼、私、西住さんを呼ぶ時は、いつも隊長としか呼ばないものだったんで、ついそう言ってしまうのですが、私達は高校時代、隊長と同じ戦車チームのチームメンバーでした」
説明する冷泉麻子を、頷きながら聞いている茜である。
「それで――。冷泉さんは、私に、みほちゃんと会っていなかったか、というご質問でしたね」
「はい」
「そうです。みほちゃんと会いました……」
深呼吸した茜は、真っ直ぐに冷泉麻子の顔を見ながら、一つ一つの言葉を選び、ゆっくりと思い出しながら話し始めた。
「――あの日、みほちゃんは、一人で家に来ました。ですが、私が知っているみほちゃんではなかったですね。元気がなくて、とても寂しそうでした。彼女はちょうど今、あなたが座っている所に座ったんですよ」
「ここに? 隊長が?」
「はい、そして私に手紙を差し出しました。その手紙は、私の親友である人からのものでした。親友は、今病気と闘っているのですが、手紙を読むと、どうやらみほちゃんは私に会う前に、彼女に会っていたようでした」
「そうですか」
「手紙を読むと『みほちゃんが、戦車道を辞めたいと言っている。私では止められなかったから、お前に任せる。みほちゃんを引き留めるか、そのまま辞めさせるかは、お前の判断に任せるし、私はそれに従う』と書いてありましたね」
「はい」
「私は、手紙を読んだ後、みほちゃんに『本当に戦車道を辞めたいの?』と訊ねました。すると、みほちゃんは『西住の家にはもう戻らない』って、私に言ったのです……」
「隊長は、どうして、そんなことを言ったのでしょうか」
「同じような事を、私も聞いたんですが、みほちゃんは教えてくれませんでした。『西住流の西住みほでいたくない。唯の西住みほになりたい』と言っていましたね」
茜は、その時の事を思い出しているのだろうか、少し下を向いている。冷泉麻子は彼女の話を黙って聞いていた。一呼吸して茜は話を続ける。
「――そこで、私は、みほちゃんに『家を出てどうするの? どこか行く当てはあるの?』と訊ねました。みほちゃんは『どこか遠い私の事を誰も知らない所でバイトしながら生活していくつもりです』と言っていました」
「それで、杉本さんは……、どうされたんですか?」
「みほちゃんが、そこまで考えているのであればと思って、私もさる方へと手紙を書きました。そして、みほちゃんに、その方を紹介したのです。私はみほちゃんに、もう一度よく考えるように言って、それでも決心が変わらず、本当に家を出るつもりならば、その方の所へ行くように言って、メモに名前と住所を書いて、手紙と一緒に渡したのです。二日後、その方から『みほちゃんが家にやってきた』と、私に連絡が来ました」
冷泉麻子はそれを聞くと、身を乗り出すようにして、彼女に聞いた。
「その、お知り合いの方の所に、隊長はいるのでしょうか?」
「――わかりません。あれからもう六年になりますから……。ただ、私に言えるのは、その方しか、みほちゃんが、今どこにいるのかを知らないという事です」
申し訳なさそうに答える彼女に、今度は別の質問をする冷泉麻子だった。
「杉本さん。申し訳ありませんが、その方の名前を、教えていただけませんか?」
「――それはできません。その方からは『名前は、絶対に教えるな』と、きつく言われていますから。ですが『みほちゃんの親友の誰かが、もしお前の所へ訪ねてきたなら、みほちゃんと連絡が取れる方法として、お前がいる事を教えてあげなさい』と言われています。ですから、このお話ができるのです」
麻子の依頼をきっぱりと断った後、そう言った茜は、自分の顔を指差したのである。
「あのう、杉本さん……」
「はい?」
そこで冷泉麻子は思い直して訊ねるのを止めた。
(杉本さん……。あなたの戦車道の流派はない事になっていますが、本当は真田流なのではないですか?)
冷泉麻子はそう聞きたかったのだが、これは西住みほの事とは関係ないと思い直したのである
「わかりました。ありがとうございます。これで少なくとも、隊長へ知らせなければいけない事があれば、連絡がつくわけなのですね」
麻子の問いに、「はい」と言って小さく頷く茜である。
「そうですか。それでは早速で申し訳ないのですが、これを隊長に連絡していただけますか?」
そう言った彼女は、カバンの中から封筒を取り出す。そして母校から郵送されてきた案内状を彼女に見せた。
「大洗女子学園戦車道復活十周年記念式典?」
「はい、なぜ『復活』なのかを簡単に説明します」
冷泉麻子は、十年前、西住みほが、学校へ転校してきた事から、彼女に話し始めた。
黙ってそれを聞いていた茜は、聞き終わった後、小さく頷いたのだった。
「わかりました。それならば、みほちゃんに連絡しなければいけないですね。確かに、その方に伝えてくれるよう頼んでみます」
「ありがとうございます。感謝します」
その案内状を、茜が受け取るところを目で確認した麻子は、その場に立ち上がり、再び一礼する。そんな彼女に茜は「三人のお友達の方だけには私の事を話されて構いませんよ」と付け加えた。
再びお辞儀をして麻子は、杉本茜の家を後にすると、東北自動車道から、茨城県を目指して南下していく。
高速で大洗の自宅へと帰る途中、福島県のあるパーキングエリアに寄った冷泉麻子は、その休憩エリアにあるベンチに腰かけて、缶コーヒーを飲みながら、西住みほの事を考えていた。
(――隊長。バイトしながら生活していくつもりだったのか……。隊長は、一体どんなバイトをするつもりだったのだろう? コンビニの店員か、それともファミレスのウェイトレス? もしかして居酒屋の皿洗いをするつもりだったのか?……フフッ。隊長の制服姿を見てみたい気もするが、どれも想像できないなぁ)
飲み終わると、駐車してある愛車のミニクーパーへと向かう。その途中のゴミ箱へと空き缶を入れると、その場で大きく背伸びをした。
「しかし――。大きく前進したぞ。沙織達にいいお土産ができた!」
彼女はそう言ってニッコリと笑う。もう夜の十一時を回っていた。空には綺麗な北斗七星が見えていた。
五十鈴華が、ゆっくりと動かし続けていた歯車が、五年の時間を経て、冷泉麻子の歯車を動かす。――それが連鎖運動をおこして、今度は、武部沙織の歯車を回し始めた。
午前二時に自宅に戻り、仮眠を取った冷泉麻子。
翌日。――といっても日付けは変わって、今日は金曜日である。
事務所では冷泉麻子の三人の部下達が、資料まとめやら申請書の下書きやらで、忙しそうに働いている 昨日と同様に所長室で仕事をしている彼女も、忙しそうに書類を整理しているのだが、なんだか彼女の様子がおかしい――。
頭を前後に揺らしながら、フラフラしている。昨日夜遅く帰ってきたから、眠いのだろうか。
時計を見ると、午後二時三十分になっていた。
すると机の上に置いてあった、彼女の携帯電話が鳴りはじめた。携帯を取った麻子は掛けてきた相手の名前を見て「――助かった」と呟いた。
「もしもし……」
「あッ、麻子? 私よ!」
「わかっている。――沙織。助けてくれ、エネルギー切れを起こしそうだ」
「わかっているわよ。そろそろ切れるんじゃないかなぁと思って電話したんだから。今日、麻子の家に行くね。何時に来ればいい?」
「――ああ、わかった。八時ぐらいでどうだろうか」
「わかった。楽しみにしていてね。春用の新作を四つ考えたから。全部食べてもらうからね」
「えっ!? 四つもあるのか!? それを聞いて、もうひと踏ん張りできそうだ」
「うん、頑張れ。麻子!」
「――ありがとう、沙織。楽しみにしている」
そう言うと、麻子は静かに電話を切った。そして、彼女は目の前にある、仕事の山に没頭し始めたのである。
「やっぱり、麻子はガス欠寸前だったのね。さすが、私よね、麻子の胃袋も、ちゃんと捕まえているなんて!」
電話を切った武部沙織は、そう言ってニッコリと笑っている。
彼女が今いるのは、小さな事務所である。
事務机が一台と小さな二人掛けのテーブルセット。そして、事務所の奥壁に沿ってある全部で七つの縦型ロッカー。
携帯電話を胸ポケットにしまう彼女だが、その着ている服はコック服である。白い服に赤いスカーフをまとめたネクタイ。その制服は不思議なくらい、彼女に似合っていた。
彼女は事務所の扉を外へと開けた。開けた目の前は、厨房になっていた。
若い男性三人の料理人が、生地を伸ばしたり果物の皮をむいたり、なにやら材料を掻き混ぜたりして働いている。厨房内はとても甘い香りに包まれている。
忙しそうに働く、その男性達を横目で見ながら、武部沙織は厨房を抜けていく。
厨房を抜けたその先は、三坪ほどの小さな店舗になっていた。生け花の作品が、お店一杯に飾られている。
そのお店の中央には、二台の大きな保冷ショーケースがあって、その中には色とりどりのスイーツ類と大小様々な形のケーキが、所狭しという感じで並んでいた。
店内には男女の姉弟らしき二人組と女性の友人同士、初老の夫婦らしきカップルがいた。それぞれのグループが目を輝かせながら、保冷ショーケースのスイーツ達を見ている。
可愛い制服を着た大学生ぐらいの女の子二人が、レジの所で彼らの接客をしている。
「いらっしゃいませ!!!」
武部沙織は、その来店客に向かって挨拶をすると、保冷ショーケースの裏側から中に置いてあるスイーツの状態と在庫具合を確認している。
すると、その覗き込んだショーケースの前にいた老夫婦の男性が妻であろう女性へと優しく訊ねていた。
「どのケーキが、いいのかね?」
「全部。――と言いたいところですけどねぇ。うーん、もうちょっと考えさせて下さる?」
夫人は腰をかがめて、ショーケースのスイーツ一つ一つを目で追っている。その時、ショーケース越しに、沙織の目と夫人の目があった。
にっこりと笑った沙織は立ち上がると、同じように立ち上がった夫人は、沙織に向かって嬉しそうに言う。
「今日はね、私の誕生日なんですよ!」
それを聞いて嬉しそうな笑顔の沙織は、優しく彼女へ訊ねる。
「それは、おめでとうございます。――奥様? お好みの甘さってございますか?」
「そうね、あんまりくどくないのがいいわね」
「あと、お好きな果物とかは?」
「果物は全部好きですよ」
「――それでしたら、このケーキなどはいかがですか?」
彼女は五つのショートケーキを夫人へと勧めると、今度はそのショートケーキ一つ一つの説明を始めた。
丁寧な彼女の説明を夫人は、頷きながら聞いている。
「それじゃあ、あなた、この五つのケーキを二つずつくださいな」
「十個も……、ですか?」
沙織が、びっくりしながら訊ねると、夫人は笑って答える。
「うふふ……。だってあなた、今日五つ食べちゃったら、明日食べる分、全部無くなっちゃうでしょ」
「アハハ! そうですね。ありがとうございます」
勧めたケーキを、一つ一つトングを使って大事にショーケースから取り出した沙織は、レジの隣にある作業台で、専用のケーキ箱にそれらを入れると、保冷剤も一緒に中に入れた。
レジで勘定を払い終えた、夫の横で待っていた夫人へ手渡すと、その夫人はまるで宝箱を持つように、大事にそれを持ってくれた。そんな妻の様子を嬉しそうに見ていた夫は、「それじゃ、行こうか」と言って夫人と一緒に店を出て行く。
武部沙織は「ありがとうございました」とお辞儀をして言いながら、修業時代の事を思い出していた。
(マスターは、いつも言っていたもんね。『料理に好き嫌いはあるが、デザートを嫌う人はいない。つまり、デザートは料理の王様なんだよ』って)
二人の後ろ姿を見送る武部沙織は、再び、ペコリと頭を下げた。
お店を出た老夫婦は、お店の前の通路らしき道を右手へと曲がっていく。お店の前には、この店の立て看板が立っている。
『スイーツの店、オムレツ二号店』――看板に書いてあるお店の屋号である。
オムレツという名前のスイーツ店というのも、おかしな屋号だが、これは大洗女子学園のある学園艦でバイトしていた彼女の修業時代の師匠、マスターがやっていた洋食店の店名である。
小さな洋食屋をやっていたマスターの本当の姿は、世界に名をはせたパティシエだった。そして、マスターが持っていたスイーツ作りの技術を、全て教え込んだ最後の弟子が武部沙織だったのである。
彼女は努力を重ねて、マスターからスイーツ作りとその味にお墨付きをもらうまでになった。そうしてずっと胸に抱いていた自分のお店を持つ決心をすると、大洗町にあるショッピングモールの中にテナント店として、二十五歳の時にこのお店をオープンさせた。
その時に、マスターから屋号の「のれん分け」をしてもらい、自分のお店の名前にしたのである。
他に店内にいた姉弟の二人組と女性の友人同士も、好みの商品を買って嬉しそうにお店を出て行く。
それぞれに「ありがとうございました」と挨拶する武部沙織も、自分の子供のようなスイーツを、大事そうに買っていくお客さんの後ろ姿を見るといつも思った。
(パティシエになって私、本当に良かった……)
店内にいたお客全員、お店を出て行き、ひとまず店内が静かになった。
ショーケースの中のケーキやお菓子たちの状態もまだ良さそうで「よし、みんな大丈夫ね!」と呟き、小さく頷く武部沙織は、その場で腕まくりしながら言った。
「さあ、もうひと踏ん張りしよう。麻子達の舌を納得させないとお店に出せないもんね!」
そう言って自分に気合を入れた彼女は、そのまま厨房に戻ると、自分専用のシンクに作ろうとしているスイーツの材料になるものと、その調理機材を、それぞれ準備していく。
一つ一つの材料を目で吟味し、それを計量機にのせて重さを確認すると、それぞれを大きなボールに入れて、彼女は熱心に、それを混ぜ合わせていく。その真剣な眼差しはまるで勝負師の目であった。
全くの無言のうちに、彼女は作業を進めていく。そして――、時間が過ぎていく。
(――ここをこうして……、これを、ここにのせてっ……と)
「よし! できたぁ!」
冷泉麻子に言っていた沙織の新作スイーツ、四つが出来上がった。
彼女の声に作業をしていた、他のパティシエ達、男性三人が、作業を中断して彼女の傍に寄ってきた。
「シェフ。これが新作ですか?」
「そうよ。どう? おいしそうでしょう」
「はい、でも、今回のシェフのスイーツは、まるでバラバラなんですね」
年長らしきの男性パティシエが、首を傾げながら沙織に言うと、沙織は「うん」と頷く。
彼が言った『バラバラ』というのは、大きさの事ではなく、種類が全く違うという意味である。
沙織が作ったのは、目にも鮮やかな桜をイメージしたのであろう、ピンクのショートケーキと猫の顔をモチーフにしたキャラクターシュークリーム。そして、赤、青、黄色、茶色の四つの色の封筒サイズの特大クッキー。最後は不思議なまるで樹を横にしたようなデコレーションケーキの四種類だった。
「うん、今回はいろんなお菓子を作ったんだよ」
「あのぅ、シェフ? このデコレーションケーキ。もしかして『盆栽』を横にして上から見た形なのですか?」
パティシエの一人が、その摩訶不思議な形のデコレーションケーキを指差して訊ねる。
「そうだよ。この葉っぱの所に、抹茶シューを好きなだけ増やすことができるんだよ」
「じゃあ、この幹の部分はチョコレートロールなんですか?」
「うん、そう!」
三人のパティシエ達は、その最後のケーキの奇抜さに驚いた。
武部沙織の作った四つの新作スイーツは、幼児から年輩まで楽しめる幅広い層を狙ったスイーツ達である。
「このスイーツ達の『名前』は決まっているんですか?」
「うん、もう決めているよ」
「何と言うんですか?」
一番若いパティシエが沙織に聞き、三人が揃って沙織を見ると、笑顔で彼女が言った。
「それはね、明日の取材の時に教えるよ」
「取材の時――、ですか?」
「そう!」
沙織はにこやかに笑って、それらのスイーツを箱に入れると、立っているパティシエ達に言った。
「今から私、麻子の所に行くからね。あとの事は頼んでもいい?」
「はい! シェフ、今日は戻られますか?」
「ううん、真っ直ぐ帰るから、明日の準備までお願いできる?」
「はい。わかりました」
「じゃあ、お疲れ様!」
「お疲れ様です!」
武部沙織はそう言って、奥の事務所に入っていった。
事務所奥にある自分のロッカーから私服を取り出すと、その横にあるカーテンで目隠しすることができる簡易更衣室で着替えをした。
明るい青のワンピースに白のカーディガン。茶色いローヒールの私服は、センスのいい彼女のお気に入りの春の私服である。
そして、着ていたコック服をクリーニングバッグに入れると、カーテンを開けて簡易更衣室から出てきた。再び、自分のロッカーを開けてその下に置いてあったバッグを取り出すと、入れ替えるようにしてクリーニングバッグを入れた。
ロッカーの中には、あと二着のコック服が掛かっている。
大きめのタータンチェック柄のそのトートバックを肩にひっかけた彼女は、事務所から厨房に戻ってくる。
そして、さっき詰めたケーキ箱を持つと、作業に戻った三人に手を振って店舗の方へ出てくると、お店の入り口から外へ出た。
彼女は、左右の通路を左に曲がり、三つのテナント店舗の前を通ったあと、左手にある従業員用出入り口に入った。バックヤードを通りながら、すれ違う他の従業員達に「お疲れ様です!」と挨拶を続けながら、彼女はすれ違っていく。そうして、従業員用通用口に着いた。
そこにある守衛室にいた五十代の守衛が、沙織を見つけ、彼女に声を掛ける。
「おっ……! 武部店長、今、上がりかい?」
「うん、お疲れ様!」
「なんだい? ケーキかい? その手に持っている物は?」
「そうよ! 明日の取材の時にね、出すスイーツだよ!」
「そうだったね。私も聞いているよ! すごいね。全国放送なんだろう?」
「うん、一杯宣伝してもらうんだ! おじさん、それじゃあね、お疲れ様!」
「はい、お疲れさん!」
手を振りつつ通用口を出た彼女は、そこから、従業員専用駐輪場へと歩いて行く――。
沙織は、お店を開ける年に大洗町にアパートを借りて暮していた。お店のあるショッピングモールから自転車で五分の所にある小さなアパートである。
彼女もまた一人で自分の人生を歩き始めていた――。
沙織は、自動車やバイクの免許を持っていない。――以前、麻子から『一緒に自動車免許を取りに行こう』と、誘われた事があったが、その時に胸を張りつつ『持っていたら、いつか彼氏ができた時に、送り迎えをしてもらえないから、免許はいらない』という訳が分からない持論を麻子に説明し、呆れさせた事がある彼女である
駐輪場に止めてある、ママチャリの前駕籠にケーキ箱とトートバックを入れて、止めていた所から、自転車を押しながら出てきた彼女は、本通りに出ると、その自転車に乗って走り出した。
目指すは冷泉麻子の住むマンションである。
鼻歌を歌いながら彼女は、軽快にペダルをこぐ。それに合わせて走って行く自転車は、幾つかの交差点を過ぎ、小さな路地を幾つか抜けて、目指す麻子のマンションへと着いた。
マンション居住者用駐車場に止めてある、麻子のミニクーパーの前に自転車を止めると、前輪に鍵を掛けて、前駕籠から運んできたケーキ箱とトートバッグを取り、マンション入り口に来て、エレベーターの昇降ボタンを押した。
――彼女は、まだ鼻歌を歌っている。
やってきたエレベーターに乗り込むと、彼女は八階のボタンを押した。一人しか乗っていないエレベーター。変っていく階数の表示を見上げながら、今度は首を左右に振り、鼻歌に合わせて、彼女はリズムを取り出した。
八階に着いたエレベーターの扉が開き、通路に出ると、沙織は真正面に延びる通路を真っ直ぐに歩いて行く。
目指す部屋は、その一番奥である。
そうして部屋の前に着くと「……まさか、麻子寝てないわよね」と、沙織は呟いて立ち止まった。