第23話 動き出す運命
五つの歯車。――それらは、ゆっくりと、そして、力強く回りはじめた。
がっちりとかみ合った、歯車達は、それらが起点となり、様々な人達の歯車をも動かしはじめる。
小さな歯車も、大きな歯車も、一つが回りはじめると、同じように動き始めていく。
みほは、忘れてしまっているが、彼女は、幼い頃、父から、人と人の繋がりからくる『力』というものを、教えてもらっている。
彼女が、物心ついた頃から、外国へ出かけていて、家には、ほとんどいなかった、父、常夫であるが、彼は、幼いみほに、その事を、歯車を使って教えていた。
西住家の敷地内、本宅から南東の位置にある、小さな一戸建ての建物がある。そこが、常夫の作業小屋である。
常夫の作業部屋は、十畳ほどの広さで、コンクリートの壁と床で造られていて、入口以外の四方を、五段に区切られたスチール棚で囲まれている。それらの棚には、たくさんの機械の部品が、種類別に箱に入れられ、整然と片付けられている。
その日、四歳のみほは、作業部屋に、父親と一緒にいた。
幼い彼女には、整理箱がたくさん並んだ棚の様子が、まるでオモチャ箱が、並んでいるように見えて、大好きな場所だった。
西住しほの結婚相手であり、まほとみほの父親になる、常夫は、肩幅がひろく、がっちりとした体格で、髪は短く刈り上げている。彫りが深い、男らしい顔付きの彼だが、目だけが、とても人なつっこい、優しい目をしている。
まほとみほ。彼の娘二人の目は、明らかに、常夫からもらったものと、誰もが思えるほど、よく似ていた。
常夫は、つなぎの黒の作業服を着て、部屋の真ん中に置いてある、縦、二メートル、横、三メートル、高さが一メートルの樫の樹で作られた、大きな作業台の前に立ち、時計職人がよくする、精密眼鏡をかけて、何やら作業をしている。
机の上に、小さなスポットライトのようなデスクライトが三つ、置いてあり、その光りを、一カ所に集めて、彼は、一心不乱に作業をしていた。
「お父さん? 何を作っているの?」
みほは一人、部屋の角に置いてある、使えなくなった部品が入った箱のそばで、中に入れてあった物を、選びながら取り出すと、それらを床に並べて、お花の絵を作っていたのだが、作るのに飽きてきて、彼女は、そう言いながら、作業している父のそばへと、駆け寄ってきた。
呼びかけられた常夫は、顔を上げると、隣に来た、みほを方を見る。
彼女は、父親のやっている事を覗こうとして、精一杯背伸びをしているが、机の上に届かず、作業の様子が見ることができない。
常夫は、かけていた精密眼鏡を外し、みほを優しく抱っこした。そして、左腕に抱き直し、娘を支えると、机の上の様子を、みほに見せてあげた。
そこには、腕時計の部品なのだろう。小さいうえに、様々な大きさをした、歯車が、幾つも並んでいた。
それら全ては、みほにとって、初めて見るものばかりだった。
「これ、なあに?」
「これはね、歯車って言うんだよ」
「はぐるま?」
「そう、腕時計の歯車だ。動かなくなったと、しほが言ってきたから、直してあげているんだよ」
常夫は、そう言って、自分を見つめる、みほの顔を見た。
みほは、「ふーん」と言いながら、興味深そうに、部品達を見ている。
「みほ――。歯車というものはね、とっても大切なものなんだよ」
「大切なの?」
みほは、顔を上げて、父親の目を見ながら訊ねると、常夫は、無言で小さく頷いた。
抱っこしている反対の右手で、彼は、みほの髪を、優しく撫でると、次に、作業している場所の、一番左においてあった、一番大きな歯車を、指差した。
「そうだよ。この歯車を見てごらん。ただの丸に、ギザギザがついているだろう?」
「うん」
「このギザギザが、大切なんだよ」
「なんで?」
「このギザギザが、クルクル回りながら、自分の力を、隣の歯車に伝えるんだよ」
「どうやって、伝えるの?」
「――見ていてごらん」
常夫は、そう言うと、みほを抱っこしたまま、そこに置いてある歯車のうち、大、小、大の順に、三つの歯車を組み合せて、一番右側になる歯車を回しはじめた。すると、他の歯車が、その回転に合わせて、連鎖しながら、同じように回り始める。
四歳のみほには、それがまるで、父親が、魔法をかけたように見えていた。
「すごい! すごい! 動いた! 回ったよ!」
父親に抱かれながら、みほは、興奮して回る歯車を見ている。
喜んでいる娘を見て、常夫は、歯車を回すのを止めると、彼女に優しく、諭した。
「みほ――面白いだろう。歯車というものは不思議だ。一つが動き出すと、それに合わせて、色々な歯車が動き出す。それはね、人と人の繋がりと一緒なんだ。例えば、お友達が、みほと遊ぼうと、家に来たとする。それは、この歯車なんだ」
常夫は、さっき、自分が回していた歯車を、指差した。
「みほが、お友達と一緒に遊ぼうと思ったら、この歯車と噛み合って、一緒に動き出す。遊ばないのなら、こうなっているんだ」
そう言って、常夫は、組み合せていた歯車二つを、一つ目から外した。そうして、大きな歯車だけを回す。当然、一つは回るが、あとの二つは止まったままである。
「お前が動く事で、他のお友達の歯車を動かす事がある。もちろん、お友達が、お前の歯車を動かす事もあるだろう。そうして、その歯車達が集まると、びっくりするような事が、おきるんだよ」
「何が、おきるの?」
「この歯車達が、力を合わせて動くと、この時計を動かすんだ」
常夫は、そう言うと、今度は、作業スペースの上に置いていた、丸い文字盤に乗せてある、時計の針を指差した。
みほは、常夫の指先を見ながら、素直に驚いて言った。
「へえ、すごいんだね。歯車って」
「そうだね。お前も、いつか大きくなった時に、この歯車のように、他の歯車達を動かしたり、動かしてもらったりして、思いもつかなかった事をやってくれ」
「みほに――できるかな?」
「きっと、できるよ。みほ。」
「……うん」
「ちょっと、難しかったかな?」
自分の顔を、キョトンとして見ている、娘を見ながら、常夫は、そう言って、静かに笑った。
人と人との出会いからくる、様々な出来事というものは、歯車の動きに、よく似ている。
それまで、自分では気付かないものが、他の歯車と噛み合った時に、突如として、顔を出す。
あの時、みほが大洗女子学園に転校しなかったら……。
その時、杏が、戦車道の復活を決めなかったら……。
もしも、みほが、二年A組に転入されなかったら……。
しかし――人の繋がりという、運命の歯車は、力強くかみ合い、そして、動き始めた。
そして、それによって、常夫が言っていた、思いもよらぬ事が、確かにおこった。
みほという歯車にかみ合った、四人の親友達。
それぞれが気付かずに、おそらく、ずっと眠っていたであろう『才能』という歯車を、突然、動かし始めたのだった。
みほが、大洗女子学園に転校してきて、戦車道が復活した。
それは、彼女と最初に友達になった二人と、その幼馴染。そして、みほに憧れていた女の子の、秘められていた才能の扉が、歯車によって開かれることになった。
あれから、――時は流れた。
西住みほは、四人が乗るランドクルーザーが見えなくなると、彼女の隣で、同じように四人を見送っていた琴音の方をむいて「先生、お休みのところ、ありがとうございました」と言い、その場で頭を下げた。
そんな彼女を見て、にっこりと笑う琴音は「いいんですよ。楽しかったわ」と言って、先に家の中に入っていった。
琴音の後を追うようにして、家に入ったみほは、廊下を歩く琴音の背後を、静かについていく。
さっきまで、賑やかだった奥座敷だったが、四人が帰った今、妙にシンとしていて、少し寂しさを感じた、みほだった。
床の間を背負う、いつもの場所に座った琴音を見て、みほは「お茶を入れ直してきます」と言い、全部で六人分の湯呑と、少し大きめの急須をお盆にのせて、座卓の上を片付けると、それらを持って、奥座敷を出ると、真向かいになる台所に入った。
みほの問い掛けに、小さく頷いた琴音は、そこで静かに目を閉じた。
しばらくして、湯呑二つと小さな急須をお盆にのせて、奥座敷に戻ってきたみほ。
座卓を挟んで、琴音の正面に、彼女は正座で座ると、運んできた琴音の湯呑に、香りのいいお茶を入れ、それを少し冷ますと「先生、どうぞ」と言って、彼女の前に差し出した。
それまで、目を閉じたままの琴音は、みほに呼ばれて、ようやく目を開けると「ありがとう」と言いながら、八十度まで冷まされた、差し出された美味しいお茶を、静かに口に運んだ。
それを見ていたみほも、同じように自分の湯呑にお茶を注ぐと、今度は、フーッと息を吹きかけて、それを飲む。
静かな奥座敷に、時間がゆっくりと流れていく――。
しばらく、お茶を楽しむ二人だったが、琴音が湯呑を置いて、みほに話しかけた。
「みほ先生。さっき、五十鈴さんが言っていた、西住の家に、あなたの事を知らせるというのは?」
琴音の質問に、みほは、姿勢を正して、彼女に答える。
「はい、――実は、お姉ちゃんが、式典の日に、学校に電話をしてきたそうなのです。その時に、学園長である角谷さんが、電話を受けられて、お姉ちゃんと話をされたそうで、昨日、角谷さんから『一度、家に連絡をしなさい』とアドバイスを、私にくれたのです。――でも、いきなり電話をしたら、お母さん達は、いらぬ心配をするだろうという事になって、誰かが、先に教えてあげようという事になりました。そうしたら、華さんが『福岡まで用事があるから』と言って、その時に足を延ばして、お母さん達に知らせてくれることになったんです」
「そうですか……。みほ先生。あなたは、本当に良いお友達を持ちましたね」
「はい――。本当に、そう思います」
みほは、琴音の言葉に頷くと、そう答えた。
琴音は、みほを見ながら、さらに聞いてくる。
「それで……。家に電話するの?」
「はい、皆との約束です。それに、ちゃんと、自分自身で、けじめをつけるつもりです」
持っていた湯呑を座卓へ置くと、みほは、もう一度、姿勢を正して、琴音に言う。
その様子を見た琴音は、同じように姿勢を正すと、みほを見つめて言った。
「みほ先生――。あなたの目に強い意志を感じます。多分、今のあなたが、本当の、西住みほさん、なのでしょうね」
「そんな……」
琴音の言葉に、みほは、そう言うと、小さくなってしまった。
琴音は、そんな彼女の仕草、一つ一つを、微笑みながら見ていた。
そのあと、みほは、琴音に、昨晩四人でやった、ごはん会の様子を思い出しながら、楽しそうに話す。
その話の区切りのたびに、琴音は、一回一回、相槌を打ちながら、彼女の話を、楽しそうに聞いている。
そうしている内に、日が段々と暮れて来て、窓から差し込んでいた明るい日の光りが、オレンジ色に変わっていく。
話も一段落し、奥座敷の壁にある、丸い壁時計を見たみほが「……それでは、先生。スーパーに行ってきます」と言って、席を立ちあがると、台所に入り、エコバッグを持ってきた。
琴音は「お願いします」と言って、みほを見た。
みほは「行ってきます」と言うと、スーパーへと出かけていった。
スーパーの店内を、メモを片手に、食材を集める、みほ。沙織からもらったレシピの材料を二倍にして、食材を買い、琴音の家に戻ってくると、台所で、二人分の夕食を作った。
「沙織さんみたいに、上手にはできないですけど」と、はにかみながら、彼女は、琴音の前に、料理を並べていった。
二人で夕食を摂りながら、みほは、あらためて、四人と出会ってからの事、四人で経験した様々な出来事を話し始めた。そして、彼女達が、いかに素敵な女性達なのかを、琴音に説明する。
琴音に、自分の事をほとんど話さなかったみほが、黒森峰から転校してきた学校で、沙織と華から声を掛けられてからの、あんこうチームの絆を、嬉しそうに話している。そんな様子を微笑ましく思いながら見る琴音だった。
翌日の日曜日――。
みほは、朝、七時に起きると、自分の居場所を守る為、ずっと閉め続けてきた、部屋の『雨戸』を、ついに開けた。
外は、昨日と同じように、いい天気である。
窓から入ってくる、心地よい五月の風の香りと、柔らかな朝の光を全身に浴びて、みほは、窓のそばで、大きく背伸びをすると、部屋着のまま、家の掃除を始めた。
パタパタと、はたきで埃を取り、雑巾で、部屋の中、隅々を水拭きしていく。
二時間程かけて、それが終わると、今度は、身支度を整えて、●×村の中心地にある、小さな商店街に出かけていき、そこにある一軒の美容院に入った。
彼女は、腰まであった髪を、高校時代のボブの髪型にもどすと決心していた。
「本当に切っていいんですか?」と、何度も訊ねてくる店主である。
大きな鏡の前で、みほは苦笑する。
(バッサリと髪を切る時には、何度も訊ねるって聞いていたけど、それって、本当なんだね)
「はい。バッサリ切ってください」
出来上がった髪型を見て、みほは「うん。昔に戻った」と呟き、軽くなった自分の髪を、何度も触り、何度も小さく頷いた。
店主から「切った髪を、貰ってもいいですか」と訊ねられて「何にするのですか」と訊ね返すと、店主から「こんなに、きれいな栗毛色の髪は、とっても貴重なんです。かつらに使わせてもらいます」と言われて、顔を真っ赤にした、みほだった。
また、その翌日の月曜日の朝の事。
着替えを済ませたみほは、簡単な和朝食を作ると、それを自室のテーブルに運び、テレビのスイッチを入れ、朝のニュース番組を見ながら、それを食べようとしていた
映し出されたニュース番組は、ちょうど、スポーツコーナーの時間で、女性アナウンサーが、前日までに行われた、野球やサッカーの結果を知らせている。そして、それが終わると、戦車道のトピックスニュースが伝えられた。そこで、みほは、前日、プロリーグの戦車道選手に対してメディカル検査があり、そこで、姉が検査に合格し、戦車道の選手としての道が、再び開けたというニュースを知った。
画面を見ながら、朝食をとる手が、止まった彼女である。
そのニュースが終わると、彼女は、テレビを消した。
箸をテーブルに置いた彼女は、正座のまま、俯いている。そして、小さな声で「よかった、よかったね、お姉ちゃん」と、何度も繰り返していた――。
週の初めになる月曜日は、保育園に来たがらない子供達が多く、来たら来たで、母親と別れるのが嫌で泣く子供達をあやしながら、みほは保育所に入れるのだが、髪を切った彼女を見て、びっくりした子供達は、逆に「みほ先生、どうしたの? 失恋しちゃったの? 元気出して」と、次々に寄ってきた。
子供達の悪気のない質問に、苦笑しながら、みほは、いつもの保育園の一日の仕事を始めた。
子供達と一緒に遊び、子供達の様子を見ながら、一人一人に気を配り、けんかが始まりそうになると、さりげなく寄っていき、事前に止めていく――。
みほが、保育士になって、覚えた技であった。
大部屋の半分を使い、子供達は、時間を忘れて、積木遊びやお絵かき、粘土遊びをして遊んでいる。
十一時半を回ると、残りの大部屋半分の所に、子供達用の小さなテーブルと椅子が、琴音の手によって並べられて、お昼ご飯の時間となった。
『いただきまーす!』
子供達の元気な挨拶のあと、琴音とみほ。それに加藤も加わり、楽しいお昼ご飯である。
そうして時計は、十二時を少し過ぎて、子供達のお昼ご飯も終わり、今度はお昼寝時間となる。
子供達とみほが、遊んでいた部屋半分に、敷布団と毛布を並べ終わると、子供達は、布団の中に潜り込む。みほは、全員が布団に入った事を確認すると、窓のカーテンを引き、部屋を暗くする。
子供達全員が見える位置に、正座で座った彼女は、にっこりと笑みを浮かべながら、子供達を見ている――やがて、小さな寝息が、彼女の耳に聞こえ始めた
寝かしつけた後、少し時間の余裕ができて、琴音とみほ、加藤の三人は、やっとお茶の時間となる。
寝ている子供達が見える、大部屋入り口近くのところで、三脚の椅子を丸く並べて、三人、それぞれが湯呑を持ち、たわいもない話をしていた。そうした中で、まほの戦車道選手復帰のニュースの話となった。
琴音は、右斜めに座っている、みほを見ながら、まほの頑張りを、手放しで褒めた。
「みほ先生。まほさんは、本当によく頑張りましたね。一時は、復帰は絶望とまで言われていたのですけどね」
「はい! お姉ちゃんは、きっと、今度の世界大会に出場しようと、全てを賭けて頑張ったんだと思います」
「そうでしょうねぇ――しかし、これで、ようやく日本戦車道の未来に、光が見えてきたようです」
「そんな……、園長先生。大げさだと思いますけど」
みほが言うと、琴音は首を小さく左右に振った。
「いいえ、みほ先生。これは、大げさでも何でもないのです。実は、日本戦車道は、とても大変な事になっているのですよ」
「えっ!? そうなんですか?」
琴音の口から、思いがけない事を聞かされたみほは、驚いて、思わず聞き返すと、琴音は、今度は、小さくうなずいた。
「はい。今度、戦車道全流派の家元が集まる、緊急の会議があります。私も、真田流の代表として出席しなければいけません。その時に、議案として出るでしょうね」
琴音は、今度は左斜め前に座っている、加藤の方を見た。
加藤も、琴音の方を見て言った。
「……はい。そうですね。そこで、みほ先生に、お願いがあります。今月の第三週の週末、三日ほど、琴音先生と私は、東京へ行ってきますので、留守の間、保育園の方を、宜しくお願いしたいのですが?」
「はい。承知しました」
みほは、真剣な二人の様子を、不思議に思いながら、その日の仕事を終えた。
それから、三日が経ち、金曜日となった。
時間は、午前十時である。
ゴールデンウィークの後半の連休スタートとなる、五月三日。
今日から、振替休日も含めて、五日間のお休みとなる。
前日、木曜日の夜に、西住みほは、五十鈴華から、メールを貰っていた。
『【件名】報告しました』
『【内容】一悶着ありましたが、久しぶりに、楽しい体験をさせてもらいました。しほ先生とまほさん、それに、逸見さんに報告しましたので、みほさん、お電話をお願いしますね』
今、みほは、自室のテーブルの上に、麻子から預かったスマホを置いて、それをじっと見ていた。
実は、みほは、華の書いた「一悶着」というのが、とても気になっていた。よっぽど、華に聞いてみようかと迷ったが、結局、彼女は、訊ねるのをやめた。
そうして、みほは、いよいよ、家に電話する覚悟を決めて、スマホを持つと、実家のダイヤルを押した。
しばらく、受話口から、相手を呼び出す、機械的な音が聞こえていたが、カチャっと受話器を取る音が、みほに聞こえた。
『はい、お待たせしました。西住でございます』
電話を取った相手の声を聞いた彼女は、少し笑顔となった。
この声は、お世話をしてもらっていた、古参の家政婦の声である。
「――もしもし……。菊代さんですか?」
訊ねられた相手は「えっ?」と、一度言うと、すぐに、もう一度、同じ言葉を繰り返した。
「えっ? ……み、みほお嬢様ですか?」
「はい……。みほです」
「しばらく、しばらくお待ちください! そのままで――、そのままで、お切りにならないでくださいよ。お嬢様!」
「はい……。待っています」
とても慌てた様子で、菊代は、そう言うと、電話を保留音に切り替えた。
保留音が聞こえ出すと、みほは、左耳に当てていた電話を、いったん耳から外し、大きく深呼吸をした。そして、今度は、右の耳にスマホを当て直した。
そして、保留音が切れ、受話口から、姉のまほの声が聞こえてきた。
「もしもし、みほか?」
「はい。……お姉ちゃん。ご無沙汰しています」
「……元気なのか?」
「はい、元気です」
「そうか。――今、お母様とかわるから」
「……はい」
みほにとっては、鬼より怖い母親である。それでも、覚悟を決めて電話している彼女は、堂々として、電話に母親が出るのを待っていた。
「――みほ」
「はい、お母さん。みほです」
静かに名前を呼ぶ母親の声が聞こえ、みほも、静かに返事をする。
叱られると思っていたみほに、しほは、いきなり用件を伝えはじめた。
「五十鈴先生から伺いました。まず、あなたに伝えなければいけない事があります」
「はい?」
「みほ。一度、熊本に帰っていらっしゃい。あなたに知ってもらわなければいけない事があります。いい? できれば、ゴールデンウィーク中に帰っていらっしゃい。仕事は休みなのでしょう?」
「はい」
「それでは、土曜日に、家に帰っていらっしゃい。いいですね」
「はい」
「家には、何時頃、帰って来れるの?」
「はい、二時か、三時ぐらいになると思います」
「そう。わかりました。それでは、その時に」
そう言って、向こうから、一方的に電話を切られてしまった。
(お母さん、どうしたんだろう。伝えなければいけない事って、なんだろう?)
電話を切ったみほは、テーブルに置いたスマホを見ながら、そのまま考え込んだ――。
時計は、十一時を回り、みほは、琴音の家へと向かった。
奥座敷で、琴音に会うと、みほは「お母さんから、熊本に帰ってくるように言われて、行くことにしました」と、琴音に報告した。
それを聞いた琴音は、しばらく、みほに待つように言い、奥座敷隣の自分の部屋に入った。みほが待っていると、彼女は手紙を持ってきて、それを、みほに預けたのである。
「みほ先生――。この手紙を、しほ先生に渡してちょうだい。それと、あなたは、ちゃんと、自分の力で生活をしているんです。私の事も話して構いません。堂々と、胸を張って、家に帰りなさい」
「はい。先生」
そうして、翌日の土曜日、早朝――。
式典の時に着た上下スーツ姿に、ボストンバッグを一つ持って、みほは、琴音から連絡を受けた加藤に、●×村の最寄りとなる、無人駅まで、軽トラックで送ってもらうと、そこから電車に乗り、東海道本線の新幹線が止まる駅まで、電車を乗り継ぎ、一路、熊本の西住家へと向かった――。