ナイフ使いは生き残った。
生き残って戻ってきたナイフ使いとシロを、裏政府の面々は複雑な表情を持って迎え入れた。
ナイフ使いは起こったことを事細かに報告書へと記入し提出した。ナイフ使いの支配能力の取得と、二重人格の半覚醒の事実は、裏世界の人々を愕然とさせ、絶望を与えるには充分な情報だった。
この事件で一番問題として上がったのはナイフ使いが半覚醒を起こしたことである。
ナイフ使いの半覚醒。
そして、それを抑え込んだシロ。
シロに手を出せばナイフ使いの二重人格が現れる可能性が出た事と、シロに対する重要性が改めて説かれ、彼女には不干渉であるように裏世界
で定められた。
「…………」
ナイフ使いが裏政府のビルを歩く。
通りかかる人は、あからさまにナイフ使いを恐れ避けた。それは単純なナイフ使いへの恐怖と、余計な事をして彼が少しでも感情を出さないようにする為の処置でもあった。
ナイフ使いはそのことに対し特別な反応を見せることはない。今更の話でもあるし、こんな単純なことで感情が動くわけもなかった。
「ナイフマスター」
廊下の脇から声を掛けられた。
赤い銃と光の槍だ。
「何か用か」
「……お前、今はなんともないのか?」
二重人格のことを言っているのだろうと当たりをつける。赤い銃と光の槍のそれぞれの顔に緊張も見られた。
「ああ、別段何ともない」
それに対して何か思うわけでもなく、思った何かを完全に殺して、ナイフ使いは答えた。
「お前らも、俺をどうやれば殺せるか考えておけ」
闇雲では殺せないと暗に諭しつつ、立ち去ろうとするナイフ使いを光の槍が呼び止めた。
「ねえ、ナイフ使い。私は、貴方はシロに対して、自分を止める為の単なる道具でしかないと考えていると思っていたわ」
ナイフ使いは横目で光の槍を見る。
感情のない瞳が光の槍を見る。
「……感情を出す程に、貴方はシロが大事だったの?」
その問いに、ナイフ使いは答えることが出来なかった。
去っていくナイフ使いの背中を見送りながら、赤い銃がポツリと漏らす。
「まあ、この程度じゃ感情が動くわけもないよな」
「それでも危険な賭けだったわよ」
「その時はここにいる全員が死ぬだけだ」
「シロ以外ね」
「下手すりゃシロも死ぬけどな」
赤い銃は大きな溜息を吐く。
自分の実力でナイフ使いを殺せないことは百も承知である。光の槍と協力しようとも死に追い込むことは出来ないだろう。
「オレ達は無力だな」
神化人間とはして生まれ、人を殺す術を学んできた。それしかやってこなかった。
それでも、ナイフ使いを殺せない。
彼ほどの才能も肉体もなければ、彼ほどの努力もしてこなかった。
裏政府に来てから、自分達の力は決して誇れる能力で無い事は分かっている。それでも、唯一の誇りでもあった。
「何なんだろうなぁ、オレ達は」
そう悩む姿は、普通の人間と何も変わらなかった。
「…………」
ナイフ使いは庭で一人ベンチに座りながら事件の事を思い返していた。
思えば、自分の行動が意図していないことが多かったと、そう考える。
シロの涙を見た瞬間、自分の中の何かが亀裂を見せた。
正確に言えば、抑えていた感情が溢れた。水を入れていた瓶に亀裂が入ったかのように、ほんの僅かだけ、感情が溢れた。
そのせいか、記憶がやや朧げになっている。恐らく二重人格が出てくる直前であったのだろう。
何があったのかは、それとなくシロと神殺しに確認済みだ。
「……ミスをしたな」
大口径の銃。
アレを前にして、ナイフ使いは死ぬ気はしなかった。
そう、あれだけでは死ぬ気はしなかった。だが、大きな深手を負ったのは確かであろう。その上で爆弾を爆発させられたのなら、多分、死んでいた。
死ぬことが出来ていた。
今なら、そう考えられる。
つまり、死ぬ機会を得ていたのだ。
しかし、それは不意になった。
「…………」
そっと額に手を当てる。
そこにあった傷は既に癒えている。
あの時、感情を僅かでも規定値に達してしまった所為で、二重人格が目覚めかけた。故に、肉体にも変化があった。
通常の状態なら大きなダメージを得ていた筈の攻撃も、最小限に抑えられてしまったのだ。
シロが居なければ、あのまま二重人格に飲み込まれて、完全に二重人格と入れ替わっていただろう。
「…………」
……では何故、俺は感情を出してしまったのか。
シロの涙を見たから。
それが何故、感情を動かす原因となってしまったのか。
そもそも、シロを撃つと言われ、足を止めたのは何故なのか。
「……分からない」
分からない。
『シロが大事だったの?』
光の槍の言葉を思い出す。
分からない。その問いへの解答が見当たらない。
ナイフ使いは本気で理解出来なかった。理解出来る筈もなかった。
感情を殺し続けた彼には、既に己の心を知る術を失いつつあった。感情の原因となる根本を断ち切る事で制御していた心。
分からない。
分からない。
「……下らない」
そしてまた、粉々の心を粉砕する。
「ビャク」
ビルから姿を見せたシロがナイフ使いに寄って、声を掛けた。そこには、いつもと変わらぬ笑みが浮かべられていた。
ナイフ使いが顔を上げる。
いつも通りの無表情がそこにあった。
「何だ」
「ありがとう」
何の礼だと、ナイフ使いは疑問を擡げた。
シロは笑みを浮かべたまま、言葉を紡いだ。
「助けてくれて、ありがとう」
「命令だったからな」
素っ気ない返事で視線を外したナイフ使いに、シロは言葉を続ける。
「私の為に怒ってくれて、ありがとう」
ナイフ使いが一瞬固まる。
……怒った?
誰が、誰に、誰を?
横目でシロを確認する。嘘偽りを言っている様子はない。シロはあの時、ナイフ使いが怒ったのだと、そう言っているのだ。
「…………」
……怒り、怒りか。
あの時の感情は、果たして怒りだったのか?
ナイフ使いは思い出せない。
その感情は既に殺された。
思い出せない。
思い出すことは出来ない。
その時の感情を思い出すということは、その感情を今引っ張り出してしまうという事だ。二重人格が出るほどの感情を持つことはしてはならない。
故に思い出さない。
故に感情を殺した。
怒りという感情を、殺した。
殺した。殺した。殺した。
「下らない」
下らない。
「ビャク」
近くまで来たシロが、そっとナイフ使いの手の上に自分の手を重ねた。ナイフ使いの手は恐ろしく冷たく、シロの温かな体温がナイフ使いを微かに温める。
「私と一緒なら、大丈夫だったじゃない」
計らずも今回の事件は、シロが二重人格からナイフ使いを引き戻せることを証明した。つまり、彼女の言葉通り、白の前でなら感情を出そうとも平気であると言える。
「だから、泣いても良いんだよ」
それに対し、ナイフ使いは
「馬鹿が」
そう返した。
出来るわけがないと、そう答えた。
いくらシロが二重人格からナイフ使いを戻せるにしても、戻るまで時間が掛かる。それまでシロが二重人格に殺されてしまえば終わりである。あの時は半覚醒だったから、まだシロを攻撃せずに済んだのだ。本当に覚醒してしまえば、今度こそどうなるか分からない。
「…………」
……シロを殺してしまうかもしれない。
それが、俺は
「下らない」
下らない。下らない。下らない。
「……俺はお前の前であろうとも、泣くことも怒ることも、ましてや笑うこともない」
ナイフ使いは立ち上がる。シロの手を振り払い、数歩分距離を置いて彼女の目を見た。
「何故、お前は俺に感情を促す」
シロは笑いながらも、どこか辛そうな表情で答えた。
「貴方が辛そうだから」
だから感情を出しても良いと言う。
「貴方が泣きそうだから」
だから泣いても良いと言う。
「貴方の笑顔が、見たいから」
貴方が一瞬でも幸せになれるなら、それで良い。
「だって、私は……」
貴方のことが好きなのだと、知ったから。
その言葉は出さなかった。
感情も本心も出せないナイフ使いでは、答えなど決まっているのは目に見えていたから。その上で、告白を
してしまえば、それこそ自己満足で終わるだけだとシロは分かっていた。
「…………」
少しの間、無言の時が空間を支配する。
シロは車輪を動かし、ナイフ使いの前まで来ると、車椅子から僅かに身を乗り出して抱き着いた。
「……何だ」
足に力の入らない彼女は、まるで縋るようにナイフ使いにしがみ付いていた。
それでも、シロは分かっていた。シロにだけは分かっていた。
本当に誰かに縋りたいのは彼の方なのだと。
助けてと叫んで手を伸ばしたいのは、この人なのだと知っていた。
「ビャク」
例え、彼が世界を壊してしまう可能性があるとしても。
例え、大勢の人を殺していても。
例え、世界中が敵になろうとも。
「少しだけ、このままで居させて」
私だけは側にいる。
私だけは貴方の味方であり続ける。
貴方の隣にいて、貴方を支えよう。
いつか、貴方が幸せになれる、その時まで。
「…………」
シロは強い意志を込めて、彼を抱きしめ続けた。
ナイフ使いが抱き締め返すことは無かった。