Knife Master《完結》   作:ひわたり

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第5章 奈落の淵で
空虚


『泣いても良いよ』

その言葉が聞こえる。

自分の姿も見えないような暗闇の中で、彼女の言葉だけが鮮明に耳に響く。

「下らない」

自分が目を開けているのか、閉じているのかさえ分からない。

『ビャク』

「下らない」

耳を塞いでも意味はない。

『笑って』

「下らない」

どうしようもなく優しい声を否定する。

『私の側なら大丈夫なんでしょう?』

「下らない」

だってもう、お前はいないのだなら。

だから、俺は。

見えない彼女の首を、この手で掴み。

俺の手で、お前を

 

 

「…………」

ナイフ使いは目を開ける。

朧気な記憶の中、その状態から、また自分を気絶させたのだと理解した。

不味いとも思った。

ここ最近夢を見る、というより、寝る期間が増えている。睡眠を必要としないこの体で、それは異常事態だ。

夢の内容は覚えていない。強制的に記憶から排除した。霞み掛かった記憶の向こう、白い姿を見た気がする。

「下らない」

それすらも、自ら遮断した。

兎も角、このままでは危ない。自分を気絶させたということは感情を出し掛けたということ。気絶させる回数も徐々に増えている。いつ二重人格に飲み込まれてもおかしくはない。

どうせなら気絶した瞬間に神化人間の誰かが襲ってくれれば死ねるかもしれないが、そんな真似は本能的に出来ないだろう。安全だからこそ睡眠を取るのだ。

欲しているのが睡眠ではなく、本当は夢であり、彼女に会う為だという可能性は、考えても見て見ぬ振りをした。

「……念の為、確認するか」

ナイフ使いは部屋から出て、医務室へと赴いた。

そこに居たサフィアに自分の体に異常がないか調べて欲しいと頼み、彼女は驚きを見せながらも承諾した。

程なくして検査の結果を持ってくる。

「特に体に異常はないわ」

「……そうか」

そうだろうとは思っていたので、特に不思議な点もない。問題があるとすれば、肉体ではなく精神なのだから。

「俺に会いたくも無いだろうに、無理をさせたな」

「……そんな事は」

ナイフ使いは否定の言葉を出そうとするサフィアを見る。サフィアは反射的に目を逸らしてしまい、内心でしまったと呟いた。

「すぐに出て行こう」

ナイフ使いが立ち上がり背を向けた所で、サフィアは彼を呼び止めた。

「待って」

「何だ」

「……検査費として、珈琲でも淹れて貰える?」

無論、裏政府に所属しているナイフ使いに検査費などかかるはずもない。これは言い訳だ。ナイフ使いを呼び止める為の、ただの言い訳。

ナイフ使いは目線だけを後ろに動かしてサフィアを見た。見た目は普段通りだが、少しだけ青褪めている。ナイフ使いが恐ろしく思えているのは変わらないのに、態々呼び止めたのだろう。

「無駄な無理をするな」

「……無理じゃないわ」

「その顔でよく言う」

何故そこで意固地になるのか。

「シロから何か言われたのか?」

死ぬ前に宜しくとでも言われたのかと勘くぐったが、それをサフィアは強い視線で否定した。

「違うわ。これは私がしたいからよ」

今まで普通に接してきた存在に急に疎遠になること。それが例え恐怖であっても、サフィア自身の正義感からすれば許されることではなかった。

「成程。軽率だったな、謝罪しよう」

……ならば。

「良いだろう。淹れたら消えるぞ」

無駄な問答より珈琲を淹れた方が早いと判断し、医務室の裏ドアにある給湯室へ向かう。湯を沸かし珈琲を作っている間も、結局会話などなかった。

サフィアはナイフ使いに気を遣って話そうと思ったのだが、どの話題が感情の琴線に触れるか判断出来ず、口を開けなかった。その点だけで言えば前までと同じだが、今はシロがいない。二重人格を止める彼女がいないだけでこんなにも拒絶反応が出てしまうのかと、自身を疎ましくも思えた。

「作ったぞ」

気付けばサフィアの前にコーヒーカップが置かれていた。

「ありがとう」

カップ手に取ろうとした時、それの存在に気付いた。

「あら、自分の分も淹れたの?」

カップは2つあった。

これが会話の切欠になるかと質問したが、返答がない。不思議に思って顔を上げれば、ナイフ使いはもう一つのカップをジッと見ていた。

それはまるで、自分でも予想外のものを見るような。

不思議なものを見るように、固まっているようで。

「……………いや」

否定の言葉を口にする。

「俺のでは、ない」

ならば、誰のものか。

誰の為に淹れたのか。

ミルクと砂糖を淹れ、苦くないように配慮した味。

甘い方が好きだと言った、白い姿は誰だったか。

「……捨ててくる」

ナイフ使いはカップを掴み、給湯室へ行く。サフィアは思わず立ち上がり、彼の背中を追った。水場に立つナイフ使いの背中に勇気を持って語り掛ける。今ここで話さなければ、自分は一生彼と話すことはないという、変に確信めいた予感があった。

「……それ、あの子の為に淹れたの?」

ナイフ使いは振り返らない。

「………………」

返答もなかった。

「ナイフ……」

「下らない」

下されたのは、感情を殺す言葉。

「ただの習慣だ。それ以外の何物でもない」

自分に言い聞かせるように答えた。

「本当に、下らない」

ナイフ使いはカップを逆さまにして珈琲を棄てた。白いカッブの中身が全て落ちて空っぽになる。流れ落ちた物は掬えず、器だけが残された。

「珈琲は淹れたんだ。戻るぞ」

振り返ったナイフ使いの顔は、相変わらずの無表情が張り付いていた。

「……ええ、ありがとう」

サフィアは彼を止めることは出来なかった。最初から分かっていたことだ。彼女で変えられなかった彼を、自分がどうこう出来るは筈もないと。仲間でもなく、友人という立場にすら立てないのだと。

彼は孤独だった。

立ち去る後ろ姿が、幼い頃のナイフ使いと被る。あの時に寄り添っていたシロはいない。

サフィアにとって、今のナイフ使いの背中がとても小さく見えた。

 

 

赤い銃と光の槍の死亡。

混乱の真っ只中にある裏世界に齎された情報に、世界はより混乱を招いた。

多くの裏組織が神化人間達とコンタクトを取ろうとしたが、どれも失敗に終わる。今彼らがどこで何をしているか、知る者はいない。裏政府側は神化人間はナイフ使いとなったが、事実上、裏組織に神化人間が居ない状態となった。鉄の鎖に関しては他の進化人間に金で雇われたという説が有効だが、連絡が取れない今、確認のしようもない。神の眼から情報を得ようとした者もいたが、破格の値段を提示されて引き下がるしかなかった。

恵からすれば一ヶ月にも満たない期間であるが、動かなかった事態が怒濤に変化しているのは肌で感じていた。

神殺しからすれば方法は別として、これ以上ないほど望んだ展開であろう。罪悪感も今更だと割り切ってはいるが、苦しく思える自分の心に嘘は吐けない。

「それで、私の所に来てどうするんだ?懺悔とかならお断りだぞ。教会じゃないんだから」

神の杖は呆れたように言った。

正面に座る神殺しは唇を尖らせ、頰に手をつきながら答える。

「……別にどうこうってわけじゃないけどさ」

お茶の準備を終えた玲奈が神殺しと神の杖の前に紅茶を置く。神殺しは玲奈に会釈すると、紅茶に砂糖を入れて一口飲んだ。

「やっぱりここの紅茶は美味いな」

「喫茶店でもないんだがね。それに、純粋に紅茶の味を楽しみたいのなら砂糖を入れないことをお勧めするよ」

「そこは俺の好みだ。好きにさせろ」

二口目を口につけ、長い息を吐く。

「……俺のした事が間違いだったとは思っちゃいない。だが、正しかったとも思えない」

何より許せないのは、ナイフ使いのあの発言。

「ナイフ使いは抱えれるだけの罪を全部背負って行くつもりだ。俺の罪でさえもだ。言っても聞きゃしない」

紅茶の表面に映る自分の顔は、とても情けない表情をしていた。

「奴が生き残れば世界は崩壊するから、当然罪を持つのはアイツだけになる。逆に死んでも、多くの罪と共に消えることになるんだろう。世界が残るなら怨恨は無ければ無い方が良い。だから持てるだけ持って逝く」

「合理的だな。ナイフ使いらしい」

「本当に合理性で考えていると思うか?心の奥底で、自分を許せないだけじゃないのか?」

「さてね。私は彼じゃないから。彼も結局、自分の本心を知らないんだろうさ」

神殺しは目を細めて神の杖を見る。神の杖は肩を竦めるだけで、ドライな考え方を示した。

「随分と感受性が豊かになったな、神殺し。人間らしくなった」

「そうかね」

「だけど、心は変化していても、長年染み付いたやり方が変わったわけじゃない。だから、心が悲鳴を上げている」

神殺しは成程と納得すると同時に、簡単に見抜かれたことに些かムカつきを覚えた。

「分かった風に言うのな」

「多くの人と関わってきたから、多少は人の心について分かるつもりだ」

神殺しは神の杖が何をしているのか詳しく知らない。ここまで大きなビルに住んでいることから、何かしらの事業に関わっているのは確かなのだろう。神の杖のことが表沙汰になっていないことから、彼自身表立って動いていないのは分かる。目の事もあるから書類関係の仕事も出来はしないだろうが、根幹に関わる影響を持っているのかもしれない。

「何でそこまで人と関わって来たんだ?」

「目を頼らないからには、多少なりとも誰かの手を借りなければ生きてこれなかったからね」

もっと深く言ってしまえば、他にも思う所はあった。

神化人間として生まれた自分がどこまで出来るのか。施設という閉鎖空間での限られた関係でなく、広がったこの世界でどんな人物と巡り会えるのか。

「端的に言ってしまえば、人に興味があったんだ。君が自由を求めたように、私は人を求めたんだ」

「それが、あんたの求めた物か」

「そうだね。その点で考えるのなら」

神の杖に一瞬だけ翳りが見えた。

「ナイフ使いの求めた物は何だったんだろう」

かつて、母親に褒められたい一心で頑張っていた彼。

唯一心を許していた母親を失い、死と殺しの本質を理解し、二重人格を形成し、結果的に多くの人間を殺した。そして、シロを失い、空っぽのまま成り立っている。

「助けての一言すら言わない。そんな事すら言えない彼は、何を求めているのだろうな」

好きで罪を被っているわけでもない。

世界と自分の命を天秤に掛け、自分の方が必要ないからと、死を選ぶ程に執着もない。

仮に二重人格が消えて、死ぬ理由がなくなればどうなるか。恐らく、生きるか死ぬか、どちらかの理由ができるまでそこに居続けるだけだ。人形のように、存在するだけだ。

漫然とそこに存在し、在り続ける。

「願いだけでなく、生も死すらも求めないのなら、それはもう人の在り方ではないな」

「はっ、何言ってやがる。世の中には別に死ぬ時が来たら死んでも良いと考えてる人間なんて大勢いる。何かしたいと思ってる人間も同じだ」

ただ、ナイフ使いは。

「そんな奴ら以上に、生きてないだけだ」

本当の意味でナイフ使いは生きていないし、生きてこれなかった。二重人格を形成したあの時から、彼は死んだままなのだ。死んだまま生きて、そして死んでいくのだろう。

ナイフ使いを殺すのが、本人を含めて、全員の目的なのだから。

正確に言えば二重人格を殺すのが目的であるが、それはナイフ使いを殺すのとイコールだ。ナイフ使いも言っていたが、二重人格は根本的に彼の人格の一部である。彼に変わりはない。

だから、彼は死んだままで自分を殺すのだ。

「ナイフ使いを殺したとして、裏世界を壊すのは骨がいるぞ」

「何を今更のことを」

「そうだな。だが、裏世界を喪失させた世界の影響を考えたことはあるか?」

む、と神殺しは言葉を詰まらせる。裏世界を無くすことばかり考えてはいたが、それによって生じる事象は想像したことがない。

「ないな」

「素直で宜しい。やっぱり、根は直情的なんだな」

くつくつと喉を震わせる神の杖に、神殺しは憮然とした表情になる。

「馬鹿にしてるのか?」

「いや、お前らしいよ。だから、私が動いていたわけだが」

「?」

「人間世界は裏と表、バランスで保っている。今は裏側にバランスが傾き、更に表世界まで侵食し続けているのが問題なわけだが、本来であれば裏世界は裏世界で必要なのだ」

言わば需要と供給。

如何に犯罪企業であろうとも、どの立場でも誰かが必要としなければ元々存在もしない。求められているからこそ、存続している。

「だから、ダミーを私は用意した。表世界で様々な組織と繋がりを持ち、裏世界の組織に代わるものを敢えて作って来たんだ」

「ああ、成程ね」

何故、神の杖がこのような立ち位置にいるのか得心がいった。

「葉山恵の出現によりお前が動いた事で、計画を早めることになったけどね」

「裏世界に代わるほどに、組織を多く作るということか」

「そう。ある程度用意と下地は用意していたけれど、やはりこういうのは時間をかけた方が良いのに違いはない」

先見、というわけでもないだろうが、神の杖は施設を脱出してから今まで、将来を見据えて準備をしていた。ここまで予想していたわけではないが、念の為という奴である。

自分の思いばかり追いかけていた神殺しは、周りが見えていなかったなと頭を掻く。

「……俺はお前に感謝すべきかな」

「いらないよ。私が勝手にやった事だし、こうなったのは単なる結果だ」

神殺しは側にあったクッキーを摘み、紅茶を飲み干した。息を吐いた後、改めて口を開く。

「……近い内に神化人間達の決戦が始まる。神の眼が舞台を用意するとか宣ってたが、どうなるかはまだ分からない」

「そうか」

「お前も戦うつもりか?」

「そのつもりだ」

神の杖の肯定。その言葉に、後ろに控えていた玲奈の手が微かに力が籠る。神殺しは視界の端でそれを見ながら、いつもと変わらぬ口調で言った。

「やめとけ。と言うか、お前には何もしないでいて欲しい」

神殺しの言葉に微かに驚きを見せる玲奈。神の杖は顎に手をやり、考える素振りを見せながら聞いた。

「何故かな?」

「決戦の結果が不透明だからだ。正直、ナイフ使いが勝つ確率は9割だろう。俺は青の欠片達と連携を取れるわけでもないし、こちらには死ぬ意識を与えないという条件付きだ。実力的にナイフ使いが上なのは分かりきっている。おそらく、戦いの中で二重人格が覚醒するのは五分五分」

ナイフ使いが勝てば二重人格の脅威は残ったまま。

仮に神殺し達が勝ったと仮定する。

「その時、俺が五体満足かどうか分からない」

もしかしたらもう二度と戦闘が出来ない体になっている可能性もあるし、当然死んでいるかもしれない。そうなれば、誰が裏世界を無くすことができるのか。無論、そんなことは青の欠片達はやらない。神の眼も手を出そうとはしないだろう。神の眼の場合、あくまで世界がなくなるのが嫌なだけで、残るのならそれで良いからだ。

「烏滸がましい願いであるのは分かっているが、万が一の時は、お前に裏世界を壊して欲しい」

「…………」

「頼む」

神の眼は目が見えない。しかし、神殺しは深く頭を下げた。

神殺しが神化人間の中でも頼れ、戦闘力や支配力で信頼できるのは彼だけだった。

「……ふむ、確約は出来ないが」

神の杖は少しだけ微笑んだ。

「検討しておこう」

「ありがとう」

「あくまで検討だ。お前がやることなんだから、お前が責任を持てよ」

「分かってる」

お互いに笑い合う。

話す事は全て話したので、神殺しは席を立った。神の杖は玲奈に神殺しを見送るように頼み、玲奈は了承して神殺しを先導した。

エレベーターの中、玲奈は下の階のボタンを押す。

「……ありがとうございます」

玲奈がお礼の言葉を発する。神殺しは天井を見上げたまま、何の事だと口にした。

「礼を言われることはしてないな」

「あの方を戦いから遠ざけてくださったことです」

神殺しは長く深い息を吐く。

「……完全に引き留めたわけじゃない。二重人格が目覚めたのなら、奴は戦いに来る。それは覚悟しとけ」

「はい」

玲奈は頷いた後で、神殺しに疑問をぶつけた。

「貴方には、救いたい人が居ますか?」

「そうだな」

そう問われ、頭に過ったのは青い髪の少女。裏世界とは無関係に生きてきて、巻き込まれてしまった彼女。

今も昔も、そしてこれからも。何一つ関係の無い立場である。

今の現象に巻き込まれているのは不幸としか言いようがない。

だから

「一人、居るかな」

自分の夢が叶わずとも。

彼女だけでも助けることが出来るだろうか。

そして、開いた扉の向こうに、一歩踏み出した。


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