ある人の少ない喫茶店。
雨の降る外の暗さを払拭するように、店内を人工的な照明が照らしている。木製の家具と珈琲の香りに包まれた空間に2人の少年がいた。
「お待たせ致しました」
少年達の前に目の前に運ばれた珈琲。アイスコーヒーを手に取った少年が笑う。
水面がそれぞれの顔を鏡のように映し出す。
「お前がここまで動くとは思わなかったよ、ナイフ使い」
そう言って、神の眼が笑う。
「少し、手助けをしただけだ。神殺しに死なれては困るからな」
対面に座るナイフ使いが無表情で答えた。
カラリと神の眼の持つアイスコーヒーの氷が鳴った。
「神川凪はどうでも良かったと?」
「さあな。無意識的に何かを感じたかもしれん。だからこそ、二つの要因があったからこそ、俺が動いた可能性があるな」
神川凪。
生きているだけで周りの存在を死なせてしまう存在。生きているだけで邪魔とされる存在。死ななければならない存在。
故にナイフ使いと同じ。
理由は違えど、同じ死ぬべき存在。
同情か、同族意識か、何も感じなかったのか。
その根底はナイフ使い自身にも分からない。感情を殺してきた彼には、最早自分さえ理解出来ない。
そして、神殺し。
ナイフ使いを殺せる可能性のある唯一の存在。
神化人間が集まろうとも、神殺し1人に及ばない。
故に生かさねばならない。少なくとも、ナイフ使いが生きている間は死なれては困る。それはナイフ使い自身が最も感じていることである。だから殺させない。死なせない。ナイフ使いを殺し得るまで、その生命を絶やしてはならない。
「他人事みたいに言うのな。お前の事なのに」
「俺の事だからな」
自身のことであるが故に、他人の評価を下す。
「成程ね」
神の眼がアイスコーヒーを一口だけ口に含んだ。ナイフ使いは珈琲を見つめながら言葉を紡ぐ。
「今回の件で、神殺しは成長した。表世界の人間に近づいたとも言える」
ナイフ使いの瞳が神の眼を映した。
「これはお前の計画通りか?」
全てを壊す破壊の神は、全てを知ろうとする知恵の神に問い掛けた。
「俺がそんな完璧に見えるか?」
「可能性があるからこそ、問いている」
これが望みかと、問い掛ける。神の眼は逆に質問をした。
「こんな事をして何になる?」
「それを聞くか。俺が考え付かないことを、お前が考えられない筈もあるまい」
やれやれと神の眼が肩を竦めた。
「俺がそんなに完璧に見えるか?」
「少なくとも、人を操作する意味では可能だろう」
「確かに、俺は、俺達は能力を持っている。お前は恐怖でしか人を操作出来ないが、俺は相手の深層心理に入り込み、記憶の操作も、無意識のレベルで行動を操作することも可能だ」
果ては、その人間を完全に乗取ることも可能である。
「神殺しにも凪にも、俺は俺の因子を潜り込ませていた」
神の眼の因子は既にほぼ全世界の人間に渡りかけている。
しかし、ナイフ使いにだけは因子を拒絶された。幼い頃に神の眼は二度、因子を潜り込ませてようとして失敗している。
同じ能力を持つナイフ使いは無意識的に神の眼からの因子を感じ取り、それを拒絶出来ていた。
「だけどな、俺達は人間だ。どれだけ強くても、どれだけ能力があっても。どれだけ、異常だとしても。所詮俺達は人間でしかない」
それこそ、たった一人の少女を救えない程、どうしようもなくて。
「そんな事は分かり切っている」
そしてそれは、ナイフ使いが最もよく理解していた。
「だが普通の人間でないのも確かだ。神の眼、俺は別にお前のコレが計画通りだったかどうかでお前をどうこうするつもりはない。最終的に聞きたいのは一つだけだ」
詰まる所、ナイフ使いが気になるのは一つだけ。
「これで、俺は死ねるのか?」
生きるか、死ぬか。
「知らないね。未来なんてどうなるか分からない」
だが、しかし。
「これで世界は確実に動く」
裏世界は動くだろう。
今はまだ停滞し、拡大を続ける裏世界も、動き始める。
他ならぬ神殺しによって。
自由と家族を求めた彼により、神殺しの意思により、世界は動き始める。表世界と裏世界を知った神殺し。人の世を動かすのは、いつだって人なのだ。人を理解した神殺しだからこそ、動かすことが出来る。
「ナイフ使い、俺はこの世界が好きなわけじゃない。表世界も裏世界も別に好きでもなんでもない」
「…………」
「だけど、世界を壊されたくはない」
世界は知識の宝庫だ。
世界一人一人に生物が存在し、それぞれ独自の行動と思想を持つ。同じものもあれば、真逆のものもある。生み出されていくものもあれば死滅していくものも然り。
だからこそ、神の眼には全てが等しく価値のあるものである。
「世界はバランスで成り立っている。悪も正義も。道徳も不道理も。時代により傾きはあるが、今の世界は裏に傾き過ぎている。それは事実だ。表に返れないほど傾きすぎてしまえば、それは由々しき事態だ」
「俺は世界など、どうでもいい」
「そうだろうな。お前はそういう奴だ」
なら、と一つ聞く。
シロが決してしない質問を、言葉に出した。
「何故、感情を出すのを良しとしない」
何故そこまで苦しまねばいけないのか。
「世界も周りの人間もどうでも良いと思えるのなら、そこまで利己的になれるのならば、結果として二重人格に乗っ取られて世界を壊すとしても。それでも、一度でも素直に感情を出してしまえれば、出せるのなら、それで良いんじゃないのか」
神の眼はこの世界に価値があると思っている。
しかし、ナイフ使いはそんなことは微塵も思っていない。
それでも世界を維持しようとするのは何故なのか。自分の心を傷付けて、壊して、殺してまで。そうする価値が無いものに、どうしてそこまで拘るのか。
「別に世界の事など考えちゃいない」
ナイフ使いは無表情に、無感情に答えた。
「維持しようとも守ろうとも思っていない。俺が二重人格に乗っ取られれば結果的に世界は壊れるとは思うが、完全に壊れる前には何とかして殺してくれるだろう。まあ、その程度の認識だ」
そもそも、基準が違う。
「……これは、俺のエゴなんだ」
ナイフ使いが言えるのは、答えられるのは、考えられるのは、それが限界だった。それ以上してしまえば感情を既定値まで上げてしまい、二重人格の引鉄となってしまう。
だから、後は神の眼が考えた。
考えて、答えを出す。
「……成程」
この世界を守る為ではなく、自分の為。
自分への罰か、贖罪か。
単純に、もう誰も殺したくないだけか。
あるいは、本当は心の何処かで、生きたいと願っているのか。
「…………」
それとも……。
「ナイフ使い」
「安心しろよ、神の眼」
どう足掻こうと、どう取り繕うと、ナイフ使いが死ななくてはいけないことに変わりはない。
死から逃れることはない。
死ななければいけない。
死命。
「俺は何としてでも、死んでみせる」
ナイフ使いが手をつけなかった珈琲は、冷め切っていた。
神殺しは凪と共にいた部屋に居た。
一人だとこんなにも広かったかと、その空間に少し戸惑いを覚えた。
「…………」
今更悔やむ事もない。
凪は死に、神殺しは生き残った。
それが結果だった。
失ったものは大きくて。
それに気付くには遅過ぎて。
唐突に手に入れた望みは、掌から水のように零れ落ちていき、もう二度と掬い上げることは叶わなかった。
「…………」
何でもなかった日常だけが、過ぎ去っていった。
「なぁ、凪」
机の上に置いた骨壷へと話しかける。凪だったものが、そこにあった。
「最後に、お前に幸せを与えてやれたかな」
どうしようもない人生の中で、一度きりの幸福を与えてやれただろうか。
「俺は、お前に気付かされた」
昔、施設にいた時に欲しかったのは自由だった。
自分を縛らないものが欲しかった。世界を見たかった。
そして、破壊神に殺されかけた時に望んだのは生への渇望だった。
死への反抗であり、純粋にこの命を終わらせたくないと願った。
そして、凪と出会い、今の自分を知ることができた。
「俺は、家族が欲しかったんだ」
ただ、それだけだった。
自分と接してくるのに恐怖を覚えられるわけでもなく。道具として扱われるわけでもなく。仕事として使われるわけでもなく。
何でもない、ただ普通に話せて、食事をして、歩き回って。
本当に、それだけで良かったんだ。
「だから、本当に短い時間だったけど、俺とお前は家族だったんだ」
裏世界も表世界も関係なく、二人で過ごした時間が、何よりの家族の証だった。
「……なら」
……これから、俺はどうするべきか。俺は、どうしたいのか。
自らの望むものは、何でもない日常と家族だった。今の裏世界でそれを得るのは、当然不可能だろう。
「…………」
俺はまだ、それを望むのか。
ならば、その為に、動かなければならない。これが欲望であり、エゴであるのは自覚している。元々、自由を求めていたのだ。そこに遠慮や躊躇いは一切ない。
裏世界は大きくなり過ぎた。そして、今もなお拡大している。徐々に表世界へ侵食するほどに。
それを止めるにはどうすれば良いか。
「……神化人間の全滅」
いや、全滅だけでは終わらない。無限とも言える数に増えた裏組織を潰さなければならない。そしてそれは裏政府も同じだ。
全て一度無に返さなければいけない。
何より、神化人間を生んだ世界を。
凪という死ななければいけない罪の無い少女を生んだ世界を、許せはしない。
「……出来るのか?」
実際、そんなことが可能なのだろうか。
裏組織を潰すのに、どれ程膨大な時間が掛かるだろう。それより前に、神化人間を殺さなくてはならない。
更に言えば
「ナイフ使いを、殺す」
……出来るのか?俺に。俺程度の存在で、ナイフ使いを殺せるのか。
だが、殺さねばならない。
表も裏も関係なく壊してしまう存在を、殺さなくてはいけない。
それはむしろ必須事項であり、避けられないことである。
「…………っ」
今更同情する気もない。
だが、果たして殺せるのか。
凪と同じ、死命を抱えたナイフ使いを、殺さなくてはならないのか。また、助けられないのか。同じような存在を見殺しにしてしまうのか。
救いは、ないのか。
「……ナイフ使いを動かす方法。世界全体を混乱させる方法」
冷静な思考は考える。
神化人間ごと、世界を混乱の中へと引き込ませ、全てを無に帰す近道を考える。
それは、一つの結論を導かせる。
「……シロを、殺す」
シロの死。
ナイフ使いの二重人格を止める唯一の方法。それを無くせば、世界は確実に混沌へと陥る。
「……結局、これか」
誰かを殺すしか、誰かを死なすしか、道はないのか。
それ以外の道は本当に無いのか。
「……見つけるんだ」
まだ時間はある。
少なくとも、今監視の目が強いシロを殺すのは不可能だ。
そう自分に言い訳する。だから、それまでに他の道を探す。
「……だが」
もし、シロの監視の目が緩むことがあれば。
シロを殺し得る機会を得てしまえば。
「……その時は」
シロを、殺すしかない。
外の雨はまた一段、強くなった。