その日の夜。
月を過る一つの影があった。音も無く跳ぶ人影は、屋上でその足を止める。漆黒の髪をうなじで一つに纏め、長いコートを風にはためかせながら、そこに立つ。傷のある右目が見る先には、裏政府のビルが建っている。
全身を黒に染めるその姿は闇に溶け、赤い両眼が世界を捉える。
「目標、捕捉」
少年、神殺しは呟く。
無線も連絡機もない。
ただ、己に語りかけるだけの言葉。
神殺しが動く。
翌朝。
恵は同じ部屋に居た。
昨日は混乱するしかなく、未だ実感もない。しかし、丸一日経ってそれなりに冷静に考えられるようにはなってきた。
ここは裏世界と呼ばれる、平和な世界では無縁だった場所。そういうことなのだろう。そして、ここは裏世界を見張る裏政府と呼ばれる場所で、酷く簡単な解釈をすれば裏世界の警察のようなもの。裏組織を発見しては潰していくイタチごっこがこの世界では毎日行われている。裏組織に繋がりはなく、一つ一つ小まめに潰していくしかないのだとか。
故に、裏政府と裏組織が相入れることはないし、個々で動いている裏組織が完全に潰えることもない。
「……神化人間、か」
その中で主力となっているのが、神化人間。
昔、とある裏組織で造られた人造人間達。
とある事件を切っ掛けに滅んだ組織と神化人間達。神化人間の生き残りは数人単位ではあるが、一人でも一騎当千の力を発揮する。
裏政府に属している神化人間は、四人。
恵の見た、ナイフ使いと赤い銃。そして光の槍。後は非戦闘員のシロ。
人が吹き飛ばされた光景は記憶に新しい。あれ程の力を有しているのは、確かに恐ろしい。
到底、恵は自分が同じ神化人間とは思えなかった。
残りの神化人間達は裏組織に属している者もいれば、自由に動き回っている者もいるそうだ。
「……はぁ」
一応、置かれた状況は理解した。
ただ、自分はこれからどうなるのか。漠然とした不安が重くのしかかる。
神化人間でも失敗者に当たると言われた。ならば、このまま何も無く返してはくれないだろうか?
そう願わずにはいられない。楽観しと言うのは自分でも分かっている。それでも、そうあればと思うのだ。
両親は今頃どうしているのか。
友達は変わらずにいるのだろうか。
不満やストレスだけが恵に重なる。
「…………?」
時計を見ると、結構な時間が過ぎていた。
暫く経ったが、昨日は来たシロが姿を見せない。恵の食事の配膳もシロが行っていて、暇潰しにと話にも付き合ってくれた。
彼女も神化人間とは言うが、車椅子に乗り、細い体を見ていれば、監視と呼ぶには心許なかった。
そんな彼女が未だ来ない。それとも、昨日だけで、もう来ることもないのだろうか。そう思うと、少しだけ寂しい気持ちがした。
「うーん……」
暇を持て余した恵は、何と無くにドアノブを回してみる。
「え?」
普通に開いたことに、逆に驚いた。
お手洗いの利用で何度か部屋からは出たが、必ずシロが付き添った。しかし、今は一人だ。鍵を掛けなければ色々変ではないのだろうか。
恵がドアを開け、その疑問が解消した。
「…………」
壁を背に、ナイフ使いが立っていた。
気配も感じさせぬ彼の見張りがあるのなら、確かに鍵はいらない。
しかし、恵に新しい疑問が浮かぶ。
ナイフ使いは貴重な戦闘員である。ならば、何故、自分のような者の見張りをさせられているのか。
「…………」
壁に寄りかかっている彼は恵を見ても何も言わない。何も言わないその姿は、容姿と雰囲気が相まって人間とはとても思えない。まるで本物の人形のようだ。
ガラスの様に透き通る瞳が恵を映す。
一瞬、その瞳の奥に、何かを見たような気がした。
「……あの」
恵が声をかけようとした時、目の前の廊下を数人が慌しく駆け抜けていった。その背を見送りつつ、そう言えばと耳を澄ませば、ビル全体が騒がしい気がする。
「……一応、お前もシロと面識があったな」
ナイフ使いが徐に口を開く。恵がナイフ使いに目を合わせれば、無表情が返ってきた。
淡々と言葉が紡がれる。
「だから、伝えておこう」
その言葉は
「シロが、死んだ」
恵を更に混乱へも陥れた。
「な、ん……」
たった1日とはいえ、彼女とは知り合いになった。邪気のない笑顔が頭に浮かぶ。
……死んだ?あの娘が?
「何で……」
「神殺しと呼ばれる神化人間に殺された。だから、今、裏政府は混乱の最中にある」
シロという神化人間が失われたからか。
それとも神殺しが裏政府に侵入したからか。
答えは、そのどちらでもない。
「何故気付かなかった!」
彫の深い顔に、歴戦を思わせる傷だらけの男の叱責を受ける光の槍と赤い銃。赤い銃はその声の大きさに若干顔を顰めながら、反論をした。
「相手は神殺しだったんだろ?それは、俺達じゃ不可能だよ」
「同じ神化人間だろ」
「自分が滅茶苦茶言ってるって分かってる?落ち着けよ紅蓮さん」
紅蓮と呼ばれた男は額に手を当て、長く深い溜息を吐いた。
「……そうだな、すまない。少しばかり冷静では無かった」
「それが普通の反応です。正直、何で神殺しがこんな事したのか、私達も混乱しています」
「シロの存在の損失。その意味が分からぬ彼では無いだろう。何を考えているのだ」
三人は、誰しもが硬い表情をしていた。
「もう、あの悲劇を繰り返すわけにはいかないのだ」
あの悲劇を、思い起こす。
黒い少年は雑踏の中を歩く。
歩く。ずっと歩く。
その唇を噛み締めて。
「これで、もう後戻りは出来ない」
その言葉を聞く者はいない。
彼は一人、記憶を思い返す。
「裏政府が混乱しているのは、シロという保険を失ったからだ」
一人の命が失われた?
そんな事はどうでもいい。
そんな日常茶飯事の事は何も問題ではない。
問題なのは、シロという価値を失ったこと。
「保険?」
「俺は今、葉山恵の護衛という、目の届く場所に置かれている」
「貴方は、何を言っているの?」
「お前の暇潰しも仕事なら、聞いてみるか?」
その血塗られた記憶を。