広く密閉された空間。
そこにいたナイフ使いは周囲を確認した。数分前まで自分を囲むように立っていた男達は、全員地に伏せていた。血を流している者もいれば、まだ呻き声を上げている者もいる。
ナイフ使いを殺そうと勇敢に、或いは無謀にも挑戦した結果がこのザマだ。全員生きてはいるが、今後まともな生活をすることは不可能だろう。
ナイフ使いはそんな光景を一瞥し、その場を後にした。
神化人間が思い通りに操れない以上、自分たちでやるしかない。そう思い至り、攻撃をしてくる裏組織は少なくなかった。その度にナイフ使いは律儀に出向いて、微塵の躊躇いもなく完膚なきまでに叩きのめしてくる。そんなナイフ使いの行動を誰も止めようとしなかった。正確に言えば、他の神化人間同様、ナイフ使いの行動を誰も止められなかった。ナイフ使いがシロの死体を捨て、赤い銃と光の槍の死体を勝手に捨てた時からそれは分かっていた。彼の自由は誰にも制限出来ないと分かってしまった。
そうして、ナイフ使いは裏政府と疎遠になりながらも、未だこうして生きていた。あれから神化人間達の動きも無いが、もうすぐ何かが起こるのは感じていた。
「…………」
ナイフ使いは広い自然公園へと辿り着いた。
かつてシロとよく歩いた道を一人で歩き続ける。自然と手が何かを掴むように彷徨っていたのに気付くと、拳を握りこんでポケットの中へと突っ込んだ。
小さく息を吐き、ベンチへと腰掛ける。人気の無い場所で、鳥の囀りさえなく、風が吹き抜けていく。
ふと、自分に疑問を覚えた。
何故、俺は座っているのか
何の為の休憩なのか。
必要ない。だって、俺はもう、1人なのだから。
今、俺の側には、誰もいない。
誰も、いない。
目を瞑り天を仰ぐ。目の前を闇が支配した。
何もない。
自分には、何もない。
夢を見ている。
ナイフ使いはそう理解する。
また夢を見ているのだと、自覚する。
二つの台座があった。
暗い視界の中、石で作られた無骨な台座に置かれたものを見る。一つは大きな布袋が台座の上に置かれ、もう一つにはシロが横たわっていた。
自身の足元にはドス黒い血の海が広がっており、足首まで埋まっていた。布袋をよく見れば、下から大量の血が染み出しているのが分かった。その中に入っているのは何なのか。
布袋が溶けるように無くなった。それにより、中身が確認できるようになる。中に入っていたのは人だった。人ではあるが、顔が把握できない。まるで子供に落書きされたかのように、ぐちゃぐちゃに黒い線で塗りつぶされている。現実ではあり得ない光景。だが、ナイフ使いは不思議と理解した。これが誰なのか、理解した。
母親だ。
ズブリと、足元が沈み始めた。
視線を下せば、無数の手が足を掴んでいた。大人の手や子供の手が幾つも群がっている。自分が、二重人格が殺した人間達だと直感した。足を動かそうとしたが、自分の意思に反して微塵も動かない。己の身体能力ではあり得ないことだが、夢なら仕方ないかと、ある種の達観を得る。このままでは血の海の中へ沈んで行くだろう。既に腰の位置まで飲み込まれている。上半身は動くようだが、どうしようもない。
そう思って、気付いた。
シロの手が垂れ下がっている。彼女の手を掴めば、飲まれる事はないなもしれない。助かるかもしれない。でも、もしかしたらシロも一緒に引き摺り込まれる可能性もある。
自分が少しでも助かりたいのなら、彼女の犠牲が必要だ。
「…………」
ナイフ使いは動かない。シロの手を掴むことなく、徐々に、確実に沈んで行く。
ふと、視線を感じて顔を上げた。
台座の間に自分が居た。
白い眼をした、二重人格が居た。
二重人格がシロの手を掴む。ナイフ使いが反応する前に、二重人格はシロを血の海に落とした。すると、ナイフ使いに群がっていた手が一斉にシロの元へと向かい始めた。ナイフ使いは反射的にシロへ向かう手を掴んだが、無数の手を防ぎ切れるわけもなく、瞬く間にシロに取り付いていく。ナイフ使いの体が沈まなくなった代わりに、シロの体が沈んで行く。
ナイフ使いは手を伸ばそうとして。
その距離は手が届かなくて。
そして、二重人格がナイフ使いを見ていた。
『俺の望んだことだ』
死の意味を教える為に殺した。
「下らない」
殺しを理解した。
『お前が望んだことだ』
シロに手を伸ばしたかった。
「下らない」
その手は届かない。
『俺達が望んだことだ』
シロが死んだ。
「……下らない」
問い掛ける。
『お前が殺したかったのは、俺か?自分か?』
シロの体が沈んで行く。
手を伸ばしても届かない。
どうしようもなく、触れられなくて。
『それとも』
どうして、そんなに必死に。
『シロを殺したかったのか?』
二重人格の生き残り。
自分の意思で止められた唯一の存在。
だから救われた。
感情を無闇に揺さぶり、いつも側にいる。
だから救われない。
「下らない」
大切で、邪魔で、愛おしくて、憎たらしくて。
あまりにも、こんなにも、どうしようもなくて。
「下らない下らない下らない」
シロに手を伸ばしたかった。
何の為に?
その手を取る為か。
その首を絞める為か。
「下らない下らない下らない下らない下らない」
どうして死んだ。
どうして死ねる。
俺はまだ生きているのに。
俺は死ねないのに、お前はそんな簡単に死ねるのか。
羨ましい。
その死が羨ましい。
その死が憎たらしい。
その死が妬ましい。
どうして、そんな幸せそうな顔で死ねるんだ。
それは俺の求めたもので。
拒絶したくて仕方ないもので。
どうして俺を置いていく。
何で側にいないんだ。
腹立たしい。
お前と共に居たかった。
苦しい。
俺がお前を殺したかった。
生きていて欲しかった。
だから、こんなにも半端な位置に居て。
俺は。
どうしようもなく脆く崩れて。
シロ。
『全て無意味だ』
無数の手と共に、シロの体が沈んだ。
「シロは、死んだ」
二重人格の手が伸びてくる。飲み込まれると、そう思った。飲み込まれてしまえば全てが終わる。だが、体は動かない。
終わる。
終われる。
もう、俺は。
「…………」
そして、二重人格が止まった。その足元を一つの手が掴んでいた。弱々しく、小さな手が二重人格を止める。
ああ、何故。
何故、お前は、そんなにも。
いつの間にか自分の手に握られていたのは双剣。
振り下ろした剣は誰に当たったのか。
二重人格か。
俺か。
シロか。
伝わってきたのは、確かな肉の感触だった。
「本当に、下らない」
目を覚まして、最初に目に入ったのは葉を落とした木々だった。
肺が何かを吐き出すように咳き込むと、血の塊が口の中かは出てきた。吐き出す前から地面に血が溜まっていたのを見ると、どうやら気絶する前にも血を流したようだ。気絶する前も、見ていた夢も思い出せない。自分がこれほど強い衝撃を与えたと考えれば、余程強く感情を揺さぶられたのだろう。それでも、一般人の感情の有無からすれば、かなり微小なものなのだが。己を気絶に追いやった原因もハッキリと分からないが、最早思い出す行為を放棄した。そうして、大切な何かを落とした。
ナイフ使いは身を起こして辺りを見回す。人気の無い広大な自然公園の中、絨毯のように敷き詰められた枯葉の平原が広がっている。オレンジや茶色、黄色に彩られた世界。
そんな外を生きてきた中で意識したことも無かったが、初めて秋なのだと思った。見上げた空は遠く感じ、風が吹き抜けて葉を散らす。
「…………」
……寒い。
この体がそんな寒さなど覚える筈もない。
だが何故か、ナイフ使いはそう思った。