ラインフォルトの見習い使用人   作:まぎょっぺ

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先達の教え

 武装であるキャパシターのケース、そしてバスケットを片手に提げたルドルフが学院のグラウンドを隣接する講堂の脇から見回すと探していた少女はすぐに見つかった。

 紺のシャツにチェックのスカート、ユニフォームに身を包んだラクロス部の女生徒に交じりスティックを振るっているアリサ。

 クラブの活動に参加するのは今日が初となるはずだがボールを投げ交わすその姿は十分に様になっていた。

 額に汗を垂らし練習に打ち込むその姿を確認し頃合いを見計らっていたルドルフだが。

 

「やあ、見学かい?」

 

 その背に声を掛ける人物が居た。

 聞き覚えのあるその声にルドルフが振り向いた先には、体にフィットしたデザインの珍しい黒い革ツナギを着た女性が涼しげな笑みを浮かべ立っていた。

 スラリと背が高く、顔立ちは端麗ながら短めに切り揃えられた青藍の髪も相まって中性的な魅力を感じさせる。

 

「アンゼリカさん――お久しぶりです」

 

「ああ、君とも随分ご無沙汰していたね。トールズ士官学院への入学おめでとう、先輩として歓迎するよ」

 

 本来であれば白い貴族身分を示す制服を着ているはずのその女性、アンゼリカ・ログナーは笑みを深めてそう口にした。

 ルーレ市で暮らしていた頃の記憶と変わらず型にはまらない気風を感じさせる微笑みだったが、ルドルフが「ありがとうございます」と頭を下げるとアンゼリカは芝居がかった仕草で嘆くようにため息を吐いて見せた。

 

「やれやれ、相変わらず固いな君は。その様子だとアリサ君からも何か言われてるんじゃないのかい?」

 

「恥ずかしながら仰る通りです。ですがアンゼリカさんに対するならこれでも気安すぎるのではないかと思うのですが」

 

「ははっ、これ以上へりくだってもらってはむず痒くてたまらなくなってしまうよ。ウチのことなら前から気にしなくていいと言っているだろう? 無理にとは言わないけれど、もっとくだけてくれて構わないよ」

 

 四大名門に名を連ねる家の出でありながらその名を笠に着ることなく接するアンゼリカの態度はルドルフにも知るところであり、ログナー家の膝元であるルーレ市を離れてもそれは変わらないようであった。

 

「見たところアリサ君に差し入れでも持ってきたのかな?」

 

「はい、午後からクラスメイトと旧校舎の調査をすることになりましたので、昼食にと」

 

「なるほどなるほど、しかしルドルフ君、見てごらんよ」

 

 麻のバスケットを示して言うルドルフに頷くアンゼリカがグラウンドのラクロス部へ目を向け語りだす。

 彼女に倣いルドルフが視線を向けた先では休憩時間に入ったのか、ラクロス部の面々がバッグ等の荷物が置かれた一角で汗を拭ったり談笑を交わしたりとしている。

 アリサもまた部員の女子と時折笑顔を見せながら会話に花を咲かせているようだった。

 

「この後彼女達は食堂か、街のカフェテリアででもランチを共にして友好を深めるんだろう、そんなところに君がその差し入れを持って行くとどうなるかな?」

 

 予想の埒外にあったその発想にルドルフはハッと胸を衝かれてしまった。

 ラクロス部には貴族生徒、平民生徒の両方が在籍しているが一見してアリサは平民階級のグループに交じっているようだった。

 身なりの整いぶり、持ち物の高級さ、見るからに貴族身分と分かる女子たちはウェーブのかかった紫の長い髪をした女生徒を中心に集まっている。

 そういった生徒ならばお付きの執事やメイドにランチの用意をさせていても違和感はないかもしれないが多くの場合、平民であるならなおさらアンゼリカの言った通りになるだろう。

 そうなればルドルフの行為はアリサの周囲に浮いた印象を与え、それは好意的なものにならないであろうことは予想に固い。

 

「……迂闊でした。ありがとうございます、危うくお嬢様に迷惑をおかけしてしまうところでした」

 

「どういたしまして、まあ本当は私も彼女たちに混ざってアリサ君と旧交を温めたいところだけど、今日の所は遠慮することにしよう。共に汗を流す女の子たちの青春に水を差すのは無粋だからね」

 

 心の底から残念そうにそんなことを口にするアンゼリカにはルドルフもどう声をかけていいか分からずただ苦笑を浮かべてしまう。

 好人物といえる彼女だったが、しきりに女性を口説こうとする特徴も多くの人が知るところであり、中性的な美貌もあいまって彼女に熱を上げてしまう女性も少なくはないがそんなアプローチを苦手とするアリサは故郷ルーレでよく困らされていたのだった。

 

「しかし余計なことをしてしまいました……アンゼリカさんは昼食を済まされましたか? 良ければこちらを――」

 

「それなんだが、丁度いい差し入れ先があるよ。ついでといってはなんだがルドルフ君」

 

 向き直ったアンゼリカは相手を悪戯に誘うような声音で囁く。

 

「旧校舎に行くと言っていたね、ウォーミングアップついでに少し体を動かして行かないか?」

 

 

 

 

 

 

 

 アンゼリカに連れられルドルフは屋内プール、修練場、そして各クラブの部室が入っているギムナジウムの門をくぐるルドルフ。

 真っ直ぐに向かった目的のフェンシング部が活動しているはずの修練場へ続く扉から、ラクロス部のように昼の休憩時間に入ったのか数人の生徒が出てくるところだった。

 その内の一人、白い制服の金髪男子がアンゼリカに気づくと歩みを止めた。

 

「これはログナー家の、ご機嫌麗しゅう」

 

「ん? 君は……ハイアームズ家のパトリック君だったか、どうもご機嫌よう」

 

「見知りおき下さったようで嬉しく思いますよ、入学からご挨拶が遅れましたが同じ侯爵家の者として宜しくお願い申し上げます。……ん?」

 

 ハイアームズ、ログナー家と同じく四大名門に数えられる侯爵家の名でありその繋がりから挨拶してきたらしい男子生徒、パトリックはルドルフに気づき、赤い制服を見るなり眉を顰める。

 

「失礼、そちらは?」

 

「ルドルフ・シュヴァルベと申します、パトリック様におかれましてはご機嫌麗しゅう存じます」

 

 へりくだった物言いに貴族でないことを悟ったのか、小さく鼻を鳴らすだけで応じたパトリックは挨拶を返さずアンゼリカへと視線を戻した。

 

「地元の知り合いでね、少し彼に指導したいことがあるから修練場にお邪魔させてもらうよ」

 

「……あまり良い戯れとは思いませんが、後輩として過ぎた口出しは差し控えましょう――失礼します」

 

 歩みを再開し擦れ違いざま、足を止めたパトリックがルドルフへ言葉を放つ。

 

「Ⅶ組などと、特別扱いされて図に乗らぬことだな、出過ぎた真似は控えた方が身のためだぞ」

 

「ご忠告痛み入ります、肝に銘じさせて頂きます」

 

 向き直り頭を下げて応じたルドルフに一瞬虚を突かれたように目を瞠るパトリックだったが、再び小さく鼻を鳴らすとそれ以上何も言うことなくギムナジウムの外へと向かって行った。

 その背が見えなくなるとクスクスと、笑いを漏らしていたアンゼリカを不思議そうにルドルフが振り返る。

 

「いやすまない、しかし嫌味でもなくあんな風に返せるのはなかなか得難い才能かもしれないな。少しは腹が立たないのかい?」

 

「貴族という身分にああいった態度を取られる方が多いということは存じ上げていますし、特には。あんな忠告を受けるとは思いませんでしたが」

 

「ああ、おそらく君たちのⅦ組という枠組みが貴族を差し置いて特別扱いされているようで気に入らないのだろうね、まあ気にすることは無いよ」

 

 そんなことを言い交わしながら二人が修練場の扉を開くと、広めの室内に残っていた生徒二人の姿が視界に入る。

 一人は艶やかな金髪を腰まで伸ばした白服、女性の貴族生徒、もう一人は広い肩幅をした体格に良い緑の制服を着た平民の男子生徒だったが、その二人は身分の差を感じさせない気安さで会話しているようだった。

 

「ん? お前は……」

 

「あら、アンゼリカじゃない」

 

「やあフリーデル、ちょっとお邪魔するよ」

 

 入室に気づいた二人、アンゼリカの知り合いであるらしい女生徒はルドルフたちの間で視線を往復させると来訪の目的を測りかねているのか小首を傾げる。

 

「フェンシング部は休憩中かい? そこでパトリック君と会ったけれど、彼も君のクラブ所属だったのかな」

 

「ええ、ついさっきからね、そのパトリック君もそうだけど今年の新入生はなかなか面白い子が多いわ」

 

「野郎は流石に生意気すぎるがな……」

 

 にこやかに語るフリーデルの言葉に対して男性の方は苛立ちが垣間見える苦い顔で吐き捨てていた。

 

「基礎練習なんていいから試合させろなんてぬかしやがる、四大名門だかなんだか知らないがプライドばっかり高くて困る……っと、悪い」

 

「ふふ、気にしないでいい。ロギンス君が当て擦りを言うような人間じゃないことは分かってるさ」

 

 苦言を漏らすも目の前のアンゼリカが同じ四大名門であることを思い出したようにばつの悪い表情になる男性、ロギンスだがアンゼリカは気にする様子も見せなかった。

 

「でも大きいのは態度だけじゃないみたいね。彼、昨日はロギンス君と引き分けてたわけだし」

 

「……っ、あれは、相手が一年坊主で油断しただけだ……」

 

 そう言って気まずそうに首をよそへ向ける姿が可笑しく映ったのか、フリーデル、アンゼリカはクスリと微笑み交わしていた。

 

「でもいいのかい? そうやってクラブの風紀を乱されるのは部長として見過ごせないんじゃないのかな」

 

「そうね、注意はするけど、あんまり度が過ぎるようなら私が直接()()してあげないといけないかもしれないわね」

 

 浮かべた笑みが形はそのままにしながらも凍てついた雰囲気を帯びたことを感じ取り、隣に立つロギンスがビクリと身動ぎした。

 柔らかな物腰からは想像できない息を呑むような凄みを放つフリーデルにルドルフも目を瞠り、部長という肩書がただのまとめ役というわけではないことを肌で感じ取る。

 

「おやおや、この様子だとパトリック君が去年のロギンス君と同じ目に遭ってしまいそうだね」

 

「その話はよせ……! それより、うちに何の用なんだ? 見ない顔も居るみたいだが」

 

 話題を逸らすように――実際そういう狙いもあったのだろうがロギンスが問いかける。

 二人と面識の無いルドルフが名乗るよりも早く、手で示しながらアンゼリカが紹介に入っていた。

 

「彼、地元の知り合いでルドルフ君と言うんだが、彼と少し手合せがしたくてね、修練場を少し借りても構わないかい?」

 

 その言葉にフェンシング部の二人は揃って目を丸くし、ルドルフをしばらく注視した後確かめるような口調でアンゼリカに聞き返した。

 

「例のⅦ組の子よね、貴女とで勝負になるの?」

 

「なに、彼には昔軽く格闘術の手ほどきをしたことがあってね、手合せといっても腕が鈍っていないか確かめさせてもらうくらいさ」

 

「ふぅん――、まあ管理はしてるけど私たちのものってわけでもないし、休憩の間ぐらいならいいわよ」

 

「助かるよ、そのお礼というわけではないけれど――」

 

 アンゼリカに目を向けられたルドルフは事前の打ち合わせ通りに進み出ると、持っていたバスケットを差し出した。

 

「紹介に与りました一年のルドルフ・シュヴァルベと申します、お口に合うか分かりませんが、良ければ召し上がって頂けないでしょうか?」

 

「食堂のラムゼイ氏の料理も素晴らしいが、たまには趣向を変えたランチでもどうかな、味の方は私が保障しよう」

 

 興味深そうにバスケットを受け取り、蓋を開けて中を覗き込んだフリーデルは珍しいものでも見たような感嘆の吐息を漏らす。

 

「悪くないわね。ありがとうルドルフ君、頂いておくわ。ロギンス君、私たちは隅でお昼にしましょう、面白いものも見れそうなことだし、ね」

 

「あ、ああ。構わないけどよ……アンゼリカ、一年相手に無茶するんじゃねえぞ」

 

 修練場の隅へ向かうフリーデルの後に続きながら釘を刺すように言うロギンスに手を振り、アンゼリカは試合用らしい床に赤いラインが引かれ四角に区切られたエリアに立った。

 アンゼリカが扱う格闘技は泰斗流という東方、共和国出身のある女性から伝授されたという武術を基礎とするものだが、その熟練度合いはそこらの貴族子女の手習いとは桁違い、並の魔獣程度なら素手でも易々と屠ってしまえるほどでロギンスの懸念も大袈裟なものではなかった。

 

「体術の方を見たいから戦術オーブメントは無しとしよう、いいかい?」

 

「もちろん構いません、アンゼリカさんにご指導頂けるだけでも僕にとって得難い機会ですから」

 

 そう言ってキャパシターのケースをエリア外に置いたルドルフだったが、振り返った先で、アンゼリカが手甲(ガントレット)を両腕に装着しながら意味ありげな視線を向けてきているのに気づく。

 ルドルフが何事か尋ねるまでもなく、アンゼリカが自分から切り出した。

 

「それなんだがルドルフ君、私は今回君にあれこれと指南するつもりはない」

 

 足を開き、半身をルドルフへ向け構えを取ったアンゼリカはそれまでの飄々としていた面持ちを鋭さが感じられるまでに引き締めると、真剣な声音で言い放つ。

 真っ直ぐに向けられた眼差しに込められた意思の強さは間に挟む空気が軋むような錯覚をルドルフに起こさせた。

 

「君の腕を確かめておきたい、私に打ち勝つつもりでかかってきてくれ。でなければ――ただでは済まないかもしれないよ」

 

「――っ!」

 

 脅かしではない、紛れも無いアンゼリカの本気を感じ取りルドルフは神経を張り詰めさせると拳を構える。

 幾度か格闘術の指導を受けたルドルフも彼女からここまでの闘気を向けられるのは初めてのことだった。

 構えたのを見取るなり、アンゼリカは流れるような足捌きで距離を詰めると、前に出した腕が霞んで見えるような鋭い拳打を放った。

 辛うじて反応が間に合ったルドルフは掲げた腕でそれを受けるも、腕から伝わる振動に表情を硬くする。

 繰り出された拳打はアンゼリカの全力ではなく、ルドルフにも耐え凌げるもの、だがそれ故に引き戻しも早く続く浅打に反撃が間に合わない。

 先の言葉、何故アンゼリカがそこまでの覚悟を求めたのか、掴めずにいるルドルフだったが、この手合せを彼女が簡単に終わらせるつもりなどないことだけは理解できた。

 勝つにしろ負けるにしろ、相応の態度で臨まなければ彼女が満足しないのは明らか、ならばと腕を交差させ顔面を狙ってくる連打を押し退け縮まった間合いを更に詰めようとするルドルフだったが。

 

「……くっ!?」

 

 足を踏み出した瞬間滑り込むように腕の下から潜り込んできた掌が顔へ迫り、咄嗟に踏みとどまったルドルフの視界が急激に上向く。

 

「まだ、甘いね」

 

 掌打に合わせて踏み込んでいたアンゼリカの脚が上に注意を引かれ疎かになっていたルドルフの片足を蹴り払っていた。

 体勢を崩したルドルフの懐へ更に踏み込むと、アンゼリカの腰元へ引き絞られていた拳が鋭い呼気と共に放たれる。

 

「く――はっ!」

 

 鳩尾を抉る重い衝撃に思考が一瞬白く染まり、肺の空気を強制的に吐き出させられた虚脱感に見舞われ、ふらりと下がったルドルフに更なる追撃が迫った。

 初手から続いた軽く刻むような打撃とは違う、全身の捻りを乗せた武術による拳が。

 

「づ、くっ……」

 

 あまりに強すぎる痛みにはルドルフといえど表情の歪み、意識の散漫を抑えきることは出来ない。

 しかし攻撃を認識した瞬間、ふらついていた脚は地を踏みしめ、反射的な動作でルドルフの腕は弧を描き迫りくる凶拳を打ち払っていた。

 

「――っ」

 

 一瞬眉を顰め追撃を凌がれたアンゼリカは素早く下がるとまた始めの構えへ、二人の構図もまた戻った形だが異なるのはルドルフが大きく息を乱していること。

 

「分かっただろう? 本気になるのなら早い方がいいと思うけどね」

 

「それ……は……」

 

 窘めるような言葉をかけるアンゼリカの瞳が、片手で腹を抑えながら躊躇するように言葉を濁すルドルフを嘆くような目で見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

「……おい、いいのか」

 

「何がかしら?」

 

「止めなくていいのかって話に決まってるだろ……ったく、アンゼリカの奴何考えてやがる」

 

 そわそわとして落ち着きの無いロギンスにフリーデル、フェンシング部の二人の前で手合せ、というより一方的に攻めかかるアンゼリカの攻撃を耐えるルドルフという構図が繰り広げられていた。

 

「あの一年もよく耐えちゃいるが、相手になってないじゃねえか、フェンシング部が私刑(リンチ)に加担してるような噂でもたったらどうするよ」

 

 連打の間隙を縫って時折腕を振るうルドルフだったがその悉くが見切られ弾かれているようだった。

 あの手痛い一撃の後から動きがより慎重になっていたが、アンゼリカの拳によるダメージは確実に蓄積している筈であり、ルドルフが膝をつくのは時間の問題とロギンスは見ていた。

 

「やるんなら一気に決めればいいだろうに、アンゼリカの奴もなんだってこんな――」

 

「らしくない真似をするからには、それなりの理由があるのよ」

 

 ロギンスとは対照的に表情を乱さず、淡々とした物言いで続けるフリーデル。

 

「彼女がわけもなくあんなやり方をするなんて思ってないでしょう? 私たちは彼のことも全く知らないんだから、ここは任せましょう。それに――」

 

 今また伸ばした腕を払われ強かに腹を打たれたルドルフを冷静に見据えながら、言葉を重ねる。

 

「彼、さっきからまともに打ち合ってもいないじゃない。あんな狙いが見え見えじゃ軽くあしらわれて当然よ」

 

「何……?」

 

 言われてロギンスはようやくそのことに気づくことができた。

 振るわれるルドルフの手、それが打撃としては的を外しており、開かれた手はあからさまに相手を掴み伏せようとするような動きのせいであるということに。

 アンゼリカに師事したというのならある程度の拳闘術は扱えるものと思われるだけに気づいてみればロギンスの目にもそれは不自然に映った。

 

「――んッ」

 

「!? どうし……た……」

 

 不意に上がった呻くような小声に驚かされたロギンスが見た先では、口元に手を当てたフリーデル、その片手には一口齧られた形跡のある柔らかそうな白パンにローストビーフをメインとした具材が挟まれたサンドイッチが握られていた。

 ポカンと呆けているロギンスを尻目にフリーデルは上品に咀嚼したサンドイッチを喉へ落とし込み呟く。

 

山わさび(レフォール)が利いてるわね、確かにいい腕してるみたい」

 

 そんなことを言いながら上機嫌に食を進める彼女に大袈裟な反応をしてしまったことに一人ロギンスはがっくりとうなだれてしまっていた。

 

「ロギンス君もどう? 少し辛味があるけど美味しいわよ」

 

「……後にさせてもらう」

 

 肩を落としながらも視線を引き戻した先では、二人の攻防に終わりが見えようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

「ぐっ……」

 

 放たれた拳打に合わせて突き出した手が遂に相手の腕を捉えようとしたとき、逆に交錯した腕が蛇のように巻きつき搦め取るのを目の当たりにルドルフは呻く。

 完全に動きを読み切られどうすることも出来ないまま腕を取られ背中から地へと投げつけられる。

 

「柔よく剛を制す、腕力では君に敵わないけれど、応じようはいくらでもあるものさ」

 

 倒れたルドルフをアンゼリカが冷ややかな瞳で見下ろしながら囁く。

 繰り返される応酬、未だルドルフの攻撃は一度たりとも彼女の身に届いてはいなかった。

 

「……何故」

 

「うん?」

 

「何故こんなことを、されるのですか? 僕の技量など貴女ならご存知でしょうに……」

 

 立ち上がりながら疑念を吐き出したルドルフにアンゼリカはため息を一つ吐いて返す。

 

「ああ知っているよ、でも君の技量と全力は別物だ、違うかい?」

 

「……」

 

 見透かした物言いにルドルフは立ち合いの最中だというのに目線を外してしまった。

 言い逃れできず、それでも相手の求めに応じることのできない苦し紛れに。

 

「君が躊躇う理由は大体察しがつく、けれどね――実技テスト、もうじき始まるんだろう?」

 

 急に転換した話題に目を瞠りつつもルドルフが頷く。

 実技テスト、それは自由行動日の前日に教官であるサラから告げられていたことだった。

 それが特科クラス特有のカリキュラムにおいて最たるものに属することはⅦ組の誰もが理解していた、しかしそれをこの場で口にされるとは予想もしていなかったルドルフはただアンゼリカの顔を見返してしまう。

 

「君たち、Ⅶ組の設立には実に多くの人が関わっているんだ。去年は私自身Ⅶ組の試験運用みたいなものに参加していたしね」

 

「アンゼリカさんが……?」

 

「そう、だから君たちがこれからどんな体験をすることになるのか、少しは予想がつくんだよ」

 

 語るアンゼリカの瞳はそれまでとうってかわって、家族を慈しむような柔らかいものに変じていた。

 思わず見入ってしまいそうになっていたルドルフの身に次の瞬間、キッと鋭くした目つきで見据えられたことで再び緊張が走る。

 

「特別オリエンテーリングは覚えているね。あの時、多少なりとも危険な目に遭ったりはしなかったかい? そうでなくともあそこは気を抜いていられる場所じゃなかったはずだけどね」

 

 その言葉を受けルドルフの脳裏に甦るのはあの石の守護者(ガーゴイル)との闘いだった。

 結果的にリィンたちが間に合い運良く戦術リンクが効果を発揮したことで事なきを得たが、危うい場面は確かにあった。

 

「今後君たちは何度もあれと同じような経験をすることになると思う。そうなったとき君に、アリサ君に、もしものことが起こらないとは限らない」

 

 仕える少女の名を出されたときルドルフは今更ながらその可能性に思い至り慄きそうになってしまった。

 Ⅶ組設立の目的を鑑みれば独自のカリキュラムというものが実戦を想定したものになることは想像に難くない。

 そんなとき、いつもあのオリエンテーリングのときのように皆が無事に済むという保証など誰にもできないのだ。

 

「どうしようもないことというのはある、全力で臨んだ結果がそうだというのなら誰を責めることもできないさ、だけどね――」

 

 言葉を切り、鋭く息を吸い込んだ次の瞬間、アンゼリカの纏う空気が一変する。

 

「――っ!」

 

 周囲の大気が錯覚でなく揺らぎ、それがアンゼリカの身から迸る不可視のエネルギーによるものだということはルドルフにも一目で分かった。

 導力ではない、体内を巡る気を練り上げ身体能力を飛躍的に向上させる一部の達人が用いる戦闘技法、それがアンゼリカの本気だった。

 

「――全力を出せば避けられたはずの悲劇なんて悔やんでも悔やみきれないよ、君たちにはそんな思いもして欲しくは無い」

 

 構えを取るアンゼリカ、見据えるその表情に込められた真摯な思いをようやくルドルフは理解することになる。

 

「だから――ここで思い出して行くといい、君なりの全力の出し方を」

 

「……ありがとうございます、アンゼリカ先輩」

 

 痛みの残る体を落ち着け、自分を導こうとしてくれている女性の名を出来る限りの尊敬を込めてルドルフは呟く。

 決心が滲むその言葉にフッと微笑を覗かせたアンゼリカに対し、ルドルフは跳び下がり距離を離すと体勢を低く、つま先を前へ向けまるで駆け出すような体勢をとった。

 

「一応尋ねるけれど、そのままでいいのかい?」

 

「ええ、あちらは加減が利かなさすぎる――いくら先輩といえど大怪我を負わせてしまうつもりはありません」

 

「ハハッ! 言うじゃないか」

 

 笑みを獰猛に深め闘気を滾らせるアンゼリカへ向かい一呼吸程の空隙の後、地を蹴りルドルフが疾走した。

 見守っていたロギンスのみならず余裕を保っていたフリーデルまでもが目を見開くような速さで迫ったルドルフに、アンゼリカは動じもせず気迫を込めた拳で以て迎えた。

 気功により高められた全身の筋力を余すことなく乗せた裂帛の正拳、一直線に特攻するルドルフを穿とうとしていたそれが、空を切る。

 

「――っ!?」

 

 消えたと見紛うような目標の喪失をアンゼリカは見逃しては居なかった。

 直撃の寸前に地を蹴って飛び上がったルドルフはアンゼリカの頭上で大きく身を翻している。

 意表を突く跳躍回避だが武器も持たない彼が宙に浮いたままではできることはたかが知れる、地を蹴る反動を得られない空中では拳や蹴りを見舞ったところで威力も望めない。

 跳躍した勢いそのままにアンゼリカの後方へ抜け仕切り直しとなる、筈だった。

 宙に描く放物の軌跡、その頭頂でルドルフの体が慣性という条理に背き直下、拳を振り抜いたアンゼリカのすぐ背後へと跳躍の勢いそのままに落下、床を大きく振動させて着地する。

 

「くっ!?」

 

 焦燥露わに振り向きながら肘を打ち込もうとするアンゼリカだが、相手に対し宙で向き直るまでに体躯を制御していたルドルフに背後を取られた不利を覆すことはできず、その二の腕が受け止められると同時にがっしりと掴まれる。

 掴んだ腕を捻ると同時に足元を蹴り払われ、次の瞬間アンゼリカはうつ伏せる形でその身を押し倒されてしまっていた。

 

「痛ぅ……なるほど、こんな真似ができるんだな」

 

 背を膝に押さえ込まれ完全に抵抗を封じられたアンゼリカの呻きには感心も混ざっているようだった。

 

「足蹴にする無礼をお詫びします」

 

「ハハッ、まさか私が男の子に組み敷かれる日が来るとはね……誇っても構わないよ、やれば出来るじゃないかルドルフ君?」

 

「あれだけ手心を加えられておいて、今さら勝ち誇ることなどできませんよ」

 

 アンゼリカのからかうような台詞に苦笑しながら返すルドルフ、それはこの手合せの終わりも意味していた。

 拘束を解きルドルフに手を借りながら身を起こすアンゼリカは服についた埃を払いながら先程までの強烈な闘気を微塵も感じさせないほど気安い調子で朗らかに笑った。

 

「まあ良し、私が言ったことは覚えておいてくれるね?」

 

「はい、いざとなれば躊躇うような真似は決してしません、お嬢様は必ずお守りします」

 

「んー……やれやれ、ちょっと気になるけれど前進ありということで見逃そう」

 

 期待通りの返答が得られなかったのか、どこか不満そうにジッとルドルフを見るアンゼリカだったがそれ以上は言うまいとばかりに小さく息を吐くだけに留めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ、あんな勝負をしたのは久しぶりだよ」

 

「あそこまで体を張るなんて貴女も意外に面倒見が良いのね」

 

 リィンとの待ち合わせに向かったルドルフを見送った後の修練場でアンゼリカはフェンシング部のフリーデルらと言葉を交わしていた。

 

「私は普段から面倒見がいいつもりだけど?」

 

「ええ、可愛い女の子に対してはね」

 

 フフッと笑ってそんなことを言われると図星らしく否定せずにアンゼリカも笑い返す。

 そんな二人に焦れたようにロギンスが口を挟んだ。

 

「それよりアンゼリカ、お前最後本気だったな? そりゃあの一年も最後の動きはすごかったけどよ、心臓に悪すぎだ……」

 

「すまないね、彼がなかなか本気になってくれないものだからつい熱くなってしまったみたいだ」

 

 まるでこたえた風もないアンゼリカに片手で抱えた頭を振って見せるロギンスはすっかり疲れたような目をしていた。

 

「……少し出て気分変えてくる」

 

 そう言い残し修練場を出ていくロギンスは背中に哀愁を漂わせていた。

 

「一年の頃に比べれば彼も丸くなったけど、もう少し余裕が欲しいところだね」

 

「そうね……手伝いはいる?」

 

 手甲を外そうとしているところにそう声を掛けられたアンゼリカは一瞬動きを止めると、次いで照れ隠しをするように微笑んだ。

 

「お願いしてもいいかい? 固定具を外してくれると助かる」

 

「ええ、分かったわ」

 

 右手の手甲、その固定具を外すのに苦労していたアンゼリカは申し出をあっさりと受け入れ、フリーデルの助けを借りて両手の手甲を外し終えた彼女が黒ツナギの左袖をめくるとその下には青い腫れが広がっていた。

 

「最初の払い受け、ね?」

 

「彼も咄嗟のことだったから加減できなかったんだろう、始めから気功を使っていなかったとはいえこれは私の油断かな。人の事ばかり言ってもいられないね」

 

 足払いからの一撃、その追撃を弾かれた際アンゼリカが浮かべた渋面はこの痛みによるもので、気功まで使い決着を急いだのはそれによるぼろが出るのを避けるためでもあった。

 

「今年の新入生は面白い子が多いって言ったけど、彼の場合そんなことを言うのは()()()ね」

 

 ぽつりと呟いたフリーデルの面持ちには何かを慮るように深く、沈痛な色が差していた。

 彼女が察し取ったであろうことを知るアンゼリカは驚きに目を瞠る。

 

「――流石だね、もう気づいたのかい?」

 

「気づかないわけないでしょう? 気功無しとはいえあれだけ貴女の拳を受けて腕が上がる人間なんてそうそう居ないわよ」

 

「ハハハ、それは光栄な評価だね。――さて、そろそろ午後の活動時間になるだろうし、私は街の教会に湿布薬でももらいに行くとしようかな」

 

 アンゼリカが言うように大陸全土、トリスタにも存在する七耀教会では独自に調合した治療薬をほぼ無償で怪我人、病人に処方してくれている。

 だが士官学院には保険医であるベアトリクス教官が詰めている保健室が存在しわざわざ街まで出ていく必要性に疑問を感じたフリーデルは首を傾げていた。

 

「どうしてまた教会まで、たまに居るらしいけど貴女保健室嫌いってわけでもなかったでしょう?」

 

「なに、以前から目をつけ――気になっていた一年のロジーヌ君が今日の自由行動日からシスター活動をしているらしくてね、お近づきになるいい機会じゃないか」

 

 満面の笑みで語られたその言葉の意味を数秒かけて理解したフリーデルは呆れたように眉尻を下げて言うのだった。

 

「貴女って人は……転んでもただで起きないのね」


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