六月に入った日本列島――。
六月の暦に変わったとたんに、毎日、全国のどこかで、雨が降っている。
一般的に、梅雨の季節は、六月の中旬から一ヶ月程度といわれている。しかし、今年のそれは、例年より少し早いのではと思われるほど降り続いているが、まだ、気象庁からの梅雨入り宣言は出されていない。
みほの住む●×村も、五月の二十八日から六月五日までの九日間、毎日雨が降り続いている。天気予報では、明日も雨という予報が出ていた。
しかし、●×村の主力産業である農業を営む者にとっては、天気よりも作付の時期が大切で、みほの家の周り一面に広がっている田んぼには、今年も無事に水稲の苗が植え終わった。●×村全体を囲うように取り巻く山々も、シトシトと降り続く雨で、木々の緑がより濃く見えて、村全体が緑一色に包まれている――。
保育士である西住みほは、熊のキャラクターがついた白いトレーナーにタイトなジーパン姿で、今朝も琴音と一緒に大きな傘をそれぞれがさして、保育所の玄関先に立ち、登園してくる園児達を待っていた。残っている園児は、あと一人になっている。
午前八時になる五分前――。
降りしきる雨の中、玄関先から伸びる直線道路の先に、ぼんやりと二つのヘッドライトの光が見えた。そのヘッドライトは、二人に向かってどんどんと近づいてくる。そして、それはダイハツの白い軽自動車だとわかった。
みほと琴音の前に止まったその車の運転席側から、この保育園に通う園児、橋口由美子の母親、聡子が立っている二人に向かって「おはようございます」と挨拶をし、傘を開きながら降りてきた。そして、運転席の真後ろになる後部座席のドアを開ける。すると、そこに五歳の由美子が、チャイルドシートに座っていた。その隣には、由美子の曾おばあちゃんになる、98歳のウメが座っている。助手席には、おととしまで保育所にいた道子が、ランドセルを背負って座っていた
聡子が、チャイルドシートのシートベルトを外すと、雨の中、由美子が元気に、車から飛び出してきた。
五歳という年齢の割に体格が小さい由美子だが、元気いっぱいの女の子である。かわいらしい真っ赤な雨合羽を来た由美子は、母親の傘に入り、二人の先生の前に立つとペコリと頭を下げる。
「園長しぇんしぇい! みほしぇんしぇい! おはようごじゃいましゅ!」
「はい。おはようございます」
「おはよう、由美子ちゃん! 由美子ちゃんは、今日も元気だね」
黒髪の縁を二ヶ所、ハートの髪留めゴムで結わえた由美子の、舌ったらずな大きな声の挨拶に、琴音とみほは、嬉しそうに挨拶を返す。
「うん! ねえ、しぇんしぇい、見て、見て! 新しい長靴なの! ママに買ってもらったんだよ!」
「うわぁ! かわいいね。由美子ちゃんに、よく似合ってるよ!」
「うん!」
嬉しそうにそういって、二人に長靴を見せびらかす由美子。
琴音は、ニコニコと笑いながら頷き、みほが褒めてあげると、褒められた由美子は、その場で小さく、二度三度とジャンプする。
由美子は、褒めてもらったのがよほど嬉しかったのだろう。
「由美ちゃん、おりこうさんにしてね。先生達のいう事をよく聞くのよ」
「はぁい! ママ、おばあちゃん、お姉ちゃん、行ってらっしゃい!」
「園長先生、みほ先生、宜しくお願いします。いつもの時間に迎えに来ますから」
「はい。いってらっしゃい」
聡子は二人に挨拶した後、運転席へと乗り込む。琴音とみほは、助手席の道子に向かって手を振り、後部座席にいるウメにはお辞儀をすると、道子は手を振り返し、ウメは小さくお辞儀を返した。エンジンがかかったままの軽自動車は、駐車場で上手に方向転換すると、やってきた道を、雨に打たれながら走り去っていった。
「おばあちゃん、今日は、どうかしたの?」
「うん、少し足が痛いんだって」
「帰りはどうするの?」
「『タクシーで帰る』って言ってたよ」
「そう……」
琴音が由美子に聞いた後、心配そうに、去っていく車を見つめている。
みほは、傍らに立っている由美子に声を掛けた。
「さあ、お部屋に入ろうね。もう、みんな来て、ボコちゃんと遊んでるよ」
「ああっ! じゅるぅい。今日は、ユミがお母ちゃんの番なのにぃ!」
由美子はそう言って、玄関から急いで中に入ると、雨合羽と長靴を脱ぎ、ハンガーに掛け、ちゃんと玄関の土間に揃え直してから、玄関に上がると保育園の大部屋へと走りこむ。
琴音とみほは、玄関に入った由美子の後を追うように揃って保育所へと入ると、賑やかな、いつもの一日が始まる――。
ボコちゃん――。みほが優花里から贈られた、あの巨大なボコのぬいぐるみは、いまやおままごとには欠かせない、女子園児達のスターになっていた……。
男の子三人、女の子四人の園児、全部で七名の未就学児を預かる、小さな私立●×保育所。
共稼ぎでなければ生活ができない、この村に住む若い夫婦達にとって、琴音が運営する●×保育所は、非常にありがたい保育所だった。
大部屋の中、子供達がそれぞれ思い思いの場所で、おもちゃを手に取り、遊び始めるのを、みほは入口ドアに立って見守っている。
琴音も、みほの傍らで子供達の様子を見つめていた。そこへ、玄関の方から加藤がやってきて「送迎は終わりました」と、琴音に報告してきた。『お疲れさまでした』と答えた琴音と加藤は、今日のお昼の献立の打ち合わせを始めた。二人の様子を見つめるみほは、とても穏やかな、それでいて、優しい表情となった。それは、昔、トラウマに悩んでいた頃、あんこうチームの面々に、励まされて、そのトラウマを吹っ切った時の表情によく似ている。
真田琴音と加藤勉――。
みほは、二人でも十分な保育人数の所に、二人の好意により押しかけみたいにして雇ってもらい、琴音には自分の住む家さえ無償にしてもらい住まわせてもらっている。そして、何かにつけて、みほのサポートしてくれている加藤の二人に対して、何かお礼をしたいと、ずっと考え続けていた。
二週間前の感謝祭が開催された夜――。
みほ達は、大洗町の五十鈴家、本宅に泊まった。
華の母である五十鈴百合も、あんこうチーム一行と健介、それに孫のような遠藤みほの訪問を心から喜び、病弱な体ではあるが、在宅用の華やかな和服で六人を出迎えた。
百合と華、新三郎が中心になり宴の準備が進められ、その間主賓の六人はお風呂を順にもらい、別室にて一休みする。そして、華が六人を迎えに来て、ささやかな夕食の宴が、五十鈴家の大広間にて、夕方の七時から開かれた。
宴の冒頭で披露された遠藤みほのアニメソングの独唱で、座は一気に盛り上がり、健介と相手を務める新三郎のお酒も急ピッチで進む。
百合は、娘とその友人達のおしゃべりを、宴席の上座にあたる席で、楽しそうに聞いていた。
こうして、宴は九時近くまで賑やかに執り行われた――。
食事の間、他の個室に準備された優花里一家の部屋で、健介と娘のみほが寝てしまった後、優花里は布団を抜け出し、先ほどの大広間を襖で区切った中広間へとやってくる。そこには、他の四人の布団が敷いてあり、四人はそこでお菓子を持ち寄り、パジャマパーティーをやっていた。優花里もみほの隣に座ると、五人のパジャマパーティーとなる。その時、ふとした話題から、みほは、ずっと思っていた二人への感謝の気持ちを伝え、それに対して何かできないかを、みんなに相談したのである。
「――そういう訳だから、私ね、先生達にお礼をしたいの。先生達に喜んでもらえる、何かいいアイデアはないかな?」
「そうですね……」
「――そうでありますねぇ……」
「うーん」
「……」
みほの相談に、華、優花里、沙織、麻子の四人それぞれが、真剣な表情で、頭をひねる。
しばらくして、青いパジャマ姿の沙織が、みほに答えた。
「そうねぇ……。手っ取り早いのは『感謝の会』みたいなものを開いたらどうかと思うんだけど?」
「――沙織、いいアイデアだが、それでは、ちょっと弱いな。理由がないとパーティーの意味がない。逆に、唐突過ぎて、二人に気を使わせてしまうかもしれない。もっと、パーティーを開く明確な理由がいるぞ」
「うーん、確かに……、そうよねぇ」
沙織のアイデアに対して、白い綿のパジャマを着ている麻子が付け加えると、彼女は、また考え込んだ。
五人は中央に置いてある様々なお菓子に手を伸ばし、それを口元へ運びながら、真剣に考え込んでいる。
またしばらくして、沙織が別のお菓子の袋を開けながら、みほに質問してきた。
「ねえ、みぽりん……」
「うん? 何?」
膝を抱えたまま、スウェットジャージ姿のみほが、顔を上げると沙織の方を向いた。それに釣られて、華達も彼女の方を向く。
沙織は、開けたお菓子を四人の手が届く場所へ広げながら、さらに訊ねる。
「みぽりんのとこ……、オーブンはなかったよねぇ」
「うん。でも、先生のお台所にはあるよ」
沙織の唐突な質問に、全員がオヤッという顔になる。
四人の視線を感じた沙織は、四人を見ながら、小さな声で言った。
「うん、あのね、お誕生会なんてどうかなって思って……さ」
そう言った沙織は、みほの顔を見た。
「ねえ、園長先生達の誕生日は、いつなの?」
「あっ! そうだね。琴音先生は、優花里さんと同じ、六月六日なんだよ! 加藤先生は十一月二十日なの」
「ええっ!? 真田先生は、自分と同じ誕生日なのですか?」
「うん! そうなの。優花里さんと一緒の日なんだ!」
「じゃあ、その日に、先生の誕生パーティーを開いたらどうかな?」
沙織が言うと、今度は麻子が、みほに訊ねる。
「――隊長、保育園では、お誕生会なんかはやらないのか?」
「ううん、やるんだけど、六月生まれの子はいないから、六月はないんだよ」
「先生のお誕生会は、今までやったことはないのですか?」
みほが麻子に答えると、それを聞いた、真っ白な絹のパジャマ姿の華が不思議そうに聞いてきた。
すると、みほは小さく頷いて答えた。
「うん、昔、一度やろうとしたんだけど『そんな歳ではないし、気を使わなくていいから』って言われたから、今までやったことはないの」
「それは……、微妙だな」
「微妙ですねぇ――」
みほの返事に、麻子と迷彩ジャージ姿の優花里が、同じように答える。
誕生会は、パーティーを開く名目になるが、祝おうとする相手が望まないと意味がないから、もうひとひねりが必要である。
そこに、考え込んでいた麻子が、顔を上げて意見を出した。
「――こういうアイデアは、どうだろうか?」
麻子の顔を一斉に見る四人。
麻子は、全員の顔を見て少し視線を落とすと、自分の言う事に間違いがないかどうか、一つ一つの言葉を確かめるように、話し始めた。
「――今回の宿泊のお礼にという事で、みんなが隊長の家に招待されたことにして行くことにするんだ。そして、隊長は、先生に『実は優花里の誕生会を、サプライズでするから、台所を借りてケーキを作りたい』という事で、先生の家でケーキを作らせてもらう。そして、そのケーキはだな、特大の物を一つ作り、琴音先生と加藤さんの名前を入れたらどうだろうか?」
麻子の話を聞きながら、四人は頷いている。
「つまり……、自分の誕生パーティーをサプライズでやるという事にして、実は先生の誕生パーティーと加藤先生への感謝のケーキにする訳ですね」
「――ああ、そういう事だ。これならば、隊長の家でケーキを作ることができない理由付けにもなるだろう」
「そうだね。でも、来てくれるのは大歓迎なんだけど、みんな、仕事とか大丈夫?」
みほの心配はもっともだったが、それは杞憂だった。最初に麻子が答えた。
「――私は、それまでにいくつか弁護しなければいけない案件が入っているが、取り立てて問題ないだろうと思うから、大丈夫だ」
「私も大丈夫ですわ。意外と時間の融通は利きますのよ」
華がドーナツに手を伸ばしながら答えると、沙織も塩気の強いアンコウ鍋味のポテトチップスを一枚口に運んで、それを食べ終わると、みほを見て答えた。
「それなら問題ないね。私も大丈夫だから。ゆかりんはどう? 健介さんも加藤さんに会いたいと言ってたじゃん」
「そうですね――。全国大会は七月からですので、その一か月前からは、戦車道を指導する立場にある者は、一切生徒に助言ができなくなりますので、時間はいくらでも作れますが……」
そう言って優花里は考え込んだ。他の四人は、彼女の次の言葉を待っている。
「そうですね――。健介殿と相談してからでないと、何とも言えないのですが、自分は……、行きたいですね。健介殿の事もそうですが、娘に、あの静かな山里の風景を見せてあげたいです」
「それじゃ、決まりだね! 六月六日に真田先生と加藤先生の感謝パーティーを、みぽりんの所でやろうよ!」
「――それだったら、園児達も巻き込んだらどうだろうか?」
「うん! 麻子、ナイスアイデアだね! みぽりん、どうかな?」
「うん! 絶対、琴音先生、喜ぶと思うよ」
「じゃあ、それまで、準備するものを、それぞれ考えて準備しようね」
「よし……。それじゃあ、決まりだな。じゃあ、今から作戦会議をやろう!」
こうして、それからサプライズ誕生会の計画が、五人の中で計画された。
あんこうチームが、琴音の家を訪れる理由付け。食材の準備、段取り。決めなければいけない事はたくさんあったが、パティシエの沙織が中心となり、綿密な計画が練られ、後は、当日になるまで、支度を済ませるだけとなっていた。
こうして、今度はあんこうチームが、西住みほの所へやってくることになったのである。
六月六日、金曜日――。
天気は……、残念なことに、ひどい大雨となってしまった。
前日の夜遅くから雨がひどくなり始め、朝になると、豪雨というのにふさわしい雨となっていた。
(子供達……、大丈夫かな? 今日は何人来るかな?)
大部屋の準備をしながら、みほが考えていると、琴音が母屋兼事務所からやってきた。
「みほ先生。今日は、保育園はお休みにします。園児の親御さんから、お休みの電話をもらいました」
「そうですか。わかりました……」
「今日は残念な天気になりましたね。お友達の皆さんは来られるのですか?」
「はい、今日に合わせて計画をしていますから。それに、大洗を出発したことを、優花里さんから、今朝電話をもらいましたから」
「そう、今日はお休みだから、お友達の誕生会は、ここでやってもいいですからね。」
「ありがとうございます。それでは、お台所お借りしますね。」
みほは、そう言って、台所へと行った。
みほは、台所で沙織から渡されたレシピと、目の前の薄力粉の入ったボールを、はかりに乗せ、交互に見比べている。
(よし! 分量の誤差無し! 『コネコネ作戦』です。……なんちゃって)
みほは、今思ったことが、少し恥ずかしくなり、顔を赤らめた。
彼女は、秤からボールを外すと、それに、計量カップで計った水を加える。そして、みほはボールの中に手を突っ込み、気合を入れて混ぜ合わせ始めた。
「みほ先生……。ずいぶん大きいスポンジなのですね」
「先生……。お誕生日おめでとうございます。これ、私から先生と加藤先生へのプレゼントのケーキなんです。本当は、子供達も一緒に作る予定だったんですけど」
「まあ、私達のケーキなの? お友達の分は?」
「それは、別に準備していますから、大丈夫です」
みほはエプロンの裾を持ち上げ、手に付いた粉を落とすと、神妙な面持ちで琴音に訊ねる。
「先生? やっぱり、ご迷惑でしょうか……」
「いいえ――、とっても嬉しいわ。じゃあ、出来上がりを楽しみに待ってますね」
「はい」
琴音の返事を聞いたみほは、笑顔になると、スポンジとなる生地を捏ね始めた――。
午前十時頃、あんこうチームと健介、娘のみほを乗せた車が、保育所の駐車場へとやってきた。
大洗のレンタカー屋で借りた、大きな八人乗りのグランディアの運転席から、ポロシャツ、ジーパン姿の健介が降りてきた。助手席からは、娘のみほ。後部スライドドアから、ジーパン、ジージャン姿の華、茶色のキュロットスカートに青いブラウスの沙織が先に降りてきて、黒い長めのフレアスカートを穿き、白のブラウスに麻のジャケットを着た麻子。最後に、迷彩色のキュロットスカートに、黒いポロシャツを着た優花里が降りてきた。
荷物は降ろさず、車の中に置いたままにするようで、そのかわり、大きなビニール袋をいくつも分担して抱えている。一行は、揃って玄関前に集合し、呼び鈴を華が押した。
母屋の玄関の呼び鈴がなると、みほは作業を止め、台所を出て一行を出迎える。そして、全員を座敷に案内した後、彼女は保育所大部屋にいた琴音と加藤を呼びに行った。
母屋の座敷に二人を連れてくると、そこに正座をして待っていた健介が、二人を見るなり、勢いよく立ち上がり、一度二人に対してお辞儀をすると、今度は向きを加藤の方へ向け「加藤隊長、ご無沙汰しております!」と頭を下げた。
大柄で、プロレスラーのような体格の健介が、二回りも小柄な加藤へと頭を下げる様子は、健介にとって、加藤勉がいかに恩人であるのかよくわかる様子だった。
娘のみほも、初対面の二人に正座のまま、行儀よく挨拶をする。
健介とみほは、琴音と加藤に連れられて保育所の方へ行き、あんこうの五人は、台所へとやってきた。
早速、みほのスポンジの出来具合を見る沙織。
その出来栄えを見て、十分に満足した沙織は、あんこうチームそれぞれに役割を与え、五人総出で、ケーキの下ごしらえと、パーティーの料理を作り始めた――。
その間、健介とみほ、それに加藤が加わり、大部屋の一角を使って、誕生パーティー会場を作り始める。
主役の琴音が、何か手伝いがないかと何度も顔を出すが、全て断られ、彼女一人が手持無沙汰で、台所と会場を行ったり来たりする。
琴音の顔は、戸惑いながらも、本当に嬉しそうである。
台所のオーブンから、生地が焼きあがる甘い匂いが漂い始めると、クリームを大量に作っていた麻子が鼻をピクつかせている。
オーブンの窓を覗き込みながら、焼け具合を目視していた沙織が、ニンマリとなった。そして「よし」と小さく独り言を言うと、立ち上がり振り返ると、待っている四人に向かって指示を出す。
「さあ、もうすぐスポンジが焼きあがるよ。準備はできたかな?」
「はい、フルーツのカット完了であります」
「ああ……、クリームも準備できている」
「飾り菓子もオーケーですわ」
「沙織さん。準備万端です」
「よーし。じゃあ、打ち合わせ通りに、一気に仕上げるよ」
沙織が、オーブンの窓を開けた。香ばしい香りが一気に台所いっぱいに広がると、白い厚めのミトンを手にはめた沙織が、オーブンの中から、特大サイズの真四角のスポンジを、慎重に取り出す。ゆっくりと立ち上がり、振り向いて台所のテーブルへと運び、そこへ静かに置いた。
すると麻子が、恐る恐るといった感じで、沙織へ尋ねてきた。
「沙織……。味見をしてもいいか?」
「ダメに決まっているでしょ!」
「……そうか」
麻子の残念そうな落胆の声に、みほ達、三人は作業をしながら、クスッと笑った。
焼きあがったスポンジをテーブルに運んだ沙織の周りに、四人が集まる。
「クリーム!」
「――おう」
沙織が右手を出すと、その手のひらに麻子が生クリームの入った、ステンレス製のタッパとヘラを乗せる。
それを持った沙織が、ヘラで生クリームを取り、スポンジの上に生クリームを広げていく。
「イチゴ!」
「はい!」
ある程度広げたところにで、生クリームを麻子に戻して、今度は左手を出す。すると、今度は優花里が、半分にカットされた苺の入ったタッパを左手に乗せる。
傍で見ていると、まるで手術をしている医師と看護婦のような連携である。
そうして、沙織の指示に四人が準備された食材を次々に渡して、特大のフルーツ生クリームケーキが徐々に姿を現していく――。
健介とみほは、五人が調理を進めている間、大部屋で飾りつけをしていた。
山の子供達とお友達になれるかもしれないと思っていたみほには、残念な日となってしまったが、大部屋で折り紙を使って、レイやお星さまを作り、画用紙にいびつな平仮名で『おたんじょうび、おめでとう』と書いて部屋の壁に貼り付けた。
加藤も楽しそうに、工作に励んでいる。
大雨の誕生日になってしまったが、主役である琴音は、皆の作業を見ながら、何やら感慨深げに雨粒が伝って落ちていく窓を見つめている――。
それぞれ、楽しい日になるようにと願いを込めながら、作業をしていたのである。
ところが……、もうすぐ、お昼になろうとしたころ、村中に響きわたる、防災無線のスピーカーがサイレンと緊急連絡を伝えてきたのである。
●×村に降り続く雨は……、一段と強くなり、まるで台風がきたかのような嵐となっていた――。
『――こちら、●×村役場、防災無線です。村民の皆様に連絡いたします。●×川を流れる水量が、先ほど危険水量を超えました。全住人の皆様は、各避難所へ避難してください。繰り返します……』
この放送とほぼ同時に、村の消防団の団員が保育所へとやってきた。
「園長先生! 園長先生! 居ますか?」
「山中さん、さっきの放送は……?」
「そうです! 今、●×川が危険水量を超えてしまったんです。避難勧告が村長から出されました。保育所も避難所に貸してください」
「ええ、もちろんです。老人会の方々には連絡は?」
「役場の人達が手分けして連絡しています。村にいる団員達にも、村役場に集まってもらい手分けして迎えに行くことになっています」
「そうですか。わかりました、こちらも、受け入れの準備をしておきます」
山中と呼ばれた四十代ぐらいの男性は、琴音のそばにいた加藤を見て、すぐに声をかけた。
「加藤先生も、手伝ってくれませんか!」
「わかった! 先生、行ってまいります」
「はい、お願いします!」
「加藤隊長! 自分にも手伝わせてください!」
「すまない。遠藤君、男手が……、今頃の時間、村には男手が足りないのだ。助かる!」
健介の申し出に加藤はそういって感謝すると、琴音に断りを入れて、裏口から雨合羽を二つ持ってくる。そして、村長と共に、加藤と健介は大雨の中、外へと駆け出した。そして、二台の自動車が出発する音が、屋内に聞こえてきた。
大部屋で支度をしていたあんこうの四人。彼女達は心配そうに村長と琴音のやりとりを見つめる。そこへ、加藤達を送り出したみほが近づいてきた。
「みんな、ごめんね、今から保育所を、避難所に開放するから……」
「わかりました! 自分達にも何かお手伝いできることはありませんか?」
元陸上自衛隊の優花里が真っ先に答えると、他の四人も、みほのそばに集まってくる。
「いったん飾り付けを片付けよう。それから、毛布とタオル、それにありったけの座布団を準備するから、みんな、手伝って!」
「はい」―「うん」―「了解です」―「……わかった」
四人がそれぞれ、みほの指示に、間髪入れずに返事をした。こうして、パーティーの準備をしていた五人の作業は一旦中止となり、毛布やらラジオやら、避難用器具があんこうの五人と琴音によって、大部屋へと運び込まれ、整然と準備されている。
大部屋の受け入れ態勢が整うと、今度は、琴音の指示で、みほと優花里が村役場へタオルと茣蓙(ござ)を受け取りに行き、それが済むとその足でスーパーへ買い出しに、レンタカーに乗って向かった。
その間、華、おにぎりを大量に作る為、お米をとぎ、炊飯器でご飯を作る。沙織は、今残っている食材から、おかずとなるものを考え出し、野菜を切り始めた。麻子はその食材で、簡易の浅漬けを作り始めた。
しばらくして、第一陣となるお婆ちゃんが二人、村役場の職員に連れられて、保育所へとやってきた。そうして、職員と避難してきた人達が、次々に大部屋に集まってきた。
案内されて、疲れたように座布団の上に座っているお婆ちゃん達に、一声ずつかけながら、お茶を配る冷泉麻子がいる。
「――大丈夫か? 気分はどうだ? 寒くはないか?」
麻子がこれほど献身的に動く姿を見たのは、沙織達は初めてだった。
「どこのお嬢さんか知らないけど、ありがとね」
「気にするな――。体の調子が悪くなったら、すぐに言ってくれ」
麻子は、年配の人々と子供達で、狭くなってきた大部屋と母屋の台所とを行ったり来たりしながら、亡くなった祖母から伝授された御茶の入れ方を使って、美味しいお茶を一人一人に配っていた。
華も懸命に炊き上がったご飯を、おにぎりにしていく。優花里も手伝い、沙織がおかずづくりに励む。それを手伝うみほ。
人手が足りないところに、居合わせた沙織達四人は、みほを中心にして、避難してくる人達を献身的にお世話をしていた。
娘のみほも、小さいながらも何かお手伝いができないかと思い、持ち前の人見知りのなさを生かして、小さい子供の遊び相手を務めている――。
一時間ほどして、五人目と六人目の子供を加藤が連れてきた――。そこで、ハッとなった琴音がいた。
「加藤さん! 由美子ちゃんの家に早く行ってあげて! あの場所は、山際全体の地盤がとても弱いわ! しかも、家まで一本道です。道が、もしも塞がれたら、迎えに行けなくなります!」
「わかりました! すぐに迎えに行ってきます!」
そう言って、加藤が車に乗ろうと玄関に向かうと、合羽姿の山中が、軽トラを飛ばして駐車場に入ってきて、そのまま大慌てで、玄関へと入ってきた
「先生! 大変です! 橋口さんの家までの道が土砂崩れで塞がれているそうです。橋口さんを迎えに行った職員から、前に進めないと連絡が入ってきました! お婆ちゃんとお子さん二人が、まだ家にいるそうです」
「何ですってぇ?」
山中の叫ぶような報告を聞いて、琴音は慌てて玄関へ出てくる。そこへ、隣町で働いている聡子が、仕事を早退し、車を飛ばして村へと戻り、避難所となっている保育所へと駈け込んできた。
「先生! お婆ちゃんは? 道子は? 由美子は? ここにいますか?」
「いいえ、まだ、家にいるそうです」
母親はそれを聞くなり、豪雨の中、外へ飛び出そうとしている。
それを止める山中――。
「橋口さん。無理です。道が土砂で塞がれているんです」
「じゃあ、どうするんですか? 娘二人ととおばあちゃんが家にいるんです! 今から迎えに行きます!」
「だから、無理なんです。キャタピラがついたものじゃないと、土砂は超えられない! 村には中型のユンボしかないから、土砂をすぐには取り除けませんし、移動するスピードも遅い! 二次災害に巻き込まれるかもしれません」
「そんな事、関係ありません! 道子、由美子、おばあちゃん待っていて! お母さんが今行くから!」
山中の言葉も聡子には聞こえない。ただ、家族を助けたいという想いだけだった。
ちょうどその時、偶然にもあんこうの五人は、全員大部屋に居た。それぞれの場所でお世話をしている人達への手が止まり、三人のやり取りを見ていた、あんこうの五人である。
聡子の「今行くから!」という言葉に、沙織、華、優花里、麻子の四人が無言のまま、それぞれが居る位置から、大部屋の隅にいる、西住みほを見た。
四人の視線を感じたみほは、順に顔を見て返すと、今度は黙って大部屋から出て行った。彼女は廊下を歩きながら母屋の方へと行く。
自分の事を見たみほの一瞬の表情を見逃さないあんこうチームのそれぞれのメンバーは、今、自分がお世話している場所を静かに離れると、みほの後を追った――。
大部屋を出たみほは、思いつめた表情で母屋の玄関へ出てくる。彼女は一向に止む気配のない黒い空を、そっと見上げた。
(なんとか……、いいえ、方法は……ある。先生に相談しなきゃ、みんなには――)
するとみほは、視線を地面に落とし、首を激しく横に振ると、今自分が考えたことを、頭から取り除いた。
(だめ。やっぱり言えない。私だけで行こう――)
「みーぽりん! 貴方は今、何を考えているのかなぁ?」
「えっ!?」
突然、背後から呼びかけられたみほは、驚いて振り向く。
そこには、沙織、華、優花里、麻子の四人が揃って、みほを見ていた。
「あの……」
いたずらを仕掛けようとして、それを見つかった子供のような表情になったみほ。
口ごもる彼女を見て、優花里が少しきついトーンの口調でみほに言う。
「まさか、西住殿は……、一人で行こうなんて思っていませんよね」
「そんな無茶なこと。私達は絶対に許しませんし、みほさんだけにさせませんよ」
優花里に続いて、華も少し怒って言う。
「隊長は、考えついたのだろう? きっと隊長が思いついたことしか方法はないと、私は思う。だが……、隊長、――ここにあるのか?」
あんこうの四人は、みほが思いついた事に気付いたようだ。だから、麻子が尋ねたものが何なのか、みほは直ぐに理解し返事をする。
「うん、きっと――。きっとあるはずなの……。どこにあるかは知らないけど……」
「あるはずって……。みぽりん、知らないの?」
沙織が尋ねると、みほは、四人を見渡しながら言う。
「うん。琴音先生が、真田流の先生だと知ったのは最近だったから……。でもね、先生は、この村に住んでいるから……。だから、絶対に……、この村のどこかに『戦車』が……、戦車があるはずなの」
「えっ……、それは――。あっ! そうであります、確かに、絶対にあるはずですね」
「どうして、そう言えるのですか?」
華が優花里に訊ねると、みほに変わって、今度は優花里が、沙織達に説明を始めた。
「華道と一緒ですよ。五十鈴殿にも、自分専用の花器というものがあるでしょう」
「はい、ありますが……」
「戦車道も同じです。家元の家には、必ず、家元が直轄管理している戦車が一輌はないといけないんです。それはですね、家元の目が届く範囲の場所にないといけないんですよ」
「えっ、そうなの? じゃあ、みぽりんの所にもあるの?」
沙織がみほに訊ねると、みほは「うん」と言って頷き、さらに、説明を付け加える。
「私の所はね、ずっと『Ⅱ号戦車』を管理していたの。お母さんやお婆ちゃん達もそうだった」
これで、みほの考えを全員が理解した。
「そうなのか。そうだとすると……。隊長――、真田流家元である琴音先生が、この村に住んでいるのならば……」
「そうなの」
そこで、みほは、その場にいる四人全員を見て言った。
「きっと――、『真田流の戦車』が……、琴音先生が持っている戦車が……。最低一輌、必ずこの村のどこかに置いてあるはずなの」
「それならば……。何も問題ないな」
「ええ、問題ありませんね。私達はここにいますし……」
「みぽりん! あのお母さんに代わって助けに行こうよ! 私達も一緒に行くから!」
沙織の言葉に、四人が頷き、みほを見る。
「危ないよ。絶対に――。何が起きるからわからないんだし……」
「ううん、違う。みぽりんを一人で行かせる事の方が、もっと危ないから」
心配そうに言うみほの言葉に、沙織が答えると、他の三人も苦笑しながらも、同じように頷く。
「みんなぁ……、ありがとう。私と一緒に由美子ちゃんの家に行ってくれる?」
「えぇ! もちろんです! 参りましょう!」
「当然、西住殿に御伴致しますよ」
「ああ……。隊長が行きたいと思う所には、私が必ず連れて行く」
「決まりだね! じゃあ、急いで先生に聞かないと!」
沙織の言葉に、全員が、玄関から母屋へと戻り、琴音がいる大部屋へと廊下を走っていった。