過去の始まり
血に塗られた記憶。
その手は血で濡れた。
生暖かい温度を掌で感じる。
鼻で香る鉄臭さは嗅ぎ慣れたもので、いつもと変わらない。
目の前に広がる血の海に、先程まで相対していた子供が倒れている。時たまびくりと、脳の電気信号が体を動かしていた。
ブザーが鳴り、終了の合図を聞く。
『勝者、神の刃』
白い少年の勝利を告げた。
後に、ナイフ使いと呼ばれる子供が、神の刃という名で存在した。
「良くやったな、神の刃」
「上手にころせた?」
子供の無垢な質問に、研究員達は笑顔で答えた。
「ああ、勿論だとも。もっと上手い殺し方を教えてあげよう」
「ありがとう!」
人の殺し方を教わる神の刃は、嬉しそうに答えた。人の殺し方を教える研究員達も、笑顔で教えを説いた。
人を殺すことで笑い会える光景がそこにある。
日本のとある場所。
隠れた所に存在するその組織。
建物の内部は白く、その清潔さは病院を彷彿とさせる。その施設は眠ることなく、常に何者かが動いている。
その中で、統一された服を着た子供達が歩き、はしゃいでいる。そして、殺し合っている。
隔離された特殊な円筒のような部屋に入り、神化人間が殺し合う。
戦いに勝った神の刃は褒められ、物言わぬ死体となった子供は、そのまま処分される。
作業着を着た男達が子供の死体を台車へ乗せ、ガラガラと音を立てながら運んで行った。
「あれはどうするの?」
「廃棄場っていう、いらない物を捨てる場所に置いてくるんだよ」
「ふーん」
理解したようなしていないような、曖昧な生返事を返すと、神の刃は研究員に振り返る。
「ねぇ、おかあさんの所に帰って良い?報告したい!」
「ああ、良いよ」
神の刃は満面の笑顔を浮かべて走り去った。背中を見送った研究員はパソコンからデータを引き出す。神の刃の戦闘記録と身体能力、その時起きた感情の動きなど、事細かに数値化されていた。
「流石、神の欠片は優秀だな」
「神の刃は身体能力で一番の実績を誇っている」
研究員達はスローモニターで先程の戦闘記録を見返した。
神殺しと相対したのは同い年くらいの小さな子供。お互いに無手で、武器はない。ブザーが鳴り、先に動いたのは相手だった。無邪気な笑顔で神の刃へと迫る。その速度は普通の人間では目に追えない。その手が神の刃の首に迫る瞬間、神の刃の足が相手の肘へ直撃する。
関節に入った腕は鈍い音を立てて直角へ折れ曲がる。その腕をそのまま足で器用に絡め取り、肩から地面へ落とす。頑丈な床にヒビが入った。
交差した一瞬の出来事。
子供が痛みを無視して体を跳ね上げる。神の刃はそれに逆らわず、宙へと身を躍らせた。割れた床の破片を手で持ち、空中で身を翻す。
その欠片を足場に、子供へと突っ込んだ。
体を整える前に追撃された子供は、首の骨を折られ、捻り切るほどに回される。皮や肉が切れる音が鳴り響き、絶命した。
神の刃は死を見届けると、無造作に放り捨てた。
一連の流れを見た研究員が唸る。
「相変わらず、慣性を無視した動きをするな。あんな小さな欠片を蹴ったら、普通、欠片が粉々に砕けるだろう。何で、衝撃を全部自分の跳躍力に変更出来るんだ」
「他の神の欠片でも跳躍したら地面にヒビが入るしな。こんな真似が出来るのは神の刃くらいだよ。衝撃の向きを変えるとか何とか言ってるが、詳しい事は自分でも分かってないみたいだしな」
「その辺りは子供か。データを集めて解明していくしかない」
「ああ」
死体を台車で運んでいった研究員は、廃棄場と書かれたドアの前でスイッチを押す。両開きのドアが開くと、目の前に広い部屋が展開された。その中には密接に積まれた死体の山が連なり、赤い血を垂れ流しにしている。死体の中には子供だけでなく、生まれる前となる胎児の状態のものも放置されており、よく見れば研究員と思しき大人の形もある。文字通り、廃棄場だった。
網状になっている箇所から血が落ちていき、入り口には空調機が備えられ、死臭などが外部に漏れないように空気の流れを調整していた。
「そろそろ溜まってきたな」
「明日が処理日ですね」
「面倒だなぁ」
死体を投げるように捨てると、ドアを閉めて去って行った。
「…………」
神の刃が廊下の向こう側からそれを見ていた。二人の背中が見えなくなると、ドアの前までやってくる。廃棄場のプレートをじっと見つめ、ドアのスイッチを押そうとして
「…………」
手を止めた。
押してはいけないと、何かが頭の中で囁いている。
後戻り出来ないと、何かが警告する。
何が、何を。
本能のような何かが、その手を止めさせた。
「……っ」
神の刃は走り去った。
これは逃げだと、本人は分かっていた。
何から逃げたのかは知らない。それでも、確信がある。これは逃避行為だと。
神の刃は勝ってきた。
戦いに勝ち続けたから、ここにいる。まだ生きている。まだなお存在していられた。
だが、今、彼は苦い何かを感じた。
それは正しく、敗北の味だった。
「ただいま」
ある一室に、神の刃は帰ってきた。
「おかえりなさい」
小さな部屋であるが、そこに彼の母親がいた。勿論、本当の親ではない。育てる為に、母親としての役割を担っている女性である。長い髪を纏めたその女性は、何処か疲れた表情で、精一杯の笑顔を作っている。
「今日も上手にころせたよ!」
「……そう」
女性は身を屈めて、神の刃に視線を合わせた。
「貴方が生きてて良かったわ」
「…………」
……また、褒めてくれない。
殺しや、死に関して、研究員達はいつも褒めてくれる。神の刃を凄いと賛美する。しかし、この女性だけは、母親だけは決してそれを褒めようとはしなかった。
この施設に置いて、それは間違った行為だ。
教育とは洗脳である。
教えこそ、その人間を作る過程で重要なものとなる。性格は変えられなくとも、価値観や成長に大きく影響するのが教育だ。故に、母親の考えは間違っている。現代の普通の思考や理念は、この組織では異端であり異常でしかない。だがこの女性は、それが出来なかった。
「……お母さん」
だから、神の刃には理解出来ない。
何故、母親だけが褒めてくれないのか。
何故、母親がこんなにも悲しそうな顔をするのか。
それを理解する術は無かった。
「ねぇ、お母さん」
どうしようもなく、溝は深まっていく。
不満は徐々に、確実に、胸の中に溜まっていく。
それでも、神の刃は堪えて、気丈に振舞った。周りからは沢山褒められて、それでも母親だけは褒めてくれなくて。
「僕、頑張るよ」
母親に褒めてもらう。
神の刃の願いはそれだけだった。
それで良かった。
それだけで良かった。
だから、彼は殺しを磨いていく。
死を積み重ねていく。
その技術を練り上げていく。
恐ろしいほどに。
そして、それを行っていく度に、母親は悲しみを募らせた。
それが、神の刃には理解出来ない。
だからこそ、心の何かがズレていく。
それが致命的な事だと、誰も分からずに。