それは一人の男の願いからだった。
愛する妻と幼い娘。男は忙しい身で世界中を回りながらも、家族を最大限に愛していた。仕事柄、様々な場所と人間達を目の当たりにした。
数多の戦場。飢えて死んでいく子供や大人。喜んで人を殺す悦楽者。贅沢なパーティーを開く主催者。銃を持つ子供。地雷原での暮らし。街を闊歩する軍人。金の為に人を売る組織。裕福に暮らす家族。服さえ身につけない現地民。その日の食料の為に人を殺す人。余った食べ物を捨てる人達。障害を持って産まれた赤ん坊。泥水を啜る住人。
誰しもが他人であり、それぞれの事情を抱え、生きて死んでいく。
人の数だけ話があり、それ以上に忘れ去られていく。
ある日、男の家族が殺された。
少しの勘違いで、彼の家族は命を落とした。男は嘆いた。殺した人間をひどく憎んだが、その者の事情を知ってしまい、理解してしまい、どうしようもなくなった。恨む事も出来なくなってしまった。
男は嘆いた。
何故こんなことになってしまったのかと。何故人は争うのかと。何故、理不尽なまでに死んでしまうのか。
何が正しくて、何が間違っているのか。それは男にさえ分からない。
神ならば全て知っているのだろうか。
だが、神は救ってくれはしない。
神は在り続けるだけだ。
自分の都合の良い神など、決して存在しないのだから。
だから、一つの決意をした。
自らの望む神を造ろうと。
偽りの神を造る決意をした。
元々影響力の強かった男は、裏世界で一つの組織を設立する。表向きは戦争にも強い環境にも生き残れる、全てを超越した人間を作り出す組織。誰もそれを疑うことはなく、人間の構造を変化させ作り続けた。そうして造られていく多くの人造人間。
その中で、男は秘めた願いを込めて、人造人間をこう愛称した。
神化人間と。
初めは短命で弱かった神化人間も、研究が進むにつれて強化されていった。暫し停滞の時が続いたが、一人の神化人間を切欠に事態が急変する。
突然変異で産まれたある赤ん坊。強靭な肉体に加え、寿命も普通の人間と変わらない。研究者達は成功だと喜んだ。そして、彼の配合に近づけることにより、彼よりも強い神化人間の製造に成功していく。彼より前の世代は不要と判断され、皆処分された。
設立者の男は、他の研究員とは違い、この子供の本当の価値を見出していた。もし成功ならば、この子供には能力が宿っている筈だと、そう思っていた。
他生物の脳を支配する能力。
記憶を読み取り、操り、果ては人格そのものも奪える能力。
男が期待したのは、最終目的はこの能力を得た者を造ることであった。
だが、誰かを支配することが望みではない。男の夢は平和な世界を作ること。諍いは起きても争いは起きない世界。人は他人を受け入れられずとも、分かり合い、認めることが必要なのだ。
だからこその神化人間。
共通の第三者による和解。その為の脳への侵入。
自分のコピーを作り出し、自分の複製を相手の中に創り出す。
お互いを良く知る者。決して相容れない者同士であろうとも、そのことを知る者が居る。争いを無くすために交わることすらなくなる。それも本人の意識することなく。
故に、小さな問題は起ころうとも、取り返しのつかない過ちを行うことは無い。全て同じ人間なのだから。全てを理解している存在が、全ての生物に存在するのだから。
「それが、神化人間」
珈琲を啜った神の眼は、カップを皿に戻してそう言った。
ある薄暗い喫茶店。
ナイフ使いと神の眼以外に人は見当たらず、店主さえ珈琲を出したきり姿を見せ無い。神の眼が裏で操作しているのかもしれ無いが、ナイフ使いはどうでも良いかと放棄した。
「……一人の男の幻想が、神化人間だという事か」
下らないと呟いた。
感情を殺すためでなく、単純な評価として、その言葉を下す。
「とんだロマンチストだ」
「実行して実現する辺り、リアリストとも思うがね」
ナイフ使いは笑わず、神の眼は笑う。
「それで、お前が、神の眼が神化人間の本質であり成功例だと言うのなら、何故あのまま研究が続いた」
神の眼が神化人間の成功例というのなら、男はそこで研究を止めても良い筈だ。例え周りの所為で引き戻れなくなったとしても、神の眼の能力があればなんとかなっただろう。
「単純だよ」
神の眼の口元が歪んだ。
「俺が他人に介入すると思うか?」
成程と、ナイフ使いは納得した。
問題は能力ではなく、神の眼の性格だった。無論、組織側からの教育、元い、洗脳を行ったのだろう。だが、神の眼の脳と精神が発達していたことと、能力で全てを読み取ることが出来た為、失敗に終わったのだ。
「俺が俺である。故に男の願いは叶わない。奴が望むには、俺は我が強すぎたのさ」
神の眼が望んだのは知識のみ。
他人の考えは知りたくとも、そこから関係を取り成すなど考えてもいない。ましてや争いを止めるなどするわけもない。それでは能力を手に入れたところで何も意味を成さない。
だから、神の眼は失敗作なのだ。
能力で成功し、人間で失敗した存在。
それが神の眼。
「自分に都合の良い性格の者など、そうそう出来るわけもあるまい。結局、夢物語じゃないか」
ナイフ使いのストレートな意見に、神の眼は薄ら笑いで答えた。
「ま、そうかもな」
どこか意味深な言葉にナイフ使いは僅かに眼を細める。神の眼はそれを気にすることなく言葉を続けた。
「男は俺での失敗を学び、教育を変えた。変えようとした。能力を保有し、自分達に素直で、自分を持っていて、無慈悲にもなれて。そして、愛を知る存在」
ナイフ使いは悟る。
その存在に心当たりがあったから。
その存在は
「神の刃」
それは無慈悲で。
「お前が、男にとっての神化人間だった」
でも、それは叶わなかった。
能力も半端で、性格が災いし、神の刃は壊れてしまった。死んでしまった。多くの人間を巻き込んで、全てを殺して、死んでしまった。
それが結果だ。
全ては散り、夢の欠片さえ消え失せた。
「馬鹿か」
下らない。
「夢の見過ぎだ」
現実はこんなにも残酷で。
だからこそ、救われない。
大切な者を失って、夢を追い続け、禁忌に触れた結末がこれだ。
壊れた結末だけが残った。
「夢ぐらい見させてあげろよ」
神の眼は笑う。
神の眼からすれば、こんなことすらどうでも良いのだろう。こうなったというだけの事実を認めて、その上で笑っている。どうなろうとも世界の流れそのものを楽しむ姿は、本当の神のようで。
「その果てが破滅なら何も成さないだろ」
それがナイフ使いの考え。自身の死のみを考え続けた考え。
死を考えながらも、それを受け入れられずにここで生きている。そんなナイフ使いに、神の目は尋ねた。
「お前の夢はなんだ?」
「無い」
ナイフ使いは即答する。
「夢などない」
そんなモノを持った覚えもない。
だからここにいるし、ここまで来てしまった。
夢という想いの在り方を持つことは、ナイフ使いにとって許されることではなかった。
「俺にはある」
神の眼の言葉に、彼の顔を見る。変わらない楽しそうな笑みからは本質が見抜け無い。
「異世界に行くのが俺の夢だ」
唐突な現実離れの発言に、ナイフ使いは呆れたように息を吐き、珈琲を口にする。
「とうとう頭がおかしくなったか?」
「失礼だな。本気だぞ」
「ならば余計に質が悪い」
神の眼は語る。
平行世界の理論や異世界の存在の理論。異なる時間や異なる世界。無邪気に楽しそうに話す姿は、まるで幼い子供のようだった。
まだ見ぬ可能性。
知らぬ知識。
論理さえ壊した事象。
知恵を求める彼は、この世界だけでは最早飽き足りぬのだ。
「結構なことだ」
神の眼の因子は既に全世界の生物に渡っている。つまり、今この瞬間に全ての生物が神の眼になれる。本体が死のうとも、本体に変わる存在は無限に存在した。そして同じくして、その知識を秘密裏に共有している。
本体は確かに目の前の存在だが、全てが同じ存在という、非常に稀有な存在なのが、神の眼だ。
「行くなら勝手に行くが良い」
「そうさせてもらうさ。三日後にはここから消えよう」
三日後。神化人間の決戦は一週間後。
「最後まで居ないのか」
ナイフ使いは敢えて最後という言葉を使ったが、神の眼は躊躇いなく頷いた。
「ああ。下手したらそこで俺も殺されて終わりだろ?それじゃあ意味がない」
本当に自分本位だと、ナイフ使いは思った。
神の眼が懐から一枚の紙を取り出し、机の上を滑らせてナイフ使いへと放る。
「何だこれは」
「俺の持つ情報を見れる端末がそこにある。どう使うかは自由だ」
成程、と呟いて紙をしまう。
「貴様に先を読まれているのは、良い気がしないな」
「何言ってる。数パターンあるだけで、お前の結末は変わらない。その中でお前がやりそうなことなど想像も着く」
青の欠片達に殺されるか、生き残って朽ちるか、二重人格に呑まれるか。
どれにせよ、ナイフ使いが死ぬのに変わりはない。
絶対に逃れられない宿命。
「最後に一つ教えろ」
ナイフ使いが本当に知りたいのは、ただ一つ。
「お前から見て、俺の限界は何時だ」
あとどれくらい耐えられる。
あとどれ程、俺は俺でいられるのか。
二重人格に完全に呑まれるかのは、いつか。
「お前が耐え切り、限界まで保ったとして……」
3年。
それが答えだった。
3年後、ナイフ使いは、死ぬ。
「そうか」
充分だと、そう答えた。